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加藤嘉明、秀吉に仕える

2013年06月08日 19:57

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/07(金) 18:58:12.56 ID:Rg3gkucJ
加藤嘉明は永禄六年正月朔日、賀気村に生まれ、幼名を孫六と称す。
父教明の落魄して美濃にあるや、嘉明もまた従って美濃に来たり、好んで馬を養い、
すこぶる馬術に長じた。

ある日、嘉明が馬を引いて近江長浜に至り、城主加藤景泰に謁して馬を売ろうとした時、
城中に荒馬がいて将士にはこれをうまく操れる者がいなかった。

景泰が命じてこれに試乗させたところ嘉明はすぐに承知し、乗鞍一鞭馳騁思い通りに
ならない事はなかった。

景泰は大いに感歎し、翌日嘉明を引き連れて秀吉に謁見しこの事を語ると、
秀吉は珍しく思って命じて嘉明を景泰の子とし、姓を加藤、名を左馬之助嘉明と改めさせて
家臣に加えた。

――『鹿深遺芳録』

もともと岸氏を称していたのが、三河を逃れて仮に賀気氏を称し、
嘉明が養子になって加藤姓になったということらしい。




422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/07(金) 19:02:03.80 ID:0j7xiByN
空気加藤「父上が余計なことをしなければわたしが地味加藤だったのに」

幼年にして既にこの注意

2013年06月03日 19:51

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/02(日) 23:49:28.53 ID:8NTJDnCZ
時に天正二年、加藤嘉明は十二歳であった。同三年五月、秀吉が播州三木城を攻める時に当たり、
大雨がしきりに降ったので秀吉の戦袍が濡れてしまった。

日暮に本営へと帰った秀吉が戦袍を脱ぐと、嘉明は火を焚いてこれを乾かした。
これについて秀吉が「小坊は何をしておる」と問うと、嘉明は「君公が明日出軍される時に
用を為せるようにしようと思いました」と答えた。

秀吉は賛美して「幼年にして既にこの注意とは、後日には名将となることであろう」と言った。

――『鹿深遺芳録』




388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/03(月) 10:29:28.61 ID:PbcC++lL
ギギギ我が見せ場を取るとは…

かくて三成は嘉明に隔意を持つようになったのであった

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/03(月) 11:18:08.29 ID:qPcKQ5mh
>388、それじゃ悪い話じゃないかw

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/03(月) 20:25:37.43 ID:aNfUFRr4
数え十二ということは小学5年くらいかな
平和な時代の小姓なら幼くても務まるんだろうけど戦乱の頃だとたいへんだよなあ

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/03(月) 20:49:03.24 ID:8mohmn0C
戦国期の早熟っぷりは宣教師のお墨付きだからな
曰く「うちらで十歳って洟垂れ小僧だけど、こいつらの十歳は使者とか普通にこなせててすげぇな」

加藤明成は独り廻章に

2013年05月28日 19:41

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/28(火) 17:57:09.54 ID:IeDKOz3w
一説に、徳川二代将軍は諸侯に野心があるか否かを試そうと、密かに土井利勝に命じて
偽りの謀叛を計らせ、織田豊臣に縁故ある七大諸侯に廻章を出して同意を求めた。

侯伯らは直ちに利勝の逆意を密告するか、または書を見ずに返したのであるが、
加藤明成は独り廻章に点を掛けた。

これまた嫌疑を招いた一事であり、領土返還の事はあるいはこれにより起こったという。
記して参考とする。

――『鹿深遺芳録』





加藤嘉明の仁徳雅量

2013年05月09日 19:51

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 20:54:39.02 ID:GQFIaNJS
加藤嘉明の重臣である藪与左衛門は故あって閉門に処された。
嘉明は密かに侍臣を遣わしてその状況を見てこさせた。

帰ってきた侍臣は大体の状況を述べた。
次に、来会していた人名を告げようとすると、嘉明はこれを制して曰く、

「その氏名を聞く必要はない。友人に善き者は、主人にもまた忠なる者だ」と言った。

来会した人々はこれを伝え聞いて嘉明の仁徳雅量に感動し、
それ以来、大いに謹慎して、かつ忠勤を尽くしたということである。

――『加藤嘉明公(細野氏、写本)』





それでも嘉明は平然として

2013年05月08日 19:50

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/07(火) 21:43:45.62 ID:ZTsDJyXS
ある年に加藤嘉明は秀吉に従って山路を通過した。時に凍りつくような寒さは堪え難くなり、
秀吉は嘉明に命じて酒を調達させた。嘉明は馬槽(馬の飼料を入れる容器)を携えて民家に入り、
濁酒を持って帰って来た。

秀吉は喜んで酒を少量飲むと、その余りを付き従う将士に与えて、
「汝等も少しばかり平等にこの酒を飲め。そのうえで残った酒があれば、私がまた飲むからな」
と、言った。ところが、嘉明は馬杓を使ってこれを飲み尽くしてしまった。

秀吉はたいへん腹を立てた。それでも嘉明は平然として、まるで何も知らない人のようだった。

――『加藤嘉明公(細野写本)』




570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/07(火) 21:48:59.34 ID:Iq5cwOLw
嘉明は他の人にも飲ませてあげたのか、それとも一人で大部分をのんじゃったのか

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/07(火) 22:17:58.07 ID:13YmHMsD
知らぬ顔してるってオチだから一人で全部飲んだんだろうw
まさに主の心、嘉明知らずと言ったところだなw

573 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/05/08(水) 10:00:39.99 ID:ozFXPsMk
ラスボス後期なら問答無用でぶち殺されそうだな…

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 17:21:16.57 ID:cKpveGiZ
>>569
なんのオチもない話w 

加藤嘉明は家臣に酒を与える時に

2013年05月07日 19:52

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 23:52:31.27 ID:XfzQvwLM
加藤嘉明は家臣に酒を与える時に、大小二つの盃を使った。
家臣に大杯の時には少量の酒を受け、小杯の時には満杯の酒を受ける者がいた。

嘉明はこれを見て「汝等は酒の受け方を誤解している。

大盃は一時にたくさん飲むためのものだから、十分に受けるものであり、
小盃は何度も少量を飲むためのものだから、軽く受けるものだ」と言った。

――『加藤嘉明公(細野氏、写本)』




209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/07(火) 10:25:10.37 ID:UThT27B9
余談だけど加藤嘉明って小男だったのかな?
松山城行ったら鎧があったけど、隣の松平定勝のやつより一回り小さかった

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/07(火) 14:10:22.76 ID:pCP2coqL
嘉明は猛将と言われているのに後世に残る逸話が細かく手堅いネタばかりで結構好き

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/07(火) 18:37:55.09 ID:XmOH3kGB
そこがジミー扱いされる由縁かと

団右衛門が化粧料

2012年12月03日 20:07

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 18:02:06.58 ID:tVKt69Nz
お万の方は紀州頼宣と水戸頼房の生母である。
駿河にて塙団右衛門は名高き大剛士と聞いたお万は、

「お子たちに太刀を参らすのは当たり前のことです。
大将の宝とはまさに士であって、それ以上の物はありません」

と、鏡台金として毎年賜る五百両のうち二百両を団右衛門が
流落していた時に与えていた。

「有事の時には剛の者を一人でも愛しき子に参らせたい」
と言っていたのだとか。

大槻磐渓曰く
「化粧に務めてその美を飾るのは婦人の常態である。
その化粧料を捨てて国家のために猛士を養うなど思いもよらぬことだ。
ああ、この母にしてこの子あり。南龍公が勇武絶倫であることは
怪しむに足りないことである」

――『近古史談(常山紀談)』

でも結局団右衛門は…。




619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 19:06:57.08 ID:iMgPW1C6
この化粧料で買った木札に名前を書いてばら撒いたわけか

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 21:10:34.29 ID:3KzWe+JK
塙団右衛門は欲のない人だったのかな?
そういう伝手があれば大坂の陣でちょっと活躍すれば取り立ててもらえたのに

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/04(火) 00:07:45.67 ID:P2+cHhb7
>>620
名誉欲だけが人一倍あったんじゃね?
大阪方で暴れまくって死んだおかげで名前が400年後まで残って大正解だな。

加藤嘉明はこれを聞いて

2012年10月16日 20:12

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/16(火) 17:10:12.77 ID:klwxAAdn

小田原の役の折、前田利家上杉景勝は関東の諸城を降伏せしめ、
小田原に至り秀吉に謁見した。この時、秀吉はその功を賞さなかったので、
二将はとても不可解に思いながらも、自営に帰っていった。

その後、秀吉は近臣に「利家と景勝が敵の城営を降したことは
確かに功ではあるが、その内の堅城一、二ヶ所は屠るべきだった。
これは一威一宥というべし。ただ降伏だけを待つのはよくない」と語った。

そして近臣は密かにこれを二将に告げた。
二将はこれを聞いて、直ちに八王子城を攻め屠った。

加藤嘉明はこれを聞いて「殿下の後裔は続かないだろう。
殺をもって威を立つとは、将校の武をもって喜ぶ者のやることであって
天下の長たる者のなすことではない。天下の長たる者は殺を止めることを
務めとするものだ」と、密かに人に語った。

後には果たしてその言葉の通りになった。

――『名将言行録』




877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/16(火) 17:14:11.93 ID:6OW0nrEW
>>876
しむらー小田原城

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/16(火) 18:43:49.65 ID:l3mevywU
>>877
氏政・氏照はやむなしとしても、
松田と大道寺、ついでに宗二ぶっころしてだろ、ここらへんは許してやれたはず

特に大道寺政繁は一ヶ月近くの攻防戦の末の降伏で北条への義理はちゃんと立ててるし、
北陸勢に従って転戦して功も上げてる
殺す理由がさっぱりわからん

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/16(火) 21:43:33.42 ID:FEfsZ3ef
>>876
小屋みたいな城落としてるんじゃねえよと言われたり、堅城は落としとけと言われたり…下請けの悲哀だな…

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/16(火) 22:09:25.56 ID:3NKwM4O8
>>878
ラスボスは報いをうけてるからいいじゃねーか

「高虎とは器が違う。」

2012年06月03日 21:05

733 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/06/02(土) 23:07:26.75 ID:fttVw7e4
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4847.html この逸話の別バージョン

豊臣秀吉が休戦期間を挟み再び朝鮮への出兵を命じた慶長の役において、巨済島沖に
出没した300隻の朝鮮水軍と日本軍が激突した際、決戦前の軍議で藤堂高虎らが

「まず偵察船を出して様子を探った上で、大船で攻撃すべし。」

と主張したが、加藤嘉明

「いや、ここは中船であえて弱く見せて機を伺って攻勢に出るべきだ。」

と提案したが、これが不採用になると

「配下の乗った偵察船を連れ戻す。」

という名目で味方の船団から離れ、そのまま一隻で敵に先制攻撃を仕掛けて、自ら敵船に飛び移る奮戦で
多くの敵船を乗っ取った。軍勢の軍監だった奉行達からは

「あの命知らずの働きを見よ。」

と称えられ、抜け駆けの件でも咎めは受けなかったものの、後から戦いに参加した武将達からは
大いに不満を抱かれたという。その後、奉行たちに手柄を報告する際にも高虎が、

「儂の功績は皆の中でも随一である。」

との言葉に嘉明は

「貴殿は小舟を2、3隻捕えたまでの事。その点儂は大船を捕獲した。比較を絶しておる。」

と反論。怒った高虎が刀を抜いても顔色一つ変えず、

「周りの目を気にしてむやみに気張って見せるのは子供のする事ぞ。」

と押しとどめ、

「高虎とは器が違う。」

と周囲に感嘆されたという。 「武将感状記」





735 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/06/02(土) 23:18:33.94 ID:Nd+XMFpF
>>733
器が違うってのは皮肉なのか本気なのか…

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/02(土) 23:22:53.98 ID:rjkhrWvp
義経 vs 梶原景時の再現みたいに武将たちの目には見えたのだろうか?

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/02(土) 23:46:23.74 ID:CoiYo0K5
>>735
皮肉にしか聞こえないw

ヨシアキラのこういう話は人間味があっていいな
皮肉屋で口悪くてwww

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/02(土) 23:54:41.06 ID:4vsFTbRT
皮肉ってか結構ストレートな表現では

伊予松山築上の顛末

2012年02月14日 21:55

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 20:54:21.42 ID:x2H+Y+fz
関ヶ原の結果、伊予20万石を領した加藤嘉明であったが、伊予の首府である松前城には、
非常に辟易していた。

松前城は東南北の三方は山から遠く、城のまわりは底深き沼地。西は九州に続く青海原。
まさに攻めるに難し、日本第一の城郭と語られていたのであるが、嘉明はこう思った

「なんだこの城は!?海に近いが風が強い日には砂が天に舞上がり砂まみれになり、
波は堤防を越え高波に船も転覆してしまう。
だいたいこの城は波音がうるさい!うるさすぎる!!
もっと静かないい場所に引っ越そう!」

とまあ、波の騒音に耐えかね、領内を巡り新城建築の候補地を探し始めた。
高山という場所は松前城から近いが土地が歪んでいる。
長山、高山、尾崎と見て回ったが、どうも一長一短だ。

…と、ここに温泉宮(現在の道後温泉あたり)の西南のあたり、原田広野の中に山があり、
これは勝山と呼ばれていた、
広地にして水清く、八方に開けた場所である。
南には5,6町隔てて石手川の流れ清く、また南方2,3里隔てたところには加藤家直轄領である
施梨山、西に15,6町隔てた場所には江戸山。
三津の浜までは山が続き、北は御幸寺の山遠く、東は道石手山、湯の山嶺数里続き、湯月の古城を
去ること20町。
素晴らしい地だと確信した。

慶長8年(1603)嘉明はここに、五重の天守を始めとした大規模な築城を始めた。
そして勝山の地名を改め、「松山」と名付けた。
伊予の新たな首府・松山の威容が今まさに出現しようとしていた…

が、この松山城完成を前に、加藤嘉明は寛永4年(1627)、会津40万石に転封となってしまったのである。

とまあそんなこんなで、騒音公害から始まった、伊予松山築上の顛末である。
(伊予郡郷里俚諺集)



65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/14(火) 08:55:02.60 ID:1qYaWhpg
愛媛から青森ワロス
着るものに困りそう

波音とか電車の音ってなれるよね
線路のそばに住んでた時は割と簡単になれた

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/14(火) 09:11:26.45 ID:U6QN2395
福島だって

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/14(火) 14:49:13.84 ID:vjybTycZ
輝元「気持ちはわかる」

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/14(火) 14:56:46.01 ID:MQj+JgW9
加藤嘉明の会津転封について藤堂高虎関係で過去に出た話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-301.html(いい話)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-839.html(悪い話)
藤堂高虎の真意やいかに

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/14(火) 19:27:47.65 ID:wzx/YyyV
まあ会津が要地中の要地の一つなのは間違いなく、それを任せられるというのは
相当の信頼があったと考えるべきではあるな。

あと会津転封を嫌がるというのは、蒲生氏郷の話が下敷きになっているのだろうけど、
アレは政治の中心が京大阪だったところから来るわけで、嘉明の時代はすでに江戸が
天下の中心になっている以上、距離的にも近く悪い話じゃないわな。しかも石高倍増だし。
客観的には栄転と言い切っていいと思う。

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/14(火) 20:55:48.67 ID:HcXlr7ru
次が保科なのを考えても悪地じゃないな

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/14(火) 21:34:33.28 ID:KkMQV1PE
でも青森と間違える人がいるぐらいだからなぁ…

世の中がもっと乱れるよう御願い致した

2011年11月11日 22:00

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 23:25:08.85 ID:DKNukHPz
塙直之は加藤嘉明から解雇された後、京の妙心寺で僧になるための修行をしていたが
武士への未練が棄てきれず、常陸の肥田志摩という者の下で居候をしていた。
ある時、肥田家中の若侍達と近所の愛宕神社へ参拝に行った。
参拝後、塙直之は若侍達に何を祈願したのか尋ねた。
若侍達は「世の中が平穏無事であるようにと祈りました」と答えた。
これを聞いて塙直之は笑いだし、
「それがしは災難や戦乱が起き世の中がもっと乱れるよう御願い致した」
と大声で憚りもなく答えた。
若侍達がなぜそんな物騒な事を祈願するのか尋ねると、
「それがしの様な者は、畳の上での奉公に向いていないが、
戦乱の世になれば縦横無尽の働きをして出世の機会を得る自信があるからだ」
と、嬉々として語ったという。





935 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/11/11(金) 02:05:06.51 ID:OK7Ny7y1
ふむ、悪い話だな

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 08:15:50.45 ID:peVqHqwY
武士的には元気のいい話じゃね

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 08:38:19.26 ID:u+UHAFpI
こういう戦争でしか役に立たない人材が、行き場を失って集まったのが大坂の陣なんだろうな

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 08:58:15.25 ID:NVwzIXQn
裏を返せば、こういう戦争でしか役に立たない人材を一掃したのが大坂の陣か

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 09:18:33.48 ID:6rev1rcG
福島正則のように弓だったんだな 平和になると蔵にしまわれる

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 09:24:47.43 ID:cAfualN1
走狗煮らる

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 14:02:37.04 ID:l1hJbACe
戦でしか役にたたない人間は大阪の陣以降も生産されてたんだよなあ
鄭成功にのっかろうとしたぐらいに…

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 14:06:34.80 ID:ccvf/tog
まあ実際の所、最近では元和偃武で戦時体制が終了したわけではなく、徳川綱吉の時代くらいまで
臨戦態勢は継続していたと考えられている。

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 16:13:15.42 ID:r/ygYmPP
>>942
忠臣蔵がその悪い影響を如実に表しているな

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 16:15:16.58 ID:l1hJbACe
>>943
綱吉が吉良を擁護した理由もわかるな…

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 17:42:31.90 ID:peVqHqwY
まあ世間では忠臣蔵は永遠に忠臣で変わらないが

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 18:00:45.30 ID:L9ojeTHH
忠臣蔵って再就職活動してたのが切腹したんで美談になったと考えたり

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 18:31:26.31 ID:r/ygYmPP
そろそろ吉良さんの名誉回復してもいいのにな
年末の忠臣蔵は吉良さん視点で
それこそ地元の人が頑張ってくれないかな

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 19:08:30.47 ID:2g0UR9ui
再評価はあるだろ

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 19:13:48.87 ID:JkSTvl9B
小説とかではあるし学問的にはかなり復権もされているのだけど、一般的にはやっぱりねえ

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 19:15:38.82 ID:r/ygYmPP
浅野長政が好きなので、子孫にこういう残念なことされると悲しくなるな

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 19:25:53.22 ID:rPGn1brF
忠臣蔵の教訓

1,基地外に関わるな。
2,マスコミの捏造報道に気をつけろ。

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 19:40:26.56 ID:l1hJbACe
忠臣蔵要約
ブチ切れた基地外が監督役のじいさんに切りかかって公式行事を台無しにする
その後基地外の部下が逆恨みでじいさんを集団暴行

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 19:52:34.76 ID:2g0UR9ui
裁判にもっと時間を掛けるべきだったと思うよ

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 20:00:13.23 ID:WQLk0S5b
吉良を再評価しようと調べてる地元の会があって
それなりに実績も発掘してたけど
調べれば調べる程爺さんが実際にアスペ君その他をイジメてた証言も出ちゃってて
なんか擁護が歯切れ悪かった

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 20:15:54.13 ID:fi/ABYMd
名こそ惜しけれ

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 20:20:17.16 ID:yY2joALc
>>946
批判的な意見の学者は当時からいたけど受けは悪い。

>>954
火のないところに煙は…だからね。
息子の養子先の上杉家にも色々負担をかけたり。

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 20:21:07.53 ID:el9janva
イジメが本当に有って吉良が意地悪じいさんだとしても
浅野がバカ殿だった事には変わりないな。

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 20:28:09.47 ID:GcG96WRT
>>957
アサノタクミノカミが、どんなにバカで基地外でも意地悪爺さんが人気者になるのは難しい。
ゲームメーカーあたりが女の子のキャラクター化してくれたら人気でるかも だが

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 20:33:21.02 ID:l1hJbACe
吉良の浅野に賄賂よこせって言ったとかいう話あるけど実際は饗応相手に出すカネお前も負担しろって意味だったとか

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 20:35:24.01 ID:aIsF6Rop
>>958
先にTSG47が萌キャラになる
とりあえず47人の無職共に生活援助してくれる心優しい親戚でもいれば馬鹿なマネはしなかったと思うんだ

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 20:39:28.05 ID:G/g6HOdX
昨日のへうげもので吉良氏の世田谷城を浅野長政らがとりかこんでいて
忠臣蔵の祖先同士かと思ったら、世田谷城の吉良氏は奥州吉良氏で、
上野介は三河吉良氏と、たいして関係なかった


962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 22:33:30.19 ID:JkSTvl9B
>>954
人間社会の事件ですからね、講談のように善と悪の物語にはならないってことでしょう

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 22:45:54.26 ID:1zEJxA3N
吉良氏って三河守護だと思ってたけど守護じゃないんだね。
Wikipediaには一色義春以降の守護の記事がないんだけど誰も任命されなかったの?

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 23:43:37.10 ID:l1hJbACe
>>963
丹後のページには1582年まであるお

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/12(土) 00:50:23.64 ID:YbVn2eg+
上野介って西条のほうの出だっけか?

パラドのゲームに東条が出てて驚いたわ
MODだっけかもしれんがの

造り酒屋家・住屋と塙団右衛門

2011年10月29日 22:01

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:33:02.22 ID:FIDthOb8
備後国尾道に住屋という造り酒屋家があった。

大坂の陣の時、酒を積んで上方へ商いに上ったが、とある道で塙団右衛門と行き合った。
彼は尾道で浪人していた時に、ちょくちょく住屋と出会う仲だった。(酒飲みだし通ってたのだろう)

団右衛門は住屋に気付くと馬上より声をかけ、
「尾道では大いにお世話になり申した。達者なようでめでとうござる」
と言うと、馬に鞭を当てて去っていった。

戦時下でなければ、またゆっくり話せたろうにね。 (『武辺咄聞書』)




とある武将の書状

2011年10月02日 22:01

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 00:47:32.52 ID:DbFoKHop
以下、とある武将の送った書状の訳文(一部虫食いの為要約)である。誰が書いたか当ててみよう。



『常識知らずとは思いますが、あまりにもそちらの様子が気遣わしく思いましたので一筆したためました。

 一つ、早くも寒い季節になってまいりましたが、いかが達者でお過ごしでしょうか? 
 一つ、普請の方はどこまで進みましたか? 
 一つ、気分はいかがですか? 事細かにお聞かせください。
 一つ、私はこちらへ下ってきて、大体予定通りに進んでいます。ご安心ください。

 しかしながら私が再び世間に出ることを、貴方は笑われることでしょう。
 されど釈迦も再び人の世を出られ、遙か遠くまで広まる教えを作られたと言われています。
 そういうことですから、私は昔も今も四六時中、事を成すことばかり考えていました。

 定めなき世の習いですので、もう貴方に会えなくなるかもしれないと思うと、心引かれる思いがします。
 ただし、また定めなき世なだけに、普請の済んだ貴地で再会できるかもしれません。

 あまりにも伝えたい事が多くて筆の止めどころがありませんが、どんな事も書き残しておきます。恐惶謹言』



署名は“半(塙) 団右衛門 勝忠”。
大坂入城の直前(慶長19年9月29日)に、親しい知人に宛てたものと思われる。
諱がよく知られた直之ではなく勝忠なのは、
旧主・加藤嘉明(長い間、茂勝と名乗っていた)の偏諱を使い続けていたのだろうか?

豪傑の意外と繊細な一面が垣間見える一通である。




914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 11:17:46.86 ID:qtrqLuxi
>>906
団右衛門は豪傑と言われるわりに結構人間臭いところがあって好きだなあ

堀主水一族誅殺と会津加藤家の改易

2011年08月05日 23:01

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/05(金) 05:14:43.44 ID:RzrEyQsB
「会津加藤家の改易」
コメントには出てくるのに記事がなかったので書いてみます。
一般書からの、孫引きかひ孫引きかわからない内容なのでより確かな記述ができる方いれば
上書き更新してほしい所存。


堀主水は地味加藤家の重臣だったが、2代目明成とそりがあわず、退転することになった。
退去の際、主水は鉄砲隊を引き連れ、明成の居城に向かってぶっ放して憂さをはらした。
それだけでなく、幕府に明成の罪科11条を提出して、俗界の権力不介入を約束されている高野山に入った。

明成はどうにかして主水を捕らえて仕返ししたかったが、高野山に手は出せない。
幕府を通じて、懇願した。そしてそれはかなえられた。
主水とその一族は高野山を追放された上で捕らえられ、会津にひきわたされて、むごい運命を迎える。


皆殺しにしてすっきりした明成だが、ほどなくツケを払わされる。
幕府からの通告、領地召し上げ。理由は家中不取締り、ではない。

幕閣「先年ずいぶん無理なお願いをされましたが、そのおり、四十万石と引き換えてもいいから、
とおっしゃいましたな。お言葉どおり封土を受け取るのですが、何か?」

こんな理由で改易された例はそうないんじゃなかろうか。幕府だけがニヤニヤ笑いのとまらない、そんな話。




猪苗代の亀姫

2011年08月02日 23:02

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/02(火) 00:55:59.90 ID:3fDiVw/m
猪苗代の亀姫

加藤嘉明・明成親子が会津を治めていたころ、猪苗代城の城代は堀部主繕という者が任されていた。

寛永17年(1640)12月の夜、主繕が一人で座敷にいると、どこからともなく禿(かむろ)がやって来て告げた。
「お前がこの城に来て久しいが、未だご城主に挨拶をしておらぬ。本日、ご城主が目通りを許された。
急ぎ身を清め、衣服を改めて参れ。先導するゆえ、お目見え仕れい。」

主繕は禿をにらみつけ、反論した。
「この城の主人は、加藤候。その代理として、わしが預かっておる。それ以外に主などおらぬわ!!」
主繕の反論を、禿は笑った。

「姫路の刑部姫・猪苗代の亀姫を知らんのか。一つの天運尽き果て、一つの天運改まるを心得ず、
みだりに過ぎ去りし事を話す者よ、汝の命運も尽き果てたぞ。」
そう言い残すと、禿は来た時と同じように、どこへともなく消え失せた。


明けて寛永18年元日の朝、主繕は猪苗代勤番の諸士より年頭の挨拶を受けようと、城の大広間へ向かった。

広間の、己の座すべき上座には、棺桶と葬礼道具が置かれていた。またその日の夕方、人の気配もないのに
大勢で餅をつく音が聞こえてきた。同月18日、主繕は厠で倒れ2日後に死んだ。(老媼茶話より)


2年後の寛永20年、『一つの天運尽き果て』会津藩加藤家は改易された。

泉鏡花の戯曲『天守物語』では亀姫は刑部姫の妹という事になっており、猪苗代城主の生首を手土産に
姉のところへ遊びに行く、という描写が存在する。




勝山と「かつえ(飢え)山」

2011年07月23日 23:04

105 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/07/23(土) 13:17:29.28 ID:NORClys8
初投稿です、松山城が話題になっていたので。
松山城の工事は難工をきわめ、男子もとより女子や子供、さらには、当時松前城主であった加藤嘉明の夫人も
炊き出しに従事してまさに国を挙げての工事だった。
主命を受けて城の下見に来た足立重信は長者平(ちょうじゃがなる)にある祠を見つけ、山と祠の名前を
近くの里人に聞いたそうである。
その翁は、「山の名は かつえ山。祠は八幡神社三嶋宮の末社である」
と教えてくれた。

それを嘉明に伝えたところ、「かつえ山でなくて、勝山の間違いだろう。城を築くのにこの上ないめでたい名だ」
と勝山という名前になったそうな。

このかつえ山の由来となる話もどっかで見たんだけうろ覚え、見つけたらまた投稿します。

ついでに、松山城の普請奉行は、ジミー加藤さんの家老、足立重信ですが、彼はあるとき大量の瓦を
山の上に運ぶにあたって、近郊の農家より人をたのみ、人垣を作らせ、バケツリレーよろしく手ぐり渡しで
一夜の内に全部を運ばせて嘉明を驚かせた。
なんて小話も一緒に上げときます。





107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/23(土) 14:20:19.27 ID:gzB42OXu
松山城のロープウェイとリフトの山頂停留所広場の辺りを長者ケ平(ちょうじゃがなる) と呼んだ。

ここに昔邸を構えていた長者、元はこの山の麓に住み、貧乏に苦しんで、毘沙門天に願をかけた。
毎日境内に茂る雌竹を一本づつ持ち帰り、庭に植えて貧乏脱出を祈りつづけた。
すると満願の夜、ついに夢中に毘沙門天が登場した。

 「お前の熱意に感動した!よって福をあたえる。あ、竹は全部返しとけよ」

彼は喜んでその通りにした。その後とんとん拍子に成功し、日ならずして長者となった。
そうなると、貧乏時代にはペッされた遠縁の者までむらがり来てクレクレする浅ましさにあきれ果てた。
苦労ばかりだけど昔の生活の方がよかったなあと思うと、その財を湯水のように使い果たして一文無しになり、
長者平の邸でとうとう餓死してしまった。
人々はこの山を『かつえ(飢え)山』と呼び慣わしたという。

加藤嘉明は築城地の下見にいった足立重信からその話を聞くと
「かつえ山、というか…(縁起悪ぃな…そうだ!)
 それは勝山の聞違いであろう、以後は勝山とよべ」と言ったという。





108 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/07/23(土) 14:49:08.25 ID:NORClys8

>>107さん
おおっ、その話です、フォローありがとうございます。

ちなみに勝山は築城候補の地の一つで幕府に候補地を三つ聞かれた時に二番目に出した
候補地だったなんてどっかで聞いたような話もあります。



109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/23(土) 15:04:34.96 ID:dFl0ESv/
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2235.html
幕府は一番目の候補地を採用しないだろうと思って
二番目に都合のいい候補地をのっけたら、
一番目を採用された話が伊達と毛利に
ジミ加藤さんの場合、もともと勝山にする気で二番目に出したんだろうか

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/23(土) 15:57:07.31 ID:TVSwGZaj
>>107
由来がガチで縁起悪くてワロタwww

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/23(土) 16:44:33.86 ID:mNWTxXdA
>>107
なるほど。
これなら悪い話だw

加藤嘉明の相馬眼

2011年02月14日 00:02

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/12(土) 23:31:45 ID:QT7+EzUp
ジミーさんが前の方に出てたんで便乗して。これの別バージョンになるんかな?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4299.html

加藤嘉明が賤ヶ岳七本槍として名を馳せる何年か前のこと。
同輩の男が嘉明の相馬眼が優れていると聞き及んで訪ねてきた。

「HEY! ジミー、馬を買おうと思ってたんだが君の相馬眼が優れていると聞いて
やって来たよ、どうか馬喰のとこに一緒に行って見繕ってくれないかい?」

自分の相馬眼を褒められて悪い気がしない嘉明は承諾して一緒に馬喰のところまで
行って馬を見繕ってやることにした。そこである一頭の馬に目が留まった。

その馬を見た嘉明は「ちょっと癖の悪そうな馬だし本質的にはマイラーだと思うが
春のクラシックまでならなんとかなりそう」と思ったかは定かではないが
明らかに癖の悪い馬ではあるがそこ以外は申し分の無い馬であると男に薦めた。

すると男は「ジミー、確かに良さそうな馬だけどあの癖の悪い部分を再調教して
癖が無くなったら買うからって馬喰にちょっと掛け合ってくるわ」と言ってあまり乗り気ではない様子。

その態度にイラッとした嘉明は「いやいや、あの癖の悪さも含めてのいい馬で癖が無くなるように
調教したらいい部分もなくなっちゃうから今買うべきだ」と言って今が買い時だと強調したが
男は何やかんやと理由をつけて買おうとしない。

そこで切れた嘉明は「いい馬がいるのに癖があるからって理由で見逃すんじゃなく、
癖馬でも乗りこなそうという気概がないと殿のためにいい奉公なんか出来ないぜ、
あと俺はジミーじゃねぇ」と怒ってしまった。

後にそのことが信長の耳に入り「嘉明の言う事がもっともである」と言って嘉明を賞賛したとさ。





“沈勇の士”加藤嘉明

2011年02月14日 00:01

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 01:27:33 ID:vdBJgzcm
地味加藤さんのエピソード


“沈勇の士”と言われた加藤嘉明は、必要なこと以外喋らない沈黙の男でもあった。
豊臣政権で大名に列してからもそんな調子で、ある時心配した片桐且元が言った。

「おぬしは諸将の間で寡黙すぎると噂されているが大丈夫か?」

「生まれつきだから仕方が無い。そんなことより我が武辺についての噂はどうだ?」

「おぬしの武辺にケチをつける者はおらんよ」

「ならばよし。他に何を言われようとかまわぬ」


折角の忠告に聞く耳を持たない加藤さんだけに、ちょっと悪い話の方に投下しようか迷ったけど、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3520.html
と合わせて、武辺へのこだわりや片桐さんとの仲が微笑ましかったのでこっちに。




塙団右衛門、据え膳を

2011年02月12日 00:01

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/11(金) 01:09:38 ID:RDu5Lret
お騒がせ男・塙団右衛門が地味加藤こと旧主の加藤嘉明に奉公構された末に、
妙心寺で出家して“鉄牛”と名乗っていた時のこと。

京の色町・六条柳町の左近という遊女から『久しぶりに是非とも団様にお会いしたい』と
熱烈なラブレターが届いた。
この左近、柳町遊郭でも際だって美しかったが、まだ武士だった団右衛門が口説いた時には
罵倒を加えたような女だった。

まあそんなことは昔のこととて、団右衛門がほいほい会いに行って酒を酌み交わすと、
用件は出来てしまった隠し子を託したいと言うことである。
(出家の身の団右衛門に預けるという事は、妙心寺に入れる口添えをしてくれということだろう)

「ははあん、そんなことか」と思いながらも、頼まれごとに二つ返事で快諾する団右衛門。
喜んだ左近は以前彼を振った時とは別人のように媚びて、お礼とばかりにしなだれかかり同衾を誘った。

しかし団右衛門、猛然と衾を蹴って立ち上がり、
「酔っぱらって忘れたのか? 俺は僧だぜ。同衾なんざご免だね」
とその手を振り払って帰ってしまった。

出家した後も飲酒や帯刀を止めなかった彼も、女犯に関してはストイックだったのか。
それとも見返りを目当てにするような男と思われることに我慢がならなかったのか。


兎に角、塙団右衛門、据え膳を引っくり返したというお話。




693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/11(金) 01:35:04 ID:NOW9/yKx
隠し子はどうなったんだろう。

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/11(金) 01:59:27 ID:RDu5Lret
>>693
失礼、筆が滑ってそのまま帰ったと書きましたが、
原文では同衾拒否の言葉とともに立ち上がったところで終わっています。
その後普通に面倒を見たんじゃないでしょうか。(そうじゃないといい話でもなんでもないですな)

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/11(金) 02:05:57 ID:ecS0N8jH
戦国武者って出所進退に男くさい爽やかさがあるから好きだな
源平の公達たちとはまた違った武者ぶりがいいね

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/11(金) 02:50:55 ID:wxxhg+fO
>>692
これやってたら坊主として最低な野郎と言いふらされそうで怖い


697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/11(金) 08:24:17 ID:79FkKFXs
俺だったら間違いなくヤル。
そしてそんな男にはこんな頼みごとはしないだろう

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/11(金) 09:12:50 ID:d+M3oqIu
奉公構えを食らうような人って、やっぱ気難しいんだろうね

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/11(金) 13:29:51 ID:cgPGSa4k
>>698
> 奉公構えを食らうような人って、やっぱ気難しいんだろうね

全部がそうとは言わんが、団右衛門さんは出奔した後、加藤嘉明の刺客が来たとき
自分の居場所を間違わないよう、家の前にでっかい表札を出しておくような人。

701 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/02/11(金) 13:39:51 ID:am1RwmeE
>>700
三河の人と同人種ってことかw

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/11(金) 13:40:47 ID:/Qw0ZPAK
というか地味加藤さんも結構めんどくさい性格してるしめんどくさい人同士が意地はると大変なことになるという
実例では

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/11(金) 14:43:39 ID:gKoolOEl
というよりも、地味加藤さんは三河の人。
親父が家康の臣だったけど三河一向一揆で一揆側に加担したから出奔。
で尾張について秀吉に仕えた。

めんどくさいのは生まれつきってことです。

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/11(金) 19:31:15 ID:s2pesM7h
>>700
地味加藤家では出奔した奴は必ず殺すみたいなルールがあったの
だろうか・・・

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/11(金) 19:47:00 ID:PxnisQlv
>>704
いや、そういう例は一切無い。
団衛門はむしろ刺客に来てもらいたくて宣伝してたっぽいw

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/11(金) 19:47:37 ID:d+M3oqIu
>>704
某所のネタによると、実際に追手が来たと言う話が全く残ってないから、かえって困るとか言ってたが・・・
実際のところ来たのか?追手は

戦う道理

2011年01月14日 00:00

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/13(木) 20:22:41 ID:dKeKglmY
大坂冬の陣の話。加藤明成は大坂が近くなると加賀山小左衛門を斥候に出した。
戻って来た小左衛門の報告によれば

小左衛門「この先に神崎川があるから河を渡って対岸に陣を敷きましょう」

ということであった。しかし宿老の佃次郎兵衛河村権七郎が反対した。

佃&河村「冬の、しかも夜に河を渡ったら兵士たちが凍えきってとても戦えない。
      夜明けを待って、明日渡るべきでしょう」

明成「なるほど。もっともじゃ」

明成は宿老の意見を取った。しかし、それでも小左衛門は意見を曲げなかった。

小左衛門「天下を握る徳川家に味方しているのですから勝負に拘っても仕方ありません。
      また、後々のことを考える必要もないのです。
      しかし、他家に遅れを取るのだけはいけません。他家よりも先んじて戦うことだけを
      考えましょう。遅れを取れば軍が無事でも国が危ういのです。
      天下の乱れた戦国の世と徳川の世ではもはや戦う道理が違います」

佃&河村「な、なるほど~!」

小左衛門の考えに宿老も唸り、明成も小左衛門の意見を喜んで採用した。




241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/13(木) 21:21:16 ID:TofP9uyL
>>239

つまり争いの相手は大坂方ではなく徳川方の内輪の中、ということだな