794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 01:55:51.83 ID:nF9hxvrC
昔の福山の漫画にあった、水野勝成の晩年の話。
備後福山藩士である本庄重政は家禄500石である本庄重紹(しげつぐ)の長子であったが、自らを1000石の器として家督を継ぐを潔しとせずに出奔した。
話を聞いた勝成は、自分の若いころと同様であるとして笑ってこれを許し、本庄家は次男が家督を継いだ。
出奔した重政は山鹿素行と親交を持ち、軍学を学んだ。その際、赤穂藩士と知り合う縁を持ったといわれる。
重政は砲術を極め、本庄流砲術として1000石で自らを諸藩に売り込んだが、時は既に元和偃武にて砲術による仕官は叶わなかった。
結局、後々の加増を条件に岡山藩の池田光政によって300石で仕えることとなったが、4年経っても加増を得られないことを不満に思い無断で出奔してしまう。
池田光政は激怒して方向構えの処置をとり、諸藩に書状を送った。
これを読んだ勝成は重政を心配し、十歳となる重政の長男を仕官させるという名目で1644年に重政を500石で呼び戻した。
1651年に勝成は死去するが、重政は1660年より赤穂藩の塩田技術を取り入れて備後福山藩の神村・松崎の端に塩田作成に着手。
7年の歳月を経てついここれを完成させた。また、同地への商人の招聘にも尽力したといわれる。
重政は沼隈郡・新涯奉行としてこの地に住み、本庄村と称されたが、後に松寿永年にちなみ松永と改名された。
現在まで続く広島県福山市松永町の由来である。
795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 01:58:24.17 ID:nF9hxvrC
794の続き
勝成は、家臣を思いやること非常に篤く、病の家臣は自ら見舞ったといわれる。
また、藩士が自藩を辞めて他家に仕官しようとする際、問い合わせがあった際には
「私に力がなく、待遇を思い通りにしてやれなかった。しかし大切に召し使えばきっと役に立つ男です」と返書を書いたといわれている。
備後福山藩では当時としては珍しく藩士に旅行の自由が認められており、
届け出さえ出せば西は宮島、南は屋島、東は京都・大阪・奈良・堺・伊勢神宮まで旅行ができた。
帰国した藩士が土産を持って拝謁した際には、勝成はその無事を喜び、みやげ話を聞くのを楽しみにしていた。
このため藩は非常によくまとまり、目付と法度無しで国が治まっていた。
目付や法度無しで国が治まっていることを池田光政が不思議がっていたという記録が残されている。
797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 04:56:37.18 ID:fHBYzz2q
この塩田って埋め立て新田のほう?製塩の方の塩田に7年もかからんよな
799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 06:45:04.16 ID:74yGtwhj
最終的に1000石にはなれたのだろうか
800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 06:59:04.65 ID:8FmGoyBr
戦国は終わったのだし1,000石時代は遠くになりにけりってオチだと思う
805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 10:24:08.86 ID:nF9hxvrC
>>797
製塩の方の塩田ですが、埋め立てて作ったそうです。
干潮時しか工事ができなかったそうで、難工事となったと思われます。
ちなみに完成した水路が木材の搬入に便利であったことから、
後に松永はゲタ生産でも有名となります。
その縁で、私が子供のころは日本で唯一のはきもの博物館がありましたが、
今調べたら閉園してた…orz
>>799-800
すいません、最終的に1000石いったかどうかは分かりませんでした。
弟が継いだ分と合わせると、本庄家全体では1000石ですね。
まあ、家督を継がずに出奔して、また500石で召し抱えてもらったんだから御の字かと。
807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 10:29:44.18 ID:nF9hxvrC
ちなみに上記の話は、「まんが物語福山の歴史」(啓文社)という本にありました。
もともとは上下巻で出版されていたのですが、一冊にまとめて2011年に再販されたみたいです。
水野勝成の人生と福山の開発に焦点が当てられた本です。
晩年の逸話なども含まれており、大人となった今でも十分に読める内容でした。
熱心な勝成ファンでしたらぜひ購入をお勧めします。
811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 15:27:39.59 ID:fHBYzz2q
>>805
無知ですまんかった、この人その辺の地区の始祖な人だったんだな
猫の額みたいな塩まみれの土地に戦略港湾作ったようだ。こりゃ7年かかるわ

何か子孫は重政の死後早々に口実つけられて追放とか言う記述があったんだが、事実なら悲しい・・・
812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 15:51:43.37 ID:nF9hxvrC
>811
面白い画像をありがとう。
もと福山市民として興味深く見せてもらったよ。
子孫は追放ですか、確かに事実なら悲しいなぁ。
816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 22:00:50.60 ID:njtJOn+k
>>811
一番右の入り江に目が行ってしまう
藁江よ。藁江ばいいさ
昔の福山の漫画にあった、水野勝成の晩年の話。
備後福山藩士である本庄重政は家禄500石である本庄重紹(しげつぐ)の長子であったが、自らを1000石の器として家督を継ぐを潔しとせずに出奔した。
話を聞いた勝成は、自分の若いころと同様であるとして笑ってこれを許し、本庄家は次男が家督を継いだ。
出奔した重政は山鹿素行と親交を持ち、軍学を学んだ。その際、赤穂藩士と知り合う縁を持ったといわれる。
重政は砲術を極め、本庄流砲術として1000石で自らを諸藩に売り込んだが、時は既に元和偃武にて砲術による仕官は叶わなかった。
結局、後々の加増を条件に岡山藩の池田光政によって300石で仕えることとなったが、4年経っても加増を得られないことを不満に思い無断で出奔してしまう。
池田光政は激怒して方向構えの処置をとり、諸藩に書状を送った。
これを読んだ勝成は重政を心配し、十歳となる重政の長男を仕官させるという名目で1644年に重政を500石で呼び戻した。
1651年に勝成は死去するが、重政は1660年より赤穂藩の塩田技術を取り入れて備後福山藩の神村・松崎の端に塩田作成に着手。
7年の歳月を経てついここれを完成させた。また、同地への商人の招聘にも尽力したといわれる。
重政は沼隈郡・新涯奉行としてこの地に住み、本庄村と称されたが、後に松寿永年にちなみ松永と改名された。
現在まで続く広島県福山市松永町の由来である。
795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 01:58:24.17 ID:nF9hxvrC
794の続き
勝成は、家臣を思いやること非常に篤く、病の家臣は自ら見舞ったといわれる。
また、藩士が自藩を辞めて他家に仕官しようとする際、問い合わせがあった際には
「私に力がなく、待遇を思い通りにしてやれなかった。しかし大切に召し使えばきっと役に立つ男です」と返書を書いたといわれている。
備後福山藩では当時としては珍しく藩士に旅行の自由が認められており、
届け出さえ出せば西は宮島、南は屋島、東は京都・大阪・奈良・堺・伊勢神宮まで旅行ができた。
帰国した藩士が土産を持って拝謁した際には、勝成はその無事を喜び、みやげ話を聞くのを楽しみにしていた。
このため藩は非常によくまとまり、目付と法度無しで国が治まっていた。
目付や法度無しで国が治まっていることを池田光政が不思議がっていたという記録が残されている。
797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 04:56:37.18 ID:fHBYzz2q
この塩田って埋め立て新田のほう?製塩の方の塩田に7年もかからんよな
799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 06:45:04.16 ID:74yGtwhj
最終的に1000石にはなれたのだろうか
800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 06:59:04.65 ID:8FmGoyBr
戦国は終わったのだし1,000石時代は遠くになりにけりってオチだと思う
805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 10:24:08.86 ID:nF9hxvrC
>>797
製塩の方の塩田ですが、埋め立てて作ったそうです。
干潮時しか工事ができなかったそうで、難工事となったと思われます。
ちなみに完成した水路が木材の搬入に便利であったことから、
後に松永はゲタ生産でも有名となります。
その縁で、私が子供のころは日本で唯一のはきもの博物館がありましたが、
今調べたら閉園してた…orz
>>799-800
すいません、最終的に1000石いったかどうかは分かりませんでした。
弟が継いだ分と合わせると、本庄家全体では1000石ですね。
まあ、家督を継がずに出奔して、また500石で召し抱えてもらったんだから御の字かと。
807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 10:29:44.18 ID:nF9hxvrC
ちなみに上記の話は、「まんが物語福山の歴史」(啓文社)という本にありました。
もともとは上下巻で出版されていたのですが、一冊にまとめて2011年に再販されたみたいです。
水野勝成の人生と福山の開発に焦点が当てられた本です。
晩年の逸話なども含まれており、大人となった今でも十分に読める内容でした。
熱心な勝成ファンでしたらぜひ購入をお勧めします。
811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 15:27:39.59 ID:fHBYzz2q
>>805
無知ですまんかった、この人その辺の地区の始祖な人だったんだな
猫の額みたいな塩まみれの土地に戦略港湾作ったようだ。こりゃ7年かかるわ

何か子孫は重政の死後早々に口実つけられて追放とか言う記述があったんだが、事実なら悲しい・・・
812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 15:51:43.37 ID:nF9hxvrC
>811
面白い画像をありがとう。
もと福山市民として興味深く見せてもらったよ。
子孫は追放ですか、確かに事実なら悲しいなぁ。
816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 22:00:50.60 ID:njtJOn+k
>>811
一番右の入り江に目が行ってしまう
藁江よ。藁江ばいいさ
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コメント
人間七七四年 | URL | -
「昔の福山の漫画」ってのが
「昔の福山」のことを描いた漫画なのか
福山のことを描いた、昔に描かれた漫画なのかが気になる
( 2014年11月16日 20:09 )
人間七七四年 | URL | -
最近の若者の中で、自分の実力とプライドの差を理解せずに「自分に対しての世の中の評価
が間違ってる」と考えて行動した結果散々たる結果になる傾向の人が昔に比べて多くなって
るそうだ。
なんかこの人、その類の人物に見えたよ。
( 2014年11月16日 20:51 )
人間七七四年 | URL | ZPZR469g
子孫は追放というか、この話に出てくる長男の本庄重尚が喧嘩で改易されて、
その後は重政を祀った本荘神社の神職になったけど子がなくて家系が途絶えたはず。
てか旅行OK土産話を聞くとか、重政が学んだ赤穂藩の塩田技術利用とか見てると、
勝成は情報収集の為に家臣を全国に行かせてたんじゃないかと思ってしまう。
※2
ちゃんと松永開発という結果出してるんだから違うだろ。
( 2014年11月16日 21:51 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
>自らを1000石の器として家督を継ぐを潔しとせずに出奔した
この時点でアレ具合が発生しちゃってると思う。
( 2014年11月17日 09:32 )
人間七七四年 | URL | -
武士は自分を評価してくれない人には仕えないとは言うけど、
こんな事ホイホイ許し続けてたら堪ったものじゃないよ。
※3
>>松永開発
それが有るから他すべてが優秀ってのは早計でしょ?
不良が悪い事散々しても社会人になったら今迄の生活はチャラって言うのと
同じ匂いがするわ。
( 2014年11月17日 13:59 )
人間七七四年 | URL | -
むしろ※2や※5の人の方が変なもんこじらせちゃってるように見えるが
( 2014年11月17日 14:07 )
人間七七四年 | URL | -
>米6
会社で
「自分はこんな小さな案件は担当したくありません!
もっと大きなプロジェクトをやらせてください!」
って部下にアタマ痛めてるんじゃね?
( 2014年11月17日 15:55 )
人間七七四年 | URL | -
米7説に納得した
( 2014年11月17日 16:24 )
人間七七四年 | URL | -
駄目なら野垂れ死にするだけのことだかならあ、好きにさせてやれ
( 2014年11月18日 00:45 )
人間七七四年 | URL | -
800はもっと評価されるべき
( 2014年11月18日 00:46 )
人間七七四年 | URL | EybeWf1w
※7
そういや任天堂に入ったもののweb担当になったMIT出身者がおったね
もう辞めちゃったけど、その人思い出した
( 2014年11月18日 10:50 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
昔の福本の漫画と空目して納得してそのまま読んで途中で福山と気付いたが時すでに遅く、福本伸行画(カイジの作者)で再生されたので割と穏やかな話の流れに物足りなさを感じた。
( 2014年11月20日 02:03 )
人間七七四年 | URL | -
さすが水野勝成さんの家来だけあるわ
まんま水野勝成さんみたいな人生なんや
( 2016年09月20日 01:53 )
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