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本多正純と石田三成問答の外に、対談したる人を知らざる由

2014年10月02日 18:53

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/01(水) 20:48:53.33 ID:qh3k8BE1
関ヶ原の後、石田三成が捕縛されてからの東軍諸将との逸話は
人を変え、話を変え色々あるけどこれには異論もあるようだ。

本多正純石田三成問答の外に、対談したる人を知らざる由、本多正純に仕へし老兵のいひたりと語る人あり。
是れ正説なるに於ては、石田と対談の説に偽なるにや。(関原軍記大成)

黒田が小袖かけてやったのも、藤堂がアドバイス求めたのも嘘だけど
正則君が罵倒したという話も嘘なんだよ!正則君は本当はいい子なんだよ!!!
という話

関連
本多正純、石田三成を尋問す



三成、加増を辞退する

2014年07月20日 19:02

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/19(土) 22:42:40.79 ID:fFPbldre
三成、加増を辞退する

小早川秀秋の転封が正式に決まった時期、石田三成の家臣宛ての書状。


『殿下は我らに筑前筑後を下さり、九州の物主にしてくださるとのご内意でしたが、
そんなことをしては佐和山に置ける人もなく、身近で用を申し付ける人も少なくなるので、
(さ候へハ、又さわ山にをかせられ候ハん人もなく、ここもとにて御用御申つけ候人もすくなく候間、)
我らはこのまま(佐和山)でいよとのことになりました。
江州(近江)のその方の知行や蔵入(代官領)が増えないとなれば
悔やむ気持ちもありますが(くやみ申し候間)、よくよく申し付けてください。
次に筑後筑前は蔵入になるので、その旨百姓に言い聞かせるよう。
また金吾殿は越州(越前)へお替りになり、従って我らが(筑前の)代官になるよう命じられました。
近々筑前に下ることになるのでその心得でいるようにし、
この由を妻と父へも伝えてください(此由内儀、おきとのへも可申候也)。

廿二日 三成(花押)』

(「慶長三年(1598年)五月 家臣・大音新介宛て書状」 宇津木文書)





実は鷹オタクだった三成

2014年07月13日 18:51

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/13(日) 10:45:58.03 ID:409e/6Nw
実は鷹オタクだった三成

石田三成からの手紙」を読んだら興味深い書状が載っていた


『内々進上するつもりで先日お目にかけた鷹ですが、その時には
獲物を取ることができず、残念でした(昨、御覧候所にて取飼い申さず候、遺恨)。
今日は私の鷹師を遣わして雁を一つ取らせたので、鷹と一緒に進上します。
この鷹は申し上げた通り私の秘蔵の鷹です(我ら秘蔵に候、)。青鷺を取るということで来たのですが、
私のところでは雁に力を入れてこの春、菱喰(別名オオガリ)を入れて雁を二十ほど取りました。
その手際は同行した城州(山城守)がご存知ですのでお聞きになってみてください。

(中略)

ところで先日貴方の手から飛ばせた若鷹は、私の手からは雁を二つ、鷹師からは七つ、
大崎方では青鷺を二つ取りました。この鷹は次の秋に確かに鶴を取るでしょうから、大崎方へ残しています。
夏の間は青鷺を取ってお遊びになるといいでしょう。秋に鶴を取ったらお返しください。
(いったん渡したものを返せと言うのは)おかしなことですが(鶴取り候ハバ御返しあるべく候、おかしく候、)。

恐々謹言 廿六日 三成(花押)』

(「年代未詳 某中納言宛て書状」 下条文書)


三成は真田信幸にも鷹をもらったことに対する礼状を送っているので、鷹狩が好きだったのは確からしい
「中納言」「山城守」と言えば思い浮かぶのは上杉景勝・直江兼続主従だが、
三成がこれほどくだけた手紙を景勝に送るのは考えにくいということで、
著者はこの書状は岐阜中納言(織田秀信)宛てではないかと推測していた。真相はいかに。

鷹について熱く語る三成が微笑ましいのでいい話に




294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/13(日) 12:11:46.51 ID:7t4l/Swu
>>293
前田慶次でそんな場面あったな。三成の鷹狩りの最中に慶次と会ってバカにされてた。

常磐という舞妓

2014年04月06日 19:47

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/05(土) 22:22:28.95 ID:FfYqcsdC
徳川の世になったあとの京に、常磐という舞を舞う女があり、人が招けば、何方にでも行った。
彼女は石田三成の息女であると言われた。

そういう事もありうるであろう。あの真西山(真徳秀:南宋の政治家、儒学者)の孫娘さえ、
歌妓となったそうではないか。

(老人雑話)

京に、石田三成の娘という噂の舞妓がいたらしい、というお話。





フロイスdisりシリーズ、石田三成編

2014年03月22日 19:01

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 19:32:52.65 ID:w9hwEiiW
フロイスdisりシリーズ、石田三成

『1586年(天正14年)のこと

関白殿(豊臣秀吉)は堺の代官に二人の人物を任命した。その一人は(小西)ジョウチン隆佐であり、
今の海軍総司令官であるアゴスチイノ弥九郎殿(小西行長)の父に当たる。

このジョウチンは最良の人物で、都の最初のキリシタンの一人であり、教会並びにキリシタンたちの
古い友人である。

堺の代官となった彼の同僚は、佐吉殿(石田三成)と称する関白殿の家臣であり、関白の暴政を快しとしない
ジョウチンの大敵であり、キリシタンの敵でもあった。
彼は嫉妬深く、野心家で傲慢であり、その他の事柄においても悪徳に満ちた人物である。

この両名ともに、堺の代官に就任した。』

ルイス・フロイス『日本史』)

フロイスは石田三成も大嫌いだったらしい。




786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 22:09:08.63 ID:AXFVzZxh
上役への報告ってこんな適当で良いのか?
事実誤認が1つ2つじゃないけど…

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 22:28:49.94 ID:zFAj3K5p
後に二十六聖人事件で三成が秀吉の意向に反してまで
処刑されるキリシタンの数減らそうとした件について
フロイスさんの見解が知りたいw

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 22:31:05.60 ID:zFAj3K5p
あとフロイスさんって、清正とか市松とかセンゴクとか
ラスボスの子飼いでキリシタンじゃなかった奴は軒並みディスってるよなw

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/22(土) 00:10:02.54 ID:bBy/l9xL
>>786
その上司はさらに上司に向かって
こいつは誇張癖があり考え方も偏ってるとちゃんと報告してますw

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/22(土) 18:30:22.57 ID:H13RErIt
>>786
>>787
同じくフロイスが書いた「26聖人殉教記」では、三成の対応を見て
「日本史」でのボロカスな評価を改めたような記憶があるんだが
ちょっと自信ないから図書館で二十六聖人殉教記探してみるわ。

「関が原 八十島かけて」

2014年02月16日 18:50

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/16(日) 16:31:48.39 ID:L5CwiN+g
石田三成家臣・八十島式部は長らく主から厚遇を受けていた。
関ヶ原の戦い当日も、八十島は三成本陣に居たのだが、
東軍勢がいよいよ迫り来るまさにその時、なにを思ったか、ただ一騎駆け出していった。
「なんだなんだ?」と皆が見守る中、
八十島はそのまま両鐙で馬の腹を思いっきり打ち、さらに速度を上げると
あっという間に何処ともなく逃亡してしまった。

おそらく呆気にとられていたであろう石田本陣。
そんな中、ある三成近臣が、古歌を引いてこう詠じてみせた。

「関が原 八十島かけて にげ出ぬと 人にはつげよ あまりにくさに」

この歌に、三成も家臣達も皆々大笑いした、ということである。

(関原軍記大成)

誰がうまい歌詠めと。ってことで、いい話にいれとく




388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/16(日) 18:19:28.91 ID:VGZzl4fM
八十島って島津隊に伝令に向かったやつじゃなかったか?
馬上から伝令したとか?そんな話聞いたことあるけど
とんずらしたのはその後かな?

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/16(日) 18:34:49.33 ID:9lC7bs1m
>「関が原 八十島かけて にげ出ぬと 人にはつげよ あまりにくさに」

誰か解説してエロい人

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/16(日) 18:39:44.54 ID:3CY9DrX5
これのパロディ

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/72/19/tefu_tefutefu/folder/1297533/img_1297533_31615652_0
img_1297533_31615652_0.jpg

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/16(日) 19:07:31.73 ID:9lC7bs1m
ああ理解した。ありがとう

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/16(日) 22:16:21.44 ID:f6D5EAro
東軍の勢いにおののいてしまったのだな

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/16(日) 23:47:28.69 ID:JYim7sGM
兵どもにおののたかむら

二つの記録に登場する三成

2014年01月30日 19:15

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 13:02:55.52 ID:uE2pb5xB
過去ログ見ずに投稿。かぶってたらすいません。


関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城の戦いで西軍は敗北、岐阜城は陥落した。

勢いに乗る東軍は、次の目標を大垣に定め、長良川の河渡の渡しにおいて
石田三成の部将・杉江勘兵衛らと交戦、これを討ち取っている。
揖斐川の呂久の渡しの守備についていた三成と小西行長は、事態を憂慮、
墨俣を守っていた島津義弘と協議し、その結果大垣城へ退くこととなった。


このとき、島津義弘はわずかな供廻りしか連れておらず、兵のほとんどは
墨俣に残っていた。石田・小西両勢が撤退してしまえば、島津勢は敵中に
孤立してしまう。おのれのみあくまでも退こうとする三成に対して、義弘の
家臣新納弥太左衛門と川上久右衛門が三成の馬の口を取り、考え直すよう
迫ったが、三成を翻意させることは出来なかった。司馬遼太郎の歴史小説
『関ヶ原』でも採り上げられている話であり、小説では卑怯と責められた
三成が馬上で「卑怯ではない、卑怯ではない」と独白する場面もある。
これがもとで義弘は三成を信頼できなくなり、合戦当日に非協力的な態度を
とるにいたる―というのが小説の筋。上記の話は実際に従軍した島津家家臣
大重平六の覚書がもととなっている。無論、三成独白の場面は司馬の創作で
ある。


一方、あまり知られてないが、こんな話も残っている。



退却が決まり、墨俣の島津勢は前線から大垣城目指して急いでいた。はや
日も暮れようとする頃、行く手より一騎の武者が駆けてくるのが見えた。
その出で立ちは、黒の具足・水牛の角の立物の兜を被り、供廻りも従えず
ただ一騎のみで急ぎ駆けてくる…。

「あっ、あれは治部少輔殿だ」

そう、三成であった。

島津勢が墨俣からの退却に難渋していると聞き、見舞いに駆けつけたのだ。


出典は、これも島津側に残った神戸久五郎の覚書。


二つの記録に登場する三成、まるで正反対w。
ひょっとしたら、先の話は島津家がお家のために創作したのかも。




246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 13:15:18.76 ID:pnHGcZ8r
島津義弘は最初から東軍が勝つと思っていたんだよな
で東軍に入りたかったけど、ご存知の通りでご破算

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 13:18:47.90 ID:pZ7zDfLS
検地で三成と親しかったし、もとから西軍派だったけど負けたから死人に口なしってことで
西軍についた責任を鳥居におっかぶせただけじゃないか

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 13:45:19.32 ID:9Cqd3mn5
義弘は最初から中央の要請で上杉征伐行くつもりで大坂行ったらきな臭いことになってたから
やむなく流れで入っただけでしょ

三成に協力してくれなんてことは一度も連絡されてないし西軍なんてもんは知らんよ

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 14:47:53.84 ID:pnHGcZ8r
井伊の赤備え VS 島津ステガマリ は関ヶ原のクライマックスにふさわしいね

253 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/30(木) 16:26:51.41 ID:8Eq9Z+rj
>245
司馬の小説でその後の話も載ってたような。

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 17:35:31.66 ID:Ygv7vstz
>>253
色眼鏡で三成見てるなあ。
それでなくては小説家になれんのかな?

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 17:58:30.35 ID:AuvVqLon
>>255
色眼鏡って言うかどっちも資料に残ってる話をミックスさせただけじゃないの?

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 17:59:03.27 ID:YH16w5ma
ミックスさせればそうなるよな

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 18:15:28.36 ID:4KLIDOmA
>>233
立花家の道雪の甥の立花統春が、加藤家から逃げてきた罪人を匿ったことで
騒動になって切腹した話もあるね

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 18:38:04.13 ID:HkdSXETq
>>254
つ「やる夫が山形城に生まれたようです」

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 22:49:05.67 ID:w60+8gyk
>>245
水牛の角で黒田長政が単騎で突撃してきたかと思った

島左近の『掛かれえっ、掛かれえっ』の声

2013年12月23日 19:14

島左近   
93 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/12/22(日) 18:14:36.50 ID:2piN7hgx
他板からのコピペ

61 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です 2013/12/22(日) 14:39:59.76 ID:6pgrCdSz0
官兵衛とは関係ないけど、関ヶ原で石田三成隊と直接対決した黒田長政隊の将兵は、
島左近の『掛かれえっ、掛かれえっ』の声のあまりの恐ろしさに、戦いが終わって何年も経つのに夢に出て飛び起きたりした」
という経験をずっと子孫に伝えてたらしい
黒田藩士を先祖に持つ俺の友達が爺ちゃんから聞かされたと言ってた
その爺ちゃんはさらにそのまた爺ちゃんから聞かされたんだそうだ

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/22(日) 19:29:08.41 ID:vmBYXErI
>>93
めちゃくちゃ有名な「かかれ」の逸話だけど、当事者の子孫の口伝だと感慨深いな

95 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/12/22(日) 20:34:46.40 ID:kbt+XBzT
うむ。

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/23(月) 10:37:06.59 ID:+tpLCNq/
一方、島津家では「えい!えい!おーっ!」で惟新斎様が飛び起きた

雑残・忍城攻めについて

2013年10月20日 19:14

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/19(土) 22:24:04.84 ID:JTo68RAX
こうやって歴史は改竄される

【埼玉】三大水攻めの舞台、ポツンと水に浮かぶ難攻不落の「忍の浮き城」に、歴女もうっとり…「のぼうの城」で再び脚光、行田・忍城址
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1382186218/

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/19(土) 22:45:01.61 ID:89+jMl0r
忍城って工事中に戦争終わっちゃったとこだっけ

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/19(土) 22:50:49.63 ID:Be3/gGQ4
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7588.html
このコメントだと水攻め初出が17世紀末の軍記物だから
三成「あとちょっとで堤ができて秀吉様の言われたとおり水攻めができる」
成田「小田原自体が開城したんで、降伏します」
三成「なんだったんだろうな今までの努力は」
て話が有力みたいだ

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/20(日) 10:53:36.96 ID:B1EW+Wv+
>>525
そら軍記に書かれてるような
「勝手に水攻め→味方に大被害」なんて失態をマジでやらかしてたら
あの場にいた誰かが何らかのお咎め受けないとおかしいしな。

石田三成、捕縛されて

2013年08月01日 19:53

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/01(木) 00:59:56.75 ID:dTvFgpKp
関ヶ原の戦に敗れて、石田治部少輔三成は、家人をも召し連れず、落ちゆく勢びうちに紛れて歩いていたのを、
田中兵部少輔(吉政)の家人・田中傳左衛門がこれを発見し、

「治部殿でありますな!今はあなたの御運も尽きんとする時ですぞ、とどまり給え!」

そう叫んで走りかかり、押し留めた。これに三成は

「いやいや、名も無き下人である。治部ではない。人違いをされては困る。」

と言い逃れようとしたが

「見忘れられましたか?田中傳左衛門です。関白殿(秀次)の元で幾度か見参いたしました。」

そう言ってこれを押し捕えた。
その場所は近江の古橋というところで、先ずこの辺りの寺に伴い、そして陣所に連行して
兵部少輔(吉政)に注進した。

このとき三成は、1尺3寸の放し目貫の脇差を佩び、柿色の帷子ひとつを着て、米5合ほどを
袋に入れて腰につけていた。
その脇差の目貫は黄金の駒であったが、裏側には目貫はなかった。
これを見て田中傳左衛門が聞いた

「これはどうして、裏の目貫がないのでしょうか?」

「家人が一人つきまとったので、この目貫を抜いて与え、これを印として大阪城に赴くようにと
言って、落としてやったのだ。」

そして三成は傅左右衛門に向かい

「父である石田木工、その他の人々はどうなったのか?もし知っているのなら教えてほしい。」

と尋ねた。傅左右衛門は

「木工殿は妻子を刺し殺し、その身は潔く御自害をされました。その他の方々も同じ道を取られました。」

そう申し上げると、三成は心良さげに笑われ

「ざっとすんだ。」

と言った。
これを見て傅左右衛門は思わずこう尋ねた

「大事の合戦に敗れたというのに、どうして御自害されず、このように囚われの身となったのでしょうか?」

この言葉に、しかし三成は

「これはお前の解るような事ではない。こう言う時に潔く自害などするのは、お前たちのような者共が
することだ。私はそんな事は出来ないのだ。」

そう嘲笑ったという。
(話園)

石田三成が捕らえられた時の逸話である




114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/01(木) 18:21:02.52 ID:tkS35PAS
>>112
木工は兄じゃないの?原文で父となってるのかな

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/01(木) 21:29:45.60 ID:pQIUAOae
>>112
ふむ。

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/01(木) 21:33:20.68 ID:lucOSRHD
>>114
木工は兄貴の方だね

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/02(金) 06:16:03.75 ID:sQqwgHtB
>>114
投稿したものですが、これは原文から父になっていました

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/02(金) 09:35:58.76 ID:V9sJiln7
てことは、原文の作者が勘違いしたんかね?

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/02(金) 20:25:30.73 ID:Re+10w4C
それなら仕方ない

石田三成「奉公人は主君より受けた物を」

2013年02月12日 19:50

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 18:38:01.96 ID:yJpl3w0k
石田三成はいつも言っていた。
「奉公人は主君より受けた物を使い切って残してはならない。残すのは盗みだ。
使い過ぎて借銭するのは愚人だ」と。

――『老人雑話』




372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 19:11:37.15 ID:clvCvojD
利家「しみったれだなw」

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 19:30:14.44 ID:1MKziXPE
予算はきちんと調整して過不足なく消化すべきだよな

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 20:10:42.54 ID:Hb/1GD5J
ホントみみっちい小物の発想だよな

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 22:20:42.95 ID:Ir7CtSXw
>>371
予算をきっちり使い切るため無駄な道路工事する
馬鹿役人と同じ

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 22:45:34.96 ID:Hb/1GD5J
こんな調子じゃ飢饉とか不測の事態に絶対対応できないな。

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 23:05:38.42 ID:WeaS37Sw
まぁせっかく経費節減して予算残しても翌年その分減らして組まれるからな

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 23:13:38.95 ID:2AuNZxn8
>>377
×予算を使い切る為に工事をする
○予算を使い切らなければならないほど工事がたまっている 不測の事態のために年末まで残さざるを得ない

スレチなんでこれ以上は自重するけど

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 00:14:04.16 ID:7//QQLH9
てか大久保利通やサラディンにも似たような話があるのに
三成だからってひねくれた視線で見すぎだろお前ら。

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 08:59:10.90 ID:PRh5nkEm
>>381
いつもの事じゃないか

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 10:09:02.62 ID:SLzEI9g/
公費のことなのか?
単純に下賜された私財の話かと思ったけど

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 10:13:57.63 ID:7rGOf7Yj
まあ予算の話じゃないわな。この時代の武士の場合、なにか命じられたらその執行は自弁が基本だから。
主君から資金を下賜された場合、それを私するのは罪だし、足りなくなるのはアホだ、って話だわな。

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 10:14:59.77 ID:Fhk0QbMO
>>383
貰った領地から上がる収入のことかと思った

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 10:23:22.59 ID:7rGOf7Yj
信長が佐久間信盛折檻状で、領地を持ってるのに家臣を抱えないって怒ってたのと同じで、
家臣に与えられた物は私財ではなく、主君のために働くための資本金なのだから、その資本はフルに有効に
使い切れってことやね。カネを眠らせるな。
だからといって首の回らなくなるような状況になったら身も蓋もないからそういうことにはするな。

「主君より受けた物」を予算だと考えると、根本的に解釈を間違う話だな。

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 10:34:52.39 ID:6EGghE3n
予算を「主君のために働くための資本金」のつもりで言ってるんじゃないのか
収入と支出の計画ではなく

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 21:19:46.11 ID:X0ymwCLR
島左近の逸話とかその辺の話だろうねえ


捕縛後の三成

2013年02月12日 19:50

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 20:13:26.65 ID:+YqTz4/J
このことについては日付は忘れたが、関ヶ原の決戦のあと、逃亡した石田治部少輔(三成)を捕縛するよう
田中兵部少輔(吉政)に仰せ付けられ、田中兵部は近江の国北の郡を草を分けるかのように細かく探索したが
それでも行方は知れなかった。

或夜、吉政の宿舎の前を、夜中だというのに一人通るものがあった。
番の者がこれに気が付き、お前は何者かと尋ねると、台所に水汲みに行くのです、と答える。

「水汲みであっても、何者も通すことは出来ない!」

怪しいと感じた番の者達はこの男を取り囲み捕らえた。
その夜は小雨が降り、暗い夜であった。火を燈してこの男の顔を照らしてみると、
なんと、この者は石田三成であった。
この時のいでたちは、綾の茶の小袖、裏は浅黄。笠をかぶり腰蓑をして端折れの脇差を差していた。
この脇差を取って見てみると、これは吉光作の名物であった。

三成は大津まで連行され、そこで本多上野(正純)に預けられた。
この時三成は下痢を患っており、食事も殆ど取れず昼夜寝ていたそうである。

本多中務(忠勝)が見回りに来た時、三成と対面した。
忠勝は三成の前で畏まり、両の手を前について申し上げた

「治部少輔殿、あなたは分別を間違えたために、そのような体に成られたのですぞ!」

しかし三成は何の返事もせず、ただ寝ていたと言う。
これは本多正純の家臣で、三成の番をしていたものが後に語ったことである。
(慶長年中卜斎記)

慶長年中卜斎記より、捕縛後の三成の様子についての非常に興味深い記録である。







三成の家康暗殺の刺客

2012年10月24日 20:02

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/23(火) 20:01:50.82 ID:rtrEvqkq
美濃の国の住人に加々江彌八郎という者があり、大剛の早業の侍で、石田三成とは刎頚の友であった。

さて関ヶ原の役の勃発直前、三成は加々江彌八郎を招き寄せ、今回の挙兵の次第を説明した。
彌八郎はこれを聞いて

「私が以前、太閤のご命令を背いた時、あなたの取り扱いによってお許しを頂くことが出来た。
この厚恩は忘れられぬものである。であればこの一命をあなたに奉ることは、第一には秀頼公への忠節であり、
第二にはあなたへのご恩返しでもあるので、まったく簡単な事である。」

そう言い切った。これに三成は大いに喜び

「ならば秀頼公からの慰問のお使いとして江戸に赴き、家康に対面して、その時彼を刺し殺してほしい!」
家康の暗殺を依頼した。これに彌八郎は少し戸惑い

「仮に世情静謐の刻ならば、幼君のお使いとあれば内府が対面しないということはないだろう。
しかし今は会津征伐もあり世の中は立ち騒いでおる。この様な折に内府ほどの老巧の者が、そう簡単に
対面などするだろうか?」

しかし三成は諦めない
「家康が対面しなければ是非無いことである。しかし、もし近寄るべき機会があれば!
偏に頼み入る。これを果たした時、あなたの子息に、相違なく一国を与えるだろう!」
そう言って起請文を書き、彌八郎の目の前で血判をしてこれを渡した。
彌八郎もこれを見て決意し、起請文を懐中に仕舞い、莞爾と笑って退出し、早速江戸へと下った。



家康に秀頼公よりの御使者の故を申し上げても、案の定家康は対面しなかった。
それどころか奏者(取次)の者達すら彌八郎をまともに相手にせず追い返し、これにはさしもの大剛の
彌八郎も呆れ果て、頼る人もいないまま、力及ばぬ有様にてすごすごと帰っていったそうである。

三成の家康暗殺の刺客、誰からも相手にされず。というお話
(玉露叢)




980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/23(火) 20:55:48.01 ID:ppGrbvHA
>>976
加賀井重望と微妙に名字とやったことがかぶっている気がする

石田三成 小名浜に来たりて言う

2012年10月20日 19:59

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 14:09:22.78 ID:Nh5KBDq5
石田三成 小名浜に来たりて言う 『この浜、末は大繁盛の地とならん』と

宝暦六年(1756)に、岡小名村の日蓮宗安立寺住職日忍が記した「�集咄」(れんしゅうばなし)と題する、
怪談や昔ばなしを集めた本があった。日忍の自筆本は伝わらず、写本によってその内容を知るだけである。
その別名を岩城名所談ともいう。その中に、小名浜について記した次のような一節がある。

(文中略)古老の言ひ伝えに、天正年中、石田治部少輔此処に来たり、屋の上に登り上下を見渡し、
此浜末は大繁盛の地にならんと言いしとかや、不審なれ。(文中略) 

秋田藩家蔵文書にある天正十八年(1590)十月九日付の白土右馬助書状に「石田殿今日平へお着き」文書を
見いだしたことから、なるほど、これなら小名浜に来たとしても無理はないと考えた。さらに、「屋の上に登り」とある箇所は、
屋根に登るいうのは不自然であり、屋は崩し字では臺と紛らわしくなるので、「臺の上」であろうと推定した。(文中略)

小名浜の某寺の寺伝より引用しました。個人サイトなので詳しくは『小名浜 石田三成』で検索すれば出てきます。
公共サイトにもこの出来事について詳しい投稿記事があったので、こちらはリンクしておきます。

いわき地域情報総合サイト『いわきアイアイ』 ttp://www.i-iwaki.jp/modules/myalbum0/photo.php?lid=949

豊臣秀吉の奥州検地での出来事のようです。某寺院の開基は嘉吉3年(1443)、岩城下総守・岩城親隆とあり、
当時、小名浜は佐竹義重の三男である岩城貞隆の所領。岩城氏所有の館があったらしいとの記述も見えます。

後年、江戸時代に東回り航路が河村瑞賢により開発され、近隣の『平潟』『中の作』などが発展したそうですが、
近代になってからの小名浜港の発展と重要性は言うまでもありません。石田三成の『慧眼』の程が窺い知れます。

皆さんの地域の歴史や社寺の故事来歴を調べると、有名武将の『ちょっといい話』が埋もれているかも知れませんよ





10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 16:57:10.55 ID:76qgw/5G
ほう
興味深いな
たしかに郷土の寺の書や伝説はいろいろ掘ったら面白そうだ
でも小名浜自体はそんなに有名ではないとは思うがw

いわきのサイトおもしろいなwフラ丼食いたい

石田三成の嫡孫と幕府のちょっとした関わり

2012年10月11日 20:22

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 14:57:16.93 ID:AdLUoIWj
石田三成の次男が関が原後に杉山源吾と名乗って弘前藩にいた、というのは
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5858.htmlで挙げられたが、その杉山源吾の長男の杉山八兵衛吉成のお話

寛文9年(1669)のシャクシャインの乱で、松前藩は弘前藩に援軍を求めたが、その年は弘前藩主津軽信政が参勤交代により江戸にいた。
国元の重臣たちは集まり江戸藩邸に指示を求めた。
藩主からの指示は「松前への援軍は津軽喜左衛門、杉山八兵衛を当て、緊急の場合は杉山八兵衛を先発とすること」という内容であった。

やがて、老中稲葉美濃守正則からの書状により杉山八兵衛を総大将とする700人程の弘前藩の援軍が出発した。
松前に無事に着いたは良いが前線への出動はなく、特に何もないまま津軽に戻ってきた。

帰国した杉山八兵衛はすぐに藩主信政の書状を持ち、江戸城に向かった。
江戸城では藩主信政の姉婿土井利房以外の全ての幕閣が待っており、将軍家綱の口上書と土井利房の口上書が読み上げられ、その後祐筆の則田安信は「幕閣諸侯と杉山八兵衛との会話は之を略す」と記しており、酒肴を賜り、歓談が行われたようである。


逸話でもなんでもないけど、石田三成の嫡孫と幕府のちょっとした関わり。既出だったらごめんなさい。




885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 16:27:12.70 ID:7y7v6tMy
この時代でもまだ蝦夷やアイヌと戦うことあったんだな

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 17:02:37.66 ID:Z/ryKddj
顔が石田に似てたりはせんのかのう

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 23:54:46.28 ID:RTURwGJQ
>>884

三成の孫だったかひ孫が家光の側室になったとかいう説もあったな
その娘が尾張家に入ってるんだっけか

退魔寺由来

2012年09月18日 20:26

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 03:53:01.83 ID:rLDRY1Tr
群馬の伊勢崎に退魔寺という寺がある。元々は1371年に香華院という名で建立された。
寺の伝承によると、ある時この寺付近で夜な夜な妖怪が現れ
付近住民達が難儀していたところ、偶然現地に立ち寄った石田三成によって妖怪は退治された。
以来、この寺は寺紋に石田氏と同じものを使うようになり退魔寺と呼ばれるようになったという。

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 03:56:46.02 ID:rLDRY1Tr
どういう妖怪でどうやって解決したのかという詳細は残念ながらよくわからず
異説もありますが、三成が妖怪退治というかなり意外でユニークなエピソードなので紹介します。
因みにこの寺はその名の通り、魔除けや開運に御利益があるそうです。




516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 09:00:47.26 ID:SxCuHzyl
三成が頑張ったよい話なのに、だれにも触れてもらえない憐れさ

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 09:04:38.59 ID:/kFK5gl6
>>516
三成「破ーっ!!」

した話だけどもうちぃっと中身が欲しいッスね


518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 09:20:57.87 ID:TaHAp6Fu
SF作家、豊田有恒「退魔戦記」でたしか退魔、という言葉は不自然な言葉だから
本来はない言葉のはずだ、という場面があったが
そんな名前の寺が

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 10:04:46.71 ID:ELXhib7U
よし、その寺で相撲大会だ

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 10:48:35.41 ID:fVvg/iSg
>517
寺生まれのIさんだ!

522 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/09/18(火) 11:37:34.06 ID:/ArkAxyN
www

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 13:25:49.79 ID:Um4w4ZLW
>>519
それは野見宿禰と大麻蹴速の故事にかかってるのか?

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 14:08:10.99 ID:JnSHtoIl
>>517
水で攻めたのか、茶で攻めたのか…

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 16:27:10.66 ID:cfjdAnJP
>>510
ネットで検索した限りでは、
・三成自ら一刀のもとに叩っ斬った
・兵を遣わして退治した
という二説があるようですな。

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 17:05:29.37 ID:dppfpZmO
大麻ではなく当麻のような

527 名前:523[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 17:17:16.63 ID:Um4w4ZLW
ごめん
読みばかり頭にあってそのまま変換したw
そりゃ大麻になるよなw

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 17:24:06.40 ID:7lyVOqbv
じょうじょうたいま
いや、なんでもない

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 17:26:42.07 ID:CwYnrZCa
>>517
酒持った爺さんとすれ違った瞬間
「あの爺、妖怪に違いない!」とたたっ斬るくらいの描写は欲しいよな

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 17:33:03.79 ID:RSgyjJ8e
その人を知るには、友人を見れば分かるっていうけど、
閻魔直江が親友な時点でかなり嫌な奴だったのは間違いないな。

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 17:39:21.02 ID:4hdCfDY/
信之も親友という感じだが
大谷は実はそうでもないという話だけど

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 17:55:33.11 ID:LRZJi5c4
>>530>>531
三成の話?
なぜ直江が閻魔なのかわからんが直江も信之も外交相手というだけで
別に親友じゃないよ

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 18:22:25.04 ID:SxCuHzyl
>>532
処刑された罪人の親族が還してくれと泣きついたので、自分で閻魔に掛け合って来いとぶっ殺した

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 19:11:55.55 ID:u4pHuFrF
>>533
それは慰謝料もらってもごねた
モンスタークレーマー相手だったから

大谷吉継・石田三成恋人説:原文

2012年09月07日 20:38

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 18:51:28.13 ID:LYC4+IFH
近デジの武功雑記読んでたら

大谷吉継石田三成恋人説
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5215.html

これのおそらく原文見つけたので、短いので書いてみる

・石田治部少輔を度々大谷刑部少輔しかり、又は頭をはり候。
 石田大谷に恋慕して、知音になり候。
 それより頭をはらるるも、忝と云うやうにもてなし候。
(武功雑記 巻十二)

なんだかホントに異様な関係性だなw



関連
大谷吉継石田三成恋人説
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5215.html


357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 18:56:10.05 ID:qAOThYD4
頭をはる、て
漫画の風雲児たちの大谷吉継がハリセンで三成どついているのって、
元ネタあったのか

359 名前:357[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 20:33:53.85 ID:g4K+jpQy
てリンクのまとめサイトのこの話のコメントみたら
風雲児たちネタがいくつかあった

石田三成と佐和山城のお話

2012年06月13日 21:01

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 20:56:28.51 ID:WQppCoo7
石田三成と佐和山城のお話

豊臣秀吉のもとで五奉行のひとりとして活躍した石田三成は、
1590年の10月に佐和山19万石を与えられ若くして名実ともに豊臣政権の実力者になった。

当時はちょうど奥州仕置が終わり、天下が豊臣家の手のうちに治まった頃。
実力ある大名に成長した三成もその身分に応じた城に住まわねばならない。
そこで彼は当時荒廃していたといわれている佐和山城に大きく手を入れ、山頂に五層(三層とする説もある)の立派な天守を構えた要害堅固な近世城郭を築いた。
その姿は滋賀県多賀町に伝わる「かんこ踊り」の歌に遺されているとおり、大変壮大なものだったそうだ。

※以下はその歌。

おれは都の者なれど 近江佐和山見物しよしよ 大手のかかりを眺むれば 金の御門に 八重の堀
先ずは見事なかかりかよかよ 御門をはいりてこの又かかりを眺むれば 八ツ棟造りに七見角
先ずは見事なかかりかよかよ うらの御門先出て 北を眺むれば すそは湖や見事見事 
よい城よ 見事な城よ 堀ほり上げて せきしょをうえて
せきしょに花が咲きしならば この堀ほりは花ざかり 花ざかり

それから10年後、石田三成は天下分け目の関ヶ原の合戦で大敗を喫した。
そして彼のいない佐和山城に小早川秀秋の軍をはじめとした東軍の軍勢が押し寄せてきた。
三成は豊臣政権の中枢に長くありながら、普段から質素倹約に努めていたことで有名だったので、
寄せ手の兵は「佐和山城の内部はきっと華やかで、金品も蓄えられているだろう」と思っていたそうだ。

しかし城に入ってみればそこは華やかな外観とはうって変わり、質素な風情だった。
住居の壁には上塗りが施されておらず、荒壁がむき出し、室内の多くは板張りのまま。
庭も地味なもので四季を彩るような樹木が植えられておらず、手水鉢も石そのもののような粗末さだった。

また、東軍に仕えた医師・板坂卜斎の手記には「佐和山には落城以後金銀は少しもなし、治部(三成)貯え申さず候由」と記録されている。
つまり三成は関ヶ原の戦いに挑む直前に、ほぼ全ての金品を西軍に投資していたのだ。

三成は生前、こう周囲に話していたそうだ。
「奉公人は主君より取る物を遣い合わせて残すべからず。残すは盗なり。遣い過して借銭するは愚人なり」
彼はこの言葉どおり最後まで奉公人として、主家豊臣家のために全てを尽くそうとしていたのだろうか。





796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 21:00:00.45 ID:/CrEUxH9
市民の僕たる現代の公務員が予算をきちんと過不足なく消化するのと同じ精神ですね

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 21:05:58.15 ID:auTsToZb
それとはぜんぜん違うw

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 21:06:49.75 ID:lbAoxrH/
>>796
違うだろ。私財を蓄えて、使うのは市民の金ってのが公務員じゃないのか

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 21:16:56.78 ID:fs09v/N+
負けてしまえば質素倹約も水の泡だな
慢らぬ者も久しからず

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 21:23:26.59 ID:Tyt8pXd2
????????

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 21:33:47.80 ID:qCLfYI9h
へいくわいものって、傲慢って意味じゃなかったか

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 21:35:24.63 ID:Mn9zff8b
驕ってもダメ、驕らなくてもダメ、なら驕ったほうがよくね?

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 21:41:51.03 ID:fs09v/N+
>>802
身の程を知った上でなら、奢るのも奢らぬのも










自由だぁ~
武士の道は奥が深く候

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 21:47:23.49 ID:YHyx6QR/
驕る平家はなんちゃらかんちゃらって結果論だよな。

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 21:50:50.25 ID:8TaqR9OO
>>804
ありゃ「栄者必衰」にかかってるから、「驕り高ぶるほど繁栄した平氏も、その繁栄は長くなかったよ」って事だよ。

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 21:55:01.20 ID:YHyx6QR/
>>805
えー、因果関係は無いって事か。

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 22:04:18.53 ID:fs09v/N+
平家の驕りという因に、源氏という縁がより、滅亡の果が出た

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 22:19:02.29 ID:xBcrWkZA
三成は豊臣政権内であれだけの地位にいた人物で有名な武将でありながら
その割に現存する肖像画などかなり少ないよな負け組はやはり扱いがひどいんだな

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 22:33:46.91 ID:B/VYMa5e
肖像画なんかは子孫が絵師に依頼する場合が多いから…
家が途絶えるとね。

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/13(水) 19:21:05.50 ID:f5zdBKFe
>>798
立花さんとこの小野さんみたいに溜め込んだ私財を震災復興に投じてくれるような公僕がいたらなあ

833 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/06/13(水) 19:54:34.80 ID:ipu/9BSw
>>831
岡左内も

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/13(水) 20:43:37.41 ID:osSbxBvC
「御安心召されよ、斯様な大事あらば我が内ヶ島家がいち早く馳せ参じお助け致しましょうぞ!」

835 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/06/13(水) 20:47:42.46 ID:bJZSvTNS
>>823 824
タイミングがむずかしい

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/14(木) 14:54:32.46 ID:Rt9IXDL3
>>831
さすが顕如はんや!!
見事なまでの絶対他力やで

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/14(木) 15:04:09.86 ID:brE2UoFG
>>796
予算の半分は借銭じゃ…
やっぱ二公一民くらい税金取らなきゃやっていけないな

”秀家”騒動

2012年05月22日 21:00

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 06:29:21.94 ID:btwXSsLi
1590年徳川家康の後継者に最も近いとされる三男竹千代が元服することになった
この時元服にあたり諱を兄秀康に習い秀吉と家康の字をもらう事で秀家としてはどうかという案が出た
しかしすでに秀家を名乗る者はいる宇喜多秀家である
このためは銀子三百枚で秀家の名を譲ってもらってはどうかと言う案も出され
石田三成宇喜多秀家に交渉を試みた

しかし秀家は憤慨し交渉は失敗
しかも三成と秀家の仲も一時悪くなり三成は以後大谷吉継に秀家に対しての諸事を相談してから応るようになったという

そして徳川秀家は実現せず家康三男竹千代は元服後父祖伝来の忠の字を継ぎ徳川秀忠となったとさ




348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 06:37:47.02 ID:uia1kN9G
三成は本当にダメな子だなあ

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 06:56:05.40 ID:8qQBZDnf
ここに銀子三百枚ござる、これで貴殿の名前を徳川様に渡されよ
新しい名前は好きに決められるが良い

こんな感じで交渉してそうだ
しかし上手く交渉したところで秀吉の秀と宇喜多伝来の家なんだから譲るわけないとも思える

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 07:08:07.12 ID:nuw9LNVV
まあ宇喜多の場合は、秀家から父親の一字をとって秀直、という手もあるにはあるからな。

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 07:30:58.69 ID:yQyCkQot
別に秀家ふたり居たっていいじゃん。
えっ?だめなの?

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 07:44:20.03 ID:FBudDokO
「んじゃ、また秀勝いっとくか…」

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 07:45:18.07 ID:7kiFbm6R
もうめんどくさいから秀秀にしちゃえよ

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 07:57:44.13 ID:XgVRoYzR
>>350
家は宇喜多家の通字だから無理だろ。
徳川の家は家康以来のにわかだからな。


355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 07:58:24.05 ID:gggpkjLb
>>350
宇喜多の通字が「家」だから駄目だろw

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 08:10:22.53 ID:DB9NcRrJ
信康
秀康

う~ん、本当は「○康」で統一したかったんだろうな…

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 08:58:18.42 ID:GbQ3Luqj
銀300枚っていくらなんでも安すぎだろw
名物茶器の1つも買えやしない

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 09:00:45.28 ID:LmniDXIS
>>351
姓も官位も被りそうだしなかなか厳しいんじゃないかなあ…

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 09:02:56.02 ID:gNi0KE9K
国家
安康
君臣
豊楽

好きな名前をえらんでね!

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 09:10:50.97 ID:eTWDdC0F
バラなら問題ないだろw

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 09:46:22.81 ID:Sso/Rx7Y
お金で名前譲れとかもうねアホかと

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 10:04:52.42 ID:NiEjEz6K
宇喜多"Yahoo!BB"秀家とかどうよ

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 10:15:31.45 ID:xLdTtJs1
この初花肩衝と引き換えではいかがかな?とかだと人によっては・・・かも

364 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/05/22(火) 10:43:52.59 ID:Nt0Z+AfQ
>>363
それ、ほとんどの大名が即OKするとおもう。

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 11:26:03.14 ID:wOVGIGjX
大友義統→吉統の例もあるし、吉康でいい気もするが
それだと三河者たちが納得しないのかな

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/22(火) 12:51:37.40 ID:zc0fRLlu
>>365
徳川家の惣領息子にそれは無いだろ
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慶長五年七月三〇日付真田昌幸宛石田三成文書の一節

2012年05月03日 21:03

8 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/05/03(木) 16:23:21.03 ID:Hte26Ogr
慶長五年七月三〇日付真田昌幸石田三成文書の一節

「会津征伐に向かった大名達は自分たちが挙兵したと聞いて、家康のもとを離れて帰国しているようですが、美濃・尾張で
秀頼様にしっかり忠誠を誓っているか一人一人、調べる予定です」
「今年の暮から、来年の春に関東の家康を討伐するために畿内から西の大名に動員をかけています。八月中には近江に
集結させて、兵糧米を与えた上で各方面に派遣する予定です」

取らぬ狸の皮算用がもの凄いことになっている




13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/04(金) 17:37:48.52 ID:FjlMaFMg

>>8
田丸さんぐらいしか戻って来てない(それも本当か怪しい)w

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/04(金) 17:41:09.34 ID:GaGL5wUB
関ヶ原の時の島津義弘の書状で、関東から誰も帰ってこないことに慌てて西軍首脳部が大阪城で
緊急会議開いた、というのがあったな。
どうも三成始め西軍は、大阪城を抑えたら家康の会津攻めの軍勢はすぐに崩壊すると考えていたっぽい。

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/04(金) 17:45:26.02 ID:+HAa1Kgd
秀吉の晩年の乱行のせいか、建前以上に豊臣家万歳している大名なんて少数派だったしね。
さすが三成、計算はできても心情には疎かった……。