肥後熊本城は加藤清正の縄張りであり

2016年01月12日 18:24

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/11(月) 21:32:46.25 ID:acgC7geU
 肥後熊本城は加藤清正の縄張りであり、今の細川家も清正の霊威が強いので、普段は外の屋
敷に居られ、年に一度入城なされる。

追手の馬繋等は江戸城よりも仰山あり、諸国の大名、小名を熊本へ登城させようと、内心に
は謀反の企みがあったのであろうか。

同清正公の二代目断絶のとき家老九人が切腹いたし、その亡骸を御城の追手玄関前に石塔を
建てよとの遺言があった。今をもっても石塔が並びあって、少しでも無礼があるときは祟るという。

また、清正公を敬い崇める神霊は、今もあらたかであり、いろいろ不思議なことが多いという。

菩提所本明寺とやらの後ろの山に御廟がある。

(本阿弥行状記)



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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    外の屋敷=花畑屋敷も清正が建てたものなんですがそれは

  2. 人間七七四年 | URL | -

    本明寺=本妙寺の事ですよね?あの辺りは某病人によるイヤ~な事件もあった場所ですが

  3. 人間七七四年 | URL | -

    熊本城には北・南・西の3つの大手門がありますがどれに有ったんですかね?
    因みにどれにも石塔をおけるスペースなんて有りませんけどね

  4. 人間七七四年 | URL | -

    ※2
    事情が複雑な部分もあるのだから、そう云う事は軽々に言う物じゃないと思うのよ

  5. 人間七七四年 | URL | 3aXRcdxk

    この頃から清正はなんか特別なのな
    現代熊本が清正一色なのも宜なるかな

  6. 人間七七四年 | URL | ZPZR469g

    むしろ外の花畑屋敷、馬繋ぎの数のあたりはいざという時には
    熊本城を秀頼の居城にしようとしていたって解釈の方がわかりやすいと思う。

    ※3
    本阿弥光悦が大手門をちゃんと認識出来たのか、大手門と追手玄関って同じなのか、
    大手門なりの前の今のスペースと当時のスペースは同じなのかを検討せずに、
    そう簡単に言い切るのは歴史研究として間違ってるよ。

  7. 人間七七四年 | URL | -

    えぇ…
    熊本城には追手という表記の門がまずありませんよ。大手門と解釈するしかないですよね。
    細川家は加藤家から引き継ぐ時、お城の詳細図を作成していて幕府にコピーを届け出しています。原本は江戸中期に焼失したが、再作成した絵図は城内の建物を一間どころか半間単位で描いたのが永青文庫に現存しています。熊本市は永青文庫の絵図と幕府に届け出た絵図を照らしあわせて再建するほど慎重に熊本城再建を進めています。これで当時と違うと言ったら市の文化財課も泣きますよ。

    ただ、そもそも論として加藤家の家老が忠広が死んだ時云々って山形の地で死んだ時、既に細川家の肥後での治世が20年経っています。なんで細川家が前藩主の家老如きの為に石塔建てなきゃならんの?という本阿弥行状記へのツッコミで皆さん書き込んで居るのでは?

  8. 人間七七四年 | URL | -

    ここが研究発表の場に見えるとしたら義眼にした方がましだと思うがね。

  9. 人間七七四年 | URL | -

    この縄張りって「設計」じゃなくて「テリトリー」だよな?

  10. 人間七七四年 | URL | -

    熊本城=秀頼の為にって、とっくに否定されてなかったっけ?

  11. 人間七七四年 | URL | -

    ※9
    後で馬繋についての言及が有るし普通に「設計」でいいんじゃね?

    ※10
    支城群との繋がりから対島津戦を想定してるんじゃないかってのが有力
    そう考えると西郷さん本当に乙
    ちなみに大陸からの反攻を想定してるんじゃないかという説も有ったりする

  12. 人間七七四年 | URL | -

    西郷さんはゃっぱり、加藤清正に歯が立たなかった、と言う事でFA?

  13. 人間七七四年 | URL | -

    ※12
    谷干城さんも褒めてあげてくだしあ

  14. 人間七七四年 | URL | -

    加藤清正時代の熊本城は最盛期の3割程度の面積しか作って居ないですね。
    加藤家改易時点で現在の有料区域+αってところで、良くて4割ちょい。
    清正のプランニングは不明ですが、地元の研究では”隈本”城の詰の城扱いだったのでは?といわています。城内に居住施設を作らなかったのもその為。恐らく清正は現在見る熊本城の大きさは想定していなかった。
    後は細川家が江戸時代を通じて最大城域を作っているので西郷さんは細川家に負けた、と言うのが正しいかと。

  15. 人間七七四年 | URL | -

    手元にある「熊本城 歴史と魅力」(富田紘一著)61-62Pの図だと
    西出丸やら東竹之丸あたりの石垣も清正時代に作られてて3割どころじゃないだろこれなんだが…
    流石に第1刷が平成20年だとちょっと情報が古いかねえ
    ※14さんが典拠にした地元の研究が載ってる本もし良かったら教えてくださいな

  16. 人間七七四年 | URL | -

    ※14
    一応慶長12年に清正が居住施設である本丸御殿の広間の絵について指示した書状があり
    慶長15年に本丸御殿大広間造営を記した文献もあるそうから
    「城内に居住施設をつくらなかった」というのはあまり正確な記述ではないと思われ

    ※14の言う「”隈本”城の詰の城」という表現は
    慶長4年頃までに作られたと推定される最も古いとされる部分を指すのに
    ※15の「熊本城 歴史と魅力」(富田紘一著)で用いられているけど

    別の本(「加藤清正 築城と治水」(谷川健一編))に掲載されていた
    慶長16年頃(清正の死のほぼ直後)の熊本城の絵図「肥後熊本城略図」(山口県文書館蔵)は
    それより範囲としては大分広い(本丸・二の丸・西出丸が描かれている)

    石垣の算木積も全部が細川家時代のものではなく慶長6年までには導入されてると推定されてる

    これ最近の研究だと全部否定されてるの?

  17. 人間七七四年 | URL | -

    谷川健一?と思って調べたら意外にも民俗学者の谷川健一だった。
    手広くやってるなあ。

  18. 人間七七四年 | URL | -

    正直、武力で上京するなら、
    熊本城は包囲に留めて攻める必要なかったんじゃないかと思っている。

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