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彼は義士である

2016年05月27日 17:57

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 21:05:11.45 ID:Fuik+Qgj
天正6年7月6日、島津は大友家に付いた日向国石ノ城を攻めることとし、伊集院忠棟を大将に大軍を
送ったが、石ノ城は大友より派遣された長倉祐政、山田匡徳を中心として頑強に守り、島津勢は500が負傷、
また多くの討ち死にを出し終に撃退された。

同年9月15日、島津は島津彰久を大将、伊集院忠棟、平田光宗、上井覚兼らを副将とし、さらなる大軍を以って
再度石ノ城へと押し寄せ、総攻撃を行った。
これにも石ノ城勢は三日三晩にわたって頑強に抵抗したが、元より小勢のなか、兵糧も尽きたことにより、
講和を受け入れ城を開城することと決まった。

講和が決まると、石ノ城の大将である長倉祐政は城の明け渡しのため島津義弘の陣所へと参った。
義弘は長倉に言った
「今回のことは貴方にとって残念ではあるが、これより後は私に従わないか?」
そう言って三方に土器の杯を据えて長倉へと差し出した。主従の礼を取ろう、ということである。

しかし長倉

「確かに残念限りないことです。ですが二君に仕えるのは義士の成さぬ所です。」

そう言うや土器を三方の縁に当てて打ち砕き、その座を立ち退こうとした。

この場の島津勢の人々はその無礼を見て激怒し、彼を討ち果たそうと騒いだが、義弘はそれを制して
「いやいや、彼は義士である。また、その主人のために働いた人を殺すのは不義である。」
そして長倉に

「あなたは此処から何国に立ち退くのか?」

「豊後へ。」

そこで義弘は侍大将二人に命じて、長持ち二つを用意させ、
一つには沓や鞍、雑具の類を入れ、もう一つには食物などを入れさせた。
それを持たせ、豊後との国境まで彼を送ったとのことである。

(日向纂記)



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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | dMfTzQYA

    蜈画???謌ヲ蝗ス迚ゥ繧イ繝シ繝?縺倥c繝槭う繝翫?縺ィ險?縺?□縺代〒縲∵焚蛟、縺ョ菴弱>髟キ蛟峨&繧薙↓螻ア逕ー縺輔s縲?

  2. 人間七七四年 | URL | -

    義弘さんはさすがの言動だけど、大友も家臣は本っ当に義理堅い人少なくないんだよなぁ…

    トップがなぁ…(嘆息)

  3. 人間七七四年 | URL | -

    大友さん家は、ベッキーさんや高橋さんたちもいるのになあ。
    トップがねえ(苦笑)

  4. 人間七七四年 | URL | -

    勘違いしてるみたいだけど長倉祐政も山田匡徳も伊東家の家臣だぞ。天正6年の挙兵は伊東家の旧領回復のためで、大友は島津へ対抗するのために支援してただけ。伊東家の旧臣たちは伊東祐兵が大名に返り咲いた時に他所から舞い戻った人たちが多くて義理堅いのよね。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    長倉は耳川の戦いで戦死するけども、山田はその後も生き残って薩豊合戦で佐伯惟定と共に城を死守、伊東が復活した時に戻ってるんだよね
    あと伊東の家臣が義理堅いんじゃなくて義理堅いのが伊東に残ったんだと思います(小声)

  6. 人間七七四年 | URL | NrynFG3w

    ちょっといい話特有の謎の伊東推し。伊東祐兵の逸話とかやたらと充実してたりするし、なぜなのか気になる

  7. 人間七七四年 | URL | -

    そりゃ、最終的に生き残ったというか生き返ったからでしょう

  8. 人間七七四年 | URL | -

    ※6
    「最終的にハッピーエンドな天庵さま」てイメージかなw個人的に
    天庵さまのダメ殿っぷりは親父の義祐っぽいがw

  9. 人間七七四年 | URL | -

    大友の家臣かと思ったら、島津にとって殺しても飽きたらぬ伊東の家臣か
    義弘の態度は立派だが、その後家臣団をどう説得したのか気になるなぁ

  10. 人間七七四年 | URL | rMPwZq/k

    敵味方だから怨恨があるってわけではない。相良家臣の岡本頼氏は川上久朗を討ち取ったけど義弘に許されて島津側で戦ったし、犬童頼安も島津に手痛い打撃与えたけど新納忠元も和歌のやりとりしてるとかある。親の仇を許して召し抱えたり、自分が討ち取った相手の子の面倒を見たりみたいなのは戦国時代では多い。この辺は現代人には理解できない感覚だろうね。

  11. 人間七七四年 | URL | -

    そういや関ヶ原の時の立花宗茂と島津義弘の話もあったな

  12. 人間七七四年 | URL | -

    確かに味方を沢山討ち取った武将はヘイトを向けられる傾向もあるけど、
    逆にだからこその絶賛を浴びたり、尊敬を集めたりもしますよね。
    多分同じ時代の同じ境遇だからこその理解と云うのもあるのでしょう。
    実際逸話にしても、この手の話は珍しい物でもないですしね。

  13. 人間七七四年 | URL | -

    ※6
    三位入道がダメダメ過ぎた分、その落差もあって祐兵スゲーということかなと

    三位入道は伊東家の史料である筈の『日向記』にすら、讃える話もいい逸話も皆無だし・・・

  14. 人間七七四年 | URL | -

    ※6
    言葉は悪いが後世の日向国、宮崎県民の郷土愛の慰め先という面も?

  15. 人間七七四年 | URL | -

    ※14
    宮崎県民は宮崎県民でも、江戸時代に伊東の御膝元だった日南市の飫肥の人ですかね。

    元々の御膝元だった佐土原は、江戸期は島津家久・豊久の系統(養子が継いでますが)が殿様でしたし、延岡市は高橋とか有馬など藩主が数回変わってますすが伊東が統治したことはなく、高鍋・串間は秋月、都城市は島津庶流が治め、小林市・えびの市などの南西部は薩摩藩領だったりしますので。

    ま、江戸時代に島津領だったのに、現代 半ば作為的に伊東を推す風潮を作り上げてる綾町なんて地域もありますけど。

  16. 人間七七四年 | URL | ixivxIWw

    言うほど宮崎県って伊東家推してるか?
    どうしても東国原と南国フルーツのイメージが拭えない

  17. 人間七七四年 | URL | -

    ※16殿
    >宮崎県って伊東家推してるか?

    場所にもよるかな?
    都城は島津家発祥の地と言っているし、飫肥だと伊東氏(けれど飫肥城の案内には
    島津義弘の紹介もあり)だし・・・けど宮崎市とかは天孫降臨メインだったな。
    あと、前知事が知事だったときはお土産がそれ関係だったと言っておこう。

  18. 人間七七四年 | URL | -

    自分は佐土原出身だけど確かに伊東より島津のイメージが強い。
    実際展覧会も島津関係が多いし。
    何年か前に島津家久・豊久入城400周年の展覧会を催しがあったがたくさん人来てたなあ。

  19. 人間七七四年 | URL | -

    ※18殿
    前にその島津家久・豊久入城400周年の展覧会に関わった人が
    今後は同じ規模の展覧会は(予算の都合上)出来ないだろうと
    言われてました。
    あと、一番来て欲しかった地元の人はあまり来ていなかったとも・・・

  20. 人間七七四年 | URL | -

    ※19殿
    そうだったんですか。
    今だったら豊久がゲームや漫画の影響で知名度が上がったので集客が見込めそうなんですが。
    そういえば家久・豊久展で関ヶ原合戦屏風絵の写しが、展覧会終了後に確か県立美術館か博物館に移送されたそうですね。
    年に一度でよいので出してほしいなあ。

  21. 人間七七四年 | URL | -

    ※20殿
    >ゲームや漫画の影響で知名度が上がったので集客が見込めそうなんですが
    他の佐土原の方が「展覧会の時期に「ドリフターズ」がでていれば・・・」
    と言ってましたので思いは皆一緒のようです。
    それで言うと、昨年国民文化祭でドリフターズ原画展をした鹿児島県日置市は
    集客バッチリだったそうで、国民文化祭の手伝いをした知人いわく、
    「あんなに長い行列を見るのは北海道物産展以外初めてだ」そうで・・・
    あと、戦国島津のバスツアーや関ヶ原合戦絵巻(エキストラ200人以上一般募集)
    にも秋田や石川、宮城など遠方から来た人も多く知人が驚いてました。
    (小早川秀秋役の人は関ヶ原の近くで本人役をしている人が一般募集で(自分で)
    申 し込んできたそうです)
    あと、来年当たり日置市は関ヶ原合戦絵巻の続編(中馬さんに肉取られたり、
    立花さんと再会して涙するところ)を上演するらしいです。

  22. 人間七七四年 | URL | -

    ※21殿
    何とも羨ましい限りです。
    ドリフターズは色々コラボしてるみたいですのでいつか佐土原でも実現してくれといいんですが。

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