「法度は改め変える事なかれ。年貢は少なく取ろう」

2017年03月17日 07:46

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 02:42:53.78 ID:cTLi9xmA
勝頼滅んで後、東照宮(徳川家康)は甲斐を治めなさると、

「法度は信玄より用いるところを改め変える事なかれ。年貢は少なく取ろう」

と、仰せ出しなさったので、百姓は大いに喜びあった。小田原(後北条氏)
滅んで後、その地を治めなさる時も、また同じであった。

諸民は大いに喜び、数百年の恩義が相結ばれるに同じであった。

――『常山紀談』



722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 03:09:38.35 ID:QiuwIqqf
百年にわたり善政を行い民百姓との結びつきが強いと言われた後北条氏だが民は年貢を多少割り引いて貰っただけで敵側だった徳川わっしょいになるなんて、所詮はその程度のものだった
穿った見方をすると悪い話し

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 07:44:17.53 ID:wCCIMaLG
>>722
真面目に言うと、家康は関東に入ってすぐに、水路の整備など、農村の改良事業といった、
戦乱のため北条が「やりたくても出来なかったこと」を大々的に行ってる。

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 08:40:17.24 ID:nnSE9C2g
>>722
ついでに言うと北条家の家臣はほぼ登用しておりあまり法律とかやり方を変えてないしな。住む方にとってはありがたい。

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 12:03:48.43 ID:ZFO1X/J/
盗賊にまで落ちた風魔がいたね

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 12:33:44.27 ID:SiKtZsUe
>>724
実はあまり登用していなかったんじゃなかったっけ。
ただ農工商いずれに渡っても領民と徳川の中に入っていって
色々スムーズにしていったとか聞いたことある。

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 20:38:45.25 ID:bg166cIu
家康は小牧長久手の戦役で15歳から60歳までの男子を総動員している。
農繁期にこれをやっちゃったので、秋の収穫は酷い事になってるんだけどね。
甲斐では家康が統治してからも検地反対の一揆などが頻発してて、民が喜んだなんて嘘っぱちなんだけどなあ。

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 22:56:50.30 ID:gv6zUOc6
>>727
いつどの辺りで起きたの?
首謀者は百姓なの?
それとも武田の旧臣?

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 23:57:35.83 ID:bg166cIu
当時においては百姓と武士の違いなどあいまいだ。区別はできないな。
そもそも当時の百姓は甲冑槍弓で武装し、場合によっては火縄などまでもってる。

時期は家康が五か国総検地をやった時。
その前も小牧長久手の後遺症で領内が大飢饉に陥っていたけどね。

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 09:30:45.43 ID:e23UI1NM
妄想?それとも何か文献あるんだろうか。

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 13:01:10.66 ID:mqYEINS8
龍門寺拠実記によると小牧長久手の戦いで男でがとられて、領内は荒廃して飢饉になり、
老人は口減らしで死んでいた事が記されているよ。

三州山中八幡の事

2017年03月11日 09:17

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/11(土) 06:45:08.19 ID:c4YBRzER
三州山中八幡の事

 三河国額田郡に山中八幡宮という社がある。
御朱印高百五十石である〔この社は文武天皇三年秋九月九日影向したという〕。
親氏君、広忠君が信仰されて宮を造立された。その時の神職を竹尾二郎左衛門尉という。
神君御誕生のときには御代参として本多平八郎が詣でられたという。
〔本多系図に、忠勝の父、祖父も皆平八郎と称す。この二人のどちらであろう〕

 本願寺一揆のとき白鳩二羽舞い上がった。
これから舞木というのを改められ舞上八幡と称し、
その山を御身隠山と称することという上意があった。
 神主数代は三河州の所々で御戦に随従し、代々に武功戦死の者も出し、今も御感状数通を持ち伝えている。
関東御入国の後は専ら神職を勤めるよう命ぜられ、当代は竹尾但馬と称している。
ただし任官はせず代々無位で武士であるという。
このことを癸未(1823年)の春に、隣宅の但馬が来て語ったのを記した。
(甲子夜話)


岡本大八事件を受けての処罰と処置

2017年03月04日 18:23

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 02:29:30.81 ID:CyHrUAAx
3月11日(慶長17年)、小笠原権之丞榊原加兵衛以下、御旗本の輩
5,6人を改易なさった。伴天連の宗門に帰依している族である。

原主水正(胤信)も同罪の者であったが、逐電して行方知れずになった。

この時、大神君(徳川家康)の上意あって、今後旗本の面々は各10人組
とし、相互に吟味を遂げて、もし、その中にかの宗の徒がいれば、言上す
べしとの旨を、仰せ渡しなさったという。

――『関難間記』


岡本大八事件を受けての処罰と処置という話。


見物の群衆があちこちにできたところを、入れ替わりに

2017年03月01日 10:06

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/28(火) 21:57:04.37 ID:8MYd/WuV
 大阪御帰陣の時に、御道筋を船場までと仰せられました。
その後、玉造口までと仰せ出され、また船場口へと仰せ出されました。
小荷駄などはこの道筋をつかうようにと御下知があったので、
見物の群衆があちこちにできたところを、
入れ替わりに堀際をお通りになられたという。
御深意の程ありがたいことです。

『武士としては』


山下金之助

2017年02月28日 08:10

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 12:11:55.34 ID:KKvYoxvy
山下金之助

 幕府旗本の人々はいずれも旗本となった由縁がある
広く聞いたらさぞ名家が多いのだろう。

 林子(林述斎)は近頃、山下金之助と女子の結婚を仰せつけられた。
その家を林子に問うと、
その家の家紋は三頭の左巴、または井桁を用いる。
井桁の家紋は神祖から拝領して、殊に重用しているという。
 そのわけは、神祖が駿府にございました時、
御狩の御供をしていると、大猪が出てきて皆狼狽した。
そこへ山下は刀を持って猪に対面し、井桁に押し付けて仕留めた。
その後継を間近でご覧になられて、
御感賞のあまり着られていた紫縮緬御紋付の御陣羽織を脱がれて手ずから贈られ、
かつこの後に井桁を家紋とせよとの上意があったのでこれを用いたという。
その御陣羽織は今も家に秘蔵しているという。

元祖は綱義。弥蔵、または文十郎と称し、広忠公に奉仕し、安城で討ち死。
二代は義勝。弥蔵、または庄大夫と称し、神祖に奉仕し、関ケ原、大阪両陣をお供した。
三大は周勝。弥蔵と称し、父とともに両陣をお供した。
その後、駿府の御狩にお供した人である。
このひとから金之助は七世の孫という。

(甲子夜話)



684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 12:50:10.89 ID:SjJ0ReA5
井桁の家紋か
いいかもん
いいかもん

685 名前:人間七七四年[sagr] 投稿日:2017/02/27(月) 20:01:18.80 ID:B7XqD9oS
今じゃ!
>>684の頭上に熱々の糞尿をぶっ掛けるのじゃ!

羽織についての事

2017年02月26日 11:23

612 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/02/25(土) 22:54:33.58 ID:ORS48Def
山名禅高があるとき、所々破れたいかにも古い、黒き羽織を着て御所に出たのを、大御所徳川家康が見て
「禅高、その羽織は?」と尋ねられた。禅高は袖をかき合わせて
「これは満松院殿(足利)義晴公より拝領したものです。」と申し上げた。
家康はこれを聞くと
「流石は山名殿である。返す返すも殊勝なり。」
そう御感賞された。

これは岩淵夜話に有る話であるが、有る人が言うには、羽織はことさら近年のものである。
初めは中元以上の者達が、ばさら事の伊達に、稀に着たものであったという。
それがこの頃に至っては、上下ともに礼服のように揃って着るように成り、公の場においての
時服拝領などでも、羽織が添えられるようになったが、それはここ百年ほどの事であるそうだ。

613 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/02/25(土) 22:54:53.32 ID:ORS48Def
私の記憶では、七十余年以前の私が幼かった頃までは、武家において子供に羽織を着せることはなかった。
ただし町家などでは振り袖の羽織を着せていて、私もこれを羨ましく思い、親にせがんだ所
「士の子は袴だけでよろしい」と、古風であった私の父母は、どちらもこれを許さなかった。

その当時の老人たちはこう言っていた
「我らの若き時分までは、羽織を持っている人は稀でれあったし、普段から着ている人もおらず、
花見遊山と言った時に着ていただけであった。今のように成ったのは常憲院殿(徳川綱吉)の御代よりの
風俗である。」

このように見ていけば、羽織という物が世に現れたのは全く近年のことと見えるが、またこの逸話の内容が
真実であると見た場合、二百余年以前より羽織という服は存在したが、民間には広まっていなかった、
そう考えるべきであろうか。

(翁草)

言外にすげー言いたいことを感じる翁草の記事



614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 00:15:40.67 ID:Lr6URigv
翁草の作者って割とこういう分析コメント好きだよな

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 04:34:54.64 ID:5ya2q+nv
褌みたいなもんか

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 08:11:04.60 ID:yHclo49x
庶民なんか普段は褌してなかったりするからな

居間に有る屏風を取り寄せよ

2017年02月25日 11:36

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/24(金) 20:59:10.07 ID:qLdh8+pc
 駿府城の東北横内町御目付巡見場所、
御朱印二十一石余りの浄土宗来光寺(来迎院英長寺?)の庭には、
神祖自ら接ぎ換えた桃が有る。

 また宝物として神祖から拝領した屏風が有る。
絵は唐児遊、極採色は土佐の筆という。
これは昔神祖が御入のときに、碁を打たれていたが、
折りしも寒気が甚だしかったので、屏風を立てよとの御意見された。
しかし屏風が無いとのことを聞かれると、
すぐに御居間に有る屏風を取り寄せよと仰せられたという。
それから今でも待ち伝わっているのだとか。

(甲子夜話)


これが武道の眼つよみ第一

2017年02月20日 15:54

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/20(月) 07:32:55.54 ID:T9Gd58Ub
 尾州大高の城に権現様がございました時に、
水野下野守方から、
今川義元が殺されましたので、早々に大高の城を御引取りください。」
と報告しに来ました。

しかし家康公は
「きっと義元の御生害が誠であるのだろうが、
敵方の下野守からの知らせで城を空けて退くのは、不行届で慌てた様である。
この城でこのまま難に遭うことになっても、それは是非ないことだ。
ここで踏み止まり確かな報を聞き届けて、
証が正しいと分かった時に引き退くべし。」

と仰せられ落ち着かれていました。
そのところに、岡崎の山田新右衛門方から、
書状で申し上げられたので、じっくりとお調べまして大高をお引き退きました。

これが武道の眼つよみ第一である。


『武士としては』


武であるのに嗜みをしないこと

2017年02月15日 18:29

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/15(水) 03:25:36.87 ID:bVy+937X
 高井助十郎が尾州長久手の戦場で首を取れなく口惜しがっていることを、
権現様が聞かれました。そこで彼を召して

「助十郎は旧主の(今川)氏真をよく見届けたではないか。
このたびは首を取れなくても苦しくない。
すでに意地の者であるぞ。」

との上意があったそうです。
しかし助十郎は

「時に大将からこのような言葉を頂き、恐れながら至極の上意です。
ですが、新しく主を替えた身となっては、
昨日の働きを思わず、今日の稼ぎを行うことが本意です。
前の武辺に緩んで後の働きがないことは、
武であるのに嗜みをしないことです。」

と答えたとか。


『武士としては』

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7152.htmlの別バージョン。
地味に意地っ張りになっている。



649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/15(水) 09:42:01.65 ID:Bp9fp+kj
きっと前の話は駿河ver.で、これは三河ver.なんだよ

“淫乱の人跡”とはいったい…

2017年02月04日 17:37

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 03:17:10.72 ID:RWhjGdVD
権現様(徳川家康)が中原御殿におられた折、夜中、にわかに犬が
吠えたので、「誰か見て参れ」と仰せになった。

すると小姓衆が「見に参ります」と言い、御前で手をつき通ったので、

「斯様の時の礼は、かえって無礼ぞ。少しでも早く出て見るものぞ」
と、仰せになった。

さて、犬が吠えたのは“淫乱の人跡”と見えたので、詳細を密かに
仰せ上げられると、権現様は「良きぞ。黙れ」と、仰せになった。

(扨犬の吠たるは淫亂の人跡とみへたる故。委細ひそかに仰上られ
たれば。よきぞだまれと上意なり)

――『武功雑記』


“淫乱の人跡”とはいったい…




574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 09:46:46.25 ID:dvy1U+wC
ギシアンかアッー!(ボソッ!

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 11:46:12.00 ID:iA9RwaR5
獣姦の詳細なんぞ聞きたい奴おるん?

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 12:10:27.53 ID:8RyG3zgi
>>573
>よきぞだまれと上意なり
これ素直に訳すと「解ったもういい黙ってろ。」って事だな。
家康が苦虫噛み潰したような顔でこれ言ったと想像すると結構面白い

一備の将たる者は、

2017年01月28日 09:19

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/27(金) 19:20:26.74 ID:KqZEt9y/
一、一備の将たる者は、並の武士の作法に準ずるべきではありません。能く柔と剛を兼ねなければ、
  将たる道には至りません。
  一鑓合いの武士は強勇を表として、主のために命を惜しまないことを名誉とします。
  しかし一備の将たる者は、命を全うし、諸卒を懐かせ、駆け引きの作法を示し、勝つべきを
  見て進み、勝てないのを見れば引き取って後の勝ちを得ることに専念する。これは将にとっての
  法です。この心を忘れず、老功の者達とも評議し、尤も妥当な判断に従うようすべきです。

一、其方は若輩ではありますが、甲信両国の武士を与力として預かる上は、どんな剛敵と言えども
  防戦を致し、越度を避けねばなりません。心に及ばぬ所は、石原、孕石、廣瀬といった老臣たちと
  相談し、進退に道理を以て、諸卒をそれぞれに差し遣わさねばなりません。

一、どんな諸芸も習わなくては知らぬものです。それが戦の道であればなおさらな事です。
  その作法、方便、謀、進退、そういった事を知らずに行う合戦は、危ういものです。
  私は国を争う戦を度々行いましたが、その一度一度の勝負についての経験から、知らねば
  持つことの出来ない道理を獲得しました。そういう思いもあって、其方には三人の武功の者、
  そして合戦の場数を踏んだ武士たちを与力として預けたのです。
  この者達に二六時中(当時は一日を十二支で分けている)戦の道を尋ね、極め、武の事を
  心から忘れないようにして下さい。

右の条々について、油断があっては成りません。如件。

 徳川家康在判

    井伊万千代(直政)殿

(松のさかへ)

「赤備え」を井伊直政に預ける事に関して、徳川家康が直政に送った書状。
ほとんど守ってないような気がするが。



惜しいなあ、九郎兵衛とは名が古い

2017年01月27日 16:35

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/26(木) 23:44:09.77 ID:h+IZe1XV
 大坂陣で蜂須賀(至鎮)の者の稲田九郎兵衛(植次)が若年での働きがあった。
それを聞いた権現様は
「惜しいなあ、九郎兵衛とは名が古い。幼名にすればよいのになあ。」
と上意されたという。

 九郎兵衛とだけ聞いても、年若な者の働きとは分かり難い。
名もその時に相応のものにするべきものである。


『武士としては』



553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/27(金) 00:02:29.67 ID:IMLDCitB
てっきりおかしな名前を名付けた話かと思ったわ

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/27(金) 08:50:18.71 ID:UQlJ97ei
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=6672
見覚えがあるとおもったら徳川実紀が出典で出ていた
徳川家康「名前はよく考えろ」

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/27(金) 09:44:27.72 ID:0W/94KwA
幼名は梶之助か。

一段の事である。そのまま夫婦にせよ

2017年01月13日 11:31

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/13(金) 03:54:25.69 ID:FY55/4W4
小笠原越中に罪あって、大久保七郎右衛門(忠世)に御預けになった時、
また女子に罪あって同所に御預けの者がおり、女子と越中は密通した。

この件が権現様(徳川家康)の御耳に達したところ、御意に、

「一段の事である。そのまま夫婦にせよ。越中もすぐに呼び出して、召し
使うとしよう」と、仰せられたという。

――『武功雑記』


○ 安藤帯刀物語

御意に違えた女を家康公は大久保七郎右衛門に御預けになられ、二俣
の城へ遣し置いた。

その後、小笠原権之丞<後に越中と云ひしなり>が御意に違えたのをも、
七郎右衛門に御預けなさったところ、この者は二俣で以前の女と一所に
なり、夫婦となった。

「とりわけて御咎めなさるべきです」と、申しあげたところ、家康公は御機嫌
にて、「そういうこともあろう。権之丞も召し帰すとしよう」とのことで、

すぐに召し帰しなさり、御使いなさったということだ。寛仁大度なり。

――『山鹿素行先生精神訓』


追放された権之丞の父親の話か。



509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/13(金) 12:06:57.31 ID:uhhPYp01
御意に違えた
つまり身籠ってしまったのがいけなかったんだな

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/13(金) 14:48:30.25 ID:WQ/oJQJy
女のほうは朝日姫の侍女だな、孕んでたんで越中にお下げになったのだろう

日本の諸大名はこの日初めて、

2017年01月05日 09:38

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/05(木) 09:07:42.57 ID:dqYqzxuP
慶長3年7月に、太閤秀吉は、西国の侍は伏見、東国の侍は大阪に詰め秀頼を守り立てるべし、との遺言
を定め、これについて諸大名は徳川家康の屋敷に集まった。
徳川家康が現れると、日本の諸大名はこの日初めて、家康を半ば主人のように敬った。

この人々の中では特に、増田長盛と徳善院の両使は「御意のとおりに致します」と、家康に手を付き、
主人であるかのように敬い申し上げたのである。

五大老五奉行もこの日に定まった。この日の上座は毛利宰相(秀元)であり、彼の振り回しで酒宴となった。
上杉景勝、佐竹義宣、伊達政宗3人の仲直しもこの日であった。
徳川秀忠は勝手に座っていた。

一日間を置いてこの人々は前田利家の屋敷に集まり、霊社上巻の起請文を書いた。

(慶長年中卜斎記)

秀吉死後を見据えて、諸大名の家康への認識が変わった瞬間について。




“骨食”

2016年12月28日 09:40

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/28(水) 01:48:32.30 ID:O/gQl5bU
同月28日(慶長20年6月)、秀頼所持の薬研藤四郎〈吉光〉の太刀
は“骨食”と号して、長さは1尺9寸5分である。

これを河内の農民が拾い得て、本阿弥又三郎に見せた。これにより、
本阿弥は即座にこれを大神君(徳川家康)に献上した。

御覧の後に、これを又三郎に返し下された。後日に秀忠公へ進上し、
御受納あって黄金5百両、白銀2千枚を本阿弥に賜った。

――『関難間記』



終に往く道をば誰も知りながら

2016年12月23日 21:09

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/23(金) 01:02:42.42 ID:bjWOvYiP
 小日向の竜興寺は、高所で富嶽遠眺の勝地である。
寺に桜樹がある。神祖が御詠み短冊に書かれたのを収蔵しているという。
この地は初め桜野といって、桜樹が多くあった広い地である。
神祖が御遊覧のときの御詠を桜樹につけ置かれていて、
その辺に釈迦文院という真言の小院があって、御帰りのあとにその御詠を取り収めていた。
寺の開山玄門和尚が創建のときにここを見立てて暫く釈迦院に寓していて、
そこで御詠を請い受け、竜興営造のとき寺の鎮守として小祠をたてて御短冊を神体として祭ったという。
御詠は

終に往く道をば誰も知りながら 去年の桜に風を待ちつつ

〔竜興寺で聞いて記した〕

 このときの御成りに従った左右の中で、杉浦吉右衛門はこの御詠の御書き損じを拝領して伝襲している。この孫が、今杉浦備後守と称して御小姓である。竜興寺の檀家という。

〔近頃、日向国の拙堂和尚という者がこの寺に宿して賦した詩がある。
地の勝趣を知ることができるので、ここに記す、

下界人家天上雲、芙蓉八朶望中分、
尾侯第隔青松見、護国鐘蔵緑蔭聞、
万里清秋霽漂渺、一輪紅日暁氤?
結句は今忘れた。〕

(甲子夜話)



京都総検校の蔵、神祖拝領壺の事

2016年12月22日 17:16

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/22(木) 03:19:20.72 ID:RpS+JZ5X
京都総検校の蔵、神祖拝領壺の事

 豊川勾当の話に、京の総検校の所に、かつて神祖から賜った御物が有るとのことである。

一つは色付きの大壺で〔色は忘れた〕葵の御紋がついている
この壺の由縁は、そのはじめ三宅検校〔称は忘れた、正さなければならない(※栄一とのこと)〕が賜ったものである。
そのとき検校は

「この壺の名は何と申すのでしょうか?」

と申し上げると、

「名は無い。今はこのように治平の世となったので、泰平の壺とでもいえばよい。」

とお答えになられた。

検校はかたじけなく拝領したそうである。それから今にその御名が伝わって、年首の行事には検校勾当の盲人が皆この御物は拝み、中に入っている酒を頂戴して礼飲するという。

 また鳴戸と名付けられた御琵琶も同じ検校が賜って今に伝わっている。
これも上意として

「戦争の際にはこのようなものは役に立たない。今治安となったので、平曲〔平家のことである〕のようなものも心安く聴けるだろう。」

と下されたという。今に至って総録所の伝宝となった。
盲人の坐までにも御手の届くこと、不思議なばかりである。
(甲子夜話)



本意に背く事はしないほうがいい

2016年12月21日 17:29

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 02:21:23.64 ID:R5M42y2K
 小田原の陣の時、秀吉は近習の侍十四、五騎で宿泊された。
この時に有馬兵部法印則頼が家康公へ進言した。

「これは天が与えた幸事です。押し寄せて討ちましょう。」

「このたびの秀吉の行進は私を頼っての事だ。
とりわけ秀吉の妹は私の室だ。もっとも三年以前(三か月の誤記?)に亡くなったが。
また北条氏直は私の妹婿であるのに、秀吉は私に心を許されている。
そんなところに、飼鳥の首を絞めるようなむごい事を武士はしないものだ。
武辺はその身の生まれつきだが、天下を知る事は果報次第である。
とにかく武士は意地を第一に綺麗にするものである。
本意に背く事はしないほうがいい。」

則頼も恥じ入ったとのことだ。
(武士としては)




四足門

2016年12月17日 21:17

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/17(土) 19:45:56.50 ID:tgoET9yr
 安部川の下前浜辺りに萩原というところがある。ここにはある古百姓がいる。
その先祖に大力を持つものがいた。神君が御在城のとき、外出の途中で荷を抱えた牛を両手に抱えて道脇にどけたので、何者か尋ねてみよとの上意があった。
「何村の某」と申し上げると、
「珍しい力だ。何か望みがあらば取らせよう。」との仰せがあった。
その頃はかの家が豊かだったので、
「望む物はありません。
ただなにとぞ四つ柱の門を建てたい」
と願いをしたら、お許しが下りた。
またその他に望みはあるかと上意があると、
「苗字を称して、家紋に日の丸をつけたい」
と申し上げると、それもお許しが出た。
そのうちに四足門を建てたという。
しかし昔から門は開け放っており、戸は無いという。
今はこの家は貧窮しているとか。

 また昔その所に土手を築いた。それを今は萩原土手と称し、その家も萩原と呼ぶという。

(甲子夜話)



駿府にて毎夜、

2016年12月05日 15:39

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/05(月) 02:37:06.96 ID:7mzLMEnB
この頃(慶長13年9月)、駿府にて毎夜、人を切ること甚だしかった。

金が掛けられ、申し出るようにとの旨が下知されたけれども、未だに
その沙汰もなかった。

また、日々喧嘩があって、互いに死傷に及んだ。

――『当代記』