445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 00:31:24.52 ID:FByVptBU
天正八年(1580)7月、近衛殿、勧修寺殿の御扱いにて、大坂本願寺の門跡が、織田信長と和睦した。
大阪を退き、紀州の雑賀に移った。
本願寺門跡と信長との戦いは、元亀元年よりこの年まで11年に及び、大阪を堅固に守っていたが、
彼らは毛利輝元、武田信玄と志を通じ、荒木村重をして本願寺を救うと硬く約束していた。
しかし信玄は病死し、荒木も滅亡したため、この度降伏したのだと言われた。
同年8月、信長は門跡が退去した大阪に向かい、城内を見聞すると、その後一書を以って、
佐久間信盛・信栄父子に対し
『多年に及び兵を曝し、衆を労して功を成すこと無かった。急ぎ天王寺を出よ』
というような内容を仰せ付けた。御運も末に成るかのような仰せである。
信盛、信栄は陳謝することも出来ず熊野に籠居した。
世の人々は言った。信長公16歳の御時より、佐久間信盛が先陣を勤め、近年は信栄が大阪を硬く守った。
信長が強敵に向かう時には必ず、信盛の先鋒があった。
しかし織田信長という人には、臣下の功を嫉むことがあった。
また当時、織田配下の中で国持大名に為るべきは先ず信盛であったのに、この大阪の押さえという役割は
彼には不足であったため、心中勇まなかった。
こういう時に、いかなる讒言があったのだろうか、数年の忠功を捨てる事となり、口惜しき次第である、と。
保田久右衛門安政(佐久間安政)はエツタカ城を退き、紀州根来に引きこもった。
(佐久間軍記)
佐久間軍記より、佐久間信盛親子追放についての記事である。
天正八年(1580)7月、近衛殿、勧修寺殿の御扱いにて、大坂本願寺の門跡が、織田信長と和睦した。
大阪を退き、紀州の雑賀に移った。
本願寺門跡と信長との戦いは、元亀元年よりこの年まで11年に及び、大阪を堅固に守っていたが、
彼らは毛利輝元、武田信玄と志を通じ、荒木村重をして本願寺を救うと硬く約束していた。
しかし信玄は病死し、荒木も滅亡したため、この度降伏したのだと言われた。
同年8月、信長は門跡が退去した大阪に向かい、城内を見聞すると、その後一書を以って、
佐久間信盛・信栄父子に対し
『多年に及び兵を曝し、衆を労して功を成すこと無かった。急ぎ天王寺を出よ』
というような内容を仰せ付けた。御運も末に成るかのような仰せである。
信盛、信栄は陳謝することも出来ず熊野に籠居した。
世の人々は言った。信長公16歳の御時より、佐久間信盛が先陣を勤め、近年は信栄が大阪を硬く守った。
信長が強敵に向かう時には必ず、信盛の先鋒があった。
しかし織田信長という人には、臣下の功を嫉むことがあった。
また当時、織田配下の中で国持大名に為るべきは先ず信盛であったのに、この大阪の押さえという役割は
彼には不足であったため、心中勇まなかった。
こういう時に、いかなる讒言があったのだろうか、数年の忠功を捨てる事となり、口惜しき次第である、と。
保田久右衛門安政(佐久間安政)はエツタカ城を退き、紀州根来に引きこもった。
(佐久間軍記)
佐久間軍記より、佐久間信盛親子追放についての記事である。
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コメント
人間七七四年 | URL | ZPZR469g
「大阪の押さえという役割は彼には不足であったため、心中勇まなかった」
こんなこと考えてるから追放されるんだよ。
てか佐久間安政ってこの頃柴田勝家の寄騎やってなかったっけ?
( 2015年02月25日 19:25 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
信長が一番苦戦した本願寺の押さえる役が不足とは…
こいつのせいで天下統一遅れたんじゃね
( 2015年02月25日 19:41 )
人間七七四年 | URL | -
水野某「せっかくコレで御家再興できたのに奉公構え喰らったでごさる」
( 2015年02月25日 20:56 )
人間七七四年 | URL | -
エリアマネージャーを一店長に戻すような人事だし、嫌がるのも無理はない。しかも前任者が失敗したところに配置したわけだから、難しい仕事になるのは分かり切っているわけで。
ただ信長からしたら、「ここはお前にしか任せられない」という期待感を汲み取って欲しかったんだろうな、と思う。
( 2015年02月25日 21:02 )
人間七七四年 | URL | -
信盛は朝倉追撃戦で重臣たちが油断してて信長の攻撃について行けなかった時に
ぶちきれる信長に対して「でも、俺らほど優秀な家来はそうそう持てないぜ?」
みたいな口答えして火に油を注いだ、って話があるから
信長を子供の頃から支えてきたって立場に甘えてる部分があったんじゃないかな
( 2015年02月25日 21:19 )
人間七七四年 | URL | -
当時の信盛さんは家臣団でもかなりの領地を貰っていたから、信長さんにしても
もっと活躍して欲しかったのではないかな?
「期待してたのが、それほどでもなかった」が前面に出てしまったのかも。
( 2015年02月26日 15:12 )
人間七七四年 | URL | -
また当時、織田配下の中で国持大名に為るべきは先ず信盛であったのに、「信」の一字拝領という褒美は彼には不足であったため、心中勇まなかった。
羽柴秀吉「佐 久 間 信 信 殿 は 誠 に 果 報 者 で ご ざ る な」
( 2015年02月26日 18:56 )
人間七七四年 | URL | -
ろくでなしの息子の親が「お前の息子はろくでなし」だもひどいよなぁ
まぁ、あれは最初のほうかいたあとにだんだんエスカレートしていった気配があるがww
( 2015年02月26日 20:29 )
人間七七四年 | URL | -
かつて上洛に悩む信長を後押ししたのは、佐久間信盛だったんだがな…
( 2015年02月27日 03:44 )
人間七七四年 | URL | -
>佐久間軍記
推して知るべし
( 2015年02月27日 10:15 )
人間七七四年 | URL | -
※8
だから信雄も折檻状で非難して、伊賀征伐もう1度させてるじゃん。
信盛はリベンジマッチをしないのがダメなんだよ
( 2015年02月27日 18:25 )
人間七七四年 | URL | -
※11
信雄と全く状況が違うのにリベンジ出来る訳ないでしょうに。
息子が信忠配下に復帰したのだって許されたからでしょ。
( 2015年02月28日 14:12 )
人間七七四年 | URL | -
※12
信盛に折檻状が出された時点では高野山に行ってないし軍勢も持ってるよ。
( 2015年03月01日 17:08 )
人間七七四年 | URL | -
※13
有るか無いかじゃなく、して何の意味がある行為なのかって事でしょう。
折檻状出された時点で織田家家臣として終わってるも同義。
( 2015年03月03日 18:04 )
人間七七四年 | URL | -
挽回しないとねぇ
( 2017年10月20日 21:59 )
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