武田信玄公は人を試みるのに

2015年07月09日 15:52

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/08(水) 19:20:19.21 ID:nMspfqpB
武田信玄公は人を試みるのに、まず甲州の中での河川改修、普請、その他鷹狩などにおいて、
在郷の山に、竹木大小の有るのをよく覚えられていて、それを知られないよう、人々に尋ねられた。
そして人々の中から詳しく見憶えていて申し上げる者には

「その場所を度々見たのか?それとも私の供をした時だけで見憶えたのか?」

そう重ねて尋ねた。そのような事が幾度も重なった上でも詳しく説明の出来る人物を、信玄公は
他国への検使に遣わし、国境の模様などを観察させた。

或いは、信玄公はくどく物をお尋ねに成り、その人の心を汲み取ろうとするのが常の儀であった。
その様子は、例えば御前衆の親に患いなどあれば、その者に煩いの様子を詳しく尋ね、その者が親に
孝不孝のどういう感情を持っているかを知ろうとされたが、人々はそれを知らないので、
「信玄公の癖で一つのことを何度もお尋ねになる」と話したりしていたが、それは僻事である。
我らも、よくよく思案、工夫して信玄公の儀に至るべきなのだ。

古人に曰く、『金は火を以って試し、人は言葉を以って試す』というではないか

信玄公はこのように試みて、又その上側近くに置いた近習の内、無二無三に御屋形様の御用に立つだろうと
思われる若者を6人選び出し、彼らの発言を聞こうと考えられ、彼らから、諸人、または他国より来た新参衆の
手柄の虚実について聞き、

「或いは、手柄が在っても嘘を常に申す者か、朋輩で良く近づくものに頼もしさの無い者か、
大身衆にばかり慇懃で、諸朋輩に慮外な人間か、酒を過ごして酔狂をするひとか、総じて諸人に
腹を立てぬようにする人か、武具には万事嗜みのない人か、分限にて諸道具をよく嗜んでも、
弓矢に心を入れない武道への心がけのない人か、一切の善悪を言え」

と仰せに成った

この6人は、曽根孫次郎、金丸平八郎、三枝勘解由左衛門、真田源五郎、三枝新十郎、曽根与一の助の
事である。この内、金丸平八郎は土屋右衛門と、真田源五郎は武藤喜兵衛と呼ばれていたが、これは
勝頼公の時代、長篠合戦において彼らの兄が討ち死にしたため、その後を継いで名が変わったのである。
真田は、この頃は真田安房守と申している。曽根孫次郎は内匠と称している。
三枝勘解由左衛門は長篠で討ち死にした。

彼らはいずれも、弓矢鍛錬は覚えの武士にも劣らぬ人々であるが、それは信玄公のおそば近くで召し使われ、
よろずその御発言を承り、覚えた故である。
(甲陽軍鑑)




甲府法華宗の僧公事の事

2015年06月10日 16:52

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/10(水) 03:25:15.62 ID:coR1VNVY
甲州府中の穴山小路に、新立寺という日蓮宗の寺があった。これには脇寺が14,5あった。
この14,5の中に林生坊、昌沈坊という坊主があり、女房を持っていた。この事を近所の町人である
ぬき名加兵衛、玉越松左衛門の両名が、訴人申し役である岩間大蔵左衛門へ告発した。

さてこの岩間大蔵左衛門であるが、彼が訴人申し役となったのは、数度の臆病をしたためであった。

武田信玄公は慈悲深き大将であったので、この岩間大蔵左衛門は家に久しき者の筋であったから、親の跡目
三百貫の知行を下し、何でも手柄を致すようにと思い、合戦の際には馬具足など与え「これに似合いの
心ばせを仕れ」と仰せになるなどしたが、その時は潔く請け負っても、勝負の時をいつも外し、
しかも遠くまで逃げること度々においてあり、卑怯のたびに牢に入る事7度であった。
7度目には信玄も家老の衆を召して言った

「岩間大蔵左衛門だが、様々におどしすかして取り立ててみたがどうにもならない。生まれつきの
未練者なのだろう。然しながら譜代の者を飢殺すもいかがかと思う。彼に似合わしき役を与えるように。」

そこで武田家分国の大身小身の侍或いは僧俗一切の人のこと、悪しき儀に関する訴人申し役が
この岩間に仰せ付けられた。一種の検察官である。

さて、これ故さきの林生坊、昌沈坊という新立寺の法華坊主が女房を持っているという事を聞いた
岩間は喜び、訴えでた二人の町人を同道し奉行所に訴え申した。そこで武田家の四奉行は
新立寺院主の御坊へ書状を送付し、林生坊、昌沈坊の二人の僧を御蔵前に召し寄せた。
そして岩間とぬき名加兵衛、玉越松左衛門の二名が呼び出され、二人の僧と対決させた所、
法華坊主は両人ながら負けた。しかし、彼らはここで申し上げた

「妻を持っている僧は我々だけではない!法華の寺の中を数え立てても、何れの寺にも
5人6人は居る。我々の寺の中から10人を訴えたとして、清僧は2,3人いるかどうか。
新立寺の脇寺15間の間にさえ12人いるのなら、甲州中では、在郷の僧も含めれば200人も
罪に問うことに成ってしまうのが、この林生坊、昌沈坊への裁判である!」

諸人はこの裁判の成り行きに関して、法華坊主が際限なく斬首、あるいは火炙りにされると沙汰した。

奉行衆は以前、岩村田の法華坊主を証拠もないのに御分国から追放した。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9299.html
ましてこれは大方の裁判ではないと、急ぎ事実関係を改め記録を作り、武田信玄に書面を以って申し上げた。

信玄はこれを聞いて
「この坊主たちは皆日蓮宗か。法華修行の僧ならば問題はない。何故なら法華経に、『貴賤上下
持戒毀戒威儀具足正見利根鈍根等雨法雨』とある。この経は、貴きも賤しきも高も低も、戒を持つも
戒を破るも、袈裟をかけるのもかけないのも、直に成るのも邪に成るのも、等しく法の雨を降らす、とあるのだ。
法の雨とは仏になることである。であれば、出家も俗も仏に成るにおいては別け隔てはないのだから問題ない。
ことに法華の坊主は、自分たちの経をかさにきての事であろう。
顕密(顕教と密教)ではなく日蓮宗の者が、女房を持つのは問題はない。免して持たせよ。

ただし、清僧であればまた問題は別だ。清僧に対する特典は何かしらあるべきだ。でなければ清僧落僧の
隔てが無くなってしまう。清僧落僧の隔てとして、今言ったことを書き立て、落堕の僧たちに、
妻帯役という税を申し付けるようにせよ。」

そうして安間と言う侍を妻帯役の代官にし、その後、妻を持つ法華坊主は、みなこの安間の元に、
年に一度ずつ年貢を出すことと成った。

(甲陽軍鑑)

法華僧妻帯者への、妻帯税設立の話である



895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/11(木) 08:03:19.56 ID:Avv5eweo
信玄うまい

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/11(木) 08:56:22.65 ID:FdeOzc0v
法華坊主「ぐぬぬぬ…」

「大日向の火とぼし」由来

2015年06月09日 17:31

149 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/08(月) 13:46:30.65 ID:aPwIQt1M
初投稿失礼します。
普段、まとめサイトの方を見て楽しませて貰っているものです。

母方の群馬の実家に「大日向の火とぼし」という火祭りがあるのですが。

「火とぼし」は南牧村の大日向地区に4百年以上も昔から伝えられてきた、
県内に残されている最大級の火祭りです。火祭りの方式は「あばれ祭り」の型です。
住民の先祖が永禄4年、武田信玄軍が上州に攻め入った際、武田勢を助け、
領主勢の軍を打ち破った時の喜びを「火祭り」の形で伝えたものといわれています。
笛や太鼓とともに、南牧川に架かる大日向橋の上から、長さ2~3メートルの縄に
くくり付けたワラ束を燃やし、2~3人ずつでぐるぐると回します。
丸い炎の軌跡が闇の中に浮かび上がり、真夏の夜のひととき、力強さと幻想的な雰囲気が辺りを包みます。

https://www.youtube.com/watch?v=-dbVHSKoubE&feature=youtu.be

(南牧村HPから転載)

気になってまとめサイトを調べてみたら、まさにその時の話がありました。

「武田信玄の国峯城攻め・いい話」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2244.html


500年以上前の出来事を地元の人達が文化として綿々と伝えてきたいい話?でした。




信濃国岩村田法華宗の僧公事の事

2015年06月02日 13:57

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/02(火) 05:45:09.09 ID:3bxDsVUV
信濃国岩村田法華宗の僧公事の事

信濃国岩村田に、いかにも小分の百姓があった。この家の夫は浄土宗、女房は法華宗にて、
夫は妻を我が宗に成るように言い、女房は夫に法華になり給えと申し、決着つかず
この事で夫婦の仲も悪くなった。

夫は亡き父母のために、毎月それぞれの月命日に浄土宗の出家を招いたが、女房はこれを気に入らず、
女房は母の月命日に法華坊主を呼べば、夫は殊の外腹を立てた。

夏の頃のこと、夫が馬の秣を刈りに明け方家を出た。その日は女房の母の月命日にあたり、この日は必ず
法華の坊主も家に来ていた。

その坊主も、日が高くなって気温が高くなるのを嫌い早朝にその百姓家に来て、衣を脱いで垣にかけて、
川のせせらぎの傍らに立って小便の用をたし、井戸の元に来て手水をつかい、衣を取って着ようとした。
この様子に気づいた女房は、「御坊が早くお越しになった」と、急ぎ起きて窓から
「御坊、お早くお着きになりましたね」と言葉をかけた。と、ここにどうしたわけか夫が戻ってきた。

法華の坊主はまだ衣を着けておらず、夫の姿を見て慌てて衣の紐を結んだ。
この姿に夫は激怒した
「前々から気にいらなかったが、こんな事になるとは聞いたこともない話だ!」
夫は様々に坊主を罵り押さえつけて縛り上げた。

この事態に、出家と同じ宗旨の僧たちが近郷より数多来て、重ねてこのようなことがあってはいけないと、
目安を書いて所の領主に提出した。

領主は、仮初であっても出家の事について、私的な裁きは出来ないと、現地の代官を添えて甲府の
四奉行にこの案件を上げた。奉行たちは状況を聞いて

「この件は、出家に非があるというにはいかなる証拠もない。しかし百姓が無理を言っている様子でもない。
だからといって小さな訴えであるのだから、正しさを証明させるため。双方に鉄火、あるいは
みたけの鐘というような事をやらせる程でもない。」

このように色々詮議したものの、奉行四人の分別にかなわず、仕方なく主君・武田信玄の判断を仰ぐことにした。

信玄はこの件を説明されると即座に
「その縄のかかった出家の所業は、他の宗旨ならば様々な解釈もあるだろうが、日蓮宗においては先ず
誤りを犯している。どういう事かといえば、法華経の五巻に『入里乞食将一比丘若無比丘一心念仏』とあり、
これを訓読みすれば『里に入り乞食するならば、まさに一人の比丘を連れよ。もし比丘なければ、
一つ心に仏を念じよ』とある。どうしてその出家は、他の僧を一人連れて行かなかったのか。

仮に、雇われる坊主に事欠くならば、その身一人で行ったとしても、数珠を取っていかにも殊勝な体にてこそと、
法華宗では申している。衣を脱ぎ、人の不審を抱くような姿をみだりにして出家の威儀を乱すこと、
法華経の宗旨に照らしても法に背く道理である。

さりながら、いやしくも仏に仕える出家に、証拠もなく粗忽に縄を掛けることは、わたくしにやっていい
事ではない。一方でこの百姓を、狼藉であると頸を斬れば、相手が出家であるだけに、その仏の慈悲が
隠れてしまう。

であるので、百姓には百日の籠居とし、彼の女房は、このままその男と添い遂げるのも、離別するのも
女次第であり、これは申し下すにも及ばない。
またこの出家は、いかに田舎に住む無学の僧であるとしても、その経文に背くのは曲事である。
であるが先の百姓の申すことにも証拠がないので、これも罪科にはならない。彼の罪は
経文相違の事だけである。

経文に相違した出家をそのまま置くのは宜しくない。よって経に背かないよう志し、他国に参って
出家として修行すべきだ。よって、我が分国から追放せよ。」

このように青沼介兵衛、市川宮内ノ助両人に仰せ付け、遠国を精査させ、出家を能登国へと遣わした。
(甲陽軍鑑)



869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/03(水) 08:53:18.18 ID:l/rm9zfQ
>>867
お屋形さまは本当に博識だな 軍学だけでなく法華経の一節にまでもくわしい

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/03(水) 10:55:06.11 ID:l09lLSZr
甲斐の総本山様と上手く付き合う上で必須だったんだろ

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/03(水) 10:58:43.81 ID:9FEhlndk
自称天台座主だし八宗兼学でもおかしくない

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/04(木) 00:03:46.44 ID:foP/Vm+p
>>867
これはむしろいい話では。
さすが信玄公、経文を踏まえた見事なお裁き。
家中を乱す宗門間の争いの抑制もお考えかと。
百日籠居はちと重い気はしますが。

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/04(木) 00:17:39.85 ID:FpuC+TTb
出家を追放するにもちゃんと行く先まで面倒みてくれるなんていたれりつくせりだよw

武田信玄、上野に出陣する

2015年04月19日 15:49

846 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/04/18(土) 18:17:08.14 ID:KCRda4ih
>>677の後日談

弘治3年正月7日に、相州小田原の北条氏康より、武田信玄に大藤金谷斎栄永を以って申し入れがあった。
それによると

『10年以上前に武田殿が上野に軍を出す事のないようにと、駿河の今川義元を頼んで申し入れましたが、
上杉憲政が越後国の長尾景虎を頼み、越後に行ってからは、景虎が年々関東で働きをするように成り、
それを頼って、独り立ち出来ない上杉家の侍大将どもに、上杉を帰還させることも嫌がり、かといって
この氏康に従うことも嫌い、敵になり味方になって、関東は治まりかねております。

上杉家のそのような者達は多き中に、武州にて太田三楽と申す侍大将と、上野の長野信濃守(業正)は
特に大いなる徒者にて、景虎の後ろ盾を当てにして氏康に盾を突き、末々は、両人の動向を見るに、
太田三楽は武蔵国すべての領有を望み、長野信濃守は上野を望んでいると考えられます。

そこで、大田三楽はこの氏康が討伐し従えましょう。長野信濃守について、信玄殿がご成敗なされ、
上野を甲州より御支配なされるように。』

これにより弘治3年3月中旬より、信玄公は上野へ出陣された。

(甲陽軍鑑)




信玄の悪名

2015年02月09日 18:46

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/09(月) 16:56:39.34 ID:7geQzkwY
武田信玄の武勇は盛んになったが、行く末は如何であろうか。
古には小松殿・平家の一族も西海の波底に沈んでしまった。名を後代に残すにしても、
今の信玄は貴むべき人ではない。

彼の年々の戦いは、ここかしこ、南でも北でもあちこちで、信玄の軍と聞けば女子供まで
恥ずかしい、悲しいと言う有り様である。
その上数多の命を失わせ、神社仏閣を破却し、言葉にも出来ないような悪事を行った故であろう、
数年の軍功も、勝頼の代に至って草場の露となってしまった。
誠に、前車の覆るを見て後車の戒めにしなければならないというが、中々出来ることではない。

武田には侍と生まれてきてあるまじき事どもがあった。例えば、夫のある女であっても召し寄せるよう
遣わし、従わぬ女は刺殺し、又は牢に入れ拷問をした。その人々の泣き叫ぶ声は、身の毛のもよだつ
恐ろしいものであった。

この一冊は箕輪軍記と名付けたが、実際には治乱記である。
箕輪軍記は世に類ない書籍である。この軍記は、末の代までも当国の事、言説、聞説を
人民の身持ちのためにも伝えるのである。

この後、信玄は4,5年の間武勇を振るい軍勢を押し出したが、非道を行い正路に帰る事無く、
天道にかなわなかったためこれを許すことはなかった。
武家、その他出家沙門に至るまで非道の罪は皆同じである。
身分の軽い人々にないしては、なお無理非道の事が多く、世間に悪名を表した。

(簑輪軍記)

箕輪軍記より、武田信玄に対する評である。




武田信玄の屏風

2014年12月05日 18:31

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/05(金) 10:00:37.77 ID:B+kjcUVK
武田信玄の屏風

武田信玄は甲斐の太守で人傑(英雄・才武に優れた人物)を好んだ。
その信玄は寝室の枕元に日の本の名だたる武将の名を記し「敵としてでも一度は相まみえてみたいものである」と語ったと言われる

屏風には遠く九州は戸次鑑連・湯布らの名が記されてあったが、我ら最上家に仕える伊良子宗牛爺(翁)の名も頭から十指に入る内に記されていたと聞く

「最上記(上山満兼生涯之事)」「山形古話」ほか

信玄公がチョイスした残りの人物名が気になるところ




戸石崩れは武田信玄の負けに非ず

2014年12月05日 18:30

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/05(金) 02:30:48.45 ID:10qg/MX/
信玄公は、十六歳の十二月から五十三歳の四月十二日の他界の日までも、ついに包囲した城の囲みを解いたり、
或いは敵が向かってくるのを聞き、先鋒を捨てて甲州へ逃げなさる事、
日本の諸仏諸神に誓って、決してなっかのである。
昔のことは、当屋形の勝頼公はご存知ないであろう。長坂長閑はよく知っておられるはずである。
右のごとく強い大将故、敵の国で、信玄公を雑人が歌に歌う沙汰もなかった。
これほどに剛強なる大将は、前代にもそれほどいなかった。それから末代にも、あまり多くはいないだろう。
されども文武二道の嗜みをもち、物事を華奢でかつ強かにおこなったので、合戦に勝たれても、敵の大将を誹らなかった。
勝利を得ても、一層慎重に考え、
国境つまり三河では設楽郡、美濃では土岐遠山、遠州では二俣、相模は真庄、上野では石倉・鷹巣、越中では神保・椎名、飛騨の江間、
信州では越後との境目に対して、各々に用心を厳しくすべきとの書状を送り、物事を万全に処置しなさった。

 また天文十三年に信州戸石で合戦したとき、甘利備前守(甘利虎泰)、飯富兵部小輔(飯富虎昌)、板垣駿河守(板垣信方)、
小山田備中(小山田虎満)といった信玄家での主だった先鋒衆が、村上頼平(村上義清?)に切り崩され、信玄方の衆が尽く敗れ、
特に先鋒の侍大将甘利備前守が戦死した。旗本からの検使役の横田備中(横田高松)も討ち死にした。
横田の息子の十郎兵衛(横田康景)は、その歳二十であったが、朝の競り合いで、村上家で高名な足軽大将小島五郎左衛門を組み打ち
で打ち取り、深手を負って退いた.その他、横田備中の同心たちが、この競り合いで、優れた者二十人余りが手負いとなるか,
あるいは死んだので、横田備中が軍勢を返して討ち死にした時、ひとしお早く討たれたのであった。
それでこの合戦は、信玄公の負であるが、山本勘助と加藤駿河(加藤信邦)が戦況を見切って、諸住豊後(諸住虎定)、小山田備中、
日向大和、今井伊勢守の四人の力で盛り返し、敵を三百二十人あまりを打ち取り、ようやく芝居を踏まえた。
戸石崩れとして、この合戦は信玄公が大方負けなさったようであるけれども、信玄公が芝居を踏み鎮めなっさたので、結局村上は敗北
したゆえに、これも信玄公の勝ちである。

負け戦では、どうしても芝居の場所を踏まえられぬものだ。
無案内な人々は、優れたものが多く討ち死にしたので、信玄公の負けと申すが、昔義経公が屋島の磯で合戦した時、二千あまりいた旗
本が八十三騎にまで討たれたが、その場を立ち退かず、敵が敗北したので義経公の勝ちである。
総じて戦は、唐、日本の昔の事で批判するべきであろう。

そうではあるが、この戸石合戦は、信玄公の代で一番の不手際な合戦であった。このときは、信玄公は少しも大事のようになされず、
帰陣しても何の仕置もなく、猿楽師を集め、七日間能をさせて見物していた。
信玄公は若い時から心の境地が人々の考えを超えていた。
(甲陽軍鑑)

戸石崩れは武田信玄の負けに非ず
合戦とはどれだけ敵を打ち取ったかではなく,戦場を制圧したかどうかであるというをよく知る武田勢が
劣勢を盛り返し戦に勝ったといういいお話

後,合戦を「芝居」と言い換え,制圧・掌握するといった意味を持つ「踏まえる」とかけてるのは武田流ジョーク?

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/05(金) 02:32:38.89 ID:10qg/MX/
うお、いい話スレと誤爆した
では、信玄が下手こいたちょっと悪い話ということで




952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/05(金) 03:05:57.30 ID:Kgxeaang
「芝居」には「観劇や酒宴のために芝生に座ること」という意味もあったので、
戦後の宴(能見物含む)を開くことを「芝居を踏まえる」と呼んだのではないかな

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/05(金) 13:46:33.73 ID:sQxpoWZm
あとで勝てばその前の敗戦はノーカンってか

信玄の天下の仕置

2014年11月26日 18:50

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 00:44:53.72 ID:ZRAx/03K
>>861の続き

真田安房守(昌幸)は再び高坂弾正に問うた
「大敵の押さえのためには、せめて配下に一国を与えなければ都が危うくなります。ここを考えれば、
信長が配下を大身にしているのも、この他に仕置の有り様がないからでは有りませんか?
彼の行っている仕置よりも、良い方法があるのでしょうか?願わくば高坂弾正殿の工夫を
お聞きしたい。」

高坂は申した
「私が存じているのは大したことではないが、4年前信玄公が御他界されたが、今も御在世ならば
天下の仕置をしていたこと疑いない。なぜならあの時、伊勢、越前、河内、和泉、四国、その他
紀伊国大和国の小身なる者達まで信玄公に内通し、その都入りを皆が待ち望んでいたからである。
であるからあの時は、三河の家康さえ押しつぶせば、信長がいくら大身でも、さほど手間は取らなかったであろう。
(このあと家康の攻略について色々書かれているが略)

家康さえ滅却すれば信玄公の都入りに問題はなかった。しかればその春、東美濃に発向なされる時、
3月15日、その前の14日に私を召し寄せられ、「信州勢1万5千の人数を預けるので、北越の輝虎を
押さえるように。」と命ぜられ、その時「私の煩いもこのように平癒したので、来年中には都に
旗を立てる」と言われた。

天下の仕置とは都をさして申す。何故ならそこに日本の主、帝王が御座なされているためである。
であるから、信玄公の煩いが後まで平癒し、3年の内に都に上がり参内を遂げ、勅命を以って都の意見を
仕るようになれば、天下(畿内近国)に信玄公が居ない時は危うくなる。
だからと言って都の周りに大身のものを置くのも危うい。

よって、都のある山城国は禁中への恐れにこれといった城はないので、屋敷構えを良くして
その屋敷のまもりに逍遥軒(武田信廉)を差し置き、都近国には敵を押さえるために、馬場、山縣、
内藤、小山田弥三郎、又は木曽殿、小幡、安中、相木など、そういった者たちを1国に1人づつ
郡代に定めて、その他は譜代の小身なる者たちをいかほども取り立て、仲の良し悪しを目付け・横目に
尋ねて、それをうまく組み合わせて一国の中に何人も置く。
その他、日本を皆治めれば、遠国にはまた、国の2つや3つもくれて置く仕置ならば、たとえ信玄公の
亡くなられた後、どれほど分別のない侍に跡を継がせたとしても3年は保つことができるだろう。

前の大将が死んで3年も保てるようにするのは、前代の手柄である。
4年目からは後を継いだ大将の分別が良ければ誉れを得て、悪ければ恥を得る。
中でも、天下の権を2代保つのは、ただの家を百代保つより弓箭を取っての誉れである。
信玄公がかつてそのようにおっしゃったのを存じている。

そこから考えれば、今、織田城介殿(信忠)、三介殿(信雄)は信長に良く似た若者たちであるが、
信長死後は危うい。」

そう、高坂弾正が真田安房守に信長に関する話をした。

(甲陽軍鑑)




895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 02:20:14.72 ID:q9TPqEjk
信玄の上洛開始時ってもう輝虎→謙信だよな
単に旧知だから輝虎と呼んだんかな
まあ甲陽軍鑑だからあんま細かい突っ込みはなしか

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 10:27:35.38 ID:G7qfaeAX
結局、それぞれ一国を任せるんかい

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 15:52:04.16 ID:E4HgbFfa
織徳同盟は両家の利害が見事に合致していたんだろうな

三種類の見損なうこと

2014年10月01日 19:00

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/30(火) 20:46:09.30 ID:WgerDUPe
武田信玄公はこのように言われた。
「世の中の、侍の事は申すに及ばず、奉公人、下々までも、それぞれに生まれついた気質という物がある。
これらについて、三種類の見損なうことがある。

一つには、分別者を佞人と見ること。
二つには、遠慮の深き者を臆病と見ること。
三つには、がさつな人物をつわものと見ること。
これらは大いなる誤りである。

分別のある人は、言いたいことが十あるうち、七分を残して三分を申す。

遠慮深きものは後先を踏み、常に万事をよく考えている。
それは例えば、言い出て勝負をかけるより先に、自分の妻子の今後について思案をしている。
それ故、いざ物を言う時は実否が出るまで徹底的に行うのだ。これを遠慮と呼ぶのである。
この遠慮を知らずに、臆病と見る者が居る。そういう者達は皆未練なのだ。

また、がさつな人物は、分別も遠慮もなく、無理に物を申す。
このような者達は、遠慮者、分別者の言葉少ないのを未練と思っているが、勝負を付けるところで
初めて妻子に思いを致すため、いざ決行するという時に成って、がさつ者は必ず最期に非常識な
行いをしてしまう。
すなわち、がさつは臆病の端緒なのである。

(甲陽軍鑑)

武田信玄による、人物の見誤りについての記述である。




御大将とは大工である

2014年09月30日 18:51

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 20:45:27.62 ID:1BBydUsO
これは高坂弾正が言われたことである。

武田信玄公は国法・軍法を、このよう物に例えられた。

「御大将とは大工であると考えるべきである。その下の侍大将、足軽大将、および一切の物頭は
くさび・釘である。彼らは大将の命令を伝える。

出頭衆、あるいは大将の言葉を承って御使に走りめぐる衆は、才槌、金鎚である。
諸奉行は鉋、ノミ、鋸、錐である。
御目付、横目の二十人衆、御中間頭は、京砥、上野砥のごときものである。道具の刃物が切れなくなれば、
砥石を以って刃を研ぐ。

さてまた、総人数は材木である。備は家である。

そうして、よき御大将の分別というのは、番匠箱より思案、工夫という名の壺金を取り出し、
古今に栄え、あるいは衰えた家の軍立の例に引きあわせて自軍の備を見て、材木が腐った家の柱を抜き替え、
また新しい柱であっても、やがて折れるであろう所は、使わずに火にくべるように、
随分と思慮して全体を見ることが必要なのである。」

(甲陽軍鑑)




912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 22:29:02.73 ID:+SrwTmVi
人は家

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 22:34:21.26 ID:JPew2WhF
人は掘る

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 23:35:38.70 ID:DQjemt6O
人は城・石垣・堀
情けは味方 仇は敵の方が短くてわかりやすいな

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 23:43:17.71 ID:BYTve94f
それ下の句があったのか・・・知らんかった・・・

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 23:57:25.03 ID:SiOnZHRP
>>914
短歌の方がいいじゃん

「信玄の両眼」

2014年09月19日 18:50

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/18(木) 23:43:29.98 ID:t9HAUqx3
永禄13年9月初め、武田信玄が北条領である韮山に侵入すると、北条氏政もこれに対応し兵を出し、
これを見て信玄は総人数を三島にまとめ、駿河に入り建築途中の城の普請を申し付けていた所、
北条も三島の北三十町ばかりに総勢をおろした。そこで北条は3万7千あまりの人数を50備あまりで
立て、武田は総勢2万3千で21の備を立て押し出した。

信玄は、馬場、山縣、小幡、真田、内藤、朝比奈駿河守、岡部次郎右衛門、原隼人、その他侍大将を
老若ともに引きつれ、合わせて百四、五十騎あまりを、味方総軍を5町ほど押し出しておいて
大物身を行った。そこで信玄は
「ここで必ず合戦を行い氏政を討ち、明後日には小田原へ入る。」と仰せ付けた。

しかし馬場はこれを聞き申し上げた
「敵、味方の防戦の地形をご存じなくては、それはいかがかと思います。」

「それについては皆、心やすく思うように。私の両眼の如き者を既に向かわせた。」

その場に居た上下・老若共に、信玄公の御両眼というのは誰人かと不審に思っていた所、
敵近くで物見をしてきた二名の者が帰ってきた。
それを見ると、曽根内匠(昌世)と真田喜兵衛(昌幸)の両名であった。

そこで信玄は地形について両名に尋ねると、「一段の場よしであります。」と申し上げた。
信玄はこれを聞き

「現在は八つ時(午後2時頃)であり、これから合戦を初めると、日が暮てしまい、北条家の者達にとって
おのれの国であるため、山の案内もよく知っている。彼らが夜に紛れて落ち行き、氏政を討ちのがして
しまう事にもなるだろうから、明日の卯の刻(午前6時頃)から合戦を行うべきだろう。」

そう言って、三島へと備を入れた。
しかしその夜、北条氏政は軍勢を、一人も残さず小田原へと引き上げさせた。
この時も信玄は、あらかじめ小田原勢に、夜に紛れて退散する色を見て取っており、なお以ってその様子かと、
曽根内匠、真田喜兵衛両人に自分の観察を教えた。

これより以来、曽根内匠、真田喜兵衛、三枝勘解由左衛門の三人にはこのような事が多く、
「あれなら当然弓矢巧者になるはずだ」と、諸人が羨んだのも理であろう。

(甲陽軍鑑)

甲陽軍鑑より「信玄の両眼」についての記述である。
要は弟子みたいなものなんですね。




823 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/09/19(金) 02:39:35.25 ID:vfaynnTJ
どこかの家の母衣衆みたいなものだよ
若手将校だね

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 08:31:45.00 ID:AgaFWwwC
オヤジってこの頃は武藤じゃないの?とか言ってはあかんか?

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 09:04:32.06 ID:sUxkV9mz
現代の歴史書だって最も有名な名前に統一してるのは普通じゃん
甲陽軍鑑だからってのを置いといてもつっこみ所じゃなくね

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 10:57:07.85 ID:QQjhu4dG
いや甲陽軍鑑だからだろ
何言ってんのお前

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 11:09:47.58 ID:QonwU8PQ
日記じゃないんだし別にええやん

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 11:50:02.08 ID:sUxkV9mz
>>826
どういう意味?

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 11:51:34.80 ID:ZV29nPde
>>828
甲陽軍鑑は時系列のおかしい記述が多いから

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 12:05:28.13 ID:sUxkV9mz
信長公記や徳川実記でも実際の名乗りと表記が違いますが、みな時系列がおかしいのですか?

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 16:23:46.10 ID:VCsVAwm8
>>830
違わないよ

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 17:12:57.31 ID:sUxkV9mz
菅沼か

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 17:16:50.12 ID:FDoaW1L5
一気に書くと名乗りとか間違えるのはよくあることじゃないのか?8月31日に書く日記じゃないがw

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 17:29:43.23 ID:Qhvf2k0O
いつもは喜兵衛って呼んでるから武藤姓だったってことを忘れてたとか?

面白画像

2014年08月19日 18:51

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/19(火) 01:13:12.98 ID:NVBzc2vD
面白画像
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org5263221.jpg
おもしろ



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/19(火) 02:18:27.62 ID:a53UwM3Q
なんで鹿なんだよw

この信玄入道はあくまで腹黒にて

2014年07月10日 18:52

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/09(水) 20:58:39.39 ID:BnkAAxEu
元亀3年閏3月、徳川家康は金谷・大井川あたりまで巡視に出た。
この頃武田信玄入道は、家康が上杉謙信との同盟を結んだとの情報を聞き大いに憂い、
そういう事であれば早く徳川を除き後方を安全にしようと、例の策謀を案じ出し、
家康に対して

『始め天竜川を境として武田領と徳川領を分割しようと約束していたのに、どうしてその盟を破り
大井川まで出張しているのか?さては同盟を破り敵対するつもりか!?』

と、使いを以って申し立てた。家康はこれを聞くと激怒した。

「私は最初からの盟約通り、大井川を境としてその先に手を出したことはない。
信玄入道こそ前に、秋山・山縣といった者たちを使って我が領地を侵し、今もまた前盟に叛き、
却って我々を咎めている。これは信玄入道の、いつもの策謀が始まったのだ!」
そしてこれ以降、長く両国の通行を断絶した。

信玄はこれから奸謀をほしいままにし、しばしば三河遠江の地に軍を出し城々を攻め撃つこと止まず、
神無月には山県昌景を先手として5千余騎、信玄入道自ら4万5千騎の大軍を具して遠江に討ち入り、
多々良、飯田などの城々を攻め落とし浜松を指して押し寄せた。

この信玄入道はあくまで腹黒にて、策謀奸智のふるまいのみ多いが、兵法軍法においては
よくその節制を得て、越後の上杉謙信と相並び、当時その右に出るものはいなかったのである。

(徳川実記:東照宮御實紀)

三方ヶ原直前の、武田信玄に対する徳川家康の反応である。





信玄の隠し湯

2014年05月30日 18:51

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 21:03:15.58 ID:pEwEOYu/
信玄の隠し湯

武田信玄が、北条領の秩父に攻め込んだ時のことである。
武田軍はあちこちで放火・略奪をしたので、
後に「信玄焼き」という言葉が残るほどであり、長引く戦いに田畑は荒れ、
秩父の人々はすっかり心身共に疲れ果ててしまった。
そんな中、ただ一人黙々と田畑を耕す老人の姿があった。
武田軍はこれを不思議に思い、件の老人を捕えてその元気の秘密を聞くと、

「御霊権現から授かった鶴の湯という鉱泉があって、これに入っているから元気なのじゃ」
という返事が返ってきた。

話を聞いて喜んだ武田軍は、戦いで疲れた体を鶴の湯で癒すことにした。
ところがあまりに良い湯だったので、武田軍の兵士たちは故郷の事を思い出し、すっかり士気が低下してしまった。
この味方の腑抜けた有様を見た、武田軍の山県三郎兵衛は、苦々しく思って鶴の湯を閉鎖してしまった。
そして、その地に武田系の東泉寺という寺を建立して去って行った。

その後、鶴の湯は再び開かれたが、誰言うともなく「信玄の隠し湯」と呼ばれるようになった。
鶴の湯は、甲州への裏街道にある湯宿として、多くの旅人や湯治客に利用されて栄え続けたという。

「秩父の伝説」




396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 21:21:59.21 ID:w8YPQq8w
山梨に行くと信玄の隠し湯が腐るほどあるようなイメージが・・・

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 01:20:00.27 ID:HYw8PQtp
信玄クズすぎ

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 08:57:33.43 ID:Ta1MdzN8
その湯が見つかっても第二第三の隠し湯が

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 14:45:54.12 ID:B8tTavxw
信玄焼きワロタwww
根性焼きかよw

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 15:08:37.63 ID:OZ112bKC
うたせがバレても川湯があるもの…

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 16:10:44.33 ID:LllYD7p8
「信玄が最も隠したかった湯」シリーズができるな

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 16:50:01.20 ID:IxrI9+P+
ワロタ

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 19:30:07.20 ID:Q5ewpGDq
信玄公は山梨最大の観光資源だからな

7,8歳から12,3歳までの教育が重要である

2014年05月16日 18:59

名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 19:30:47.88 ID:d/WLyF/q
武田信玄公が、武具の吟味をしたあと、この様に仰った

「一国一郡を守る身は言うに及ばず、人というものは、育ち方次第でよくも悪くも成るものなのだ。
生まれついて善意のあるものは、老功の者に頼って、弓矢のことは勿論、その他一切の良きことを
聞くことにより、次第に行儀よく、万事に巧者となるだろう。

人は大小によらず、7,8歳から12,3歳までの教育が重要である。
大名の子ならば、この間よき大将の行儀作法を語り聞かせ、育てることが良い。
小身なるものは、この間に大剛の者の武勇の働きを、後先詳しく解説し、うつけなる事を
しなくなった事なども語り聞かせるのが良い。

総じて、人の心に12,3歳の時に聞き入れて植え付けられた事は、一生の間忘れないものだ。
そしてそれは、谷水が川の水となり、川の水がやがて海の水と成るように、人の知恵も、
若輩の時聞いたこと、覚えたことが、歳が積もるに従って次第に広大なものとなっていくのだ。

良い事を聞き入れた心が広大になれば、善人となり、
悪事を聞き入れた心が広大となれば、悪人と成る。

善悪共に聞き入れるのが大将である。なので良き家臣を持てば良将となるし、悪しき者を持てば悪将となる。
小名であれば傍輩の善悪によって、よくも悪くも成るものである。

14,5歳より後は、女人への欲への嗜みを持てば人となるものだ。これは我が心にある理屈の例である。

(武道心鑑)



941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 19:47:52.48 ID:vOlTs5C7
三つ子の魂百までということですね、分かります。

武田信玄より、将軍足利義昭方への書状

2014年04月27日 18:45

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/27(日) 11:26:23.56 ID:xDcLNJh0
武田信玄より、将軍足利義昭方への書状

『遠州・三州両国の如きは、信長・家康の輩が神社仏閣、諸寺を横領、侵入し、民を迫害して
自分たちの利益のみに走り、ほしいままに暴威を振るっていることは、前代未聞と言った次第です。
従ってこの信玄が、正義の兵を挙げて大軍をなびかせ出陣したのです。

敵勢はあちこちに集結してこれに応戦しましたが、掛川、二俣をはじめその他数ヶ所の要害の
大半を破却させて、残党も尽く降伏させましたので、この行動をご容認される御教書をお出し下さい。
主君の御意としては黙視できぬことと存じますが、彼らが幾重にも犯した諸悪は数え切れぬことですから、
このままにしては置けません。すなわち、信長・家康以下の逆徒を誅伐、降伏させて、天下を鎮めることを
お引き受け致す旨、ここに謹んで申し上げます。

そもそも信長・家康は、逆乱を企て諸寺を焼き払い、諸仏を破壊、略奪し、自分たちの事のみ考え
栄華を極めて、それに対して人々には口を閉ざし、眉をひそめさせることしか出来ないように
追い込みました。ここには偏に仏法王法の破滅の相が見えており、彼らは欲界の天魔の権化と言うべきでしょう。
とりわけ勅許も受けないのに自ら昇殿し、高官尊体を称する咎は逃れようがありません。この罪が一つ。

自分が匹夫の身分低い血統であることを弁えず、月卿雲客をしてみだりに口出しをさせ、権門を侮る
無礼の咎は浅くありません。この罪が二つ。

京の市中郊外を徘徊して、課税を多くし労役を課し、戦って降伏した者達の財産も略奪した咎。この罪が三つ。

長年の戦乱で、各地で敵となったり味方となったりしていますが、そうする中で一度ゆるした後に、
高槻、今中城、高宮の兵をたちまち処刑しました。これでは籠の中の鳥を殺すのと同じです。何を真実とし、
何を信頼すればいいのでしょうか?誰がこういうことを憎まずにいられるでしょう。この罪が四つ。

去る永禄12年、坂本において朝倉義景と信長が雌雄を決しようとした時は、忝なくも勅命を受けて
将軍のご命令を賜り、そこで数通の起請文を以って和睦がなり、共に各々の領国へ引き下がりました。
ところが信長は翌年7月上洛して、神社仏閣を灰燼に期すようなことをしました。これは勅命に背くだけでなく、
将軍のご命令にも背くもので、天罰を受けるだろうというだけでは足りません。悪逆無道の咎、これが罪の五つ。

右の五つの罪を犯した者など、千古にあったということを聞きません。いわんや最近においては全く例の
無いものです。もしこうした悪逆をこのまま黙認されるならば、悪臣がますます国を荒らすでしょう。
また窮鼠かえって怨敵となり国を横領しようと企てることになります。しかしこういうことは心に隠して
居るものですから、公方様のお耳には未だ達していないかと存じますが、諸国の者にあまねく知れ渡っている
所です。

もし御処置もされずにこのまま放置なされるのは、虎の尾を踏み、豺狼のような残酷、貪欲な人物を懐にして
いるのと同じことです。これでは諸国の御敵を蜂起させ、大混乱の元を作るというものです。

早く信長・家康以下の凶徒を誅殺すべきとの御命令を賜れば、彼らの舘を攻め、我が身がどうなろうとも
たちまち凶党を滅ぼし、その屍を軍門に晒し、首を獄門にかけて御覧に入れます。そうすれば万人は
安心し、安寧に戻るというものではありませんか。

いやしくもこの信玄は正義を尽くし政策を帷幄の内に巡らせ、四海の混乱を鎮めて、台嶺(比叡山)の諸伽藍、
七社の霊藍を復興し、再び顕教密教を同時に学べる霊地となして、現世の安寧のために政を正し、
正義、道徳で世を照らし、天下を静謐にする功績を残したい旨を、宜しく将軍にお伝えして頂きたい。
 信玄 誠惶誠恐謹言

正月七日   大僧正法性院 徳栄軒
     上野中務大輔殿(義昭側近・上野清信)』

(甲陽軍鑑)

武田信玄が、信長・家康討伐の許可を将軍義昭に求めた書状である。


関連
織田信長より、公方足利義昭への申状



信玄の断行状

2014年03月05日 18:57

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/05(水) 08:24:00.75 ID:olFSaz8k
元亀3年(1573)、三方ヶ原の戦いの後、武田信玄はそこで戦死した平手汎秀の頸を織田信長に送り、
これを信長が武田に敵対した証拠として、それまでの和議を絶って断行した。すると信長は
家臣の織田掃部を遠州刑部まで使者として送り、書面でこのように言った

『家康が、若気故に心得違いがあってはと思い、事態収拾のため家臣を派遣したのですが、
思いがけなく合戦となり、あなたからご成敗を受けましたが、これは当然なことです。
信玄公に対する私の誠意の印として、ご成敗を受けた我が家中の者達の家は断絶とし、後を継がせまいと
考えています。』

この他十五ヶ条が書き立てられており、家康の行為は不届きであるから、家康とは断行すること、
信長の子息城介(信忠)を信玄の婿として頂きたいこと、人質も信玄の希望通りに進上することなどが
もっともらしく書き連ねられていた。

これに対して信玄は、次のように返答した
『書面を以って申し渡す。さて信長は様々な口実を以って信玄と縁者になりたいと申されたので、やむなく
そのことで希望を入れ、貴国と当方は親密にしていた所、近年になって家康の讒言があり、また信長も
邪神邪心を起こして、逆に本心がはっきりと現れてきた。それは甘い蜜に砒素を混ぜる、綿の布に毒を包むのにも
似た行為というものである。

信長は武将として名を上げ、我が国戦乱の世にあって、上杉輝虎(謙信)、織田信長の両人は、
天下に4人と居ない武道に優れたものであるが、とりわけ信長は、若手ながらも生国が都に近いためか、
果報強く幸運に恵まれたためか、将軍義昭公のお供をし上洛して後、武名を天下に轟かせたことは、
眼前に見るとおりである。

しかしながら信長には汚らしい欲心があり、裏切りの行為を重ねたことにより、永年に渡る武勇のほまれを
自ら捨て去り、邪な思いにふけって聖政賢の道による政治を夢にも考えようとしない。だから天より見放され、
軍神の御罰をたちまち受けて、遂には飼い犬に己の肉を咬み裂かれ、命を失って末代までの悪名を
残すこと疑いないだろう。今後、信長とは二度と親密になることはないだろう。

正月17日 大僧正信玄

 織田上総守殿へ     』

武田信玄が三方原の後に信長に送った、断行状である。

(甲陽軍鑑)





655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/05(水) 09:01:05.12 ID:1KUDNADS
>>654
>また信長も邪神を起こして、

後の第六天魔王である

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/05(水) 09:18:29.73 ID:bX2q3DZ5
いあ!いあ!はすたあ!

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/05(水) 09:28:31.91 ID:qQYo5LbI
邪神を起こしたのでは征伐不可避

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/05(水) 10:13:10.60 ID:nGuJho9e
>織田上総守殿へ

うわぁ、嫌み言いまくった最後に黒歴史かよ

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/05(水) 10:19:57.30 ID:SECMKSle
>若手ながらも生国が都に近いためか、果報強く幸運に恵まれたためか

信長の野望やってるとマジでそう思うわ

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/05(水) 11:02:23.88 ID:sMpw4w1L
>汚らしい欲心があり、裏切りの行為を重ねたことにより

おま言う過ぎるwww

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/05(水) 18:01:09.18 ID:PecF9m1i
真田表裏比興「お館様のほうが信用できませんぞw」

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/05(水) 22:05:05.94 ID:/rdaj8s/
>遂には飼い犬に己の肉を咬み裂かれ、命を失って

これ自分にも身に覚えがあったから出た言葉なんだろうな
信長と信玄は似たもの同士だったと

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/05(水) 22:54:33.65 ID:VJhEjrrD
実際の信長は大激怒してたけどね。

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/06(木) 00:15:02.89 ID:Aqlq0mLu
マジギレして四方八方に断行状の写し送りつけてたな

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/06(木) 00:25:41.63 ID:Gx3j+e2k
出典が軍艦だしなー(棒

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/08(土) 16:23:09.85 ID:J2xulQ/p
>>654
比叡山焼いたり本願寺を攻撃したりしたらそりゃブチギレるは

武田信玄、信長退治の依頼に

2014年02月20日 19:01

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 05:31:57.70 ID:t9cuorse
元亀2年(1571)の9月初め、公方足利義昭公より、松原道友、尼子新左衛門の両人を使者として
甲府に遣わされ、武田信玄公に御依頼があった。その趣旨は

織田信長は、公方を助け天下を治め、2,3年の間は大切に扱っていたのだが、、去年の7月、都に上って
三好を倒し、自分の家臣を天下の所司代に据え、五畿内から、丹波、播磨、若狭、丹後までも、ほぼ手中に
収めた所、最近では公方を殊のほか侮って、酒を飲めば盃を将軍に差し、茶を飲み残しては、『これを
将軍に飲ませろ』などと申し、さらに公家の近衛殿(前久)などにも、『やい近衛』などと言い、
様々な無礼を働いている。であるので、この信長を倒すように』

との希望が綴られていた。

『なお、越後の上杉謙信入道輝虎にも、右のとおり申し付けたところ、謙信は『委細かしこまって候』と
これを受け入れたので、信玄も謙信と申し合わせ、両軍によって信長を退治するように』と、
公方よりの申し入れであった。

信玄公はかねてから心に決められていた事であると、毘沙門堂の一室で御使者に対面し

「信長が無行儀の故にご成敗を仰せ付けられる将軍の上意は、ご尤もに存じます。
このことについて、上杉輝虎がたやすくお受けしたことは、格別の事情があるかと推察します。
彼は一段と合戦の道に優れ、素質もある人物ですから、ほどなくご希望通りに信長の誅伐に成功
なされること、疑いないものと存じます。

さて、私達も輝虎同様にお受けしたい、とは思うのですが、ご覧のとおり出家の身となり、
弓矢を取るすべも忘れ果てておりますゆえ、これからどこか、国境のあたりで合戦の鍛錬を
少しした上でお受け申す所存です。

今のこの信玄が将軍家へのご奉公としてできることは、護摩を焚き、ご祈祷をして、武運長久、
息災延命のお礼を進上申すことです。何卒、よろしくお伝え下さいますように。」

このように返答し、都よりの使者を馳走・応対して、御刀と馬を進呈してお帰しした。

その後、喜見寺の仙海法印に信玄公は

「将軍家の使者両人と盃を交わした後、肴を挟んでもてなしたが、彼らは、その肴を食べた手を
畳でぬぐっていた。その無作法振りを見ても、将軍家が全く落ち目となっているのは明らかである。
なのに輝虎は信長退治を引き受けたとの事で、その返事の書状も将軍家から寄越してきた。

輝虎は武道については誠に優れた者だが、”分別工夫”という四字を心得ていない。だからああ言う事を
すぐに引き受けるのである。国持大名の言ったことは、その日のうちに、五日路、十日路
(5日、10日かかる距離)の遠国にまで届くものだ。だからこそ、うっかりしたことは言わないのが、
国主の法というものである。」

と語られたという。

(甲陽軍鑑)

将軍義昭からの、信長退治の依頼への信玄の反応である。




550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 06:49:07.45 ID:pFbu7ybl
では将軍様、退治いたしますのでその信長を京から追い立てて下さいませ

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 09:03:33.75 ID:Ed69NGKm
さすが信玄公しびれるわ

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/20(木) 14:38:45.03 ID:7vkze9SN
信玄に牛耳られるだけじゃね?魔王よりやばいだろきたないお館様は

雑談・例の武田信玄のラブレターの件などについて

2014年01月30日 19:15

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/16(木) 21:56:03.48 ID:XRYkZD9m
一応言っておくと、例の武田信玄の書状は、宛名に「春日源助」とあるのが、「春日」の部分が後世の書き足しだと
判明していて、なおかつ高坂弾正は「源助」と名乗ったことはないので、この書状は高坂弾正宛ではないと
現在はほぼ証明されてる。

229 名前:            [sage] 投稿日:2014/01/28(火) 20:13:27.89 ID:oXF87jrd
亀過ぎてなんだが
>>104も言ってるように、例の武田信玄のラブレター「浮気の弁明」って、
ほぼ100%に近い確率で高坂弾正に送ったものじゃないらしい。
結構いろんな戦国を扱った本とかにも書かれていることだが
高坂昌信は幼名は源五郎で「源助」と名乗ったことはない、ばかりか
歴史新書刊の『戦国武将と男色』によると
宛名の名字は「原物の苗字を消して」書き変えてあるとか。
弥七郎との男色遊びにうつつを抜かしていたことを疑われ、口うるさい老臣=源助に咎められた。
その弁明のため弥七郎を尋問に来させようとしたところ断られたとする、
いわば弥七郎と男色関係になってないただ親しくしょうとしていただけだが迷惑をかけてしまったという
反省と釈明文だったのではないか、としている。
その老臣とは山本勘助だろうと。
勘助は源助を名乗っていたし、そしてそれがすごいシックリときた。

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/28(火) 22:22:38.43 ID:Y0k8Yh2o
>>229
まあ昔から今に至るまでそっちの人たちは
「あの有名人も男色だった」って創作するのが好きだしな

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/28(火) 22:37:47.10 ID:W2h1GP8n
>>229
高坂昌信の価値値下がり

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 20:03:18.92 ID:KqdjWVtZ
>>229
老臣てそんな事まであーだこーだ言うのか?

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 20:04:24.54 ID:LhXBngxh
男色のもつれで、殺し合いとか謀反とかもある時代だからねぇ
もっとも、新しい解釈が正しいとは限らんが

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 20:14:00.11 ID:utcKB+T2
>>242
信玄の若いころの話だからねえ。

グレてた信長にガンガン言いまくった平手政秀の例もあるし

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