明石掃部介の子は

2016年05月08日 13:31

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/07(土) 19:18:39.93 ID:TtGhYx1x
明石掃部介全盛(全登)は大阪落城の時、戦場より逃走し潜居した、という説がある。
これによると、大阪合戦の3年後、籠城の者御免という事と成り、明石も押して晴れたる身となったが、
既に老衰におよび、遂に病死した。

その子は明石の苗字を憚り、三方次郎右衛門(或いは三郎左衛門)と名乗った。
物に馴れた者であったが、元和年中に幕府が金山開発を発表した時、気のことを願い
佐渡の金山を掘る事への許可を得た。そこで彼の国に赴き掘り立てたが、金の鉱脈に当たらず、
父が蓄えた金をこれのため残らず失い、京都に帰ろうとした。

その道すがら、座頭の者が、官を進むための金を持って、同じく京に向かう所に行き会った。
三方はこの者に

「その金を是非貸して頂きたい!もしその気がないのなら殺害する!
我が願いが成就すれば即座に返済して官を進ませよう!」

そう命を捨てて言い放った。
座頭も、否といえばたちまち殺されると察し、力なくその金子を渡した。
三方はこの金を持って佐渡に立ち返り、再び掘りかけると、金脈に当たり、
これによって分限者となった。

こうして最前の座頭に早速返済し、検校の位に進ませた。
この座頭も、約束の信義を失わなかった三方に感じ入り、その後入魂の間柄と成った。

金山も次第に繁盛し、三方次郎右衛門は後に帯刀を御免あって、従者に槍など持たせて往来した。
その頃になると三方但馬と称し、裕福にして京に居住して生涯を終えた。病死の後妙覚寺に葬られ、
そこには今も彼の塔があるという。

このように、彼は佐渡において御用の役に立ったが、扶持は下されなかった。
しかし代官同様の待遇であった。

彼の息子は後年禁裏に仕え、深尾左近将監と名を改め、その子も将監を称し、孫は
左近将曹といって、従六位上であったが、享保13年(1728)に病死した。

(新東鑑)



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/08(日) 20:58:48.37 ID:Qdu+qghk
明石全登といえば
子孫がロシアにわたって反乱を扇動し
その後台湾の支配者になったとかいう伝説が

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    じつは生き延びていた説って日本文化なのかな?

  2. 人間七七四年 | URL | -

    米1
    ジャンヌダルクやらヒトラーやら
    海外にもその手の話がある人は居るべ

  3. 人間七七四年 | URL | -

    下手すると大阪勢全員生存説あるかも
    一方信繁に討たれた説ある家康

  4. 人間七七四年 | URL | -

    ※3
    家康「私が死んでも、代わりはいるもの」

  5. 人間七七四年 | URL | rMPwZq/k

    秀頼を筆頭に大坂方諸将には伝説としての生存説があるけど、明石掃部の場合は幕府直々に明石狩りやってたくらいだから地味に信憑性がある。関ヶ原でも秀家の自害を押し留めて退却させたり、キリシタンは自害できないという逸話もそれっぽい気がする。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    ※3
    大坂方犠牲者ゼロの可能性が微粒子レベルで存在する?

  7. 人間七七四年 | URL | -

    これだけの有名人が本当に討ち取られていたのなら、顔を知られていないと言うのも変ですし、
    戦場を離脱したとの説もあるので、明石さんに関しては確かに生存率が一番高いかも?
    でも、大阪方の武将の中でも生き残りや再登用等された人も居るので、純粋に行方不明ってのも
    謎に拍車を掛けてますね。

  8. 人間七七四年 | URL | -

    ※7殿
    明石さんの息子2人は見つかって捕らえられているので、そのへんはどうでしょうかね?

    >掃部には何人かの男子がいた。そのうちの一人、内記は奥州の伊達藩領に
    潜伏していたが、寛永15(1638)年、密告により逮捕され、護送される途中、
    宇都宮で死亡した。
    >薩摩にも掃部の息子が潜伏していたのである。鹿児島城下の上町にある呉服屋の
    手代がじつは掃部の息子左近だったという。
    左近は日ごろ出入りの土持氏邸へ今生の暇乞いをしたという。仕事ぶりは「利発」で、
    「落ちぶれても左様ありたく也」と評されている。
    >小三郎はほどなく捕らえられて、桜島に監禁された。藩当局では、小三郎が掃部の子だと
    世間に知れたら、幕府の手前、大変だということで厳重にこれを秘した。
    そのうえで、ひそかに幕府にお伺いをたてたところ、寛永10(1633)年11月、
    老中から京都に護送するよう命じられた。ただ、その知らせは船便の遅延で
    鹿児島にもたらされるのに時間がかかり、江戸詰の伊勢貞昌をハラハラさせた。
    小三郎が護送されたのは翌11年になってからである。護送方法は「かご籠(ごめ)」
    ながら、丁重な扱いをうけた。粗末な食べ物を与えず、寒さのために凍えて病気に
    なったりしないように気を配った。
    とにかく島津家は小三郎を生きたまま幕府に引き渡そうと神経質になっていた。
    途中で病死などしたら、また逃亡したのではないかと、幕府にあらぬ嫌疑をかけられる
    恐れがあったのだろう。
    もっとも、その後、小三郎がどうなったのか、島津家や幕府の公式史料にも、
    キリシタン側の殉難史料にも表れない。おそらく京都で処刑されたのではないだろうか。
    (さつま人国誌)

  9. 人間七七四年 | URL | -

    キリシタンてネットワーク凄くて海外への高飛びルートとかありそう

  10. 人間七七四年 | URL | -

    >大阪合戦の3年後、籠城の者御免という事と成り

    明石はともかく
    ここが史実なのかが気になる

  11. 人間七七四年 | URL | -

    毛利安左衛門みたいに元大坂牢人から他藩に召し抱えられたみたいな話はちょくちょくある。大坂方に参加した数万人の武士を全員処罰するわけにもいかないから主犯格以外は許されてても不思議ではない。

  12. 人間七七四年 | URL | -

    道で出会った男に
    「その金を今すぐ渡せ!じゃねーと殺す!!渡したらそのうち返す!!」と言われて返済した後に仲良くなれる所がこの時代の良いところだと思うの

  13. 人間七七四年 | URL | -

    茶店のBBA
    「店で出合った男が食い逃げしたのを追いかけたお陰で有名になりました」

  14. 人間七七四年 | URL | -

    ※11殿
    どっちの陣営にしたって、
    上層部以外は「生活の為に戦争に参加しただけ」ってのは、
    それは殿様方もよーく解ってるでしょ。

  15. 人間七七四年 | URL | -

    ※10
    大坂古参と呼ばれた元からの秀頼家臣は、大坂の陣直後から
    徳川家などに出仕してている人もいるし、1年後には他の大名
    にも召し抱えてよいと許しが出ている。

    ただ大坂の陣の時に駆け込んだ新規の牢人を召し抱える事が
    許されたのは、元和9年の話なので大体10年程たってからです。

  16. 人間七七四年 | URL | -

    >>※15様

    牢人の方が後だったんですか。
    位が高い人ほど後、の先入観を持っていました。

  17. 人間七七四年 | URL | -

    米1
    有名なのだとアナスタシアとかもあるし

    近年になってやっぱり死んでたのがわかったけど

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