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御朱印を取らなかった訳

2015年04月16日 17:53

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/15(水) 22:46:08.85 ID:vxDRLaV5
天分15年7月21日、武田晴信は山本勘助を召して、足軽を新たに50付け、始めの足軽と合わせて75人、
知行も五百貫加増し、始めの三百貫と合わせて八百貫となった。
この事を報告するため、勘助は少しの間暇をいただき、駿河の今川家、庵原殿の元に参った。
かつて抱え置かれたことのお礼を申し上げた上

「晴信公が私を甲州に召される時、百貫の約束をされた事に、庵原殿はご異見として、
晴信公から約束を書いた御朱印を取った上で甲州に行くべきだとおっしゃいました。
私はそれに背き、あの時、朱印は取らないと申しました。

その理由として、私はちんばで、片目で、色黒く、醜男で、しかも無人前でありましたから、
いざ対面すれば、このような者に百貫の知行は過ぎたものだと思われかねず、実際に知行を
下されない事態になれば、私が他国に走り、晴信公は虚言を仰る屋形であると言われないように
打ち殺すであろうから、御朱印は取らないのだ、と申しました。
しかしそれは、皆偽りだったのです。

あの時私は、御朱印を取って参れば、私をどのように評価されても百貫限りと考えられ、
加恩を頂くことが出来なくなると考えたのです。私は晴信公を、日本の若手の中でも名大将に
なられるべき屋形だと思っていたので、御朱印を取らずに参りました。

私が召されたことへの御礼を申し上げると、晴信公はその場で、二百貫の書き出しを下されました。
その上で

『勘助が醜男であるのに諸人にその名を呼ばれているの。それは何か良きことの証拠があるからこそ、
名も高いのであろう。名高きものが無手である事はない。』

と仰せに成りました。当時23歳で、これほどの大将はどこの国にも稀です。
そして今や、私が召し出される前に考えていたように、政道賢き名大将になられました。

名将は必ず、人の取りなしにも男ぶりにも構われず、武士道の武略知略の侍を第一として、馳走し
崇敬なされる物でありますから、私も晴信公の御意に是非とも取り入り申すべきと、兼ねて覚悟した如く
仕り、今まで4年間の手柄によって、八百貫の知行を拝領いたしました。」

と、申した。彼は5日間駿府に逗留し、甲府へと帰った。
駿府においては、それまで山本勘助を褒めるものは誰も居なかったが、以後は褒め称えられるように成ったという。

(甲陽軍鑑)



850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/20(月) 08:37:54.93 ID:a9WdlWE3
>>834
勘助の男ぶりが?悪いことが逆にいい印象を与えたのかもね

852 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/04/20(月) 19:35:39.87 ID:6JTcovex
すごい醜男として有名だったとは考えなかったのだろうか

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    庵原…勘助…。この並びはまさか!?

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ※1
    なっ、なんだよう
    思わせぶりな書き方しないで
    ハッキリ言ってくれよう

  3. 人間七七四年 | URL | -

    武sy・・・・・・

  4. 人間七七四年 | URL | -

    ますます身震いがするのお!

    ・・・の方じゃなくて
    この話の庵原殿は、オヤジの方かとw

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    やっぱりそれを思い出すよねw

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