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鮭延秀義の死の悪い話

2015年01月06日 18:51


498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/06(火) 00:59:24.63 ID:2/xRJHGt
鮭延秀義の死の悪い話

慶長8(1603)年、鮭延秀綱の一子鮭延左衛門尉(鮭延秀義)が急死した。齢18才の若者だった。
秀義は長谷堂の上杉戦をわずか15才の時に初陣で出馬し戦功を成し、同年代の若者の中にあっても比類無いいくさ働きで勇名を轟かせた。
主君の最上義光は秀義を褒め讃え、その言上によって秀義は江戸の徳川家康・秀忠父子に面会を赦され、直にお褒めの言葉を賜った。
この秀義は知謀は父の秀綱に十倍し、力は最上随一の延沢満延に劣らず、文学にも長けていると、まさに非の打ち所がなかった。

弥生の頃、秀義はいささか用事があり鶴岡の隠居の義光に挨拶し、小国・神保らが用意した宿所を経てから鮭延に帰ろうとしたが、宿所で急に体調を崩し、胸を掻きむしり苦しみ悶え、その日の暮れ方に帰らぬ身となった。
鮭延秀綱夫妻の哀しみは限りなく、義光も前途揚々であったはずの若い秀義の死を悼み、山形の光明寺で葬儀を取り行った。

「惜しい若者を亡くした。最上家にとってなんとも大きな痛手である。」と義光は秀義の追悼に号泣しながら歌を二首捧げた。

幾たびか いくさに花を さけのべ(咲けの辺・鮭延)が なき跡までも 名をば残せり

心にや 懸(かかり)しいくさの 鮭登を 若者どもの 手本にもせよ

秀義の死は将軍秀忠の耳にも入り
「あたら剛の者を若死にさせし事よ」と鮭延秀綱に送辞が賜られたと云う。



しかし鮭延の郎党の間では
「秀義の死は尋常ではない!これは毒殺に違いない!」と悪い噂が流された。




499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/06(火) 01:49:35.09 ID:ntsURapQ
ゆくゆくは国家老になれたろうに…
ということは下手人は誰か判るよな

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 00:43:19.00 ID:2IxhPwOg
>>499
誰が犯人?

(`・ω・´)「犯人はヤス!」
志村光安「!」
(´・ω・`)「ただ言ってみたかっただけなんよ」

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    急に大身になって、中央集権が間に合わなかったのが最上の悲しさだな。足の引っ張りあいで家を滅ぼすのは切ない。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    よりによって最上にとってその「名前」がまずかったんじゃないか?

  3. 人間七七四年 | URL | -

    ※2
    諱名は忌み名だから普通は使わないでしょう

  4. 人間七七四年 | URL | -

    前もこの表記があった「鮭登」
    縁起担ぎなのか?「さけのぼ」と読むのか?
    それとも発音による表記ブレなのか?

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    古河で「鮭延」を「さけのぶ」と読むらしい。
    上杉方の「最上合戦記」で鮭延秀綱を「崎部(さきのぶ)越前」と書いているから、さけのべじゃなくさけのぶが正しい読みかも知れない。

    奥羽永慶軍記には頻繁に「鮭登」表記が出てくる。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    ※5
    ありがとう
    発音が原因の表記バリエーションと考えていいのね

  7. 人間七七四年 | URL | -

    幾たびか いくさに花を さけのべ(咲けの辺・鮭延)が なき跡までも 名をば残せり

    これも正しくは

    幾たびか いくさに花を さけのぶ(咲けの武・鮭登)が なき跡までも 名をば残せり

    だったりして

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