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筒井順慶、『洞ヶ峠』・いい話?

2009年01月10日 16:02

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 18:03:39 ID:xaY/22g2

では、筒井順慶繋がりで例の『洞ヶ峠』の話を

筒井順慶と言えば洞ヶ峠、洞ヶ峠といえば日和見、日和見といえば小早川秀秋とAID(ryという位
慣用句として成立してしまう逸話であるが、実際のところ筒井順慶は
洞ヶ峠で山崎合戦の帰趨を見守っていたというのは偽りである。

1582年(天正十年)6月、信長を本能寺に襲い煉獄へと葬り去った明智光秀は
直ちに朝廷へ奏上を行い、6月4日に征夷大将軍職を拝命。
直ぐ様に畿内の諸大名達へ帰属を呼び掛けるが、寄って来たのは武田元明やら
京極高次やら阿閉貞征・後藤定豊とか旧世代ばかりが集り、
女婿の細川忠興、寄騎大名であり大和での勢力伸展の後楯となった
筒井順慶といった期待の大物からは支援を受けられずにいた。

細川藤孝は織田信長追悼の意味も篭めて剃髪、幽斎と号して光秀と敵対するが
順慶の態度は煮え切らない。最初は光秀に従うと見えたが秀吉が大返しで戻って来ていると
聞いた瞬間、篭城を決意。

筒井順慶>>こりゃ、どっちが勝つか判らないね。日和見日和見。(=ヮ=,,)~゜

居城の大和郡山城に兵糧を運び込んだのが6月9日。秀吉急展開の報を聞いた光秀は、軍勢を率いて
洞ヶ峠まで筒井順慶を 迎えに行く が、順慶は篭城を決め込み出てこない。

結局光秀は山崎天王山で敗北し、帰趨が決定的になった順慶は秀吉に使者を出し、帰順を申し出た。

日和見を決め込んだのは間違い無いが、この手の表裏比興は戦国の常、なのに
なぜ順慶だけ悪い様に言われるのか?

実は、『増補筒井家記』という順慶の子孫が書いた本が原因。これを書いた子孫は
『俺達のスーパーヒーロー筒井順慶が篭城で日和見しただなんて後世に聞こえが悪い、
ならば山崎の合戦、乗るか反るかの天王山で順慶が活躍したことにしよう!!』と
勝手に御先祖様の行動を捏造してしまったらしい。その結果が今日の慣用句な有様だ。

そんな、筒井順慶の末裔が良かれと思ってやった気遣いと、筒井順慶には良い(迷惑な)話。



901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 18:04:56 ID:tzpcoh1q
>>890
悪い話なら、「洞が峠を決め込む」の逸話やな。
もっとも、洞が峠にいたのは順慶じゃなくて光秀やけど。


902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 18:09:02 ID:tzpcoh1q
>>900
スマンかぶった。
ちなみに順慶の日和見ぶりは興福寺の僧侶の日記(多聞院日記)に記載されている。
明智に援軍送ったり引っこめたり、明智の使者を追い返したり呼び戻したり…


903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 19:06:14 ID:aVnDLVYC
関ヶ原ではそういう中途半端な事でお茶を濁した大名は改易になってるな。
増田長盛や佐竹義宣など。

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 19:08:18 ID:Ci2a+bBX
>>902
筒井順慶の日和見力は向背常無き乱世の定めだからまだしも、倅もだめぽだったような・・

そういや大和や紀伊など近畿南方は寺社勢力と百姓(農民限定じゃなくて民草の意)がやたら強くて
武家・中央政権の統制もなかなか難しかったらしいね。
信長に京を追い出された将軍義昭がへろっと逃げ込んでいたりするし <毛利氏に保護される前
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