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高国近江落ち

2018年03月16日 15:59

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/16(金) 04:26:55.72 ID:l34Vc7iF
このため高国(細川高国)は丹波・山城・摂津国に触れを出しなさり、同年(1519)11月21日、
都を出立され、同12月2日に池田城へ御着きになった。越水城の御詰のために小屋野間九十九町・

高木・河原林・武庫・寺部・水堂・浜田・大島・新田・武庫川の方面に上から下まで陣を取り続けて、
折々合戦なさったのである。年は暮れて永正17年(1520)庚辰になり、1月10日に高国より

諸陣へ触れを出しなさり、2万余騎で打ち出た。諸口では合戦が終日あり、高国方の丹波守護代・内藤
備前守(貞正)は火花を散らして合戦され、切り負けて2百人ほどが討たれて退却した。阿波衆も百人
ほどが討死し、双方手負いは数を知れない。また高国方の摂津国の住人・伊丹兵庫助国扶は中村口へ

攻め掛かり、木戸や逆茂木を切り落として内へ込み入って申の刻から酉の終わりまで合戦し、伊丹衆は
打ち勝って阿波衆の首50余を討ち取り、勝鬨を作って制圧した。また同日に城中より、正門の木戸を
開いて2人の者が「我ら当国大島の住人、雀部与一郎!」「同しく弟の次郎太郎!」と名乗り、

「高国のため、また家のために命は惜しくない! 敵方は誰でも寄り合いなされ!」と、大声で叫ぶと、
澄元方の田井蔵人が名乗り寄せて切り合ったのである。雀部は切り勝って蔵人の首を討ち取ったが、

雀部兄弟も痛手を負って城中へ入り、それから4,5日して死去したのだった。対馬守(瓦林正頼)を
始めとして上下ともに惜しまぬ人はいなかった。城中では月日を送るにつれて気力を失い、

同2月3日の夜半に対馬守は安部の蔵人と談合して、城を開けなさった。この時、若槻伊豆守は老体で
あったため「どこまで」と思い切り、腹を十文字に切って死去した。

これにより後詰勢の衆は地田・伊丹・久々知・長例・尼崎へ引き籠った。そのため澄元方の三好筑前守
之長は難波へ陣取りなさる。他に澄元方は小屋・富松・生島・七松・浜田・新田へ陣取り、同16日に

1万7千余騎で尼崎・長洲へ攻め掛かり合戦となった。大物北の横堤には、高国方の香西与四郎が打ち
出て、三好孫四郎(長則)と渡りあって太刀打ちし、双方名を上げなさった。その日は暮れて雨も降る
ので両方は互いに退いた。このため高国は叶わないと思し召し、城々へ仰せ合わせられて、その夜中に

高国方は一同に京へ上りなさった。このような成り行きは「1月10日は西宮の御狩神事の日である。
“居籠”といって人音もしない日だというのに、攻め掛かけなさった御罰である」と人々は申した。

されば落武者の哀しさよ、高国は京にもいらっしゃらずに近江国へ落ち行きなさった。今度は公方様
(足利義稙)は澄元に一味して京におられた。さて伊丹城の中では伊丹但馬守と野間豊前守の2人が

申して「当城はこの数十年の間、諸侍や土民以下の者たちが苦労して拵えたというのに、その甲斐も
なく逃れては口惜しいことよ。我ら2人はこの城の中で腹を切ろう」と、四方の城戸を閉ざして家々
へ火をかけ、天守で腹を切った。これまた剛なる人かなと感心しない人はいなかったのである。

――『細川両家記』


越水城の戦い

2018年03月15日 21:30

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/15(木) 05:11:26.73 ID:0dI25yIH
時に永正16年(1519)己卯歳、秋の頃より澄元(細川澄元)は四国と播磨の勢を催して切り
上らんとの御談合をなされた。御家中の摂津の住人・池田前筑後守(貞正。細川高国方と戦い討死)

の子息・三郎五郎(信正)が申されて「今度、御上洛されるならば、摂津国口の先陣はそれがしが
仕ります!」と申し受けし、摂津有馬郡田中というところへ上って軍勢を揃えていると、高国方の

瓦林対馬守正頼、池田民部丞、塩川孫太郎が相談して、かの田中へ同10月22日夜半に夜討した。
ところが田中の勢へ通じた者がいたため、田中の勢は整えて待って戦ったので、攻め手は案内も

分からず、20日あまりのことなのでとても暗く、雨は降り、さんざんに切り散らされて塩川衆も
瓦林衆も身を変えられぬ人たちが数多討たれて、やっとのことで退却した。池田三郎五郎は首30
あまりを討ち取り、すなわち阿波国へ注進申された。

これにより澄元の御感あって三郎五郎に豊島郡一色を御与えになり、弾正忠になされ申したという
ことである。さて澄元は四国や淡路・播磨の勢を催し、三好筑前守之長の御供で兵庫浦へ着いて、

灘へ上りなさった。高国方の瓦林対馬守(正頼)は今度は越水城に立て籠り、澄元は「まずこの城
を攻めよ!」と、1万余騎で城を取り巻きなさる。澄元は神咒寺の南の鐘の尾山という山に陣取り

なさり、三好・海部・久米・川村・香川・安富は広田・中村・西宮・蓮華畑に陣取って、毎日合戦
なさった。城中には究意の弓ども(弓を極めた者たち)あり。中でも一宮三郎は比類なく聞こえた

者である。それゆえ三郎が矢を十放すれば7,8人に射当ててみせた。攻め手の人々はこれを見て、
例えば異国の養由基、我が国の源頼政や那須与一などの化身ではないかと、

この矢に恐れて月日を送った。そのため一宮三郎は一張の弓の威徳により、長らく御勘当を蒙って
いたのだが今回御許しを受けて、丹波国の本領は申すに及ばず、重ねて御領を賜ったのである。

――『細川両家記』



700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/15(木) 09:54:18.87 ID:Ea6WYNfJ
何気に越水城を検索したら見聞が広がった

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/16(金) 03:47:30.01 ID:8Nb7SmTw
???「弓を極めたのなら合戦中で最初の警告と最後に残った矢を門に打ち込んだ以外はすべて命中させて一矢で3~4人射抜くくらいできるよな?」

船岡山合戦

2018年03月10日 18:47

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/10(土) 05:34:38.36 ID:3d2Fy6J6
このために澄元(細川澄元)よりもなおさら三好筑前守之長は無念に思い、都への望みをなさった。

さて、永正8年(1511)辛未7月に、澄元は武略を巡らせて赤松殿(赤松義村)を御頼みになり、
播磨勢を催しなさった。先軍の大将には、御一門の右馬頭政賢、同和泉守護殿(細川元常)、他にも
山中遠江守(為俊)や諸牢人を御立てになった。

また畠山上総介(義英)より遊佐河内守(順盛)などが立てられた。こうしてまず和泉国へ切り入り
なさった。この由を高国(細川高国)は聞こし召され、「追討せよ!」と摂津国勢を差し下された。
さて、澄元方の諸勢は和泉深井に陣を取り、高国方の諸勢は同万代庄というところに陣取り、同7月
13日に深井へ押し寄せて合戦となった。(深井の合戦)

京の高国方は1万余騎、阿波方は城中には無勢で籠の中の鳥であったという。漏れ出ることができる
様子ではないので、阿波方は思い切り面も振らずに高国方へ切り掛かった。高国方の衆は切り負けて
大将格は皆々討死し、雑兵以下3百余人が死んでしまった。残る勢は和泉堺へようやく逃げ入った。

こうして、その日に澄元方は欠郡中島まで切り上った。このため、淡路守殿(細川尚春)は摂津国
兵庫口へ渡り、灘へ上りなさった。ここに高国方の兵・河原林対馬守正頼(瓦林正頼)は摂津芦屋庄
の上鷹尾城に立て籠った。淡路守殿は「この城を攻めるべし!」と、灘深井というところに陣取り

なさった。この由を正頼より京の高国へ注進申し、高国は聞こし召して今度は馬廻の柳本又次郎入道
宗雄、子息の波多野孫右衛門、能勢因幡守(頼則)、荒木大蔵らをはじめとして30余頭を差し下し
なされた。この人々は思い切って、同7月26日に芦屋河原で合戦となる。(芦屋河原の合戦)

また鷹尾より河原林の手勢を合わせて戦ったところ、京の高国方は打ち勝って、淡路衆の首を百余り
討ち取り、京勢はすなわち明くる27日に上洛してこの由を申し上げられると、高国は聞こし召して、
たいへんな御感であった。このため、播磨衆はこの合戦のことを聞き思案に及びなさったが、

一度約束した上のことなので8月の初め頃に播磨国を立ち、同8月9日に鷹尾城を取り巻き、険しい
谷とも高い岸ともいわずに攻めなさった。そのため城内でもここを先途と戦ったのでその日は暮れて
攻め手も麓へ退いた。しかしながら、正頼は「城の中でこの分では叶わない」と思い、

同10日の夜半に城を開けてしまった。播磨勢は喜んですぐに伊丹城へ取り掛かった。そのため河内
からと播磨からの二手になって京へ切り上ったため、叶わないと思ったのか、

8月16日に公方様(足利義稙)と高国、大内左京大夫殿(義興)は都を他所に見なしつつ、丹波国
へ落ち行きなさった。その後、御談合されてやがて丹波より切り上りなさり、同8月24日、船岡山
で合戦となる。(船岡山合戦)

阿波澄元方は切り負けて大将の典厩政賢、畠山方の遊佐河内守が討死し、この他の人々も1千余人
が討死した。すなわち諸陣が破れたため、御所様(義稙)、高国、大内殿は悦の眉を開き、都へ
入りなさった。播磨勢は播磨伊丹城を攻め戦ったが“一陣破れて残党全からず”という本文の如く、

船岡山合戦のことを聞き同26日に生瀬口へ落ちて行った。此度の合戦において大内方の太刀打ちの
有様を褒めない人はいなかった。

――『細川両家記』


こうして民部少輔高国と申す人を家督に据え申した

2018年03月06日 10:39

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/06(火) 05:14:02.98 ID:j8Oj/9Vd
さて澄元(細川澄元)が家督を取りなさって目出度いところに、御内の
三好筑前守之長や高畠与三らはあまりに無道の振舞いなどがあったので、

「この分ではどうしたものか」と内々に呟かれ、京では奈良修理亮元吉、
摂津では伊丹兵庫助元扶、丹波では内藤備前守貞正が相談し謀反を企て、

「安房守典厩政国の子息・高国(細川高国)を主君となし申すべし」と、
永正5年(1508)戊辰4月9日、六郎澄元に背き申したたのである。
突然のことであったため、澄元はすぐに近江甲賀へ落ち行きなさった。

三好筑前守の子息・下総守(長秀)は伊勢国山田へ落ちなさったところ、
国司(北畠材親)より仰せつけられて生害させられ、(その首は)京の
高国へ上らせられたのであった。

こうして細川安房守の御子・民部少輔高国と申す人を家督に据え申した。
殊に筑紫の御所様(足利義稙)は大内左京大夫殿(義興)の御供により
堺津へ御上洛なされたので、事故もなく崇め申された。そんな折に、

摂津国の池田筑後守(貞正)は澄元方として自城に立て籠ったのである。
高国は聞こし召されて「それならば退治せよ」と仰せになり、

同5月初めの頃、高国方の典厩尹賢を大将にして猛勢が押し寄せると、
筑後守は物の数ともせず戦ったが、同名遠江守が高国へと参られたので、
攻め手はこれに意気込んで、5月10日に堀を埋めさせ厳しく攻めると、

城中より思い思いに切り出て、同名諸衆20余人は腹を切り、雑兵70
余人が討死したのである。「国中に同心する者もいないのに、かように
振舞ったことよ。大剛の者かな」と、感心しない人はいなかった。

――『細川両家記』



585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/07(水) 01:56:03.74 ID:n9jSo1KL
戦国初期も初期

九郎殿は御腹を召され

2018年02月28日 22:31

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/28(水) 02:13:22.65 ID:/FwJ4UQm
香西又六(元長)と薬師寺三郎左衛門(長忠)が天下を我等がままに振舞うところに、
やがて50日ほどあって、同(1507)8月1日に、

澄元(細川澄元)は三好筑前守之長の算段で、甲賀の谷の山中新左衛門を御頼みになり、
京へと切り上った。九郎殿(細川澄之)のいらっしゃる遊初軒へ攻め掛かると、

一宮兵庫助が門より外へ切り出て、手元へ進む兵を7,8騎切り伏せ大勢に手を負わせ、
東西へ追い散らし、そののち自身も討死したのであった。中昔の源判官殿の御内である
武蔵坊弁慶もこうであったのかと思い出される。

さて兵庫助討死の由は、波々伯部伯耆守が九郎殿の御前へ参り申し上げ、「早く早く、
御腹を召され候へ」と申すと、九郎殿は「もとより覚悟のことである。しかしながら、
九郎の父・関白殿(九条政基)と北の御方へ御文を参らせたい」と硯を御乞いなさり、

「このたび丹波にて物憂きことなどがあり、また御二人より先立ち、後生菩提逆さま
に弔われ申さんことの口惜しさよ」と言いなさって、奥に一首の歌を遊ばしなさる。

「あづさ弓 はりてこころはつよけれど 引手すくなき 身とぞ成ぬる」

このように書き留めなさると、鬢の髪を少しそえて涙とともに巻き込め、御自身の文
ながら、ひとしお名残惜しげに御覧になり、局の方へ御渡しになった。そののち伯耆
を御呼びになり、「我はいまだ腹の切りようを知らぬ」と仰ると、伯耆は答えて

「十方仏土とは申しますが、自害と申すものは、まず西へ向かって十念し、御腰の
物を抜いて左の脇に刺し立て、右手の脇へ引き回し、返す刀で御心元に刺し立てて、
袴の着際へ押し降ろします」

と申し、九郎殿は御了承されて御腹を召された。伯耆は涙とともに介錯申し上げて、
そののちに腹を切った。薬師寺三郎左衛門、香西兄弟は皆々討死して朝の露となった。
このたびの討死は170余人である。

さて、その時の有様を局は九条殿へ参って詳しく申され、父の関白殿と北の御方様は
「これは夢か現か。夢ならば覚めてくれ」と、しばし消沈なさった。

ややあって関白殿が仰せになり、「人間に限らず生を受けたものは皆その上々を望む。
鳥類・畜類さえこうであるのに、それに引き換え、我が子は細川の家に養われて家に
疵を作ったことよと朝暮これを思っていたが、このようなことが起こってしまった」

と、御文を胸に当て顔に当て嘆きなされば、その他の女房たちや仲居の人、侍たち、
上下に至るまで流涕し、焦がれなさった。

これがあの釈尊御入滅の折、十大御弟子・十六羅漢・五十二類に至るまで、御別れを
悲しんだのも、こうであったのかと思い知られつつ、他人の袂も涙に濡れた。

このように因果の回ることは、ただ車が庭の中を巡るようなものである。

――『細川両家記』


細川幽齋覺書より、武士の心得のことなど

2018年02月27日 21:10

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/27(火) 00:02:27.66 ID:1tgBBbFO
一、人には何であっても好きなことが有る。弓鉄砲、或いは馬、蹴鞠、兵法、料理、乱舞、歌、
  将棋や囲碁、鵜飼、鷹狩、数寄の道、武士の道。何れにしても、好きなことが有るのなら、
  自分の好きなことは積極的に人に話すべきものだ。また人が話すことの中にも、自分が
  好きな事があれば良く聞くものである。
  また人により、武道の話をいたし、人が話すのも面白がって聞いていれば、良き心がけの者と
  周りは思うだろう。
  大体において、人々の心中というのものは、普段の話の内容、或いは愛する友人を以って知ることが
  出来るのだと、松長(松永?)という名人が申されていたが、真に相違ないと思われる。
  とにかく、どんな諸芸も、自分の心に染まらぬことは、結局出来ないものだ。その心得が
  有るべきだろう。

一、常々物をよく喋っていても、戦場においてはほとんど喋らなくなるような者がいる。
  また敵との間が遠い時には何かと喋るが、敵が近くなると物を言わなく成る者がいる。
  そういった将は、常々どれだけ口を利き、物を良く申していても、役に立たないものだ。
  殊に、敵が遠いほど物を申し敵近くなり合戦前に萎れる体にていること、殊の外見苦しい事である。
  常には少しばかり無口でも、戦場においては諸人も聞き届けるように、物の埒を申し分けられる
  事は、常に物をよく喋ることより格段に良い事である。

(細川幽齋覺書)

ちょっと社会人の心得にも近いようなお話



675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/02(金) 17:37:22.15 ID:txA038IT
上杉景勝(俺が喋るとみんなビビる)

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/03(土) 18:49:45.62 ID:YECF6PdC
猿(よっしゃ真似したろ!)

永正の錯乱

2018年02月25日 17:26

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/25(日) 05:53:09.00 ID:oc9UB2Xe
同2年(1505)乙丑夏の頃、六郎澄元の御迎のためとして薬師寺三郎左衛門(長忠)が
御使になり阿波国へ下された。御約束のことなので澄元は御上洛し、

御供には三好筑前守之長、高畠与三などを召し連れなさって御上洛された。京童たちは
これを見て「これこそ細川の2つにならんずるもとぞ」と、ひそひそと申した。

そして政元は九郎殿(細川澄之)へ丹波国を差し上げ、かの国へ下向させ申されたので、
九郎殿はいよいよ無念に思召されたところに、魔の業ではないだろうか、

政元42歳の時、永正4年(1507)丁卯6月23日の夜、御月待の御行水をなさっていた
ところを、御内の侍である福井四郎と竹田孫七新名という者たちが、薬師寺三郎左衛門、
香西又六(元長)兄弟に同心して政元を誅殺し奉った。

そのため都は誰もが「これはさてどうなってゆくとも分からない」と騒ぐことは、中々申し様
もない有様であった。さてこの頃の政元は近国を切り取らんと、赤沢宗益(朝経)を御許し
になって丹後国へ遣わされ、この他に軍兵を相添えなさっていた。

河内国へは摂津上下の国衆を出立させなさって切り取り、大和国へは宗益の弟・福王寺、
また喜島源左衛門、和田源四郎を遣わせて切り取りなさっていた。

ところが、政元御生害のことが風聞したので国々の諸陣は破れ、国々にて大将格の人々
は腹を切って討死した。その数は3千余人と申す。

しかしながらこの企みは薬師寺三郎左衛門と香西兄弟が談合して、丹波にいらっしゃる
九郎殿を御代に立て天下を我等がままに振舞おうとの企みにより、かの3人が相語らい、
政元を誅し申したのである。

同じく六郎澄元をも誅し申すべしと、澄元がおられる御屋形へ明くる24日、薬師寺と香西
は押し寄せて終日に渡り合戦した。両方の手負い死人は数を知らず。

上京の百々橋では、澄元方の奈良修理亮が名乗って香西孫六と渡り合い、太刀打ちして
孫六は討死する。修理亮は手負いて屋形の内へ退いたのだった。その高名の振舞いは、
澄元や筑前守を初めとして感心しない者はいなかった。

合戦が夜に入ったので両方は互いに退き、澄元はここでは叶わないと思召してその夜に
近江の甲賀へ三好筑前守之長の御供で落ち行きなさった。案の定、相手方は九郎殿を
都へ上らせ奉り、細川の家督へ据え申した。

――『細川両家記』


細川幽齋覺書より、戦場での心得について

2018年02月21日 20:24

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 21:22:39.27 ID:c3U9fY9D
一、戦場において、幟ほど大切なものはない。幟さえ崩れなければ、敵方より仕掛けられる
  事はない。逆に軍勢が多く揃えてあっても、幟が倒れれば、こちらは敗軍したと敵は見て、
  合戦を仕掛けてくるものなのだ。

  幟大将を致すほどの人物が、他の者が敵と手を合わせるのを羨ましく思い、自分もそのように
  しようとすれば、幟の役が立たなくなってしまう。たとえ他の人々が、どれほど敵と手合わせ
  していても、幟さえ倒さなければ、敵と手合わせした人の手柄と同然であり、またそのような
  理屈をしっかり理解していないと、出来ない役である。
  名将と呼ばれる人々も、そういった資質が無い人間には、幟大将は務まらないと申されていた。

一、武士には、信心が無くてはならないものだ。殊に愛宕八幡には、別して信仰が有るべきである。
  ただし、火の物絶ち(火を通した食べ物を摂らない事)は全く無用である。私は若い頃、火の物絶ち
  を致して懲りたものだ。とにかく、物を食わねば何事も成り難い。

一、男道はあまりに律儀な計りでも成らぬものだ。少々人を出し抜く用に心がけなければ、
  優れた手柄も成らない。ただし、他人の協力がなければ出来ない事もある。そういう時は
  状況次第である。

一、陣に立つ時、具足の綿かみに梅干しを付けて参るべきだ。のどが渇いても水のない時は
  どうしようもないが、そういった時梅干しのことを思い出せば、口に唾の貯まるものである。

一、巾着には、干飯でも米でも、何か食えるものを常に絶えぬよう入れておき、普段居住している所に
  掛け置きしておいて、草鞋、脚長一足につき巾着袋を一つ付けておくべきである。そして主君が
  鷹野、または狩りなどに出られる時、腰につけて参れば、何があっても対応できるのだ。
  とにかく、物を食わなくては手柄も成らないものなのだ。

一、大小便を普段からゆるゆるとしていては癖になる。陣中、又は忙しき時にはそうは出来ないし、
  殊に常々の御奉公のさわりにもなる物である。こういったことは、常々より嗜んでおくべきである。

一、戦場にて、地面の塵やごみを蹴り立てると、煙のように空に上る。これを地煙と呼ぶ。
  この地煙が高く上るところは、馬上の武者が多いと心得、低いところは徒武者の居るところだと
  考えるべきである。ただし風など吹く時は、そういう心得も変えなければならない。

一、敵陣に物見に参る時、なんとも参る手立てのない時は、商人にまぎれて参るものだ。
  陣において備蓄が無い時は、敵味方が人数を立てあっている最中ですら、酒売商人など
  参るものである。当然、自分たちの方へもそういった者が参るわけで、少しも油断
  してはならない。

(細川幽齋覺書)

戦場での心得についていくつか



657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 23:40:37.28 ID:jlZaj6kt
>一、大小便を普段からゆるゆるとしていては癖になる。陣中、又は忙しき時にはそうは出来ないし、

ワイ将、大腸過敏の長距離電車通勤組、毎日陣中(電車)で我慢

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 00:21:20.09 ID:yMVZx1uC
マニュアル作るの好きなんだなあって分かる

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 01:45:46.22 ID:UTaI4uHy
一、大小便を普段からゆるゆるとしていては癖になる。
幽斎でも大小便をするんだ…

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 02:03:49.36 ID:7XdmiP1b
フン!って力むから卒中するんだよな

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 02:48:38.93 ID:X2fLifG2
不識庵「なんやて」

662 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/02/21(水) 08:20:06.28 ID:u0yUUzj8
マニュアルかなぁ?
単に危機管理の為のノウハウの蓄積をしようとしてるだけとしか。

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 16:45:23.98 ID:lUc9Phna
マニュアル以前のメモ書きだよな。
ただそんなメモ書きでも書いておけば役に立つ。
食料や道具の準備について大分項目を割いているが、
それだけ何の準備もなく参陣する奴が多かったんだろうなぁ。

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 17:12:32.37 ID:i4qjyDOk
梅干しの話はまんま望梅止渴の故事からだろうけど実際効果の程はどうだったんだろう

めいどには 能わか衆のありければ

2018年02月21日 20:23

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 03:39:28.52 ID:aA/6Utkz
そのようなところに、政元(細川政元)はあまりに物狂わしくおられたため、御内・外様の
人々は、「この分ではどうしようもない」と悲しみ合っていた。

その折に薬師寺与一(元一)はつくづく考え出して、赤沢宗益(朝経)という法師と相語らい、
「政元を誅し奉り、阿波の六郎澄元をその上に崇め申しようぞ!」と語ると、

かの宗益は同心した。しかし、ある文に“好事門を出でず 悪事千里を行く”というが、道理
ではないだろうか。包み隠してもこの事はわずかに表れてしまい、叶わずして宗益は伏見
竹田口へと切り上った。

頃は永正元年(1504)甲子9月初めに与一は淀城へ立て籠もった。そのため京や田舎
では仰天して物言い取り取りであった。

そうとはいえども政元の御内衆は与一の弟の与次(長忠)を初めとして御屋形様へと参り、
評議をなしてすぐに諸勢を催し、淀城へと押し寄せて川とも堀ともいわずに攻めなさった。

城中でもここを先途と戦ったが、まことに攻め手は国々の勢たちが一つになって新手を
入れ替え攻めていった。そうして城中ではここかしこで5人、10人ずつ討死していった。

そのようにばかりで、どうして堪えることができるだろうか。9月18日申刻、ついに城は
落ちてしまった。与一は今一度謀反を企てようと思い、川の畔の葦の中で弛んでいたが、
因果の道理に任せて生け捕りとなり、都へと上った。

船橋に一元院といって、与一が世にありし時に建立した寺があった。与一はそこへ移り、
色々の物語りをして一首の歌にかくばかり。

「めいどには 能わか衆(我が主)のありければ おもひ立ぬる 旅衣かな」
(あの世には良い主君がいるので、思い立って旅立つとしよう)
(あの世には良い若衆がいるから、お前も早く来るといいぞ)

このように親しき方へ文などを遣わし、最後の時の申し様は、

「皆々御存知のように我は一文字好みの薬師寺与一。名乗りも元一、この寺も一元院と
名付けた。されば腹をも一文字に切ってやろう!」

と言って腹一文字にかき切り、朝の露とぞ消えにける。上下万民押し並べて皆涙を流した。

さるほどに弟の与次は御感を蒙り、今回の恩賞に桐の薹の御紋を賜り、三郎左衛門と
改名なされ、兄の与一の跡を賜って摂津国上下守護代となり栄華に誇った。

昔も主君の仰せに従い、源義朝が父・為義の首を取りなさったのである。ましてや末世の
以下の侍であれば、主君の下知に従って兄の立て籠もる城を攻めるのは道理である。

――『細川両家記』



549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/22(木) 11:34:46.20 ID:/G4E2NbT
死に様一つで見事にキャラがたった与一さん
なぜか万民が涙を流す

細川の流れが2つになってしまう原因

2018年02月20日 16:23

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 04:19:24.31 ID:pTzW/K4q
さても世間の有り様を見聞すると、その道のならぬこと多し。

諸法をもっぱらに行うべき僧形は兵具を帯び、また弓箭を旨とすべき大俗は顕密の
両流に立ち入り、座禅の窓に心掛けている。まことに風変わりな時節である。

さて、この類ここにあり。

細川右京大夫政元と申す人は都の管領の職をお持ちになり、天下の覚え隠れなし。
しかしながら、細川の流れが2つになってしまう原因であったということだ。

40の齢に及ぶまで夫婦の語らいなきゆえ、御子は1人もいらっしゃらなかった。
常には魔法を行って近国他国を動かし、またある時は津々浦々の御船遊びばかり
行っていたのである。

そのため家子や老衆は詫言し、ある時に皆々相談して、かたじけなくも九条関白殿
の末の御子(細川澄之)を申し受けなさり養子となし奉った。すなわち政元の幼名と

同じく聡明殿と申した。光陰を送り程なく御成人され、御元服されて九郎殿と号し、
皆々深く慕い申し上げた。さて政元は何と思召されたのか、御心中は相変わって、

「よくよく物事を考えると、我が家は一門中の誰かが持たなければ良くないであろう」
と思し召した。阿波国に住みなさる細川讃岐守(成之)は御出家なさって慈雲院殿と
申し、この御孫に六郎澄元という人がいた。

政元は「この人を養子にして我が家を譲りたいものだ」と思し召し、摂津国守護代の
薬師寺与一元一を御使にして阿波国へ差し下した。与一はたいそう畏まって兵庫の
浦より船に乗り、絵島明石を打ち眺め、鳴門の渡りを漕ぎ過ぎて阿波国へ到着した。

慈雲院殿へこの由を申し上げると、入道殿は聞こし召して「どうしたものか」と、暫く
御思案されたが、与一は武略を巡らせて漢家本朝の例を色々と申されたので、

斟酌ながら御了承されたため、与一は御返事を頂き、時の面目を施して都へ上った。
この由を申し上げると、政元は御悦びになること限りなし。

――『細川両家記』



545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 11:21:32.09 ID:/W40+KPc
あれ?一人足りないぞ?

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 13:54:30.42 ID:QeNsa6BB
俺のことか!

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 23:20:28.14 ID:jlZaj6kt
???「なんか足んねぇんだよなぁ」

細川幽齋覺書より、川を挟んだ合戦

2018年02月17日 09:55

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 00:09:50.53 ID:Qls51LFz
一、敵が川を前に軍勢を立てている時、その軍勢が厚く立てられている場合は、その川は浅いと
  心得るべきだ。逆に軍勢が薄い場合は、川が深いと心得るべきである。

一、敵方が川を渡ってきた場合、その川の三分の一ほど越えた時に、こちらは川端まで押し寄せ、
  鉄砲を撃って渡川を妨害しなければならない。川を渡られてしまうと、敵には勢いがつき、
  味方は勝利を失ってしまうものなのだ。

一、敵が川向うに居る時、此の方より川を渡す場合、少し川上から馬を乗り上げ、水の流れに
  つれて渡すようにすれば、早く渡れるものだ。少しでも早く、などと考え、川下から川上へ
  渡るような真似をすれば、結果遅くなってしまうものだ。

一、川を前に陣を取った場合、何よりも先ず筏を組める物を心にかけ、準備しておくことが大切である。
  とは言うものの、筏に組めるものが無く、また川を渡らなくてはどうにもならない、という状況に
  なった時は、「道具筏」といって、鑓などを組み合わせて、それに乗って渡る事もある。
  また「馬筏」といって、手綱を互いに取って組み、これにて川を渡すことも有る。このようにすれば
  弱き馬も強き馬にひかれ、造作なく渡れるように成る。
  「道具筏」「馬筏」とは、こういったもののことを言うのだ。

一、敵が川を渡ってくると予め解っている時は、此の方に柵を構築し、渡さないようにすべきである。

(細川幽齋覺書)

川を挟んだ合戦に関するお話



642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 15:41:22.33 ID:nC83Xr0m
>>641
>馬筏
男塾みたいなやりかたで草

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 18:31:41.07 ID:lPtSpuum
>>641
幽斎様なら馬を担いで渡れそう

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 22:09:49.78 ID:uHB/+4zH
上流で馬の集団を渡河させて、流れを弱めて、歩兵を渡したエピがあったと思うんだが、
新田義貞だっけ?

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 23:32:00.13 ID:GZSKK4fO
シーザーがやった話なら知ってるが

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 07:35:51.26 ID:cjiShSU3
上流で糞尿を流して水の手から疫病を発生させたんだっけ

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 09:40:16.59 ID:xa+2aYDi
馬上で糞尿を垂れ流して焼き味噌と言い張った?

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 13:45:15.27 ID:8Qu9Piho
徳川軍の兵士が大井川上流で人間堤防を作って下流を渡渉する織田軍を接待した話もあったな

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 14:59:17.72 ID:CtdKoPGM
男塾名物とかでありそうだな

細川幽齋覺書より、竹束に関連するお話

2018年02月13日 18:04

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/13(火) 11:45:47.06 ID:AnKMBnJ2
一、竹束を設置する時、敵より鉄砲を厳しく撃ってきて負傷者なども出た場合は、竹束を
  2,3も結合わせ、それを取り付けた盾を背負い、後ろ向きになって進み、敵に近づいた所で
  その陰から突き出すようにするのだ。

一、敵城に対して竹束にて仕寄りを作った時、本陣との間が道が悪いなどの理由で遠い場合は、
  城中より夜討ちなど行われることが有る。そういう危険の有る時は、10人でも20人でも、
  松明に火をつけて両手に持ち、本陣の方から竹束の裏まで幾度も往復するのだ。
  こうしておくと夜討ちは無い。これを「松明の心得」と云う。

一、竹束にて仕寄りし、敵の城を取り巻いた時に行う、「城はやし」というものがある。
  これは仕寄りのための井楼の上に二人三人も上がり、拍子木を打って音頭を取り、
  城に向かって「なふなふ明日は首をたもろふ えいえいわっ」と、竹束の裏に居る軍勢が
  一度に声を揃え鬨の声を作り、鉄砲をはたはたと撃ちかける、という物である。
  これを致すのは夜の五時(夜8時ころ)から夜明けにかけてである。
  何度もこれを行うと、城中に居る女子供たち、または籠城の経験の少ない者は殊の外
  騒ぎ慌てるものにて、それにより、20日保つ城も10日も保ちかね落城するものだ。

  また、「言葉戦い」と申す物もある。口の上手いものが井楼に上がり、的に向かって
  「御陣に申したきことがある!」と呼びかける。敵側から「何事にて候」と答えてくるので
  此の方よりこう言う「御籠城御大儀に候。ですが持ちこたえるのは中々成るまじき事故、
  御降参されるように。そうなさらないのなら、どうそ何方なりとも突き破りこちらを攻めに
  出て来られよ。あなた方の御首、はやく申し請けたいものです。  まあどちらにせよ、
  あなた方の御首を申し請けないと言うことにはならないでしょうが。」
  そのように敵の心にかかることを申すのだが、この時、慮外かましき(無礼で不躾な)事を
  言っては敵方からも悪口が返ってくるだけだ。なので敵が心のなかで心配に思っていることだけを
  言うべきなのである。

(細川幽齋覺書)

竹束に関連するお話

細川幽齋覺書より、取った頸の扱い方

2018年02月12日 18:15

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/11(日) 21:54:07.70 ID:bA4eZOJj
一、合戦において頸を取った時、自身はその場に残り、頸は家臣などに持たせて主君へ遣わすのだ。

一、「頸をとっても捨てて、耳鼻だけ取るように」と大将より下知があった場合、鼻とともに
  唇を削いでおくべきだ。髭が無ければ女・童とまぎれてしまう。しかしながら若年の者は髭が
  無いので、その場合は何かその者の道具を取っておくと良い。

一、母衣武者の頸を取った場合は、その頸を母衣きぬにて包むのだ。通常の武者の場合は指物絹にて
  包むべし。ただし、こういったことも忙しいときには出来ない。そういう隙がないと判断される
  場合には、その討ち取った者の刀脇差しなどを取って、その頸に刺しておくとよい。

一、取った頸の耳に紐を通して持ち運ぶ者を見ることが有るが、それではおおかたちぎれ落ちてしまう。
  紐を口から顎に通して取り付け、これを馬の脇につけて運ぶのがよい。

(細川幽齋覺書)

細川幽斎の覚書より、取った頸の扱い方について



632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/12(月) 00:17:34.05 ID:3ZUmUOeV
庭師の首はどう扱えば良いんだろ?

細川幽齋覺書より、兵糧・食料のこと

2018年02月10日 10:55

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 08:11:39.97 ID:NnOG2X3L
一、御陣のときは、下々のことは申すに及ばず、自身も一日一夜の兵糧米は腰につけ、馬のはみをも
  携帯しなければならない
一、陣頭において兵糧米のない時は、何で有ってもその時々の草木の実を食うものだ。私も青麦などを
  炙り揉んで喰って合戦し、敵と手を合わせたものだ。桑の実などは、殊の外旨き物であった。
一、旅陣の時は、侍も小物も中間も、小屋の材料、武具の輸送を行っているが、陣頭においては
  野菜の類、また水が必要であり、無くてはならぬものだ。こういったものは小屋の材料や武具に
  結い付けて持っていくのが良く、これを運ぶ者には言葉も懇ろにかけ、少しであっても遣わす物の
  内に、心付けがあるべきだ。
  人によっては、食物に関することを話すのは恥ずかしいことだ、などと言っている者もいるが、
  そういう考えは何の役にも立たないと心得ておくべきである。
一、敵の城を取り巻く時は、それが山城で有っても先ず水の手を専らに見立て、陣を取るのが良い。
  大将から持ち口を仰せ付けられたのなら是非もないが、一夜二夜の事であっても、水の手は肝要である。

(細川幽齋覺書)

細川幽斎の覚書より、戦場における兵糧、食料のことなどについて


細川幽斎「武家に仕える者は」

2017年08月17日 17:14

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/16(水) 21:55:42.25 ID:18h3KstQ
細川幽斎「武家に仕える者は」


(幽斎の)御座の間の近くでたくさんの小姓衆がどんなに騒ぎ暴れていても
(幽斎は)少しも叱ることはなかった。

賄いの恩斎と申す者が時々(小姓衆を)叱るようなことがあると
幽斎公は
「武家に仕える者は、事が起こってしまえば今すぐにでも命を失う物だ。
 可哀想だから、子供は暴れていても制してはいけないよ」
と仰せられていたので
召し仕えている衆は自分の親よりも(幽斎のことを)
深くありがたく思い、例え大名になるとしてもこの御家を出て
別の主君を頼みにしようと思う者はいなかっただろう。
だからこそ小勢で不慮に籠城をなされたのに(※1)
多勢の寄手が容易く攻めることが出来なかったのだ。

この幽斎公の御俗名は犬打つ童まで(※2)も知っている細川兵部大輔藤孝公と申す。
若き時より弓馬は言うに及ばず、和歌、連歌、鞠、包丁、打ち囃子の道までも
心得られて、その道の極みに至るまで情趣を解することによって
人に劣るような芸は持たない人である。


――『戴恩記』

(※1)田辺城の戦いのこと。
(※2)犬を追いかけ回す三歳の児童でも知っている、という意味。



149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/16(水) 22:27:22.30 ID:KCxrewke
細川だと進士流なのかな?

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/16(水) 22:27:49.97 ID:KCxrewke
ああ、包丁道のことね

日本国に歌道が流行れば

2017年07月28日 16:10

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/28(金) 00:45:57.36 ID:5+Yov4kP
日本国に歌道が流行れば


細川幽斎の弟子松永貞徳の『戴恩記』に出て来る幽斎の思い出話。

あるとき(幽斎が)丸(貞徳の自称)の数寄の程が
あはれであると仰せられた時だったか
「日本国に歌道が流行ればそこも人に知られるでしょうにね」
と仰せられたので、丸が気が済むまで
「丸はこれが流行らぬのは幸せだと存じています。もし流行れば
 大名高家の人が我先に(幽斎の)御意を得られるでしょう。
 そうなればいつわたくし如きの者が御前に出られるでしょうか」
と申すと、尤もですねとお褒めになられた。

またあるとき、(幽斎が)
「禅定殿下(九条稙通)から源氏物語を御相伝されていれば
 御身とは弟子兄弟になっていましたね」
と冗談を言われたので、丸が思い切り
「よき御兄弟を持たれることは、誠に御果報並々ならぬ事ですね!」
と申し上げれば、一層機嫌よく笑われていた。


白鷺か何ぞと人の問いし時

2017年06月15日 17:42

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 00:30:38.37 ID:dWS33giL
長岡幽斎が鶴の料理法を人にお教えされるとき、
その人は貴重な鶴の替わりにと
白鷺を板に乗せて出したので、
とっさに、

白鷺か何ぞと人の問いし時 鶴と答えて食いなましものを

「『伊勢物語』の

白玉か何ぞと人の問いし時 露とこたえて消えなましものを

の本歌取り」

(昨日は今日の物語)



32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 18:43:51.74 ID:Dny9w7CR
>>30
「昨日は今日の物語」ってタイトルめっちゃオシャレや!

なお本文の意味はわからない

三斎は実は

2017年06月08日 00:27

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/24(水) 02:47:35.45 ID:/PRBbIyV
幽斎は細川への養子で、本名は三淵である。幽斎の兄を三淵大和(藤英)
という。光源院殿(足利義輝)の弟(義昭)は幽斎を頼みにして信長に頼った。

(信長と義昭の間には)20ヶ条の掟があったが、(義昭は)後にこの掟を
用いずして槇島に籠城した。信長は(義昭を)熊野に追い込みなさった。

光源院殿の御宮妾が懐妊3ヶ月の時に、幽斎は御宮妾を与えられたので、
三斎は実は光源院殿の子である。三斎は光源院殿に顔が似ていた。

本願寺東泰院の父(教如)も光源院殿の落胤という。稲葉能登守(信通)は
三斎の孫である。

(光源院殿妾御宮。懐妊三月に幽斎は被下候ゆへ。三斎は実は光源院殿子
也。光源殿に顔似たり。本願寺東泰院父も。光源院落胤と云。稲葉能登守は
三斎の孫。)

――『武功雑記』


松永貞徳が見た幽斎、物の上手と名人

2016年12月25日 17:14

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/25(日) 10:58:33.36 ID:8tbksLrh
松永貞徳が見た幽斎、物の上手と名人


関白秀次の時代聚楽第で能があったとき《朝長》の懺法太鼓を
其の頃の"上手"である金春又右衛門という者が勤めた。

[金春又右衛門は織豊期の太鼓の名手で、細川幽斎とは兄弟弟子であった。]

日が暮れてから(又右衛門は)幽法公(細川幽斎)のところへ参り
「今日は(幽法公の)ご見物ゆえ胸が躍り手は震え、前後を忘れてしまう程でした。
どうだったでしょうか」
とおそれかしこまって申した。
幽法公は休まれていたが、対面すると今日の所作を褒められて一献下された。

宴もたけなわの頃に(幽法公は)
「くたびれているだろうが、一番太鼓を打ってくれないか」
と仰せられて、自分で小鼓をお打ちになられた。
大鼓は平野忠五郎、笛は小笛亦三郎、諷は勘七など
みな普段からの(幽法公の)御近習で《杜若》を囃した。
(又右衛門の)太鼓は能を聞きなれぬ者の耳にも変幻自在で
(聚楽第より)こちらで打った太鼓の方がひときわすぐれて聞こえた。

又右衛門は忠五郎に向かい両の手をついて
「もう一番。今生の思い出に(幽法公の)太鼓をお聞きしたい」
と申したので、(幽法公は)久しく打っておらず忘れてしまっているとしながらも
「夜更けに聞き手もいないだろうし、興に乗ってきたところなので」
と言ったので、《遊行柳》をクセから謡わせたが、太鼓に差し向かう様子や
御掛け声、御撥音なども並の者のしわざとは到底思われなかった。

屋敷中が神妙になり、皆息も継げない様子で(聞いていたので)
我らが易々と感嘆してしまったので不思議に思われたのだろうかと
又右衛門の顔をじっと見ていると、いつにない様子で
額を畳に擦り付けるようにして、声も漏らすことが出来ないようであった。
喉が塞がったような気持ちがして、(幽法公が)打ち終わりになられた。
(又右衛門は)ついていた手を膝に上げ、うつむいていた頭を振り仰いだので
その顔を見ると、両目から感涙が雨のようにこぼれていました。

物の上手と名人の変わり目はあるものだと、心に思い知ったものです。


――『戴恩記』



明応二年四月二十八日の怪異

2016年06月16日 12:26

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 21:08:19.93 ID:0Q9E5mRm
明応2年(1493)4月22日、明応の政変が起こり、将軍足利義材が細川政元によって廃され、義澄が新将軍となった。

4月28日、新将軍義澄が細川政元の邸を将軍御所として移った事を祝う宴が行われ、それが終わり人々退出し、
四半時ほども経った頃である。

大館尚氏がこの屋敷から出て半町ほど過ぎた頃、退去した屋敷の方から、数百人が騒ぐような声を
尚氏とその供の者達全員が聞いた。しかし程なく、そのまま静かになった。
ところがこの騒ぎの中、尚氏の被官である松本蔵人という者が、主人の太刀を預かっていながら
忽然と姿を消した。

翌日、尚氏は人を出して方々を探させた所、松本蔵人は京の外れの野の中にある、小さな庵で
発見された。何故こんな所にいるのか尋ねたが、松本は「鞍馬の僧正が、谷に所用がある」と言い捨て
出て行ってしまった。探索の者達は松本の後を追い捉えると、松本は

「僧正は谷まで行ってまた戻ってきたが、その時、桐の小枝を持っていた。彼はそれを指し示し
『これは枝が枯れている。細川家に難儀が降りかかるであろう。』と言った。」

そう語った。

この後、松本蔵人は京に連れ戻されたが、一向に正気を取り戻さなかった。これらはすべて天狗の所業であると
言われた。

(後法興院記)



723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 21:19:44.81 ID:ZSZT4DHF
>>722
わけわからんwそりゃ天狗のせいにするわ

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 22:29:25.01 ID:ktDOEWmB
京兆家では良くある事

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 22:29:32.40 ID:3H7wGKyS
細川政元→飯綱の法→飯綱三郎天狗→八天狗→鞍馬山僧正坊


なんとなく話は繋がってる

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 23:47:26.13 ID:rHhvGcTa

     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 天狗じゃ、天狗の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;| ///
////|:::::       | |!!||l ll|| !! !!| |    ;;;;;;| ////
// / ヽ:::::       | ! || | ||!!|    ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: :   | `ー-----' |__////
          松本蔵人

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 00:17:28.80 ID:/6VPyBFD
>>726のAAが出てきて一安心