80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 09:08:53.43 ID:S4HvM1GE
面白そうなスレだ……
天正十四年 豊臣秀吉の九州征伐が始まると信種は娘を逃し、自身は居城の高祖城籠城を決める。
しかし小早川隆景の軍に囲まれ、黒田官兵衛の降伏勧告を受諾。信種は秀吉の前に引き出された。
秀吉「僕に楯突くなんて中々やるじゃん。それで君の領地はどこだったかなぁ?」
信種(これはチャンス。過小報告すれば全部の領地を取り上げられずに済むぞ)「私は伊都のみを治めているものでございます」
信種の言葉を聞くと秀吉は急に恐ろしい顔つきになり、こういった。
秀吉「お前は嘘つきだ。事前調査でお前の領地は全て把握している。この場で嘘をつくなど、人の上に立つ器ではない」
信種は一言の失言により全ての領地を没収され、佐々成政の配下に組み込まれてしまった。
秀吉に嘘をつき、それが即バレした事が記録に残ってるおそらく唯一の人。
佐々が懲罰で切腹した後は、後釜の加藤清正配下となる。
朝鮮出兵の際は、清正に付き従い朝鮮へ従軍したが、名護屋城に信種をしたって五百人余りの旧臣が集結し、そのまま朝鮮へ帯同したという。
しかし帰国後、次代の原田嘉種が清正と対立し追放されてしまう。
原田家は次に寺沢広高の配下となった。
島原の乱の際は富岡城に立て篭り、城代が戦死すると、代わりに指揮を取り富岡城を守りぬく。
が、島原の乱の責任で寺沢も改易。
にっちもさっちも行かなくなった原田は江戸に出て天海に窮状を相談すると……
天海「原田が豊臣に反抗したのは、徳川に尽くしたのと同義だ」
そう言葉をいただき、会津の保科正之を紹介されその配下となった。
漢の霊帝を祖先と公称し、元寇で功を上げ、朝鮮出兵にも胎動した生粋の九州人が、
一言の過ちで秀吉の怒りを買い、ついには故郷を去ることになった顛末。
481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 09:11:44.02 ID:S4HvM1GE
戦国時代ではないが、それから数百年後……
慶応四年の幕末の戊辰戦争時、上は松平容保から下は兵卒の女房子供まで抱えて、会津藩は籠城戦を行った。
その中には原田氏の子孫、原田対馬がいて、彼はその優秀さから籠城戦突入時に家老にまで引き上げられていた。
戊辰戦争の会津の悲惨さは白虎隊などで伝えられている通りであるが、
実はそれ以上の悲劇が、籠城した城内で起こる寸前だった。
急な籠城戦になったため、食料の備蓄が足りなくなっていたのだが、
この解決方法を下問された家老が、口減らしのために
一緒に立てこもっていた婦女子全員を斬首することを提案し、あわやこれが実行寸前にまでなる。
その時、敢然と異を唱えたのが原田対馬であった。
原田の反対もあり婦女子の斬首は取りやめとなり、その後すぐに会津は降伏した。
なんとなく後の戦陣訓ってこの辺の東北の風土から出た気がするのと、
九州人は生きる事に意地汚いというお話し。
……というよりも原田氏からすれば、たかだか一度の籠城戦に敗れた程度で
死のう死のう団になる東北人が理解できなかったのかもしれない。
戦国時代までは悪い話だけれど、数百年後に会津の婦女子を救う、原田氏のいい話。
482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 09:14:06.86 ID:S4HvM1GE
あ、前半の出典は糸島戦国史と糸島伝説集です。
483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 09:52:34.57 ID:FR9tdf2C
いきなり信種と書かれても困っちゃうのう
ちゃんと原田信種と書いて欲しかったわさ
484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 10:51:37.45 ID:pqHJNuIX
いや、分かるだろ
485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 12:46:39.59 ID:tzOLS/j8
浅利信種「…俺の知名度って」
面白そうなスレだ……
天正十四年 豊臣秀吉の九州征伐が始まると信種は娘を逃し、自身は居城の高祖城籠城を決める。
しかし小早川隆景の軍に囲まれ、黒田官兵衛の降伏勧告を受諾。信種は秀吉の前に引き出された。
秀吉「僕に楯突くなんて中々やるじゃん。それで君の領地はどこだったかなぁ?」
信種(これはチャンス。過小報告すれば全部の領地を取り上げられずに済むぞ)「私は伊都のみを治めているものでございます」
信種の言葉を聞くと秀吉は急に恐ろしい顔つきになり、こういった。
秀吉「お前は嘘つきだ。事前調査でお前の領地は全て把握している。この場で嘘をつくなど、人の上に立つ器ではない」
信種は一言の失言により全ての領地を没収され、佐々成政の配下に組み込まれてしまった。
秀吉に嘘をつき、それが即バレした事が記録に残ってるおそらく唯一の人。
佐々が懲罰で切腹した後は、後釜の加藤清正配下となる。
朝鮮出兵の際は、清正に付き従い朝鮮へ従軍したが、名護屋城に信種をしたって五百人余りの旧臣が集結し、そのまま朝鮮へ帯同したという。
しかし帰国後、次代の原田嘉種が清正と対立し追放されてしまう。
原田家は次に寺沢広高の配下となった。
島原の乱の際は富岡城に立て篭り、城代が戦死すると、代わりに指揮を取り富岡城を守りぬく。
が、島原の乱の責任で寺沢も改易。
にっちもさっちも行かなくなった原田は江戸に出て天海に窮状を相談すると……
天海「原田が豊臣に反抗したのは、徳川に尽くしたのと同義だ」
そう言葉をいただき、会津の保科正之を紹介されその配下となった。
漢の霊帝を祖先と公称し、元寇で功を上げ、朝鮮出兵にも胎動した生粋の九州人が、
一言の過ちで秀吉の怒りを買い、ついには故郷を去ることになった顛末。
481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 09:11:44.02 ID:S4HvM1GE
戦国時代ではないが、それから数百年後……
慶応四年の幕末の戊辰戦争時、上は松平容保から下は兵卒の女房子供まで抱えて、会津藩は籠城戦を行った。
その中には原田氏の子孫、原田対馬がいて、彼はその優秀さから籠城戦突入時に家老にまで引き上げられていた。
戊辰戦争の会津の悲惨さは白虎隊などで伝えられている通りであるが、
実はそれ以上の悲劇が、籠城した城内で起こる寸前だった。
急な籠城戦になったため、食料の備蓄が足りなくなっていたのだが、
この解決方法を下問された家老が、口減らしのために
一緒に立てこもっていた婦女子全員を斬首することを提案し、あわやこれが実行寸前にまでなる。
その時、敢然と異を唱えたのが原田対馬であった。
原田の反対もあり婦女子の斬首は取りやめとなり、その後すぐに会津は降伏した。
なんとなく後の戦陣訓ってこの辺の東北の風土から出た気がするのと、
九州人は生きる事に意地汚いというお話し。
……というよりも原田氏からすれば、たかだか一度の籠城戦に敗れた程度で
死のう死のう団になる東北人が理解できなかったのかもしれない。
戦国時代までは悪い話だけれど、数百年後に会津の婦女子を救う、原田氏のいい話。
482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 09:14:06.86 ID:S4HvM1GE
あ、前半の出典は糸島戦国史と糸島伝説集です。
483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 09:52:34.57 ID:FR9tdf2C
いきなり信種と書かれても困っちゃうのう
ちゃんと原田信種と書いて欲しかったわさ
484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 10:51:37.45 ID:pqHJNuIX
いや、分かるだろ
485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 12:46:39.59 ID:tzOLS/j8
浅利信種「…俺の知名度って」
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コメント
人間七七四年 | URL | -
ここで浅利殿の名前を挙げるのはただ言いたいだけに見えるので御座います
( 2015年08月02日 18:58 )
人間七七四年 | URL | -
>九州人は生きる事に意地汚いというお話し。
九州人は全員、原田家の末裔説
( 2015年08月02日 20:50 )
人間七七四年 | URL | 6m5BDBwc
先の大戦時で軍高官を東北人が占めていたのに納得
( 2015年08月03日 01:52 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
話自体は興味深いが
なんか投稿者が九州人も東北人も馬鹿にしてるみたいで拍手できねー
( 2015年08月03日 03:33 )
人間七七四年 | URL | -
織田信種「かもな」
信長「だれだおまえ」
( 2015年08月03日 09:02 )
人間七七四年 | URL | -
>戦陣訓はこの辺
私は変な思想家ではありません。ですが、こう言う発言は見逃せませんでした
なんで歴史的背景も調べもしないで勝手な事ばかりを発言できるんだろう?
こう言う輩が居るから、歴史を知らないとか言われるし、
実際に勝手気ままに変える様な連中が居ても、気づきもしないんだよ
こんな奴が逸話とは云え歴史を語って欲しくないです!
( 2015年08月03日 14:50 )
人間七七四年 | URL | -
東條英機の父親は東北出身やし、あながち間違いやないで
間違いだと思うなら、根拠を書かないと
( 2015年08月03日 15:23 )
人間七七四年 | URL | -
会津の時は仇敵に城囲まれて落城寸前じゃあどんな目にあわされるか分からんし、それなら悲観して徹底抗戦するのも仕方ない気がするけどな
( 2015年08月03日 16:57 )
人間七七四年 | URL | -
原田氏の子孫だからっても幕末頃に九州から会津に入って
藩士になったわけじゃないんでしょ?
二百年以上経ってるんだから九州人云々じゃなく、
飽くまで個人の考えだと考えるのが打倒だと思うんだが
少なくともその意味で、 ( ゚,_ゝ゚)ブブッ
( 2015年08月03日 20:50 )
人間七七四年 | URL | -
※7
出身がそうだから作ったとかwwwww
お前こそちゃんと経緯を調べろ無能風情が!!
中国で日本人がどんな目になったかも知らない奴が、
偉そうな口利くべきではない!!分かったかこの無能?
( 2015年08月03日 21:25 )
人間七七四年 | URL | -
まぁなんだ、投稿者も※欄の人ももちつけよ…
何にせよ、軽々しく○○出身云々とか書くべきではなかったのではないでしょうか、投稿者さん(※欄見てるか知らないけど)
( 2015年08月03日 21:35 )
人間七七四年 | URL | -
秀吉「あなたの領地はこの金の伊都ですか、それともこの銀の伊都ですか」
信種「えぇ…」
( 2015年08月04日 08:44 )
人間七七四年 | URL | -
疫病神にみえる件について。
( 2015年08月04日 09:12 )
人間七七四年 | URL | -
天海僧正の見解は無理有りすぎて、本当に学問納めた人なのかとワロタw
>東北出身だから
例え軽く書いたつもりでも、背景を知らないで「何々人だから○○だろう」とか云うのは
レッテル張りですよ。差別的発言と取られても仕方が無いです。
こう言うのは悲しい事ですよ。
なんでここのサイトで近代史が出ると、大抵が背景も良く調べない・出来事自体を良く知らない
のに知ったかぶって発言する人が出るんだろう?ホントに何時も不思議に思うよ。
( 2015年08月04日 18:00 )
人間七七四年 | URL | 6m5BDBwc
天海は会津葦名の出だっけ。
( 2015年08月04日 22:36 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
そして背景知らないとか言いつつ、その背景を書けない批判者たちであった。
中支戦線が悲惨だったからっていうのも弱すぎるなぁ。
ならば日清戦争の時に戦陣訓が作られてるべきでしょうにw
背景背景と言いつつ、本質を知らないのは滑稽。
( 2015年08月05日 13:20 )
人間七七四年 | URL | -
なんかちょっと知らない人が多いな……
戦陣訓は中国での日本人が悲惨な目にあったから出来たんじゃないぞ。
山県有朋の軍人勅諭と勘違いしてるんじゃないか?
戦陣訓は逆だぞ逆。
支那事変で日本軍が軍紀紊乱=素行不良に陥ったからその対策のためがそもそもの発端。
それを自分好みに改変したのが東條やで。
( 2015年08月05日 13:49 )
人間七七四年 | URL | -
そもそも戦陣訓は読んでた人の方が珍しい。
日本軍がやたら命令に従順だったのは、内務班でしめられていたから。
しめられると従順になるのは兵隊だけでなくて、インパールの花谷正師団長とか参謀をぶん殴って言うことを聞かせていた。このため、参謀にノイローゼと自殺者が大量に出た。
日本軍にはどうしようもないところがあったが、それは戦陣訓とか一片の書類によるもんではなくて、もっと根本的な話。責任の取り方、とらせ方とかも合わせて出てくる話だったりする。
( 2015年08月05日 20:05 )
人間七七四年 | URL | -
背景と思っていたことが勘違いだってござるの巻か……よくある話だな
※9
ユダヤ人「えっ」
( 2015年08月05日 20:21 )
人間七七四年 | URL | -
斬首無い
そもそも戦陣訓は拘束力のあるものでもない。
戦後以降に軍部批判のために槍玉にあげられただけ。
捕虜=恥はどこにでもある価値観だろ。
死のう死のう団とかにならんし、一度の敗北とはいっても京で暴れてたチンピラ共相手なら覚悟するのも分かる。
( 2015年08月06日 11:38 )
人間七七四年 | URL | -
※20
論点そらしに必死過ぎる。戦陣訓が出た理由を語ってるだけなのに
拘束力があるものだとか、果ては軍部批判のやり玉に挙げられただけとか
顔真っ赤ですよww
経緯を調べろ背景を見ろと言いながら、自分が間違っていたことに気づくと
いきなり論点そらしですね、さすがにレベルが高い人たちだなあwww
( 2015年08月06日 13:50 )
人間七七四年 | URL | -
戦国時代と関係ない事は分かったのでこれ以上は他所でどうぞ
( 2015年08月06日 15:23 )
人間七七四年 | URL | -
戦陣訓:
陸軍省が制定し、1941年(昭和16年)1月7日に上奏、翌8日の陸軍始の観兵式において陸訓第一号として全軍に示達した。
戦国時代:
一般に1467年の応仁の乱または1493年の明応の政変に始まり、豊臣秀吉が関東・奥羽に惣無事令を発布した1587年、または豊臣秀吉が後北条氏を滅亡させ全国統一の軍事活動が終了した1590年、もしくは奥州で発生した九戸政実の乱を鎮圧した1591年までとされることが多い。
( 2015年08月06日 18:37 )
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