豊鑑より、小牧長久手の講和

2015年02月12日 18:46

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 23:26:07.65 ID:cpXwsAt5
小牧長久手の合戦の後も徳川家康織田信雄連合軍との戦争が続いていた羽柴秀吉は、
伊勢の桑名にて織田信雄の軍と対峙すると、元織田信長の近習であった富田左近、津田隼人の
両人を呼んで、このように言った。

「私が、信長公の恵みを受け、その慈しみの深かったこと、古にも聞かないほどであった。
私が明智光秀を討って信長公の亡魂の怒りを鎮め、亡くなられたその跡を清めた忠義は
決して小さな物ではないが、それでも猶信長公から受けた慈しみには及ばない。

そんな私が、信雄様を始めとした信長公の御曹司たちを、どうして疎かに思うだろうか。
しかし私を仇として滅ぼそうとされたために、仕方なくこの戦を行ったのだ。
全く、私の本意からのものではない。
であるので、信雄様には一度私と和平をして、対面していただけないかと思い願っているところであるのだ。」

これを聞いた富田、津田は喜びに涙を流して
「誠にそのように思し召しになっているのですか!であれば我々、信雄様の元に行き秀吉様の
お心の中を述べてまいりましょう。」

そう言って両名直ぐに桑名を越えて、信雄の陣にて対面し、かくかくと秀吉の言葉を伝えると、
信雄も
「私も一時の事でこうなったに過ぎない。ならば和平をしよう。」と答えたため、両人立ち帰って
これを秀吉に告げた。

次の日、秀吉、信雄の両名は桑名の南の河原に出、共に御座して対面した。
この場で秀吉は膝を折って地面に手を付き、言葉を出さず、ただただ涙を流していた。
そして秘蔵の刀を信雄に進上し、本陣へと帰った。
これに両軍は太平の歌を歌い互いに喜び合った。
尾張国犬山の城は元より信雄の物だったのでこれが返還され、そうして都へと帰った。

秀吉は信長の家臣でありながらその子信雄に従わず刃を研いだ。その罪は明らかである。
また信雄が父の仇を討った秀吉を滅ぼそうとしたのは義ではない。
この出来事をどのように筆するべきであろうか。愚かな私(竹中重門)の心では解らないことである。

その冬の頃、秀吉は再び富田左近、津田隼人を呼んで、徳川家康の元に遣わしこう伝えさせた
「元来私と家康殿の間に遺恨は無い。信雄卿と和平が成った上は猶そうである。であるので
あなたには上洛して頂きたい。萬の事を語り合いたいと思っている。」

しかしこれに、家康の家臣たちが猛反発した。
「秀吉の軍勢が押し寄せてくるならそこまででです!我ら皆、命をひとつにいたします!」
皆がそういった事を異口同音に言ったため、家康もそれに同意し、富田、津田を返した。

これを秀吉は聞くと、「私を疑うのも仕方のない事だ。母上を質に下すべし。」
と、母大政所を遠江に下した。家康も「この上は上洛も異議に及ばず」と遂に上洛し、秀吉と対面し、
秀吉はこれを二無く饗した。そしてこの時期家康には定まった正室が居なかったので、秀吉は
自身の妹を嫁がせた。そして両名はいよいよ隔たりなく心も融けて、何事も朝夕語り合われた。

(豊鑑)

豊鑑より、小牧長久手の講和についての記事である。




スポンサーサイト


コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    これだからラスボスは怖い!

  2. 人間七七四年 | URL | -

    元主君一族を難癖付けて2回も攻めて皆殺しにした某狸親父よりはよっぽど大切にしてるのは事実

  3. 人間七七四年 | URL | -

    まさにラスボス、お腹の中は真っ黒

    でも

    「秀吉は信長の家臣でありながらその子信雄に従わず刃を研いだ。その罪は明らかである。また信雄が父の仇を討った秀吉を滅ぼそうとしたのは義ではない。」

    て書いてあるな、当時はこういう考えが主流だったのか

  4. 人間七七四年 | URL | -

    秀吉のは信雄に対する謀反で、秀頼は家康に対する謀反だから
    これを比較するのは不当だな。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ※2
    狸親父に従わないバカ息子とその母親が悪い

  6. 人間七七四年 | URL | -

    狸は別に猿の下で成り上がったわけじゃないから言うほどの義理はないよねぶっちゃけ

  7. 人間七七四年 | URL | -

    〉5

    おっと信康と築山殿の悪口はそこまでだ(違

  8. 人間七七四年 | URL | JPG8Eu66

    豊臣家は武家なのか公家なのか中途半端なんだよなあ。武家ならその棟梁である征夷大将軍に従わなけりゃいかんし、公家にしては武力を持ちすぎてる。

  9. 人間七七四年 | URL | -

    そもそも秀頼…つーか豊臣家がああなったのは、家康だけのせいじゃなく、既に言われてる通り秀頼たち、豊臣側にも非はあったし。

    まぁ豊臣の顛末の布石自体は、他でもない親父がばらまいてたと思うんだけど………ってこの流れは最近あったな(甲斐国の方角を見つめながら)

  10. 人間七七四年 | URL | -

    ※8
    もともとは秀吉が武家に代わるハクをつけたかった
    為にできた処置だからなあ

  11. 人間七七四年 | URL | -

    秀吉の計画的には新八幡=準皇族みたいな感じになる予定だったんだと思うよ
    失敗したが

  12. 人間七七四年 | URL | -

    豊臣家と徳川家の状況の違いも分からないのか・・・。
    元主君の息子を攻め滅ぼして、残った一族を次々に隷属させて、一族の複数の女性を側室にして、
    後の天下を治めた秀吉は何なんだろうか?

  13. 人間七七四年 | URL | -

    秀吉にせよ、家康にせよ後世の倫理感でバッサリやるのはなんだかなぁという感じ。

  14. 人間七七四年 | URL | 110ru34.

    ※13
    実際、秀吉公・家康公、それぞれの行いがあったからこそ、
    後の世の自分らは批評・改善が出来るわけですしな。

    ホント、先駆者はやるときも大変だし、やった後も大変ですなぁ・・・。

  15. 人間七七四年 | URL | -

    ※2
    方広寺の鍾銘事件は今では難癖とは考えられてないですよ
    むしろ豊臣方の非常識がクローズアップされてます

    昔は家康の難癖と言われてきましたが、研究が進んで色々変わりましたね
    私はこの件で、今までの常識がガラッと変わることの面白さを体験しました
    歴史っておもしろいなあと

  16. 人間七七四年 | URL | -

    ※15さん
    この辺りの豊臣家は行動の一々が何処か無理・無茶の類をしていると云う印象もありますね。
    もっと慎重に行動すればよいのに、火の無い所にわざわざ焚き火するような感がある。
    個人的感想ですが、結局そう言う所が「あの結果」に繋がったと思います。

  17. 人間七七四年 | URL | -

    秀吉は戦いで勝てないとみると交渉で勝ちを獲る。コレって家康が大阪冬の陣の終戦交渉で同じ事をやっているんだよなぁ

  18. 人間七七四年 | URL | -

    小牧長久手も言うほど秀吉不利ではなかったんじゃ?冬の陣も物量で押せてたし。
    バカとまではいかないが迂闊な所がないわけではない。天下人の諱割っちゃ駄目だろうな。
    秀吉が全て滅亡の種をばら蒔いたとも言えないと思う。織田家にも最低限のことはしたんじゃない?
    秀吉にしろ家康にしろ先頭切って色々やったから肯定にしろ否定にしろどっちも多いね。

  19. 人間七七四年 | URL | 3aXRcdxk

    武家は征夷大将軍に従うなんて慣習も法理も当時はないでしょ
    征夷大将軍になれるのは源氏だけなんてのも、誰が言い出したのか

  20. 人間七七四年 | URL | wZ.hFnaU

    ※19
    武士は「源姓」征夷大将軍に従うものだ、って観念は鎌倉後期には既に出来ていたよ。
    特に八幡太郎義家流が正当とされた。
    その観念に乗っかったのが足利尊氏であり新田義貞。

  21. 人間七七四年 | URL | -

    鎌倉時代、全ての武家は名目上鎌倉殿の家来になったわけで、
    その家来筋が主家の官位を襲うのは相当な抵抗があったんじゃないかな。
    かといって公家がなれるかというと、「武家のシンボルを取られた」となりかねない。

    尊氏にとって「血統的に(本来の)嫡流に近い」という事実が、
    鎌倉殿との主従関係の枠から飛び出す上で強いアドバンテージになったことは間違いない。
    「家来が主家の官位を継ぐ」より「分家が本家の官位を継ぐ」方が明らかに抵抗感が少ないもの。

    建前としては氏を問わず任官できるけれども、実行するのは難しかったんだろう。

  22. 人間七七四年 | URL | -

    実際、家康の秀頼への対応は怖いくらい秀吉をトレースしてるんだよなあ
    親の因果が子に報い、といえばちょっと聞こえよよすぎるか
    「秀吉が自分に従わなかった信長の息子になにをしたか」を考えれば、家康に従わなかったときにどうなるかはわかったと思うんだが
    いわゆる豊臣恩顧大名も、そういう秀吉のやり方を見ていたからこそさっさと豊臣を見限ったんだろうし
    信長に対しては思うところがあったぽい家康だけど、それはそれとして秀吉のやり方は気に入らなかったのかもしれん

  23. 人間七七四年 | URL | -

    ※22
    家康さんが秀吉さんの政治の手口に何らかの不満を持っていたのはあったとは思います。
    ですが、豊臣恩顧の大名衆が徳川家に付いたのは、よく言われている通り秀吉の失政に
    因るものだと思います。

    今まで散々尽くして来たのに、あっさりと身内や古参を死に追いやる姿は「何時か自分も」
    と、思い描いたのは簡単だったと思います。後は、当然秀頼が幼すぎた事からだと思います。
    秀吉死後、次の天下人は誰だと云う話が出る位ですから。
    こう言う部分は、当時の武士の現実感ある行動だと思っています。

コメントの投稿

(コメント編集・削除に必要)
(管理者にだけ表示を許可する)

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/9089-6fcb32e1
この記事へのトラックバック