一代の不仁残忍の報いであり

2016年01月14日 15:53

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/14(木) 01:27:45.91 ID:GP8sbhlK
 勝頼公まで二十八代の間、武田家は屋形作で城がなく、新羅三郎義光公の嫡孫であるので頼朝公と同様の規模のお館であった。
 そこで、勝頼公は『将来城がないのは危ない』とお考えになられて、新府中の城を築こうとなされた。
しかし、普請している最中に旗下の大将の内の妹聟の木曾殿、伯母聟穴山殿をはじめとした者が信長公へ頼ってしまい、
終いに勝頼公は天目山へ逃げ込み滅亡なされた。
 これは皆父の信玄公に孝なく、嫡子義信公に対し悪意が有ったといはいえ
父の愛を与えず牢暮らしさせたような事に代表される、一代の不仁残忍の報いであり恐るべきことである。

 また勝頼公、信勝公の首実検を信長公がなされた時、ただ何の作法もなく、いつもの服で首に向かい、悪口を仰せられ、
扇子で叩かれなさったようなことをしたので、この君も一、二月の間に亡ばれたのも不思議なことである。

 勝頼公が家老達の申す事を用いなさったら、天下一統の功も建てなさっただろうに、皆長篠合戦で討死したのは残念なことである。
かろうじて信州の川中島に在城してて生き残った高坂が、諫言を申し上げたといっても、長坂、跡部の中傷で忠言も取り上げなされなかった。
 これをひどく残念がって、弾正は甲陽軍鑑という書を編集して、死後勝頼公へ進上せよと遺言した。
ひどく古くさい俗書であったがあっぱれな忠義の武士であった。この忠義をそっくりそのまま武家方にお見せしたい事である。
この書を版にして広く武士である人に見せたいものだ。

 加えて、信玄公の御舎弟の信繁公は至っての賢者である。惜しいことに世の人はこれを知る事は稀である。

(本阿弥行状記)

信玄の尻拭いをさせられる勝頼(´・ω・`)



950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/14(木) 02:33:23.47 ID:YCC7Mq2I
昌信の申すこと尤もじゃな。長坂跡部を更迭するから甲府に留まり助言してくれんか。

いやいや某は先君より川中島の抑えを任されているので動けませぬ。
川中島あっての武田なのですぞ!

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/14(木) 09:40:22.26 ID:ql3fNf7A
勝頼「お、おう」

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    「このコジツケ臭い文章、さてはまたアイツか?」と思ったらアイツでした。
    タイムマシンが開発されたら一番最初にやりたいのは、コイツぶん殴る事だわりとマジで。

  2. 人間七七四年 | URL | TQl5Jic2

    ついでに甲陽軍艦もディスってるな

  3. 人間七七四年 | URL | -

    勝頼が俗説のような暗君ではなく、だいたい信玄から起因しているってのも否定するわけじゃないが、
    御館の乱や信長との外交見てると、最近の再評価の流れも過大評価だと思う。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    ※3
    勝頼の外交センスは天庵様並だと少し本気で思う。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ちょうど今月の歴史群像は新府城は竪堀がないから防衛用の城ではなく躑躅崎に代わる新しい館だった!って話だったな

  6. 人間七七四年 | URL | -

    天庵「誰か、わしを噂してるようじゃ。秀才は辛いのう。のう菅谷」
    菅谷「(震え声)そうですな」

    今も昔もカリスマ性のある父親だと、息子は「父の信玄は立派じゃが、息子の勝頼は・・・」って比較され続けるのは変わらないな。
    義信の死は「親子の確執」「家臣による派閥」等が原因で、勝頼は悪くないよね。
    信玄が勝頼を「信勝の後見人」ではなく「後継者」として家臣に示したり、勝頼にきちんと「帝王学を学ばせる」とすれば、武田の滅亡がなかったのかな。
    「本能寺の変」まで三ヶ月持てなかったのかな。って思ってしまうけど、結果論しかないよね

  7. 人間七七四年 | URL | -

    御館の乱はどうしようもなかったと思うけどなぁ

    勝頼が両者を和睦させた頃には景勝がかなり優勢だったし、
    3ヵ月もの長陣の果てに北条は来ないし、家康が攻めて来るし。

  8. 人間七七四年 | URL | -

    ※5
    新府城作り始めて時間経っていないんだよな(真田丸だと草刈パパが一年言ってたな)
    堀は廻らすのに手一杯で竪堀とか後回しになっているだけのような…
    竪堀を真っ先に掘るのもんなのか?時代下れば竪堀消失しているし。
    歴史群像もそこらまで掘り下げてほしいのう

  9. 人間七七四年 | URL | -

    ※8
    一応訂正をすると竪堀がないのではなく限定的にしか構築されておらず障害物に乏しい
    武田方の同時代資料では新府城は「館」「新館」扱いで城という表現ははされていない
    主郭に五か所も虎口があるのは出入りを優先させたもので、防衛用ではない

    みたいな論拠を筆者があげられてるが、城の構造とか俺はトーシローなんでさっぱりわからんな
    ま、巻頭の城特集の4Pじゃ限界があるわ

  10. 人間七七四年 | URL | -

    新府城から落ち延びて、小山田信茂ではなく、真田昌幸の所へ落ち延びてたら、滅亡は免れたのかな。
    三ヶ月の本能寺の変後、甲斐は混乱して河尻秀隆が討ち死にしてる。
    勝頼が生き残ったとして、甲斐を取り戻せる可能性もあったと思う。
    真田丸の勝頼は「家臣に裏切られ苦悩する姿」が描かれて良かったと思う。

  11. 人間七七四年 | URL | -

    ※6
    武田滅亡が本能寺の変のトリガーだから無理だろうな。
    本能寺の変が命運を分けたのは上杉と新発田。

    ※7
    家康が裏切ったとかならともかく、もともと敵対してたのに攻めてきたから~は理由にならんよ。
    むしろ家康がいるのに、長陣が必要な和睦策を取ったという点で外交能力に問題があったって証じゃん。

  12. 人間七七四年 | URL | -

    ※11
    まてまてどうしてそうなる?
    越後で本格的に戦ったらそれこそ長陣になって戻ろうにも戻れなくなっちまうぞ

  13. 人間七七四年 | URL | -

    なんだか「本能寺の変まで待て」とか、随分と可笑しな論調があるね?
    何故結果論を先に出して筋立てしようとするのか、意味が分からなすぎるよ
    誰も予想し得なかったからこその、あの大混乱だったのだろうに

    最近紹介が続いている「本阿弥行状記」も、内容は殆ど全てが結果論を弄ってるだけだけど、
    一応光悦も元の書物を読んでから感想述べているだけあって、当時の人の感想が記されている
    と考えるべきなのかな?

  14. 人間七七四年 | URL | -

    御舘の乱は、反長尾が担ぎ上げた景虎によるクーデターだと思ってるから
    あんまり北条に正当性が無い上に
    乱が起きたのも5月じゃなく、謙信死の直後だと思ってるから
    正当な当主である景勝寄りの態度をとる判断は正しいのでは
    事実、景勝は武田攻めの際に勝頼を助ける気でいたし

    景勝クーデーター説が世間的に浸透してるせいで
    史実を見余って、彼らの動きに対する評価にも悪影響与えてるような

  15. 人間七七四年 | URL | -

    正当性で外交したので失敗したとも言える。

    上杉との戦を避ける為の和議と言っても、
    景勝は内乱中で当面は脅威にはならない。

    逆に和議を結んだ結果 、北条などを敵に回すはめになった。
    内乱中の上杉と違い、この味方か敵かの差は大きい。

    勝頼は家系の正当性を奪われる形で生まれた子であるから、もしかしたら血筋等の正当性にコンプレックスを持っていたのかもしれないが。

    戦国大名とは下剋上により正当性を奪い、のしあがってきたことを忘れちゃいけない。

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