秀吉の鹿児島旅行

2015年01月21日 18:51

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 09:09:38.74 ID:cHyE/6zV
(秀吉は)早々に鹿児島へ攻め寄せようとお思いになっていたところ、島津(義久)が降参を乞い人質を差し出し,その身を黒衣として、
「この上はともかくも御諚次第に、」
と申し上げましたので、切腹を仰せ付けられるに及ばなかった。(秀吉の)御諚は、
「聚楽より御使者を立てられました時、異乱無く罷り上がったならば、(自分も)喜んだものを、ここまで御馬を出した上は、豊後・日向両国は召し上げる。
大隅・薩摩の両国を宛てがうこととする。」
ということであった。
島津は承って、
「一命をお助けくださっただけでなく、両国を下し置かれる義、忝く存じます。」
と御請け申し上げ、ただちに御礼申し上げ、終わったのである。

(秀吉の)御意では、
「その方の居城である鹿児島を一通り見物しよう。」
ということである。
「それでは、汝は先へ帰って馳走せよ。」
との御意である。島津は時宜にて、
「私はここにおります。御馳走のことは年寄りどもへ申し付けましょう。」
とお断り申し上げましたところ、上様の御諚では、
「この上は少しも心置きなく思って、早々に居城へ帰り馳走せよ。」
ということで、島津竜伯は居城へ帰り申したということです。

 上様は、それから御人数一万ばかりで鹿児島へお出でになった。
鹿児島までの道々の様子は、絵図にお書かかせられて、右の川内川より鹿児島までの道すがら、よくよく念を入れて、お通りになった。
この御分別は、後に人々の推量では、
「ひょっとして、島津に謀反などが起こったならば、重ねて御馬を向かわせられずとも、仰せ付けられることができるようにするためだ。」
ということが聞こえてまいりました。
(秀吉は)ただちに島津家城へお着きになり、よくよくご覧になり、国中も測量されて、五日のうちに所々を調べられ、程なく肥後熊本へお入りになった。
(川角太閤記)

秀吉の鹿児島旅行の記述
秀吉は島津にちょい甘査定ですよね




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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    ひょっとしてこの旅行中かな?

    新納さんの領地にある滝も見物したいと秀吉がリクエストして、それ聞いた新納さんが
    「よっしゃあ、ラスボス殺るチャンス!」
    と隙あらば滝壺に秀吉突き落として殺そうとしたけど、秀吉には殺意を見抜かれてて…的な逸話を前読んだ気が。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    これも幕末への伏線と考えたら胸熱

  3. 人間七七四年 | URL | -

    秀吉も家康もだけど単純に遠すぎてメンドクセ~な大身相手は北も南も甘かろう?九州も東北も小領主は根絶やしになっているけど

  4. 人間七七四年 | URL | -

    >1さん
    南の方の武蔵、新納忠元・悪い話
    ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/688-9de1da57

    この逸話ですね。
    >揉めに揉めた豊臣と島津の間でようやく和議が締結された。
    秀吉がこの帰路の行程で曽木の滝を見物することになったのだが

    とあるのでそうですね。この話を知った後に曾木の滝に行ったものだから
    2時間サスペンスの音楽が頭の中で鳴りっぱなしでした。
    迫力があって落としがいがありそうな滝でしたよ。

    昭和32年(1957年)に柳原 白蓮が世界平和運動の講演のために訪れた時に
    案内人を務めた郷土の医師から、新納忠元と豊臣秀吉の会見や滝見物の言い伝え、
    川ざらえと薩摩藩の米の流通などの話を聞いた後に歌を詠んでいて
    「もののふの昔がたりを曽木の滝 水のしぶきにぬれつつぞ聞く」
    この歌の歌碑が曾木の滝にあります。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    天下の趨勢が定まってきたことだし、名門の保護活動でもすっか!みたいな
    少弐が滅亡しちまった後だけど

  6. 人間七七四年 | URL | -

    吉川元春の深謀
    ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/5844-fe46d10b
    の中で、元春さんが
    >「いかに太閤殿下と言えども、そう簡単に島津を根絶やしには出来ぬ。
    天下は未だに殿下の手中に納まり切れてなく、このような時期に何年も大軍を
    九州に置くことは出来ない。かと言って島津には名将が多く、地の利もあるのだから
    短期決戦でもそうは勝てまい。しかし島津とて完全に勝ちきる事は不可能なのだから、
    一度決戦してから最低薩摩、大隅を確保するための和平交渉に出るだろう。
    太閤殿下も島津は仇敵ではないのだから、今までに切り取った国を返せば、
    根絶やしになどせず、薩摩大隅の領有を認めてやるに違いない。」
    と言っているのが当たっているのでは?

  7. 人間七七四年 | URL | -

    この話では、秀吉は鹿児島の内城に行ったことになってますが、
    もし秀吉が鹿児島入りしたならば、島津方はその出迎えや接待に大変な労力や
    気遣いがあったはずなので、何らかの形で史料に残ると思われるが何も見いだせない
    ので、鹿児島に行ってないという説もあります。
    今の所、薩摩のどこまで行ったかについては川内と鹿児島と伊集院の3つの説があります。

  8. 1 | URL | -

    ※4殿、補足ありがとう。

    今でこそ新幹線開通したから九州への旅行もそこそこ楽になったが、あの当時なら何日もかけての旅行だから大変だろうなぁ…なんてふと思ったり。

  9. 人間七七四年 | URL | -

    幕末云々は流石にこじつけ臭いな。世界平和運動とかも胡散臭い。

  10. 人間七七四年 | URL | -

    でも秀吉は義弘を大名並みに扱ったりして、分断工作ぽいこともやっているからな…

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