15 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/15(月) 12:03:19.05 ID:+mpcXuzM
君子 三の戒
慶長二年(1597)の八月。全羅道(チョルラド)の南原(ナムウォン)城を攻略すべく、宇喜多秀家を大将とする左軍の軍議が行われ、議定一決して諸将が陣に戻った後の事である。
(ちなみに右軍の大将は毛利秀元、総大将は釜山の小早川秀秋)
島津義弘は、忠恒とその近習を召し寄せ、こう語った。
「君子三の戒にも、その壮なるに及んでや血気まさに剛(こわ)し。これを戒める事、闘いあり」
是、文宣王(孔子)の格言にして千歳不易の論なり、と義弘が説いたのは、論語の一説だった。
孔子曰「君子有三戒。
少之時、血気未定。戒之在色。及其壮也、血気方剛。戒之在闘。及其老也、血気既衰。戒之在得」。
君子は、少壮の時は色欲、壮年の時は闘争欲、老いては利欲を戒めなければならない。
「今や忠恒は壮にして、血気もっとも盛んなり。然れば分捕りの高名、独り懸け等これを戒めよ」
自身が兄・義久の守護代として参陣しているのに対して、忠恒は義久の女婿として三州の太守を嗣ぐ身である以上、軽々しく敵陣で分捕りや一騎駆けに出るな、と戒めたのだ。
「吾、久保を唐島(巨済島)の地に亡くし、追憶未だ止まず」
最後に実父として子に先立たれる辛さを述べるや、左右の家臣は皆が落涙し、忠恒も父の説く理に納得した。
16 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/15(月) 12:03:56.75 ID:+mpcXuzM
そして、八月十三日より南原城への攻撃が開始された。
三日間の攻城戦の末、小西行長の計略により城兵が油断した十五日夜の奇襲で南門が破られると、明軍の副総兵・楊元の率いる遼東兵が西門より脱出した為、遂に落城。
その退路には、全州(チョンジュ)の城から南原に後詰の軍勢が来る事を警戒していた島津義弘と加藤嘉明の軍勢が待ち伏せていた。
戦死者と逃亡者により、遼東兵が思肆館まで撤退した時には、残存兵力は百人余りに減じていた(その為、楊元は明軍で処刑され漢城の南大門で獄門にされた)。
この時、島津勢が討ち取った首級は四百二十一、佐土原勢(島津忠豊)が十三首。
特に、島津勢の首級のうち三首は、義弘自身が斬り獲ったものだった。
その事を聞いた途端、忠恒の中で何かがキレた。
「老巧(ママ)すらかくの如し。吾、壮にして何ぞこれを忍びんや!」
と叫んで、制止する近臣を振り切り、単騎突出。
その勇姿に、向かう敵は一人もなかった。……既に、戦闘は終結していたので。本当に、敵はいなかった。死体以外に。
故に握刀の功なくして、ようやく払暁に至り帰還する。その憤怒は猛然としていたと『征韓録』は記す。
『征韓録』の「南原之城陥事、附全州城明退事」より抜粋。義弘の活躍と(忠恒と連名ながら)秀吉より賜った戦果を賞する朱印状に続いて、忠恒の個人戦果なしの逸話を乗せ、〆に忠豊の朱印状を持ってくる構成。
作者(編纂の総裁は島津久通)は、忠恒(家久)に含むところでもあったのだろうか?
20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/15(月) 20:09:59.98 ID:6REdTz3o
>含むところ
忠恒の場合心当たりが色々とありすぎるからなw
君子 三の戒
慶長二年(1597)の八月。全羅道(チョルラド)の南原(ナムウォン)城を攻略すべく、宇喜多秀家を大将とする左軍の軍議が行われ、議定一決して諸将が陣に戻った後の事である。
(ちなみに右軍の大将は毛利秀元、総大将は釜山の小早川秀秋)
島津義弘は、忠恒とその近習を召し寄せ、こう語った。
「君子三の戒にも、その壮なるに及んでや血気まさに剛(こわ)し。これを戒める事、闘いあり」
是、文宣王(孔子)の格言にして千歳不易の論なり、と義弘が説いたのは、論語の一説だった。
孔子曰「君子有三戒。
少之時、血気未定。戒之在色。及其壮也、血気方剛。戒之在闘。及其老也、血気既衰。戒之在得」。
君子は、少壮の時は色欲、壮年の時は闘争欲、老いては利欲を戒めなければならない。
「今や忠恒は壮にして、血気もっとも盛んなり。然れば分捕りの高名、独り懸け等これを戒めよ」
自身が兄・義久の守護代として参陣しているのに対して、忠恒は義久の女婿として三州の太守を嗣ぐ身である以上、軽々しく敵陣で分捕りや一騎駆けに出るな、と戒めたのだ。
「吾、久保を唐島(巨済島)の地に亡くし、追憶未だ止まず」
最後に実父として子に先立たれる辛さを述べるや、左右の家臣は皆が落涙し、忠恒も父の説く理に納得した。
16 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/12/15(月) 12:03:56.75 ID:+mpcXuzM
そして、八月十三日より南原城への攻撃が開始された。
三日間の攻城戦の末、小西行長の計略により城兵が油断した十五日夜の奇襲で南門が破られると、明軍の副総兵・楊元の率いる遼東兵が西門より脱出した為、遂に落城。
その退路には、全州(チョンジュ)の城から南原に後詰の軍勢が来る事を警戒していた島津義弘と加藤嘉明の軍勢が待ち伏せていた。
戦死者と逃亡者により、遼東兵が思肆館まで撤退した時には、残存兵力は百人余りに減じていた(その為、楊元は明軍で処刑され漢城の南大門で獄門にされた)。
この時、島津勢が討ち取った首級は四百二十一、佐土原勢(島津忠豊)が十三首。
特に、島津勢の首級のうち三首は、義弘自身が斬り獲ったものだった。
その事を聞いた途端、忠恒の中で何かがキレた。
「老巧(ママ)すらかくの如し。吾、壮にして何ぞこれを忍びんや!」
と叫んで、制止する近臣を振り切り、単騎突出。
その勇姿に、向かう敵は一人もなかった。……既に、戦闘は終結していたので。本当に、敵はいなかった。死体以外に。
故に握刀の功なくして、ようやく払暁に至り帰還する。その憤怒は猛然としていたと『征韓録』は記す。
『征韓録』の「南原之城陥事、附全州城明退事」より抜粋。義弘の活躍と(忠恒と連名ながら)秀吉より賜った戦果を賞する朱印状に続いて、忠恒の個人戦果なしの逸話を乗せ、〆に忠豊の朱印状を持ってくる構成。
作者(編纂の総裁は島津久通)は、忠恒(家久)に含むところでもあったのだろうか?
20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/15(月) 20:09:59.98 ID:6REdTz3o
>含むところ
忠恒の場合心当たりが色々とありすぎるからなw
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コメント
人間七七四年 | URL | -
>含むところ
ハハハー、そんなもん有るわけが無いじゃないですかー有るわけがー(超棒読み)
( 2014年12月15日 19:08 )
人間七七四年 | URL | -
薩摩隼人たるもの、血気盛んであるべき、と褒めているのですよ(超棒読み)
( 2014年12月15日 22:54 )
人間七七四年 | URL | -
関ヶ原に駆けつけられなかったのは、父君の御言いつけをよく守られた結果だと皆に申し伝えたいのですよ(超棒読み)
( 2014年12月15日 23:09 )
人間七七四年 | URL | -
>3殿
駆けつけられなかったのは関ヶ原ではなく大坂の陣では?
一応大坂の陣に駆けつける為にいろいろ準備していたんですよー
(超棒読み…ではなく本当に)
あれ、1、2、3殿のいる方から蹴鞠の音が…
( 2014年12月15日 23:32 )
人間七七四年 | URL | -
これで、忠恒さんひねくれた?
パパさんとしては死んで欲しくなかっただけなのだろうが。
( 2016年01月01日 15:13 )
人間七七四年 | URL | -
>パパさんとしては死んで欲しくなかっただけなのだろうが。
久保のすぐ後に忠清(久保、忠恒の弟)も亡くしているので、
生き残っている男子は忠恒だけなんだよなあ。
そりゃあ死んで欲しくないよなあ。
( 2016年01月01日 17:18 )
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