1605年、秀忠将軍就任の様子

2015年01月19日 18:40

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/18(日) 16:51:17.76 ID:+li5LsnP
日本に平和が存在することはすこぶる稀なことで、それは毎年奇跡と見なされるほどある。
それゆえ将軍、すなわち公方、内府様(徳川家康)がそれら諸国のすべての絶対的君主となって以降、
既に数年にわたってそれを享受していることは極めて大いなる奇跡である。
彼は、大将軍としての勇気、気力を欠くわけではないが、すこぶる思慮に富み、生来安寧を愛するので、日本帝国の統治を巧みに行い、
誰も彼に対して敢えて頭を上げぬよう、万人を制御して帝国を平和のうちに維持し保持するのみならず、
また領主や個々の殿たちの間に、かつてあったような軋轢や不和が生じないようにしている。

そして、その前任者、太閤の息子で若君豊臣秀頼様
(その父の死によって、内府は若君の最高後見人となり、成年に達した暁には帝国を譲渡することになっていた)に関しては、
こうなるのではあるまいかと思いながらも、彼がいかなる決断を下すか判らないために、これまですべての人を不安がらせていたが、
本年、決意を明らかにし、帝国を己のものとして占奪するだけでなく、自らの一族のうちに永遠に留めることに決めた。

これゆえ、己が世襲の領国である関東諸国から息子を上洛せしめた。
次男ではあるが、彼に将軍あるいは公方の称号を与え、自分の死後は帝国を相続するよう、彼を嗣子かつ相続人にしておいたのである。
この若君は、その国だけではなく近隣諸国のすべての領主を伴い、七万の戦士とともに来た。
この随行者たちをひきつれて、父が待っている都に近い伏見の政庁と城に到着した。
南方の諸国の他の多くの領主たちがその地から彼を迎えに出た。
こうして、このような盛儀をこらして都に入り、多数のいともすばらしい兵士たちを華々しく披露した。
彼らは様々な衣服や衣装を身に纏い、落ち着き払っていて、ヨーロッパにおいてさえ一見の価値のあるものであったろう。
数日後、内裏の手から将軍の称号を受けに行ったが、受けようとしている称号が要求するところから
(ここ、我らのヨーロッパで皇帝が教皇の手から帝冠を受けに行くのと同じように)
衣裳のみならずそのような儀式において習いとなっているその他の位階章にいたるまで、
都に入った時よりもさらにいっそう豪華絢爛であり、万事において整然と秩序立っていたので、これを見たすべての人をすっかり驚嘆させた。

しかし、さらに驚くべきことは、すべてがきわめて平穏かつ冷静に行われたことである。
息子とともに来た者、父のもとにいる者とで十万以上の兵士が集まり、
またこの盛儀の模様を見物のために至るところから集まったの他の人々は無数にのぼるにもかかわらず、
その盛儀の続行中と、さらに新将軍が政庁にとどまっている間、ずっと、騒擾、混乱、喧嘩、抜刀騒ぎも、
傷害沙汰も見られなかったことは、どのようなキリスト教団にあっても奇跡的なことと考えうるが、日本においてはなおのことである。
このことはすべて、老将軍がその逆のことを厳罰を持って禁じ、良政を施し秩序をもたらしたがゆえである。

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/18(日) 16:53:58.17 ID:+li5LsnP
老将軍(家康)が、息子(秀忠)をこれほどの権勢と盛儀をもって新たな称号を受けるために召喚させた理由は、
老将軍が言っていたように、往時の日本の君主源頼朝が、同じ将軍の称号を授かるために同様に関東の諸国から都へ独自の仕方で上ったのに倣うためであったが、
その真の理由は、誰もが信じているように、太閤秀吉の息子である若君(秀頼)から大坂の城と街を奪い取り、
これによって、かつて自分の父のものであったその帝国をいつの日か相続したいという、若君がまだ抱いている希望を断ち切るためであった。
(中略)
若君はこのたび、帝国を相続することにはならぬことを悟ったばかりではなく、以前有していた勢力が大いに減少した。
その証拠に、彼の同盟者であり熱心な支持者である数人の領主たちが、もはや彼、その人に期待も頼りもしないかのように、辞去の挨拶もせずに自領に戻ってしまった。

このことにはデウスの正しい裁きが欠けてはいない。
なぜなら、彼の父(豊臣秀吉)が、主君で前任者の偉大な織田信長の後継者嗣子(秀信)に同様のことをしたからである。
彼もまた、信長の子(孫)の後見人になり、帝国を奪い己のために横奪した。
そうしてまたデウスは、若君の父秀吉がキリストの御名の、きわめて邪悪でいとも激しい迫害者かつ敵であったところから、
悪事において父を模倣せぬよう、彼が帝国を相続することを許し給いはしなかったのである。

(イエズス会年報集)

宣教師から見た1605年の秀忠将軍就任の様子。




574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/18(日) 19:35:04.37 ID:4VBmSEFc
さすがにこの時点でのイエズス会は、後に徳川幕府の鎖国、禁教政策が
秀吉時代より苛烈になるとは予想だにできなかったんだろうな。

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/18(日) 20:20:28.08 ID:J+O67atp
島原の乱があったからなあ

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/18(日) 21:44:29.51 ID:01UDUlbA
どっちかというと、イギリス・オランダの進出が原因だろ

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/19(月) 13:37:36.58 ID:74L6HPrm
>このことにはデウスの正しい裁きが欠けてはいない。
>なぜなら、彼の父(豊臣秀吉)が、主君で前任者の偉大な織田信長の後継者嗣子(秀信)に同様のことをしたからである。
>彼もまた、信長の子(孫)の後見人になり、帝国を奪い己のために横奪した。

こういう見方は当時から存在したんだな。
もうみんな信長の頃のことなんてすっかり忘れてると思ってた。

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/19(月) 21:04:01.49 ID:O2bO8PMr
(既存の仏教勢力を牽制する都合上)信長が宣教師を優遇したこともあり、
イエズス会は信長を称えるとともにその織田政権を簒奪した(と彼らには見える)
秀吉に対し批判的だったんだろうな。

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    大事な記事なので二回繰り返しました?

  2. まとめ管理人 | URL | -

    ※1
    なんだか変な投稿になってましたね。直しておきました!

  3. 人間七七四年 | URL | -

    この頃の宣教師は家康べた褒めなんだね

    大坂の陣の頃になると家康も強欲な老人みたいに書かれてるけど、そこまでボロクソ言われてないし
    秀頼についても「仮にこの人が日本を支配してたとしても、禁教の可能性はあっただろう」とか書かれてたりして
    なんか宣教師の諦めムードを感じなくもない

  4. 人間七七四年 | URL | -

    例によって「暴君」と書かれるようになるが、「すこぶる評判がいい」とも書かれているな>大坂の陣の頃の家康

  5. 人間七七四年 | URL | -

    秀忠が次男…?

  6. 人間七七四年 | URL | -

    信康より上の子がいるの?

  7. 人間七七四年 | URL | -

    信康、秀康、秀忠。
    信康を知らなくてもしょうがない

  8. 人間七七四年 | URL | -

    日本史用語を使わずに日本史が語られている点で
    こういう外国人の記述って面白い。

  9. 人間七七四年 | URL | -

    日本史が、すごく分かり易いです。

  10. 人間七七四年 | URL | -

    デウスが宣教師の都合のいいものになってる

  11. 人間七七四年 | URL | -

    占奪とかもしてないな。相変わらず秀吉憎しか。既存宗教への攻撃や人拐いしてるんだから禁教は妥当だと思う。
    それほど面白いとも感じなかった。

  12. 人間七七四年 | URL | -

    この時点でもう秀吉の行動について迫害ダーとか言ってたのか。
    いや元々そういう宗教か。

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