賀井宗運「私が果てれば、肥後国には」

2015年10月07日 08:01

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/06(火) 23:55:49.58 ID:USoE7/SI
島津勢が肥後国立花山に進出してきたところに、同国三船の大友方、賀井鑑隆入道宗運が
軍勢を出しそれを撤退させた。
しかし島津勢は重ねて軍勢を出し、天正10年6月中旬に、竹ノ井原に陣取った。
賀井宗運は即座に駆けつけ、島津勢を追い崩し、敵300余りを討ち取った。

そして首実検をしている所、にわかに大雨降り、山水おびただしく出て、賀井宗運が床几に
腰掛けている場所にもしきりに押しかかった。

この時、宗運の嫡子である鎮隆はこの水から逃れようと、あちらこちらの高台を目指してうろつき
回った。これを見た宗運は激怒した

「日本一の不覚なる仁である!この程度の水に恐れ騒ぐ心では、強敵に向かって一体何の役に立つのか!?
私が死んだ後、おめおめと薩州の幕下になるだろう。何と口惜しいことか。
そうなれば南方の敵を、一体誰が防ぐというのか?ともあれ、宗麟公の御運の末こそおいたわしい。」

そう言って、その場より豊後に使者を立て、鎮隆不覚の次第の書付を添えて
『私は今日から、鎮隆を不快に仕りました。そうして、私が果てれば、肥後国には
南方の敵を防ぐものは一人もおりません。この事を判断材料にしていただくため申し上げます。』

これを宗麟近習の田原紹恩まで届けた。

その後程なく、賀井宗運は死去した。跡を継いだ鎮隆は一戦する事もなく、弱々と薩州の軍門に下った。
あまりに言う甲斐もない次第である。

(大友記)



410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 01:07:49.59 ID:1xH6qmmt
臆病になるか勇敢になるかは教育に依るところが大きいだろうな

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 02:27:59.24 ID:N54iHfZG
親父が教育してたわけじゃねーし

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 03:30:16.09 ID:oLH+EMfC
漢は漢の背中を見て育つものよ

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 04:01:42.71 ID:ZqHjIqi9
ガチホモ道ですか?小生には無理です。

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 07:57:24.98 ID:BWaRqLqE
最後にオチか

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 08:11:02.02 ID:vdUzC4zx
信玄の尻を見て育つ勝頼

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 08:41:14.47 ID:HrkzhnAN
オチワロタ

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 09:08:25.61 ID:a+C8R4Xw
単純に大友から心が離れてただけじゃないの?と言いたくなる

418 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/07(水) 09:45:43.35 ID:NM1zdpB1
大友最強

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 14:48:50.73 ID:ryTEwD7T
やっぱり宗運の子は島津に降る運命なんだな
てか、加藤忠弘て"甲斐"宗運の血を引いてたんだな
"賀井"宗運をググってて意外なモノを拾った

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/07(水) 17:03:54.73 ID:vIRV7BMw
この戦の時期がよく分からんけど天正六年以降の大友は肥後に軍を派遣する能力も無いから仕方ない
たぶん天正十年じゃなくて八年にあった合戦の事だと思うけど
同年にあった龍造寺が赤星の人質処刑した事と関係あるのかな

421 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/08(木) 12:14:45.09 ID:zQMGvikz
葉を見れば木の状態はおおよそ分かる

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    甲斐さんのことなんだろうけど、
    甲斐氏というか阿蘇氏そのものも宗運の最晩年は龍造寺方じゃないっけ
    大友視点じゃまだ手切れじゃなかったのかな

  2. 人間七七四年 | URL | -

    大友記の成立時期がいつなんだろうかね
    嫡男は宗運の遺言を破って戦って降伏を余儀なくされているし、阿蘇氏の忠臣であり大友と龍造寺・島津の間でどう立ち回るか腐心しているが、大友に対する忠誠心は微塵も感じられないな。
    まあ、大友側からすれば肥後における対島津の最重要人物扱いだったんだろうな、と言うのは見て取れるね

  3. 人間七七四年 | URL | ZPZR469g

    ※2
    これ、多分亘過瀬の合戦のことだから、この時期はまだ大友氏についているね。

    晩年は両属状態だったんじゃないかな。
    龍造寺と大友って肥後では決定的に対立してないし、何よりも対島津考えたら
    島津ならともかく龍造寺と組むのはあの時期の大友としても黙認せざるをえないし。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    甲斐さんの賀井表記は初めて見たなぁ
    当時は漢字を適当に変えたりするから、音だけあってれば不思議ではないのだろうけど

  5. 人間七七四年 | URL | -

    「奴の勇気はノミの勇気!」

  6. 人間七七四年 | URL | -

    北条さんちにも似たような逸話がありましたよね。確か「氏政がご飯に汁を二度掛けたのを見た氏康が「北条家は、私の代で滅びる」と嘆いた」って。

  7. 人間七七四年 | URL | -

    もう、ご子息の残機は無いからな

  8. 人間七七四年 | URL | TQl5Jic2

    甲斐にしていると最後の「言う甲斐もない次第」というところにかかってしまうのでわざと賀井表記にしたのでは?

  9. 人間七七四年 | URL | -

    韻をふんでんじゃねーYO

  10. 人間七七四年 | URL | OoGSwKvo

    なお果てる前に大友切って龍造寺に付いた模様

  11. 人間七七四年 | URL | -

    大友フルボッコ状態だからね 仕方ないね

  12. 人間七七四年 | URL | TQl5Jic2

    ところで甲斐さんだと割れてるけどジャンル分けは賀井宗運のままでいいのでしょうか

  13. 人間七七四年 | URL | -

    ※10
    一応、※3の書いた通り、龍造寺と大友の両方に属してたらしい。天正7年に龍造寺側に出した起請文があるっぽい(話に聞いただけで未確認)



    余談だが、甲斐家が島津に靡かなかったのは、主君である惟豊と当主の座を争った惟前の、その孫である惟永が島津家に逸早く誼を通じていたらしく、それが要因である模様

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