政宗を処罰しなかった訳

2015年04月28日 18:43

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/27(月) 19:32:27.14 ID:oukf12pX
奥州仕置により東北の諸乱が鎮定されると、豊臣秀吉伊達政宗の本領のうち、長井郡の上下、
奥州の田村、塩松、伊達、信夫、苅田、米沢、合わせて七郡を蒲生氏郷に与えた。
この加増で、それまでの会津30万石にをあわせ、都合百万石となった。

伊達政宗は本領の内を氏郷が拝領したことに大いに遺恨に思い、伊達、信夫、苅田、塩松の諸所で
一揆を起こすことを企み、既に蜂起する、というところで、政宗の小姓である山戸田八兵衛、
手越内膳という者達が。政宗に深い恨みがあって氏郷の所に逃げ込み、この政宗の企みを知らせた。

これを氏郷が糾明したところ、両人の申す通りに一揆の企てが進行していたことが歴然であったため、
一揆に参加していると見える者達を尽く踏み殺した、これによって氏郷の領内は静謐と成った。
しかしこの事で、政宗に対し仰せ付けがないのはいかがな事かと、下々まで噂しあっていた。

朝鮮征伐の時期、九州の名護屋陣中にて、施薬院全宗が秀吉に、政宗を取り成し朝鮮征伐で貢献することを
申し上げたが、それがあまりに結構に申しすぎたため、秀吉の耳に障り、こう申し下した

「政宗の事は、先年逆意を企て蒲生氏郷を討とうと策を巡らすこと度々であった。しかし氏郷は大剛の者で
あったので、うまく行かず討つことは出来なかった。
その頃、わしは政宗に切腹を申し付けようと思ったが、島津や安芸の毛利、景勝、佐竹を始め、その他
遠国の侍共が、伊達を処分するとなにかと気を回しかねないと考えたため、容赦して差し置いてやったのだ。
そうだというのに、どうして政宗になど頼るだろうか?只今の申し様沙汰の限りの不届きである!
引っ立てよ!」

そう言って施薬院全宗を追い立てた。

蒲生氏郷記)




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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    >島津や安芸の毛利、景勝、佐竹を始め、

    これは「外様大名を処分すると、他の外様大名が不安がる」という意味なんだろうけど
    上杉や佐竹はどちらかというと喜びそうな。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    合わせて読みたい話
    ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8350.html

  3. 人間七七四年 | URL | -

    まあ政宗とり潰しても旧領で一揆とかめんどくさいことになりそう

  4. 人間七七四年 | URL | -

    米1さんが仰る通り、ある程度の大禄を持っている外様大名達に動揺が広がる
    事を危惧したのだと思います。
    それと東北勢の血筋の複雑さも影響しているのではないでしょうか?
    あの地域の繋がりは、専門家でも難しいですから。

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