信玄の旗幟

2015年12月23日 08:20

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/22(火) 22:09:36.43 ID:Qsqv1Uho
駿河大納言徳川忠長が改易された後、この家より武田信玄の旗幟が出てきた。
将軍家光はこれを怪しみ、糾明を命じた所、甲斐国に長遠寺という親鸞宗の僧があり、
この僧は信玄の時代、大阪、長嶋と信玄との間の使いをして、信長を滅ぼす謀を巡らせた。
信玄は彼を悦び、娘を与え婿とした。そして男子が生まれ、これに二位と名付けた。

彼は信玄の外孫であるとして、武田家に仕えていた人々からの崇敬は大変なものであった。
この長遠寺の元にかの旗幟があったのを、忠長に参らせたであった。
これは大変疑わしいことであると、長遠寺父子は佐渡へと流された。
この時は幕府の武田旧臣の人々も大いに恐れたそうである。

この寺院は破却する予定であったのを、東秦院の門跡が請うたため許し、今は改めて
光澤寺と名付け、かの門跡より兼帯輪番の寺となった。

(藩翰譜)



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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    確か、忠長って甲府城城主だったよね。この旗を家光に献上したら、疑われずにすんだかもしれないな。
    幼少の頃から「お前は、いずれ将軍になる」と言われ育ったから、「なんで、兄が将軍なんだ。」って納得してなかったのかもしれないな。
    確か、忠長の忘れ形見が、松平長七郎だったんだっけ。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    これが後の高家・武田だっけ。
    流罪のきっかけは大久保長安事件だと思ってたけど。

    ※1
    甲府は幼少期だけで本人はあまり接点はないはず。主はあくまで駿河だよ。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    高家武田って信玄の次男坊の末裔だから関係ないんじゃ
    彼らの流罪先も伊豆のどっかの島だった気がする

  4. 人間七七四年 | URL | -

    でも寺院の名前見る限り高家武田家関連だよね
    高家武田家の幕臣化が元禄13年、
    藩翰譜の編纂開始が同年で成立が15年だから復活がまだあまり知られてなくて調査に齟齬があったんじゃ

  5. 人間七七四年 | URL | -

    いかにも、松平長七郎長頼。俺の名前は引導代わりだ、迷わず地獄に落ちるがよい。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    ※2さん、3さん
    武田信玄の次男龍宝の子・信道が大久保長安の謀反に加担したと疑われ、無実を訴えたけど、子の信正と共に伊豆大島に流されてる。信道は大島で亡くなり、子の信正が49年目で赦されてるよ。

    因みに長七郎さんは瓦版屋さんでバイトしてるんだよね。

  7. 人間七七四年 | URL | -

    そこはかとない謀略のにほひ

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