武田滅亡、そしてその直ぐ後のことなど

2015年08月17日 16:17

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/17(月) 14:43:22.90 ID:6w/B9vgu
天正10年(1582)、織田信長の甲州征伐により武田勝頼は滅び、織田信長は甲府へと入った。
そこで信長より「春先より、私から計略の書状を送ったが、それを受け取った武田家の侍大将たちは
皆礼を申しに出てくるように」との仰せ触れがあった。

甲州征伐に先立ち、この年の2月末、3月にかけて、信長父子より大量の書状が武田家重臣に
送られていたのだ。そこには、自分たちに味方すれば、或いは『甲州一国を与える』『信濃半国を与える』
『駿河を与えるだろう』などと約束されていた。これを誠と思ったため、武田勝頼の親類を始め、
重臣たちも勝頼の危機に皆引き篭もっていたのである。

そして彼らは、この触れも誠と思い信長のもとに御礼に罷り出た。しかし、
武田方の出頭人、跡部大炊は諏訪にて殺された。武田逍遥軒(信廉)は府中立石にて殺された。
小山田兵部、武田左衛門、小山田八左エ門、小菅五郎兵衛、甲府善光寺にて殺された。
一条(信龍)殿は甲府市川にて徳川家康に仰せ付けられ殺された。出頭人秋山内記は高坂にて殺された。
長坂長閑父子は一条殿御館にて殺された。

仁科(信盛)殿、小山田備中、渡部金太夫というこの3人ばかりは、高遠城において、織田城介(信忠)の
旗本に攻められ、わずか18人になるまで城を保つ天晴な討ち死にをした。
しかし小菅五郎兵衛は、元は山縣三郎兵衛の家臣で大剛の者であったのを、長篠の後勝頼によって
旗本に召し上げられ足軽大将となり、仁科信盛に付けられ高遠へと派遣されたにも関わらず、
卑怯にも織田勢が来る前に「勝頼公のお供をつかまつる!」と言って高遠を出て甲州に帰り、
そこで小山田兵部に合流して武田家への逆心を企てたが、彼も善光寺で織田勢に殺された。

高坂源五郎は沼津から、勝頼の最期の5日前に罷り帰り、勝頼に「お供つかまつる」と申し上げたが、
長坂長閑が「城を開けてやって来たというのは、どのようなつもりがあるのか解らない。
その上彼は侍20騎ばかり、雑兵百四,五十ばかりを引き連れているのも一体どうなのか…」
そう判断し、これを寄せ付けなかった。このため、高坂は井澤から直ぐに信州へと通った。
屋代(秀正)なども若いにもかかわらず、駿河をよく引き払い勝頼に合流したいと申し上げたが、
これも高坂源五郎のように寄せ付けなかった。
このようであったので、高坂源五郎は川中島で殺された。山縣源四郎も殺された。

駿河の先方衆も、勝頼公御為を一筋に信じていた者達は成敗された。

こうして、甲信駿の侍大将、家老衆はほとんどが殺された。ただし、信濃の真田、芦田、
上野の小幡、和田、内藤、その他上州衆は皆命を助け、滝川一益に寄騎として付けた。これは
信長の

『3年の内に北条氏政、氏直父子を絶やすべし。これはもし手間取った場合に、真田小幡を始め
彼らに北条家への先手をさせるためだ。』

との考えからこうしたのである。
山上道及という侍があり、彼は元来上野衆であったが、久しく牢人し諸国を武者修業していたが、
彼もこの時信長に1万貫で召しだされた。これも北条を滅ぼしその跡を滝川一益に与える為であった。

下総国佐倉の千葉介国胤は大剛強の大将であったが、この国胤への信長の書状があまりに慮外であると、
信長からの贈り物であった馬の尾を切り追い払い、使者の髪の毛を剃って追い返した。
これは武田四郎(勝頼)が運尽きて滅亡し、このため北条氏政も頭を垂れ信長の被官となった。
しかし自身は、「国胤は小身であっても、たとえ滅亡しても家の誇りを立てる!」と考え
そのようにしたのだ。

(甲陽軍鑑)

武田滅亡、そしてその直ぐ後のことなど




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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    ん?
    千葉氏のちょっといい話?

  2. 人間七七四年 | URL | -

    もし千葉国胤のように、信長父子の書状を拒否して、家臣が団結して戦ったら、武田滅亡は、少し延びたのかな

  3. 人間七七四年 | URL | -

    でも家臣のオナラを叱責して殺されちゃうんですよね、、、(;_;)

  4. 人間七七四年 | URL | A75NpKCQ

    こんなにカッコいい千葉さん、家臣のオナラが因で殺されちゃうんですよね、、、(;_;)

  5. 人間七七四年 | URL | -

    まあ一通もそんなの出てきてないし、たとえ来ても誰も信用しないよね
    ましてやみんなが信用して出て行って殺されたとかありえん 仮にも武田の者たちが

  6. 人間七七四年 | URL | -

    人は城人は石垣(以下略)なんてあったが、人心などという最も不安定なものをアテに出来ていた先代と、こぞって日和見に逃げられて消し飛んだ二代目の差、か。情けで逃げられ仇で逃げられ…

  7. 人間七七四年 | URL | -

    「お供つかまつる」が何時から自殺専用の合言葉になったんだ?
    そして唐突に千葉氏登場。もう書いてある事為す事全部めちゃくちゃだわ。

  8. 人間七七四年 | URL | -

    千葉の話見たことあるぞ

  9. 人間七七四年 | URL | EybeWf1w

    邦胤かあ
    実在したかもしれない兄貴は親信長派だったんだよなあ

  10. 人間七七四年 | URL | -

    ※5
    信長公記にも誅殺された人間の事記されてるらしいから
    間抜けは居たんじゃない?

  11. 人間七七四年 | URL | -

    高坂源吾ってあの春日信達か

  12. 人間七七四年 | URL | -

    こんな格好いい殿様が、地元にいたのを初めて知りました。でも、家臣の屁を注意したら、殺されたなんて、ショック。

  13. 人間七七四年 | URL | sSHoJftA

    ※ただしソースは甲陽軍鑑
    勝頼は器不足、長坂と跡部は死ね!という私観がダダ漏れなのを踏まえながら読む逸話かと

  14. 人間七七四年 | URL | EybeWf1w

    ※12
    この頃の千葉は家臣どころか陪臣まで北条に取り込まれていて権威も何もないけどね

  15. 人間七七四年 | URL | -

    とりあえず、武田の旧臣が殺されまくったってのは事実か
    あと、組織がボロボロだったのと

    真田が生き延びたのは、もちろん昌幸の才覚もあるんだろうけど、地理的要因も大きいのかな

  16. 人間七七四年 | URL | -

    オナラ連投つまらん上にしつこい。そもそもそれ以前からの蓄積もあったんだろ。
    人心は大事だろ。そもそも安定してるものなんてあるのか?
    権威でかっこよくなるわけでもないし、卑下する必要もない。

  17. 人間七七四年 | URL | -

    プクク

  18. 人間七七四年 | URL | -

    ※5 信長・信忠、穴山信君連署の安堵状は現存してる。そういうのが他にもいっぱいあったということでは?

  19. 人間七七四年 | URL | -

    武田の旧臣が殺されまくったのは山狩りされたせいだよ。
    甲州や信州には緊急避難用の山小屋が各自ごとに整備されていて、やばくなったらそこに逃げ込むって文化があった。で、信廉やら信就(信龍の子)なんかはそこに隠れていたところを捕らえられた(信長公記にきっちり捕らえられると明言されている。呼び出されて謀殺された小山田信茂とは表現が違う)。多くの武田家臣も同様。生き残ってるのは他国衆(先方衆)の国人領主だったから。
    しかも跡部、長坂は勝頼に従って田野で討死と信長公記に明言されている。

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