955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/06(土) 14:14:46.60 ID:/6xIWDLx
島津義久が大友氏を攻めて所々に乱れ入った時、志賀太郎親次は一人、義久に
降らなかった。義久は松の尾の城にいたが、秀吉が大軍で九州に渡ると聞いて
薩摩に引き退いた。
大いに喜んだ親次は「険阻の地に兵を伏せて打ち破れ」と言って、鉄砲の手利き
20人を選び出し、山海が嶺の林に待たせた。
そんな折に、首藤五郎大夫と堀八郎という者が、今回選ばれずに残ったことを
口惜しく思い、密かに道に隠れて薩摩武者2騎を撃ち落とした。
「さては伏兵がいるぞ!」と言う間こそあったが、大軍が林に入り草を分けて
探したので、20人の者たちはやむを得ず、薬を惜しまずに鉄砲を散々に
撃ちかけて、追い来る者たちを撃ち殺して引き退いた。
親次は大きな溜め息を吐き「義久に山海が嶺を決して越させないはずだったのに。
義久は天の助けに巡り合ったのだ」と、言った。
――『常山紀談』
956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/06(土) 20:41:19.01 ID:j5mUhdpM
>>955
多分元になった話だと義久じゃなくて家久で天正15年3月16日の山梅峠合戦の話だと思う。
その翌日にも志賀親次とは別に島津と戦っていた佐伯惟定に梓峠で襲撃されて
「佐伯肩衝」とかを奪われながら命からがら日向に逃げ延びてるんだよな。
958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 12:48:48.48 ID:Fa83kjke
>>956
茶器とられたのか…壊れなくてよかったな
960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 13:27:25.60 ID:pQak1rhA
とられたというか足利将軍家から宗麟に贈られた茶器じゃ無かったっけ
962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 21:10:01.73 ID:sBYgMYaU
>>960
足利義輝→大友宗麟→臼杵鎮続→島津の戦利品→佐伯惟定→藤堂高虎→徳川家康
って転々としていった茶器。
惟定が島津から奪い返したことで「佐伯肩衝」と呼ばれた。
963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 21:57:43.74 ID:w3202xSl
なんで戦場に茶器持ってってんだと思ったら略奪品かw
964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 22:29:29.80 ID:HTCupOW+
島津が茶なんて出来るわけがない
茶器オークションが目的
965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 22:40:54.18 ID:fXGl/uHn
義弘は茶人でもあるけども
966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 23:20:42.72 ID:w3202xSl
義弘は在坂歴も長いからな
島津義久が大友氏を攻めて所々に乱れ入った時、志賀太郎親次は一人、義久に
降らなかった。義久は松の尾の城にいたが、秀吉が大軍で九州に渡ると聞いて
薩摩に引き退いた。
大いに喜んだ親次は「険阻の地に兵を伏せて打ち破れ」と言って、鉄砲の手利き
20人を選び出し、山海が嶺の林に待たせた。
そんな折に、首藤五郎大夫と堀八郎という者が、今回選ばれずに残ったことを
口惜しく思い、密かに道に隠れて薩摩武者2騎を撃ち落とした。
「さては伏兵がいるぞ!」と言う間こそあったが、大軍が林に入り草を分けて
探したので、20人の者たちはやむを得ず、薬を惜しまずに鉄砲を散々に
撃ちかけて、追い来る者たちを撃ち殺して引き退いた。
親次は大きな溜め息を吐き「義久に山海が嶺を決して越させないはずだったのに。
義久は天の助けに巡り合ったのだ」と、言った。
――『常山紀談』
956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/06(土) 20:41:19.01 ID:j5mUhdpM
>>955
多分元になった話だと義久じゃなくて家久で天正15年3月16日の山梅峠合戦の話だと思う。
その翌日にも志賀親次とは別に島津と戦っていた佐伯惟定に梓峠で襲撃されて
「佐伯肩衝」とかを奪われながら命からがら日向に逃げ延びてるんだよな。
958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 12:48:48.48 ID:Fa83kjke
>>956
茶器とられたのか…壊れなくてよかったな
960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 13:27:25.60 ID:pQak1rhA
とられたというか足利将軍家から宗麟に贈られた茶器じゃ無かったっけ
962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 21:10:01.73 ID:sBYgMYaU
>>960
足利義輝→大友宗麟→臼杵鎮続→島津の戦利品→佐伯惟定→藤堂高虎→徳川家康
って転々としていった茶器。
惟定が島津から奪い返したことで「佐伯肩衝」と呼ばれた。
963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 21:57:43.74 ID:w3202xSl
なんで戦場に茶器持ってってんだと思ったら略奪品かw
964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 22:29:29.80 ID:HTCupOW+
島津が茶なんて出来るわけがない
茶器オークションが目的
965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 22:40:54.18 ID:fXGl/uHn
義弘は茶人でもあるけども
966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 23:20:42.72 ID:w3202xSl
義弘は在坂歴も長いからな
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コメント
人間七七四年 | URL | -
この頃の大友は家を残せた以外の運からは尽く見放されているな。どの神に見放されたんだか。
( 2014年12月06日 20:33 )
人間七七四年 | URL | -
※1
よりによって地元だけじゃなく、日向の国を荒らし回ったからね、仕方ないね。
日向北部は宗麟のせいで、それ以前の貴重な資料や寺社仏閣は完全に消滅したとかいう話も聞いたことあるし...
えーっとつまり、豊後と日向ゆかりの神様すべて敵に回した、って認識で良いのか...?
どのくらいの数になるのだろうか...(震え声)
( 2014年12月07日 00:00 )
人間七七四年 | URL | -
日向でそんなことしてたんか
天津神系統は全部敵にまわしたなこりゃ
( 2014年12月07日 02:02 )
人間七七四年 | URL | -
※3さん
宗麟さんは自らの軍を十字軍に例えて(居たと思われる様子)、キリスト教国家を
打ち立てようとして日向に出立したそうです(伊東家は良い口実)。
なので、神社仏閣は真っ先に破壊対象です。
( 2014年12月08日 10:33 )
人間七七四年 | URL | -
そして十字の軍によってコテンパンにのされるとはなんという皮肉・・・
( 2014年12月08日 20:49 )
※2 | URL | -
※3
宗麟側に「あの」宣教師のカブラルがいたとか何とか...耳川より北はかなり手酷く破壊されたみたいですよ...(寺社仏閣関係者に、自らの手で自分達の寺や神社を破壊させてたとか)
地元の宇佐神宮も当然のごとくやられてるしなぁ...
( 2014年12月08日 22:19 )
人間七七四年 | URL | -
964さん
義弘の作った茶杓が尚古集成館で展示してますよ。
義弘は薩摩焼で茶器を作ってますよ。
(古田織部さんがアドバイスしてます)
( 2014年12月08日 22:59 )
人間七七四年 | URL | -
コメント7の続き
鹿児島茶の歴史
ttp://shimodozono-ginjyocha.com/history3/
>島津義弘(惟新公)も茶の湯を愛した人物です。千利休について白沢覚左衛門(渋谷伴松)を相伴弟子として茶道を学び、摂州(大阪府)伊丹道甫を通じて千利休に茶法をただし、その伝授を得たことが『惟新様より利休へお尋ねの條書』に記されています。さらに義弘は豊臣秀吉とも茶の湯を立て、秀吉自身から「かたしきの茶入」を賜ったなど、茶に関する記録も多々残されています。
( 2014年12月08日 23:43 )
人間七七四年 | URL | -
※7
「エピソードで綴る 戦国武将 茶の湯の物語」(矢部良明 宮帯出版社 2700円)
持ってるけど
それの扉絵に【無銘】島津義弘作 尚古集成館蔵の写真があるけど同じ物かな?
節と茶を掬う部分の間にぽこんと穴が開いてて、濃い飴色してるやつ。
穴が開いてる辺りが織部さんらしいな
( 2014年12月09日 17:08 )
人間七七四年 | URL | -
※5でちょっと笑った
ここまで偶然が続くとちょっと神様の仕返しを疑うな
そーいや寺社焼き討ちは高山右近や小西行長もやってたらしいな
自分熊本市民なんだけど
最近宇土市がゆるキャラ作ってやたら行長押してるんだよね
行長紹介する宇土市のサイト(宇土市デジタルミュージアム)見ると
寺社焼き討ち全無視はまだマシとして
小西書状&フロイス説全面採用してて
天正天草合戦で清正の助力受けて鎮圧したのを
「勝手に清正が参戦して恩を売って来た」って書いてるの見ると
乾いた笑い出るわ
秀吉の朱印状は無視なんかい
余計なこと言わず
熊本城武将隊で「色々あったけど九州を盛り上げる為協力しようね!って」
仲良ししてくれてる方がまだ皆幸せだと思うの
( 2014年12月09日 17:23 )
7・8 | URL | -
>9さん
7・8です。その本は読んではいないのですが、
>節と茶を掬う部分の間にぽこんと穴が開いてて、濃い飴色してるやつ
とあるので、その茶杓です。
尚古集成館
ttp://www.shuseikan.jp/culture/culture18.html
こちらにその写真があります。
あと、書き方が悪くて申し訳ありません。
古田織部さんがアドバイスしたのは茶杓ではなく薩摩焼の方です。
(何年の前に加治木の資料館で見た記憶なので凄く曖昧なのですが、
義弘が他の人(名前失念)に送った薩摩焼の内1個を持っていってしまったらしいです。
その持っていった薩摩焼を見てアドバイスしたらしいです。
古田さんがアドバイスしたという話が広がって薩摩焼が一気に人気が出たそうです。)
( 2014年12月09日 20:42 )
人間七七四年 | URL | -
※9ですが画像URL確認しました
同じ物との確認が取れました
ありがとうございます
薩摩焼というと某鑑定団の印象が強いですが
織部さん関わってたんですね
つーかまたパクってたんですかあの人…www
( 2014年12月09日 23:50 )
7・8 | URL | -
>9・12さん
7・8・11です。どういたしまして。
織部さんが関わってたのはたしかです。
パクってたのかは、うろ覚えなので話半分以下で聞いていてください。
今、必死に加治木郷土館にあった、その他の話を思い出しているところですが、
別の話では、薩摩焼を作り始めた時、試作品をいくつか作って(古田さんに最初から
見てもらったのか、別の人に見てもらってその人が古田さんに見せたのかは
わからないですが)作品全部駄目だしを受けたけど2つの作品だけ、「この部分を直せばいい」
とアドバイスを受けたり(その2作品もその他の作品も義弘に返却)
義弘はいい作品しか世に出さないつもりだったのに、古田さんのおかげで人気が出て
「出来が悪くてもいいから欲しい」と言う人が出てきて困ってしまっているという話や、
いくつかの薩摩焼の作品を悪久に送り「この中でいいのがあれば福島殿(福島正則)
に送るように」と義弘が言ったという話がありました。
( 2014年12月10日 00:26 )
人間七七四年 | URL | -
せいしょこさん嫌な奴にされて可哀想だな
他を下げなくても行長なら良い所も語れるだろうに
( 2015年01月07日 18:19 )
人間七七四年 | URL | -
天正天草合戦は清正だけじゃなく有馬や鍋島からも援軍出してもらってるのに
清正だけがdisられるのマジ意味不明
( 2015年01月10日 22:37 )
7・8 | URL | -
加治木郷土館に行ってきて、織部さんの話を読み直してきました。
>義弘が他の人(名前失念)に送った薩摩焼の内1個を持っていってしまったらしいです
送った人は山口直友さんでした。
その時に山口さんに送った薩摩焼はかたつき2個ですが、2個とも持って行ったそうです。
(「古織とっていき候(中略)」とありました)
あと、山口さんにかたつきが送られてきたら、ほかの人たちから「山口の所には、いい
かたつきなどの焼き物が送られてくる」と噂になり、山口さんに「焼き物を頼んで」
と言ってくる人が多かったそうです。
この数年後に、山口さんに薩摩焼11個を送ったら織部さんが「出来が良くない」と
11個全部送り返したけれども、その後に新たに2個送ったら「良くなっている」と
言われ、釉薬と造形を変えてみたらいいとアドバイスしています。
( 2015年02月04日 23:11 )
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