示現流と家久公の奥方

2015年06月29日 14:05

亀寿姫   
255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/28(日) 23:04:54.18 ID:2+qsOagc
示現流と家久公の奥方

 現在は鹿児島県民以外でも学ぶ事の出来る示現流兵法。但し、女性の入門は受け付けていないそうで、戦前は東郷宗家の女性でも稽古を拝見する事も出来なかったそうです。

 が、かつて島津家久(彼と島津斉興だけが、示現流で免許皆伝に相当する四段の段位を授けられたそうです)の奥方が示現流を修行し二段まで習得。
 殿方が城を出た後の城を守る為の心得として、示現流の小太刀の技や他流の薙刀の技などを奥向きの侍女や奥女中にも習わせたそうです。

 数年前、示現流史料館で説明役の御婦人が詳しくお話ししてくださり、「鹿児島の古武道」という昭和61年に先々代の御宗家が講演された時の史料も(写しを)拝見したのですが…。

 この史料にも「奥方」というだけで、実名の記載はなかったと記憶しているのですが、これはやはり正室であり嫡女であった亀寿なのでしょうね。

 江戸中期に記された久保之英の「示現流聞書喫緊録」によると、昔の門弟は両度(七つの段位で下から二番目の段位。鑓留を含む)なら本当に槍を止める事が出来たが、今は三~四段でも本当は鑓留が出来ないと嘆いているので、夫婦ともに本当に強かったのでしょう。

 ……この「奥方」が本当に亀寿だとして、本当に「殿方の留守」を守る為に武芸を修めて……いえ、何でもありません。



260 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/07/01(水) 00:10:53.27 ID:/gYb3G0s
亀寿が示現流を修行したのは自分が島津本家の家督を決定する権限もしくは拒否権を有していたから
責任がある身の上なのでかも。(桐野作人先生の講演会で亀寿が家督を決定する権限を持っていたと
おっしゃってました)
この話を読んだら、前に個人の人のサイトで見た義久が国分城を作ったのは「亀寿を守るため」ではいう仮説を
言ってましたが、なんとなく納得できるかも。
その前に住んでいた富隈城にくらべて格段に国分城のほうが防御力があるもの。
(富隈城も国分城も館作りの平城ですが、国分城は後詰めの城「隼人城」があります
この隼人城は隼人の反乱の時に使われた’曽於乃岩城’(そおのいわき)という説が
あり篭城するのに向いています)
義久が国分城下は京都風の碁盤の目をしき、明より商人を招いて「唐人町」を作るなど国分城下の町を太平の世向けに整備したのに、
城をこんな感じ(戦国の世向け)に作ったのは自分が亡くなった後亀寿の「拠り所」を用意したのかな…

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 00:45:02.67 ID:FXoHaFYy
戦国屈指の名将、島津義弘の息子なのに何であんなに陰険で屈折してるのか
毛利元就の息子とかなら納得出来るのだが…

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 00:57:27.51 ID:RrEm5voZ
子は親を写す鏡
義弘の本性がじつは陰険だったのさ

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 01:09:26.25 ID:tjIhPMHR
子は親を写す鏡
貴久の本性もじつは陰険だったのであろう

264 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/07/01(水) 01:09:38.74 ID:/gYb3G0s
別に子供が親に似る場合ばかりではないと
思うけどね。悪久の場合は、伯父と父と兄への
コンプレックスと自分が権限を持っていない
ことの苛立ちのせいでしょね。
子供が親に必ず似るのだったら宇喜田さん家
はどうですかね?

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 01:21:00.86 ID:i7nOamuV
土井利勝「むしろ子が親に似てないことの方が多いよな」
豊臣秀頼「せやな」

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    一応でいいからどっちの家久ってのは書いてくんないかね
    島津ファンなら尚の事

  2. 人間七七四年 | URL | -

    示現流の話だから、悪の方だとはわかるけど
    書き分けてほしいですよね。
    (悪久は家久とは書きたくない派です)

  3. 人間七七四年 | URL | -

    「示現流と悪久公の奥方」

    ↑うん、違和感もなければ、間違いもない、なんの問題もないな(真顔)

    しかし亀寿さんも、ギン千代さんと同じ武闘派姫様だったとは…

  4. 人間七七四年 | URL | -

    ※3
    当主の一粒種で婿養子を迎えた点でも一緒、
    夫婦仲がアレで別居状態だったのも一緒。

    旦那が聖人かゲスかで人生大違いやね。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    どう考えても奥方は
    返り討ちにするために強くなったんだよな・・・
    (誰をって? そんなん知らんわからん)

  6. 人間七七四年 | URL | -

    島津庶流の樺山幸久の肖像画は、日新斎の次女と一緒に書かれてるけど、座り位置の高さが全く同じで、島津宗家の女性は嫁いでも権勢は維持されたらしいとのこと

    亀寿は島津家の当主に代々受け継がれる御重物を悪久に譲渡せず、ずっと自分で所有してたけど、悪久云々じゃなく、久保に嫁いだ際も譲渡していない可能性もあって、自分が義久の後継という意識が高かったから剣術にも熱心だったのでは?

    ・・・というマジレスはダメ?

  7. ※6 | URL | -

    書いてから気付いたけど、久保に御重物渡す訳なかった・・・久保亡くなった時、まだ義久現役だし・・・

  8. 人間七七四年 | URL | -

    桐野作人先生の書いた「さつま人国誌」の「再考 島津義久3女・亀寿の地位」には
    ttp://373news.com/_bunka/jikokushi/kiji.php?storyid=4548
    「国分様(亀寿)御儀は、(中略)中納言様(島津家久)御廉中様にて、御本家御相続遊ばされ候」
    (「末川家文書」の中の「口上覚留」)
    とあります。

    >忠恒は息子の虎寿丸が亀寿の養子になったことを「国分(亀寿)の御子として当家相続においては、龍伯様(義久)御一筋いよいよ別儀なく候」と述べて、亀寿の決断により、義久の血統がつづくことを喜んでいる(「旧記雑録後編四」一三五二号)。これは同時に、忠恒には家督相続を決定する資格がなかったことも示している。
     亀寿は太守・義久の血統=「龍伯様御一筋」をみずから継承し、それを後世に伝える役割を担っていたといえよう。それによって、夫・忠恒の当主としての地位も担保されるとともに、最終的に島津本家の家督を決定する権限もしくは拒否権を有していたのではないだろうか。

  9. 人間七七四年 | URL | -

    悪久さんの元からの性格もあったかもしれませんが、夫婦仲に関しては
    こう云うエピの数々読むだけでも、多少也とも同情の余地はあると感じる。
    流石にあそこまで行くのはどうかとは思うけどね。

  10. 人間七七四年 | URL | -

    >>261
    元就はたしかに腹黒やけど
    別に陰険でも性悪でもないやろ 悪久とは全然キャラ違うで

  11. 人間七七四年 | URL | -

    義弘は
    陰険でも何でもない
    陰険呼ばわりするのこそ陰険

  12. 人間七七四年 | URL | -

    TERU 「そうだおぅ。毛利は文武両道に長けて、有能な人材の宝庫だったおぅ。島津とは、違うおぅ。」

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