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敵ながらあっぱれと思い

2016年08月14日 17:26

76 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/08/13(土) 19:51:20.22 ID:RTOMV38F
結城秀康の三男であり、後に松江藩主となった松平直政。
彼は、初陣となった大坂冬の陣で活躍しました。
この様子を見ていた真田信繁が、敵ながらあっぱれと思い軍扇を直政に投げ渡しました。 この軍扇は現存しています。



勇士の名を汚さぬよう

2016年05月19日 21:27

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 08:02:28.13 ID:Pn127/+v
越前少将松平忠直の家臣に、原隼人正貞胤という者があった。元は甲州武田家の武士にて武功の者であったが、
浪人していたのを忠直に召し抱えられ、黒母衣衆に編入され、その合戦の知識を高く評価されていた。

彼は真田幸村と古傍輩の好があり、旧友であった。そこで大阪冬の陣の和睦が結ばれると、真田方から
「和睦後、互いの辛苦も語り慰めとしたい」と、しきりに招請してきた。しかし原は自身で判断するわけにも
いかないと、忠直に伺いを立てると、御免あったため、真田の陣所へ赴いた。

真田幸村は原の来訪を大いに喜び、様々に饗応し、嫡男大介も見参に入れ酒宴数刻に及んでから、幸村は語った

「私は今回の合戦で討ち死にすべき身であったのに、今度の不慮の和睦で今日まで存命し、再びあなたに
お目にかかれたこと、生前の大慶である。
この幸村は不肖なれども、今回一方の大将を承った事、今生の面目、死後の思い出と存ずる。

今回の和睦も必ず一端のことであろう。永くは続かない。終にはまた一戦となると、私は推量している。
その時に潔く討ち死にすること以外、私は考えていない。
臨終の時は、いま床に飾っているこの鹿の抱え角の兜、これは先祖重代の家宝であったのを、父安房守が
私に譲られたものだが、これを着けて討ち死にするつもりである。
あなたがもし、この兜首をご覧になれば、幸村が首であると思い、一返の御回向にも預かりたい。」

原隼人はこれを聞くと
「戦場に挑む者のうち、誰が生きることを考えるだろうか。
遅れ、先立つとも、ついには冥土で再会するのだ。」

これに二人は笑いあった。

それから白河原毛という名の馬に、白鞍に金で六文銭を打ち付けたものを置いて引き出させ、
幸村はこれに乗って隼人に見せながら
「重ねて合戦有れば、大阪城の城郭は破却されれているので、必ず平場での合戦となるだろう。
だとすれば平野の辺に馳せ、出撃してきた東国勢に駆け合わせ、馬の息が続かないほどに戦って
死ぬつもりであるので、いまこの馬はひとしお秘蔵にしているのだ。」
そういって馬から降り、再び酒宴となった。

ここで原隼人は言った
「今の和睦こそ幸いである。貴方はともかく、子息のことは、御舎兄の伊豆守殿にお預けに成って、
とにもかくにも、跡を継がせるべきではないだろうか?」

幸村はこれを聞くとニッコリと笑い
「不肖のそれがしであるが、関東より度々招かれており、いま倅を伊豆守の元に遣っても、
さのみ悪いことではないと思う。であるが、一生日陰者として有るのも武士の恥辱である。
高鳥死して良弓蔵されるという。豪傑であっても治平の時代には用いられない。ましてや
柔弱なわが倅など誰が用いるだろうか。

人には皆名分がある。その生死、禍福は人意を以ってどうにか出来るものではない。
ただ私と死を共にして、勇士の名を汚さないようにしたい。」

二人は一日語り合い、黄昏に及んで原隼人は帰っていった。
実際に真田は翌年、かの兜を着けあの馬に乗って討ち死にしたとのことである。

(慶元記)



739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 12:26:34.41 ID:C+jA2yLf
こういう潔い武士らしさは、江戸時代でも好まれたんだろうな

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 13:39:12.18 ID:dqPc8IuE
幸村ってあるから江戸時代に作られた話だろうしな

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 17:46:38.62 ID:Iz92FozX
幸村とある時点で胡散臭さ、逸話度がグッと上がってしまうのがなんとも、ね

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 18:08:43.85 ID:S5GhVgTP
写本してるうちに書き換えられたりするからそう単純な話でもない

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 20:30:44.01 ID:ZEO/h7Rc
小楠公
真田大助
大石主税
日本人が好む英雄の息子たちも人気があるよね

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 22:04:34.78 ID:VIqbXPQx
そういえば近所に"ゆきまさ"と名付けられた少年がいるなあ
字面までは知らんが

紺地に六文銭の旗の陣

2016年05月18日 17:05

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 06:44:03.98 ID:uLvmKNEo
大阪冬の陣、東方の寄手である真田伊豆守信之家臣の矢澤但馬、吐田筑後、榊原石見の三人は
元より武功の者であったので、敵が矢鉄砲を激しく撃ちこむのも恐れず、一番に仕寄りを付けた事は、
両将軍(家康・秀忠)からも賞賛された。

この時、伊豆守の手勢が仕寄りを付けるにおいて非常に勇敢であったのを、大阪方の木村長門守重成も
大いに感じ入り、或る夕刻、真田左衛門佐が出郭より本城に帰った時、重成は彼に対し、
東を指差して言った

「あそこの、紺地に六文銭の旗の陣が最初に仕寄りをつけました。あれはあなたの一族でしょうか?
もしくは他門でしょうか?彼らは実に、城攻めの妙を得た者達です。」

真田答えた
「あれは兄伊豆守の陣です。ただいま軍兵に先立って下知している二人の若武者、
一人は河内守(信吉)といって16歳、もう一人は内記(信政)といって14歳。どちらも私の
甥であります。亡父昌幸の余風があって、彼らも健気に働いているようです。」

重成はこれを聞くと
「その兄弟は、普段は何色の鎧をつけているのでしょうか?今から軍兵たちに、二人には鉄砲を用いないよう
申し付けたい。」

「それは情ある言葉です。しかし彼らは若年であると言っても、他の軍勢に先立って仕寄りを掛けるなど、
味方にとってはなかなかの剛敵です。
ご存知でしょうが、忠義のためなら親疎も言い出さないのが武士の習いですから、私の一族だからといって
弓鉄砲での攻撃を避けるというのは考えもできません。彼らもまた、私を見れば必ず攻撃して
来るでしょう。であれば、誰にかぎらず秀頼公の敵と見れば、席を去らずに討ち果たすべきです。
これが武士たる者の本意です。」
そう語ったという。

(慶元記)



732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 11:21:19.48 ID:IT3tWaKI
一族が敵方にいる以上、周りの他の軍より率先して働かないとダメだし
兄一家も大変だな

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 21:39:16.08 ID:7o1opGdq
黒田基樹「真田信之」p172によれば
「真武内伝」に
木村重成の持口を信吉・信政が陣頭に立って攻めているのを見た木村が信繁に
「あの六文銭はあなたの一族か?」と尋ねたところ
信繁「むろん、兄信之の子で私にとっては甥にあたる」
と返答し、木村が
「若年にして奇特な戦いである、あの2人には矢、鉄砲を放たぬようにしよう」
という話が載っているが、信繁は真田丸を守っていたため、残念ながら全くの創作である

としてたけど、真田丸から城に帰ってからの話なら問題ないような
(しかしたしかに木村重成より若いとはいえ、木村重成が「若年ながらたいしたもの」
と言うのには違和感)

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 22:09:52.91 ID:RsDfDWju
>>734
信吉が1595年(文禄4年)生まれで大阪の陣の頃には二十歳前後、信政はその2つ下だから、別にいいんじゃね?

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 22:58:53.72 ID:8V1YisfJ
>>732
結局最後の最後まで兄一家は弟に振り回されて終わっているんだよなあ

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 04:38:18.20 ID:otyaGBAD
>>732
源為義 為朝 平忠正「そうか?」

上州犬伏にて

2016年05月13日 18:04

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/12(木) 20:36:13.50 ID:lpkqYaEd
真田左衛門佐幸村(信繁、または信仍と有る)は、信州上田城主、安房守昌幸の次男である。
去る慶長5年、上杉景勝反逆の故に、徳川家康は上杉攻めとして、諸大名を召しつれ伏見を発向し、
関東に下向したことにより、真田昌幸、嫡男伊豆守信幸、次男左衛門佐幸村も、上州犬伏まで
打ち出た所、石田治部少輔三成、大谷刑部少輔吉継両人より、昌幸に書状が届いた。
その内容は、

『今度天下の御為に大老奉行相談し、内府(家康)を滅ぼすこととなった。真田父子も同意あって、
会津への出陣を止められよ。』
というものであった。昌幸は伊豆守、左衛門佐が先陣に在ったのを呼び返して言った

「たった今、石田、大谷より申してきた内容を見るに、上杉景勝が幼君に対し逆心の無いことは
明らかだ。この上は内府を敵とし、ここより引き返すべし。お前たちはどう思うか?」

伊豆守は答えた
「仰せ、誠に至極です。今回内府に従うのは、世上の批判も大きいでしょう。その上父上は石田治部と
御縁者(ある説によると、真田昌幸と石田三成は、ともに宇多下野守(頼忠)の婿であるとされる)です。
また左衛門佐は大谷刑部の婿であり、上方に筋目が有るのですから、先ずは御領内に帰って御思慮
あるべきでしょう。

しかし私は内府と御懇意であり、ことに本多中務(忠勝)と縁者のよしみがあり、お許しいただけるなら
徳川家の旗下に属したいと思います。そしてその上で、なお志す所があります。
もし、上方の軍が敗れ、城々に籠もった者達まで内府によって罰せられた場合、私が父と弟の罪を
謝し、如何にもして危難を救い、それのみならず、真田の氏族が断絶しないように私は計ります。」

これを聞くやいなや、左衛門佐は言った
「憚りながら兄上に、私がご意見申し上げます。
内府がどれだけ懇切だったとしても、それは太閤の御恩に及ぶものではありません。
また本多中務と縁者のよしみがあっても、それは私的な関係であり、公儀の事ではありません。
また、上方の軍が敗れたと時は父上と私の身命の危うきを救って下さるとのことですが、
おおよそ戦場に臨みて功なき時は、将より士卒に至るまで、必ず戦死する事となります。
然らば、父上と私が存命かどうかも計り難い。

それに御苗字のために内府に属すると言われるのも、あまりに難しい御思案です。
秀頼公のために一家尽く滅んでも、ご先祖への不孝とはならないでしょう。

事新しい儀ではありますが、天正年中に父上と内府が不和となった時、一旦は当家の武功によって
徳川家の軍勢を切り崩しました。しかし徳川、北条が手を結び、重ねて大軍によって攻められれば、
籠城も危うい状況であったのに、太閤の御下知によって和談と成りました。この時は上杉も、
越後より後詰を出されました。これらは浅からぬ恩義ではないのでしょうか!?

それ以降豊臣家の旗下に属すること十余年です。これで君恩を忘れ、景勝殿の志を捨て、
内府の味方をするというのは、人たる道ではありません!
兄上は御若年より器量も人に優れ、戦功も立てられた、一廉の御用に立たれる人なのに、
それがむざむざと敵になる事、残念至極です!」

これに信幸は大いに立腹し
「父上に先立って無用のことを言うのみならず、内府の旗下に属する者は人たる道に非ずなどと、
妄に私を軽んじ讒るとは!今一言を出すにおいては、即時に討って捨てる!」
そう太刀の柄に手をかけると、左衛門佐は少しも動ぜず返答した

「私は豊臣家のために死のうと思っている生命なのですから、ここにて御手にかけられる事、
御免あるべし。」

ここで昌幸が間に入り二人を制して
「伊豆守が言うことを考えたが、一応その理無きにしも非ずだ。秀頼公の御大事も、今回に
限ったことではあるまい。ただ自分の望みに従って、内府の味方をせよ。」

そう打ち解けて、免した。こうして伊豆守はここから徳川秀忠の手に属し、安房守・左衛門佐と
別れたのである。
(新東鑑)




真田幸村は近在の百姓たちに

2016年05月02日 17:56


661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 21:08:06.92 ID:GXYtd421
関ヶ原後、流罪と成った真田幸村が紀州高野山の麓、渋田という場所の禿(かむろ)の宿に
潜居していた時、近在の百姓たちに金銀を貸し与えていた。

そんな幸村が豊臣秀頼の招きに応じて大阪に籠ろうとする時、彼が銀子を貸し与えていた
百姓たちを呼び寄せ、こう申し渡した

「私は今度、大阪の御招きによって入城することに成った。よって今後、そなたたちと再会することは
計り難い。
お前たちには去る慶長五年の冬より久しく相馴染みたれば、今は実に名残惜しい。
今度は天下の軍勢を向かえての合戦であるから、運を開く事はとても難しいであろう。
なのでただ、義の為に討ち死にを志すばかりである。

であれば、今更預け置いた金銀を返してもらっても、何にも成らない。
万が一にも勝利して、秀頼校が天下の主とならば、私はともがらの富貴を求めるまでもなく
富貴に至らしめるだろう。

各々は年来の馴染みであるから、その金銀は返してもらうに及ばない。」

そう言って、彼らの目の前でその証文を尽く焼き捨てた。

百姓たちはこれに感じ入り、拝伏して恩を謝した。
この事によって、禿近隣の土民たちは大阪に加担したのだという。
真田幸村という人はこのように、良く人情を知って彼らを感じ入らせる者であったと伝わる。

(慶元記)




662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 23:40:33.88 ID:O5SgVsgF
>>661
幸村じゃなくて信繁ね

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 23:58:14.98 ID:gWM6M/E4
兄貴から仕送り受けてる分際で金貸しかよ

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 00:21:45.15 ID:qUUxIBXi
>>662
「幸村」の逸話として使わっているのなら、幸村でよい。
信繁でなく幸村として伝わっている時点で、江戸時代が始まった後の逸話とわかる。

このスレで考えるべきは、「事実に合っているか」でなく「どうしてそういう逸話が生まれたか」だよ。

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 00:48:44.54 ID:Qh5wzMBH
お兄ちゃんから金借りてるくせにいい人ぶって人に金貸すとかとことん信繁はクズだな
いい話でもなんでもないだろこんなの

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 02:14:56.04 ID:cnfJL4OU
大河みて思ったけど信繁って老け顔だったの?まだ廿くらいと思ってたが

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 02:22:40.70 ID:cnfJL4OU
>>664
原文ママ、とか書いておけばいらぬ誤解を招かなくて済むね
現代語訳されてたら分かりやすい名にしたのかもと思う人もいるし

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 03:07:05.25 ID:TEIuaXFM
義の為()人情()
兄貴に金の無心するしか脳がない無能がなに言ってんのやら…

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 05:28:44.61 ID:bLtPv79l
真田関連の話が出るたびに思うが
親父とこの弟に囲まれながら
兄貴はよくあんな長生き出来たな
そのストレスがなければ200年ぐらい生きたんじゃねえの

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 06:42:49.63 ID:G8HDWN8M
ヒキニートが兄の金を使って詐欺をする話に近いなw

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 07:50:41.87 ID:RhJTHYdf
信繁じゃなくてお兄ちゃんのいい話だな
流石お兄ちゃんw

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 09:45:24.99 ID:zJtsB6dp
>>670
ひょっとすると胃が痛くなるようなストレスから解放された反動で
あれだけ長生きしたのかも知れん

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 09:48:14.30 ID:j/3s0OIp
お兄ちゃんは心労で寿命半ばで亡くなったんだ

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 09:55:26.58 ID:eJp4EjAV
>>670
おい、鬼嫁を忘れているぞ!

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 10:07:29.48 ID:cnfJL4OU
志半で倒れた隆元が偲ばれるで

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 22:02:30.95 ID:mhCM9B4I
>>661
禿って今の学文路?

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 23:23:14.45 ID:Qh5wzMBH
みんなお兄ちゃんの話しかしてなくてワロタw
やっぱりお兄ちゃんは愛されてるな…w

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 08:55:56.62 ID:0KlKkSVY
>>661
孟嘗君の食客、馮驩が元ネタだな

【雑談】幸村になっちゃった経緯

2016年04月20日 17:29

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 10:18:28.26 ID:0hzWkX3H
ここまで来ると信繁なのに幸村になっちゃった経緯が知りたいなあ
やっぱ憚かる意図でもあるのかな

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 18:59:20.57 ID:WqevE3tP
「幸」の字はともかく「村」の字はなにか由来があるんだろうか
実名に使われることのない字ではないようなんだけど、なんとなく気になる

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 19:32:59.50 ID:9VC/ICMp
>>551
徳川に仇なす「村正」から取った、と以前TVでやってた。

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 19:38:26.76 ID:l9K9toaz
>>552
村正云々は、「幸村」という諱が出てきた難波戦記の成立よりもっと後の時代に出来た話だな。

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 22:23:10.92 ID:2jFexQYU
村の字使った名前はこれ以前から見かける気がするが

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 23:49:51.90 ID:dLfZ/8TK
赤松義村、浦上村宗か

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 02:58:45.77 ID:VOlUpwvC
伊達家にもある

伝に曰く、真田左衛門佐幸村は

2016年04月18日 19:08

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 17:52:09.61 ID:FNLmB20G
伝に曰く、真田左衛門佐幸村は真田安房守昌幸の次男であり、兄は伊豆守信之という関東伺候の
大名である。幸村は父の昌幸とともに石田三成に与し、信州上田城に在った。
関ヶ原の時、将軍家(秀忠)は東山道を上っていたが、その道を塞いだため、将軍家は
五万騎あまりにてこれを攻めたが、幸村父子は八百人で能く防ぎ、終に落城しなかった。
そのため将軍家は伊豆守信之、および森右近大夫(忠政)を以ってこの城の押さえとして置き、
自身は上ったが、これによって関ヶ原の合戦には間に合わなかった。

その後上田城は兵糧が尽きて城を明け渡した。この時将軍家は、大切な合戦に遅れたのは
真田父子の為であるのだから、かの父子を死罪にも仰せ付けたいと思っていた。
しかし大御所(家康)はこう言った

「彼らが当家に敵対することは、既に野州の小山において、信之を義絶し私にも断って
西軍に与したのだ。その様は誠に豪傑の士である。現在、誰が彼らに比肩するだろうか?
また、信之の奉公の労にも代えて、先ずそのままに差し置くべし。
年を経て招けば、また来ることもあるだろう。」

こうして昌幸父子は紀州高野の内、九度山の麓の宿に潜居したが、常に、もし豊臣秀頼と
関東との合戦があれば大阪に与して関東を滅ぼすことを志していた。しかし昌幸は慶長15年に
死去し、それ以後は幸村一人ここに在ったが、この度秀頼より『早々に入城すべし。一方の大将に
付け、利運の上は信州一国を与える』との招きを受け、幸村は畏まって籠城した。

この幸村は良将であった。もし、彼の諫言が用いられ鍛錬調っていたなら、関東にとっても
困難なことになったであろうが、大野渡辺の如き未熟者のために、せっかくの幸村の良策も
遂に皆、徒となったのである。惜しい哉。

(慶元記)



541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 18:44:21.06 ID:1WhIiklT
>>540
へえー家康がどうしても死罪にしたいって言うのを、忠勝他が身を張って止めた逸話の方が有名だが

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 21:21:30.22 ID:I9wKNc0i
>>541
この話もその話も嘘だよ。
実際は真田昌幸程度だと流罪が妥当。
徳川方の被害もたいしたことなかったし。

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 22:13:17.31 ID:1x/2qN4b
>>543
悪い話ダナー

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 22:22:34.83 ID:noPVwmW4
もう、真田幸村で定着しちゃってるんだな

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 08:11:06.26 ID:/FGASa5h
「幸村」って名前で出てくる時点で話に信憑性がないよね


548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 12:42:49.99 ID:7l9E/FCE
真田昌幸本人も本多正信が動いてくれてるからじき赦免されるだろと軽く考えてるから
流罪で妥当、十分重い刑という認識だからね。ただ赦免は結局かなわなかったが。
そして家康の意向を受けてるあるいは影響を与えられる正信が動いて好感触でも反故って事は
正信-家康ラインの外からの横槍があったと考えられ第一候補は将軍となる
大坂の陣で関ヶ原がトラウマになってる事を窺わせる書状と併せて考えれば
死罪は無いにしても秀忠激おこはあっただろうなとつらつらと

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 13:02:46.52 ID:xIAoJ1OI
天正壬午の乱を思えば初陣さんには無理げー

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 15:23:07.70 ID:ImIZUG93
逸話スレ見てると秀忠は賞罰に私情を挟むタイプではない気もするから、横槍を入れるとしたら将軍側近で親子で痛い目に合わされた大久保忠隣の方がありそう。
で、面子を潰された正信の讒言で大久保長安事件が…と妄想してみた。

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 07:05:37.96 ID:DCj7IRhz
>>546
ここは逸話の中身の信ぴょう性なんてどうでもいいスレだよ。
投稿者が自作した逸話はノーサンキューだけど。

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 10:48:42.16 ID:9ODF2SZe
>>548
話聞かないけど昌幸って本多正信と交誼でもあったんかね?

室賀はそれに納得しない態度を見せたため

2016年04月09日 18:33

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 21:46:41.33 ID:wX2tR8C9
天正10年は、織田信長、武田勝頼のご生涯があったため、都鄙兵乱止むことがなかった。
信濃国には、徳川家康、上杉景勝が出兵し、上州には北条氏政・氏直父子が出兵した。

真田昌幸徳川家康に出仕を遂げるべしとて、伊奈の家康陣へ父子にて出仕した。
そのほか。禰津、矢澤、室賀、八代、芦田、保科、常田といった人々、何れも伊奈に出仕し
御礼申し上げた。しかし当時、家康は秀吉との合戦の最中であったため、国々の地頭も居城に引き籠もり、
我が意に任せて大身は小身を掠め、強は弱を侵し領地を争ったため、片時も合戦は止まなかった。

ここに信州室賀の城主、室賀兵部大輔(正武)は文武智謀の勇将であった。
遠く先祖を尋ねるに村上源氏義清公の類葉であり、禰津宮内大元直の嫡子長右衛門尉利直の舅であり、
その上昌幸とは甲府数代の傍輩、知音の仲であったが、真田昌幸が甲州没落後、信濃衆が諸方へ行動を
起こす時、まるで大将のようにこれを取り仕切り、多くの一族はその通り、万事昌幸の指図を
受け入れていたが、室賀はそれに納得しない態度を見せたため、互いに疎遠になっていった。

このため真田昌幸は室賀を退治しようと、禰津に行った。
禰津の家臣である加澤与七郎、別府若狭の両人は、智謀の勇兵であった。彼らに昌幸は、
矢沢頼綱を通じて様々に指示を出し、これによって室賀の家来である室賀九右衛門、松江、堀田らに
調略を廻した。この際別府・加澤に昌幸が与えた証文によると

『おのおのの調略によって室賀家中の過半は我らに納得し、同意したこと、これは忠信の至りであり
感悦している。彼の地について本意を遂げれば、そこから一所を宛がうであろう。

天正十年四月三日                  昌幸
                   別府若狭殿
                   加澤与七郎殿


このような事があって、4月下旬、昌幸は室が城に攻め懸けたが、室賀も聞こえる兵であれば
打ち取ること出来ず、居城に戻り、互いに互いを討つことを計った。

(加沢記)



鐵(かね)兵衛殿と呼ぶべきか

2016年03月31日 12:15

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/31(木) 05:18:15.10 ID:D7dfEllj
武田家滅亡の後、織田信長は武田の分国への仕置をなし、関東の管領として滝川左近将監一益を
上野国群馬郡厩橋の城に移した。武蔵・上野の旧武田分国の武士は残らずこれに出仕した。
真田昌幸は信州、上州両国に領地が在ったため、厩橋にも出仕した。

滝川一益は厩橋城で昌幸と対面した時、こう声をかけた

「あなたは承った所によると、以前は武藤喜兵衛と名乗っていたそうだ。しかし今回、つつがなく
武田が没落した以上は、鐵(かね)兵衛殿と呼ぶべきかな?」

そう、座興として言ったそうである。(喜兵衛を音が似ている金兵衛とかけた駄洒落である。)

その頃沼田の城は甲州の乱によって北条殿に横領され、藤田信吉は越後に浪人していた。
そこで一益は沼田の城に甥の滝川義太夫を城代として入れた。
一益は国中より人質をとったが、真田からの人質はなかった。これは真田信幸の姉が、人質として
安土に遣わされたためである。

(加沢記)


白井百人衆を謀る

2016年03月17日 14:39

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/16(水) 19:50:36.70 ID:AOgP06Dt
天正12年の正月上旬のこと。
上州白井長尾の家中には、百人衆と呼ばれる徒歩の侍の集団が有った。
その頃、真田昌幸の家臣であった沼田衆の林太郎左衛門、吉野太郎右衛門、吾妻衆の井上金太夫は、
私曲の事があって沼田を立ち退き白井に属し、白井においてこの百人衆に組み入れられた。
しかし、この3人はどうにかして昌幸に忠節を立て、故郷に立ち返りたいと考えていた。

この3人、談合してその事を昌幸家臣の高橋右馬充に伝えると、右馬充はこれを金子美濃に相談した。
金子美濃は「其方、上田に参り注進すべきだ。」と勧めたため、右馬充は上田に参り、丸山土佐守、
木村戸右衛門を通じて申し上げると、真田昌幸は大喜びした
「神妙のことである!卒爾無きように謀るべし!」
そして高橋右馬充は戸鹿野へと戻った

さて、かの3人は白井において、傍輩の者たちをたぶらかした
「沼田、戸鹿野には有徳(金持ち)の者が多い。夜討ちして金銭を奪い取ろうではないか!」
こうして130人ほどが申し合い、この林、吉野、井上を案内として、戸鹿野へと忍入った。

彼らが侵入し終わると、かねてからの計略通り、橋を外し、彼らを四方より取り巻き、討った。
突然の事に、瞬く間に白井の者達は120人余が討ち取られ、水練の達者の者5,6人だけが助かり、白井へと
逃げ帰った。

この忠節により、高橋右馬充には知行が与えられた。

(加沢記)




男であったら今弁慶

2016年03月15日 11:24

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 10:50:34.72 ID:wXXKRlD6
第一次上田合戦でのこと
小縣上田原染ヶ馬場に、徳川軍の大久保、鳥居勢が出撃し、真田信幸の軍勢と合戦と成った。
この時、真田勢は劣勢となり、昌幸は禰津助右衛門尉に下知して三百騎あまりを救援に向かわせる。
これに森右近の軍勢が二千騎あまりにてかかり来ると、救援軍の加澤世間兵衛は大薙刀を水車に回して
それと戦った。しかし鳥居軍中根の二百人あまりがこれに駆け寄り、加澤は取り囲まれた。

この時、加澤の妻が上田城大手の櫓より、敵に囲まれている旗印が、夫の用いるすわまに鷹の羽の紋で
あることに気がついた。

彼女はこの櫓に禰津主膳が置いていた馬に打ち乗ると、粥を飯籠に入れさせ、”はた織”という下女に
これを持たせ召し連れ、染ヶ馬場へと突撃した。

そして敵兵ニ百人余りの中に割って入ると、夫婦一緒に成って敵を四方へと追い散らし、
小高い場所へと上がって散らばっていた兵を集め粥を与え、殿して城中へと引き入れた。
この女房、城に帰って自分の体を見ると、鉄砲の弾が五つ当たっていた。

彼女は禰津の一族、別府閑斎の娘であった、父は信州において隠れなき剛の者であったが、
昌幸は「さすが別府の娘である。男であったら今弁慶とでも呼ぶであろう。」と賞賛した。
そして上田合戦が終わった後、小縣郡西田澤において五貫文の知行が与えられた。

(加沢記)



468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 11:49:52.95 ID:M7rnYvQk
>>467
無双キャラ決定か

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 12:32:37.76 ID:hyAM4yJg
>>467
粥食わしてる暇あるならさっさと戻れよw
あえて戦場で食べる示威効果とかもあるのかな。

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 15:19:14.78 ID:X083umLf
「お腹がすいてもう動けないよ~」的なアレだろ

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 16:16:42.85 ID:8+mdhNud
はた織もお粥持ちながら奮戦したんだろうな

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 16:31:22.71 ID:fCODIKy5
ふむ、前に見た上田真田を舞台にしてるアニメで
「一番いけないのはお腹が空いていることと、一人でいることだから」という
家訓があったがこれが元ネタだったのか(真顔

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 23:43:45.89 ID:bijnJOfb
てっきり熱々のお粥を敵兵めがけてブチ撒けるのかと思ったら、普通に食うのかよ

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 23:59:37.88 ID:hdMqxwPy
>>474
食い物粗末にする訳ないだろ、籠城の時に敵に浴びせるのは
熱々の糞尿と楠木正成の時代から決まってる

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/16(水) 00:59:29.18 ID:BOz2xNr+
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3356.html
真田や楠木の粥云々は前に色々話題になってた

室我入道謀殺

2016年03月14日 18:31

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 17:54:03.61 ID:Yc5G3ZeV
天正壬午の乱の結果、信州一国は徳川家康に属することになったが、ここで天正11年6月、
真田安房守昌幸は国中を従えんと企て、先ず室賀を討つべしと一門を一手に引き連れ
室賀の館に押し寄せた。

しかしこれに、室賀兵部太夫(正武)は自ら打って出て、篠山において火が出るほど激しく戦い、
互いに多くの郎党が戦死したため、双方ともに引いた。しかし翌日、真田は再び取って返して押し寄せ、
これに室賀より和睦を請うてきたため、これを許して帰国した。

室賀入道は真田に従属したことを無念に思い、翌天正12年6月、高井彦衛門尉を通じて
遠州の徳川家康に訴えた。これに対し家康は、「謀を以って真田を討つべし」との返答を得た。
室我入道はこれに大喜びし、それから上田に見舞いに参ること甚だ頻りとなった。

ある時、上方より囲碁の上手が上田へと参り、これに室我入道は招待された。
室賀は「よき時節なり」と考え、日限を定め、一門の室賀孫右衛門を以って
「来月7日、真田の居城に囲碁に参りますが、この時真田昌幸を討ち取ります。
ですのでご加勢下さるように。」
と、徳川家臣の鳥居氏に申し送った。

ところが、この室賀孫右衛門は内々真田昌幸に通じていたため、その書状を直に上田に持って行き、
その内容を語った。真田昌幸は大いに喜び、孫右衛門を馳走して反した。

一方、室我入道は全てうまく行っていると思い、家の子である桑名八之助、相澤五左衛門尉、
堀田久兵衛などを従えて上田に参ると、昌幸は兼ねて用意してあった通り、書院に招いて
囲碁を始めた。
この時、長野舎人、木村戸右衛門が討ち手に決められており、合図を出すのは禰津宮内太輔、麻利子藤八郎、
長命寺、安楽寺であった。

長野、木村は次の間より太刀を抜き出し、室が入道を無常にも殺した。
室賀の家臣である桑名、相澤、堀田はこの騒ぎを聞くより早く殿中に斬り入り、散々に戦った。
しかし、たとえこの3人が項羽の勇を顕したとしても、多勢に取り巻かれ、最後には生け捕りにされた。
この3人は後には心を変じて真田に仕え、無二の忠を成した。
この時、桑名八之助は深手を負った。

室賀の妻子たちはこのことを聞くと、取るものも取りあえず早々に甲州へと落ちていった。

(加沢記)



真田昌幸の娘の行方

2016年03月10日 11:36

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/09(水) 18:50:21.20 ID:Ya1EF9Tr
※大河の今後の展開のネタバレが入っていると思われるので注意して下さい


本能寺の変が起こってから、真田昌幸が安土に出した人質である娘の行方は全く解らなくなり、
昌幸の御母堂の嘆きは止まること無かった。
真田の一門、家老の人々は日々集まってこの事を協議した

「この事、行方は覚束なく、落涙する外無い。しかし信長公の御台様や公達は、日野という所に
蒲生忠三郎が忠義を以って引き取り、御扶育されているとのこと。もしや姫様もそちらに
ご一緒しているのではないだろうか?」

「いやいや、未だ織田に対してさほどの忠節を見せたわけでもないのに、その人質を日野まで
伴っているだろうか?ただ、傍若無人な者の手に渡り、いかなる御身に成り果ててしまっているか…」

とにかく人数を出して探し出すより他無いと、手分けして尾張、近江、遠江、三河、甲斐、駿河の
6ヶ国の在所在所を草の根を分けて手の及ぶ限り探したが、やがて豊臣秀吉の時代になり、世の中が
静謐となってもその行方はわからなかった。御母堂は片時も彼女のことを忘れず、嘆きは深まるばかりであった。

さて、彼女が行方不明に成って翌年の春、真田昌幸が上洛した折、桑名の渡守の所に真田家の下郎達が入って
休息していると、20歳ばかりの女房が走りきて聞いてきた

「今日、御上洛の殿様は何という大将で、国は何処でしょうか?」

「これは信州真田殿の上洛だ。」

これを聞いて女房はさめざめと泣いた
「信濃とは懐かしい。私も信濃の者ですが、いささか仔細があってこの国に有ります。
ですが本国ですから母を一人持っています。在所は上田の城…」

そう言いかけたが、言い直し
「上田の城町の喜兵衛と申す者の所に、これを届けて頂けないでしょうか?」

そう、紙包みを一つ渡した。彼らは下郎であったので、とくに何も考えず「心得たり」と懐に入れ、
帰陣まで何もせず上田に持ち帰った。
そして『城町の喜兵衛』という人物を尋ねたが、上田の城主(真田昌幸)の名が喜兵衛であるため、
外にその名を付けているものは一人もなかった。

この事、追々足軽大将に聞こえ、彼が預けられたという紙包みを開いてみると、まさしく姫様よりの
御文であった。早々に山田文右衛門に渡し、そのまま奥方にさし上げると、喜ぶこと限りなく、
すぐに桑名へと人を遣わし、渡守に褒美を与え、彼女を向かえ取った。
渡守は安土の乱の時に彼女を奪い取ったが、大切に思い深く隠し置いたのだという。
浅ましい話で、2年間の憂き目のほど、思いやられていたわしく、聞く人ごとに哀切の気持ちは増した。

彼女は後に、小山田殿の御内室になった。

(加沢記)

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/09(水) 21:23:18.02 ID:IAi8UN//
おやまだ結婚してなかったのか

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/10(木) 01:27:53.74 ID:rGWTfnmK
座布団どうしようかなぁ

信幸は武勇の大将であり

2016年03月09日 18:20

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/08(火) 19:07:16.92 ID:lZNfxQ9T
織田信長による甲州征伐が進行する中、武田勝頼は新府城に到着すると、武田から寝返った
不忠の者達の人質は、あるいはハタモノ、あるいは獄門と、三族ともに成敗し、忠信の人々の人質は、
それぞれに形見として返還し、杯など下して本国へと送った。
そして真田昌幸の嫡男、源三郎信幸を召し出して言った

「お前の父、安房守の今度の忠信は、草葉の陰までも忘れがたいものである。私が小山田の申す所を用い、
このように成り果てたのは神慮にも放たれたということなのだろう。昌幸は私を、不甲斐ないものと
思うことだろう。
どうか、お前の母と弟、その他一族の人質をつつがなく引き取って帰り、末まで繁盛せよ。」

そして御杯を下し甲州黒と名づけられた名馬一匹、金作りの太刀を与え涙にむせびつつ「これまでである」と、
忝なくも広縁まで見送り、「若年の者、落人として生け捕りにされることがあるかもしれない。」と、
自身の人数から数十人を付け、5,6里の間彼らを送るよう命じた。誠に昌幸の忠義に感じ入ったため
致したことであった。誰もがこのようであるべきなのに、相伝の主君に弓を引き逆心を企てるような
心意は、神慮もきっと憎む事だろう。心ある輩はこれを感じて、みな涙を流した。

真田家の人々は3月5日に新府城を引き払い信濃との国境へと向かうと、ここかしこより甲州の落人を
剥ぎ取ろうと、盗人共が寄り合い同類を集め、百人二百人ずつ待ち伏せし、鬨の声を上げて討ってかかってきた。

真田信幸、この時17歳。弟藤蔵15歳、源五郎7歳、信幸の姉18歳、矢沢殿の娘、祢津殿の娘、
室賀殿の娘も同行して下っていた。
信幸は先陣に進み、続いて御母堂の乗物と続き、山田文右衛門が殿をしてその勢男女二百余人、
信幸は一揆共を追い払い、鳥居峠につくと人馬の息を休ませた。しかしこの事はすぐに盗人共に知られ
「よき物取りが出来る」と、信州のスッパと上州・武州のワッパ共集まり、一千余人、峠の麓の
小松原に潜み、坂中にて鬨の声を上げると、百千の雷もこれには過ぎぬと、恐ろしさのあまり
母親は信幸に訴えた

「敵は多勢、この方は無勢。そして京まで3日の間の道中にての、昼夜度々の戦にて手負いも多くあり、
多くは疲れ果てています、なまじ戦って雑人の手にかかるよりは、私は自害しましょう。それから
あなたもお腹を召しなさい。」
そう涙に咽んで語ったが、信幸は武勇の大将であり、謹んで母親に言った

「あの程度の一揆、たとえ百万騎あろうとも物の数ではありません。お心やすく思って下さい。
只今彼らを追い払い、安々と国元までお供いたします。」

そして鎧の上帯を締め直し十文字槍を持つと、勝頼より賜った甲州黒に打ち乗り、さも勇々とした態度で
控えた。母親も鎧を着、白綾を畳んで鉢巻にし、志津三郎の打った薙刀を小脇に手挟み床几に座った。
真田信為(信繁のことか?)も緋縅の鎧に鍬形を打った兜の緒を締め、弓を引き、敵がかかれば討ち懸からんと
母親の脇に控えた。

信幸は五反斗乗り出し一揆の様子を観察し、真田の男女200人の一行を3手に分け、先陣を山の并びに
50人、母親の所を旗本として100人、手回りに50人を従え、信幸は言った
「この山陰から麓に廻り貝を吹きたて、50人を二手に分け、喚きながら峠に駆け上れば、敵は盗賊の
奴原であるから、我々を尾張勢と勘違いして散々に逃げ去る事間違いない。ただし、もしこの作戦を
敵が悟り、戻ってきて戦うことになれば、この山上の岩窟に母上を引き上げた上で戦うべし。」

こう評定し山陰に廻ると、そこには鎧武者10騎ばかり、人数7,80人が忍びやかに細道を登っていた。
信幸は、これは敵が後ろより来たのだと思い、配下の50人のうち1人を農民の出で立ちにして物見に
行かせたところ、それは信州より信幸たちを迎えに来た人々であった。
「これはなんということか!」相互に大喜びし、一行はすぐに信幸の元に向かった
「この峠に差し掛かり、遠見を出したところ鬨の声が頻りに起こり、その軍勢は雲霞の如くでありましたので、
この山陰を廻ってきたのですが、これこそ天の与えた幸運でした。」

こうして彼らも信幸の共に属し、麓に下り貝を吹き、鬨の声を上げると、案の定一揆勢は四方八方に
逃げ散り一人も残らなかった。

それから母親らの人数と合流したが、信濃国は信長の尾張勢がここかしこの城要害に押し寄せ兵乱の
最中であり、通行も難しいということで、ここより輿を捨て、母親をはじめとした女性も男の出で立ちにて
通るべしと、皆甲冑姿と成った。
(加沢記)

参考
真田信之の脱出


444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/09(水) 09:57:20.30 ID:JZptPlK9
>>441
大泉洋と堺雅人が浮かんで来てコメディーになってしまう

おしき武士を討ってはならない

2016年03月01日 10:45

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/29(月) 22:33:38.22 ID:T189vIaX
武田家の滅亡後、真田昌幸が室賀兵部を攻めていた時のこと。
室賀の城より、6尺(約180センチ)あまりの大男がただ一人、5町(約500メートル)ばかり出て
物見をして、馬に乗って帰っていった。

これに、昌幸の配下である大熊五郎左衛門の足軽が一人追いかけ、「逃さじ!」と声を上げたが、
この武者は少し振り返っただけで、そのまま静かに退いた。

その姿を見た昌幸が左右の者達に「あれは何者ぞ!?」と尋ねると、何れも
「あれこそ聞こえる、松澤五左衛門です!」と申し上げた。

彼を追いかけていた足軽は、3町ばかりの内に追いつき、斬りかかった。
五左衛門、手を差し伸ばしてこの足軽の髻を掴んで引き伏せ、足で踏んで首を掻き落とし、
田の中へ捨てると、何事もなかったかのように再び退いた。

これを見た真田勢は何れも槍を押し取り馬に打ち乗り五左衛門を追いかけようとしたが、
昌幸は采配を以ってこれを止めた

「室賀は小身者である。おっつけ踏み潰して私は、あの五左衛門を我が手に付けるであろう。
おしき武士を討ってはならない。」

その言葉通り後年、松澤五左衛門は真田の臣となった。

(名将言行録)



403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/29(月) 22:54:14.29 ID:Nzh5sqjC
真田丸のおかげで室賀という名前に聞き覚えがある
信濃の豪族衆で昌幸に突っかかる小物って感じだけど

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/01(火) 05:28:41.27 ID:w14DspfW
>>403
黙れ小童!の印象が強すぎて強すぎて…

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/01(火) 07:53:07.53 ID:S6X9nm2V
童貞に見えた

役者共に守らせて済ませるべきである

2016年02月29日 22:05

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 21:45:38.54 ID:O8pFZG4m
真田信之曰く
「農民、商人の人質を取り置くところには、焼草を置き頭(かしら)一人を差し置き、
能役者などを付け置いて、変あらば火を掛けさせるようにするべし。
その程度のことは長袖にても出来ることだ。

今の大名は、役者を抱えるのにその芸ばかりを吟味している。
尤も、役者を持ち抱えるのは大名役ではあるのだが、雑人の人質の番に
能き士5人10人を付け置くなど不本意なことだ。頭さえしっかりとした武士一人を置いておけば、
役者共に守らせて済ませるべきである。

しかしながら役者にも、例えば保生太夫は大阪夏の役に、小笠原秀政の手に属し出陣し、
比類なき働きが有った。之などは掘り出し物である。」

(名将言行録)



392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 23:21:03.92 ID:4pDtWCD/
>>389
金春安照と北七太夫は真田隊にくっついていたらしいけどたいして働きなかったのかね

【雑談】我が両眼昌輝説?

2016年02月29日 22:04

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 22:05:32.20 ID:/ZYhmTFD
真田の逸話が出た所で聞いてみたいんだけど
武田信玄が「我が両眼なり」って評した逸話について
どうも真田の方は昌幸説と昌輝説があるみたいなんだけど
昌輝を指してる文献って知ってる人居る?
正直昌輝説って初耳でwikiとかに乗ってるようだが出展乗ってないんだよね




391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 23:01:23.74 ID:vxlJIPkF
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/899828
近代デジタルライブラリー版の甲陽軍鑑のp145の右側のページだと
ちょうど潰れているけど
曽根内匠、真田喜兵衛
のことを信玄は「両眼」と呼んでいる。
甲陽軍鑑以外に「わが両眼」の出典があると聞いたことはないが
ほかの甲陽軍鑑のバージョンがあるのかもしれない
しかしwikiに真田昌輝を指した、てソースが示されていないなら、昌幸と考えたほうがいいような

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 23:51:06.40 ID:YYM3tdLp
ヤフー知恵袋で10日ほど前に両眼の質問があった
http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q14156041644

小和田泰経の三増峠についての戦いの解説に載ってる可能性があるそうだからそれに出典があるかも
しかし、確かに今川・北条との戦いで伊豆侵攻してた時に昌幸がいたら
大河で「儂は海を見たことがない」と言ってるのがおかしくなるな
脚本家がどこまで考えてるかは知らないが

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/29(月) 00:05:08.83 ID:nrh/V1rV
ありがとう。やはり軍艦だと曽根内匠と真田喜兵衛だよね
wikiの記述は以下の通りなんだが

>小姓として武田信玄に近侍し、器量を見抜いた信玄により、
>有力武将の子弟が任じられる「百足衆」に抜擢される。信玄に常に付き従い、
>「一之先衆七千」を務め、「兵部は我が両眼なり」とまで言わしめたという
>逸話が残っている。現在の本で、弟の昌幸が「我が両眼なり」と称せられたかのように
>記載された書籍があるが、それは誤認であり、「我が両眼なり」
>と称せられたのは、兄である昌輝の方である。

現在の本では誤認と言ってるがまず何の本か明記してないし
この記述だと兵部昌輝一人が両眼と言ってるように読み取れる
甲陽軍艦以外にこの記述が無ければ編集者の先走りかそれこそ誤読の可能性高いかな
wiki以外にも昌輝だとする記述があるけどwikiを見て書いてる可能性もあるしな

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/29(月) 02:23:53.59 ID:20JiABHD
昌輝のwikiには「兵部は我が両眼」とある、まずこれを探そうか
軍艦だと喜兵衛だしな、軍艦よりましな資料なんだろう

真田信之は倹約の人であった

2016年02月28日 19:14

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 18:18:01.46 ID:8Qb5qlMK
真田信之は倹約の人であった。そのため、人々から彼は金を集めていると称されていた。

彼が家老の宅に臨むとした時、家老より、何を支度すべきか尋ねると、信之は用意すべき品物
一つ一つを大積りに値段を書き取り、
「本来そちらに行くべきなのだが、難しい事情があり訪問できないので、必要な経費を
金納せよ。そうすれば、殿中にて慰みにいたすであろう。」

こうして信之は毎年このように金にて差し出させた。しかしこれは、その邸宅に訪問することより
物入りが少なかったため、下々喜び、金はますます増殖した。

ある日、信之が近臣たちに「どうして私が吝き沙汰をすると思うか?」と尋ねたところ、
何れも「お金を集めるためでしょう。」と申し上げた。これに信之は

「私は関ヶ原陣や大阪の両陣も勤め、そこで覚えたのは、士卒を励まそうとしても、
下知ばかりではなかなか励まない、という事だ。
金銀を快く遣わしたうえで下知しなくては、合戦は出来るものではない。
だからこそ、武士は金銀を大切にすべきなのだ。」

(名将言行録)



388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 22:32:16.67 ID:RHe8pw1e
大坂の両陣?
活躍したのは息子たちや義理の弟や実の弟のような

一度後れては3年失せぬ

2016年02月26日 17:14

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 14:59:51.90 ID:BOOoXAE2
島原の役の時、真田信之細川忠利にこう言った
「今回、板倉内膳正重昌が討ち死にした事で、敵を急ぎ踏み潰すためにあなた方を
遣わされるようですが、ただし、手間取って思ったようには成らないでしょう。
そのように心得ておくべきです。

私が昔、忍城の成田氏を攻めた時のことです、
軍勢は勇まず、下知を聞こうとしませんでした。帰陣した後、私は父の安房守(昌幸)に言いました
『あのような腰抜けばかりを選んで私に付けられたので、今度の合戦で勇まないのです。』
安房守は怒って申しました
『若輩者が!何を不智な事をいうか!?それはお前が、去年合戦で後れを取ったためだ。
一度後れては3年失せぬものである!』

今度の島原も、内膳正は討ち死にし、軍勢は損害を受け、みな恐怖心を持っているでしょうから、
軍勢は勇もうとしないでしょう。であれば、手間取ります。
その分別をして、ご出陣すべきです。」

(名将言行録)



239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 15:29:09.86 ID:wJbS32Th
そりゃあ総大将がアレですから

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 16:05:21.65 ID:linV+D2a
>>238
小童!ではないのか。

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 17:55:57.98 ID:DxkpIThN
去年合戦で遅れをとった、て名胡桃城取られたこと?
信幸に責任あったっけ

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 18:23:49.08 ID:rVEZlCrD
沼田の責任者だからだろ

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 18:34:42.29 ID:vERWSTmf
そのお陰で北条攻めの名分が出来たのに…

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 12:16:09.29 ID:fqUtjaJs
>>242
その時沼田は小田原に割譲済だけど?

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 12:27:16.72 ID:nDdVzJi9
つ名胡桃

金の馬鎧

2016年02月25日 19:10

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 19:32:41.00 ID:OZ8/vebl
天正の初め、武田軍は中山、上野の尻高、中山、白井の諸城を攻め、真田勢もこれに随身した。
しかしそれらは屈強の要害であり、吾妻勢は度々利を失った。そこで真田昌幸は、
忍を入れて城を焼き落とすべしとして、唐澤玄蕃にこれを申し付けた。

唐澤はこの旨承り、割田新兵衛尉を相語らい、尻高城に忍入り放火した。

中山城に忍入った時、城主の中山安芸守は鼓を打って酒宴をしていた。中山は鼓が非常に下手であった。
百のうち一つもまともに鼓の音を出せなかったので、世の人は『中山殿の鼓にて百一つ』と語り合っていた。

そうして夜もふけ、皆寝静まり夜廻のものも油断した頃、唐澤玄蕃は中山城の納戸に忍入り、ここかしこを
捜索していると、金の馬鎧を発見した。これは畢竟の事だと思い、放火せずにこの馬鎧を盗みとって
帰陣した。

この馬鎧は、中山安芸守が、関東管領・上杉憲政の元に出仕した時拝領したもので、それを今度
唐澤に取られたのである。

唐澤玄蕃は一本気な若者で、その後合戦があればこの馬鎧を着けて出陣した。
ある時、西上野に出陣した折、唐澤は真田の軍勢に属していたが、これが信玄公(原文ママ)
の目に止まり、真田信綱を召して「あれは信州松山合戦の時に見た馬鎧だ」と仰せになった。
その頃は乱世であり、金の馬鎧など見ることは殆ど無かったという。その時「あれは何者か?」と
お尋ねになったので、「唐澤です」と申し上げた。このため、唐澤玄蕃は不意に高名を上げたのである。

(加沢記)

加沢記より、真田の忍・唐澤玄蕃のお話。後半の信玄は勝頼の間違いですかね?



377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 20:26:08.23 ID:IqQWvIY0
唐沢玄蕃といえば、
歴史秘話ヒストリアの真田昌幸・真田信之回でこの話をやってて、
金の馬鎧に目を輝かせて思わず盗んでしまう、おちゃめな忍者として描かれていた
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唐澤