豊鑑より、上月城の戦いの模様

2015年01月20日 18:44

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/19(月) 19:33:34.32 ID:LX2L6gSV
天正6年、大江(毛利)の輝元は吉川、小早川といった同族の者達を大将として、
備前美作の宇喜多直家をかたらい、5,6万ほどの大軍で西播磨へ進出し、山中鹿之介らが籠もる
上月城を幾重にも囲んだ。

これに鹿之助より後攻め(救援)を請われ、羽柴秀吉は小寺氏などを従えて高倉山に陣を張った。
毛利の軍勢は大軍であったので、城攻めの軍勢の中から軍勢を別け秀吉へも攻めてきたので、
秀吉はその方への備えをして、『このような状況であります』と織田信長へ早馬を打たせたところ、
太郎城介信忠を大将として佐久間右衛門(信盛)、滝川左近(一益)などが援軍として送られ、
また信長自身も近く出陣すると表明した。

ところがこの援軍は、明石高砂の傍に留まり、戦場である高倉表には向かおうともしなかった。
あまつさえ信長に対しその出陣を何度も止め、『高倉より撤退すべきです』と言い送った。
そこで信長も彼らの提言に従い、ついに『筑前守(秀吉)、軍を引くべし』と命じたため、
秀吉も、心得ぬことではあったが、力及ばずそれに従った。

これは援軍の者達が、秀吉に功を立てられる事を妬んで、この様に計らったという。
『私の妬みにて公を疎かにするのは、正しき道ではない。心ない人間はああいうものなのか』と、
当時の人々はみな嘲ったそうである。

秀吉はどうにかして、毛利と戦って上月城を救おうと心をもみ砕いたが、大軍が硬く陣を守っていたため
自分の軍勢だけではどうすることも出来なかった。

ある時は、毛利方が野伏を伏せて、秀吉方で馬草を取るために出かけた下郎たちを討った。
これに秀吉の兵たちは物の具を着けるのももどかしく陣より駆け下りて野伏共を打ち払ったが、
そこに毛利はまた兵を出した。
秀吉方の、尾藤氏、戸田氏と言った人々は先駆けをして傷を負い、中村氏は敵をよく防いだ。
宮田氏は命を失った。これらの人々は名を現し、禄を給わった。
このような合戦に及んだため。秀吉の軍は危うい状況になったものの、竹中某(半兵衛重治)が下知をして
その日は何とか治めた。

織田信長からは『戦いを止め即刻撤退するように』と、使いによって重々命ぜられ、秀吉も力なく、
高倉山を退いて書写山帰った。
上月城の者達は後詰こそを頼りにしていたので、この様に退かれては致し方なく、毛利に和を請うて
降伏した。その後、山中鹿之助は備中国神戸川にて殺されたそうである。

(豊鑑)

竹中重門の書いた豊鑑に見える、上月城の戦いの模様である。



275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/19(月) 20:31:10.70 ID:Lz9nt3w0
「某」にしたのは謙遜のため?それとも諱を書かないため?

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/20(火) 10:35:32.67 ID:X/XtxoRm
豊鑑はよくある先祖顕彰のための家譜軍記とは一線を画した公平な歴史書として書いてあって
息子が書いたのに半兵衛の活躍がほとんど書いてない。某と濁したのもその一環じゃないかな

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    実際は洪水のせいで援軍に行けなかったんだけどね、信長

  2. 人間七七四年 | URL | -

    豊鑑が幾ら先祖顕彰的な物じゃなくても、他の資料と照らし合わせないと
    正確に書かれているかは中々分かりませんね。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    話を尾ヒレのようにのばして 評価を上下に 自家上げ他家下げ
    先祖を顕彰するんだ ウォッチ ニイ サン ポー
    事実そのまま書きゃいいと思ってるようじゃあ ヘタレってよんでやるぜっ!
    オゼホアーン!!

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