朝鮮の王城に在陣していた日本の諸勢、尽く撤退したが、宇喜多秀家が先ず最初に退いた。
この秀家の元に黒田孝高、浅野弾正(長政)が出向いて対面し、太閤秀吉より仰せ越された
趣を述べて、晋州の城攻めについて評定した。その日はそこで宿し、帰陣してくる者たちを待った。
その後、三奉行(石田三成、増田長盛、大谷吉継)が都より引き戻り、黒田孝高の宿所に来て
対面することを請うた。その時孝高は、浅野長政と共に奥の間で碁を打っていたが、
三奉行、特に石田三成が平生権勢に誇ることを憎み、表座敷に待たせて、対局の途中であった碁を、
打ち終わり石を収めた後、「対面するのでこちらに来るように」と伝えさせたが、三奉行は
孝高と浅野長政が碁をしている声を漏れ聞き、彼らが早く出てこないことを怒って、この時すでに
立ち帰っていた。
その後、孝高・浅野両人は三奉行に使いを出して追いかけさせ、『こちらに帰ってきていただきたい』と
伝えたが、三奉行は憤って帰らなかった。これに対し孝高と浅野長政は『我らは既に、総大将である
宇喜多秀家に遭って軍のことをしばしば評議した。太閤の命により軍評定をしようと使いを遣わしたのに、
帰ってこないのは彼らの誤りである。』そう言って再び使いを出すこともしなかった。
その後、三奉行はこのことを恨み、「孝高・弾正は囲碁におぼれ我ら3人が来たことにも気が付かなかった。」
等と言って、人に会えばこのことを語り謗った。更に後には、太閤秀吉にこれを訴えでた。
*貝原益軒の注釈
(この時、孝高・弾正が碁を打って三奉行に対面しなかったのは右に記す通りである。
ただし、太閤記に書かれているのは、伝える者の誤りを信じて、知らずに虚説を記している。
孝高・弾正はこれより先2月に既に渡海しており、この時に渡海したのではない。
軍評定のため宇喜多秀家が都より先に帰った所を対面し、また三奉行をも待っていたのである。
太閤記には、この時弾正・如水日本より使いとして渡海し、太閤の命を告げんとて三奉行を
待っていたと書かれているが、これは虚説である。2月26日太閤より黒田長政に送られた書状にも、
『浅野弾正、黒田勘解由、都在陣衆令相談、見計陣所可相定』とある。
また5月1日太閤より朝鮮に在する弾正、勘解由、三奉行に与えられた書状がある。
2月より既に渡海していたことは、これを以って知るべきである。
その上、黒田孝高はこの時まだ剃髪しておらず、太閤記で如水と称しているのも誤りである。)
(黒田家譜)
コメント
人間七七四年 | URL | -
碁をうっていたこと自体…
( 2015年08月08日 00:12 )
人間七七四年 | URL | -
貝原益軒の注釈を読んでも、どこがフォローになってるのか全然分からんかった
渡海の時期や宇喜田秀家との評議を既にしていた事が
どうやって碁を打ち終わるまで三奉行を待たせていた事の言い分になるんだ?
( 2015年08月08日 00:54 )
人間七七四年 | URL | -
「右に記す通り」ていうんだからそもそもフォローなどしてない
( 2015年08月08日 04:45 )
人間七七四年 | URL | -
でも謙信さん信玄さん同様
出家前の話をしててもつい如水さんって呼んでしまうんだよな
誰の事話してるか分かればいいじゃないかよー(逆ギレ)
( 2015年08月08日 08:13 )
人間七七四年 | URL | 3aXRcdxk
ここから斬り合いに
発展しない辺りは流石に大将同士というわけか
( 2015年08月08日 08:45 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
もしかしてだけど、もしかしてだけど~♪
二人で三奉行をばかにしてたんじやないの~♪
だって、そうだろう~♪
なんか、殺気というか、視線を感じるんですが、気のせいですね。
( 2015年08月08日 11:16 )
人間七七四年 | URL | -
やたら虚説誤り連呼が好きだな
逸話スレにその注釈は書くべきなのか?
逸話楽しむ趣旨なら要らないだろ
( 2015年08月09日 23:33 )
人間七七四年 | URL | -
逸話と史実を見比べるのもまた乙なものですよ
( 2015年09月27日 15:31 )
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