大友宗麟調伏事件

2015年03月08日 16:07

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/08(日) 07:55:30.98 ID:ZcJkqeU1
大友義鎮公の不行儀を、その御簾中(正妻)は深くお恨みになり、調伏させた事こそ愚かである。
国中の社僧山伏らをここかしこに集め、昼夜の境もなく祈ること夥しかった。
「いかなる祈祷であるのか」と、人々は皆不審しあった。

このことは深く忍んで行われていたが、ついに義鎮公の耳に入った。
義鎮公は大いに立腹し、「これに関わった者は一人残らず成敗せよ!」と仰せになったが、
吉岡三河守の詫び言により、国内からの追放となった。

その後、不審なことが起きた。義鎮公の姿が突然見えなくなったのである。
家中の者達が国中を探すと、府内間近のクコミ浦と言う場所で見つかった。
そこは大変粗末な柴の庵で、豊後の国主たるものが少しでも住むべき所とは見えなかった。
「このような場所に、お伴を一人も無い軽々しい有り様、一体どういうことですか!?」
と申し上げると、

「それがな、紅葉の景色に惹かれて、心ならずも浮かれ出でたのだ。
府内には思う仔細がある。上ノ原に御座所を移すように。」
そう仰せ下した。

これに重臣である戸次伯耆守(道雪)、臼杵越中守、斉藤兵部少輔を始め、ご一門中その他は話し合ったが、
「確かにお心をはかられての事なのだろうが、上ノ原の普請と言っても、あの場所は御屋形様が
御座を移されるべき場所ではない。どうにかして府内に帰っていただかなければ。」
そうまとまり、様々に申し上げたが、義鎮は同心せず、上ノ原に滞在した。しかしそこは探題御座所では
なかったので、臼杵丹生島に移られた。

その後、義鎮公は御髪を下ろさせられ、宗麟公と名を変えられた。
御一門の老中も思い思いに法体となった。
宗麟公は御患いのようであったが、様々な御養生にて本復し、その後府内へと帰られた。

(大友記)

大友宗麟調伏事件とその出家に関する記事である。




スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメント編集・削除に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)

    トラックバック

    この記事のトラックバックURL
    http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/9132-3a2a2f39
    この記事へのトラックバック