生存したとて死と同じである。

2016年05月29日 13:05

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 01:45:53.35 ID:cAiDNTPK
 大阪落城のとき、秀頼が薩摩に行ったことは前にも言った。
(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9987.html


 さてこの頃聞いたことに、初めは肥後の隈本に立ち退いたとのことである。
従者が五人いたが、三人はかの所で暇を出したそうだ。
肥後でも関東を憚り、薩摩に送り遣わしたという。
(この次第は、人名等を『白石紳書』に見えるという。予の書は戊寅(1818年・文化15年、文政元年)に焼亡したので、人がいうままに記す)


薩州でも関東を恐れて、内々にその実を申し上げると、

「すでに大坂落城して、秀頼生害と披露したので、生存したとて死と同じである。
そのままにしておけ。しかし他国へは出してはならない。」

との御沙汰があり、秀頼は91、92まで存命したという。
その子孫は、今四世ばかりになって、木下谷山村というところに住居して、次郎兵衛という百姓であるとのことだ。


 朝川鼎(善庵)が西遊したとき、まさしく会って聞いてきたという。
秀頼の墓というのも行って見てきたが、同村の普門寺という寺にあって、無銘の石塔であった。
(この谷山村は鹿子嶋から二三里にあるという)
 かの百姓の家に秀頼の鎧、太刀、刀が今でも残り、その他の物は一切無い。
それは、秀頼が亡くなった後、所持の品はことごとく売り払い、それで田畑を買い取り百姓になったためだという。薩摩からは前後手当て等はなかったとのことである。
以上も次郎兵衛が鼎に話したことだという。
これは関東を憚ったためであろう。


 これらを思うと、今の天下の御勢を観ることができよう。
また豊氏の全盛の成果も憐れに思われよう。
(甲子夜話)



662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 13:07:00.87 ID:9kCyK6as
>>660
>薩摩からは前後手当て等はなかったとのことである。
創作なのに妙にリアルだw

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 13:31:15.80 ID:T5Pmts09
護衛や監視役はつかんのか
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    どうして落人=九州へ集合なのでしょうね?当時の日本の端っこだからかな?
    どうせ船移動なら日本海回りで東北でも良いんじゃないかな~って思ってしまうw

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ※1殿
    明石さんの息子さんの内の一人が東北へ逃げていますよ。
    (明石内記は奥州の伊達藩領に潜伏していたが、寛永15(1638)年、
    密告により逮捕され、護送される途中、宇都宮で死亡した)
    やはり、泳いで参った人が薩摩に潜伏していたせいでしょうかね。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    かつては義経も北へ逃げたし、尊氏は西へ逃げたし
    とにかく中央から離れた方が安全というのがあったんだろうね

  4. 人間七七四年 | URL | -

    ※1
    船で関門海峡を通って日本海に出て東北まで行くのは厳しいでしょう。
    京都からなら陸路で敦賀あたりまで頑張ってその先を船で東北へ、ともなるのでしょうが、
    大坂からだと日本海までの陸路の距離が増えますし。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    「熊本城の「昭君の間」は、清正が秀頼を迎える為に作らせた。」
    と、よく言われてますよね。

    島原の乱で徳川家光が、天草四郎を討ち取る命を下したのは「四郎が秀頼の子孫」だからとか。

    義経みたい「蝦夷からモンゴルに渡り、チンギス・ハーンになった。」という感じでしょうか。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    1です。皆さんお答え有難う。

    ※4さん
    >>大阪から日本海まで~
    一応その積りで聞いてみたのです。言葉足りずに申し訳ないです。
    流石に大回りで日本海には無理でしょうから。
    当然太平洋周りなんて夢物語ですね。

    >>熊本城の召君の間は秀頼の為に
    この説、もういい加減訂正してほしいですよね。ガイドさんですら当然のようにお話
    するんですよ。もうただの使者を招く間として確立しているのに。
    でも今はその熊本城がね・・・・。無事に街が復興して欲しいですね。

  7. 人間七七四年 | URL | -

    ※1さん、此方こそ、ありがとうございました。「昭君の間」はし

  8. 人間七七四年 | URL | -

    ※1さん、此方こそ、ありがとうございました。「昭君の間」は使者を招く為の部屋だったですね。
    熊本のシンボルである熊本城が痛々しい姿は、テレビで見ました。
    早く復興して、熊本の皆さんの励みになるといいですね。

  9. 人間七七四年 | URL | -

    ※6
    しゃあない。それが所謂観光史学だ
    観光客が喜びそうな忠義・悲壮・純愛の逸話をてんこ盛りにしたら案内が楽だしね、実際喜ぶし
    会津だって藩政に対する一揆が頻発したことはダンマリで白虎隊と孝明天皇に対する忠義ばかりでしょ
    観光客はお勉強しに行っている訳ではないからね、暇つぶしとリフレッシュだ
    別に悪いことではなく、それで歴史に興味持ってくれたら、いつかはこういうサイトに巡りあうだろう
    昔と違って図書館行っても歴史小説家の本が歴史学の棚に置いてある事もないし
    …ああああ、司馬遼太郎の本を史実と思ってた自分を殴りたい!

  10. 人間七七四年 | URL | -

    ホントにホントの史実なんて誰にもわからないんだし
    通説や創作をいちいち排除してもつまんないよ

  11. 人間七七四年 | URL | -

    >もうただの使者を招く間として確立しているのに

    ソースは?

  12. 人間七七四年 | URL | -

    >>招君の間
    今は殆どが主君が使者を出迎える間・何かの行事に使う間としての説が強いよ。

    それに熊本城築城後の大阪方と徳川家の情勢考えれば、わざわざ秀頼の為なんて説を取る方が
    余程こじ付け。秀吉子飼いの清正ですら、こりゃ豊臣駄目だと匙を投げてるのに、何で秀頼の部屋
    な訳よ?

    >>ソースは?
    ソース云々求めるにしても、まず自分で探すのがマナーだと思うし、これではただのソース厨
    ですよ。それならご自分で秀頼の間だと思っていれば良いのでは?

    それに史実に対して、観光用の歴史は確かに興味も魅力もある。だからこそ排除じゃなくて、
    そんなお話しもあるけど、実際はこんな感じです程度が良かったと思ったんだ。
    実際に聞いた側としてはね。

  13. 人間七七四年 | URL | -

    奇説珍説をさも定説でございと出してくる連中が多いからソース主義になるのもしゃーない
    鼻で笑いながら参考文献の一つも示してやればいいだけのことよ

  14. 人間七七四年 | URL | -

    いくら清正が秀吉の身内とはいっても、結局豊臣政権崩壊の時点で豊臣家中の主導権を握れる立場には入り込めなかったわけだし、秀吉からも豊臣家からも、もしもの時の逃げ口ぐらいにしか思われてなかったんだろうから、秀頼の間ではなく同輩の正則専用の間だった可能性はあるかもね。

  15. 人間七七四年 | URL | bzb2jBZU

    秀頼の間だという証拠も何もないからね
    いわゆる俗説
    だから秀頼の間だという証拠のほうが先だろうね
    二条城面会だって家康息子の付き添い説も有力だそうだし

  16. 人間七七四年 | URL | -

    天下のNHKですら昨日の探検バクモンで名古屋城の本丸御殿を
    「尾張徳川家が諸大名を招く」「藩主が家臣と対面した場所」「藩主が生活した場所」とか紹介してたよ
    歴史好きからしたらツッコミどころ総動員だが、まあこんなもんだわな

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