今日の酌に

2015年05月21日 18:24

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 20:41:53.01 ID:n4nOaZ3m
天正16年正月20日、黒田孝高(官兵衛)は、豊臣秀吉より浅野長政、加藤清正、小西行長ら2万の兵と共に、
肥後国人一揆に苦しむ佐々成政の元へ援軍として向かうことを命ぜられ、2月に肥後へと向かった。

この時、城井中務(鎮房)は、最前まで敵となっており、その上所々に放火し、乱暴狼藉をした存在で
あったため、そのままに差し置き難い存在であった。
彼は一旦の難を逃れるために降参したと言っても、城井谷の城から澤田の邸宅まで、猶も要害を構え
野心を秘めているとの噂も聞こえていた。必ず国の仇と成るべき者であった。
黒田孝高は出陣にあたり、城井に対して必ず油断無いよう言い置いて出発した。

ところが、孝高が出発したあと、城井中務は案内もなく、手勢200ばかり連れて、黒田長政への一礼の為と
言って、不意に中津城へとやって来たのである。

長政はこれを聞いて「誠に一礼のためなら、父子同じく在城の時、日限をうかがった上で、
小勢にて参上すべきであるのに、案内もなく俄に押しかけ来ること、ますます無礼の至である!

もし見目の時に至って、猶も無礼の体であれば即座に誅殺すべし!」そう決定した。

その時、中津城内に居合わせていたのは、武士17人、足軽中元もようやく100人程度であった。

さて、この日の城井への酌をするのに、吉田又助が出ることを命ぜられた。
「いよいよ城井を誅する時は、盃をさした時、肴を乞う。その時に、後藤太郎助(後藤又兵衛長男)が
肴を持ち出て、一の太刀を打つ。私(長政)は二の太刀を打つ」と定められた。

吉田又助はこの時17歳であったが、長政に申し上げた
「今日の酌を仰せ付けられたこと、誠に身の面目と存じます。しかし私は今年、日向での合戦の折
左の膝口を斬られ、命はようやく助かりましたが、陣中でもあったので血を止める暇もなく、
多量に出血したため、体力が弱ってしまいました。

いまは少々歩行が出来るほどに回復しましたが、なおも足腰弱く、手の力も未だに戻っていません。
大事のご奉公を辞退するのは残念ですが、もし御用に立たなければ御為悪しき事になります。
ですので、体の達者なものに仰せ付けられるのが然るべきかと存じます。」

長政はこれを聞いたが
「お前が未だ、体力が戻っていないこと、良くわかっている。しかし今日の酌に、手足のつよきことは
さほど要らぬ。ただ、冷静で動揺しないことが必要なのだ。
酌はお前がするように。」

そう仰せ下したため、又助も重ねて辞退には及ばなかった。
(黒田家譜)


黒田長政による、城井鎮房謀殺に至るまでの記事である。



813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 21:24:42.94 ID:3cTIxd0j
史記の「刺客列伝」中の専諸と荊軻の話の対比を思わせるな
決行の時まで平常通り冷静で居た専諸は暗殺に成功したけど
介添え人が動揺して不審がられた荊軻は暗殺に失敗したんだよね

怪我をした人を採用したのも相手を油断させるためなのかも

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/20(水) 22:46:44.53 ID:IH69DQB2
荊軻は相棒が高漸離とかだったら結果も変わったかねぇ

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    話がつながって感動した。

    吉田又助って吉田六郎太夫の息子だろう。
    以前、又助の逸話で、秀吉の九州征伐で、初陣を遂げ、薩摩武士に膝を割られながらも首取ったというのがあった。
    そのとき六郎太夫が声援を送ってくれて、首を取った帰り道には六郎太夫の馬に乗せてもらって、ほめられてかえってきたという戦国ほのぼの殺伐系の話。
    又助の膝の怪我はこのときのだな!

    六郎太夫はフライング首供養の人で上の九州征伐の逸話でも親父無双で落ちまで付ける豪の者。

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