763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 15:12:33.35 ID:4/B3iYED
増田長盛は関ヶ原の合戦のあと、高野山に登り出家し、その後高力左近太夫(忠房)に預けられ
武蔵国岩槻に置かれた。
大坂の陣が始まろうとした頃、高力は台命を承り、増田に面して
「御辺は太閤に御恩のある方ですから、豊臣家の様子を見たいという願いの有ることでしょう。
であれば、大阪に上られよ。
これはわたしの私的な考えでは有りません。駿府より免しのあった事です。」
増田はこれを聞くと
「大御所は天下の人君なればこそ、いまこの仰せを承りました。
しかし、私はもう老人です。これから大阪に上り、新付の兵を下知しても、たいした働きは出来ず、
返って私を抜擢した太閤の御眼力に徒なす恐れもあります。
ですのでこのまま、配所にて生命を終わりたいと考えています。」
大御所・徳川家康はこの報告を聞くと、「兎にも角にも本人の心に任せよ」と答えた。
その後、豊臣家が滅亡すると、増田は高力に対面し
「両御所が大阪に御出陣の時より、どうにかして主君の終わりを承らないようにと祈り続けていましたが、
天命によって終に滅びました。であるのに私は、今後何を楽しみに存命すべきでしょうか?
身の御暇給わり候らへ」
そう申し乞うて、切腹したという。
(新東鑑)
766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 18:50:30.94 ID:6Eq4MEMp
あれ、増田って息子を大坂方にしたせいで切腹したんじゃなかった
増田長盛は関ヶ原の合戦のあと、高野山に登り出家し、その後高力左近太夫(忠房)に預けられ
武蔵国岩槻に置かれた。
大坂の陣が始まろうとした頃、高力は台命を承り、増田に面して
「御辺は太閤に御恩のある方ですから、豊臣家の様子を見たいという願いの有ることでしょう。
であれば、大阪に上られよ。
これはわたしの私的な考えでは有りません。駿府より免しのあった事です。」
増田はこれを聞くと
「大御所は天下の人君なればこそ、いまこの仰せを承りました。
しかし、私はもう老人です。これから大阪に上り、新付の兵を下知しても、たいした働きは出来ず、
返って私を抜擢した太閤の御眼力に徒なす恐れもあります。
ですのでこのまま、配所にて生命を終わりたいと考えています。」
大御所・徳川家康はこの報告を聞くと、「兎にも角にも本人の心に任せよ」と答えた。
その後、豊臣家が滅亡すると、増田は高力に対面し
「両御所が大阪に御出陣の時より、どうにかして主君の終わりを承らないようにと祈り続けていましたが、
天命によって終に滅びました。であるのに私は、今後何を楽しみに存命すべきでしょうか?
身の御暇給わり候らへ」
そう申し乞うて、切腹したという。
(新東鑑)
766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 18:50:30.94 ID:6Eq4MEMp
あれ、増田って息子を大坂方にしたせいで切腹したんじゃなかった
スポンサーサイト
コメント
人間七七四年 | URL | -
最後まで豊臣家の家臣としての気持ちを持ち続けていたんだろうか。
政略に強くて、大の男を刀で一刀両断にしたりできる凄い人の印象が散見されるのに、ここまで評価に乏しいのは悲しく思う。
この人絶対且元関連で何か絡んでそうな気がするんだよなぁ。
( 2016年06月01日 03:22 )
人間七七四年 | URL | -
人柄も悪い噂が無く、奉行肌の武将にしては戦働き(家臣の働きでもあるけど)にも通じていて、
時々の状況を良く判断出来る点から見ても、優れた武将の一人だったと思う。
( 2016年06月01日 09:50 )
コメントの投稿