632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 05:34:53.34 ID:wQAMMnfM
明智光秀による織田信長への逆心(本能寺の変)の時、徳川家康は穴山梅雪と共に、摂津国堺の浦に居られた。
そこで京都の様子を聞かれ、取るものもとりあえず、堺から直に大和路へと退避したが、大和では
筒井順慶が光秀に味方したとの風聞が有り、これを警戒した家康は、先に大和国と河内国の境である竹内峠
という場所から、大和の国人である布施左京に使いを出し、そのあたりの案内を頼んだ。
この使いに対し布施は
「只今はこのような情勢です。この行為が京都の光秀にどのように聞こえるか解っていますが、
我々は案内者を進上いたします。」
そう答えて、家老である吉川主馬之助と言う者を竹内峠まで派遣した。
この者の案内で、その道筋から直に東に向かった。同行する人数は、穴山梅雪の従者も含めて
三百人ほどであった。
竹内峠から二里半ほど東に行ったところに、屋木という場所があった。その東の町外れに、
天神山という小さな山があったが、その山陰から石原田という、当時の大和国の悪党が、五十人ばかりの
人数で出てくると、鬨の声を上げこの家康一向に向かって鉄砲5,6丁で撃ちかけてきた。
この事態に穴山梅雪はもちろん、家康も2,3町ほど引き下がった。
しかしここで、先の吉川主馬之助が真っ先に進み、この悪党どもを追い払った。これによって、そこを無事に
通行することが出来た。そこから東の山中まで送ると、吉川主馬之助はそこから帰っていった。
この時、この案内の褒美として、家康より長刀一振りが与えられた。
このあとは、家康はそこから十市に使いを出して案内を頼んだ、とも、また釜の口というところを通行した時、
そこの僧侶に案内を頼んだとも云われている。
そこから山伝いに伊賀路へと向かい、ついには三河に帰国されたという。
(私(筆者)が伝え聞いた大和の老翁の物語によると、この吉川主馬之助の在所である長尾村の八幡宮に
奉納された文書には、この案内の時、先ず鹿毛の馬を拝領し、二里半東の天神山を下り、道程にして
十里あまりの、伊賀との国境である琴引という場所まで案内したという。
そこから立ち返るため家康に暇乞いをすると、家康は大変上機嫌にて、長刀一振りを与えられ、そうして
帰ったという。その後、先の悪党である石原田を討ち取ったので、その首を布施殿から三河の家康のもとに
進上した所、家康より布施方へ、鷹二居、黄金十枚が贈られた。布施左京よりは返礼として、山田で作られた
尻繋(しりがい:馬の尾の下から後輪の四緒手につなげる緒)百掛が進上された)
(大和記)
大和国人布施氏が、いわゆる「神君伊賀越」を助けたというエピソードである。
明智光秀による織田信長への逆心(本能寺の変)の時、徳川家康は穴山梅雪と共に、摂津国堺の浦に居られた。
そこで京都の様子を聞かれ、取るものもとりあえず、堺から直に大和路へと退避したが、大和では
筒井順慶が光秀に味方したとの風聞が有り、これを警戒した家康は、先に大和国と河内国の境である竹内峠
という場所から、大和の国人である布施左京に使いを出し、そのあたりの案内を頼んだ。
この使いに対し布施は
「只今はこのような情勢です。この行為が京都の光秀にどのように聞こえるか解っていますが、
我々は案内者を進上いたします。」
そう答えて、家老である吉川主馬之助と言う者を竹内峠まで派遣した。
この者の案内で、その道筋から直に東に向かった。同行する人数は、穴山梅雪の従者も含めて
三百人ほどであった。
竹内峠から二里半ほど東に行ったところに、屋木という場所があった。その東の町外れに、
天神山という小さな山があったが、その山陰から石原田という、当時の大和国の悪党が、五十人ばかりの
人数で出てくると、鬨の声を上げこの家康一向に向かって鉄砲5,6丁で撃ちかけてきた。
この事態に穴山梅雪はもちろん、家康も2,3町ほど引き下がった。
しかしここで、先の吉川主馬之助が真っ先に進み、この悪党どもを追い払った。これによって、そこを無事に
通行することが出来た。そこから東の山中まで送ると、吉川主馬之助はそこから帰っていった。
この時、この案内の褒美として、家康より長刀一振りが与えられた。
このあとは、家康はそこから十市に使いを出して案内を頼んだ、とも、また釜の口というところを通行した時、
そこの僧侶に案内を頼んだとも云われている。
そこから山伝いに伊賀路へと向かい、ついには三河に帰国されたという。
(私(筆者)が伝え聞いた大和の老翁の物語によると、この吉川主馬之助の在所である長尾村の八幡宮に
奉納された文書には、この案内の時、先ず鹿毛の馬を拝領し、二里半東の天神山を下り、道程にして
十里あまりの、伊賀との国境である琴引という場所まで案内したという。
そこから立ち返るため家康に暇乞いをすると、家康は大変上機嫌にて、長刀一振りを与えられ、そうして
帰ったという。その後、先の悪党である石原田を討ち取ったので、その首を布施殿から三河の家康のもとに
進上した所、家康より布施方へ、鷹二居、黄金十枚が贈られた。布施左京よりは返礼として、山田で作られた
尻繋(しりがい:馬の尾の下から後輪の四緒手につなげる緒)百掛が進上された)
(大和記)
大和国人布施氏が、いわゆる「神君伊賀越」を助けたというエピソードである。
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コメント
人間七七四年 | URL | -
家康一行が300人程度って事が分かる貴重な史料だな。
( 2015年02月15日 21:58 )
人間七七四年 | URL | -
そんな布施氏も関ヶ原改易大阪陣滅亡コースなんだよな
( 2015年02月15日 22:14 )
人間七七四年 | URL | -
神君伊賀越で家康を助けたり関わったりした人の逸話多いな。
全部集めて並べると面白そうだ
( 2015年02月16日 11:11 )
人間七七四年 | URL | -
「ワシが
育てた助けた」( 2015年02月25日 06:30 )
大和 | URL | ZoOJnjHw
こういった伝記は貴重だ。
歴史というのは、為政者が都合よく作り変えるからな。
大和記は貴重な伝承であって、政権系の御用学者の説などより、よっぽど信頼できるな。
家康の伊賀越えは、地元の名族が助けたっていうのは事実だな。
( 2016年12月26日 20:23 [Edit] )
上島秀友 | URL | XIWPX4h2
『本能寺の変 神君伊賀越えの真相 ~家康は大和を越えた』
家康の大和越え説は、十分な史料も呈示されないまま広吉氏や久保氏によって否定され、以後、思考停止状態に陥っています。2月末に奈良新聞社から出版される拙書では、大和経由伊賀越えに関する史料を駆使したうえで、『石川忠総留書』ルートの虚を訐いています。多くの伊賀者由緒記が大和越えを示しています。例えば服部保次は大和を越えてきた家康を助けた功績で、鉄砲同心50人余を預けられていますが、『伊賀者大由緒記』の前に葬られてきました。このほかにも、大和越えを示す家康の書状なども黙殺されてきました。拙書を読んでいただけば、家康は、大和経由伊賀越えで伊勢に逃げたことが分かると思います。
( 2021年01月20日 22:53 [Edit] )
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