小早川秀秋の出陣

2015年02月06日 18:40

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/06(金) 00:25:26.43 ID:ANvBtwVf
慶長2年(1597)5月21日、筑前の太守黄門秀秋公(小早川秀秋)、朝鮮への出陣のお目見えとして
伏見に登城した。40人余の大小名がそのお供をする中、これに豊臣秀吉は大変機嫌よく様々に申し付け、
秀秋は小袖300,帷子500,反物300,金銀、長光の太刀、備前兼光の御腰物、馬五匹を拝領した。
諸大名衆も尽く、小袖、帷子等の数々のもの、及び金銀を拝領した。

秀秋の御座船は、伏見城下の豊後橋より先陣へと進んだ。各大小名は豊後橋、京橋より船に乗り、
思い思いの馬印を船の正面に立て、母衣、指物、弓鉄砲で船を飾り、家々の紋のある幕を張り巡らせ、
一手ごとに下っていった。

出船の時、兵士たちの妻子は、これが今生の別れだと思い、貴きも賤しきも船の側まで送り出て、
夫の船に取り乗り、鎧の袖や草摺に取付き、「私も連れて行って!」と泣き叫んだ。
順次の出船であったので、彼女らは様々に教訓され、船中から降ろすと、船は急ぎ押し出していった。

彼女らは船を見送ると、はかなき身の上を嘆き、そのまま宇治川へ身を投げ死んだ者もあった。
伝え聞く古の、松浦佐用姫が出征する大伴狭手彦の乗った唐船の名残を慕い、波に袖を濡らし
涙に沈んだという話も、どうしてこれに勝るだろうか。
上古も今も、末代も、例少なき門送りであり、見る者の多くがこれに涙した。

折しもこの日は五月雨であった。空吹く風に誘われて、先頭の秀秋の船が摂津大阪に着いた頃、
諸船は淀山崎当たりを航海しており、後陣は未だ伏見を出ていなかった。
360余隻の船は、川水の波上に錦を晒したようであり、旌旗は日を覆っていた。

(朝鮮記)

朝鮮の役にて小早川秀秋の艦隊が、伏見より出陣した折の記録である。

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    やはりこの出兵は家族から見ても無茶な出兵に写っていたのですかね。
    なんだかんだと言われる秀秋もこの前後はまだ秀吉政権の一員としての遇されてるのですね。
    ここからどうして今日の評価にまでなってしまったのやら・・・。

  2. ななし | URL | -

    ※1殿
    秀秋、若死にだからこそ評価が関ヶ原のアレしか表立たない訳だし
    仕方無しで有りましょう

  3. 人間七七四年 | URL | -

    まるで万葉集の防人の歌みたいだ

  4. 人間七七四年 | URL | -

    確かこの朝鮮記が秀秋の武勲話のソースだったかな。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    秀秋は少なくても陣羽織を見る限りはファッションセンスは抜群だったと思う。

    秀吉一門見ると秀吉自身だけでなく、その身内も親族の少なさから来る人的問題
    抱えてる気がする。秀長・秀家・秀秋・秀頼。皆複数の有名な身内が居ないか少ない。
    (浅野家は嫁さんの実家だからノーカン)

  6. 人間七七四年 | URL | -

    秀秋は(家臣の力もあったのかも知れないけど)内政も目立った失策はなかったはず。

    やっぱり、戦国どころか日本史全体でも大きな戦である関ヶ原でのイメージが大きすぎるんだろうなぁ…今の秀秋の評価やイメージ。

  7. 人間七七四年 | URL | -

    ※6さん
    全く持って同感です!!

  8. 人間七七四年 | URL | 110ru34.

    実際、関ヶ原で小早川秀秋公が裏切らなかったら、どうなるんだろう?

    秀秋公が西軍で動いて、状況が西軍有利になったなら、毛利勢も西軍で動いたかも知れないし、
    ・・・万が一西軍が勝利して、万が一徳川家康公が死んでたりもしたら、
    秀頼公率いる豊臣政権で日本がまとまったんだろうか?

    ・・・しかも、徳川家康公は朝鮮・Chinaとの国交回復に努めて、大体成功したらしいが、
    豊臣政権、かつ、国内まとまらずだと、大陸側から復讐逆侵攻でも受けそうな気がする。

  9. 人間七七四年 | URL | -

    ※6

    すぐに死んで家を保てなかったというのが大きいかと
    大津城での三成との逸話でも、小物臭がするのは大名家として断絶した秀秋と正則
    長政なんかは ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3704.html なんて話があるのに
    流布しているのは、情け深いエピソードのほうだけだし
    悪口は文句の出にくいところに集中してしまうのかと

  10. 人間七七四年 | URL | -

    単純に異国に行くから悲しんでいるだけだろ。国内での戦いとはまた違うしな。無茶でもない。
    秀秋は猛将なのに臆病者のコウモリみたいなイメージが付いててもったいない。

  11. 人間七七四年 | URL | -

    無茶じゃないのなら何故補給が滞り進軍が停止したと云う話があるのでしょうか?
    結局半島全部押さえられなかったし、明にも到達しなかったのでは?

  12. 人間七七四年 | URL | -

    ※8さん
    個人的には「裏切り」と表現する自体がちょっと無理があるかなと感じます。
    多分ご存知の通り、本当は家康側に付きたかったけど状況が許さず手紙で許しを得ています。

    この時点でもう東軍側といって良いし、城攻めもの件も已む無しとされています。
    つまり、関ヶ原で合力する手筈は整っていたのですね。
    (これが出来て居なかったからその後の4将の内2将改易<朽木さんは仕方ないw)

    合戦に出遅れた件も、以前逸話で紹介された霧の影響だと思っています。
    (最初から布陣してる連中と違い、山中から降りるのでは勝手が違います。また、家康が
    陣を移動したのも山からだと状況が見えなかったからとも指摘もあるので一理はあるかと?)

  13. 人間七七四年 | URL | -

    ※8
    明と李朝はこの直後から内乱状態になるうえ、女真族の後金、すなわち清朝と交戦状態に入るから、日本に逆進攻なんてさすがに無理だねぇ。
    あと文禄の役では、日本側の進撃が速すぎて補給がおっつかなくなって、早々に攻勢限界に達してしまったって状況だった。
    そこで慶長の役では、半島南部に根拠地となる倭城をたくさん築いてそこを守備しつつ、攻め寄せてきた明・李朝連合軍を撃滅するという、ガチガチの手堅い作戦とってたから、戦役が長期化してたら勝敗はどうなってたかはわからないとこだった。

  14. 人間七七四年 | URL | -

    >>13
    秀吉が死ななかったら長期化してただろうね
    そして日本は勝敗に関係なく壊滅的なことになったかと

  15. ※13 | URL | -

    ※14
    ま、あれだな、イェルサレムは乳と蜜の流れる楽園じゃなかった、てやつだな。
    仮に遠征が成功して、朝鮮半島全域を支配できたとして、それまで使い込んだ分は半島の生産能力じゃ到底補填できないんだから、戦国期から続いた領土拡大路線、すなわち戦国バブルは大損ぶっこいて崩壊終了だ。
    あとには、荒れ果てて使いものにならない朝鮮半島という不良債権かかえて、バブル崩壊後の低成長時代という地獄を、迎える事になってたかもしれない。
    遠征軍の総司令官である小早川秀秋には、あずかり知らぬ話なんだけど、そうなってたら秀秋や、主君の秀吉の評価は今よりもっとひどいものになってたかもね。

  16. 人間七七四年 | URL | 3aXRcdxk

    ※12
    そりゃ結果オーライだった家康側の視点で、西軍側から見りゃ「あいつ伏見ではこっち側だったのに何やってんの」だろう
    秀秋がやった内通自体は前例もあるしそんな責められてもいないが
    やった戦場と実際に攻めかかったのが影響してる
    傍観&無断撤退なら利家もやってるんだけど

  17. 人間七七四年 | URL | -

    ※16
    それがどうしたの?
    唐突に前田が云々言い出してもこの逸話と流れに全く関係無いじゃん。
    何が言いたいのか分からん。

  18. 人間七七四年 | URL | OoGSwKvo

    ※17
    内通約してる側からすれば味方に見えるのは余りにも当然ってことだよ
    裏切りだったかどうかは、もう一方の当事者である西軍の認識抜きじゃ語れないわな
    金吾が最初から「いや俺東軍だから」って宣言してりゃ裏切りじゃないし、
    態度を保留してたとすれば、裏切りもしくは洞ヶ峠と言われても仕方ないわな

  19. 人間七七四年 | URL | -

    ※17
    分からねえのか

  20. 人間七七四年 | URL | -

    埋伏の毒も知らない連中がなんか言ってるな。

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