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『三村山清冷院極楽寺炎上の話』

2010年10月21日 00:00

866 名前:長永[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 06:15:14 ID:12cbe6vc
>856に関連する逸話。


『三村山清冷院極楽寺炎上の話』
■まず、小田の農家の家に代々伝わっていた写本の写しより。

元亀三年十二月、かくて木枯らしの吹き荒ぶ大晦日
車丹波の配下、溝口内記と瓜連の館主坂口出羽守は、五百余の手兵を以って
一百余頭の牛角に、油布を付けた松明(たいまつ)を結びつけ、火をつけて山上から
追い落とした
牛火の群れは三村山清冷院極楽寺目指して馳せ下り、火は忽ち寺院の建物に燃え移り、
尼僧々兵達多く焼死し、荘厳を極めた堂塔伽藍はことごとく烏有に帰した。
院主も火中に死した。

■内容は大体上と同じだが、違う家に残る話でやや詳しい方、
元日の未明、小田城には千田刑部、車丹波守,佐竹弾正らの一隊入城し、
千田刑部は、大島で味方の江戸山城守と合戦中である。車丹波の一隊三千騎は宝鏡山鬼ヶ峰
を通り、車丹波の一部将、瓜連の館主坂口出羽守は牛の角に火油の棒を縛り、裏手口の
山頂から牛を追い落として清冷院極楽寺を焼き討ちしたので、院主は火中で死んだ


これらの伝承や、三村山や清冷院という名称には多少謎などがあるようだが、以降の話に
あまり関わってくる訳でもないので、>858さんの意見を聞き端折りますよ。
気になる人は現地でご調査下さい。


…てなことで、『逸話』らしい話はこれで終了です。
あとは、逸話というか謎解き。
現地調査や、小田研究を元にしての、知られざる小田家に迫るとかの感じでしょうか。
氏治様や小田城の謎が解けるはず。




867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 06:17:32 ID:QNENPx5+
氏治さまは堀越公方の孫だものな
プライドやこだわりは人よりも強そうだよね

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 15:10:32 ID:3ap6Aa5E
>>866
春秋戦国の田単、倶利伽羅峠の木曽義仲、以外にも「火牛の計」の話があったんだ

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 16:34:06 ID:MQxHISEF
>>880
淡河定範「私の作戦はその斜め上を行くがな」

883 名前:長永[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 18:59:16 ID:12cbe6vc

>880
T氏を含め研究家は皆、『火牛攻め』というのがいかにも伝説くさいと思うところらしい。
しかし、民間の文書とはいえ、二箇所から出ていることを考えると、兵火による寺院消滅の可能性は
十分あると言って良いだろうとのこと。
ただ、歴史研究家は、この民間伝承以外で「寺院が佐竹氏によって滅ぼされたという文書的な証拠は無い」とし、
更に『三村山清冷院』という名称も資料を集めても出てこないことから、全てあくまで『伝承』止まりのものと扱っているという。
物的証拠としては、初めてこの寺院跡を調査した、江戸後期の学者・長島尉信が発掘で見つけた古瓦の文字を調べ、
『一、曰三村山、一、曰、清冷院、一、曰、楽寺』
(※ひとつ、いわくで始まる。極の字は欠けているものと彼は記している)
と記されているものを発見しているが、現物が今に伝わらず、証拠と認められていない。

とのことです。

『こだわる理由~小田の可能性~』

2010年10月21日 00:00

869 名前:長永[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 09:58:42 ID:12cbe6vc
『こだわる理由~小田の可能性~』
氏治様が小田城にこだわっていたのはご存知の通り。
しかし、佐竹等もこの地にこだわっていた。だから何度も争奪戦が繰り広げられたのだ。
統治も面倒ならいっそ放っておけば良かったものを。
氏治様がこだわるのは『先祖代々の土地ゆえに』でも通るが、他の方々は一体どんな理由からだったのか?

その理由は、実のところ当時の小田領のスペックは異常で、『常陸の中心』,
『小田を征する者が常陸を征する』という考えが、恐らく存在したからだという。

…現在の小田を見ると、『これで中心とか?地元贔屓バロスw』と思ってしまいそうだが、
戦国期よりもっと以前の資料から以下の事が分かっているという。

今でこそ淡水である霞ヶ浦だが、ほんの昔までは海水の入る海であり、『香取の海』と呼ばれていたという。
しかも、霞ヶ浦は太古の広さから少しずつ規模が縮小されて今の姿となっており、1300年頃
は小田城のすぐ横まで水が来ていた。

その霞ヶ浦の『海辺』へ、小田氏四代時知と極楽寺の忍性が協力し、何十という箇所に港を作った。
この港には、鎌倉をはじめ全国から船の往来があり、この地に居ながら全国の特産物等が手に入ったという。
これに加え、忍性の手引きにより奈良から農業,水利,鋳物,石工,大工といった様々な技術者
がこの地に移住し、その当時最先端の技術が小田領の産業を発展させた。
それらは居城の小田城を中心としており、当然利益・産物が集中した。
小田城下には、港と先の産業からなる商業地、小田家臣団の屋敷などの建物が建ち並び、
かなりの規模の城下町を形成していたという。

その上に、更に立地的な利が加わる。
小田の地は、海があり,山があり,平野がある。
米が採れるのは勿論,米が不作だろうと、海の幸,山の幸,港に来る船からの特産品と
いうように、いくらでも代わりがあって物が豊かであった。
海は内湾形状の為、外海よりも荒れる事が少なく舟を出せる日は外海より多い。また当時『鰐魚』、
つまりサメが捕れたという資料があり、塩分濃度も十分だった。
筑波山を挟んで北は雪が降ると根雪になるが、南の小田側は晴れれば溶けてしまい、冬が厳しくなかった。

これらのことから、小田へ行くことを『小田へ上る』と云われたという。
…とのことで、小田の地のスペックが高かったから、周辺勢力も小田城を重要視したということ。
また、氏治様があれだけへ負け続けても滅亡しなかったのは、こうした経済基盤があったことも理由の一つだろう。



871 名前:長永[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 10:41:03 ID:12cbe6vc
…これは>869のことの与太話です。

先のスペックを持ったという割に、以降の佐竹は大して旧小田領に入れ込んだ様子が無いように見える。
と思いきや、茨城内、特に佐竹家の研究家内で話されているこんな論があるという。

『関ヶ原後、もしも秋田に転封される事が無ければ、佐竹の居城を小田に移す計画があったのではないか?』
というものだ。

小田城を得た佐竹は、梶原政景や佐竹一族の小場義成などを城主に据えており、佐竹の本拠になどしていないが、
これは先の寺社の件や、領民の事でごたついた状況を収拾させる為で、基盤を作らせる目的で置いたのだという。
関ヶ原前の不穏な状況で、無闇に居城を移す訳に行かず、結局転封で水泡に帰してしまった。
この転封がチェックメイトとなり、旧小田領は以前の繁栄を取り戻すことは二度となかった、という次第。

T氏からは『論』としか聞いていないので、裏付ける資料とかは不明。




872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 10:41:43 ID:43KRfXwM
>>869
なるほど、小田の人々にとってみれば佐竹とかに支配されると小田の富を佐竹の本拠など他地域に
奪っていくだけで地元には還元されないだろう、との読みもあって氏治様贔屓だったのかも、とも思えますね。

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 15:07:56 ID:WpVQgK5w
>>869
北畠親房も船で小田城に行ったのかも

883 名前:長永[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 18:59:16 ID:12cbe6vc
>879
そうらしいです。T氏との話で出たと思います。
昼間の間は浅瀬の岩場か、海草が生えるような所で顔だけ出して夜を待ち、夜間のみ舟を漕ぐ
…というのを繰り返して小田城に辿りついたとか。
後で、昔の小田城のイメージ図(小田休憩所にあったもの)をうpするので、
小田城と海が隣接していたというのを見てみて下さい。

『小田の色を無くせ!』

2010年10月20日 00:00

856 名前:長永[sage] 投稿日:2010/10/19(火) 18:59:31 ID:zXTYNNnz

見事なまでに戦に負け続けた氏治様だが、
氏治様ウィ-ク火付け投下の、『「天才的な戦下手」小田氏治http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3174.html
(※これは自分の投下した逸話ではございません)
などから、実に領民達から慕われていて、なかなか滅亡しなかったというのは既に周知のはず。
T氏は、上の『新しい領主に年貢を納めるのを拒否し、氏治の元にだけ年貢を納め続けた』という話は
ご存知でなかったが、確かに小田の領民はとにかく佐竹らには懐かなかったらしいと、
これに関連する逸話を教えてくれた。

小田城のすぐ近くには、有名な筑波山があるが、その隣、もっと小田城近くに宝篋山(ほうきょうざん)
という山がある。
この山には、鎌倉時代の名僧・忍性に関係深い極楽寺を中心に、寺社が全山&麓に建っており、
大小180を超すという堂塔が建ち並んでいたという。

それほどの寺社群が今はほぼ全て消滅し、遺構だけが無数に残っている。
しかし、その消滅時期は公式見解上では不明とされており、戦国期か?江戸期だろうか?という状態である。
その寺社群消滅に関する、こんな逸話がある。


『小田の色を無くせ!』
それは幾度目の合戦の時のことだったのか…。
恐らくは、氏治が最後に小田城を追われた合戦の後。
勝利した佐竹軍将兵へ、佐竹当主より命令が下った。

『この地より小田の色を無くせ!』

…それはかなり徹底的なものだった。

『宝篋山より寺院・神社は総退去!全て破壊し、小田の家紋を一つも残すな!!!』

これに従わない寺社は佐竹軍により容赦なく焼き討ちされ、
退去に従った者達も、別に佐竹家が移築支援する訳でなく放り出され土浦周辺に逃げ延びた。
(土浦に逃げた氏治を追ったのか…?この時逃げたという寺社が、土浦周辺に新たに居を構え、
今も残っているという)
人を追い払った後、建物は壊され、小田の家紋の入っていれば墓や石塔などの石造りの物まで全て破壊された。
これにより、300年以上の歴史を持つ宝篋山・極楽寺寺社群は消滅してしまった。


…とのこと。
今更言うまでもないが。この時代にそんな大規模な宗教施設破壊をすれば、かえって一揆などの大反発を起こされても
文句を言えない所業である。信長や宗麟のそれの様に
佐竹義宣による宝篋山・極楽寺寺社群焼き討ち事件』
とでも周囲に悪評が上りかねない。
…結果的に、これによる一揆などは無かったようだが、例えそういったリスクを負ってでもやらないといけない程、
小田統治には難渋していた、ということを示しているのだろう。

ちなみに、この宝篋山と寺院・神社群にはまだ重要な事が隠されており、関連する逸話がもう一つある。
取りあえずそれは、また後程投下したいと思います。




857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/19(火) 20:51:52 ID:0ZhJFIrI
ヒャッハー、小田は消毒だー(AAry

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/19(火) 21:56:35 ID:Y3sMvntd
>>856
坊主が領主に義理立てするのって珍しいと思う。
それほど小田さんは領民に対して居心地のいい国づくりをしてたのかな?
どんな統治をしてたんだかすごい気になるな。

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/19(火) 22:03:27 ID:LxveChbw
親父の遺産だよ

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/19(火) 22:47:04 ID:Y3sMvntd
ちょっと小田さんのまとめ読んできた。
統治に関しては完璧な勘違いでした。

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/19(火) 23:40:30 ID:uNWMaIa6
小田を降伏させて小田領を統治させれば良かったんじゃなイカ

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/19(火) 23:50:03 ID:bE8SuOQz
当然それくらいのことやってるけど
小田さんすぐ寝返っちゃうから結局追い回すしかなかった。

雑談・天庵様の肖像画

2010年09月23日 00:01

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/22(水) 00:29:07 ID:U7aDOytk
天庵様の肖像画発見。凛々しい顔をしていらっしゃる。
http://img.f.hatena.ne.jp/images/fotolife/m/mirainodaifugoo/20100904/20100904103615.jpg
http://f.hatena.ne.jp/mirainodaifugoo/20100904103615
小田氏治02


155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/22(水) 00:38:29 ID:DQ4ebLos
いかにも他人の言い分を聞かなさそうな人に見える

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/22(水) 00:39:22 ID:DQ4ebLos
あ、でもなんで肖像画なのに猫が?

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/22(水) 00:39:52 ID:MruxQVNP
説明文の一切つかない謎のぬこ
元祖ネコ好きだったと考えるほかはない。

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/22(水) 00:49:15 ID:JV0WCY0n
手前の猫が小型のトラみたいで格好イイです

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/22(水) 00:55:54 ID:aU4Nztn/
三楽斎が犬なら、俺は猫を使う!
・・・あれ?まったく言うことを聞かないorz


というのが目に浮かんだ

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/22(水) 00:58:56 ID:Jor65R7C
手前のネコが天庵の本体
後ろの人は影武者

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/22(水) 03:39:28 ID:bZuFwRHR
猫がすごいかわいいけど負け戦続きで安心して暮らせなそうで不憫

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/22(水) 07:27:57 ID:juJVYHWJ
>>159
なぜか天庵様も、周りの言うことを
聞かなかったりするんですねわかります

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/22(水) 08:19:15 ID:GEHOjsbd
つまり・・・

天庵様:のび太  猫:ドラえもん→菅谷さん ってことだろ?


164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/22(水) 09:46:51 ID:3er229ja
スネオ+出来杉→三楽斎

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/22(水) 09:52:26 ID:miO93hCp
何の説明もなく猫がかかれるということは常に猫が周りにいるタイプか。

はっ…現法王様

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/22(水) 09:55:09 ID:TJQAxPaR
犬好きとはいえ道灌の話知らん訳ない三楽が猫邪険にするとも思えんし
どう転んでも猫はのんびりしてたんじゃね

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/22(水) 14:37:17 ID:8zSTHjst
寺なんかの文書を扱うところではネズミを避けるために猫を飼ったというが
古典でも、だいたいえらい人のペットって猫だよな

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/22(水) 16:25:36 ID:bPRGASxJ
>>170
光孝天皇・宇多天皇以来の伝統だな

墨のような毛色、寝てる姿は壁のごとく歩く姿は黒竜のようだよ
他の猫よりよくねずみ捕らえるよ
でもねずみ捕らえるから好きな訳じゃないんだからね、
単に先帝に貰ったから世話してるだけなんだから勘違いしないでよね!

全く日本のツンデレ文化ってのは根が深くて困る

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/22(水) 17:52:35 ID:qP6kmNT5
そんな所で猫飼ったら柱とか古文書で爪研ぎしそうな気がするが。

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/22(水) 19:03:44 ID:gFij+Q+a
>>172
  ∧,,∧
  (,,・∀・)
~(_u,uノ  こいつらティッシュとかめちゃくちゃにするよね

手這坂合戦の後日談

2010年09月06日 00:00

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 23:30:42 ID:BHBgJwmz
手這坂合戦の後日談

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3299.htmlの手這(手葉井)坂合戦で、小田家執権・
信太範宗の諫言を無視した小田守治とバカ息子の尻馬に乗った小田氏治は、テンプレ通りの負け戦
に終わった。
簡単に振り返ると目先の梶原政景憎さで周りが見えない守治に対して、「このまま対陣していては
挟み討ちにあうから小田城に帰還しましょう。」という範宗の諫言に対して
「うるさい。政景の首を見ず引き返しては小田は笑い者になる。梶原ごとき小敵相手に軍法知略は
無用である。」「むむ実に頼もしき息子じゃ。」と見事に無視されたのであった。

信太範宗は「守治公では小田家の社稷を保つ器量はない」と腹心に語り、病気療養と称して居城で
ある土浦城に引きこもってしまった。
小田家と言えばみんな大好き菅谷氏が有名だが、信太氏は小田家家臣では執権を務める筆頭家格で
それだけに小田家にとって深刻な問題となった。

一方、引きこもりの範宗に対して「逆意あり」と考えた氏治は菅谷政貞に範宗征伐を命じた。
しかし、「謀反の証拠もないのに兵を差し向けるのは性急に過ぎる。ここで内紛に明け暮れていて
は佐竹の思う壺でしょう。」と難色を示す政貞に氏治は策を授けた。
「そういえば、ワシは小田城を取られるたびに藤沢城に転進しているが、この藤沢城って実は要害
とはいえないんだよな。それに引き換え範宗の居城である土浦城は要害だからあの城を拠点にしたい。
範宗にこう伝えよ。『謀反の意思がない証拠に土浦と藤沢のトレードに応じろ』とな。」
早速使者が土浦城に送られるが、
「手這坂の合戦以降病気療養中である。謀反の気持ちは寸分もないが、先祖伝来の土浦城を譲る気
はまったくない。」と返事がきた。

「もういい。き奴の逆意は明らかだ。信太範宗を討つ手筈を政貞に任せる。」
さっそく策を練った政貞は、氏治にいつわりの無礼を働き氏治は政貞に蟄居を命じた。
いつわりの蟄居を命じられた政貞は、
「氏治公は武運を傾ける大将であのバカ殿に仕えるのは愛想が尽きた。しかし、菅谷単独では小田家
に太刀打ちできない。そこで、信太殿もそれがしの謀反に加盟して頂きたい。」と範宗に使者を送った。
それに対して範宗はあっさりと応じ、「ともかく二人で謀反の密談をしたい。」というはこびとなった。
二人は月見の宴にかこつけて密談を交わし、その後酒をたらふく飲ませて泥酔した信太範宗は政貞自ら
の手で惨殺された。永禄13年(1570年)の出来事であった。
その後、土浦城を急襲した菅谷家が信太家の領土を併呑することとなった。

時は流れて30年後。
常陸国筑波郡手子生村に「信田八幡」が建立され、毎年8月には祭礼を行われた。当時の手子生領主・
菅谷範政が(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1178.html信太範宗を鎮魂するために
建立したという。




770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/05(日) 08:46:54 ID:Jc0Yaxml
>>767
菅谷さんの先祖はもともと菅谷原の僧侶で、「この坊主は機転が利きます」といって還俗のうえ主君に推挙
したのが信太さん。
そして、菅谷氏が台頭するまでの天庵様の転進先は信太さんの居城だったな。

最後の小田城落城

2010年09月04日 00:00

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/03(金) 17:58:27 ID:78+dxaM6
最後の小田城落城

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4588.htmlにあるように、
元亀3年の大みそかの宴会でぐでんぐでんになったところを太田資正・真壁氏幹らに強襲され、正月
そうそうに落城の憂き目をみた小田氏治はこのままでは終わる男ではなかった。

同年の2月、記録的な大雪に見舞われた小田城にひたひたと迫る軍勢の姿。
坂東武士のハルウララもとい坂東武士の不死鳥こと小田氏治の手勢であった。そして、大雪の日に攻め
てくることがないとすっかり油断していた小田城の佐竹番衆から見事小田城を奪還した。
しかし、氏治はこの程度の手柄では満足しない。
「真壁のヤロー、小田家恒例の年越し連歌会を台無しにしやがって。これより真壁領に攻め込むぞ!」
同年の4月17日、小田軍4000人は真壁領に侵攻し乙幡村に放火、狼藉を行った。

「さては小田軍が攻めてきたのか!」乙幡村の一里先にある柿岡城主・梶原政景は、小田軍の侵攻を舅
真壁氏幹に知らせるとともに実父の片野城主・太田資正に援軍を要請した。
ほどなく資正勢が駆けつけ政景勢と合流し乙幡村で小田軍を迎え撃つも、寡勢の太田勢のみでは4000人
の小田軍とは勝負にならず、村内の古屋敷に立て籠もっては屋敷を出、出ては屋敷に引っ込みと、真壁
軍が駆け付けるまで時間稼ぎをすることになった。

とそこに真壁軍が乙幡村に迫ってきた。
しかし真壁軍の姿を見た小田氏治は不敵に笑う。
「さては太田勢はおとりで本体は真壁軍であったか。幸いにもこの村は三方を山に囲まれ伏兵を隠すに
は絶好の場所だわい。屋敷の太田勢はこのまま捨て置き、我等は伏兵となり真壁軍を待ち伏せるぞ!」

一方、到着した真壁氏幹は村の地形を見るや
「氏治の稚拙な用兵見破ったり。さては氏治の本陣はあの方角にあろう。者ども、伏兵はスルーして氏治
の本陣めがけて弓・鉄砲を喰らわせてやるがよい!」
と言い放つや氏治の本陣目がけて一斉射撃を加えた。

本陣をかく乱された小田軍は伏兵もろとも蜘蛛の子を散らすように四里先の小田城目掛けて逃げ帰る。
「父上、真壁殿の援軍が間に合ったようです。我等も屋敷を出て小田軍を追撃しましょう!」
「政景よ。ワシによい考えがある。小田軍に並走して小田城に向かうぞ。だが、決して小田軍に手出し
は無用ぞ。」と太田資正は家臣にある秘策を授けた。
そして、潰走する小田軍を追撃せずに併進するように太田勢がピタリと付き、やがて小田城に迫った。

「開門!氏治様のご帰還なり。」「われらは藤沢衆じゃ、門を開けてくれ。」城の前で叫ぶ小田軍の口上
を聞いた資正は、太田勢にその口上をマネさせたのだ。
そして、味方と勘違いした小田城の守備兵は敵の太田勢をうかうかと城内に招き入れてしまった。
「太田の旗印を城中に掲げよ!」
太田の旗印を見た小田城の守備兵は「すわ落城か!」とすっかり浮き足だって脱走しだした。

小田氏治はこの有様の前になすすべがなく藤沢城に落ち延びた。
それ以降小田家の旗がこの城にたなびくことはなかったという。




751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/03(金) 18:21:32 ID:z4aHoJPt
生兵法はっていうか正直俺らがタイムスリップして敵の軍師やっても見破れそうなほどの軍略って言うか…w

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/03(金) 18:38:56 ID:Oa22tC2X
俺は小田さんに勝てる自信が無い。

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/03(金) 20:10:56 ID:UJ/Cwfnw
無策という訳ではないんだよな、いつも何かしら考えては自爆する。

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/03(金) 20:12:59 ID:NRU7bMrH
小田さんがダメな子なのか、相手の太田さんがすごいだけなのか…
太田資正も北条相手に引かずに戦い抜いた、何気に凄い人だし

755 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/09/03(金) 22:01:18 ID:ZokKapK/
カメレオンで言えばニーヤみたいだな。
負けても負けても全然戦意喪失しないで、いつもやる気十分。

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/03(金) 22:17:10 ID:qEj6m2xX
小田さん「消えろぶっとばされんうちにな」

雑談・いい加減に信長・秀吉・家康を持ちだすのをやめて

2010年08月02日 00:00

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/01(日) 13:28:58 ID:8ctO+9x0
【戦国武将に学ぶシンポ カギは「へこたれなさ」】
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100801/acd1008010929004-n1.htm

いい加減に信長・秀吉・家康を持ちだすのをやめて
天庵様を語ればいいと思うんだ


454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/01(日) 14:04:37 ID:ib3TxPH6
>現代社会の私たちが学ぶことはたくさんあるが、やめないこと、へこたれないこと、あきらめないことに尽きる
確かに天庵様の生き様だな。
つまりは現代社会の我々も報われないという事か

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/01(日) 15:21:16 ID:6n47bKAa
なぜかこんなのを思いついた


(全員パート)
負けないこと、投げ出さないこと
逃げ出さないこと、信じ抜くこと
駄目になりそうな時、それが一番大事

(氏治パート)
高価な墓石を立てるより、安くても生きてる方が素晴らしい
ここに居るだけで、傷ついている家臣領民はいるけど
さんざん我侭言ったあと、あなた(家臣領民)への想いは変わらないけど
見えてる優しさに、時折負けそうになる

(家臣領民パート)
ここにあなた(氏治)が、いないのが淋しいのじゃなくて
ここにあなたが、いないと思うことが、淋しい
OH OH-
でも

(全員パート)
負けないこと、投げ出さないこと
逃げ出さないこと、信じ抜くこと
涙見せてもいいよ、それを忘れなければ

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/01(日) 16:48:38 ID:Y6+hSr/y
>>453
しかしあの人はゴキブリホイホイにでも引っ掛かりそうだが

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/01(日) 23:14:34 ID:Ox3hDn24
がんばれ氏治!

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/01(日) 23:17:01 ID:n/i3YZws
>>458
天庵様を呼び捨てにするとは!w

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/01(日) 23:17:12 ID:WEOKYwu8
いい話・悪い話スレで明後日の方向でブレイクしたのは鮭様と天庵様でよかですか?

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/01(日) 23:40:11 ID:IT0N1r+U
百戦して百勝するは善に非ず


466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/02(月) 08:50:48 ID:4JXv96A8
>>453
本人の持って生まれたもの(戦闘能力や尻)
で10万石もよくある話なのにな。

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/02(月) 09:16:13 ID:3kZt0uFF
教訓?

現代に支えてくれる菅谷さんはいない

以上。

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/02(月) 12:10:37 ID:Vu1SqSb8
>>466
20万石なのに有馬家の影の薄さは異常

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/02(月) 13:02:23 ID:/jOzsa/E
猫の祟りのせい

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/02(月) 13:35:29 ID:3exc54Jm
有馬家は水天宮を遺した

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/02(月) 13:57:23 ID:V0RMj5dL
>>469
小田氏治「やはりネコを可愛がっていれば百戦百勝だな」

菅谷家の『その後』

2010年07月31日 00:00

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 00:33:17 ID:eO+sp0dZ
「菅谷一族」

この言葉だけで目頭に熱いものを感じる人も、このスレにはおられるであろう。
そう、「あの」小田天庵氏治を支え続けた、有能かつ忠義の一族である。

そんな小田家忠義の菅谷一族をまとめる、土浦城主であり小田家髄一の知将、菅谷政貞とその息子
範政も、天正2年(1574)、ついに佐竹に降伏した。
佐竹勢による土浦城総攻撃に屈したのである。

この時氏治はその輝かしい敗戦歴の中でも特筆するほど負けに負け、主な拠点と主な家臣をほぼ全部失うという
記録的大敗を遂げた。小田家もこれで終わりだ、と、誰もが思った。一人を除いて。

氏治「まだまだ!これからじゃ!」
氏治は息子、友治を相模に送り、北条幕下に入る代わりに、対佐竹の軍を出すよう要請した。

この事を聞いて困ったのが、菅谷政貞、範政親子である。彼は既に佐竹に降伏し、その配下となっている。
氏治が北条軍と共に攻めてくれば、自分はそれと戦わねばならぬのだ。
常識的に考えれば、所領も安堵されており、今の君主である佐竹に従うのが筋である。


「殿に刃を向けることなど、できようか!」

範政、佐竹から寝返り北条に降伏した。

その後なんのかんのあって北条からの援助などで、小田城奪回こそかなわなかったものの
天正5年(1577)には手子生城を奪還するなど一応の勢力を回復、しかしまあなんのかんのあって
天正11年(1583)には結局、天庵様もついに佐竹に降伏。
さらになんのかんのあって天正18年(1590)の小田原陣の処分で、大名家としての小田氏は滅びる。
そして天正20年(1592)には菅谷政貞も死去。息子である菅谷範政も、領地に帰り逼塞した。
小田家はその残滓すら、消え去った。

…と、ここで、この忠臣に対し、かすかな光が降り注ぐ。

関東の仕置のためこの地を訪れた浅野長政が、この菅谷範政の事を知ったのだ。
長政はこれを、碁友達であり、新たに関東の領主となった徳川家康に話した。

「常陸の筑波に面白い男がいるよ。自分の主君がどんなに落ち目になっても、ずっと忠義を貫いた奴だ。」
「ほう…」

家康は菅谷範政を呼び寄せた。そしてその人品を気に入ったのか、文禄5年(1596)、彼を上総平川、1000石の
旗本とした。範政もこの新しい主人に、誠心誠意仕えたようである。
菅谷の新たな主人となった家康はまもなく、天下を取った。

そして慶長8年(1603)、菅谷範政に、領地替えが命ぜられた。
「常陸筑波郡、5000石。」

5倍の加増もさることながら、常陸の筑波、そう、かつての小田領である。菅谷範政はその故郷に、
領主として復帰したのだ。しかも

「并びに、屋敷として手子生城を与える」

かつて主君氏治も居城とした手子生城も、範政に与えられた。五千石、城持ち格、
菅谷家は徳川家中においても、堂々たる大旗本となった。
この旗本菅谷家、この後は大過なく、明治まで続いた。


どんなに負けても、どんなに犠牲を出しても、忠節を曲げず氏治に仕えた事は無駄ではなかった。
そんな事を思わせるような、菅谷範政および菅谷家の『その後』、である。




400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 01:06:22 ID:0C/pIwyN
>>399
何このいい話・・・

401 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/07/30(金) 01:17:58 ID:UYhFTgyd
レア話好きだ。
他に城持ち旗本なんて居るの?

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 06:12:41 ID:q06NEA38
5000石っていうとだいたい10~20万石の大名家の家老レベル?
何となく久留米とか土佐の太守になったあの人たちにくらべると
この5000石は数倍の価値があるな

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 06:14:47 ID:R6WoUL/F
本当にいい話なう

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 08:04:54 ID:1tZh5zeF
この話に限らず、旧主の居城に入るってのはどんな気持ちなのかね・・・


405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 08:30:24 ID:fXVwkyM9
私は帰ってきたぁ!と、主もご一緒ならば
の入り混じった複雑な感じ?

少し南の高城氏なんかだと、
小田原征伐での失地から1世紀ほどして旧領に1500石貰ってるけど旧臣の末裔や領民は良くしてくれたそうな
恩を感じていた旧臣たちは最仕官しなかったので、江戸時代になっても高城氏は旧臣たちに官途状を発給してたらしいよ

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 11:27:18 ID:ZNdFNbks
「手子生城よ!私は帰ってきた!!」
俺の心の中で、今日から菅谷範政を関東の穴ベル・ガトーと呼ぼう。

しかし、菅谷一族のいい話にもかかわらず、
>この時氏治はその輝かしい敗戦歴の中でも特筆するほど負けに負け、
の一文がインパクト強すぎ。どこまでも家臣の働きを無駄にする殿様です。

小田氏治の後継者

2010年07月12日 00:01

809 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 02:54:41 ID:yAr7T5wl
小田氏治の後継者


天文17年(1548年)、小田氏治に待望の長男、喜太郎(後の友治)が誕生する。
これを喜んだ氏治はつい初めて授かったわが子可愛さに「喜太郎を嫡子にするぞ!」と公言し、舅の
芳賀貞利などを教育係に指名した。
ただ一つ問題があったのは喜太郎が「側室の子」であったという事だったのだが・・・

8年後の弘治3年(1557年)、正室との間に次男が誕生。正室との間の子という事で氏治自身の幼名である
「彦太郎」と名付けられた。(後の守治)
どうやら氏治は彦太郎を自身の後継者にと考えていたようだが友治を嫡子にすると言って8年。
既に家中では友治派とも言うべき派閥が形成されており下手なことは言えない。
結局の所、なぁなぁなままで年月は過ぎ去っていった。

元亀3年(1572年)、小田氏治は入道し天庵を名乗り、小田城を守治に譲り藤沢城へと転居。同時に
友治を廃嫡。
友治は小田家を去っている。
しかしながら友治派と氏治・守治派の対立構図だけは残り家中も分裂気味になり、その隙に
太田三楽斎が攻めこんでくるなどやはりすっきりと治める事が出来ず散々な目にあっている。

さて、廃嫡された友治であるがやはり幼少期に嫡子として育てられた事が忘れられず自身が庶子だという
自覚は全くなかったらしい。
小田氏改易後は鎌倉時代に活躍した遠い先祖以来の八田姓を名乗り「私こそ正式な小田の後継者」と
名乗るようになるなど色々と性格面に歪みを残した。


色々と思慮の足りないお話





811 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 03:10:00 ID:d/yTYgZK
友治かわいそうです

812 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 07:28:13 ID:ue9+/xGg
で、よりによって福島正則の元へ走った

813 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 10:51:18 ID:8cgldHFM
なんで側室の子を嫡子宣言したあとに、わざわざ正室とイチャイチャするんだ、危なっかしい

814 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 11:00:21 ID:w+IObfHv
御機嫌とりだろ常識的に考えて…

815 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 11:15:26 ID:eQKCKgit
嫁さんとのイチャイチャは義務だろ・・・家庭内平和的に考えて・・

816 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 11:19:13 ID:czsGjRr4
体が好きだったかも。

817 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 12:53:51 ID:d/yTYgZK
友治の母は家臣の娘だが守治の母は江戸氏から輿入れしてきた娘だからなぁ。

正室の方が輿入れが後なら天庵さまは悪くな・・・いや綺麗に処理出来てないからやっぱり悪いか、うーん。

818 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 12:55:08 ID:yt07FnGI
>>809
幼児期に正室腹の息子が生まれて、そっちを嫡子にする空気にはなってたのに、
正式に廃嫡されたのは二十歳すぎてから?
よくあるgdgdかもしれんけど、もうちょっとなんとか対処できなかったの…

819 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 14:50:11 ID:ZlgKR46n
政宗んとこも側腹が長男で、正室の子が次男だったな。
「後から生まれても嫡男は嫡男」として次男を後継者にしたら
長男がぐれて家臣を切り殺した。
政宗と二者対談して仲直りはしたらしいが
親の都合で振り回された長男にちょっと同情。

820 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 14:58:20 ID:XaYCCeRw
そこは家族まとめて皆殺しにされた山家さんに同情すべき
そりゃ祟るわ

821 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 15:33:31 ID:pdGsRZ9e
信長とかもそうで庶出の長子と嫡出の弟ってよくある話だろう。
長幼の序っていうのも、親の血統が同レベルでこそ言える話。

822 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/11(日) 15:45:18 ID:udDOvSMU
>>819
でも明治時代になると、兄の分家の方が侯爵で、弟の本家の方が伯爵だったりするから、なにがどうなるかは
分からんもんですな

823 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [sage] 投稿日:2010/07/11(日) 18:29:00 ID:4rRpfwZg
兄の分家つったって血統としては・・・

小田軍記「氏治公は名将であった」

2010年07月07日 00:00

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/06(火) 20:33:28 ID:oSav35C7
『小田軍記』梶原・真壁・北條謀反のこと、に、このような記述がある

「讃岐守小田天庵氏治公の旗下、真壁の城主、安芸守入道道夢という者あり。
真壁新七郎義成が一子(略)

しかるに、佐竹義宣公より、真壁入道を語らい、小田天庵を退治の内通有り。
真壁入道は義宣公と一味して、何卒氏治を亡ぼさんと、昼夜、心を砕けども、
氏治、名将たるにより叶わず。」

なんと、『氏治が名将なのでとても手を出せませんでした』と書いてあるのだ。

小田軍記が氏治を主人公にしたものだから贔屓でそう書いたのだ、という意見もあるだろう。
が、この小田軍記の中で氏治はほとんど(史実のように)負けっぱなしなのである。
これで名将呼ばわりは無理がないか?と思うのだが、この小田軍記

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2987.html

この逸話から始まっており、すなわちこの著者の主張としては

「氏治は元々名将だったのに、頭白義宣上人を憤死させ、その報いで名将じゃなくなったんだよ!」
「Ω ΩΩ< な、なんだってー!!」

と、言いたいらしいのだ。
僕らのアイドル小田天庵様の神がかり的な負け運は偉いお坊さんを死ぬほど怒らせたせいだった!
という小田軍記の主張についてのお話。




743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/06(火) 20:52:59 ID:oq9A4BAC
史実では真壁が小田さんに属してた時期ってあったっけ?
何で配下にされちゃったんだろう?

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/06(火) 21:13:31 ID:j+GQNW1j
もともと真壁は小田方で、弘治年間に佐竹方に鞍替え

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/06(火) 21:17:15 ID:sfVUkjWX
小田政治が死んだらこの有様だよ!って感じ

小田氏治はウザイから

2010年06月06日 00:01

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 23:20:34 ID:Nb9c0YxJ
遅レスだが>>181解答:ウザいから

弘治2年(1556)、結城政勝は周辺の豪族の協力を得て、小田氏配下の海老島城主・平塚氏を攻めた。
小田氏治は、これを救援すべく兵を出し、両者は海老島城下で対峙した。

小田氏治「くそぅ結城め、一人では動けんのか?わしがいったい何をした!」
菅谷政貞「去年、結城さんが小田原へ挨拶に行ってる空き巣狙って攻めたから、じゃないスか?撃退されましたが。」

結城方は政勝の長男・明朝が先陣を切り、これに配下の水谷・多賀谷氏などが続き、火の出るように攻め立てたが、
戦場たる海老島は沼地であり、思うように小田方へ斬り込むことが出来ない。

氏治「よーし、このまま支え切れば勝てる!」
菅谷「ご注進!結城方に北条家から、江戸衆が援軍に駆けつけました!その数、数百!」
氏治「ふん、今さら数百ばかり増えたところで
・・・・・・江戸衆?」

(^^)「こんにちは、太田源六です。」

北条家中きっての荒武者・太田源六康資が、退き時を誤った小田方に自慢の鉄棒を振るうと、戦況は一変。
欲が仇となった氏治は敗走し、結城方は485の首を挙げ、勢いに乗って小田城まで攻め込んだ。

氏治「くっそー!あと一歩というところで・・・」
菅谷「いいから、逃げることに集中してください!小田城も陥ちたようです。私の土浦城へ逃げましょう。」
氏治「うむ・・・しかし海老島の、あの沼地の多い地形は何かの時に使えるな。考えておこう。」


考えた結果がこれだよ!http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4003.html
それはさておき
スキあらば狙ってくるわ、失敗しても教訓にし(たつもりになっ)て再三復活と、わりと本気でウザかったのでは・・・




234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 23:24:29 ID:NYo2pK/r
>>233
485の首って・・・
小田さんちが動員できるのって2000人くらいじゃないのかな?
ほとんど全滅じゃんw

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 23:36:41 ID:HFSGy9U0
このウザさ、学習したつもりで学習してないで繰り返すやり方…

ああ、ハエジャパンだ
さすが小田さん時代を500年先取りしてたのか

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 23:37:33 ID:kmuZ6X5B
よくもまぁ見捨てないで戦えるなw

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 23:57:43 ID:QIAvCf2T
>>233
いや、ボコボコになるまで狙われる理由はまさにそれなんだけど、
どっちかというとどうやったらそこまで負けられるのかが(ry

かなり戦力の減ってた手這坂の頃ですら、
小田と岡見あわせたら四千ぐらいの兵力で佐竹にそうそう劣るもんじゃなかったのに……

岡見も単独じゃ格下のはずの多賀谷に負け続けてて、これはあれか、やっぱり小田一族だからなのか

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/05(土) 00:25:10 ID:qqTm6WXW
海老島www
思いっきり地元だよ!!www

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/05(土) 00:29:39 ID:owuXJOwb
この天庵の首を何度取り損ねたら気が済むのか、愚か者共めがwww

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/05(土) 01:32:23 ID:yV2vQrq7
これから天庵様はゴキブリ師匠と呼ばせてもらおう

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/05(土) 01:34:32 ID:azVETluH
小田と少弐・・・どうして差がついたのか戦死率、人望の違い

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/05(土) 05:12:53 ID:hwOgwjQP
思わぬところに化け物(太田康資)が現れるものなんだな

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/05(土) 06:37:49 ID:ECZeJtcj
>>243
トップの粘り強さと周りの優しさの違い
少弐の周りには落ち目の家を放っておく優しいやつはいなかった

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/05(土) 07:28:22 ID:quXTPfGS
>>233
小田ウザ治ってか

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/05(土) 07:53:10 ID:DoW+ymPB
知れば知るほど菅谷さんって
突き抜けたドMだったんじゃないかという疑惑が

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/05(土) 10:30:59 ID:AaHQbu9p
昔ハンターハンターの富樫が書いたマンガでレベルEてのがあったけど
その中に出てくる天才の宇宙人王子がその明晰な頭脳でやろうとしていたことが
「いかにして支持率を下げずに民衆を苦しめるか」ということ

小田さんならできる気が、いや、むしろやっていた気がする今日この頃

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/05(土) 10:59:12 ID:T6/PQd1M
小田さんは狙ってるんじゃなく素の行動だからな・・・
常に我々の予想の斜め上をいくのが小田さん

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/05(土) 12:16:08 ID:LFtlZspF
小田さんは領民や国人に慕われていたというから
佐竹は反感を買わないようあえて殺さなかったのかもしれん
攻めてきても小田キラー太田親子のシュッとひと噴き!で撃退できるし

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/05(土) 12:43:18 ID:yV2vQrq7
外道大関さんも「完膚なきまで叩きのめしてしまってはバランスが崩れる」みたいな事言ってたしね

252 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/06/05(土) 13:37:21 ID:udsHWskI
小田さんはなんとなく天然キャラなんだなと今更ながら思った。

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/05(土) 14:20:52 ID:5nDm9+vT
北関東の ほうそくが みだれる!

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/05(土) 14:24:19 ID:i+7rVviq
山中鹿之助と小田さん、どうして差がついたのか・・・慢心、環境の違い

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/05(土) 17:20:28 ID:AaHQbu9p
>>254
それなら
尼子と小田どうして差がついたのか・・・慢心、環境の違い

山中と菅谷どうして差がついたのか・・・慢心、M度の違い
になると思う

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/05(土) 17:46:38 ID:rwl/zgV+
>>257
いや、鹿之助はマゾな家臣ではあるが
不屈の闘志を比べるなら小田氏治とだろう

石毛城開城の条件

2010年06月04日 00:00

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 18:28:20 ID:WzqG3Q/V
戦国末期、下総国猿島郡、岡田郡を領する国人領主に豊田治親と石毛政重という兄弟がいた。
北に結城・多賀谷、東に江戸・佐竹と向き合う地勢の中、
豊田治親は日増しに圧力を強めるそれら北関東の諸侯と対抗するために、
常陸の小田・岡見・土岐原の三家と連合して抗争に臨んでいた。

連合の中では北部担当となる豊田氏の主な抗争相手は多賀谷氏で、
武勇に優れた石毛政重を大将として猿島・岡田の諸国人を纏め上げ、
小田・岡見の支兵を受けても兵力でおおよそ倍する多賀谷軍を度々打ち破り、豊田城に寄せ付けなかった。

そんな小田陣営の貴重な勝ち星要員である豊田氏にも、小田方である以上没落の日はやがて訪れる。
天正三年、軍事力の要である石毛正重が居城の石毛城にて脳卒中に倒れてそのまま逝去。
家中に動揺が走る中、その一ヵ月後には今度は当主治親が急没してしまった。

これを見た多賀谷政経は準備万端、七百の軍勢を持って豊田領を急襲し、
豊田城を瞬く間に奪うとわずか七歳の石毛政重の嫡男太郎正家が篭る石毛城を囲んだ。
しかしそこは精強で鳴らした石毛政重の家臣たち。
篭城の準備も疎かであった中、堅く城を守って簡単には多賀谷軍を寄せ付けない。

かといって、篭城軍に勝ち目があるわけでもなく。
やがて城方は二つの条件を多賀谷政経に突きつけ、これを政経が受け入れることによって開城降伏が成立した。
その二つの条件というのは、

・城主太郎正家の助命(ただし出家すること)
・稲見大膳一族の身柄引き渡し

の二項目である。
……最初の項目はよくあるものだが、後者の条件はあまり見慣れない。
一体稲見大膳とは何者なのかといえば、これは豊田家の家臣であり、治親を私邸に招いて毒殺した謀反人なのであった。
この大膳、実は事前に孫娘を多賀谷氏家老白井全洞の嫡子に嫁に出しており、
その縁(というよりこちらが目的なのだろうが)で全洞から豊田城を与える条件で内応を誘われ、これを快諾していたのだ。

大膳のこうした多賀谷氏との結びつきは早くから豊田家中でも疑われていたようで、
実際に暗殺の現場となった稲見邸での酒宴にも家臣が参席しないよう治親に訴えかけていたが、
治親は「稲田は譜代の臣である」として疑わず、まんまとその毒牙に掛かっている。

その稲田も結局は政経に交渉の道具として売られ、大膳以下一族三十六人は裸で豊田城下を引き回された上、
豊田遺臣団の手で鋸引きの刑に処せられ、嬲り殺しにされてしまった。

因果応報、狡兎死して走狗煮られる。
察しが悪いうえに手回しも悪くて、結局自分の首を絞めた奸臣の悪いお話。

ていうか調べれば調べるほど、戦国史に拠点の位置打ち込めば打ち込むほど、
上杉介入前でも小田陣営がフルボッコされる理由がわからん……




185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 21:11:26 ID:57z5U14z
>>181
稲見大膳詰めの甘かった話でもあるな。

しかし戦国の北関東情勢は、最初は享徳の乱で成氏が古河公方優位の支配体制を勝ちとって
でそれなりに安定してたのに、途中で古河公方も分裂するものだから訳のわからんカオスに
なっちゃうよね。

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 22:02:22 ID:7knymvTF
>>185
『北関東』って言葉・概念は昭和になってからできたもの。
戦国時代を見る時は東関東・西関東と分類した方が適切だよ。

古河公方が強い影響を及ぼした領域は
利根川の東側、ちょうど東関東(常陸・下野・下総・上総・安房)に当たる。

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 22:29:05 ID:57z5U14z
>>186
さんきう。しかし戦国初期の関東の騒乱って長享の乱の跡の両上杉の和解で一旦収束するのに、
古河公方分裂(と言うか親子兄弟喧嘩)で結局戦乱に世に戻しちゃうのは、そういう時代だったと
いうべきなんだろうな。

雑談・小田さんは・・・

2010年05月03日 00:05

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/01(土) 19:09:57 ID:JJt5EVHp
小田さんは・・・

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/01(土) 22:29:03 ID:zwov4o+D
小田さんは再起動するたびにメモリの内容が消えますから

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/01(土) 22:43:36 ID:dmKDIR/2
小田さんは生きているだけで勝ち組

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/01(土) 22:47:54 ID:3R/k0SpO
氏治「佐竹ではなくて今度は水谷や多賀谷を攻めよう!」


結果は聞くな

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/02(日) 00:14:18 ID:lEWK71az
あんなに連戦連敗なのに、何故か負け組な気がしない小田さん

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/02(日) 06:03:22 ID:lBycEbR8
小田さんは葉っぱ一枚あればいい

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/02(日) 12:38:26 ID:womw4dSr
オレの中で失敗を失敗と思ってなさそうな戦国武将といえば
なぜか小田さんと宗茂さんが思う浮かぶんだが

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/02(日) 12:41:26 ID:twST+N9y
小田さんの粘り強さは異常

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/02(日) 12:53:31 ID:QlCeBuBg
>>700
戦績は対極だけどね

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/02(日) 13:56:43 ID:77POgycU
宗茂「粘り強く戦えば活路が開ける」
氏治「粘り強く戦えば活路が開ける」

同じことを言っててもぜんぜん意味が(ry

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/02(日) 14:52:20 ID:58h+lb8Y
>>703
意味というか、信頼度というかだなw
前者は頼もしい発言だが、後者はもうだめだって気分になるw

小田氏治、藤沢・土浦城防衛戦

2010年05月03日 00:04

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/02(日) 17:18:35 ID:ixboUWIw
おまいらホント小田さん好きだな


天正元年(1573)、小田城最後の落城。以後、小田氏はその名を冠する城に帰ることなく終わる。

いや、それどころか闘争心冷めやらぬ梶原政景は同年、乗っ取った小田城を拠点に、菅谷氏の篭る土浦城と、
小田氏治の逃げ込んだ藤沢城を攻める気配すら見せていた。
これに対抗すべく小田方は、ショックの抜けない氏治を置いて、嫡男・守治を総大将に、梶原方を鳥出台で迎え撃った。

(つくば市小田から、土浦市藤沢に攻めてくる軍を、なんで取手で迎撃するんだ?とか聞いてはいけない。
「小田軍記」にそう書いてあるんだから。)

「小田方に迎撃の用意あり」の報を聞いても、政景は狂歌を詠む余裕すら見せた。

「 敵の首 取りでの台と 聞くからに 今日のいくさに 我は梶原(勝ち原) 」


http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3069.htmlと言ったgdgdを見せつつも、
後が無い小田勢は、大将の守治以下必死に戦い、ついに藤沢・土浦両城を守り抜き、政景は兵を退いた。
引き退く梶原方に、小田配下の小幡道三の家臣が、罵声と政景の狂歌への返歌を送った。

「 敵の首 取りでの台と 聞きけるが 「ひけを取りて」と なりにけるかな 」

さすがの政景も何も答えることが出来ず、頭を掻いて先の狂歌を後悔したという。





翌月、本気になった鬼義重みずから攻めて来て、藤沢・土浦ほか諸城をぶっこ抜かれたのはナイショだ。





706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/02(日) 17:57:46 ID:zxl8CeIO
女子高生に「か~わい~い!v」と撫でくり回される三頭身の小田さん

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/03(月) 17:46:20 ID:N0oH0tjb
撫で斬りされるって読み間違えちゃったぜ・・・

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/03(月) 18:33:19 ID:pG+T4xTK
「これでも負け続ける戦いは得意でね」
「だからこそ小田家は小田家でいられるんです」

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/03(月) 18:40:01 ID:9eYxSdmT
W厨自重w

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/03(月) 20:02:24 ID:KXhGR+Y9
このスレ見てると
ゲームで小田さん捕らえても、つい放流したくなるな

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/03(月) 20:06:58 ID:9idPBZyG
太閤立志伝なら、そんな小田さんを支える素敵な仕事ができます!


712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/03(月) 20:23:32 ID:D1CNF92r
>>710
放流して再度敵として来てもぶっちゃけ敵じゃないしw
菅谷さんさえ抑えちゃえばおk

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/03(月) 20:49:19 ID:j3ey1ljL
>>708
戦国時代に強者などいない。大名全てが弱者なんだ……か

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/03(月) 21:01:27 ID:Xg4/ej6C
太閤立志伝で小田さんを家臣にすることが何度かあったが、
正直ほとんど役にたた…いやなんでもない

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/03(月) 21:39:54 ID:wCPNMfvb
>>714
戦国のマスコットにそれ以上の役目を求めてはいけない

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/03(月) 22:01:59 ID:Iqhoa4bQ
野望で小田さんが家臣になったと思ったらすぐに出奔したことある(佐竹プレイ中)

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/03(月) 22:56:27 ID:rhove58Y
小田さんに有能な家臣を紹介します
つ外道三兄弟


718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/03(月) 23:14:54 ID:HJu0whed
外道三兄弟は仲間の中で有能なのも殺す諸刃の剣

要するに菅谷さんが危ない

我らの小田”フェニックス”氏治は意外と風雅人で

2010年04月26日 00:10

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 14:08:58 ID:t96VY1Ok
天庵主従のちょっといい話。

我らの小田”フェニックス”氏治は意外と風雅人で、
たとえばこんな歌を詠んでいる。

「うき事はよのならはしとつゝみても袖にもりくる我涙かな」
「身を捨てゝおのが心にかくれなん心の奥とてうきはいとはじ」


そんな彼に野長瀬入道鈍斎という家臣がいた。
あるとき鈍斎は主の甲冑を身につけて戦うことになった。
その際に氏治と交わした歌が残っている。

鈍斎「君がため今ぬきかへる衣手を後の世までのかたみとぞ見る」
氏治「わがために替る衣は薄くとも契りて朽ちし後の世までも」

やがて鈍斎は氏治の身代わりとなって土浦で討死した。




553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 14:21:52 ID:Zbsz1Epr
家康の身代わりで討たれる→名誉の戦死

氏治の身代わりで討たれる→完全に犬死・・・


554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 14:26:04 ID:t96VY1Ok
>>553
つか、最初から身代わりで死ぬつもりで
氏治の甲冑着たらしいです。
言葉足らずですまん。

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 14:32:01 ID:huEyn0UU
野長瀬鈍斎って源平合戦で源氏なのに平家につき、南北朝でひたすら南朝につくした
近露の野長瀬氏と関係あるんだろうか?

この報われなさは通じるものがあると思うんだ

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 14:32:04 ID:2h+iFDNG
最初から負け戦前提なのかよwww

関東のスカッとする話、小田氏治、いつもながら

2010年04月14日 01:11

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 10:58:17 ID:WQU+MyPO
こういう時は関東のスカッとする話を

永禄7年(1564)1月、うっかり小田原北条家と結んだ小田氏治に対し激怒した佐竹義昭は、上州で獲物を求めて
越年していた軍神を召喚した。
八千の兵を率いて常陸小田領内の山王堂に陣取り、佐竹・宇都宮・多賀谷ら馳せ参じた関東諸将を前に、
「この辺りに骨のある侍は、おるか!」と、いつも通りの関東管領・上杉輝虎。

「この先の海老ヶ島城に、平塚自省入道という小田配下の者がおります。三浦党の末裔を名乗るしぶとい武士、
夜討ちでもされたら危のうございます。ご用心下さい。」と忠告する諸将に対し、
「むしろ、こちらから朝駆けして首を取ってやるところよ。向こうから夜討ちをかけて来るなら、それこそ天の助け。
なで斬りにして、死人の山を築いてくれよう。」と答えてカラカラ笑う輝虎に、諸将は身の毛のよだつ思いがした。

しかし小田方からの夜討ちは無く、輝虎のもとに急報が入ったのは翌朝になってからだった。
「申し上げます!小田氏治みずから・・・」「みずから奇襲か、なかなかやるな!よし、わしの馬を引けい!」
「いえ、みずからやって来たのですが、わが軍の手前で留まり、川を背に陣を構えております。」

( ゚д゚) ?!

氏治「がはは、実は山王堂は以前に戦を経験しており、土地勘があるのだ!川を背にしても、手前は深い泥田。
上杉軍が足を取られたところを、つるべ撃ちにしてくれるわ!」
菅谷政貞「以前の戦・・・って、結城さんにボッコボコにされて土浦に逃げた戦ですよね?」

戦が始まると上杉軍は、『策など要らぬ』とばかりに、小田陣目がけて突っ込んで来た。
「よーし動くな、引きつけよ!泥田にはまり、止まったところで・・・」

止まらない。止まらない。ぜんぜん止まらない。
「え?なに?どういうことなの・・・」
「上杉軍のほうが先に陣取ってるんですよ?地形を調べて、通れる場所を探ってあるんです。」
「そんな・・・・・・す、菅えもーん!」
「仕方ないなぁ、うじ太くんは・・・ジャジャーン『決死の殿軍』!覚悟完了したウチの息子が、身代わりになって
死んでくれるよ!」「ちょ、おま」

こうして勢いの乗った上杉に海老ヶ島城・小田城を奪われるも、菅谷政貞の子・彦次郎政頼らの犠牲により、
氏治は逃げ延びることが出来た。(政頼は数年後の太田三楽との戦いで戦死した説もあり)

が、この後七、八回ぐらい似たようなことを繰り返す天庵様でした。




118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 11:09:57 ID:ymKGJ89c
いつもながら弱えw

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 11:24:59 ID:TYdAm1Jl
>>117
面白いがスカッとはしないよw

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 11:28:10 ID:f6P0DNlp
待て待て、ここは軍神様相手に正面から挑んだことを賞賛するべきだろ

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 11:57:27 ID:TQXmP3U4
うむ
小気味良いほどの毎度の小田さんクオリティにスカっとした

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 12:02:25 ID:oPtAijVy
ここまで綺麗に負ける人も珍しいなw

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 12:26:16 ID:nyw00BbS

夢の対決 上杉謙信VS小田氏治w

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 12:46:56 ID:tYnfik30
こんな無茶苦茶な戦いの先鋒命じられたあげく息子を失った菅谷さんの忠義は一体どこから沸いて来るんだw
[ 続きを読む ]

小田氏治、謀臣・天羽源鉄斎の遺言をブッチして…

2010年03月15日 00:03

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 20:27:24 ID:KrG/XTc4
久しぶりにまとめ管理人氏…じゃねぇ、天庵様いってみるか

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3198.htmlの三の通り、小田氏治は謀臣・天羽源鉄斎の
遺言をブッチして佐竹軍との野戦に臨んだ。当然、重臣の江戸山城守が必死に止めた。

「なりませんぞ、お屋形様!」
「なぜだ?佐竹の戦法なんぞ、さんざん戦って見切ったわ。恐れるに足りん!」
「敵は多勢、味方は無勢。それを平地で討とうなどと、源鉄斎殿の遺言を思い出して下さい!」
「耳にタコだわい。篭城戦ばかりでは負けも無いが、勝ちも無い。それに、今回はあの三楽斎の息子が
佐竹軍にいるとか。今こそ運を天に任せ一戦し、先の恨みを晴らす時ぞ!」
「で…ですが、わざわざ負けと決まったような戦を……」
「くどい、それでも武士か!?勝敗は時の運、敗れるとも恥辱に非ず。不満なら、お前は一人で
篭城しておれ。わしは出るぞ!!」氏治は一千の兵を率い、出陣した。

同じく佐竹軍一千の大将は、梶原政景・太田資武兄弟であった。
「兄者、我らが陣形はいかが致そう。」「まず我ら兄弟が二百を率い、敵をおびき出す。」
「それは、“我ら”を“主力”と思わせる、という事か?」
「その通り。我らを小勢と侮らせ、“残り”は伏せて置く。」「ふっ、我ら二百は苦戦せねばなるまいの。」

政景の思惑通り、小田軍六百ほどが二百の兵に殺到して来た。政景は寡兵を縦横無尽に操り
応戦したが、やがて限界が訪れようとした。「それっ!梶原討たすな!」
待機していた佐竹軍八百が駆けつけ、さらに混戦となったが、
「今こそ総掛かりの時!根切りにせよ!!」
氏治の号令のもと、小田全軍が総攻撃を開始した。日頃の恨みを晴らすべく小田衆は奮戦し、梶原を
追い詰めるかに見えたその時、

「  三  楽  参  上  。  」
佐竹の“残り”の“主力”二千が現れ、形勢は一気に逆転した。

「…え?なに?どういうことなの……」
「どういう事も何もありません。佐竹軍が一千だけなハズないでしょ。とっとと逃げて下さい。」
氏治は重臣の江戸山城と大藤小太郎が討ち死にという多大な犠牲を払い、やっと居城に逃げ込んだ。




277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 20:36:32 ID:oeIWhWdE
さすが小田さんだなw

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 20:52:32 ID:6ma/p74f
気持ちのいいぐらいの負けっぷり、さすがです

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 20:56:20 ID:3LuqiqZk
惜しいな・・
天庵様が軍師であれば、献策をすべて逆に実行するだけで常勝なのに

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 20:58:15 ID:4GhVcNrq
つーか止めた江戸山城が殿務めたんだろうけど死んでるじゃねーか!

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 21:04:26 ID:lRBMqJUJ
>.276
これの二の時も先鋒を命じた家臣に切々と諌められるのを振り切って出撃したんだよな。

そして先鋒の将が予測した通り、苦戦&これも予測通りの別働隊の小田城攻め。
結局先鋒の将が退き口で力尽きるまで奮戦してる間に逃げ延びたんだよなw

そんなのがあっても同じ事する小田さんさすがですw

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 21:37:17 ID:0Wd8rZV0
小田は何度も同じ失敗を繰り返しているが、
何度も復活している、ということは、
敵も同じ失敗を何度も繰り返しているということだな。

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 21:45:21 ID:gIaXg5e+
>>283
ほらアレだ。ゴジラやエイリアンは何度ぶっ殺しても復活してくるじゃん。

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 22:39:09 ID:RwUJivSN
「あの小田氏治が最後の一人とは思えない…」

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 22:47:57 ID:X/wsM+Aj
小田氏治を一匹見たら(ry

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 23:09:32 ID:b0y9jcNS
小田さんはGなのかよwww

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 23:31:38 ID:vBlF9reM
「小田氏治は滅びんよ! 何度でも(ry

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 23:54:44 ID:6ma/p74f
佐竹から見ればそりゃ潰しても潰しても部屋の影から出くるGのようなもんよ

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/14(日) 23:59:38 ID:L0JH+5dC
毎回毎回ホイホイに引っかかってるハズなのに死なないのはどういうわけだ…

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/15(月) 00:12:22 ID:BIdQ1baA
Gは死ぬときに卵をばらまくらしい

小田友治の顛末

2010年02月02日 00:09

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/31(日) 23:31:57 ID:9Vp7RM9C
このスレでは結構知名度が上がったので説明は省いてもよさそうになった
常陸の戦国大名小田氏治には、後々名前が残っているだけでも二人の息子がいた
一人は色々氏治に似たところがあるのが怖い嫡子・小田守治
そしてもう一人が、今回話す人物、庶子・小田友治である
一応友治の方が年齢的には九歳上なのだが、側室の子であったのだ

他にもそういうことが多々あるが、嫡男より年上の庶子はぞんざいに扱われがちである
大体は出家するか、良くて養子、もしくは人質として他国に送られるのが戦国の習い
友治も父が華麗に上杉謙信を裏切り、北条と同盟を結んだ際、小田原に人質として送られた

でもまあ、彼はその方がある意味幸せだったのかもしれない
北条家では他国からやってくる人質の少年など珍しくはなかったし
その後父が再び謙信に降り北条を裏切っても、その代償に殺されるということも無かった
友治は北条家で教育を受け、北条家で元服し、そのまま北条家の家臣になった

そうして友治は一生を北条家家臣として過ごすことになるかと思われたが、
友治が42歳の時、北条家は豊臣家によって滅ぼされてしまった
で、この友治は教育が良かったせいなのか、氏治に似ず案外有能だったから
スライド式に北条家から豊臣家に再就職が叶い、秀次に仕えることが出来た

再就職先での彼の仕事は自分の血筋を生かしたものだった
関東仕置きの後、関東はほぼ佐竹と徳川のものとなったが
これらの土地の内情を「先祖の墓参り」と称して潜入し、調査する。はやい話がスパイである
友治は見事にこれをやりとげ、常陸の地理や寺社仏閣の縁起、佐竹の内情を秀次に報告した

彼はその仕事で認められて、秀吉から船奉行に任ぜられ伊勢などに八千石を下賜された
この頃、友治は小田の家祖の名である八田を名乗るようになる
没落し結城秀康の陪臣となって小禄を食んでいる弟よりも、こちらが嫡流だという意識が湧いたのだろうか
この後も友治は朝鮮に渡り武功をたてるなど、豊臣家臣としてなかなか頑張っていた


227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/31(日) 23:34:56 ID:9Vp7RM9C
ところが、秀次事件がおきる
秀次の死に際しては、出奔し行方をくらませたために幸い命は助かったが
苦心して築いてきた豊臣家でのキャリアは全てご破算となった
それでも小田の人間らしくハングリー精神にあふれる友治は今度は徳川家に就職した
そして、父や弟と同じ結城秀康に仕えることとなった
ここでも友治はなかなか有能だったため重用されて、
秀康に意見をのべたりすることもままあるほどになった
ところがさすが小田の人間というか、彼もこういうときにコケる

慶長五年八月、友治は主君秀康と共に対上杉の牽制として宇都宮にあったが
主君がこれに不満を抱いているのは明白だったから、友治は
「今は東西に敵があり、お家の存亡を決める時です
 君命といっても受け入れられない時というのが世の中にはあります
 戦いに臨んで勇気の無いものは孝子ではありません
 秀康公におかれましてはひそかにここを引き払い西上し
 見方の軍に合流して先駆けを願い出れば、
 家康公もきっと気持ちをわかってくださるはずです」
と主君に進言した。秀康はその進言を喜んで受けた。

で、わかってもらえなかったのである
家康はこの秀康の先駆けに激怒し、それを勧めた友治を憎んだ
友治は弟の守治の家臣となることを命じられたが、友治のプライドはそれを許せなかった
彼は結城家を退去した。

その後、ちょこちょこ出仕先を変えたりしていた友治だったが、
最終的には出家して、京都で死んだ

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/31(日) 23:37:22 ID:9Vp7RM9C
ところが、小田の血筋の因果はまだ尽きないのだ

この友治の子、義治はこんな父の生き方を見て育ったためか
やっぱり自分が名門・小田の嫡流だという意識があった
で、彼は豊臣秀頼に仕え、大坂の陣に際しては小田家伝来の旧領
つまり小田城のあのあたりの回復を条件に、全国から小田の家臣を集めて戦った
これが数は定かではないが、結構集まったのである
ただしもう徳川の旗本になっていた菅谷さんは来なかったので
それが悪かったのか、大阪城は落ちた

で、さすがは小田の人間というか
重傷は負ったものの、義治は生き残るのである
そしてどういう縁かは知らないが、福島正則に誘われてその客分になり
布団の上で病死した

氏治さんも濃いが、その系譜も濃いよね




229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/31(日) 23:39:15 ID:85wdHz76
何と言うか…

小田家には「軽率」と「悪運」の血が色濃く流れすぎているなw

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/31(日) 23:41:33 ID:NkMJttWd
なんか呪われてんじゃないかこれ…
例によって運命が悲惨であっても人望はあるけどw

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/31(日) 23:43:46 ID:cnYlui2x
氏治さまの血は不滅だね

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/31(日) 23:44:34 ID:7f0EonSN
語弊はあるだろうが、このスレのためにあるような家だな。

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/01(月) 00:14:14 ID:2OnIhGO8
なんだろうな、小田の血筋はみんなこんなんなのかw


234 名前:201[sage] 投稿日:2010/02/01(月) 00:52:49 ID:9wiRcNP4
冬姫が人気らしくてよかった。
それよりもオチの家光への突込みが少ないのが気になる。

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/01(月) 00:56:03 ID:JK1Tixtx
一応死なないんだから運はいいんだよなw

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/01(月) 01:45:07 ID:63M1N3EU
・小田政治
足利晴氏に味方→河越夜戦で大敗
・小田氏治
お察し下さい
・小田友治
北条に仕官→滅亡
秀次に仕官→秀次事件
秀康に仕官→秀康若くして死亡・忠直改易
・小田義治
秀頼に仕官→滅亡
市松に仕官→改易第一号

日根野さん程じゃないけどデス一族だな
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小田氏治公、小田城を取られた顛末

2009年12月10日 00:13

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/08(火) 20:34:40 ID:9s+4fu+k
ずっと規制されててやっと書き込めた
もう氏治様の話はないのかな?



888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/08(火) 22:51:53 ID:HMi3oHHd
>>885
では氏治公が、小田城を取られた顛末

永禄十二年(1569)、小田氏治配下となっていた太田三楽、および梶原景国が
氏治に緊急の注進をした

「上曾氏俊、小幡道三が逆心を企てています!一刻も早く出陣を!」

当然、嘘である。それどころかこの太田、梶原の両人こそ佐竹に寝返っており、
上曾、小幡は彼らから寝返りを誘われたが、断った者たちだったのだ。
「彼らの口から、自分達の寝返りが発覚しないうちに!」
太田、梶原の謀略が始まる。

さて、我らが氏治公、太田梶原の言葉にまんまと乗せられ、小田城を出て
上曾、小幡退治の兵を出した。上曾、小幡両名からは使者が来て、「寝返りなどもってのほか、
何者かの讒言でござる!」と申し開きをするものの、氏治は納得せず、彼らへの攻撃を始めた。
その時である、
太田、梶原の軍、味方であるはずの小田勢に攻撃を仕掛けたのだ。

これに小田方は激怒。小田家家臣の川相源五郎は梶原に
「氏治公は八幡太郎義家公からの源氏の嫡流である!それを、源氏の執権である
梶原景政の子孫であるお主が裏切るとは何事か!
この逆心の企て、天罰逃れがたいと思え!」

と、罵声を浴びせ、これから両軍入り乱れての乱戦となった。

夕暮れの迫る頃、小田家家臣の信田重成はこう進言した
「両軍とも戦いに疲れ果てています。もはや夕刻でもありますし、ここは小田城へと
引き上げるべきだと考えます。今、小田城は留守の者少なく、何か事が起こっても対処できません。
夜陣を張るくらいなら、ご帰城なさるべきです。」

しかしこれに、氏治の嫡男守治が

「梶原のやつの首を見るまで、城になど帰れるか!だいたいこちらが圧倒的に大軍なのだ!
これで城に帰っては恥である!」

と、拒否。しかし決着は付かず、日が暮れると双方引き、小田軍は手葉井山に夜陣を敷いた。


さて、その夜、未だあけきらぬ頃
小田城に軍勢が攻めかかった。太田、梶原と連携した、北條氏高、真壁道夢の部隊である。
兵も殆どいないこの城、多少の抵抗を試みたもののたちまち乗っ取られてしまった。

小田落城。氏治はこれを聞くと慌てて奪い返すため引き返そうとしたが、菅谷正光より
「そのような事をすれば太田、梶原の軍勢と挟み撃ちにされるだけです!」と反対され、
仕方なく菅谷の居城、藤沢城へと落ちていった、とのことである。

これくらい見事に引っかかってくれれば、策謀をする方にもやり応えがあるだろうな、
と思うほどの氏治公なのであった。




889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/08(火) 23:20:27 ID:9s+4fu+k
>>888
ありがとう、ありがとう

小田氏治って前々から佐竹に負けまくって段々と領土が小さくなってきてるのに
よく殺されずにすんでるなと、なんとなく不思議に思ってたけど掘り下げてみると面白いね
農民も侵略してきた佐竹には年貢を納めずに小田にだけ収めてたってあたり
ここまで領民に慕われてた大名っていないんじゃないかとさえ思えるし
なんなんだ 一体
人間的な魅力に溢れてた人かも知れんね

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/08(火) 23:34:38 ID:U9mbTHTm
今でいうカリスマだけは溢れまくってたんだろうな
農民が侍を嫌いになる理由として戦が田畑をダメにする、というのは良く聞く文句だが氏治はどうなんだろ・・
田畑では戦わない、とかそういう精神を持ってたら面白いんだが

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 03:35:18 ID:96u4BgTO
ふじん(武人ではなく婦人)の仁をもった立派な御館さまよ

なんてな

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 09:15:22 ID:GbZwbwXH
それは「ふしん」と書くべきでは

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 11:35:00 ID:SMj/v7OW
まとめスレにコメントしときましたみてください-_-

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 11:59:24 ID:CfknTTwU
>>888
菅谷さんいつもお疲れ様です


908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 19:51:40 ID:mRe3rDPh
敵が策謀を仕掛ける

あっさり引っ掛かる

菅谷「それは敵の策謀ですぞ!」

無視

敗走及び小田城陥落

常にテンプレどおりな氏治様
そこに痺れる(ry


910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 19:58:32 ID:dQjRJRJq
>>908

「助けて菅エモン」

奪還

も追加だなw





関連
三楽さんの言い訳(佐竹側の記録)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3298.html

雑談・小田氏治様が面白い理由

2009年12月10日 00:10

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 19:27:36 ID:SyWIBrUg
>>896
やっぱ氏治様は面白いな
なにもかも面白いように裏目に出るし、かなり危機的状況にあっても絶対に死なない
実際には知らない人だけどこのスレ見てるだけでも彼の人間的魅力に触れられたような気がするww

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 19:49:45 ID:J4xi8W0k
なんでなのかねぇ
多分、安定した時代だったら、

「おらが村のいい殿さん」

で通ってたんだろうなあ
生まれる時代を間違えちゃった感じがする


909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 19:55:03 ID:SyWIBrUg
その辺りが分からないよね
確かに小田氏が長らく統治した土地で領民が懐いてたっていうのはあるだろうけど
それ以上のものを感じるね 家臣団にしてもここまで普通は忠誠しないでしょ 戦国の世なんだからさ
もの凄く阿呆で放っとけないタイプだけど人情に厚い人だったのかなぁ
小田城に執着する辺りにヒントがありそうな気もする


911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 20:03:39 ID:jTkfly+u
朝比奈泰朝が討伐する度に何故か今川領が減ってくのと一緒だな

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 20:12:49 ID:wQax6Wet
茨城のあたりの人ってマゾ体質?

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 20:59:42 ID:J4xi8W0k
人国記だと、常陸の国の人間はムチャクチャ書かれてるなぁw

犯罪者だらけで、それを恥と思わない気風がある、とかもう散々。
常陸に全き人無しとまで書かれてる。

ただ、昨日の味方を今日の敵とするような気風は全くない、とある。

そこがもしかするとヒントになるかもしれない。

914 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/12/09(水) 21:05:26 ID:IoE/6BPx
基本的にだだっぴろい平野が続く豊かな土地で気候も良い
よって、男も女も苦労しらずのどら息子or娘タイプが多い
良く取れば裏表のない子供のような人が多い土地柄だよ、今でもねw

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 21:10:25 ID:rgkyobkn
うちの殿さん10回くらい死んでてもおかしくね?
→何で生き延びてんだろ
→ヤバい何かが憑いてたりしねえ?
→じゃあ粗末に扱うとバチが当たるかもしれんのか
→なんか放っとけないしなあ

こんな感じだったりして

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 21:18:07 ID:SyWIBrUg
>>913
なるほど
なんか納得いった
だからこそ氏治様はそんな領民のいる本拠の小田城を取り返したかったのかも知れない
むしろ愛すべきは氏治様より常陸かも知れん

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 21:28:09 ID:U+9piukR
石高は常陸一国で結構あるしな
神話に登場する国譲りに抵抗した悪神アマツミカボシもあの辺りの神だし反骨精神は土地柄かもしれん
文化的にも中央と違ったのかもな

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 21:39:33 ID:VIsuXyu+
常陸は、平安中期成立の延喜式において「大国」に分類され、
しかも上総国、上野国と並んで親王任国。
とにかく格式において非常に高い地域だった。

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 22:04:33 ID:wQax6Wet
>>914
分かり易く言うとジャイアンみたいな人達?

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 22:09:24 ID:cWi5fnnb
ジャイアンは奥州に一人いたような気がする

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 22:13:15 ID:wQax6Wet
>>920
なるほど
ジャイアン気質と佐竹は水と油なんだな

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 22:26:32 ID:tH1GnZx2
南北のジャイアンに挟まれた佐竹さん(´・ω・`) カワイソス

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/09(水) 23:02:18 ID:lFH4b4uq
小田氏治を思う気持ち


ガキの頃のドリフで『志村うしろ~』と叫ぶも
まんまと引っ掛かる志村


あ~あ…志村バカだな~と言いつつ人気者


な感じか

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/10(木) 00:41:55 ID:83LjCrxR
伝説の栗林義長が小田一族岡見氏の下に帰ってくるのって氏治が小田を追われてからだっけ?