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真田信之の最期

2011年09月13日 22:30

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/13(火) 19:50:27.73 ID:wbRXzd/R
万治元年
信州真田家の隠居一当斎こと真田信之は八月下旬より体調を崩し、病床にあった。
家臣が薬をすすめたところ
「自分の長命は万人に優れ、命を惜しんでいるかの様だ。決して医術の及ぶところではない。
 自分はすでに十分生き延びて、近頃大内記(信政)が卒去し、その後を継ぐ右衛門(幸道)は今四歳である。
 旧臣各々は各自補佐し守り立てて、子孫万歳を唱えるように。」と言って
十月十七日、行年九十三歳で卒去した。

この時一当斎辞世の一句
『何事も移れば変わる世の中を 夢なりけりと思ひ知らずや』





元和三年、秀忠、真田屋敷への御成

2011年09月10日 22:27

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/10(土) 18:58:32.80 ID:C9BqRf5U
元和三年将軍家より真田信之へ御達しがあった。
来る五月十八日に将軍徳川秀忠が江戸桜田の真田屋敷へ御成りになるとの事である。

その頃信之と親しかった信州小諸の石川高政は国元へ帰ろうとしていた。
高政は将軍家の信任も厚い人物なので信之は手紙に狂歌を添えて送った。
「信濃路に 急ぐ旅人心あらば 十八日の御幸待たなん」
高政は大いに感銘し、秀歌にはお返しの歌もないとそのまま江戸にとどまり、御相伴に出た。

さて十八日に秀忠へ信之が作法によってお茶を差し上げるときのこと。
信之は秀忠の前で釣棚に月代をぶつけてしまった。
それを高政が「この次は釣棚の下をビロードでお張りなされよ。」と言うと
秀忠はたいそう好機嫌であった。



とんち三題・真田信之と児玉三助

2011年06月28日 23:12

387 名前:とんち三題 3/3[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 01:13:21.55 ID:uGaN+LFH
ある日、真田信之が法度を出した。
「天下泰平の折、当家も他家との付き合いが増える。よって、貧乏臭く見栄え悪い紙子羽織等の
着用を禁ずる。守れぬ者は、わしへの目通りを許さぬ。」

ところが、しばらく経った冬の日のこと、近習の児玉三助が紙子の衣服を着て信之の前に参上した。

「三助、その服は紙子ではないか?」
「いかにも。」
「紙子を着る者は、目通り不要と申したではないか!」
「しかし殿、拙者のような貧乏人は一片の理あって、紙子を用いておるのです。」
「・・・ふん。では、その『理』とやらで一首詠んでみろ。確かに理あれば、金をくれよう。」

「では、一首。えー、“いにしへの 鎧にまさる 紙子には 風の射る矢は 通らざりけり”
(貧乏人には、紙子とて寒風という名の矢から身を守る、名工の品に勝る鎧です)
いわば、泰平の世の鎧にござる。武士が鎧を着たところで、見苦しくはありますまい?」

「うーむ、でかした三助!!それ、約束の金だ。」
信之は三助に小判五両を与えたが、三助は不満顔であった。

「さてさて、殿には例の如く吝きことかな。始めの約束を違えるとは。」「なんと、三助!この期に及んで何を申す!?」
「殿は最初に『金をくりょう(九両)』と申されました。これではまだ足りませぬな。」
「・・・こやつめ、ハハハ!」
「ハハハ」信之は笑って、残りの四両を払ってやった。(真田家御事蹟稿より)


以上、殿様が思わず苦笑するとんち三題でした。長々失礼。



とんち三題・豊臣秀吉と千利休
とんち三題・井伊直孝と庵原主税助


388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 01:46:25.21 ID:ydDYDTtU
最後落語みたいな話だな

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 06:07:00.61 ID:43gWEWjW
短気な武将ならさらに4両追加でくれなんて言ったとたんに首が飛んで
悪い話になったかもしれんな

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 07:15:05.37 ID:J8cId5GD
あの世に置いてあるから取って参れ!
とかな

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 15:37:07.17 ID:iirCi1zh
東のミスターパーフェクトも笑うしか ないなw

逆手弓

2011年04月18日 00:00

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 20:08:47.79 ID:DrzFzizQ
綱吉のころというから、寛永よりもっと後のことだろう。
主君・真田信之のお出ましというので、若侍達は慌てて弓場へ駆け、我先に弓を競った。
信之、その様子をにこやかに眺めていたが、ふと「そういえば、残念なことをしたのう」と呟いた。

近侍の某、何事ですかと問うと信之、
「儂がまだ童髪のころだったが、加賀美四郎という弓の名人がいてな、なんと騎上から逆手で
右方にも弓を放つことが出来たのだ。
そのお父上の信濃殿のころには、まだ甲斐では時に騎射で勝負することがあったといって、信濃殿は
相手と同じ方向に駆けながら
逆手に打って射落としたり、上(上手?右側?)に走っていくから安心と思わせて不意に射かけ
斬り入ったりと自在だったそうだ。

儂は子の四郎殿のなされるのをただ一度見たことがあるが、あれは精妙で珍しいと思ったものだった。
無口で不細巧な方で、あまり人前で誇ったこともなさらなかったから、亡くなったあと絶えてしまっただろうか。
あの時はあんなに感心したというのに、今では?(ゆがけ)をどうしていたのか、入り(?)や出(?)を
どうしていたのかも思い出せない」

ところが、綱重に付属され書院番であった田澤又兵衛昌長(まさたけ)が、寛文四年に逆手弓で的を射てものを賜い、
のち先手弓頭になったという。
お兄ちゃんが絶滅を惜しんだ逆手弓の技術は、ちゃんと保存されていたといういい話。


ところで不細巧って不細工じゃないよね?口が下手とか、付き合いが悪いとかそんな感じ?
不細工だったから女にもてず子もおらず、亡くなった後血が絶えたってことじゃないよね?ww




34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 20:10:14.14 ID:DrzFzizQ
あと入りとか出とかも分からないのでエロい方教えて下せえ。

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 21:05:55.99 ID:9XYSFgZq
逆手に持ち替えて右側を射たら
弓が出木になってしまって非常に射にくいはず。


40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/18(月) 00:44:36.31 ID:R96WzBLI
>>33
弓道経験者です。超簡単に説明しますね。

弓の弦ってのは弓の中心線を通ってるんじゃなくて、右側を通るようにするものです。弓は左手、矢は右手で持ちます。
矢は弓の右側に通すから、弦も中心線より右側を通るように、弓自体に癖を付けておくわけです。これが入木です。
逆は出木といって、故障です。想像してみれば分かると思いますが、弓の左に来ている弦に右から矢をつがえれば、
右へ飛びますよね。

そうでなくても、弓というものは打った直後に左手を外側に捻るというか返すというかして、弓を逃がしてやらないと
まっすぐ飛ばないのです。
いくら弦が弓の右側にあっても、矢が弓の右側を擦ってしまうからです。これが余程うまくなければ、
原始的な弦が中心線を通る弓は射れません。
それこそ、完全な出木では的を狙うどころではありません。ひねりの効果がなくなってしまうので。というか、
普通そんな弓は使いません。

だから右手で弓を持ち、左手で矢をつがえて放つなどというのは、普通は絵空事です。水平に倒して
構えていたとかですかねえ。

真田信之、伊木三郎右衛門の三男小膳に語る

2011年03月29日 00:01

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 14:15:10.66 ID:lGzUW2XQ
真田信之はある時伊木三郎右衛門という者の三男小膳を召出し、刀を与えた。
この時信之が小膳に歳を尋ねると十三であるという。

それを聞いた信之がこう言った。
「静謐の世と言いながらお前たちは侍の冥加に叶っている。
 我らは十三まで刀など持たなかった。十四で初めて指したのである。
 それも父安房守からではなく母から二貫文で調えたのだ。
 甲州では一四で初陣を飾るのが法であったからそれ以前は指さなかったのだろう。
 
 刀の値段も安いようであるがその頃の一貫文は今の八貫文
 永楽銭の二貫文は十六貫文であるから金四両だ。
 金銀の乏しい頃であったから今の五、六十金にも勝るのである。
 また刀の寿命も今の十分の一にも及ばなかった。
 戦となれば打ち折り打ちかき捨てるのだから名作であろうと安直なものだった。」

伊木三郎右衛門が信之に仕えたのは大坂の陣の後
もはや戦の気配はない時代に信之が語った話




601 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/03/28(月) 23:08:08.78 ID:vLNXXQTC
>>591

>  刀の値段も安いようであるがその頃の一貫文は今の八貫文
>  永楽銭の二貫文は十六貫文であるから金四両だ。


ゴメン、まったく想像つかない。

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 06:04:41.75 ID:tdksv+0t
>>601
戦乱の時代が終わって平和がやってくると
生産・商業が活発になり物価や地価が上がった
 
つまり高度成長期

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 06:27:41.36 ID:cjMrC144
たぶん>>601はあの部分を書き込みした人のコメントだと思ったのだよ

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 15:58:27.40 ID:/8c0sQ2B
刀を待たなかったって、稽古はするんだよな?
自分用のがないってことか?

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 16:14:04.50 ID:zxJkOLDw

>>595
稽古で真剣使わせる流派には入門したくないなぁ

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 16:26:37.75 ID:tVz2gvoe
小野忠明「稽古で命落としたり怪我したら大変だからね」

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 17:21:30.98 ID:YDfdUZYX
上泉信綱「うちは袋竹刀を使用しますから安心安全。キミも新陰流に入らないか?!」

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 06:04:41.75 ID:tdksv+0t
>>601
戦乱の時代が終わって平和がやってくると
生産・商業が活発になり物価や地価が上がった
 
つまり高度成長期

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 06:27:41.36 ID:cjMrC144
たぶん>>601はあの部分を書き込みした人のコメントだと思ったのだよ
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真田信之のしゃちほこ

2011年03月29日 00:00

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 00:23:40.04 ID:lGzUW2XQ
延享4年3月30日
信州上田城の西側小泉曲輪の堀から妙なものが掘り出された。
しゃちほこである。それも朱漆や金箔の跡があるかなり立派なものであった。
なぜそんなものが堀からでてきたのか?それについて上田にある話が伝わっている。

元和7年上田藩主真田信之は領内より材木や瓦を集め始めた。
目的は一つ、上田城再建である。

上田城は信之の父真田昌幸によって建てられた城である。
しかしその城は関ヶ原後に廃城となり、その後は陣屋があるのみだった。
それから20余年を経て、ついに上田に城に蘇ろうとしていた。

総廓の拡張、河川の整備、五重天守の普請を含むこの壮大な計画には一つ問題があった。
幕府の許可を取っていなかったのである。
おまけに小諸の仙石忠政がこれを聞きつけて幕府に上訴してしまった。

元和8年真田家は松代に転封、後には仙石家が入る。
城はすべて元通りにするように命ぜられ、大量の建材が堀に捨てられた。
それから140年あまりを経て再び世に現れたのが件のしゃちほこであるという。




367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 01:21:34.28 ID:b3UyXqZJ
お兄さん何やってんすか
そんな弟みたいな無鉄砲なことやんないでくださいよ

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 02:11:17.67 ID:km3FuMU8
どう考えたってバレるだろw

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 04:21:54.30 ID:RlUJwphK
仙石は相変わらずみみっちい根性してんだな

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 07:50:40.26 ID:T8fRwybB
やはりというか、悪い話に絡んでくる仙石w

仙人が窟

2011年02月04日 00:00

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/03(木) 00:22:36 ID:iW5CYElE
天正の頃北条家が上州沼田城へ押し寄せた時のことである。

北条氏邦芳賀伯耆守が率いる千余りの軍勢を
真田信之が率いる二百ほどの兵が迎え撃った。

この時信之は我妻の仙人が窟という難所を利用した。
まず二百のうちから兵を選んで仙人が窟の左右に潜ませる。
次に信之自身が残りの百余りを率いて北条勢を攻め、その後勝負にかまわず引き返す。
撤退する真田勢を追って仙人が窟へ北条勢が来た時を見計らい、信之は反転し左右の伏兵と連携して
北条勢を突き崩した。

北条勢は大いに混乱し、右往左往する内に大半が討たれてしまった。
これ以後北条勢が沼田へと働きかけることはなかった。


それから数十年後、天下が徳川の下に定まった後信之のもとへ来客があった。
一人は幕府の旗奉行富永重吉、もう一人はやはり徳川の旗本である中山勘解由
二人とも元は北条家にいた人間であり、とくに富永重吉はあの仙人が窟の戦いで北条氏邦の軍勢に属して戦っていた。

昔物語をするうちに仙人が窟の話が出た時富永重吉
「貴殿はまことに恐ろしい御人です。昔上州仙人が窟の働きは感心しております。
 危うく一槍にされようとして逃げ延びましたわい。」と何度も信之を誉めた。

仙人が窟の話はあまり知られた話ではなかったが、この件で皆が知る様になったという。




571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/03(木) 00:31:21 ID:Vz6wvp4Q
八王子城で討ち死にした中山勘解由家範の子孫か?

北条氏照と自分の先祖の墓造ってたな
http://www.takaosan.info/topics44.htm

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/05(土) 01:00:47 ID:IuImS5zS
>>570
実はこちらと重複ですな。

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5016.html

兄ちゃん無双。もしくは鬼いちゃんモード発動

2011年01月06日 00:00

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 16:44:06 ID:4eMjUwDq

天正十年、本能寺の変を受けて関東の情勢も流動的になってくる。
特に上州では神流川合戦の直後、沼田城の真田氏が北条氏に仕掛けて撃退されると、
今まで真田氏に従っていた国人衆は一気に北条寄りか、日和見に傾いて行った。
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4987.html

表向きでは和睦を結んだり、北条に従うと言ってみたり、外交の駆け引きを続けて
いる真田昌幸ではあったが、徳川氏や佐竹氏の動きを睨みつつ、逆襲の機会を窺っ
ていた。
そして勿論、北条氏の側もそれを十分承知の上であった。


先の交戦から三ヶ月、今度は北条氏から攻撃を仕掛ける。
富永主膳、多目周防守等を大将として吾妻郡に侵入した北条軍約五千は、大戸真楽
斎&但馬守兄弟の守る手子丸城を落した。

手子丸城を落せば真田信幸の守る岩櫃城まですぐである。
「今すぐに進撃するべきだ」
「いや、一旦建て直し、手子丸の支配を万全にした方がいい」
そんなこんなで長引く軍議。北条軍のお約束だNE☆!
勿論、北条軍は五千、信幸率いる真田軍は八百。数が違う。信幸が取る策は篭城以
外にありえない、と言う余裕があったのだろう。


が、「東の目立たないお兄ちゃん」は「東のミスターパーフェクト」でもあった。
信幸は篭城では勝ち目がないと見るや、八百騎で手子丸城に攻め寄せてきたのであ
る。

まずは二百騎を裂いて城に攻め懸ける。北条軍が応戦に出てくると、すぐに川沿い
を下って退却。追撃にかかる約一千騎を城から引き剥がした。
そして百五十騎で城に攻撃を始めると同時に、裏手の寺に放火する。

寡兵の筈の真田軍が、あちらからも、こちらからも湧いて出てくる。
圧倒的多数の筈の北条軍に動揺が広まり始めた時、
「あ、あれこそが真田信幸!」
寄せ手の中に金の馬鎧をつけた武将を見つけた北条軍は、深く考えるゆとりもなく、
飛びついてしまう。


……ところがどっこい。
この金の馬鎧をつけた武将、唐澤玄蕃允と言う。ハッキリと言ってしまえば囮だ。
本物の信幸はどこに?
そう、主力中の主力、信幸直轄の兵三百と共に森の中に潜んでいた。
唐澤の姿しか見えていない富永&多目の主力部隊の、横腹からその精鋭部隊が伏兵
として襲い掛かる。
圧倒的多数の兵を持ちながら、散々に追い散らされた北条軍は、手子丸城に逃げ込
み、篭城を決め込む。

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 16:45:14 ID:4eMjUwDq


この時点で味方が追い散らされ、自分達を城外に残したままで篭城を始めた事を知
った一千騎(先ほど深追いした連中)、城兵との合流や連携を諦め、厩橋城目指し
て退却を始める。
そしてまた、榛名山の方角に逃げていく味方の旗を見た城内では、我も我もと逃げ
出す兵が続出する有様であった。

この様子を見た信幸は、
「裏門から逃げて行く連中がいるな。よし、裏門を封鎖して落ち延びる連中を片端
から討ち取ってしまえ。後、敵は大手門の防衛ばかりに気を取られ、北の丸には誰
も居ないように見える。そこから侵入するのだ」

この命を受けた唐澤玄蕃允ら五十名は、岩伝いに北の丸に侵入すると、信幸の見た
通り、人っ子一人いない。
ちょうど腹が減った彼等は飯を食って腹ごしらえした後(大手門では只今絶賛戦闘
中)、周囲の建物に火を放ち始める。

富永&多目は城中から上がった火の手を見て、「裏切りだ」「国人衆が寝返った」
などと叫びながら逃げ延びて行った。
北の丸に侵入し五十人は、逃げ延びる敵に紛れ込み、それぞれが五人、三人と討ち
取る高名を挙げたという。
中でも一場茂右衛門は、城門の前で待ち構え、逃げてくる敵を一人で十七人も討ち
取る手柄を立て、信幸直属の馬廻りとして取り立てられたという。


思いの他「やる夫真田」を読んでる方が多いようなので、ご存知の話かも知れませ
んが、真田信幸のお兄ちゃん無双。もしくは鬼いちゃんモード発動。
本来なら、引っ張り出された一千騎でも、信幸の総勢より多いんですけどね。
首を斬るより、心を折っちゃったんですかね。

一応、出典は「やる夫」じゃなくて「加沢平左衛門覚書」です。




133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 17:32:58 ID:h2bLm+vj
こういうの見てると信幸兄さんに憧れちゃうな

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 17:54:58 ID:Sj2FWFQg
::::::::        ┌─────────────── ┐
::::::::        | 信之がやってくれたようだな…   │
:::::   ┌───└───────────v───┬┘
:::::   |フフフ…奴は真田一族の中でも最弱 …   │
┌──└────────v──┬───────┘
| 小松姫ごときに尻に敷かれる │
| ようでは真田の面汚しよ…   │
└────v─────────┘
  |ミ,  /  `ヽ /!    ,.──、
  |彡/二Oニニ|ノ    /三三三!,       |!
  `,' \、、_,|/-ャ    ト `=j r=レ     /ミ !彡      ●
T 爪| / / ̄|/´__,ャ  |`三三‐/     |`=、|,='|    _(_
/人 ヽ ミ='/|`:::::::/イ__ ト`ー く__,-,  、 _!_ /   ( ゚ω゚ )
/  `ー─'" |_,.イ、 | |/、   Y  /| | | j / ミ`┴'彡\ '    `
     幸隆        昌幸       信繁     大助

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 18:00:08 ID:v7LYiDk/
信繁の講談に隠れて目立たないけど、流石は真田家の嫡男だわ

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 18:23:17 ID:gwaZ52X/
>それぞれが五人、三人と討ち取る高名を挙げたという。
>中でも一場茂右衛門は、城門の前で待ち構え、逃げてくる敵を一人で十七人も討ち取る手柄を立て

なんというボーナスステージw

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 19:31:39 ID:FDGTaPWU
平八郎さんが入れ込むのも分かる気がする

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 19:51:11 ID:7UfslUNG
六文銭って人間をバーサーカー化させる呪いでもかかってるんじゃねーの?

六文銭着用前
    /\___/\
   /''''''     ''''''::\
   |(へ),    、(へ)、.|  
   |   ,,ノ(、_, )ヽ、,, .:|  <もしも~私が~城を~建てたな~ら~
   |   `-=ニ=- '  .:::::|
   \  `ニニ´  ._/
   (`ー‐--‐‐―/  ).|´
    |       |  ヽ|
    ゝ ノ     ヽ  ノ

              ↓
六文銭着用後
     /\___/ヽ
    /ノヽ       ヽ、
    / ⌒''ヽ,,,)ii(,,,r'''''' :::ヘ
    | ン(○),ン <、(○)<::|  |`ヽ、
    |  `⌒,,ノ(、_, )ヽ⌒´ ::l  |::::ヽl
.   ヽ ヽ il´トェェェイ`li r ;/  .|:::::i |
   /ヽ  !l |,r-r-| l!   /ヽ  |:::::l |  <サツガイせよ!サツガイせよ!
  /  |^|ヽ、 `ニニ´一/|^|`,r-|:「 ̄
  /   | .|           | .| ,U(ニ 、)ヽ
 /    | .|           | .|人(_(ニ、ノノ

徳川頼宣は尊敬する真田信之を

2010年07月26日 00:01

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 15:34:39 ID:70ZDyo9V
その日も、徳川頼宣は尊敬する真田信之を自邸に招き、武辺話など熱心に聞いていた。

「ふむふむ、それで戦が始まれば、備えはどうすれば良いのかな?」
「ああ、カンタンにござる。自軍がこのように…」信之は扇を開き、要の方を頼宣に突きつけた。
「…広がって見えれば、勝ち。お味方が、われ先にと敵を押しているという事。何もする必要はござらん。逆に…」
今度は信之、扇を逆に持ち変えて、扇の先を頼宣に突きつけた。
「…こう見えれば、負け。突出している所を叩かれ崩れぬよう、手を打つべきです。まずはこの二つに注意すれば良く、
鶴翼だ魚鱗だなどとは、その後ですな。」

「(うむ、やはりこの人しかおらぬ!)なるほど。あとは戦での指図の要、ほら貝・陣太鼓など拝見したい。」
「心得ました。では後日、用意の上で実演いたしましょう。」

約束の日、信之がほら貝を持って紀州藩邸に行くと、豪華な甲冑の飾ってある座敷に通された。
「?紀州様、これはいったい?」
「申し訳ない、ほら貝などとは口実。わが子も年頃になり、鎧着初めの儀を行なうことになった。そこで、ぜひ貴殿の
武功・忠義にあやかりたく、具足親になっていただきたい。」

元服の儀の烏帽子親は平時の後見役、鎧着初めの具足親は、有事の後見役である。
「将軍家や数ある大大名を差し置き、私などがそんな、大それた役は…」
「貴殿がそう言うと思って、わざわざウソをつくような真似までしたのだ。信之殿、頼む!」

「…仕様のないお人じゃ。」信之は頼宣の子に甲冑を着付けてやった。
「せっかくだ、わしの愛刀を差し上げよう。銘を『大食上戸餅食らい』と申す相州秋広の業物、その切れ味底無しじゃ。」
頼宣は大いに感謝し、信之に兼光の脇差等を贈った。

数日後、老中・酒井忠勝が信之のもとを訪れた。「貴公、紀州様のご子息の、具足親を務められたとか。」
「えぇ、まあ。(やはり、不味かったか?)」

「ぜひ拙者の孫、与四郎にも具足を着せてくだされ!」
「…仕様のないお人たちじゃ。」苦笑しつつも、信之は忠勝の申し出にも快く応じた。




303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 15:52:15 ID:Xsjak4cd
何かいい話だったけど
『大食上戸餅食らい』のインパクトが強烈すぎた

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 16:57:50 ID:h9mQDY6d
でっかい餅が、引っかかったりべとついたりせずに両断できるとか?

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 17:24:41 ID:/Bifj82n
戦国の生き証人
ほとんど生ける伝説な扱いだな
長生きして欲しかったな

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 17:34:58 ID:okGSKCiP
「大食上戸餅食らい」って調べてみたらそのまんまの意味で
「大食いしたうえ大酒を飲み、さらに餅までも食べること。(大辞林)」
って事らしいんだが、褒め言葉か?これ?

>その切れ味底無しじゃ。
ってのに胃袋底なしなのを引っ掛けたのだろうかしらん

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 17:49:40 ID:uEF3XyJP
具足の付け方が分からない人が多かったので
体よく使われただけだったりしてw
だとしても何かしら御利益がありそうなお兄ちゃん



311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 10:09:29 ID:rRfZ4u4R
>>305
長生きって、信之って確か享年90歳越えてなかったっけ?

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 10:35:09 ID:fnOpRwVR
ネタで言ってんだよ言わせんな恥ずかしい

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 11:23:45 ID:b7oSSRqU
>>311
親父と弟と奥さんに心労かけられ続ける日々じゃなかったら、
あと1.5倍は生きられたんだよ

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 11:49:38 ID:DFX+u+l/
一栗放牛だって葛西大崎一揆さえ無ければ(ry

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 11:55:34 ID:ySbbHPvj
>>314
むしろそのストレスのおかげで長生きできたという最新の研究結果を纏めたものが民明書房からでているだろう!

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 14:22:37 ID:vrEyhKMW
木幡高清だって「相馬旧記」の編纂に関わってなければry

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 15:07:00 ID:5/hJO1oj
家兼爺様も親族皆殺しにされなかったりすればもっと長生きできていたよなあ

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 18:32:45 ID:sdBR1hee
戦国長寿者スレはここですか?

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 20:38:49 ID:SJaEifS0
>>314
氏政が飯に汁をを1回しかかけなかったら幻庵は(ry

321 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/07/26(月) 22:31:33 ID:S74DKR0w
南部信直がホームシックにならなければ北信愛は(ry

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 22:34:42 ID:XjS4nKPb
渡辺幸庵、南光坊天海「ですよね~」
[ 続きを読む ]

雑談:よく真田の兄ちゃん(信之)は…

2010年06月21日 00:01

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/19(土) 20:29:29 ID:MoVPtgLF
ふと思ったんだけど
よく「真田の兄ちゃん(信之)は二代将軍秀忠から疎まれていた」っていわれてるけど本当にそうなのかなあ?

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-826.html
で兄ちゃんきれた時、仙石さんが幕府に抗議したら
秀忠さんは「真田が切れる気持ちもわかる」って感じで黙認したって話あるし
馬場主水が幕府に訴えたとき、兄ちゃんが「切腹する」ってきれたときも
秀忠さんは兄ちゃんの忠節を褒めてたし
弟や父ちゃんのKYを考えると疎まれていたようには思えない

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/19(土) 20:39:15 ID:XkIxp4aP
>>481
信之に関しては、現在では秀忠時代も譜代格の大名としてむしろ優遇されていた、って説が
有力みたいね。
秀忠が真田家取りつぶしを画策して云々、って言うのはやっぱり後世の創作でしょう。

ただ秀忠、家光の時代は、譜代、親藩であっても治世が悪ければ常に取り潰しの危険のある
時代なので、そういう部分で非常に気を使った、と言うのはあったと思う。

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/19(土) 21:49:06 ID:MoVPtgLF
>>482
やっぱり、最近ではそうなんだねありがとう。
疎まれてたイメージはやはり池波先生の「真田太平記」からなんだろうなあ

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/19(土) 22:57:23 ID:byZJeNtx
>>482
だからストレスからおにいちゃんは…
天寿を全うしていれば…

松代物語

2010年05月06日 00:00

561 名前:松代物語 1/2[sage] 投稿日:2010/05/05(水) 19:15:22 ID:g2vkl9Xs
慶長5年(1600)、信州川中島は海津の土豪・春日一族の人々は、約20年ぶりの平穏を味わっていた。
天正10年(1582)はひどかった。“鬼”がやって来て荒し回り、一族の長である周防守昌元の子供を人質にして逃げ、
去り際に殺してしまった。昌元自身も後から来た上杉氏に謀反を疑われ、殺された。だが“鬼”も死んだこれからは…

(^^)「こんにちは、森です。」
「ぎゃーっ!鬼武蔵が化けて出たーっ!!」

「弟の忠政です。このたび徳川内府の命により、森家が川中島の領主として復帰しました、ヨロシク!
さて、みんなはオレらが海津に帰って来るの、待っててくれたよね?オレもみんなに兄貴が追い回された恨みを
返すのを、ずーっと待ち続けてたんだ。という訳で、今日から『海津』は『待城』に改名な!!」

こうして春日一族は忠政の復讐(?)を受けて全員磔刑にされ、武田四名臣、三弾正の嫡流は滅んだ。
森家の川中島統治は三年で終わったが、「右近検地」による年貢の増額、相次ぐ磔刑等、暴威を振るった。
( http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2607.html )

慶長8年、忠政は津山へ去り、後任の家康の六男・松平忠輝を百姓たちが出迎えた。
「よ、ようこそ『待城』へ…」「『待城』?海津ではないのか?」
百姓たちは、改名の由来を説明した。
「殺伐とした名じゃのぅ。今日よりここは、この松平忠輝の城。わしの名字にちなみ、『松城』と改めよ。」
「は、ハイッ!!」百姓たちは、鋭気あふれる若い新領主に期待した。

562 名前:松代物語 2/2[sage] 投稿日:2010/05/05(水) 19:16:21 ID:g2vkl9Xs
慶長15年(1610)、家老の花井主水を連れて『松城』の街を視察していた忠輝は、子供たちが束ねた菖蒲で
打ち合っているのを見た。「主水よ、あれは何をしているのだ?」
「ああ、今日は端午の節句でしたな。あれは『菖蒲切』と言いまして、ああやって魔除けの草である菖蒲で打ち合い、
子供たちが厄払いや武芸上達を願うのです。」「……手ぬるい。」「は?」

忠輝は子供たちを町人方と山里方に分け、町人方には薪を持たせて自分が率い、山里方には石を持たせて
花井に率いさせ、合戦さながらに戦わせた。忠輝は一切加減を許さず、何人も死傷者が出た。
「こ、今度の殿さまも大概じゃのぅ…」
『松城』の人々は、5月5日が来ると親戚中が集まって、濁り酒を酌み交わして子供たちと別れを惜しむようになり、
子供の成長を祝う祭日は、子供の生還を祈る地獄の日へと変わった。


元和8年(1622)、忠輝が改易された後、短期間で領主が変わり続けた『松城』に、その日もまた新領主がやって来た。
「…ようこそ『松城』へ……」「『松城』?海津ではないのか?」
百姓たちは、改名の由来を説明した。
「そうか、そんな事が……」「もう慣れました。どうとでもして下さい。」
「そう言うな。さし当たって、もはやこの城は『松平』の城ではない。わが家とお前たちが後の世まで永く栄えるよう、
『松代』と改名する。」「………!!」

以後この領主、真田信之とその子孫が、幕末まで『松代』を治めることになる。


以上、松代の物語でした。長々と失礼。本日亡くなった松代の子供たちに、合掌。




563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/05(水) 19:33:04 ID:R04Qc1sd
>>561->>562
子供の日にそんな悲劇が…(-人-)合掌
松代の領民達受難すぎるだろ…海津からこんなに地名が変わっていたのも驚き
そして出てくると思ってた、信之兄ちゃんカッコいい!

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/05(水) 20:22:44 ID:EvwUtsGo
ああ、松は長寿ってことで、『末代』とかけてあるんだな
にしても、忠輝は忠輝でたちが悪すぎるだろw

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/05(水) 20:34:52 ID:BSrIfwJF
右近検地の一揆鎮圧による幕府の反応が「一揆鎮圧おめ!」だからやってられんわな

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/05(水) 20:43:40 ID:0Oun9P+g
>>565
ただ保科正之も会津に入ったとき一揆を攻め滅ぼして幕府から賞賛されているので、
この時代、騒ぎが大きくならないうちに一揆を攻め滅ぼす、と言う事自体は
治世に関して良い判断だと考えられていたらしい、
最悪なのは佐々成政のように、ぐずぐずして一国蜂起みたいな状況になることなので。

567 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/05/05(水) 21:55:04 ID:cHqPkFIK
なんで森弟は海津に戻れたんだろう。
どうせ領地くれるなら海津にしてくれって頼んだのか?

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/05(水) 22:22:04 ID:UORab9wI
一回海津行かせてくれない?ぬっ殺したいやついるんだけど

おk

こんな流れ

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/05(水) 22:37:08 ID:0Oun9P+g
>>567
戻れたのは間違いなく家康に接近したおかげだが、
あの辺は鬼武蔵が信長から与えられた領地なので、
忠政が家督を継ぐとき思いっきり切り取られた
森家の旧領復活、と言う面が大きいんじゃないかな?

まあ個人的な復讐心も有ったのかもしれんが。

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/06(木) 00:21:37 ID:bfId/yiC
三成への屁理屈が最悪だったがぶっちゃけ心から来たがってはいなかったんじゃなかろうかw

美濃焼やら売りさばいて儲けれる豊かな河港を捨てたくなかったはず。

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/06(木) 15:07:30 ID:1gA4CNG0
>>562
信之が善政を施いたかどうかは知らんけど、最後はホッとしたよ・・・・
[ 続きを読む ]

真田信之の家臣に、カルーい侍がいた

2010年04月10日 00:01

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/09(金) 07:21:13 ID:Fy32CpC7
埋めがてら軽めの話

真田信之の家臣に、正村金右衛門というカルーい侍がいた。

ある時、江戸から帰った信之が金右衛門に、「何か変わったことは無かったか?」と聞くと、
金右衛門は「特にございませんが、大林寺に盗賊が入り、住職が石臼離しになりました。」と答えた。
「・・・『いしうすはなし』?なんじゃそれは???」
「はい、石臼はだいたい同じ大きさの丸い石が合わさって出来ておりますな?」
「うむ。」
「それを離せば、同じ大きさの石が二つ転がる。つまり人間で言えば胴体真っ二つってなワケで!」
「・・・オマエ、そんな話ヨソに行ってデカい声でしゃべるんじゃねーぞ・・・?」


またある時、信之が金右衛門を連れて上田の町外れを通ると、鳥の鳴き声が聞こえて来た。
「良き音色じゃ・・・・・・」
「そうですなぁ!ここの女ほどのテクニックを持つのは、この辺にはちょっとおりませんなぁイヒヒヒ」
「ばっ、バカヤロ―――――!!またオマエは何を言い出すんじゃあああああ!!!」
「は? いや、女衆の麦つき歌が聞こえて来たんで、その事について・・・・・・
・・・えぇー?殿ぉぉぉー?いったい何のことだと思ったんですかぁーーー???」( ・∀・)ニヤニヤ
「・・・・・・・・・」(〃へ〃)



ぼくこどもだからのぶゆきさんのいってることわかんないや




991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/09(金) 09:19:31 ID:05/ydERU
最後の行だけちらっと見て、ほりのぶゆきかと思った
すんませんw

真田信幸、大久保彦左衛門忠教に呼び止められる

2010年03月29日 00:13

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/28(日) 18:57:18 ID:oVOies6i
「ああ、そこに居るお主!そう、お主だ、お主!まぁ、こっちに来なされ。」
「?」「何と良い面構えじゃ・・・ピンと来たぞ!」

徳川家康への初出仕を終えた真田信幸は、大久保彦左衛門忠教に呼び止められた。

「間違いない、お主だ!あの神川合戦の折、わしが殿軍となって退却したが、その際にわずかな手勢で
我らを追撃する武者がおった。
そやつは片手で大長刀を振り回し、風切る音が我らまで届き、身の縮む思いがしたわ。わしの愛馬は
日頃自慢の速足なのだが、そいつさえもわしと一緒に躍り上がるように浮き足立って逃げたモンだ。
流石は真田の嫡男よな!」

信幸は彦左衛門の言葉に苦笑した。
「それは、私の親戚の矢沢但馬守頼康(妖怪ジジイの子)でしょう。私は小勢で追撃戦仕掛けるとか、
そーゆーアレな真似は苦手でして。」
ア、ソウナノ?(´・∀・`)


リアル無双の人の謙虚なムコ殿の話。さて、真相や如何に?




関連
大久保彦左衛門の第一次上田合戦
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3916.html

真田信之、父弟助命の事

2010年03月11日 00:02

537 名前:1/2[sage] 投稿日:2010/03/10(水) 19:10:24 ID:3W7heOj6
関ヶ原の決戦が終わったが、信州上田城では真田昌幸が未だ、籠城を解いてはいなかった。
このため徳川家康の命により、真田信之が降伏勧告の使者として上田に派遣された。

上田城で信之は昌幸に対し、降参するよう様々に説得したが一向に聞き入れず、かえって

「信之、お主は長く家康に仕え、さらに本多忠勝の婿でもある。であれば家康も、お主には心を許しているだろう。
ならば信之!お前が近侍した際、父の望みに従い家康を刺殺すのだ!
それは出来ないと言うのなら今ここでおまえの首を撥ねる!」

などと言い出した。しかし信之、これに少しも騒がず

「御高恩を頂いている内府公を討つと言うのなら、父ではあっても君敵であります。
その君敵とは今ここで雌雄を決するべきなのでしょうが、私は大事の使者としてここに参っており、
使者として帰り、家康公に子細を言上しない内に、わたくしに討ち果たすような真似をすれば、それも君への
不忠で有ります。

…ご報告を終えた上で、重ねて潔く勝負を決しましょう!その用意をして待たれよ!」

そう言い放って座を立った。これには昌幸も、「信之の言う事、尤もである」と言って、奥の間に引っ込んだそうだ。


さて、家康の元に戻った信之は会談の内容をありのままに家康に報告した。
家康は昌幸の武勇、信之の忠節に感じ入り

「そう言うことであればお主の手で上田を攻め、父弟の首を取ってくるが良い。
その時は信州一国を与えるであろう。」

信之は宿所に帰り、早速出陣の準備をした。

ところがそれから暫くして信之、再び家康の元に御目通りを願い出た。

「いったいどうした?出陣の引き延をしたいのか?」

「この度父への討手を仰せ付けられ、その御高情上身に余ると感じております。
…しかしながら出来れば、御恩賞の御朱印を賜った上で出陣いたしたいのです。」

「おお、その事忘れておった。」

538 名前:2/2[sage] 投稿日:2010/03/10(水) 19:11:07 ID:3W7heOj6

家康はその場で御朱印を信之に渡した。信之は畏んでこれを頂き宿舎に帰ると、
何故か又すぐに家康の元に戻った

「お訴えしたき儀が有ります!」

「度々どうしたのだ?出陣にあたり加勢が欲しいのか、それとも具足兵糧が不足しておるのか?それであれば
望みどおりに…」

「いいえ、先程も言いましたが、私が父の討手を仰せつかったこと、生前の面目、これに勝ることは
ございません。」

「ならば…」

「…ですが!我が父の一命をお助けいただけるのなら、その上の厚恩でございます!
しかれば先に賜った御朱印を、返上したします!」

そう、涙を流して訴えた。御朱印を返すとは、信州一国の報奨を放棄してでも父の助命を願う、
ということである。
家康これを聞いてたちまち機嫌を悪くし、黙然と座を立って奥に入ってしまった。
信之は一人、その場に残された。

暫くして、
信之に声がかかった。「内府公が呼んでおられる。」
御前に出ると、家康が言う

「そなたの願い、尤もである。日頃の忠節に免じ父弟の命、助けてとらす。」

信之はこれに大いに喜び、すぐに上田へと馳せ行きて助命のことを報じ、これによって昌幸、信繁親子も
城を出ることに同意した、とのことである。


真田信之、父弟の助命を得る、の一席。




539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/10(水) 19:23:51 ID:ajLypH9w
奥では平八郎が戦の準備をしてました

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/10(水) 19:31:34 ID:CRtaOmN8
褒美の約束させといて、それを元手に自分の要求通すとかw

こういうしたたかさがあったからちゃんと家を守れたんだろうな。

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/10(水) 19:38:31 ID:DOIfwgLL
真田信之「やれやれ、寿命が10年縮んだわ」

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/10(水) 20:00:17 ID:BvrQAUfP
信之兄ちゃんかっこいいぜ!

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/10(水) 20:26:17 ID:To0lDGnM
ここでお兄ちゃんの逸話を読んでからは
「信繁の兄」じゃなくて信繁の方が「信之の弟」
の認識になったぜ。
一昔前は「乱丸の兄」と呼ばれていたあの人のように有名になって欲しいな。

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/10(水) 20:31:07 ID:ihGsASaS
>>543
真田三代といえば幸隆、昌幸そして幸村
「幸村の兄」と「幸村の中の人」には不憫な話だ

593 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/03/11(木) 17:11:53 ID:kcEwCgl4
>>537

NGMS「息子に家康公の命取ってこいとかいう奴にろくな奴はいないよね」

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/11(木) 17:35:19 ID:nNom8eXm
家康ほど暗殺されそうにない奴はちょっといない
総て計画段階で潰されているし、仮に大坂城で十人程の刺客に襲われても
たちまち二三人を切り倒して姿をくらまし、気が付いたら伏見にいかねん

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/11(木) 20:56:15 ID:ty+fGFEj
>>594
水泳と乗馬もうまいからな
家康は戦国トライアスロン優勝できるんじゃね?

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/11(木) 21:04:42 ID:OYHl4/x1
※但し、競技中の焼き味噌は御遠慮下さい。

真田信之「実は私ヘタレでしてね」

2010年03月08日 00:08

67 名前:真田信之[sage] 投稿日:2010/03/07(日) 01:50:03 ID:YTVnwKiQ
「実は私ヘタレでしてね、このご時勢に、いい年して人を殺したこと無いんですよ。

子供の頃、山へ遊びに行った時にオヤジからつけられた中間が不始末を仕出かしまして。
ええ、大したヘマでもなかったんですが、若気の至りでカッとなって、脇差で腕を半分ほど斬ったら、
大の男がすごい叫び声を出してねえ。
その声が私の胸を締め付けて、以来「ああ、なんで斬らなきゃいけないんだろう」と思うようになっちゃったんですよ。





…まあ、中間はその後、弟がわざわざ追っかけて殺しちゃったんですけどね。
あいつヒドいヤツで、殺した後「チッ!この脇差、斬れねーなー。」とか言ってましたよwww 」

(弟めハきつい奴ニて、追詰切殺したりし、其時自分が脇差ハ切れざりしと宣ひし。)




68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/07(日) 01:53:51 ID:IF2CXr9r
兄ちゃんの上田での扱いは確かにちょっとアレだけど、
松代では初代藩主として今もちゃんと語り継がれてるんで、
どうかそれで勘弁したってください…。

69 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/03/07(日) 03:06:51 ID:+B1hJqUn
子孫は老中になったりで殆ど徳川の家来みたいなもんだからかなぁ。

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/07(日) 04:56:03 ID:RyHvEIb/
お兄ちゃんは松代町民が支えていきますのでご安心ください。

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/07(日) 06:08:40 ID:dzt4voYx
そして第三新東京市の守護霊

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/07(日) 10:12:25 ID:8SOU9uXs
>>69
なんか秀吉が生きていた頃から、信之兄ちゃんの所領は関東だから徳川家臣という扱いみたいな話も聞いたような

信州真田家と貫高制

2010年01月17日 00:13

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/15(金) 21:48:03 ID:LAJQBi9d
戦国時代、税制・軍制を求める一般的な知行高はいわゆる「貫高」であった。
田で収穫することのできる平均の米の量を通貨に換算するこの貫高
貨幣経済の発展に伴い全国的に普及した。

しかしながら貨幣の自給ができなかったことや粗悪な鐚銭の流通などで
十分な貨幣流通量を確保することができず
豊臣秀吉による太閤検地によって、知行高は支給される米の容積による「石高」となる。

が、豊臣政権時代どころか江戸時代になっても貫高制が存続している家があった。
信州の真田家である。
兵農分離が進んでいなかった真田家では貫高制の方が都合が良かったとも言われるが
なぜ石高制への転換が行われなかったのかは謎である。

さて仙石氏がやってきた時、上田領一帯の検地帳は
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-826.htmlの一件により消滅していた。
改めて検地を行うこととなり、同時に石高への切り替えを試みたのであるが
なんと収入が減ってしまうという自体が生じた。
それほどまでに従来の貫高制による課税基準は重かったのだ。当然石高への切り替えは
中止されている。

「知行一貫文は二石四斗七升」という換算基準が対外的には使われたものの
年貢の取り立て等の藩内行政ではあくまでも貫高が使われ(土地に関する文書も
貫高・石高の順に併記されている。)
昌幸時代の貫高制による課税基準は仙石氏、松平氏の時代を経てそのまま
明治維新後の地租改正を迎えてしまった。

余談だけど重税をかけ過ぎると農民の一揆や逃散が起きて問題になるため
歴代上田藩主は年貢に関して様々な減免処置をおこなっている。
真田時代も同様の処置があったか、あるいは文書ではわからない他の収入源があった可能性はある。
まあ信之時代には農民の逃散が起きているんだけど。




734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/15(金) 22:48:11 ID:g6q7W8YO
非常に興味深いが、どうして悪い話なんだ?

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/15(金) 22:49:36 ID:e7OjaBdK
農民にとって悪い話だな

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/16(土) 00:03:12 ID:0q5qgUGa

>734-735 九度山への仕送りが厳しゅうてのう……

[ 続きを読む ]

真田信幸は、遠くからこの騒ぎを見ていた

2009年12月19日 00:07

134 名前:1/2[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 10:31:05 ID:5TKBqXIu
慶長5年(1600)9月、真田昌幸は信州上田城において、徳川軍に十重二十重に囲まれた。
物見に出ていた部隊も、徳川の先鋒・牧野貞成隊の猛攻に手もなく退き、間もなく
城付近に攻め手が迫って来た。

上田城に迫った牧野隊は、空堀に飛び入り土塁を越え、城壁の前までやって来た。
と、その時、城兵が塀の上に現れ、竹の皮を下にバラまいた。
「・・・・・・・・・」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-502.htmlである。ベタである。古典ネタである。

「・・・って、見えていれば何という事もないわ。構わぬ、進め!」
牧野隊は竹の皮を踏まぬよう避けてさらに突き進み、とうとう城壁に取り付いた。
と、その時、城兵が塀の上に現れ、柄杓から何かをブチまけた。

「熱っつうううううううううう!!!!!」
煮えたぎった粥をかけられた牧野隊はあわてて逃げ出したが、一面に広がった竹の皮に
滑って転んで起きてまた転んだ。
その間にも非情の粥爆弾は降り注ぎ、人も馬も火傷だらけになって転がりながら、ようやく
本陣まで逃げ帰った。

135 名前:2/2[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 10:32:31 ID:5TKBqXIu
さて、先だって逃げた真田の物見は囮部隊で、城主の真田昌幸親子みずから率いていた。
まんまと敵の先鋒を釣り上げ、城門まで戻って来たところで昌幸は信繁に言った。
「おまえ、まず先に入れ。」
これに対して、信繁は昌幸に言った。「いや父上、お先にどうぞ。」
「まだケツの青い小僧がイキがるんじゃない。早く入れ。」
「年寄りの冷や水とか、みっともないですよ。早く入ってください。」

見ていた重臣の池田長門がキレた。
「うるせーッ!こんな時にくだらねえ親子ゲンカしてんじゃねえ!早く入れ!!」
(原文:詮ナキ御父子ノ御時宜ニテ候モノカナ。御入リアレ。)
(´・ω・`(´・ω・`)ゴメン
池田がムリヤリ昌幸の馬の口を取って引き入れ、続いて信繁も入城した。

真田信幸は、遠くからこの騒ぎを見ていた。
「敵が後ろに来てるのに、何やってんだアイツら・・・」信幸は馬に飛び乗った。
重臣の祢津らは、驚いてこれを止めた。
「な、何をなさっておられるか!」「いや、あのバカどもの仲裁をだな・・・」
「家康公への忠節を水に流すおつもりか!」「・・・・・・」
信幸、家族の危機を前に、何か大事なものが飛んでしまったらしい。

「気でも狂われたか?!」
「それなら、最初から東軍と西軍に別れなきゃよかったでしょ!?」
(´・ω・`)ゴメン
信幸は落ち着きを取り戻し、陣中に戻った。




関連
真田昌幸、チョー悪オヤジ、こんな人
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3366.html


136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 10:52:21 ID:Lp8S6qp1
この親子はw

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 11:00:53 ID:W6rfzcIg
信之兄ちゃんも熱くなるタチだったと見るべきか
骨の髄まで苦労性の仲裁役が染み付いてる気の毒なお人と見るべきか…w

まったく、寿命が縮んじゃっても知らないよ?

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 11:07:01 ID:Cj3QT00u
>>137
第一次上田では無双状態だったらしいじゃない


139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 11:08:58 ID:NeHqNgpO
>>137
じゃああの苦労が無ければ150くらいまで生きてたのか……

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 11:47:47 ID:j1cOpn+M
親子喧嘩を始める親父と弟、仲裁に入る兄ちゃん。
それを( ゚д゚)ポカーンと見守る敵味方の軍勢。

               シュールだ。

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 14:55:57 ID:97dTTb9z
敵味方に別れてたのに仲裁しに行くとか、
お兄ちゃんはほんとに家族思いだなぁ。

にしても喧嘩のレベルが低いw

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 16:13:32 ID:ZR0E+Ofu
>>141
中山道軍3万8千を相手にGIANT KILLINGやってる真っ最中こんなアホな喧嘩が始まるあたり、
安房守ってガチでチート武将なのか、こすい田舎のおっちゃんなのか評価に迷……わないかw

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 16:49:31 ID:k5VnTuhj
ガチにチートで守備ゲリラ戦の鬼でこすい田舎のオッサンなんだろうな。
悪い魅力満点。

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 17:34:25 ID:HqlyF4Bu
暇だったら昌幸公のお墓(真田地主大権現)参りに来てくれ~

(↓のページの管理人とは関係ないのであしからず)
ttp://sanadamaru.syuriken.jp/s-kudoyama020925.html

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 17:51:47 ID:UuBFxvjy
>>143
あれ?
楠木正成思い出した

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 20:57:26 ID:c27vVMz/
ヨーロッパの戦争だと、煮えたぎった油とか、汚穢とかぶちまけられたらしいけど
煮えたぎった粥というのが、日本的かつ合理的だね
敵に降りかかる瞬間まで熱い保温性、まとわりつく粘性、滑って転ぶぬるぬる
そして何よりも引火しないというのがいいね。
日本で油撒いたら、引火して逆に城燃えちゃいそうだし

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 21:23:24 ID:scQH2dKM
しかし城に篭ってるのに、よく食い物を攻撃手段として使うよな。
熱湯攻撃なら水だけで済むだろうに。
水もそう浪費できるもんじゃないだろうが、
粥攻撃は両方消費するからやるにはけっこう勇気いると思う。

物資に余裕があるってとこを見せ付ける意味もあったのかな?

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 21:37:12 ID:pyxlKd12
粥は粘性が高い点にポイントが有る
熱湯は喉元過ぎればだが、粥は皮膚に付着する上、熱を保持し続ける
後、中国にも粥攻撃はあったと思う、うる覚えだが

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 21:46:12 ID:4a9B4k6J
その後、ちゃんと回収して食べるんだよ
無駄にしませんよww

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 21:57:44 ID:sQJHEESd
船でお粥を作りながら航海して海賊に遭遇した時にひしゃくでぶっかけて撃退する
もちろん無事に港に着いたら船員たちで美味しくいただきますみたいな風習があるんだよってのを
昔何かでみた気がする。
でも何でみたか思い出せないし小説とかだったら作者さんの創作かもしれないから
本当にやっていたかはわからないなぁ
本当にやっていたとすると粥はある意味食べられる武器あつかいだったのかな?



ところで竹の皮をばらまいておいて敵を滑らそう作戦はそんなに戦国時代では
メジャーな戦法だったんですか?
[ 続きを読む ]

真田信之、麻布の真田藩中屋敷の改築

2009年12月14日 00:12

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/13(日) 16:21:24 ID:NjOmZTB8
「蓄財とか流行らないよ。パーッと使おう!!」

寛永9年(1632)1月、大御所秀忠が死去し、将軍家光の親政が開始されると、真田信之は
麻布の真田藩中屋敷の改築を始めた。

人足を千二百人ほども集めた信之は、普請奉行として十四、五人の騎馬の士を選んで、
将軍家の喪中とて、静かにゆっくりと普請を行わせた。
さらに国許から建材を小荷駄百両を連ねて運ばせ、「田舎百姓の馬ばかりなれば」と、
江戸城に近い上屋敷や中屋敷を避け、下屋敷に仮の厩舎を造って休息させた。


5月、肥後加藤家が改易されるも騒ぎ立てる大名は無く、世は平穏を保った。
「・・・そろそろ、よかろう。」

信之は、人足に偽装した足軽衆を普請奉行らに指揮させて帰国させた。
さらに下屋敷へ密かに小荷駄で運び込んだ馬・兵糧をも返させたが、なおも念のために
板橋・蕨・浦和あたりで馬子を雇って一ヶ月ほど遊ばせ、ようやく国許に戻した。




92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/13(日) 16:29:39 ID:21l+RcZd
>>91
いつ改易になるか分からず慎重なのは分かったけど、
喪が明けるまで待てない理由がよく分からない(笑)
この時の喪中期間は年単位で長かったのですか…?

93 名前:92[sage] 投稿日:2009/12/13(日) 16:47:10 ID:21l+RcZd
すみません、服忌令で調べたら自己解決しました
綱吉以前は3年ですか…

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/13(日) 17:08:17 ID:AReLKQse
これはあれでしょ。喪に乗じた変が起こった場合に真っ先に駆けつけるために
足軽を人足に偽装させて屋敷の改築名目で集めただけ。


95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/13(日) 18:24:47 ID:EKWyoRoF
おれもそう思う。
秀忠死去と加藤改易で一波乱起こった時のために備えとして江戸に人数集めてたんだろう。
贅沢は名目。

で、どうやら何事もなさそうだから国元へ退却させたと。

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/13(日) 19:27:53 ID:YSTBXAvI
>>94-95
一体どっちに加勢するつもりだったのだろうか・・・
上田から無理矢理移動させられた恨みもあるだろうしもしかしたら・・・

真田信之、息子、信吉の家臣への加増の要求に

2009年10月09日 00:20

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/08(木) 00:37:10 ID:1w7L6Pp3
「これは、おちおち死ねんわ。」

大阪夏の陣で、毛利勝永にフルボッコにされながらも生還した真田信吉・信政兄弟に
小松の母さんの言うことにゃ、「あら、どっちか片方死んでも良かったのに。」
信之父さん、大ウケ。
信吉、歯ぎしり。

(うぐぐ・・・何とか話題を変えなければ・・・あっ、)
「そ、そうだ!今度の戦では、鎌倉伊右衛門が半死半生の手負いとなり、配下の者も
三人討ち死にするほど働きました!かの者に加増してやって下さい!」

信之の笑いが、止まった。
「お前なぁ・・・そんなに目が利かんようでは『真田』の家は継げぬぞ?
伊右衛門は、それほど立派な働きの出来る男ではないわ。もし武勇を振るったとしても
今回は敵に突き崩され、自分は切り倒され、配下は死なせておる。
それのなにが立派で、どこが武功なのだ?

『負けても逃げぬ』程度は武士の習い、その程度の者に加増してやっていたら、これから
功名を挙げた者に何を褒美にやれば良い?
その都度に加増したら、上田・沼田を残らずくれてやっても足らんぞ。」




252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/08(木) 00:44:23 ID:j52pZbWG
>>251
こう言うの読むと、お兄ちゃんもやっぱり昌幸の息子だなと、つくづく感じちゃうなw

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/08(木) 00:45:34 ID:oXrlQioI
逃げてくるのはまだ笑い飛ばせるが器量がないのは笑えんって事か

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/08(木) 02:03:10 ID:lcR9hSz9
>>251
これはいい話だろ、信之の。

真田信之「皆、わしの事をさぞケチだのなんだの」

2009年10月01日 00:04

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 15:40:05 ID:G6sBp3+F
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-455.html

で、セコさ全開で蓄財に励む真田信之であるが、
ある時、近くにいた家臣に

「皆、わしの事をさぞケチだのなんだの噂しておることだろうな」

と尋ねてきた。
家臣はまさか、「ハイ、さようでございます」などと言えるはずもなく、

「あー・・・、お金持ちであられると申しております」

と、取り繕って答えた。
すると、信之は、その家臣に向かってlこう言った。

「士卒を励まし候にも、下知ばかりにては、なかなか励まぬものなり。
 金銀を快く遣はして下知なくては、合戦は成らぬものなり。
 武士は金銀を大切にすべし」
(部下を励ますのに命令するばかりじゃ、なかなか励んではくれないよ。
 金銀を思い切りあげて命令するんでなければ、戦はできないよ。
 だから武士は普段から金銀を大切にしなきゃダメなんだよ)

信之もただセコく金集めしてた訳じゃなく、
ちゃんと考えがあってやってたんだよ、というフォローのお話。




933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 15:57:05 ID:Jv95LB2b
前田利家「いいこと言うなあ」

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 15:59:25 ID:YE1NTe3b
【アナウンス】
上杉家を退転された岡左内さん。上杉家を退転された岡左内さん。真田家の方がお待ちです。

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 16:41:58 ID:Goot6pXA
戦国のケンチンボは、必要なときには惜しみもなく使う金の使いどころが分かっている
人たちが多いけど、
本当にただのケチだったのは利家以外は知らないなあ。

他に誰かいたっけ?

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/30(水) 19:20:26 ID:yrq6aX29
>>935
秀吉歓待した時にケチな利家も費用計算せずにやったんじゃなかったっけ?