ただこの理屈を

2014年12月11日 18:36

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/11(木) 02:13:40.44 ID:oE57dufK
(両上杉が関東諸)国をよく治めていたところに、大事を引き起こす事が一つ起こった。詳細は次のようである。
扇谷(=上杉定正)に中次彦四郎・曽我伝吉という二人の殿方がいた。この二人は仲が良く、互いに相談し、分別もあるので、良く奉公し扇谷殿の心をとらえていた。
後に扇谷へ諫言できるほどまでになったが、彼等は家運を傾ける類の諫臣であった。
二人が言うことは続けて上手くいくので、定正は二人に官位を与え中次主馬助・曽我右衛門佐とし、すっかり扇谷殿は曽我・中次の言いなりとなってしまった。
ある時、二人は談合して、それぞれの所領を沢山取ろうと思い、扇谷殿へ

「財政の収入がなく、物事が不便であるのに、家老衆が江戸・河越の国中に徘徊して遊んでおります。
将来は彼らの子供が扇谷家の子孫に敵対し、ご子孫は今の公方のようになってしまうだろう。
そして家老衆は今の両上杉殿のようになることは少しも違わないだろう。ご分別を。」

と申し上げると、扇谷殿は武州江戸の太田道灌を召し寄せて殺しなさった。
これを聞いて残る上田・見田・荻谷を始めとした道灌の一族、城主共は言うに及ばず、少しでも所領をもつものは、おおかた身構えて、それぞれの屋敷に引き籠もった。
その年のうちに、この事で山内殿と扇谷殿の間に所領争いが起こり、羽入の峰・岩戸の峰・ふく田の郷・奈良梨などと申すところで大きな合戦あった。
味方も敵も見分けがつかず、日頃心懸けをしていない奉公人共は働く術を知らず、行ったり来たりとうろつき回る。
小旗を捨て、或いは槍を切り折り杖として逃げる者は後ろを見ず、
主を捨てて、自分の在所へ逃げてしまうものが扇谷にも、山内にも一合戦に二人三人と出る。
勿論関東・奥州北国にも、たびたび手柄を立てる大剛の者があまたいたが。家運が傾いた徴候だろうか、若武者にも負けてしまう。
しかも十人の中に八人九人は心懸けの無い弱者共に掻き回されて、長年合戦に慣れている者も、自分の身を守るだけで何の手柄にも立てられない。
これらは味方の中の裏切りによるものである。この時節に伊豆の早雲が出てきて、小田原を乗っ取ったのである。明応四年乙卯のことであったと聞いている。
前代のことである。しかも他国の事、人からの雑談によるものを書き記したので、相違なことは多いのは確かだろうが、ただこの理屈を勝頼公の代の参考にしてほしい。
(甲陽軍鑑)




スポンサーサイト


コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    太田道灌のような実力者ですら、主家をしのいでも独立した勢力になりえないのが、この時代の面白いとこだね。
    斎藤妙椿しかり、浦上則宗しかり、みな主家をしのいでも臣下にとどまっていたが故に、戦国大名になれずに子孫が落ちぶれてるよね。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    >家老衆が江戸・河越の国中に徘徊して遊んでおります。
    歓楽街だったのだろうか?

  3. 人間七七四年 | URL | -

    (´・ω・`)「鋳ったばかりの鉄棒、殴りぐあいを試したいので陣頭に出るよ!」
    光安「それは『だだっこの理屈』です。帰りますよ」

  4. 人間七七四年 | URL | -

    ※2
    江戸と河越は太田道灌の持ち城だから、この場合道灌の所へ遊びにいってる=道灌にご機嫌伺いしてる、って意味じゃねーかな?
    皆が主家をないがしろにして道灌の元に集まってる、気をつけないと危ないよ、だから道灌を殺せ、って入れ知恵した奴らの話だし。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    人のふり見て我がふり直せ。という話
    でも栄枯盛衰、盛者必衰と言いますし…ああ無常

  6. 人間七七四年 | URL | -

    関東における下克上の嚆矢とされる長尾景春の乱を実質的に鎮圧した太田道灌が、自らが主君を凌ぐほどの力を持ったが為に殺されたというのも、何とも皮肉な話だよな。
    まして、道灌の死後も長尾景春は度々反乱と挙兵を繰り返し、下克上の成功者である北条早雲とも同盟していたとなると尚更だ。

コメントの投稿

(コメント編集・削除に必要)
(管理者にだけ表示を許可する)

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/8949-b0954e6d
この記事へのトラックバック