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形の好みから武士道に入れ

2019年06月19日 15:12

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 19:54:49.11 ID:XHJKzrW+
「侍は首は取らずとも手柄をせずともそれを言わず、事の難に至っても退かず、主君と枕を並べて討死を遂
げ忠節を守ることを指して、侍と申すのである。

義理・恥を知らぬ輩は物の吟味をしないために、幾度の機会があったとしても1つも関心を抱かない。禄を
もって招く時は、譜代の主君を捨てて二君に仕える輩がいる。そもそも心は物に触れて移りやすいものだか
ら、仮初にも侍道の他は見聞きせずに、朝夕身を慣わしとして武芸を心掛け、たとえ学問をするとしても忠
義と大功を聞き、冑の緒を締めて槍・長柄・太刀を揚げ、天下の難儀を救わんと志すことが侍の役目である。

世間の武士道の教えでは、形はどうであれ「好みはあってもどのような事をもせよ。武士は只々志さえ正道
で武芸を嗜み、勇猛であれば良き武士である」と教えている。これも悪いことではあるまい。しかしながら、
某の家人へ教えることは違っている。某の家人などは、形の好みから武士の正道に入れ。形の好みを見れば、
その人の心根も見える。それは心で好んでいることが外に表れるからだ。言葉もそのようなものである。

例えば烏帽子・狩衣を着ている心持ちと、具足・兜を身に着けている心持ちは皆相違することである。髪の
結い様や衣類の着様、刀脇差の差し様まで手軽く健に嗜み、器物などをあるがままに任せ、諸事を軽くして
激しいことをもって、某の家人の教えとする。合印なくとも某の家人と見えるように嗜むべし。

公家殿や上人の玩びを必ず真似してはならない。大いに禁制とする。武道が甚だ弱くなるものである。それ
よりは三味線に歌は構わないだろう。出家と深く出会えば愚痴になるものである。町人と出会えば利欲にな
るものである。(それらの人々と)密事を語るものではない」

以上の教えに背く家人はすぐに扶持を放し、また首をも刎ねて仕置きを見せるものである。その家中の者ど
もは形の好みから武士道に入れというのが、忠勝(本多忠勝)の常の教えである。

――『鈴林扈言』



一季居、耶蘇教、負傷者、煙草、屠牛ニ関スル禁令五ヶ條

2019年06月09日 09:27

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/09(日) 03:07:24.08 ID:cxXeu6pY
  六日、幕府、一季居、耶蘇教、負傷者、煙草、屠牛ニ関スル禁令五ヶ條ヲ頒ツ

 『令條』

  条々

一、一季居(一季で雇われた者)の事。堅く停止された以上は、侍はもちろんのこと中間・小
  者に至るまで抱え置く輩は速やかに罪科に処される事。

一、伴天連門徒は御制禁なり。もし違背のある族はたちまちにその科を逃れられない事。

一、手負いの事。上下に関わらず傷付いた者がいれば、その場所の給人・代官に詳細を申し届
  けなければならない。ならびに他の場所から手負いの者が来たならば、すなわちその手負
  いを留め置き、交名を註して必ず言上すること。万一隠し置けば、重科に処される事。

一、煙草を吸う事。制止とされるに至り、その上で売買する者までも見付けた輩がいたならば、
  双方(売る者と買う者)の家財を、見付けた輩に下されるものである。もしまた、路次に
  おいて見付けた場合は、煙草ならびに売主をその在所に押し置いて言上せよ。付いて来た
  馬・荷物以下は改め出した者に下される事。

  付いてはどこの地においても煙草を作ってはならない事。

一、牛を殺す事は御制禁なり。おのずと殺すような輩には一切(牛を)売ってはならない事。
 (牛を殺事御制禁也、自然殺へき輩には、一切売へからさる事)

  この趣を領内に必ず触れさせるように。この旨を堅く仰せ出されたものである。よって
  件の如し。

     慶長17年(1612)8月6日        青山図書助(成重)
                            安藤対馬守(重信)
                            土井大炊助(利勝)

            藤田能登守殿(信吉)

(原注:幕府が一季居を停止したことは慶長14年正月2日に。煙草を禁止したことは、同年
7月是月に。また耶蘇教を禁じ、京畿の耶蘇寺院を破壊せしめたことは、本年3月21日に。
また一季居などに関する法令を頒布したことは18年3月是月に各々その条あり。参照すべし)
                      
――『大日本史料』

その7日後>>129



135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/09(日) 21:52:07.77 ID:mD08Q13s
キリスト教については分かる
煙草もなんとなく分かる
その他はどういう理由なんだろうね

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 12:58:13.75 ID:Cv0VNwoU
>>134
牛を殺すことの禁止はキリシタン弾圧の一環かな

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 13:30:40.56 ID:E0Guiztx
キリシタン弾圧って言うより、牛を食うという行為が農民から相当嫌悪感を持って見られてたらしい。
秀吉のキリシタン追放令の理由の中にも「牛を食うこと」が入ってる。

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 13:44:22.19 ID:ZI8DPZsm
自分の親が牛に転生してるかも、と思うと食えないな

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 14:56:31.46 ID:YuoSwCCz
カムイ伝みたら穢多が死んだ牛食ってた

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 16:54:35.54 ID:/xDs3wXj
彦根藩の特産品は干し肉と味噌漬けだったりする。
彦根藩から届く肉を楽しみにしていた大名は多く徳川斉昭もその一人だったが
井伊直弼が藩主になると肉食を禁じてしまう。
しつこく肉をねだる斉昭と頑なに断わる直弼の仲は険悪になり
安政の大獄や桜田門外の変の遠因になったとかならなかったとか…

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 17:30:23.91 ID:n8keEJU7
食べ物の恨みは怖いな

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 18:30:43.06 ID:ZI8DPZsm
>>144
慶喜「父上も近江牛がなければ豚を食べればいいのに」

逆に刀を抜きにくくするためではないか

2019年06月05日 18:06

976 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/05(水) 05:30:40.54 ID:A00DAIsm
伏見彦太夫

977 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/05(水) 05:36:08.37 ID:A00DAIsm
おっと、誤って途中送信
伏見彦太夫をggったらこんなのも出て来たわね。
小田原田宮流・居合道日誌
http://odawara-tamiya.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-f2c1.html


 太刀は刃を下にして佩き、刀は刃を上にして帯刀します。刃を上にして帯刀するのは抜き打ちしやすいからと、居合の稽古をはじめた当初先輩方から教わりました。
しかしです。稽古が進んでわかったのですが、柄に手をかけてから敵を打つまでの時間を考えたら、刃を下に帯刀しておいて逆袈裟に抜き打つほうが断然早い。
刃を上に帯刀するようになったのは抜き打ちしやすいからではなく別の理由があったのではないか、と小子は考えたのです。
大阪歴史博物館所蔵の「関ヶ原合戦図屏風」(通称津軽屏風)を見ますと、徳川家康をはじめ足軽にいたるまで全員が具足の腹帯に刃を下にして刀を差しています。
大事な戦ですから抜きにくく刀を差すわけがない。
この屏風からわかるのは戦国武士は刃が下のほうが抜きやすいと考えていたということ。ということは刃を上にして差すのは、居合の先輩方の言うこととは逆に刀を抜きにくくするためではないかと疑ったのです。
家康の配下に伏見彦太夫という武将がいました。
彼は三尺五寸の大太刀を佩いていまして、接近戦では刀身の長いほうが戦闘に有利と家康に説明していました。松平甚兵衛信直がこれをまねて大太刀を佩くと、家康は、家柄すぐれた者が軽薄な挙動をしてはならぬ。
今日の身なりは馬の口取りか槍持ちにしか見えない。どうみても大将には見えない。大将が進んで卑賤の者の身なりを真似るとはなにごとかときびしく叱った、という話があります。(以下略)

むしろこれは悪い話かな?

参照
薙ぐのではなく突くのが良い


978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/05(水) 12:47:58.75 ID:6wmhzr00
そりゃ抜きやすい差し方してたら「こいつ抜き打ちしようとしてんのか?」って思われるからなw
収めてる状態は抜かれてる状態とは明確に違っていなければならんのだよ

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/05(水) 13:50:13.01 ID:o/rFtl08
吊り下げ式だとあちこちに当たって屋内での生活が不便だから刃を上にするようになったと聞いた

980 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/05(水) 13:58:13.14 ID:P9pXNNwO
>>978
>>977の略された後に書いてあるけど、ある意味平和になった時代の新たなエチケットみたいなものかねぇ。

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/05(水) 14:06:02.93 ID:6wmhzr00
しょっちゅう斬り合いが起こる世の中の方がそういう事は大事だと思うが

982 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/05(水) 14:26:16.20 ID:P9pXNNwO
>>981
家康の元和偃武以前も当然、色々有ったとは思うけど、明文化であったり厳格化していくのは徳川幕府開府以後じゃないかな?
信長が配下に茶の湯を推奨したのも礼法やマナー、コミニュケーションを学ばせる為とか聞き齧った覚えあるけど、中には実際に発狂して上司に斬りかかる例(堀秀政の部下)とかあるし…

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 11:09:12.75 ID:d8YutnuM
>>979
鞘が割れて足を切る恐れがあるので上にすると聞いたなあ

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 23:48:22.34 ID:Z73LzRSh
関ヶ原合戦図屏風では見栄えをよくするために当時は廃れてた大鎧着させてて
大鎧の刀の履き方は刃先が下なのでそこだけ当世流にするのも変だから下にした的な美術的嘘の可能性も

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/07(金) 07:57:46.02 ID:Y37lKTnG
絵面を考えて盛るのは今も昔もなんやね

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/08(土) 10:33:52.10 ID:J0ioPPi1
刃を下にして差すのは甲冑を着た時の作法だゾ
鎧をつけたら腰のひねりが使えなくて、常寸の刀でも抜きにくくなるから
刃を下に差しておいて、上に抜き出すんだゾ

永井白元の健脚

2019年06月04日 17:02

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 00:48:00.85 ID:iE7rsSRT
現在三千石で寄合である永井氏の先祖は、大監物、なを白元と言った。初め井伊氏に仕え、それより加藤氏に
仕え、後に御当家(徳川家)に召し出された人である。

この家譜によると、豊太閤(秀吉)在世の時、烈祖(家康)が大阪城に登られた折に、太閤より
「放鷹の時期であるから、下向在るべし」と云われ、未刻(午後2時ころ)ばかりに退出され、町の末より
深尾清十郎が献上した葦毛の馬に乗られたが、御早乗り故、供奉の輩続きかねた。そのような中でも白元と
岡部小次郎の両人だけは遅れず供奉して、伏見の邸に到着したのは酉刻(午後6時頃)過ぎであった。

また関白秀次謀反の時、家康が早駆けにて上洛した時も、この両人は代るがわる御腰物を持って、土山駅まで
供奉したが、小次郎は疲れたのか、この駅に泊まって翌日出立の時、御腰物は監物に持たすべしと命ぜられ、
未刻過ぎる頃伏見に御着きになった。

また忍、河越での御放鷹よりお帰りに成る時、志村台より本多上野介(正純)が献上した鹿毛の馬を召されて
いたが、これが殊の外早く供奉の者続かず、白元一人のみこれに続いて供奉した。そうして府の大橋に
至るあたりで慮外者が現れ、上(家康)に対して「走り競べせん!」と云うまま、御馬に続いて阿部伊予守の
邸の前まで来たところで、監物に対し「その者の腰刀を取り上げるべし」と仰せが在ると、白元は即座に
その腰物を奪い取って、かの物を追い退けたという。
その当時の君臣の健強たること想像るべきであろう。また大橋で現れた慮外者も奇男子である。
この頃の風儀もこの話からまた見ることが出来ると、林氏(林家八代林述斎か)が話されていた。

(甲子夜話)

現在神奈川県横浜市戸塚区にある永井監物陣屋でも有名な永井監物家の祖、永井白元についての逸話。



972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 01:35:14.72 ID:9dQMXq0w
>現在神奈川県横浜市戸塚区にある永井監物陣屋

ググったけど何の遺構も残ってないお

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 08:53:57.32 ID:yjPfJm9C
要するに現代人(これが書かれた時の)とは比較にならんほど頑健ですということかな?

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 10:15:04.34 ID:sp0CLkxm
前田慶次が走り競べしたんかな

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 11:25:22.51 ID:reHBASnN
創作のイメージだと、慶次が腰のものを奪われて追い払われるところが想像できない

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 00:23:33.62 ID:wGIK0Atm
>>971
>慮外者が現れ、上(家康)に対して「走り競べせん!」と云うまま、御馬に続いて

徒歩で馬と走り競べ?
上は食い逃げでもしたのかな

薙ぐのではなく突くのが良い

2019年06月03日 18:16

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 16:00:54.42 ID:1XslYMgI
神祖(徳川家康)が遠州袋井縄手にて御鹿狩りの時、御徒士に伏見彦太夫という者があったが、彼は
三尺あまりの長刀を帯していた。これを見た家康が「その刀はどう使うのだ」と尋ねたところ、
彼は「敵の足を薙ぎ払います」と申し上げた。これに家康は「甲冑をしている敵にはそのようにしては
通じない。鑓にして使うべきだ」と仰せになったという。これは「薙ぐのではなく突くのが良い」という
事である。

(甲子夜話)

関連
逆に刀を抜きにくくするためではないか


966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 19:11:33.23 ID:20dOUEtw
鹿を突くんですか

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 19:20:04.31 ID:yPPZs8yN
突くんだったら羊がいいぞ by イギリス人水兵


969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 20:54:47.48 ID:rLhGWBlT
御放鷹のおり伏見彦大夫某が三尺五寸の大太刀に、二尺三寸の差添を十文字にさし違ひ、山路を走廻ること平地のこどし。
君(家康)御覧じ、「汝が剛勇比類なし。その太刀抜いて見せよ」と宣ひしかば、
彦大夫直に抜放して二振三ふり打ふりしに、太刀風りんりんとしていとすさまじ。
仰に「汝は尺の延たる刀の利を知るか」とあれば、
「たゞのべかけて敵を一討に仕るばかりにて外に心得候はず」と申せば、
「いやとよ寸の延たる刀は、鎗にあてゝ用ひんが爲なり。向後わすれまじ」と教へ給ひし也。(感状記)

『徳川実紀』引く『諸家感状記』

これだと大太刀は鎗にするのではなく、対鎗用に使うものだと彦太夫に教えてるな
ランツクネヒトのツヴァイヘンダーみたいに槍の柄を切り折るのを想定してると思われる


970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 23:19:39.51 ID:Q+e2+3Zc
>十文字にさし違ひ、

ここが図でみたいな

了的ただいま降り参り候

2019年06月02日 15:21

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/02(日) 10:58:48.62 ID:fbrKsrrq
神祖(徳川家康)大坂御陣の時、江戸より観智国師(増上寺中興)の使いとして、了的という者が
差し向けられた。

了的が茶臼山の御陣所に至り、その旨を申し述べた所、御次から近かったのか、神祖ほのかにその声を
聞し召され、「対陣の時に了的とはいかがか(的と敵をかけている)」との御沙汰があった。
了的は御前へ走り出てこう言上した「了的ただいま降り参り候。」

これを聞いて神祖は笑われ「よくぞ早く降りた」と、御機嫌であったという。この了的は機活弁才、
人に優れた僧であったという。(増上寺伝説。南渓の寮主定竜話す)

(甲子夜話)



964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/02(日) 17:18:44.54 ID:BkTlaOA4
そりゃ坊主は口うまい

と、信玄公は仰せ渡されたのである

2019年05月17日 17:40

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 18:22:20.14 ID:ZU05vU4M
百年以来、本当の合戦はさほどない。ただし両度の本当の合戦があるというのは永禄4年酉(1561)の
信州川中島合戦と遠州三方ヶ原合戦、この両度合戦である。

(中略)

しかしながら、(三方ヶ原の戦いは)武田衆ばかりの手柄にあらず。家康衆も信玄公の衆に劣らぬ手柄なり。
その子細は良く働いて勝負を仕り、足並み揃えて逃げないからである。

武田信玄は)「どのように剛の武士が『手柄を仕りたい』と申しても、見崩れで逃げる敵が相手ではこの
ような手柄にはなるまい」とありて、これに付けても家康を「日本で若手の弓取り」と定められ、信玄公が
仰せになられたことには、

「長尾謙信(上杉謙信)と家康の両人は弓取りである。

信長が近江箕作の城を攻め落としたのも家康被官どもの働き故。北近江姉川合戦も信長は3万5千の人数で
浅井備前守(長政)3千の人数に切り立てられ尽く負けたというのに、家康は5千の人数、浅井備前に加勢
した越前の朝倉衆は1万5千だったが、それを家康衆は姉川を押し渡り、無二に掛かって切り崩し、信長の
利運にさせたのは家康が弓矢を強く取る故である。

金ヶ崎発向(金ヶ崎の退き口)の時も浅井が心変わりしたのを聞いた信長は味方を捨て、岐阜へ早々に引き
入った。そのようなところで家康が若狭の敵を切りひしいで、押付を打たれないように致した(信長が追撃
されないようにした)のは家康25,6歳の時分であるが、その時からこのように仕ったのである」

と、信玄公は御先の侍大将衆に仰せ渡されたのである。件の如し。

――『甲陽軍鑑』



927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 20:09:45.63 ID:F9IKVgUD
どういう理屈だw

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 17:43:16.02 ID:CnyBPqKP
野戦という、総大将が知恵を絞った陣形で勝負が決せられる戦さしか認めない!
という軍学脳かと思った

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 19:41:33.27 ID:sfWLld3+
足並みがそろってないことをそろってることよりageてるの草

智者は闇主の為に謀らず

2019年05月10日 16:41

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 14:29:37.95 ID:cHJBuSGn
さて蔵人元康は義元公討死のその影響で、速やかに元康を改めて家康と名乗り給い、その年の暮れに
伯父の野州(水野信元)の仲裁をもって家康と信長の和睦の儀これあり。

「尾州に事が起これば家康公が信長へ加勢し、三州に事が起これば信長公が家康公へ加勢する」と、
互いに起請文を取り交わして、内々に無事を作り給う。

見合わせの儀を今川衆が「家康表裏」と申すことは、まったく不届きなことである。氏真公の政道が
良くおありならば、家康公の表裏でもあろう。氏真公が悪しき大将であるとしても、家康公が今川殿
に伝わる家老ならば、それこそ人が言うのももっともである。

家康公はもともと一城の主なり。時の験に任せて属している大名と申すものである。時の験によって
属している人は、万事を投げ打って時を見合わせ、自身の立身をもっぱらにするものなれば、家康公
は今川殿の家老ではない。ゆめゆめ、表裏であるべからず。

氏真公は御歳33までも月見花見遊山の善し悪しは御存知といえども、武道の直路いささかもおあり
にならず、無下に人を見知りなさらないので、家康公がこの屋形から御心を離されたことは、もっと
も道理に当たるのである。

三略にも『義者は不仁者の為に死せず、智者は闇主の為に謀らず』という。家康公も大方はこの理で
もあったのだろう。家康公は12歳の時に菖蒲切りの勝ち負けを見定め給う。志は今に至るまで誉れ
あって、三河一国と遠江半国の主となり給う。

また時の験に属した侍と譜代の区別を、長坂長閑老と跡部大炊助殿はよくよく御存知である。

――『甲陽軍鑑』



虎生まれて三日にして牛を食うの機あり

2019年05月08日 17:30

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/08(水) 14:56:44.81 ID:K21g4YNp
徳川家康公12歳、竹千代殿と申し奉る時、中間の肩に御乗りになって五月菖蒲切り(端午の節句に
行うチャンバラごっこ)を見物に御出になられた。一方に人3百ばかり、もう一方には150程なり。

見物の人々はこれを見て「人の少ない方が必ず負ける」と、大勢の方へ立ち寄らない者はいなかった。
そのうちに、竹千代殿を肩に乗せ奉る中間も大勢の方へ立ち寄ろうとした。その時に竹千代殿が仰せ
られたことには、

「どうして我を皆人の行く方へ連れて行くのだ。今叩き合うならば必ず人の少ない方が勝つぞ。あれ
ほど少ない者どもが多勢を軽く思って出張っているのは、よくよく多勢の方を弱く思ったからだ。ま
たは両方が打ち合う時に、多勢で少ない方を助けようと思うこともあろう。いざ少ない方へ行って見
物せん!」

と宣った。御供の者どもは腹を立てて「知らぬことを宣うな!」と言い、無理に大勢の方に留まった。

すると案の如く、打ち合う時に少ない方の後ろから、大勢が駆け付けて新手を入れ替え相手を打てば、
初め大勢いた方は打ち負けて、散り散りに逃げ乱れた。見物の者も我先にと退きふためいた。竹千代
殿は見給いて「言わぬことか!」と宣い、肩に乗せ奉る中間の頭を御手で叩いて御笑いになられた。

『虎生まれて三日にして牛を食うの機あり(大人物は幼少から常人とは違う)』という。この竹千代
殿は今家康と名を呼ばれて“海道一の弓取り”なり。「命長くいらっしゃれば、これぞ後には天下の
主ともなられよう」と、心ある人は言い合ったのである。

――『甲陽軍鑑』

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/08(水) 16:10:28.30 ID:+Am2AbT8
お供失礼だなぁ

902 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/08(水) 18:46:13.83 ID:g9xSGGcI
今川に媚びへつらってたから主君を蔑ろにする習慣が出来上がってたのかもな

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/08(水) 23:00:28.25 ID:CCUV0RPK
>御供の者どもは腹を立てて「知らぬことを宣うな!」と言い、無理に大勢の方に留まった。

本多正純「してその者の名はなんと?」

【雑談】家康の甲斐侵攻について

2019年05月04日 14:57

965 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/03(金) 16:25:31.63 ID:TISqcbEJ
家康が織田政権の承認を得たのはあくまで織田家臣退去後の上野・信濃・甲斐を敵方に渡さないために軍勢を出して確保することだろ

河尻が健在の甲斐に侵攻する許可を得た訳ではないし河尻が政権中央の意向に反した行動を取ったわけでもない

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 16:39:13.93 ID:xjWKeatT
>>965
それを家康は織田政権から委任された以上、家康の指揮命令に従わなかったらそれは織田政権への謀反と
解釈されても仕方ないと思うぞ。

967 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/03(金) 16:57:24.06 ID:TISqcbEJ
>>966

もう一回整理してほしいんだが、織田政権は河尻・滝川・森・毛利などの織田家臣が退去したあと、敵方にその知行地の3か国(上野・甲斐・信濃)を渡さないために家康に軍勢派遣を認めてるんだよ

当然、それ以前の家康に河尻等の織田家臣に指揮命令する権利は認められていないし、河尻が家康の命令に従わなかったとしてもそれが織田政権への謀反とみなされる道理がない

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 17:42:08.71 ID:mGxBMjMX
帰国後即甲斐国人に調略開始、穴山旧領を押さえた上で
川尻に「美濃に帰ったらどうです?」って使者送ってんだよな、家康

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 17:51:34.98 ID:PRZ30gr7
>>965
そうだね
以下の書状読んでもその事は一目瞭然だな

天正十年七月七日付羽柴秀吉書状 徳川家康

今度信長不慮之事御座候付而、信州・甲州・上州ニ被置候者共罷退候、然者両三ケ国之儀、敵方江非可被成御渡儀候条、御人数被遣、被属御手候之様ニ被仰付、尤存候、猶追而可得御意候、恐惶謹言

羽柴筑前守

七月七日
秀吉(花押)

家康様
参 人々御中

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 17:54:20.87 ID:hSMBTF6g
穴山梅雪は徳川の刺客に暗殺されたのだ・・・!

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 20:41:32.12 ID:RrNc2vL6
穴と雪の女婿はどうしてこうなった

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 21:23:47.25 ID:m17ZCduB
>>969
そら7月にもなれば清洲会議も終わって秀吉の天下統一が始まってんだから織田もクソもないわな
こんな書状もらう前からコソコソ旧武田領を狙って暗躍する家康さんカッコイいです

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 22:00:31.75 ID:j1SebWKH
河尻秀隆が死んだ後の書状やん

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 23:53:38.79 ID:ieTMNxY6
家康のことにまで構ってられないし東国の抑えも必要だから、
仕方なく侵略行為には目を瞑って後付けで領有を認めることにしたってところ

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 00:33:05.76 ID:9qfooK/C
河尻が健在の頃から武田旧臣相手に河尻の領地内の土地を安堵するって送っちゃってるからね
言い訳は無理だね

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 00:50:19.81 ID:f7GzcNhS
>>974
>>975
丁度織田家が内紛状態やからなあwwwww何方の側も家康を敵に廻したく無いしね。

建て前が何にしろ、信長死去で甲斐信濃上野の三ヶ国無主に成ったから拾うって事だね。
川尻は、家康視点では逝ける死者、バンパイアぐらいにしか思ってないよ。

弱点を使って退治、日光「国人一揆」、十字架「織田家の事後承諾」、銀の杭「軍事介入」で
退治しただけだな。

「火事場泥棒?持ち主居ないんだから拾っただけ」って言い分ですな、狸の大妖怪主観では。

甲斐は結局信玄の子の代で滅び

2019年05月03日 16:27

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 16:23:18.51 ID:g74bPE9v
さて東照宮(徳川家康)は浜松にいらっしゃった。信玄方から度々攻め寄せられて難儀であったのを、
信長が救はれたことにより別条なし。

駿府には穴山(信君)という大名がいた。東照宮とともに信長に帰す。ある時、両人が同道して上京
することがあって、方々を見物し、京から大坂和泉に行くが、堺にいらっしゃる内に明智が謀反して
信長を弑逆する。

これより両人は伊勢路を越え本国へ帰るが、穴山は路次で一揆に殺されたという。また東照宮の所為
であるともいう。

さて駿府も易々と東照宮の御手に入る。甲斐に河尻与兵衛(秀隆)という者がいたが、これも東照宮
が討ち滅ぼして甲斐を取った。甲斐は結局信玄の子の代で滅び、信長に攻め付けられ天目山で自害す。

――『老人雑話』



元和改元と武家諸法度について

2019年05月01日 16:21

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 09:18:18.75 ID:0cxHtuhD
応仁以来の乱世のよって、その習礼も未熟であったが、慶長の末、東照宮(徳川家康)の命に曰く、
「年号の字は、漢唐の吉例を鑑みてこれを用い、重ねて習礼が整った以降は、本朝の旧式を用いる
べし」と仰られたため、慶長の改元があって、元和が用いられた。

慶長は漢の章帝の年号、元和は唐の憲宗の年号である。これは今の太上皇(後水尾上皇)が御在位の時の
ことである。
(改元物語)

元和令(武家諸法度)を領下された時は、金地院の伝長老(崇伝)に草稿を奉らせた。
その書法は、貞永、建武等の式目に習った。
当時は合戦の後で、世の人々は武事をのみ習い、いまだ文字(漢字)を識れる人は多くなかったため、
世間一般の書法もまた、識字の低さに合わせたものであった。

だが、この元和令が過去の漢文で書かれた式目の書法に倣ったのは、今後は文を以て治を興すという意思を
示されたのだと聞き及んでいる。

そうであるのに、その後の代々に領下された法令は、みな仮名交じりで記されており、これはまた
本朝の文学が、日々に衰えていることの一端であろう。
(折たく柴の記)

元和改元と武家諸法度についてのお話



小笠原の行く末は

2019年05月01日 16:20

948 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 11:43:54.00 ID:Gr038wOZ
小笠原の行く末は

永禄11年、今川氏真は武田信玄徳川家康の攻撃を受け、朝比奈備中守(朝比奈泰朝)の掛川城へ逃げこむ。小原備後守(小原鎮実か)は、小笠原与八郎(小笠原氏助、もしくは父の小笠原氏興)の取次役であった縁を頼み、馬伏塚城へ一族をつれて逃げる。

しかし、与八郎はすでに家康に通じており、小原を妻子ともに討ち取る。さてさてなんとも惨く可哀想なことであった。当時の人は誰もが「小笠原の行く末は良いわけがない」と思ったものである。

(三河物語)



小笠原与八郎の事

2019年04月30日 16:06

946 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/30(火) 02:50:22.89 ID:7AS7T0U+
1574年5月、武田勝頼は軍勢を率い、高天神城を攻撃した。

城主・小笠原与八郎(小笠原氏助)以下籠城衆はひと月以上粘り援軍を待ったが、徳川家康は単独で武田に相対する力がなく、織田信長の援軍がやっと吉田城についた辺りで開城してしまった。 

落城後、城主の小笠原与八郎が武田氏に一味し、家老衆らもこれに従っているとの噂が立っていた。

しかし彼らは家康に人質を出していることもあり、粗略にするような意図は全くありません、と浜松まで参上して申しあげた。しかし数日が経ち陰謀(与八郎たちの寝返りか)の内容が伝わると成敗されてしまった。 


月日は流れ1582年3月、武田氏が滅亡すると小笠原与八郎は北条氏を頼って小田原に逃れ、隠居の身となっていた。しかしこれは家康の知るところとなり、家康より信長へ与八郎を引き渡すように要請してほしいとの要望があった。

早速信長より北条氏へ命令が下り、与八郎は処刑された。その首は小田原より浜松へと直接届けられたという。 

『当代記』



家康、茨木で鷹狩りをする

2019年04月29日 16:46

836 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/29(月) 12:30:53.73 ID:oRKNtez5
家康、茨木で鷹狩りをする

1599年12月3日、当時大坂城・西の丸にいた家康、摂津国・茨木で鷹狩りをする。佐々淡路守、堀田若狭守など亡き太閤の鷹匠衆が数多く従う盛大なものだった。
夜は茨木城に宿泊。茨木の代官・河尻肥前守宗久(河尻秀長)の饗応にあずかった。


(朝野旧聞裒藁)



837 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/29(月) 13:28:57.34 ID:oRKNtez5
家康と秀長がどんな話をしたのかが気になる

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/29(月) 14:23:44.49 ID:hpII9z+K
現代リーマンのゴルフ感覚なんだろうな鷹狩り

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/29(月) 17:58:15.54 ID:5GY1rnjA
「ナイスショット!」とか言ってるんだろうか

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/29(月) 19:32:54.53 ID:tkr7B+Ky
呼びつけといて2分で追い返すとかもあったんだろうな

841 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/29(月) 20:46:46.55 ID:iJ9cEO9e
お美事でございます!とか?

鷹狩りとか巻狩りとか、現代と同じ様に上役とのお付き合いは昔も有ったんだろうなぁ

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/29(月) 21:51:41.43 ID:PGm1V7wz
上司よりうまくやるとそれ以上当てるなよ…!ってなるんだなw

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/30(火) 00:12:08.14 ID:wHkKseVO
いやいや鷹狩って基本自領や家臣の領地でやるものでしょ
大坂で家康が鷹狩したってのはそういうアピールが目的でしょ

844 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/30(火) 05:16:49.97 ID:GYW8yDg3
>>843
それは分かってるけど、>>838以降の話は余談みたいなもんでしょう

845 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/30(火) 08:38:44.77 ID:VldfWWjI
豊臣お膝元の地で、秀吉お抱えだった鷹匠を率いてやっているのだから凄い政治的パフォーマンスだよね

846 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/30(火) 09:45:19.88 ID:GYW8yDg3
この前月に前田利長は大老解任されてるし、石田三成と浅野長政は奉行職退いてるし、そらまあ政権内に敵はほぼいないも同然だし、天下人同然の振る舞いになるよね

847 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/30(火) 11:11:39.60 ID:7AS7T0U+
当時はもう実質天下人のような立場だったとすると、
家康の強力な権威と政権のトップだと言う自負の現れなんだろうね

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/30(火) 11:34:47.77 ID:P5QhUzt0
安土城一般開放とか北野大茶会に比べると、家康のパフォーマンスは地味

849 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/30(火) 11:38:12.30 ID:GYW8yDg3
>佐々淡路守、堀田若狭守など亡き太閤の鷹匠衆が数多く従う


この人達も別に鷹匠だけがお仕事じゃないんだろうけど、知行的には5~6000石クラスの与力とか旗本クラスだし、秀吉が亡くなって秀頼が年若な当時だと、鷹匠としてのお仕事も激減してそうだしリクルート活動に必死だったのかもねぇ…
やっぱり今も昔も変わらないね。

850 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/30(火) 11:42:15.97 ID:GYW8yDg3
>>848
この鷹狩りに関しては対民衆向けというより、豊臣家中向けのパフォーマンスだったんじゃないですかね?

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 10:44:04.02 ID:adUyqGSP
>>843
>>845

???「それでも家康には簒奪の意思はなかった」

857 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 10:56:30.14 ID:xXcRVn3l
>>854
???は誰?

岐阜をもって降参し、これ故に敗軍した

2019年04月24日 16:46

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 00:18:57.62 ID:2NRXAsO+
景勝追討の時に相従う大名は7人、小名は46人、総じて53頭(原注:上方御譜代とも)であるという。
江戸を1日程に出て小山に至ると上方より注進あり。「石田謀反して日本一味す」と。

東照宮(徳川家康)及び諸大将は大いに驚いて、何も言えなかった。即時に江戸へ帰り、評定が行われた。
上方御譜代衆を各々一人ずつ召し出して方策を問うと、皆答えることができなかった。

上方衆の中で只一人、福島左衛門大夫(正則)が進んで曰く「太閤の遺言の如く、秀頼を立て給うならば
私が先手を致そう」と言う。諸将はこの時に皆同意する。左馬(加藤嘉明)も言うことができなかったが、
福島が言い出した後に、「我が心もこの如し」と言った。譜代の衆も一人も言い出す者はいなかったが、
ただ井伊兵部(直政)が進んで曰く、「私が先手を致そう」と言った。

評定の後に諸将が皆言うには、「妻子が人質となっている。この事があるので一旦偽って『降る』と言お
う」とのことだった。東照宮はこれを許され、諸将は打ち立って上方へ上った。しかしながら、東照宮の
後陣は至らず、7月に事が起こって9月にようやく到着した。

美濃青野ヶ原(関ヶ原)で合戦があったが、初めは治部方に利あり。後に筑前中納言殿(織田秀信)が岐
阜をもって降参し、これ故に敗軍した。

――『老人雑話』

関ヶ原一乱の勝敗は岐阜陥落で決まったとのこと



822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 00:41:26.90 ID:y+S9JmHK
これいい話っていうか間違った話だろ

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 08:35:47.43 ID:bs3dFm3P
>>821
秀秋で決まったのは後世の影響で岐阜城陥落の時点で勝敗決まってたそうだが、
この時代にもそういう見方はあったんだな、ていうかまだ後世の創作の影響がなかったからか

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 15:35:49.04 ID:8I/LPCNJ
>>821
筑前中納言は秀信じゃないでしょ

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 16:38:02.82 ID:1ua9YfKL
参謀三法師

【雑談】小山評定について

2019年04月20日 18:25

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 20:59:36.23 ID:rhhxEd5Q
>>853
本屋に2016年発刊の「小山評定の群像」っていう産経新聞栃木版の連載をもとにした本があったけどその続編かな
その本の最後から二番目が板坂卜斎を紹介したコラムで

「小山評定はなかった派」の白峰説があるけど板坂卜斎「慶長記」にそれっぽいことが書かれてるから、軍議はあった説が有力

と書かれてた
(小山市には「小山評定通り」とかあるし
小山評定自体なかったら「小山評定の群像」というタイトル自体無理があるから
栃木版発行元としては「ない説」は主張できないんだろうけど)


894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 21:32:53.78 ID:j2E4Q9U8
>>892
小山評定無かった説は本多氏の指摘で崩壊しとるけどね

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 23:56:03.77 ID:1p4Z5C0s
>>892
本多隆成氏が小山評定はあった説の最大の根拠にしてる7月29日付大関資増宛浅野幸長書状

尚々、去廿三日之御状畏入候、其刻小山へ罷越、御返事不申入候、
以上急度以飛脚申入候、就其上方之儀、各被申談仕置ニ付、会津表御働、御延引ニ候、
上辺之儀、弥被聞召届上、様子可被仰出旨、内府様被仰候、
我等儀、此間宇都宮ニ在之候へ共、結城辺迄罷越候、
駿州上之御人数ハ、何も国々へ御返しニ候、猶珍敷儀候ハヽ可申入候、恐々謹言

浅左京
七月廿九日 幸長(花押)

大関左衛門督殿
御宿所

これ見る限り談合があったのは間違いなさそう

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/20(土) 21:42:52.38 ID:e0MwNVX6
日本の歴史で談合が無かった場面なんてないだろ

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/20(土) 22:39:01.63 ID:Esd8B3oT
ノッブはあんまり

田峯・長篠菅沼氏の滅亡と二人の烈女

2019年03月23日 18:44

741 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/03/22(金) 19:17:10.36 ID:4YZR64+2
田峯・長篠菅沼氏の滅亡と二人の烈女


武田勝頼滅亡後、山県、小山田はじめ武田氏の重臣らは悉く誅殺された。そんな中、三河衆の菅沼伊豆守・新兵衛父子(長篠菅沼氏)と、菅沼新三郎(田峯菅沼氏)は河尻秀隆を頼って降伏し、その陣中で保護されていた。


かつて両菅沼氏は奥平氏と合わせて山家三方衆と呼ばれ奥三河に所領を持ち、徳川家康に従属する国衆だった。しかし元亀3年からは武田信玄に属し、天正3年の長篠敗戦以後は所領を失い、信州伊那に在していたのだった。


やがて菅沼氏が河尻秀隆に匿われていることは家康の知る処となった。早速家康から信長に言上があり、誅殺の許可が下った。


さて新三郎の妻は諏方の祝女だったが、夫の最期を知ると子供らを自ら手にかけ自害を遂げたと言う。この妻は大変な大力と評判の女であった。またその伯母も女ながら高遠城の戦いにて比類なき働きをしたとのことである。


全く相似たる女がいたものよと人々の噂になったということだ。


『当代記』



742 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/03/23(土) 16:04:58.20 ID:E+cfZHyu
神官系の女性は肝が座ってるっていうことなんでしょうか

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/23(土) 21:08:22.03 ID:xFAIIgU0
戸次統常の母ちゃんは志賀氏だし、べつに出身は関係ないんじゃないかな

臆病神がいつの間に憑いたのか

2019年03月12日 13:33

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/12(火) 08:03:24.12 ID:dhtldici
久世三四郎(広宣)は禄五千石、鉄砲百挺、与力三十騎の頭であった。
元は榊原式部大輔康政の従者であったが(実際には大須賀康高の組下)、旗本に召し出された。

大阪の陣の折、「榊原遠江守康勝は攻口の仕寄りはどのように付けているか、向かいの土手を
取れそうか見て参るように」との命を受け、御使として遣わされた。

久世が馳せ向ってこれを見た所、榊原家の家臣、武功の者共は、久世が今直参と成ったことを心に妬み、
「そこは敵からの鉄砲がきびしく射ち込まれており、危ない故、すぐに帰られよ。」
と言った。

久世は静かに乗り廻って
「昔は榊原家といえば、城方と寄せ手の旗先が行き逢うほど近くまで仕寄をしたものだ。
今のこれは、その間が未だ遠すぎないかと危ぶむ。私が昨今まで、貴殿などと肩を並べ膝を組んで
親しんでいた頃には、こんな事はなかったのに、臆病神がいつの間に憑いたのか。
旗本の者たちがこれを聞けばどう思うか。」

こう言ったところ、これに答える者はなかった。

(武将感状記)



715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/12(火) 10:21:29.40 ID:2UbgfmCZ
15年たてばこうなる

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/12(火) 18:22:28.97 ID:K/7K7qpL
榊原康政って秀忠の軍監だから、小田原征伐以降はまともに戦ってないんじゃない?

鬼武蔵と言われる者の鋒を挫けば

2019年02月26日 16:52

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/26(火) 15:10:57.23 ID:ViHYIV+B
長久手の合戦の時、秀吉は十万余騎を率いて青塚に陣し、源君(徳川家康)は二万五千余騎を率いて
小牧に陣した。

秀吉の全鋒である森武蔵守長一(長可)は、信長の愛童森蘭丸の兄であり、勇猛の名があって、
時の人は彼を鬼武蔵と号した。彼は羽黒に陣していたが、その先手が本陣から間遠く備えていた。
酒井左衛門尉忠次はこれを見て、

「武蔵の先手は味方を離れています。将もその部下も、兵法に練れていないのでしょう。
今これを撃って、鬼武蔵と言われる者の鋒を挫けば、見方は勝利に乗り、敵は鋭気を失うでしょう。
今少し御旗本を敵に寄らせれば、私が手勢を以て衝き崩しましょう。」
そう進言すると、家康は望み請うに任せた。

左衛門尉は軍勢に対して「首を取ることなかれ、斬り捨てにせよ。白旗を上げれば軽く引き、逃げる敵を
追ってはならない。」と軍令を定め、静々と斬ってかかり、武蔵守の先手を撃ちとった。これに武蔵守は
怒り酒井勢に駆け向かったが、その頃に酒井勢はすでに引き取っていた。武蔵守は歯噛みをしたが、
最早どうにも出来なかった。

(武将感状記)