皆女子ばかりの中ゆえに

2016年05月13日 18:05

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/12(木) 21:02:23.66 ID:L75+RdWl
殊に清正の内室(清浄院)は徳川家に旧縁の女性なので、ひとしお御懇ろであった。
その女性の腹に男女2人が生まれた。

しかしながら、清正は奥方へ入っても刀を放さず、膝元へ引き付けて置いた。
ある時、五条の局という老女が申して、

「表方におられる時はいかにもそうでありましょうが、奥方へお入りの折は
女子ばかりの中ですから、そんなにも御用心には及びませんでしょうに」

と、言った。すると、清正はにっこりとして、

「女子の知ることではあらざれど、不審に思うのならば申し聞かせよう。表方では、
余の一命に代わる家士たちが昼夜怠りなく詰めているので、たとえ無刀でいても
気遣いはない。しかし奥方では皆女子ばかりの中ゆえ、厳重に用心するものなのだ」

と、言ったのであった。

――『明良洪範続編』




717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/12(木) 22:11:29.24 ID:8K076fGS
>>716
>気遣いはない。しかし奥方では皆女子ばかりの中ゆえ、厳重に用心するものなのだ」

平八郎「女の方がいざとなったら度胸が据わっているぞ」

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 00:17:45.68 ID:DwDDtGoI
そりゃあんたの娘があんなだし

と思ってたら黒田基樹「真田信之」p37に
「いわゆる「犬伏の別れ」であるが、正しくは「天明の別れ」というべきものといえる。
ちなみに昌幸はその帰路の途中、信之の本拠沼田城に立ち寄ろうとしたところ、
信之妻小松殿の対応で追い払われたという有名なエピソードがあるが、これも事実ではない。
小松殿はこの時、大坂で大谷に保護されて不在であったのである。」
と書かれてた
大谷吉継が保護した信之の「妻子」が小松殿でない可能性もあるけど

清正の懐剣

2016年04月22日 17:57

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/22(金) 17:32:58.74 ID:Qlm7sFUg
徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見が無事に終わり、加藤清正は退出して宿所に帰り寝所に入ると、
肌に隠した短刀を抜き出し、これを暫く眺めてまた鞘に収め、数滴落涙し

「この清正、幸いにも冥加に叶い秀吉公の厚恩を僅かながら報ずることが出来た。
もし、二条城において不慮のことが有れば、御前であるので清正も無腰であるため、
この懐剣を以って働くべしと思っていたが、君も恙無く御帰城され、私もまた今日の安堵を得た。

この短刀は昔、清正が未だ虎之助と言っていた頃、賤ヶ岳の戦いで高名した時、当座の褒美として
秀吉公より下し置かれたものである。
その時秀吉公は、『後日加恩の上は、この短刀は返してもらうぞ。』との上意があったほどの
御秘蔵の名剣であり、だから私はこれを常に肌から離さぬのだ。」

この話は、寛永年中に肥後加藤家の浪人で、庄林隼人の子息である隼之介という者が北条氏長に
語ったものである。

(慶元記)



629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/22(金) 21:13:02.93 ID:roU5wnxq
>>627
この時の短刀と称するものが現存してるよな

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/22(金) 21:43:07.08 ID:g5Jihzey
備州長船祐定と清正拵だな

「清正の言葉然り」

2016年04月08日 14:04

506 名前:1/2[sage] 投稿日:2016/04/07(木) 22:53:45.27 ID:p5esZawi
慶長16年、上洛した徳川家康は二条城での秀頼との対面の要求を伝え、この知らせが届くと
大阪城では「これ容易の事に非ず、評定を遂げるべし」と、大寄合を開催した。
列座したのは、織田信雄入道常真、織田有楽斎、大野道犬、大野治長、大野治房、渡辺糺、浅井長房、
織田出雲守、中島氏重、速水甲斐守時之、真野頼包、青木信重、伊藤長実、堀田勝吉、野々村雅春。
郡主馬介良列、生駒正継、三浦義世、千石宗也斎、祝尚玄ら、都合30人であった。
これがこの当時、評定衆と呼ばれた面々である。
しかし、これほどの大事であるのに筆頭の家臣である片桐且元が何故除外されているかといえば、
片桐は大野一族と不和だったためにこれに招かられなかったのである。

このような所に、加藤清正は前日に熊本から大阪へと到着し、この日に大寄合があると聞いて押して
登城した。清正の性質は勇敢にして且つ智謀が有り、故太閤の前であっても心に違うことは憚り無く
発言する人物であった。

暫くして秀頼が大寄合の行われる千畳敷に御出でになった、母堂淀殿も簾を隔てて聴聞した。
しかしこの事は誠に豊家の一大事であったため、何れもお互いに譲り合い、発言するものが
居なかった。

が、ここで大野道犬進み出て
「今回、大御所が秀頼公に御上洛を勧められた事、そこに道理は一つもありません!
どういう事かといえば、官位昇進の御礼を禁裏に仰せ上がるのに、大御所への御対面のついでのように
仰せ上がるのは道に背いています。また、縁者への御礼というのなら、直接の御義父である将軍(秀忠〉を
差し置いて御祖父への御礼とはその意を得ません。
豊国大明神への参内もまた、この対面の理由とすべきではありません。大明神への参拝といっても、
今どうしてもしなくてはならないわけではありません。
であれば、兎に角理由をつけて御上洛の事を引き伸ばし、大御所がどうしても御対面したいのであれば、
以前のように大阪に御下向あるべきです。以上の儀を以ってご返答されるべきです!」

この様に余儀なく言い切ったが、誰もその意見に一言も申しだそうとしなかったので、道犬は声高に叫んだ
「太閤殿下の他界以降も、いつも家康公は大阪に御下向あって対面されていました。それなのに今回に限って
御上洛を促されるというのは、その由緒も全くありません!」

507 名前:2/2[sage] 投稿日:2016/04/07(木) 22:54:17.38 ID:p5esZawi
この時、加藤清正が座の中央に進み出た
「道犬の今の言葉、理が有るに似て非ざる物なり!
大御所も前々のようならば大阪に下向すると言うだろう。だが、庚子の兵乱(関ヶ原〉以後、天下の権勢は
皆関東に帰した。である以上、以前を以って見るべきではない!

殊に我が君(秀頼〉は未だ帝都の土を踏まれておらず、その上外の世界で天下の武士と交わりが無いため、
人はみな、君を懶惰の将軍と言っている。今度の大御所からの招きにも上洛なければ、いよいよ以って
比興の君と評価され、そうなれば一体誰が志を当家に寄せるだろうか?

一方で関東の両将軍は常に天下の大小名に御入魂の事を心にかけられている為、先君の鴻恩深き
大小名も、今は皆関東に帰伏して大阪の廃亡を心にかける者はいません。
今回は、仮にお招きがなくても、久方御対面が無い事に寄せて、御上洛あるべきなのです。
それを幸いにもお招きがあったのですから、速やかに御上洛有るのが当然です!
清正は不肖では有りますが、御供仕ります。その折、藤堂高虎は有馬の湯治からの帰路、天満の屋敷に
滞在していると聞いていますので、彼もお召しあって扈従を仰せ付けるべきです。高虎は先君の御恩を
山よりも高く蒙った者ですから、違背することは無いでしょう。仮に辞退するようなことに成っても、
私が共々に申し勧めます。

もし今、今回上洛しなければ、御難題を仰せかけられ、その禍目の当たりに来るでしょう。ただ一日も早く
御上洛のご返答あってしかるべきです!」

しかし大寄合は両論に別れ結論を出せなかった。清正は居丈高になって言い放った
「道犬は元は浅井家の臣!今は淀の方様に従って当城に在りといえども先君の御代では部屋住み同然にて
評定の席などで見る人物ではなかった!それなのに、いかに当城に人物が無いと言って、このような
重要な評議に、歴々を差し置いて彼のような者が加わっているのはどういうことか!?
その上発言も一々道理に叶っていない。
この清正は人々もご存知のように先君お取り立ての者であるが、既に御門葉にも列しており、どうして
おため悪しき事を申すであろうか?

道犬のような輩の評定は皆以ってこのようだから、それ故に関東の心象を悪くし、そして当家の御難儀と
なっているのだ!
そもそも今日の評議に片桐兄弟が座していないのは不審の第一である!」

そう荒々しく言うと、秀頼も「清正の言葉然り」として、直に片桐を召した。
(慶元記)



ある日、その駕籠の中に

2016年04月02日 17:32

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/01(金) 22:55:31.07 ID:TG/U0/mP
大阪の陣となり加藤清正の妻子が人質として城中へ入れられた。
家老の大木土佐守兼能は齢八十の老人となっていたが、
毎日、見舞いとして出掛け、門番たちと親しく話すようになった。
そうしてから、歳をとったため足が不自由となってきたと言い、
駕籠で出入りするようになった。
ある日、その駕籠の中に主君の妻子を乗せ、自分も乗り、
いつものように、門番に挨拶をしたうえで城外へ連れ出すことに成功したとのこと
【葉隠】

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/01(金) 23:07:25.66 ID:TG/U0/mP
大阪陣と書かれているが関ヶ原のことでしょう



馬上で火縄銃を持つのは

2016年02月18日 18:03

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 04:42:56.84 ID:vBhg/CRY
加藤家騎馬武者馬上鉄砲の事
 加藤家では大小身は共に騎馬は一尺三寸、或いは一尺五寸の鉄砲を馬上で持って、
陣前で打ち放し鑓を入れるという。
 清正家中の老人が後に話すに、
「馬上で火縄銃を持つのは何とも持ち難いものである」
とのことだ。
(常山紀談拾遺)

戦国の竜騎兵!




350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 04:54:54.91 ID:L9buplfW
まさむね「な、なんだってー!?」

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 06:59:08.36 ID:QSBbt7HD
ジミーさん?

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 07:00:28.04 ID:QSBbt7HD
すまぬ、清正って書いてあったわ。

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 07:52:23.08 ID:IzhtG3XL
水鉄砲なら余裕だったけどな

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 12:27:52.13 ID:ZtmSkng1
真田丸で信繁の引き立て役になる伊達の騎馬鉄砲隊

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 13:34:54.63 ID:L9buplfW
神保さんは噛ませの犬死にって言いたいんですか

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 13:49:08.60 ID:tDJQIy8N
騎馬の機動力に鉄砲の火力
ちょ、これヤバくね?最強の部隊じゃん...

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 13:59:40.41 ID:YJ9TozuW
歩兵の鉄砲の火力の方が強いという最大の弱点を抜かせばな

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 18:51:32.39 ID:LDxNPsHC
馬上で槍を振るうのだって難しいのに
馬上筒で標的を狙うのなんて無理に決まってる
それでも実戦投入しちゃうのがDQNの良いところw

鏃をその場で抜かない場合は

2016年01月20日 19:18

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/20(水) 03:55:31.01 ID:8QvfyOqv
朝鮮出兵の際、晋州の城攻めの折に、加藤清正の家来・矢木八右衛門
という者は、具足の綿噛に矢を射付けられた。

これを取って抜くと、矢柄だけが抜けて鏃は止まってしまった。しかし、
その場は差し迫っていたので、鏃をそのままにして城へ乗り込んだ。

さてその夜、矢木は陣屋へ帰って鏃を抜こうとしたが、肉に食い込んで
締まり、抜けなかった。そこで傷を足で踏み付けて鉄鋏を使い、ようやく
鏃を抜いたということである。

ある老功の者が言ったことには、「鏃をその場で抜かない場合は、肉に
食い込んで締まり、抜けないものだ」ということである。

――『常山紀談拾遺』



これは加藤清正を呪詛する儀式であり

2016年01月17日 10:58

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 18:02:47.80 ID:uFnQCabv


朝鮮国の慶尚道、全羅道等の水営の軍官が、毎年日を占って、諸営の戦艦を集め海に浮かべ、
海神を祭る事をしている。
この時、藁で人像を造り、これを射て海に鎮めるという催しをする。
かの国の人は隠しているが、よく調べてみると、これは加藤清正を呪詛する儀式であり、
その人像は清正を象ったものなのだという。
しかし朝鮮国の能く射る者であっても、恐れて終に当てること叶わぬのだとか。

これには謂れがあり、何れの頃か、一人射て当たり双なき高名と讃えられたが、たちまち発狂して
あたりを飛び走った。彼の親戚が清正を祭り様々に罪を謝すると、人心地に戻った。
その後人々いよいよ恐れ、かの人像に当たる事を恐れるようになったという。

我が国寛文の中頃に、この祭りのため水営の戦艦を海上に浮かべた時、突如突風が吹いて高波おこり、
多くの軍艦が破損した。
これも清正の祟りであると朝鮮国の人々大いに恐れたそうだ。
これは対馬の人々が密かに聞いた話である。

(藩翰譜)



981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 23:49:28.90 ID:u54HFJUl
全裸道

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 23:56:19.54 ID:o3F2haSv
島津だと死人が出てしまうから清正にしといたんですね

軍書狂夫「午睡之夢」っていう小説があって

2016年01月16日 17:58

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 00:45:33.25 ID:knB9DjzK
軍書狂夫「午睡之夢」っていう小説があって
ヨーロッパを支配したナポレオンがアレキサンダーやシーザーを蘇らせてアジアに侵攻して
それに対して中国は諸葛孔明を軍師にジンギスカンやティムールや項羽が対抗
一方中国から勧誘された日本は豊臣秀吉が漁夫の利を狙おうと画策。
楠木正成は武士にあるまじき振る舞いと拒否したため真田幸村が軍師になって孔明と対抗
なお途中の一騎討ちで

加藤清正vs関羽
佐久間盛政vs張飛
木村又蔵vs樊噲

という場面がある。
この本が明治17年刊行だから、当時は幸村=孔明レベル、清正=関羽レベルと思われてたんじゃないか

関連
近代デジタルライブラリー:午睡之夢 : 軍書狂夫
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/881948



966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 02:13:32.55 ID:u54HFJUl
>>964
ベタベタだけどすげー面白そう

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 06:34:46.79 ID:gscrk4Z0
>>964
そんな昔に厨二大喜びな小説があったのか

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 07:38:50.33 ID:l7Ys8WSi
>>968
そらお前、源為朝が琉球王朝の開祖とかの時点で、なろう小説とかわらないじゃないか

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 10:33:22.39 ID:kaC62K3R
>>964
うっかり日本の歴史に名を遺すと
死後もやたらと召喚されたり女体化されたり忙しいにゃー

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 14:11:34.22 ID:VQB9pWsr
>>964
フェイトみたいな有名人転生物の元祖って魔界転生かと思ってたけどもっと早いのがあるんだなw

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/17(日) 16:10:19.18 ID:c3m46MB9
>>964
近デジにあったんで目を通してみた。
・中国軍が欧州軍に勝利の後、ナポレオンを台湾(!)に流す
・対中国の軍議が紛糾した際、並み居る英雄豪傑の中にいきなり
 杉山地球守蓋世という作者のメアリースーが出てきて軍議をまとめる
・日中対決の場はまたしても朝鮮半島
・台湾からナポレオンが復活して、日本を襲う。しかも秀吉が斃れて、家康が後を継ぐ。
 もうめちゃくちゃだが、この時点で残りページ数が少ない。
 案の定、風呂敷をたためず、いきなり作者が夢から覚めて終了。

すごいものを見てしまった。

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/17(日) 16:23:34.62 ID:572Pakfc
>>983
>杉山地球守蓋世という作者のメアリースーが出てきて軍議をまとめる
クソワロタwいつの時代も変わらんなぁw

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/17(日) 16:46:32.04 ID:bUsPNyKz
地球守か、宇宙大将軍と比べるとまだ小物よ

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/17(日) 19:53:43.34 ID:LqN4OQEX
>>983
近デジに有るのかよって事で自分も開いて今から読むところだけど

「第六回 ナポレオン、力(ちから)ヒマラヤ山を抜き気アジアを蓋う」
(原文は片仮名部が漢字表記)

もう目次の文章だけで腹筋に候

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/17(日) 20:55:41.05 ID:sxNNr2BO
「午睡之夢」ってアニメ作ったら面白そうだ

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/17(日) 23:07:31.87 ID:v5ECu0Fy
初っ端がサンダンジャクル城(アクル)でシドニーとフェリポと対戦
フェリポがナポレオンの同窓というので矢文でフェリポがナポレオンに通じていると偽情報を掴ませ離間の策

…架空小説ならトラファルガーかワーテルローか、エジプト関係ならアブキール湾での逆転を使いそうなのに
攻略に失敗したとはいえ、なぜ比較的マイナーなアクル包囲戦を
http://i.imgur.com/2AudXr2.jpg
http://i.imgur.com/9jt5sRF.jpg
http://i.imgur.com/A4hvsVq.jpg

「論語猿」の逸話・続撰清正記ver.

2016年01月16日 17:57

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/15(金) 22:04:06.42 ID:Fbvw596u
(清正は)江戸上り下りの船中でも四書の講義を聞いていたそうだ。
或る時、伏見に居た時に、清正は手ずから論語に朱筆で注釈を書き入れていたが、
飼っていた猿がその様子をじっと見ていた。
清正が用事が有って席を外している間に、この猿は筆に朱を付け、
論語にめちゃくちゃに塗り付けて落書きだらけにしてしまった。
(戻って来た清正は)この様子を見ると、
「昔々から猿は見た物を学習するものらしい。
昔、終南山に住む僧侶が失くした袈裟をその山に住む猿が盗み、
その袈裟を身に着けて岩の上で坐禅を組んだ。
彼の他の多くの猿達もその姿を真似て坐禅を組んだ。
その猿は戯れに袈裟を身につけ、ただ人の真似をして坐禅を組んだのだけれども、
その功徳によって仏に成る事が出来たと聞いている。
この猿も悪戯で論語に朱注を付けたのだけれど、
(この功徳によって)少しは聖人の道に叶った行動が出来るように成るだろうか。」
と言って笑ったそうだ。
武勇一辺倒の大将にはこのような事は出来まい。
(続撰清正記)

訳注:終南山=中国陝西省西安市に位置する中国仏教における霊山

有名な「論語猿」の逸話・続撰清正記ver.。
単純に動物好きとも本人の苦悩の反映とも解釈される事が有る逸話だけど
どうやら仏教説話の影響が濃厚な模様。



不吟味なる若輩者共の申し分

2016年01月15日 16:43

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/14(木) 19:02:51.36 ID:eUEOCpxp
天草国人一揆において、加藤清正が本渡城を攻めた折のこと。その本丸まで攻め入った時、敵三十人ほどが
甲・具足を着て鑓・薙刀を持って、どっと斬って出たのを、清正の軍は取り囲み、ひとり残らず討ち取って
その死骸を見ると、男は一人もなく、皆女人であったため、首を取らず斬り捨てにした。

この戦闘で、清正の軍に負傷した者が5,7人あったのを、清正の側の者たちが、いかに働くとも
女人に斬られ突かれるというのは弱いというように取りざたしているのを清正が聞いて、申し下した

「さだめてそれは不吟味なる若輩者共の申し分である。女人は逃れがたき所であっても、命を惜しむというのが
世の中一般に言われることだが、死を軽んじ、思い切って出てくる心中は、却って男子より堅固なものだ。
そういう相手に対し負傷したのは越度にならない。

そうでがあるが、女人には男ほどの働きは出来ないので、高名にもなり難い。

それにしても、一人残らず打ち捨てたのは、一段と気分が良い。」

そう仰ったのである。

(續撰清正記)



加藤清正「そんなの知らんがな」

2016年01月13日 22:36

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 09:02:36.55 ID:x5ZvWWHA
熊本城城下の本妙寺。加藤清正の菩提寺である
いつしかここの参道は、
ハンセン病患者がずらりと並び、喜捨を待ち受ける場となった
つまり顔面ドロドロに病変した、不潔異臭と病人特有のウミ異臭を放つ、
ホームレス乞食がうじゃうじゃひしめいていた
(明治4年から並びだしたという記録がある wikipedia本妙寺事件)
日蓮宗の古刹への参拝客めあてか、清正にあやかってか、
清正がらい病だったから、という説もある

付近には患者が運営する宿や、バラック村が出来る
やがて一帯は絵に描いたようなスラムとなり、
賭博場ができたり、無法地帯となった
(困ってる人にたかるダニも大量に集まるのだ)
患者達は相愛更生会という結社を作り、
北海道から台湾朝鮮まで、大日本帝国じゅうに
組織的に違法寄付を強要して回った

病気、極貧、マフィア支配なスラム、当然ながら周囲からの差別
あまりに悲惨な状況に、ハンナ・リデルやコール神父などの
ハンセン病患者救済活動といったイイハナシダナーも焼石に水

国は、本妙寺事件1940年07月を起こす
部落の住人(=患者)を残らず捕らえて治療施設送りとし、
部落まるまるひとつを焼却消毒した
(まさに「汚物は消毒だヒャッハー」を地でやった)
(治療施設。実態は瀬戸内海離島や山間温泉地付近の隔離「強制収容所」である)
(焼いたバラック村は、二束三文とはいえ、患者からいちおう買い上げた形式にはなっている)
以後、本妙寺の参道はキレイになった

しかし、ハンセン病患者差別問題は、戦後まだまだ続く
赤ちゃんポストとか、アイレディース宮殿黒川温泉ホテルの宿泊拒否とか、熊本で鋭敏に騒がれたのは、
こういった地域黒歴史の影が落ちているためである

加藤清正「そんなの知らんがな」本妙寺。加藤清正の菩提寺である




936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 09:49:07.40 ID:loMutV+n
黒川温泉いきてーな

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 11:12:27.96 ID:VbT6KnIo
温泉ってだいたい戦国のころからあるんだよね。

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 12:20:03.61 ID:sBqaoL9/
戦国の頃からある温泉なら、ほとんどは日本に人類がたどり着く前からあるんじゃね?

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 14:25:12.27 ID:mFzWFS4F
今も残ってる老舗の旅館に戦国武将も泊まったりしたのかな

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 16:18:23.50 ID:vbxLAyLi
旅籠の下女の子供が真柄兄弟

941 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/01/13(水) 16:59:24.63 ID:OZUL8EGi
>>934
本当に加藤清正にとってそんなの知らんがなって話だな
病気に対してそんな悪意に満ちた描写する必要あんの
書いてる人間の悪意と差別感情だだ漏れで不愉快極まりないわ

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 19:00:32.22 ID:vbxLAyLi
わざわざここに書くことでもないと思う

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 19:55:40.54 ID:loMutV+n
マガラッチョ!チェケラッチョ!!

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 20:57:18.70 ID:dE2SgIDi
有馬温泉に至っては日本書紀の時代から知られてるよな

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 20:59:59.93 ID:OlaQue00
聖徳太子が湯あみした道後温泉(`・ω・´)

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 21:58:01.41 ID:YQBpxiD/
去年行った信玄の隠し湯は創業昭和35年だった

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 21:59:49.33 ID:loMutV+n
信玄公って長生きだね

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 22:29:15.11 ID:sBqaoL9/
昭和35年まで隠し通されてきたんだろ

地獄へなりとも極楽へなりとも

2016年01月12日 18:25

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/11(月) 16:04:57.83 ID:ec3QsGx4
天正17年(1589)天草国人一揆のこと。加藤清正は木山弾正(正親)を大将とする軍と戦いとなったが、
これに出勢の時、清正は道の端にて押し行く軍兵たちの様子を見ていたが、南部無右衛門という者が、
真っ先に進むのを見て声をかけた

「無右衛門、今日の合戦は大事なるぞ!一入精を出せ!」
南部、これに

「別儀あるまじく候。ただ死ぬる迄よ!」

そう言い捨て通って行った。この言葉を聞いた人々は、あまりに大きな高言であると思った。
ところがこの合戦は、言葉にも似ず木山弾正の勢に追い立てられ、清正の軍は旗本まで敗れ逃げた。

その後、諸勢によって軍議があったが、南部無右衛門もその場にいるのを見た清正は聞いた
「そこにいるのは何者か?」」
南部無右衛門なり。」

「いやいや、無右衛門は今ここに来るはずがない。もし無右衛門ならば、きっとそれは幽霊であるだろう。
清正の家中に、死人が幽霊となったのを抱え置くというのは忌々しいことだ。
さっさとここから、地獄へなりとも極楽へなりとも、行ってしまえ!」

そう言ってその場から彼を追い払った。

(續撰清正記)



肥後熊本城は加藤清正の縄張りであり

2016年01月12日 18:24

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/11(月) 21:32:46.25 ID:acgC7geU
 肥後熊本城は加藤清正の縄張りであり、今の細川家も清正の霊威が強いので、普段は外の屋
敷に居られ、年に一度入城なされる。

追手の馬繋等は江戸城よりも仰山あり、諸国の大名、小名を熊本へ登城させようと、内心に
は謀反の企みがあったのであろうか。

同清正公の二代目断絶のとき家老九人が切腹いたし、その亡骸を御城の追手玄関前に石塔を
建てよとの遺言があった。今をもっても石塔が並びあって、少しでも無礼があるときは祟るという。

また、清正公を敬い崇める神霊は、今もあらたかであり、いろいろ不思議なことが多いという。

菩提所本明寺とやらの後ろの山に御廟がある。

(本阿弥行状記)



これこそ、我が一代の快き振る舞いである

2016年01月07日 08:21

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 18:44:23.75 ID:QAqgW5J8
加藤清正公がある時の夜咄に語ったことである

「賤ヶ岳の一戦の折、私は秀吉公のお側近くにいたが、先に合戦が始まると見及んだため、一人抜け駆けして
良き敵あらば討ち取ろうと思い、何でも無い体で抜けだそうとした所、秀吉公は屹とこれを見つけ、
「虎之助、法螺貝を吹け」と命じた。
しかし私は聞こえなかったふりをして2,3間(3~50メートル)ほど進んだが、そこで急に思い直した

『事の急なる時、臆病者が吹く貝は音が出ないと、世間では言い習わしている。ならば、私も
心臆しているため貝を吹かなかったのかと、秀吉公も思われ、また諸人もそう考えるであろう。
そうなったら、仮に手柄をいたし、もしくは討ち死にした後までも弓矢の上の恥辱、これに過ぎたる
物は無い。』

そう考え、立ち戻って貝を取り、いかにも静かに吹き上げ、法の如くに吹き終わると、馬を引き寄せ
打ち乗って、急ぎ先へと進んだ。

ところがここで、谷兵太夫という者が道の脇で私を見つけて声をかけた
「そこを通るのは虎之助ではないか。若輩なる者が逸りすぎて、敵前近くなって馬に輪をかける(馬の
速度を上げる)のは見苦しいものであるぞ。控えて馬に乗るように。」

私は『近頃にない悪き言葉だ。どのように彼に返答すべきか。」と思い、振り返って見てみると、
谷は少し小高い場所に、馬を横ざまに立てていた。いやまったく、彼は巧の入った老武者である。
味方はわずかの勢であるから、もし追い立てられ、敵が勝ちに乗じて競って来たなら、そこの横槍を入れて
突き返すためにそのように控えているのだと見えた。

とかく曲者である。何も言わないほうがマシだと思い、私はそのまま馬を早め進み、一番鑓を初め、
名のある敵の戸波隼人を討ち取ったため、味方はこれに利を得て、喚き叫んで攻め戦った。

この勢いに敵は辟易し、多く討ち取られる体たらく。天に光り地に響き、血は馬蹄に蹴りかけられ、
多くの死体が野に横たわり、寸尺の地も余さないほど夥しいものであった。

こうして私は戸波隼人の首を秀吉公の実検に備え、その後立ち退いて見ると、あの谷兵太夫は未だに
傍らでうずくまっていた。

「こここそ最前の返答すべき所よ!」
私は戸波隼人の首を彼に向かって投げつけると叫んだ

「先ほど其方が申した如く、若輩者が逸り過ぎて、馬に輪をかけた者は、これほどの手柄を立てたぞ!
能く能く見ておいて、汝の子孫までの物語にせよ!」

そう言い捨てカラカラと笑うと、かの者は目尻でこれを見て、更に一言の返答も出来ず、顔を真赤にして
俯いていた。
これこそ、我が一代の快き振る舞いである。」

清正公が機嫌の良い折は、いつもこれを声高に仰せになり、御喜悦なされていた。

(續撰清正記)

参考
加藤清正「あれはしずヶ岳の戦いの時だ」


「常々伝授の兵法を使うのはこの時だ」

2015年12月30日 15:42

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/30(水) 11:20:22.23 ID:r+hYBIID
先の肥後太守・加藤清正の祖父は、大織冠・藤原鎌足の末葉・加藤因幡守清信
という人である。彼は尾張犬山に住み、斎藤山城守(道三)の幕下にいた。
山城守と織田信長が犬山で一戦した時、清信は討死して果てた。

清信死去の折、子息が1人いた。鬼若といって2歳であった。彼は孤児となり、
母に養育されて成長し、尾張愛知郡中村というところで光陰を送って、後に
弾正左衛門兵衛と号した。弾正は38歳で死んだ。

彼には1人の男子がいて、その子は3歳だった。彼は虎之助と名付けられた。
どうにか母に育てられて5歳までは中村に住んだ。ところで、豊臣秀吉の母公
(大政所)と虎之助の母とは従姉妹の関係だった。それゆえ、虎之助の母は、

「木下藤吉殿はいま近江の長浜で5万貫の領地を治められ、豊かな様子である。
この子を田舎で育てたのでは武士の作法も知り難い。只々、秀吉公を頼み奉ろう」
と分別し、虎之助を連れて長浜に至り、秀吉の母公に委細を申し入れると、
母公は殊の外もてなしてくれた。

また、両人はともに秀吉の目にかけられ、母公の側で養育されることになった。
虎之助は15歳になった時、母公に申し上げて、「私はあなた様のおかげで
成人いたしました。15歳とはいえ、背たけも高くなりましたので、前髪を
落として奉公を勤めたく存じます」と、言った。

母公は、「大人らしく申すものだ」と思って秀吉に詳しく話すと、秀吉はひとしお
機嫌が良くなり、密かに虎之助の眼差しを見て、「よく祖父の清信に似ているもの
だと存じる。前髪を落とし申すとしよう」と言い、すぐに彼を男になし加藤虎之助と
名付けた。こうして虎之助は初めて170石の領知を与えられ、奉公の身となった。

ところで、秀吉の家中に塚原小才治という兵法者で、卜伝遠類の武士がいたのだが、
虎之助は彼に従って兵法を修行した。ある時、長浜の町人所へ、人を殺傷して閉じ
こもった者がおり、町中が騒がしくなった。虎之助はその様子を聞き付けて、

「常々伝授の兵法を使うのはこの時だ」と思い、かの町人所へ走り行くと、四方は
人で満ち満ちていた。彼は大勢の中を潜り入り、狼藉人を打ち倒して綱をかけて、
手傷1つをも負わずに捕らえて出て来た。閉じこもった者は秀吉の足軽・市足久兵衛
という者だった。

その首尾を秀吉はつぶさに聞き、「常々かの者は普通の若者のようでもなく、役に
立つことだろうと思ったのだが、よくぞやったものだ」と言い、200石を加恩して、
木村大膳組の小物見役に仰せ付け、虎之助は明け暮れ勤仕した。

――『清正記』



123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/30(水) 20:53:53.21 ID:l9PrY5lP
清正は明智光秀と同じ美濃の土岐氏だから
桔梗紋を使ってたという説を聞いたことがある

加藤清正から福島正則への書状

2015年09月04日 09:53

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/04(金) 06:11:55.42 ID:NRmHK520
加藤清正から福島正則への書状

「羽柴左衛門大夫様 
              人々御中

確かに申します、駿府城の普請について穴生(穴太)衆を雇うようにと、
本多正純より命じられました。そうではあるけれど、穴生衆ばかりを進上す
るのもどうであろうか、胸のうちを考えて、手代の者四・五百人程を一緒に
遣わすべきかと考える、派遣した人夫に相応の普請を命じられなければ、江
戸へ遣し、拙者の屋敷の普請を命じるつもりです、きっと貴方へも穴生衆に
ついて命じられると思うので、心積もりのため伝えます、上方で何かありま
したら、手間をかけるが、飛脚にて私にも伝えてください、私の意が伝わり
ますように。謹んで申します、

加肥後守 
十二月廿日 清正(←花押)

追伸ですが、上方の情勢に変化はないでしょうか。こちら(熊本)は遠国
なので、関東の様子なども聞こえてきません、何かありましたら返信の際
に聞かせてください。来春はお互いにゆっくり在国したら満足ですね。き
っと貴方もそうでしょう。よろしく。」

(大阪府柏原市 今町・三田家所蔵)

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/04(金) 06:16:03.02 ID:NRmHK520
656は戦国武将の書状スレが無くなっていたのでこちらに。



660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/04(金) 12:58:43.77 ID:Ctdhxo+n
羽柴、と書かせながら
清正「俺も羽柴姓をもらいたかった」
と思ってたりして

名将には深慮遠謀が有るものである

2015年08月12日 13:08

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/12(水) 07:11:30.84 ID:8lbm1Qo/
肥後国入江白川という所に、加藤清正の菩提所がある。霊屋を建て、秦勝院と呼ばれる。
肥後では現在でも、国中の者達が清正の霊を大変に尊崇している。

さて、その秦勝院の門前の道は一里ほどの直線で、道の幅約二十間(約36メートル)、その両側には梅の木が
植えられている。
梅が最初に植えられた時、木々の間隔が広く取られたため、人々から「これは広すぎるのではないか」と
批判があった。しかし梅が成長し大きくなると、その枝々の間隔も丁度良いほどになった。
これは後世のことを考えて植えさせたものなのだという。

また、寺の後方はほぼ栗の大木の林となっている。これは他の木は薪などにするため切っても、
栗は実を付け人々が生きていく上での助けともなるので、切ることを禁止させたためだという。

何事によらず、名将には深慮遠謀が有るものである。格別のことだ。

(明良洪範)




529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/12(水) 08:41:00.05 ID:IDMAzZTI
泰勝寺のこと?
もし泰勝寺なら忠興のいいお話だよね
携帯でググってみたけど、よそ者には地理を含めてちとわかりづらかった

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/12(水) 19:25:36.88 ID:n1kJko3v
清正の菩提寺は本妙寺じゃなかったっけ?

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/12(水) 19:51:54.21 ID:tYH+ulrQ
子孫が改易になったのに清正公の愛され方は異常

改易されて、新しい藩主が来たら過去の殿様は完全に忘れられる
蒲生とか最上とか福島とか森とか田中などなど...

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/12(水) 20:22:41.89 ID:Wxtj+KHf
細川家の菩提寺=泰勝寺(三歳様が幽斎パパの為に立てた小倉の泰勝院を移転したもの)と
加藤清正が埋葬された浄池廟のある本妙寺が混同された逸話やね

花の咲く木(桜)の並木のある直線状の長い参道があるのは本妙寺の方だし

泰勝寺は今は廃寺で「泰勝寺跡」として
立田山の「立田自然公園」の一部になってて三歳様とガラシャさんのお墓も在る
静かで夏でも木陰が多くて比較的涼しい綺麗な場所だよ
ただ今の時期は虫よけスプレーが必須 by熊本市民

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/12(水) 20:44:32.51 ID:4T5F2vu3
>>532
会津は伊達でもなく上杉でもなく蒲生だったぞ。まあ一番は幕末だが。

二丁かけの鉄炮 壱丁 其町の鍛冶ニ能々可成ほと

2015年08月10日 13:12

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/09(日) 21:48:25.14 ID:moPof/uX
「一 二丁かけの鉄炮 壱丁 其町の鍛冶ニ能々可成ほと 念を入りはらセこし候へく候
  但 台ハくりだい 見ぐるしく候共 たいじりすこしミじかく可申付候
  并ニいかたすこしもひずミ候ハぬ様ニねんを入こしらえ可添越候
  榎並屋方へもあつらへ遣候 其筒と見あわセ 能々と以後はらセ候ハんためにて候
  上なりハ角筒 長さハ五尺ニにはらセ候へく候
  かなぐニこのミ在之儀者 平兵衛ニ口上ニ申含候事」
(早稲田大学図書館所蔵 年代不詳(文禄の役中?)2月21日付加藤清正自筆書状より抜粋)

意訳:
「二丁かけ(?二連式の事か)の鉄砲を一丁、其の町の鍛冶に可能な限りよく念を入れて作らせて送ってください。
但し、台木(木製の銃床)の素材は栗で、見た目は悪くても台尻は少し短く作ってください。
それと併せて、鋳型の方も少しでも歪みが生じないよう念を入れて作成し添えて送ってください。
榎並屋の方にも(鉄砲を)発注するので、その銃をよく参考にしてもらって
以降も(鉄砲を)作成してもらう為です。
銃身は角筒で、長さは5尺(150cm)で作成してください。
金具にも好みが有りますが、それは平兵衛に伝えてあるので彼から口頭で聞いてください。」

訳注:「榎並屋」=堺の鉄砲鍛冶

朝鮮出兵中に加藤清正が隈本の留守居の家臣達に送った、物資調達に関する書状から
鉄砲に関する項目のみを抜粋。
細かい所まで全部自分で指示しないと気が済まなかったという有名な悪癖が
よく出ている箇所だと感じたのでちょっと悪い話に。




しかし田中はその晩のうちに

2015年07月30日 11:38

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/30(木) 04:23:43.44 ID:LgybVBYt
加藤清正が宇土城を攻めた時の事。

清正は「夜襲が有るかもしれないから、警戒は怠らないように。」と部下達に指示していた。
果たして或る夜、宇土城方は杉本次郎介を隊長として清正の陣に夜襲を仕掛けてきた。
日下部平助と阪川忠兵衛が即座に応戦し、陣の守りが固い事を知った杉本は城中へ引き返した。

そんな中酒に酔って眠っていた田中兵助は鉄砲の音で目覚めると慌てて槍をとって参戦したが、
夜襲を仕掛けてきた敵兵はほとんど宇土城内に撤収した後であり、
隊長の杉本だけが大手門の柵の木戸口の所に留まり残っていた。
杉本は声を掛けてきた田中に十文字槍で一撃を与えるとすぐに柵の中へと入っていった。

さて戦闘が発生したからには論功行賞がある。
その日の夜襲に対応した者達を集めて論功行賞が行われたのだが…

日下部・阪川・田中「「「俺が一番槍だ!!!」」」
清正「」

実際にほぼ同率一番槍であった日下部・阪川に加えて遅れて参戦した田中も
「自分は先駆けをした」と主張した為面倒臭い事になった。

清正は三人の負った傷をよく観察してからこう結論を出した。
「一番槍は日下部と阪川のどちらかだろう。田中は嘘をついている。」

「日下部と阪川の二人は矢傷を負っている(が、田中には矢傷は無い)。
槍を合わせる前にはまず矢を射かけ合うものだから、矢傷のある日下部と阪川が
田中より先に戦闘に参加していた筈だ。」
「それに田中の槍による傷?は右腕にあるが、普通槍による傷は左腕に付くものだ。
まして横方向の切傷というのは…まさか自分自身で付けた傷ではあるまいな?」

清正の上記発言を聞いて田中は
「銀の沢瀉の立て物の兜を被って、杉本次郎介と名乗った十文字槍を持つ武士が
この傷を俺に負わせたのです、それなのに偽りと言われるとは俺はなんて不幸なんだ!」
と抗議し、退出した。

後日宇土城は明け渡され、杉本も清正に仕える事となった。
清正が杉本にその日の夜襲の事を尋ねると、
杉本は「城中へ退却する途中、とっぱいの兜を被って、槍を提げて走ってくる武者に
十文字槍で一撃を与え傷を負わせました。」と答え、これは田中の証言と一致した。
その為「疑ってすまなかった…。」と清正は田中に500石を加増した。

しかし田中は加増されたその晩のうちに
「虚名を受けて世の人達から批判を蒙りましたので加増して頂いた分も含めて禄はお返しします。」
と書置きを残して出奔し、肥後から立ち去った。
(常山紀談)

話としてはここまでなので残り数行は略したが、この後に
「田中は元々盗賊である。26歳の時、三条河原に盗賊たちの頭目である石川五右衛門が処刑の為引き出された所に走り寄って
五右衛門の警護役を一刀の元に斬り殺し、『日頃の恩は返したぞ』と叫んで騒ぐ人ごみに紛れて逃げおおせた。」
という本当か嘘か分からない田中の経歴が書かれている。

日頃からこういう調子のホラを吹く人物だったので疑われたのでは…?




この清正の心遣いへの感動に

2015年07月05日 16:22

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 19:14:01.62 ID:dNqcmn2M
1593年1月の平壌陥落に伴い加藤清正・鍋島直茂も同年2月に撤収する事となった。

その際清正の部下達が各所で敵に囲まれ援軍が必要であるとの要請が来ていた為
清正は捕虜としていた朝鮮の二王子を直茂に預け、自身は部下達を迎えるべく出立した。

2月24日に長橋を出立し27日には鳳井城に着いたが雪が深く兵卒たちが疲弊していたため
そこで4、5日休息の為に逗留する事になった。

その間に蔵床に駐屯していた近藤四郎左衛門以下500人、銀山城の加藤余左衛門以下500人、律青の小代下総守以下500人合わせて1500人が駐屯していた城を焼き払い、
自力で敵兵の包囲を突破し鳳井城の清正の軍に合流してきた。

斥候からの情報により彼らが合流してくることを知った清正は、
大釜を沢山用意して飯を炊き、大樽から酒を移して温めさせ、
自身で握り飯を作るのを手伝いつつ「握り飯+干魚+熱燗一杯」というお食事セットを1500人分用意させた。

そうして近藤四郎左衛門以下の軍が到着した際には
「近藤四郎衛門、岡田、佐々、皆来たかな?兵左衛門、九鬼四郎兵衛もこっちにおいで。
出田、井上、小代、大脇、長尾、お前達もここに来なさい。
去年以来お前達には本当に苦労をさせた。まして今回皆自力で包囲を突破してくるなんて
その武功をどういう言葉で褒めたらいいか分からない位だ。
ともあれ皆と無事再会できて嬉しいよ、まずはこれを食べなさい。」
というように声掛けしつつ
身分の上下問わず1500人全ての兵士達に自ら前述のお食事セットを配り労った。

親類縁者と無事再会できた事への喜びと、この清正の心遣いへの感動に1500の将兵達に泣かない者は居なかった。
(朝鮮征伐記)




286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 23:37:11.05 ID:mcl8CC95
いい話なんだけど、兵糧は完全に尽きたよねコレ…

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 23:53:42.17 ID:+0kRFIht
日本人は元来草食なんだから草木を食えばよいって牟田口様も言ってるから大丈夫だよ!

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/05(日) 00:03:54.44 ID:uGuToqX5
牟田口閣下は牛食えと言ったのだ

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/05(日) 00:34:14.33 ID:SxpbM99m
牟田口閣下は諫言した部下に糞食らえとも言ったのだ

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/05(日) 01:07:09.00 ID:b+v0jdHx
糞食らえ、て閣下を食えってこと?

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/05(日) 09:16:33.51 ID:ODY/qvB9
再会記念を兼ねた最期の晩餐

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/05(日) 09:55:30.68 ID:08DZp3wK
清正はいい兄貴だなー

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/05(日) 10:09:19.70 ID:Rd/tfmMV
超兄貴だな

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/05(日) 10:23:18.45 ID:xeP6A4OW
一応「清正高麗陣覚書」にも類話が有って(というかそっちが元?)
そっちではこの逸話の後 鳳井城=「ほくせん」は穀類が豊富な土地で
住民達が兵糧を供出してくれたので
陣払いする時他の城と違い焼き払わなかった…という記述がある

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/05(日) 15:08:27.60 ID:Vu9vQmGk
兵糧が底をついても、治部少への怒りをエネルギーに変換して戦うよ

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/05(日) 16:16:57.18 ID:xeP6A4OW
>>295
実際三成からの讒言が在ったかどうかはともかく
これ三成から讒言されるより時系列的に前の話やで

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/05(日) 17:53:18.67 ID:VrjnPUgZ
加藤「いいか?兵糧が尽きたら砂を食え!バクバク」

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/05(日) 18:08:39.55 ID:vpUrqda7
「兵糧がなければ、ういろうを食べればいいだぎゃあ」

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/05(日) 20:26:59.94 ID:ZEmQywQ/
城を包囲され食糧が尽きた清正は一計を案じこう言った
「あそこに治部がいるぞ!」
これを聞いた諸将は皆怒り狂い、忽ちのうちに腹の減りを忘れたという

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/05(日) 22:00:54.06 ID:iJg/3h2l
兵糧が無ければ肉粥を食べればいいじゃないか!

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/05(日) 22:31:38.66 ID:qwzeyAtf
しばちゅうさんは鬼嫁にしばかれといてください

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 02:02:00.36 ID:hL4CxDTF
兵糧事情が苦しくなろうとも
部下を思いやって士気を高めるのは大事な事だろうなあ

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 02:23:00.38 ID:lx9vSX1P
新田義貞だっけか
籠城戦から打って出るときに倒した敵兵の内腿肉で喉を潤したとかなんとか