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床の間の掛軸の歴史。および八重むぐらの色紙の事

2015年05月18日 18:22

千利休   
31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/17(日) 19:52:46.25 ID:5mtJsH7g
近世では、僧俗ともに床の間と呼ぶ書院座敷には、必ず書画などの掛け物を掛けるが、これは古には、
押板といって禅室に始まった。
京鎌倉において、臨済宗を崇敬している人々が、和尚に頼み本則を書いてもらうことを乞い、和尚は
一千七百則の要文を二三五字で書いて出した。これを押板に貼り付けて壁に掛けたのを、掛け字と呼び、
その字の心より悟入の工夫をしたのである。

禅室に入るには、睡眠を第一に戒められたため、眠気をもたらさないため芳名香茶を飲んで参禅したため、
自然と茶の一道が起こった。その後、征夷大将軍であった足利尊氏が禅学を尊んだため、
茶のことも徐々に盛んとなり、佐々木道誉、高師泰などが茶に耽って、掛け字も異国に求めた。
虚道の墨跡はこの時から世の中で賞翫され、天下第一の墨跡と成った。
後醍醐帝も茶を翫び、吉野山にて茶器を作らせられたのが、金輪寺の茶入れである。
虚堂を掛ける時に、必ず金輪寺の茶入れを置くようにするのは、一伝のあることなのだとか。

また、床の間に絵を掛ける習慣は、将軍足利義政より始まったことである、
当時は皆、唐宋の名画を用いた。馬遠玉子昴舜挙東坡などの類である。
日本の書画を初めて用いたのは、三好左京大夫(義継)が将軍義輝の御成の時に、新たに
狩野元信に書かせたものだという。
その後、阿倍仲麻呂の、小倉百人一首にある天の原の歌を色紙にしたものを掛けたところ、
人々大いに賞賛した。これが本朝の墨跡を用いるものの始まりだという。
これ以後、好事家の人々は藤原定家の小倉百人一首の色紙を、千金に変えて賞翫するようになった。

松永久秀は八重むぐらの色紙を所持し、これを「茂るの宿」と号し秘蔵していた。
これを所望する人々は多かったが、誰にも与えなかった。
ところが、千利休の茶道に掛ける志を久秀が感じて、彼に与えた。
これは利休の秘蔵第一の品とされていた。

その頃、大徳寺高月和尚の老父で、宗及という人が居て、この色紙をかねてから執心していたが、
利休はそのことを少しも知らず、ある時、かの茂の宿を掛けて宗及を招いて一服を進めた。
宗及が茶室に入ってこの掛け物を見ると大いに驚き、気鬱のあまり茶を飲むことも出来ず、
そのまま自分の家に帰って嘆き臥した。

その理由を利休は聞いて哀れに思い、翌日、色紙を手ずから持参し宗及に取り伝えたという。
やさしき心である。
(明良洪範)




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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    茶室の空気が物凄かったんだろうな

  2. 人間七七四年 | URL | -

    織部「そ、そこの掛け軸と花入れをいただければ、よくなるかも」
    利休「修行が足りません」

  3. 人間七七四年 | URL | -

    ラスボス「余に味方した褒美に小倉色紙を貰ってやろう」
    宇都宮「」

  4. 人間七七四年 | URL | -

    コーヒーも元々イスラムの坊さんがお勤めするときに、寝ないように飲んだと言う話がある。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    「やえむぐら」って枕詞なのかと思ってたら
    雑草なんかが蔓延ってる様って意味だったのね
    いやー無知って怖いわ

  6. 人間七七四年 | URL | -

    このスレで初めて弾正さんのいい話を聞いた気がするのですが

  7. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    そしてそれを恋を忘れた哀れな男に伝えたという説がある。

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