北野大茶会の事

2015年06月21日 14:10

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/21(日) 09:47:21.54 ID:nTQPsGUx
天正16年の秋の末(実際には、天正15年10月1日)、豊臣秀吉は北野の社において大茶会ということをされた。
秀吉はもとより茶の湯を好み、宇治の里の茶を貴び、唐の壺の形の良い物を賞翫していた。

その頃、その道に名のある千宗易(利休)といって、和泉国堺の物頭が出頭し時めき、彼にその道を学ぶ者
数を知れなかった。
上の好むことに下が従うのは世の習いであるから、その様は言わずと知るべきであろう。

北野の御社をめぐる馬場の左右、松の木の下、梅の木陰、岩の狭間、千尋の陰などに、茶屋を作るべき
場所を計らい、茶の志ある人々に与えて、それぞれの工夫に従い茶屋を作った。
あるいは茅葺きに柴の垣して縄のすだれ、竹の網戸、あるいは苫葺きに檜垣して渡し、あるいは
蘆葺きに葦の垣、或いは篠葺き、様々にしつらえ、岩を鼎にして藁のむしろを敷き、松の下枝より
縄をおろして、茶釜を作った上、瓶を割って水をたたえ、藁札を敷くなど、それぞれの心々のいとなみ、
言の葉に表してしまえばその多くを漏らしてしまう。

彼らは、伝持してきた墨跡、花瓶、茶壺、花入れ、水挿し、茶碗、茶杓、様々な茶の器物、唐物大和の
値高き物ども、ことのき面々取り出し、この会のためにと出してきた。
これはかねてから企画し世に宣伝された会であったので、遠き国のものまで、この道に心傾ける者は
我も我もと上り集い、おおよそ千人余りと成った。

秀吉は拝殿を屏風で囲い、その頃収集した茶の器物を取り出し、その道に長ぜる者5人にて、
5ヶ所に座を構えて、今回この会に参加した輩、6,7人ずつ組にして、残らず茶を飲ませた。

その間に秀吉は作り並べた人々の茶屋などを見まわった。経堂の傍らに、地ぶきの茶屋を構え、
松かさを燻べ、炭窯ように煙の立ち上っている所があった。
この前まで行って見ると、亭主は50ばかりの法師で、さすがこの道の数寄と見える人物であった。
「茶はあるか?」と尋ねると、「持たぬ」とふくべに麦こがしを入れて、松の枝に掛けてあったのを
取り出し献ずると、秀吉も非常に感じ入った。

秀吉は終日このように茶屋を見て廻り、酉の刻(午後6時頃)聚楽に帰って行くと、集った人々も、
日数をかけて心を尽くし、巧みにこしらえた茶屋などを皆取り払って元のように戻し、退散した。

この会は後々まで人の口ずさみに先ず出てくる話題であった。
(豊鑑)


豊鑑より、北野大茶会に関する記事である。




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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    丿貫さんとはまた違うご主人か

  2. 人間七七四年 | URL | -

    >「茶はあるか?」と尋ねると、「持たぬ」
    まだまともな秀吉相手で良かった

  3. 人間七七四年 | URL | -

    去年の秋に仕事で京都行ったついでに参拝してきた<北野天満宮
    偶然だったが宝物殿開いてて加藤清正が奉納した鏡とか最上さんちの鬼切安綱が展示されてたの見てきた
    境内の松向軒(三斎様ゆかりの茶室)では茶会やってて覗けなくて残念

  4. 人間七七四年 | URL | -

    某ゲヒのツリーハウス&そのオチが頭から離れない。www
    まあ、「この物語はフィクションにて候」なんだろうけどさ。

  5. 名無しさん | URL | -

    松かさを燻べ…って何してるのかと思えば、
    まつぼっくりは松脂が含まれてるから着火剤として使えるのな。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    きたのまさる茶会

  7. 人間七七四年 | URL | -

    10日間やるっていったのに1日しかやらなかったから
    せっかく地方から来たのに参加できなかった人って多かっただろうなあ
    今みたいに中止のお知らせが地方に届くわけ無いしw

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