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最悪の結婚初夜

2011年12月22日 22:00

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 20:59:47.44 ID:aWEG8RKI
最悪の結婚初夜


永禄6年(1563年)、浦上政宗の息子である浦上清宗と黒田職隆の娘との婚姻が決定。
翌永禄7年(1564年)の1月11日に政宗の居城である室津城で式が行われ、若い両人の門出を祝った。

しかし、この式の日取りを政宗と敵対していた龍野城主赤松政秀が完全に掴んでいた。
この日ならば室津城の防備も手薄であろうと政秀は深夜に夜襲を仕掛けたのである。

政秀の読み通り、祝賀ムードで緩みきっていた室津城はあっさりと陥落し新郎新婦はもちろんの事、
当主の政宗までもなすすべなくこの時に討ち取られてしまったのであった。




476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 21:10:59.49 ID:Tx3Dk8IW
そして赤松政秀はこの時の新婦の兄にボロ負けして新郎の叔父にトドメを刺されるのでした。

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 01:06:10.30 ID:WM21BRAy
浦上清宗の弟に>>474の妹が嫁ぐんだけど、
結局そっち(誠宗)も宗景の差金で殺されちゃうんだよな

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 07:18:56.74 ID:N18cigQ3
黒田は怒ると後が怖いな

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 10:12:19.28 ID:XRnjuyt4
これはいくら戦国時代でも許されないレベル。

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 10:55:47.44 ID:VfzBN/Ns
鬼武蔵が居たら正面衝突してそうだ。

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 14:55:03.19 ID:W64Iegsa
鮭様なら指揮棒で撲殺して家来に説教される

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 17:54:26.65 ID:v0i82vYG
>>476
ちなみに

新婦の兄=黒田官兵衛
新郎の叔父=浦上宗景(宇喜多直家の主君)

な。赤松さんもえらいのに喧嘩売ったもんだわw

赤松家落日の時

2011年10月23日 22:00

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 16:13:18.25 ID:rmL9jZXQ
赤松家落日の時


応仁の乱後に復活した赤松家の当主、赤松政則が死亡した後にその名籍を就いだのは
七条家からの養子である赤松義村という人物であった。
しかしながら相続時に幼少であったために浦上則宗など譜代の老臣が亡くなった後も実権を握ったのは
政則の正室である洞松院であり、義村は長らく「神輿」のような状態に置かれた。

しかしながら義村も成長するに伴って洞松院や家中を牛耳る老臣の存在を疎ましく思うようになり、やがて
家中の改革に乗り出した。
その手始めが永正14年(1517年)に敷いた浦上村宗・小寺則職の2宿老と自身の側近から選抜した3奉行による
合議制であった。
ここで最大の狙いが洞松院との癒着の強い浦上村宗の排斥である。
やがて狙い通りに合議の中で主権争いが始まり、小寺や3奉行の讒言によって村宗を追い込み、やがて
義村は村宗の出仕を差し止めた。

もちろん納得できない村宗は永正16年(1519年)に兵を集めて居城の三石城に篭り対決姿勢を見せたが、
村宗の弟の宗久(備前守護代)はこれには従わずに赤松側に付いた。
村宗の失脚に加えて浦上の分裂…あとは三石の反乱軍を討伐すれば義村の野望は果たされるはずであった。
だが要害に築かれた三石城はなかなか落ちず、やがて村宗は根回しによって西備前に勢力を誇る松田元陸と同盟し、
松田が三石を攻める赤松の背後を突くという噂が立つと兵を退かざるを得なかった。

「まさか長年浦上と対立していた松田が味方するとは…」義村としては大誤算である。
しかも悪い流れは続くもので永正17年(1520年)、今度は村宗派に美作守護代の中村則久などが転じて
赤松家に対して反旗を翻した。
今度は小寺則職を総大将にして美作に向かわせたが、宇喜多能家の撹乱などで200日以上経っても中村の篭る
岩屋城を攻略できず、
やがては浦上と松田の連合軍に則職が逆に討たれるという無惨な結果に終わった。

備前・美作戦線で優勢に立った浦上軍はついに播磨へと侵攻し、赤松軍を蹴散らし、ついには義村は
正室(洞松院の娘)と離縁させられ、嫡子である才松丸の身柄を引き渡した上で隠居に追い込まれた。
そして村宗は若干8歳の才松丸(後の赤松晴政)を元服させて傀儡とし、自らがその後見人となって
赤松家を掌握したのであった。




464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 19:48:13.39 ID:Vf6Z+BE9
>>458
名君名将の子で有能と見られていた二世が、
「意外と、甘いようで」と足元救われるのも
戦国でよくある興亡史の一典型なんだろうな。

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 20:06:08.19 ID:7hbCiVGx
守護代の弟はどうなったんだろう…殺したのかなぁ

「赤松広英の怨霊」

2011年08月05日 23:01

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/04(木) 23:41:46.46 ID:4ilOAZBl
「赤松広英の怨霊」

西軍として田辺城攻めに加わった後、本拠・但馬竹田城で謹慎していた赤松広英(広秀・広通)。
日ごろ入魂の亀井茲矩の「家康に取り成すから、鳥取城攻めに加勢してくれ」という援軍要請に勇躍して出陣した
彼を待っていたものは、城下焼き討ちの罪を広英に被せる亀井の讒言と、家康からの切腹命令であった。
そして、広英は鳥取真教寺で自刃する。

広英は赤松政秀の子で、秀吉公播州下向の始めより篤く仕えたので、秀吉公の恩顧世の常ならず、
さらに軍功も華々しかったので、始めは僅かな身上だったが、恩録次第に加わり、龍野より竹田に移り、
3万8千石を領した。

その人となりは文武の道に志篤く、常に四書五経を講じ、文名高き者を多く抱えいた。
その頃の書物は古めかしい註によってばかりであったのを、藤原惺窩と共に新たな訓点を加える作業を進め、
宋学を世間に広めたのである。
また、朝鮮捕虜の姜とも交遊し、帰国の便宜を図ってやった。
このように諸道に通じ、その才、世に超えたる人であったが、思わざる兵乱に遭い、不遇にして
身を空しくしてしまったのだ。

広英と正室・宇喜多秀家の姉との間には娘しかいなかったが、側室が懐妊しており、広英没後に男子を出産。
しかしこの子も14歳で果て、家は絶えてしまった。

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/04(木) 23:43:36.49 ID:4ilOAZBl
赤松広英が死してその怨霊が残り、鳥取城下の人に取り憑いて「我こそ赤松が悪霊なり!」と名乗り祟るので
人々の恐れることは甚だしかった。

池田備中守の頃には、町の地下人・作右衛門というものが暗夜に一人歩いていたところ、
晴天だった空がたちまちかき曇るや、露のようなものを吹きかけられたので、眼も口も開けられないように思われた。
その背後から、白装束に鉢巻をした身長一丈(約3m)ばかりなる大男が馬に乗って現れ、作右衛門を抱え上げると
1町ばかり進んで彼を投げ捨てた。

投げ捨てられた作右衛門は気絶していたが、明け方になってようやく正気づき、ほうほうの体で逃げ帰ったものの
そのまま病気付き、3ヶ月ほどして死んでしまった。
この頃には同様のことが頻繁に起こっていた。

池田光政の頃には徳安という法体の者が、深夜、一人で城の道辺を歩いていると、凄まじい大男が
「我こそは赤松左兵衛尉よ!」と名乗って切りかかってきた。
徳安は脇差を抜き合わせ、受け止めたのだが、高股を切り落とされたと感じて、道端に倒れ伏してしまった。

たまたま通りかかった友人に介抱された徳安は、事の次第を話したのであるが、友人が股を見ても
傷すら見当たらないではないか。
こうして友人の肩に担がれて家に帰り着いた彼もまた、7~8日後には死んでしまったのである。

このような不思議な事が相次いだので、夜などは湯所の山の広英の墓の前を通る人もいなくなった。
人々は恐れおののき、神に祀り、祠を経て、歳時には神饌などを厳かに供えたので、憤恨は
次第に薄まっていったのか近年はこのような事は無くなった。
祠も次第に造り更へ、今はいかめしくなっているので、神霊もお喜びになっていると思われる。
(因幡民談記)




310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/05(金) 08:21:02.24 ID:r7jQsH/C
赤松広英、竹田城が好きで調べたらなかなか面白そうな人だけど資料がなかなか見つからないわ

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/05(金) 08:25:23.09 ID:5pMjYtta
斎村政広さんか

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/05(金) 21:37:44.58 ID:obmmQ6gn
>>311
この頃、斎村政広という呼称が一般的になっている感があるけど、
この「政広」という諱の出所ってどこなんだろう?
系図とか、赤松関係の書籍とか、それらに掲載の資料とかでも見たことがありません。
以前から気になってて。

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/05(金) 22:51:29.13 ID:CWDD+0Be
しかし江戸でも津和野でもなく鳥取城下で暴れるとは迷惑な怨霊だな

蔭木城の合戦異聞

2011年06月22日 23:34

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 20:25:32.91 ID:w0d/BnPG
蔭木城の合戦異聞

文明15年、赤松政則の領国は山名政豊の猛攻に曝されていた。

まず備前の福岡城が窮地に陥ったが、政則は宿老・浦上則宗らの意向を無視。
兵を備前ではなく、但馬との国境に向けたのだった。

そして真弓峠で雪に動きを封じられた政則は、山名の本隊に襲われ、政則も一時行方不明に
なるほどの大敗を喫することとなり、さらには福岡城も陥落。

政則は浦上則宗らによって主君の座を追われ、赤松領の大部分も山名に奪われてしまった。
(この後、政則は堺から入京し、幕府の有力者の間を回って将軍から家督を安堵され、
やがて密かに浦上則宗と和睦し、突如戦線に復帰することになる。)

だが、政則は「無双之勇者」だ。
文明17年閏3月27・28日に垣屋一族が籠もる山名勢の拠点「森岡之城」(蔭木城?)を
攻め落とし、大勝利を収めたのだ!

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 20:28:40.28 ID:w0d/BnPG
赤松政則は、この戦の前に春日大明神に加護を願っていた。
「我に力を貸してくれるのであれば、一村を寄付しよう」
それも、山名が横領した我が興福寺の旧領の返還した上にである!

そして戦いが始まった。
そこには城中へと、凄まじい勢いで突入する者の姿があった。
春日大明神の御遣いである「神鹿」が現れ、山名勢に突撃したのだ!

城内はたちまち大混乱に陥り、大打撃を受けて落城。
垣屋という名字のものはことごとく討ち取られたのである!

興福寺に備前肩背郷の一部が寄付されたのは何を隠そう、
当社の大明神の御神徳によるものなのである!!

(神鹿馳入敵之城中、其以来山名方城中無正体落畢、垣屋名字悉終了、
依之別而披寄附之条、当社大明神之御神徳也)

興福寺=春日神社の、なんとも調子のいい話。
(多聞院日記)




322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/22(水) 20:35:05.92 ID:FY1c3s4t
多聞院記って本当に信頼性高いのか一発で疑問に思いましたw

名倉玄番親子の逃走

2010年10月08日 00:00

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/07(木) 18:36:04 ID:APjb1OUC
1518年に赤松政村が三石城に篭る浦上村宗を攻めた時の話。

数で勝る赤松方は浦上方の城を破竹の勢いで落としたため
赤松方が油断したところで、村宗は忍びに命じて
「村宗は病に臥せっており、城方の士気は下がり篭城もままならない。」
と虚言を流させた。

これを真に受けた赤松方はすっかり気を良くし、不忠者の村宗の
滅亡ももうすぐであると陣中で酒宴を開く等完全に油断しきっていた。

村宗は赤松方の油断をよくよく見極め、勇士70人ばかりを選び
嵐と暗闇に乗じて夜襲を決行した。
完全に油断して備えもほとんどなかった赤松勢は面白いように討たれ
皆我先にと逃げ去っていった。

赤松方の名倉玄番はその夜深酒して酔いつぶれて寝ていたところ、
俄かに夜襲があったため長男の次郎三郎が父を担いで逃げ出したのだが、
次郎三郎は多数の敵に追いかけられたためもはやこれまでと観念し
父を岩陰に隠すと、迫りくる敵を引き付けながら戦い遂に討ち死にした。

次男の三郎四郎は敵中を斬り抜け父が隠れていた岩陰に辿り着き
共に逃げようとしたのだが、玄番は大の臆病者であったため
わが子を敵を間違えて逃げ出した。
三郎四郎は「敵ではありません!三郎四郎です!」と声をかけながら追いかけたが
半狂乱になっていた玄番は耳を貸さずに逃げ回った。

そうこういているうちに三郎四郎は敵兵に見つかってしまい
その場で討ち死にしてしまった。

玄番はうまく山陰に逃れ、明け方になって放たれ馬がいたのを
見つけるとこれに乗って逃走した。




540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/07(木) 18:43:27 ID:OfLOgCMs
村宗ってなんか言いにくいね。

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/07(木) 18:52:31 ID:U8U8ceuJ
土持信村

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/07(木) 18:57:36 ID:JN5bt3rq
>>540
言い難いといえば足利義材の偏諱を頂いた連中の名前

北畠材親<「きたばたけ きちか」でーす
京極材宗<「きょうごく きむね」でーす
宗材盛<「そう きもり」でーす

赤松広通を知っているものは少ない

2009年12月17日 00:08

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/16(水) 19:52:52 ID:RfTzExv2
藤原惺窩に教えを受けた1人に斎村政広という武将がいた。
旧名を赤松広通といい赤松政秀の子として生まれ、後に但馬竹田城を領し
惺窩に小早川隆景や直江兼継と並んで文に秀でた武将と言われた人物である。

1600年に政広が故あって自刃した時、惺窩は悲しみのために、声をあげて激しく泣いた。
惺窩は政広が孔孟の道を期することができる人物だと考えていたのだ。

惺窩は朝鮮儒者姜への手紙に、こう書いている。
「赤松公は今新たに四書五経の経文を書し
 私に宋儒(朱子学)の意を持って和訓を字傍に加えることを頼んで、以て後学に役立てようとした。
 日本において宋儒の義を唱える者は、この本を原本とするだろう。」
この四書五経に惺窩が加えた和訓がいわゆる「惺窩点」(1599年、政広自刃の前年に完成)であり
それをもとに弟子の林羅山が発展させた「道春点」が、羅山が幕府に召し抱えられることで
全国に広まった。

また姜の「看羊録」には「日本の将兵は悉く是れ盗賊なるも、ただ広通のみ頗る人心が有り。」
という惺窩の発言や
政広が三年の喪を行うなど明・朝鮮の礼を好んだ事
但馬の領地に孔子廟を建てて、家臣に朝鮮の冠服で祭儀を習わせた事などが記され
惺窩とも共通する政広の大陸趣味が見て取れる。

慶長三年に惺窩が姜と初めて会ったのは政広の屋敷
惺窩が姜から学んだ孔子を祀る礼『釋典(せきてん)』を弟子たちと行ったのも政広の下
前述の四書五経の浄書と引き換えに姜の帰国費用を出したのも政広であり
広く学問の後援者だった。

日本文化史に残る事業の後援者の割には地味な人物の話

余談だけ19世紀初頭に書かれた「先哲叢談」藤原惺窩の項には
「今の世の中で徒に上杉謙信、小早川隆景、高坂昌信、直江兼続が
 戦乱の時代に文を好んだことを知っている者でも赤松広通を知っているものは少ない。」とある。
惺窩が認めた5人の中でもマイナーなんだよね。家が途絶えたというのもあるんだろうけど。




181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/16(水) 20:41:34 ID:5BCzAONP
惺窩四天王・・・?

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/16(水) 20:48:19 ID:ORt1OHN8
惺窩先生は学問に厳しい人で、弟子でも成績が悪いと直ぐに破門したのだそうな。
これがホンマの惺窩主義。なんてな!

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赤松満祐の「法名」・悪い話

2009年01月21日 00:05

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/20(火) 01:00:50 ID:/HHeI23s
赤松満祐と言う武将がいる。

そう、あの将軍を「犬死に」させ、室町幕府衰退の端を開いたとされる「嘉吉の変」を
起こした男だ。彼は将軍暗殺後領地の播磨にて果敢に抵抗を繰り広げるが、
幕府による討伐軍に攻め込まれ、一族六十九人と共に自害した。享年六十一歳。

その法名は、性具。



もうちょっと良い法名はなかったのだろうか?




578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/20(火) 01:02:04 ID:ugoi3KSv
>>577
ワロタw

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/20(火) 01:04:43 ID:hwF5sIOu
「おのれ、性具、ワシを弄びよって!」

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/20(火) 01:12:33 ID:KdnzziEi
「性具、なんじゃその槍は!よせ、近寄るな…うああああ」

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/20(火) 01:14:00 ID:ugoi3KSv
天下ならぬTENGAですね、わかります。

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/20(火) 01:27:16 ID:Z9G2UrBj
よくわからんけど仏教的にはいい名前なのか?
それとも煬帝ような事績をもとにした蔑称のようなものなのか。

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/20(火) 01:32:25 ID:tKsE0gem
まあ順当に考えれば
性は「セックス」のほうじゃなくて、「さが」のほうだろう。

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/20(火) 01:35:05 ID:gtJlDnRX
>>577
赤松のネタっぷりは神の域

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/20(火) 01:37:46 ID:/HHeI23s
「性具」という単語に変な意味が付加されたのは、ずーっと時代の下った近代以降だしね。
しかし今から見ると、これは…!ってなるw
ある意味直江の「愛」に近いものがあるね。

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/20(火) 01:40:20 ID:KdnzziEi
赤松一門が義教のおアッー!いてで、その寵愛ぶりを不安がった・・
なんて話があるから、なおのこと生々しいというかw

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/20(火) 01:50:35 ID:kdn07PN1
金玉袋の微妙院様の微妙もよい意味?

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/20(火) 02:34:06 ID:T9gDkvEc
>>587
ビミョウじゃなくてミミョウと呼ぶ
というか、「微妙」にマイナスイメージが定着したのは2000年代に入ってからだと思うが

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/20(火) 03:25:13 ID:gfUm4PAy
元々細かな、とか繊細なってイメージの言葉だからな

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/20(火) 18:04:56 ID:Ra7YVRHv
>>577

おそらく読みは「しょうぐ」で
仏性を具えるとかそんな意味なんだろうけど…



593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/20(火) 18:40:17 ID:39B9iI92
赤松や浦上の一族の法名は大体、性○で統一されてるので時に卑猥な意味になっても仕方ない。

赤松政則のいろいろな話とその妻と・悪い話

2008年12月04日 00:06

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/02(火) 23:35:59 ID:gdqST2Tv
赤松政則というか、その妻の逸話と言うか、

彼の妻は、当時幕府最大の実力者、細川政元の妹である「めし」と言う人なんだが、
この人、不器量で有名だったそうで(そのせいで嫁ぎ先がなく尼になってたって伝説があるくらい)
それが(明応の政変ための工作だったと言われるが)還俗して有力大名である赤松に
嫁ぐ事になった。このとき赤松政則は堺に滞陣していたのだが

「天人と思ひし人は鬼瓦 堺の浦に天下るかな」

なんて、酷い落手が京に張られたそうなw
この婚儀の二日後、明応の政変が起こる。


ただ、このめし殿、賢婦人で、政則の死後、義子・赤松義村の後見人となり
戦国初期の赤松家を、実質上の赤松家当主として支えきった、

この時代を代表する女傑。



963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/02(火) 23:36:54 ID:VNCjTR6W
そういえば、夜食を食いたくなった

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/02(火) 23:59:03 ID:LlL3LdNp
そしてこの数週間後、週間少年漫画誌のハーレム漫画に
鬼瓦が新ヒロインとして登場するのである……

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/03(水) 00:06:25 ID:ATayEmhX
おっと最後の三行を読み飛ばしてたぜ
立派な女じゃないか

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/03(水) 00:22:51 ID:hblRdKGn
赤松政則は、応仁の乱でせっかく勝ち組にまわって、嘉吉の乱以来の赤松家負け組み街道から
ようやく逃れたと言うのに、いざ領土が広がってみたら、領地を占拠された山名政豊と戦争になって
一時は領地を追い出されてみたり、

すごい文化人なんだけど、猿楽師を家臣にしようとして、家中から総スカンを食らったり、

大名なのに、名工・長船宗光に弟子入りして、後世に残るほどの名刀を打ってみたり、


まあ、いろんな意味で個性的な人ですわなw

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/03(水) 00:33:13 ID:c8wz6GLZ
細川政元といい赤松政則といい変なのが多いな。

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/03(水) 00:35:47 ID:tP31AB+K
変人が多かったから室町幕府の混迷が更にgdgdを加速させ
戦国時代が初期消火できずに収拾付かなくなったとも言える

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/03(水) 01:21:41 ID:d+8he7Hv
>>962
確か嫁入りした時30超えてたんだよね

>>967
自分の作戦に固執するあまり重臣から総スカン食らったり・・・
決して無為の人ではないのだけれど、なんとも評価しづらいw

赤松則繁の消息・いい話

2008年10月16日 10:23

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/07/15(火) 20:30:05 ID:AlKY6CLr
将軍暗殺で有名な嘉吉の乱の首謀者の一人、赤松則繁。彼は乱のあと行方不明になっていた。
新将軍義勝の元に、死亡した将軍義教を弔うために高麗から使節がやって来た時、
そういえばあいつはどこに行ったのかねえ、と、その話題が出た。
高麗使節が「それはどのような人物なのですか?」と聞いてきたので、幕閣たちがそれを説明すると、
かの使節、みるみる顔を青ざめさせ、こう叫んだ、

「そいつ!今我が国を襲撃している倭寇の頭領!!」



一同、則繁が元気でいることを知りほっとする。




500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/07/16(水) 12:40:57 ID:d+m9FLXM
>>496
そんで、倭寇として備中・河内まで攻め込んでくるんだよなw
壮大なロマンを感じさせる武将やなぁ 100点