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毛利元就の家督相続

2015年01月06日 18:52

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 20:58:47.75 ID:Dd7BiFBo
大永三年(1523)6月末、毛利幸松丸は俄に発病し、療薬験無く、悩乱驚働せられ、終に七月十六日、
齢わずか九歳にて早世された。
父興元の死後程なく、不幸また打ち続けば、毛利家は一族を始め家中の諸士男女上下、これを愁傷した。

家臣の福原、桂、志道、口羽以下評議し、
『この上、当家跡目の沙汰を引き述べするようでは、今は戦国の時であるから、猶又いかなる
変異が起こらないとも限らない。であるが、別に後嗣に立てるべき、興元様の子息がおられるわけでもない。
だからといって、江家(大江家)累代の血脈を断って、他者を家督に頼むべきではない。
であれば、叔父・連枝の中から相続して頂く他ない。

そうであれば、興元様のご兄弟の中で長兄である多治比刑部少輔殿(元就)は、今百万の将にしたとしても
その器量に不足のない方で、現在中国地方における若手の諸将の中でも、この人ほどの弓取りは居られない。

三男北殿(就勝)は足の傷によって、近年は歩行も自由でない。四郎相合殿(元綱)は、
軍将の器量が無いわけではないが、その器量も元就殿に比するものではない。その上、
舎兄である多治比殿を差し置いて庶弟を主君と仰ぐのも順義あらざる事である。かれこれにより、
元就殿家督の他あり得ない。」

そう評議したが、毛利家全体での衆議は喧喧囂囂と意見分かれ、どういう決定もなく一日一日と引き延べに
及んだ。そんな中、山口の大内義興がこの機会に乗じて毛利の遺領を併呑する、との風聞が広く流れた。
かつ又、尼子経久も自らの子息の中から、毛利家の家督に据えたいとの望みを持っていると、家中専ら
沙汰しており、

「このように跡目の議定が遅滞し未決の状態が続けば、大内・尼子の両家が大身の威に誇り、
当家を奪おうとの望みかけている以上、今後いかなる危害が起こるか予想も出来ない。
この上は、刑部少輔元就殿こそ、智仁勇の徳があり大将の器に当たり、その上現在の連枝の中の
長子であるから、この人の他に求める余儀はない。」
そうようやく会談は結論し、福原、桂、志道、口羽、児玉、赤川、井上らが元就の居城である
猿掛に出向き、「元就が本家を相続され、近日吉田に入城されるにおいては、我々御馳走申すべき」
旨を申し述べた。

元就はこれを聞き
「興元父子うち続き不幸の上は、勿論跡目の沙汰無くては叶わぬ事ではあるが、この元就を
あなた方が跡目に決定するとは、全く思いもよらなかった。
であるが、私も兄弟の中で長幼の序に従えば長兄に生まれたのであるから、固く固辞するべきでもない。
この上は、当家血脈連続のためでもあるから、いかようにもその意見に任せよう。

であるが、最近尼子経久が自分の子供を跡目に立てたいとしきりに望んでいるとの風説がある。
もしもこれが本当であれば、あなた方や私の決断だけでは、経久が押してその計略を行う可能性がある。
その期に至って我々に難渋を押し付けてくれば、多勢の威によってどんな事が起こるか想像もできない。
そうなってしまえば、かえって私の相続が当家の災いの元になってしまう。

であれば、この事を予め京都の将軍家に訴え、天下の台命を給わることが出来れば、他者の競望を
防ぐことが出来る。その上にてこの私の相続を披露して然るべきであると考える。」

この元就の意見に、諸臣も尤もであると感心し、再び衆議熟談して、粟屋縫殿充を、物詣と称し
密かに京都に上らせ、将軍家に訴訟したところ、公方義晴公より『元就が毛利家を相続し、本領安堵すべき』
との台判を給わった。

粟屋は喜び急ぎ帰国し、福原以下の諸臣も会議して『かかる名主を軍将とし、我々がその指揮に従うのは、
当家益々の興隆繁栄の基礎となるでしょう』と、喜ぶこと限りなかった。

かくして福原、桂、志道、口羽以下の諸臣ら、元就の吉田入城を迎えるため、各々猿掛城に至り
「幸松丸殿卒後の中陰の日数、未満の中ではありますが、吉田城が無主のままでは如何かとも思われ、
この上は一日も速く入城されて然るべし。」と、本来あるべき儀礼等もそこそこにして、とりあえず
彼らを伴い、同年八月二十八日、吉田郡山城に入城したのである。
(芸侯三家誌)

毛利元就が毛利家の家督を継ぐまでの顛末である。



171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 22:19:33.88 ID:GH8cPtqW
>>169
無事家督を相続できたんだしいい話ではないか

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 22:33:39.13 ID:XhN6iaY+
策略王を世に放ってしまったともとれる。

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 22:49:09.06 ID:juowE0EJ
尼子と将軍家は対立していたから、将軍家に「尼子さんが手を出してきそうだったので元就君に決めますがいいですか?」と聞けば、そらOKだすよね。

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 23:05:07.97 ID:2t8VhDHm
>>169
この流れも計算ずみと思わせるところが毛利元就だな

降人を装い

2014年11月08日 19:21

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/07(金) 19:17:06.09 ID:S2gRtrs8
毛利元就尼子義久が籠もる月山富田城攻めにおいて当初、富田城中の者一人も落としてはいけないと、
所々に関所を据え、落人を絡め取って首を刎ねていたため、雑人達に至るまで、抜け落ちるもの無く
大勢城中に籠った。これは城中の兵糧を無くさせるための謀であった。
その他にも所々に付城を構えて、他国からの兵糧も絶ったため、富田城内はますます兵糧が乏しくなった。

そのように城中が窮乏すると、元就は一転して、富田城から落去する者達に対して、その命を助ける旨を
発表し、所々の道口を開いたため、雑人多く落ち失せ、尼子家臣の者たちすら、縁を求めて降参する者も出た。

ここに熊谷新右衛門原宗兵衛という者が、尼子義久にこのように申し上げた

「我ら両人、偽って毛利の本陣のある洗合に降人として出たいと思います。そのとき、
元就は必ず我々と対面するでしょう。ここで隙を伺い、彼を刺し殺します。
もしこれに成功すれば、私達の子供を世にあらしめて頂きたいと思います。」

この言葉に義久は、忠志少なからずと感動し、直ぐに両人の子供を召して、それぞれに五千余貫を宛がう
旨を記した判形を与えた。

それから熊谷と原の二人は洗合へと向かい、降参するということを申し入れた。
元就はこれを許し、対面することとなった。
その日は降参の者三十余人あって熊谷、原もその中に混じって出たが、予て考えていたのとは違い、
元就や輝元、吉川元春、小早川隆景は、一間(約2メートル)ほど隔たって着座しており、
その間に福原・児玉以下20余人居並び、奏者、酌に至るまで、みな両刀を差して用心の体であった。
このため二人は終に手を出すことが出来ず、そのまま頓首して退出した。

その後、元就は「今日降参した者の中で、5,6番目に出てきた二人は怪しいところがあった。
手堅く番を付け監視するように。」と命じ、侍十数人を付け置いたが、二人は隙を伺って終に逃げ去り、
富田城へと帰った。そこで義久はじめ城中の者達にその故を語り、大いに恐懼した。

その後毛利に降参した者が、この事を詳しく語ったという。

(芸侯三家誌)




城を抜く術

2014年11月02日 18:54

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/02(日) 00:06:37.91 ID:DlJhDHgw
毛利元就は厳島の戦いで陶晴賢を滅ぼすと、大内氏の本拠である防長に侵攻し、次々と攻略、
この事態に大内家当主義長は、重臣である内藤弾正忠(隆世)らとともに、長府(下関)の勝山に籠城し、
これを知った毛利元就は、一門の福原左近将監(貞俊)を大将として軍勢を派遣した。

福原並びに国侍の熊谷、阿曾などにより勝山城を取り囲み攻め立てた、しかし勝山城は地形が
険阻である上、城兵たちも勇を励み堅固に城を守った。
元就はこのことを聞くと、福原に密かに、城を抜く術を伝えた。
福原はこれに従い、城中に矢文を放った

『内藤弾正忠は陶晴賢に与した叛逆の者ですから、切腹させていただきたい。
義長については特に遺恨があるわけでは有りませんので、一命を助けて豊後へ送り返しましょう。』

この内容に、義長は「私は内藤とともに自害する!」と言い張ったが、内藤自身や杉等家臣たちが
様々に申し宥め、義長を長府の長福院に移し退け、その後内藤は切腹することに決め、福原に対し
検使を請うと、兼重左衛門尉が派遣され、その上で内藤弾正忠は切腹した。

ところが、福原は直後、義長のいる長福院に攻め寄せた。

大内義長も切腹させるよう、元就より申し来た。よって速やかに自害あるべき。』

これに義長は「覚悟していたことではあるが、福原に欺かれたことが口惜しい」と激怒したが、力及ばず、
行水にて身を清め、終に自害した。
吉弘右衛門太夫、橋爪美濃守、安田入道、杉民部らの家臣も、続いてみな切腹した。

また陶晴賢の家臣、野上紀伊守房忠は、晴賢の末子である6歳の鶴寿丸を山口に隠し置いていたが、
敵がこの命をよもや助けまじと思い、この子を長福院に抱き来て刺殺し、自身も共に死んだ。

(芸侯三家誌)

大内義長の最期についての逸話である




674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/02(日) 00:31:36.48 ID:Oz10yxRV
これでも元就は天寿を全うできたんだから怨みなんて役にたたないな

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/02(日) 00:41:10.54 ID:EHYnYJAt
役に立たないこともないだろ
怨みも、用心深さも、使い手次第だと思えば夢も希望もあるじゃないか

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/02(日) 05:48:48.50 ID:okk8Z5ME
息子を失ってるやん

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/02(日) 08:00:46.81 ID:LVP3RuBO
隆元さんが、厳島の三女神にお縋りして、元就に向けられていた呪いを引き受けたんですね

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/02(日) 10:07:10.82 ID:CkoMoT99
大友義鑑「茶碗はよ」

落ち武者を捕える

2014年11月01日 19:01

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/31(金) 19:38:25.38 ID:EMuHQAj1
毛利元就は厳島合戦のあと、かの島に11日滞留し小舟一艘につき水夫一人を乗せ、
夜中に島の周りを「落人乗せん」と呼びながら漕ぎ廻らせた。
そして厳島の対岸にある火立、赤崎という場所に人数を出し置き、この船が乗せてきた者を
尽く捕らえさせた。陶方の落ち武者を捕える罠を仕掛けておいたのである。

そういった落ち武者の中に進藤彦八という者が居た。彼もこの船に乗ったが、
船中で「この船はどこに着けるのか」と尋ねた所、水夫は「火立・赤崎に着けます」と答えた。
これに嫌な予感がした進藤は
「他の場所に着けよ!さもなくば汝の首を打ち落とす!」
そう刀に手をかけ怒鳴った。

水夫はこれに恐れ「静まって下さい。あなたの仰せに従います。」と他の場所に着岸したため、
進藤は虎口を逃れて立ち去ることが出来た。

この進藤彦八はもともと小早川家の侍であったのだが、勘気を得て立ち退き、大内家に仕え
今回の合戦に従軍したのだが、彼はここから直に、備後の在所に帰ったそうである。

(芸侯三家誌)




669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/31(金) 21:51:54.41 ID:PQdj9lHO
元就容赦ねーな

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/01(土) 02:08:29.07 ID:wE+rxkq3
さすが元就細部まで謀略が行きわたっておる

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/01(土) 19:01:49.56 ID:zM7e2CEJ
火立・赤崎の何がいかんのかと思って調べてみたら
赤崎は厳島から出た死人を運び込む場所で
火立は毛利勢の出航地か
これは死亡フラグですわ

陶との決別

2014年10月27日 18:44

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 00:11:17.39 ID:+GEva5ce
備後国荏田、旗返城の城主・江田入道(隆連)はもともと大内氏に従っていたが、
大寧寺の変で大内義隆が滅びると、天文22年(1553)、尼子方に鞍替えをした。

これにより、大内義長の命と称して陶晴賢は遣いを以って、毛利元就に江田を退治するよう伝えた。
元就は四千騎を率いて備後へと出陣、これを知った江田隆連は出雲へ注進し、尼子晴久は
「元就が小勢にて他国へ出たのは願う所である。急ぎ江田の後詰して元就を討ち滅ぼし、芸州を
切り従えてその後防州へと討ち入るべし!」と、出雲・伯耆・美作の軍兵二万騎を発した。
ここに備後泉合戦と呼ばれる大規模な戦闘が起こり、毛利元就は苦戦を強いられながら、
陶晴賢よりの援軍もあり、11月13日、ついに旗返城を開城させた。

さて、問題はその後に起こった

毛利元就は児玉若狭守、国司雅楽充両人を使いとして、大内義長ならびに陶入道(晴賢)に申し入れをした
『江田の旗返城は毛利家一分の手立てを以って切り取り、また尼子との国境であり、雲州へ出兵する折の
筋道ですから、かの城は我々に預けていただきたい。』

しかしこれを聞いた陶晴賢は許容せず、かねてから旗返城には江良丹後守を入れていたのだが、
元就も彼の下知に従わせようとした。

これに怒った元就は、それまで従っていた陶と決別することを決意し、その頃、かねてから内通していた
吉見大蔵大輔正頼が、居城である石見国津和野で陶に背くと決心したことに、二宮隠岐守、伊藤三郎左衛門を
加勢として、兵600とともに津和野城に派遣した。

吉見正頼が大内家に背いたことに対し、陶晴賢は吉見退治のため天文23年3月、大軍を以って津和野の城を
取り囲んだ。これによって元就にも遣いによって、出陣有るべき旨が伝えられた。
しかし元就はこれに返答せず、その遣いを追い返した。

(芸侯三家誌)


大寧寺の変の後、当初陶晴賢に従っていた毛利元就が、敵対することを決断した経緯である。




640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 15:34:44.20 ID:9bjUCH30
天下統一では江田豊前守とされた人ですな。
実際は豊前守ではない。

毛利元就の合言葉

2014年10月09日 18:52

478 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/10/08(水) 20:21:37.77 ID:GJvp27M/
毛利元就の合言葉

陶隆房が主君、大内義隆を弑した後に陶晴賢と名乗り毛利元就と瀬戸内海の宮島で決戦を行った時のこと、
元就は自軍の兵同士が相打ちせぬよう、合言葉を考えていた…
そして元就が宮島に船で上陸した際、部下に
「ここはなんという所か?」
と、問うと
「浦は包ヶ浦、尾根は博奕尾と申します。」
と答えがあった。
「鼓も打つ物、ばくちも打つ物、いよいよ敵に勝つ時が来た!」
と喜び、毛利側の合言葉は「打」、「勝」と決めたと言う。
なお、この合言葉は他にも「勝つか?」、「勝ち勝ち!(勝つ勝つ)」で有ったとも言われ、今では広島に以下の様な形で伝わっている。


 ♪    ∧_∧     ♪
      (   )¶                  ♪
   ¶<Т  |>  宮島さんの神主が
    ⊂/ Σ |            おみくじ引いて申すには
       ̄ し   ♪
  ♪

      ∧ ∧                 ♪
     ( ゚Д゚) ¶    今日もカープは
  ¶< ∥y∥つ         勝ーち 勝ーち 勝っち勝ち
    Σ0. ||                 ♪
      ∪                 ♪
       ♪

(民名書房 刊 サインはV)




479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/08(水) 20:23:27.30 ID:hpOE/5R0
民明書房とか書くとどこまで架空かわからないからそこんとこ書いてくれ

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/08(水) 20:29:06.49 ID:ZxtYeTEf
カープと宮島とお好み焼きで広島の主成分は構成されてるから(震え声)

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/08(水) 20:49:14.58 ID:PoEsg75V
何これ創作か



482 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/10/08(水) 20:55:58.80 ID:GJvp27M/
>>479
菊池寛の書いた厳島合戦とか地元に伝わるお話ね

ちなみに陰徳太平記では元就が宮島上陸後に兵を率いて山に登った時にここはどこか?と尋ねたら兵から「博奕尾です」
と、返答を受け
「敵陣にかかる門出に博奕尾へ登るとは、敵に打ち勝つ前触れじゃ。源義経は勝浦に着いて平家に勝ち、それがしは博奕尾に登って敵に勝つ!」
と、兵を鼓舞したと記されており、
合言葉に関しては「誰か?」と問われたら「勝つ」としていて、
陶方は「月」、「よし」だったそうな。



483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/08(水) 20:58:46.35 ID:Von/PAty

よし
ヒロキ

・・・すまん

484 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/10/08(水) 21:02:14.24 ID:GJvp27M/
月!
     彡⌒ ミ  
    (´・ω・`)・・・・・

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/08(水) 21:03:26.23 ID:LjN7ttzh
後半何事かと思ったらそれ書きたいがためにこの逸話出しただけだろw
「今日のホームラン」という動画見てたから何とかわかったけどさあ…

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/08(水) 21:57:21.97 ID:ZZydB7uU
なんだこれ

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/09(木) 08:22:08.93 ID:LX+s7qK8
民明ではないのかと

大内か、陶か、

2014年08月18日 18:51

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/18(月) 13:46:30.58 ID:040eP83M
天文20年(1551)、陶隆房が主君・大内義隆への反抗を強め、大内家が大寧寺の変に向けて
緊迫の度が増す中、大内配下の有力国人である毛利元就のもとには、大内義隆方、陶隆房方双方より
加勢の申し出が来た。

このような中、元就の前に児玉三郎右衛門(就忠)が座していたが、元就は児玉に
「どちらに与するべきだろうか?」
と尋ねた。児玉は少しも思案する様子もなく、即座に
「陶に一味然るべきです。」
と答えた。これに元就は笑い出し
「当家興亡の大事は今この時だというのに、いささかの思慮にも及ばないとは、
いい加減な意見なのだろう?」

「とんでもありません。この考えは兼ねてから我が心で量見していた物なのです。」

その後、元就は子の隆元、元春、隆景、その他の重臣たちを集め、このことを評議した。
ここで熊谷伊豆(信直)が発言した

大内義隆は、近年武業を取り失い、遊楽に浸っており、その家人は多くそれを疎み、
大内家内の権勢は、却って陶に及びません。大内義隆が勝利することはないでしょう。

尤も、主従が争う時、主を助ける事は義に当たります。ですが滅びようとするものに対し、
そちらに与して共に滅んでは益がありません。

そもそも毛利家は大内家に対し、重恩の家というわけではありません。時の権威に従って、
一旦麾下に属したにすぎないのです。ですから、ひとまず陶に一味して、重ねて
大内義隆の敗北後、その泉下の恨みを散ぜられる謀を行えば、当家はいよいよ興隆するでしょう。」

この言葉に元就は
「先に児玉が申したことも、今の熊谷の言葉と符合している。そして私が心に考えていることも、
その通りである、」

こうして一座の衆議はこれに決し、陶隆房に対し一味する返答を行った。

(芸侯三家誌)

毛利元就が陶に与することを決めた協議についてのお話。




968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/18(月) 15:26:10.22 ID:9GbdPUW0
書状で言ってることのかけらもないのがな

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/18(月) 16:09:54.29 ID:/Bls1iEJ
隆元がもどっててよかったな。

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/18(月) 16:20:32.05 ID:wRMqwQur
こんな状態でよく何年も持ったな

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/18(月) 16:21:55.31 ID:1+7elZ3Y
うーんこの元就クオリティ

尼子のモンスターを退治する事

2014年08月15日 19:00

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/14(木) 20:40:40.95 ID:TDAdipgH
天文9年(1540)10月11日、尼子誠久率いる新宮党を中心とした尼子方1万が、吉田郡山城の
毛利元就を攻めた、いわゆる土取場の戦いでのこと。

尼子方の三澤蔵人は無双の大力であり、三間二尺(約6メートル)の長身の槍を持ち戦っている所に、
毛利方の波田野源左衛門利春が名乗り打ちかかったが、すぐさま槍で打ち倒される。波田野はそれでも
再び起き上がろうとしたが、そこを三澤に突き殺された。

次に内藤九朗右衛門が三澤に突き懸かり、暫く勝負がなかったが、三澤は両手に槍と太刀を持って戦い、
終に内藤を打ち倒した。

さらに三戸与五郎が長刀を持って打って懸かる。これに三澤は太刀を鞘に納め、槍によって
横打ちに打ち倒した。
与五郎も4,5度起き上がろうとしたが、その度に打ち倒され突き伏せられた。

井上源左衛門も言葉をかけて打って懸った。これに三澤は槍を持って拝み打ちに討ってくる。
井上も槍でこれを打ち払おうとしたが、その槍も三澤の大力により柄が打ち折られた。そこで井上は
太刀を抜き斬り付け、組み付いたが、最後は押し伏せられて討たれた。

これを見ていた毛利元就は、井上與次郎に命じて三澤を射させた。
與次郎の矢は三澤の目の上に刺さる。
三澤は右手で槍を振り回しながら、左手でその矢を抜こうとした。

ここで渡辺太郎左衛門が槍を持って三澤の脇腹を突く。三澤もすかさず渡辺の左の股を突き、
二人は同時に倒れた。
そこに有地美作が駆け込み、終に三澤を討ち取った。
彼は首を下人に持たせ、渡辺に肩を貸して、連れ退いたと言われる。

(芸侯三家誌)

毛利軍による尼子のモンスター退治の模様である。




521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/14(木) 20:49:58.29 ID:IsQmw8eC
悪いほうにもあるがいい話なのか?
一騎打ちで射落とすって卑怯にも程があるな

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/14(木) 22:17:10.90 ID:un+A3g7z
平安・鎌倉時代じゃないから

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/14(木) 23:44:15.43 ID:RsybBwhs
なのに名乗るのはなんで?
矛盾してないかい

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/14(木) 23:53:56.22 ID:TDAdipgH
>>523
主君の面前だからだよ。敵に聞かせてるんじゃなくて元就に聞かせてるんだよ。論功行賞の為にね。
そもそも名乗りというのは味方に聞かせるためのものだ。

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/15(金) 18:38:34.15 ID:1k4Pl6Q9
一番槍や一番乗り、一番首なんかみんなそうだもんな

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/15(金) 19:22:02.39 ID:fRWohwEL
この時代にも、一騎打ちを邪魔してはいけないという暗黙のルールがあったらしいけどな。

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/15(金) 19:54:22.03 ID:X5uo09h/
ないない。脇槍の功なんてどうすんだよw

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/15(金) 20:04:20.94 ID:fRWohwEL
それは一騎打ちとはまた別だろ

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/15(金) 22:38:37.55 ID:P5gwxBDx
邪魔しちゃいけないって又兵衛さんがゆってた

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/15(金) 22:52:50.61 ID:dLGK/Zw4
三河とか黒田とかは受けそうだな。鮭さまは出ようとするが志村さんに止められると

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/16(土) 16:12:20.57 ID:rqIcLjxb
>520
ここまでヒャッハーしてる奴は手に負えないからさっさと射殺すのが正解だな。
戦国時代じゃ卑怯でもなんでもない。

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毛利元就 石見高橋氏を討つ

2014年08月11日 19:08

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 00:06:04.82 ID:hXMVAG1+
毛利元就 石見高橋氏を討つ

1523年、毛利幸松丸が急死。叔父の元就が毛利家の家督を継ぐ事となる。
1524年、尼子経久、亀井秀綱の後押しで元就の異母弟・元綱が謀反を企図する物の、
それを察した元就は元綱と謀反に与した渡辺氏、坂氏らを粛清。これにより毛利家は
完全に元就によって統制されることとなる。
この時、尼子・亀井と共に元綱の謀反に一枚噛んでいた人物がもう一人いた。
安芸北部・石見に勢力を張る高橋氏の当主、興光である。
亡くなった毛利幸松丸の外戚(幸松丸の母が高橋氏出身で興光の叔母)である。
1521年に祖父の高橋久光が戦死するまでは、毛利家は当主幸松丸を元就と外戚の
高橋久光が後見しており、力関係では高橋氏の影響力の方が遥かに強く、毛利家は
実質高橋氏の思うがままであった。しかし久光が戦死した後はその影響力は
一気に削がれ、幸松丸が死して元就が家督を継ぐと、元就は遂には高橋氏と敵対する事になる。

元綱の謀反を収めた元就は主家を尼子から大内へ鞍替え。逆に高橋興光は大内から尼子へ接近を図る。
元就は弟の謀反の恨み、長年に渡り亡き久光に毛利を好き勝手された恨みもあってか、主家・大内氏に
許可を得ることなく、高橋氏への攻撃を開始した。

1528年、元就は高橋一族である高橋重光の居城松尾城を攻撃して高橋氏に大打撃を与える。
2年後の享禄三年には高橋領の安芸山県郡北部と松尾城に侵攻。大内氏の弘中隆兼
や備後の和智豊郷の助勢を受けて松尾城を陥落させ、重光を討ち取った。

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 00:12:06.84 ID:hXMVAG1+
残るは高橋家当主の興光の幡屋城、一族衆の藤掛城と鷲影城であったが、興光は祖父久光の仇である備後三吉氏の入君城
を攻めている最中で、正月を居城で迎えようと僅かな兵と城へ帰る途上であった。

そこで元就は一計を案じ、高橋一族で鷲影城主の高橋弾正左衛門盛光を調略する。
この高橋盛光は興光と兄弟同様に育てられた仲だったというが、盛光はその興光
を裏切り石見の軍原で興光を急襲。興光は奮戦するも力尽き、軍原にある岩の上で腹を切った。

高橋盛光はその首を持って犬伏山に出陣していた元就(または元就配下の武将)の陣へ向かう。
そこで所領安堵の書状を頂戴するよう申し出た盛光であったが、返ってきた言葉は以下の様な物であったという。

「汝高橋本家相続人であり元就公の令兄夫人の令弟を謀殺するとは、武士にあるまじきこと。かかる犬武士は生かしてはおけぬ。直ちに誅せよ」

その場で盛光は首を討たれ、そのまま犬伏山で葬られることとなった。
そして石見高橋氏は滅亡し、その領地は毛利に奪われることとなったのであった。
若き日の元就の大変後味の悪いお話。

なお、高橋興光が切腹した軍原は現在キャンプ場となっており、腹切り岩はキャンプ場の中に
史跡として残っています。また、盛光の墓は犬伏山に粗末な石ころの様な物がそれであると伝わっております。

(参考文献 『芸侯三家誌』『陰徳太平記』『吉田物語』『高田郡誌』『邑智町誌』)




902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 09:55:53.13 ID:eCAtQ001
嫌なキャンプ場だな

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 10:17:10.68 ID:lYq9yyDk
その感想に笑ってしまった

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 13:32:59.55 ID:dbBXu24S
それであのキャンプ場、現代の犬武士DQNのたまり場になってんのか。墓参りだったんだな。

905 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/08/11(月) 17:28:31.32 ID:qs4BO72Y
犬武士呼ばわりされた奴はキャンプ場では死んでないし埋められてもないんだけどな

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このころ、安芸国中は平穏であったので

2014年06月14日 19:09

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/13(金) 19:09:30.82 ID:MIV+5nsd
このころ、安芸国中は平穏であったので、大永7年(1527)の春、毛利元就は上洛して、
将軍足利義晴公に謁見した。元就は大江広元の苗裔として、江家の嫡流であったので、
将軍からは、他の国侍に準ずるべきではないと、高家に劣らぬほど高く待遇された。
その上将軍家の推挙によって、元就は従五位に叙せられた。
くわえて、その武功が雲上にまで聞こえたことで、帝より錦の直垂を下されたのである。

かくして元就は3年間在洛して、享禄2年の秋、芸州へと戻った。

(芸侯三家誌)

なんと毛利元就が上洛していた、という記事である。
ちなみに似たような話は『陰徳記』にもありますが、どこからこんな話が生まれたのかは、謎。





500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/13(金) 20:27:08.61 ID:0VuA6E4T
>>499
ツッコミ入れるのは上洛の部分じゃないだろw

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/13(金) 22:21:36.86 ID:/kupN35R
元就は大内義隆の斡旋で従五位下右馬頭という国人領主としては破格の位階をもらっという話があるから、
 これほどの高位についたからには上洛してるだろう
 叙位の理由は本姓の大江朝臣だろう
 年齢は30前後の適当な歳にしておくか
という感じかな。

上洛といっても軍勢を引き連れて京都を支配下におくとは限らず、
鮭様や謙信だって上洛はしてるから元就が上洛したというのもあり得ない訳じゃない。
してないとは思うけど。

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/13(金) 22:25:25.62 ID:UXRWRJQp
兄と元就を混ぜただけに見える

503 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/14(土) 01:25:03.03 ID:FYG5C0pX
3年も京にいたのかよ・・・

504 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/14(土) 02:22:42.94 ID:TNQVx7ib
>>499
ありえてもおかしくない話ではある。

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/14(土) 03:40:54.44 ID:hKBUg8ku
安芸国中が平穏・・・?

506 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/14(土) 12:47:13.72 ID:1OTQn+lf
1527年から30年辺りだと尼子は備後で大内に敗れた直後で、毛利は石見の高橋氏を打った後だし
3年後位には尼子経久三男の塩冶興久が大規模な反乱起こすし、
安芸の不安要素は武田家一党位だけど、熊谷と内輪揉め始める頃だし
割と平和だったかもね…

確かに、兄の興元とない交ぜになった話の様な気もするが

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/14(土) 12:54:51.32 ID:7UWJqytY
んなもん突っ込み入れようと思ったら全行に入れられるわ

毛利元就と琵琶法師4 新宮党粛清異聞

2014年06月12日 20:43

493 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/11(水) 22:58:28.87 ID:xXWbXywO
毛利元就と琵琶法師4 新宮党粛清異聞

尼子経久の弟・尼子久幸が組織し、後に経久の次男・尼子国久とその子である誠久らに率いられた新宮党は
尼子家中きっての武闘派として中国地方では恐れられ、尼子家の躍進の原動力たる一族衆であった。
しかし、尼子経久の三男、塩冶興久の叛乱が鎮圧され、その遺領である西出雲の管理を国久が任されるようになると、
新宮党の権勢は尼子宗家を継いだ尼子晴久と並ぶほどとなり、尼子家への中央集権化を図る晴久の障害となった新宮党は、
1554年晴久の命により粛清され、国久の一族の大半が死んだ為、ほぼ消滅することとなる。
家中を纏める為、尼子晴久が自らの判断で粛清したと言う説、既出で毛利元就が罪人に尼子国久謀反の偽書を持たせ、
尼子家の勢力圏で殺害して新宮党の粛清を晴久に決意させたとされる謀略説もあるが、雲陽軍実記にはもう一つの元就の謀略による逸話がある。

尼子晴久のお気に入りの座頭で角都と言う者が居た。角都は家中の重臣を晴久に讒訴したり、酒や遊興を勧め堕落させ、
家中や城下での評判はすこぶる悪かった。
新宮党党首の尼子国久も彼を嫌う一人であり、このままでは御家の為にならぬから角都を放逐せよ、さもなくば殺害も止むなしと晴久に迫る。
仕方なしに晴久は角都に暇 を出し、角都は故郷へ帰ることとなった。
その旅路の途中に角都は数人の座頭仲間と出会い、意気投合する。
彼らと親しくなった角都は驚くべき噂を彼らから聞かされる。
角都を月山富田城から追放した尼子国久が、主君・晴久を追い落として出雲国主の地位を得ようと企んでいるというのである。
この話を聞いた角都は直ちに取って返し、尼子晴久に通報。激怒した晴久は叔父国久を始めとする新宮党を粛清してしまうのであった。
が、実はこの国久謀反の法を角都に伝えた座頭らは毛利元就配下で各地に間諜として遣わされた座頭衆と呼ばれる忍びであり、
角都と尼子晴久はまんまと嵌められたのであった・・・。
なお、雲陽軍実記によるとこの角都なる座頭は後の尼子義久の 時代にも側近として存在し、宇山久信らの尼子家臣を讒訴した為、
尼子氏の凋落の一因になったという。




494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/12(木) 00:26:18.34 ID:TD1H+B1i
また元就神話か

495 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/06/12(木) 13:54:42.08 ID:0nSBfeAq
       ,..-――-:..、    ⌒⌒
     /.:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;::.\      ^^
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       :::::::::::::::::::∧▲∧   そうやってなんでも
       :::::::::   |::;;;;;;;;::|      ワシのせいにしとりゃええんジャ゙・・・
          _..  /⌒:::;;;;;ヽ
-― ―'ー'-''―-''/ / ::;;;;;;;;:| |―'''ー'-''――'`'
 ,,  '''' .  ''''' と./ゝ_;_;_ノヽつ   、、, ''"
    ,,, ''  ,,,    ::;;;;;;;;;::: ,,  '''''  ,,,,


謀神の佐東銀山城攻め

2014年05月11日 18:58

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/10(土) 23:48:43.24 ID:VaD36Z1o
謀神の佐東銀山城攻め

1541年1月、尼子晴久率いる3万の軍は毛利元就の居城、吉田郡山城攻略を諦め撤退。

これを受け、同時期に杉隆宣・内藤隆時の大内軍と小早川興景などから攻撃を受けていた尼子傘下の頭崎城(現在の東広島市)の平賀興定は大内氏に降伏。
現在の広島市周辺を支配していた尼子傘下の安芸武田氏居城、佐東銀山城の城主・武田信実と尼子の援軍の将・牛尾幸清は出雲へ逃亡(1年ぶり2度目)。
佐東銀山城には武田一族の武田信重と守備兵僅か300が残るだけとなり、
厳島と対岸の桜尾城(現在の廿日市市)を乗っ取り蜂起した厳島神主家も大内氏の攻撃を受け滅亡。

安芸における尼子の勢力は風前の灯となったのであった。

1541年5月、大内義隆は安芸を完全に掌握する為、毛利元就に佐東銀山城攻略を命じ、大内軍は武田傘下で隣接する安芸府中を支配する
白井氏を攻略すべく兵を出す。

かつて、大内の名将・陶興房と初陣の大内義隆が1万5千の兵で囲みながら落とせなかった堅城・佐東銀山城であるが、その時城を守った猛将・武田光和は
1539年に急死し、武田有力家臣の品川左京亮と香川光景は武田の後継と大内との抗戦か講和かを巡って内輪もめを起こし、品川に居城八木城を攻められた
講和派の香川は「終わりやね、武田も終わりやね」と、大内に鞍替えし、かつての同僚である熊谷氏らに援軍を要請。
これに敗れた品川一族は逃亡。新たな武田当主として城に入った、武田信実も一時逃亡。
この後、吉田郡山攻め前に牛尾率いる兵2000と共に帰って来たものの、先のとおり尼子の吉田郡山攻めが失敗すると再度、出雲へ逃亡。
もはや武田家の崩壊は誰の目にも明らかであった。

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/10(土) 23:49:51.84 ID:VaD36Z1o
しかし、堅城・銀山城に篭る武田方の兵は士気も高く、正に窮鼠の如し。
半年に渡る篭城戦を終えたばかりの毛利元就が動員できる兵力も戦に継ぐ戦でそう多くは無い。
主家よりの命令とはいえ徒に兵を損ねる訳にも時間を掛ける訳にもいかぬ。

元就は二つの策を立てた。先ず、城を正面切って大手門の東側から攻めるのではなく搦め手の安(現在の安佐南区上安、銀山城の北西側)より攻めること。
ただ、安の側にある長楽寺は武田家と通じており、ここから兵を進めようとすれば長楽寺が鐘を鳴らして城側に通報し、城兵が駆けつける。
先ずはその調略を行う毛利方であった。

毛利からの説得を受け、事ここに及んではと長楽寺も城側への通報を行わぬことを約束。

そして、念には念を・・・と、元就が講じた二つ目の策。近隣住民に千足の草鞋を作らせ、それを油に浸し、城攻めの前夜、闇の深い日に
火をつけて城の正面を流れる大田川へ流すのであった。
これを見て篭城軍は毛利は正面から攻め寄せてくると、戦力を大手門に集中させたのであったが、これこそ元就の狙いであった。

こうして正面からではなく、搦め手から攻め込んだ毛利軍は佐東銀山城を落とし、最後まで城に残った、武田信重は切腹。
同時期に安芸府中を攻めた大内軍も白井氏を倒し、これにて安芸の反大内勢力はほぼ一掃されたのであった。

なお、この時元就が千足の草鞋を流したことに由来する地名が、大田川対岸の広島市東区戸坂に「戸坂千足」として残り、
大内軍が越えた広島市東区中山から矢賀、山根町などに続く道を「大内越峠」(おおちごだお)として今も残っている。





謀神、敵の間者を用い策を成す

2014年05月08日 18:46

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/07(水) 23:37:07.24 ID:3uBS/IGE
謀神、敵の間者を用い策を成す 名 将 言 行 録 (陰徳太平記説もあり)より

1524年、甥幸松丸の急死により毛利元就は毛利家の家督を継いだものの、それを危惧する尼子経久と亀井秀綱の策に乗って
元就に叛意を抱いた異腹弟の元綱を殺害。
以後も尼子に従いその要請で大内家に攻められた尼子方の仇敵・安芸武田氏を支援する物のその心の内は反尼子に大きく揺らいでいた。

1525年、毛利元就は先年武田氏の銀山城にて自らの夜襲策で撃破、撤兵させた大内家の家老、陶興房の説得に応じ尼子方より大内方に鞍替えする。
これにより、安芸の国の形勢は大内側に大きく傾くこととなる。

1529年、毛利元就は亡き甥で先代の毛利家当主、幸松丸の母方の実家である石見高橋家を攻略。
また、これ以降尼子方の安芸武田氏傘下であった熊谷氏や、先々代興元以来の長年の敵であった宍戸氏や天野氏などと縁組・調略し、
隣国備後の多賀谷氏を降伏させるなど徐々に安芸を束ねる国人衆の筆頭格としてその勢いを高めていく。

1540年、尼子家の家督を継いだ尼子晴久はこれ以上の毛利の台頭許すまじと、3万の兵を持って毛利家の居城、吉田郡山城攻略の兵を出さんとす。
これはその数年前のある日のこと・・・。一人の男が吉田郡山城の門を叩いた。男の名は内別作(うちわさ)助四郎。
尼子晴久の側近く使えた者だが、勘気を蒙り尼子家を出奔してきたと言う。
(つづく)

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/07(水) 23:41:21.60 ID:3uBS/IGE
(つづき)
元就は内別作を家臣として雇い、自らの近臣として用いることにした。
だが、実の所内別作はかつて尼子経久が三沢氏に送り込んだ山中勝重同様、偽りの出奔であり
その役目は毛利の様子を探る間諜であった。そんな内別作を側近く用い続ける元就。

そんな中、いよいよ尼子晴久が吉田郡山を攻めると言う不穏な噂が流れる、元就は家臣らを集め軍議を開く。
その席上、元就はこう言った。

「晴久が甲山(かぶとやま)に陣をしいてくれればええんじゃが…もし三猪口(みえくち)に布陣されでもしたら、防州への通路を断たれてしまい、
 わしらはどがぁもできんようなってしまう…ほしたら、一日どころか半時と持たん。ここを捨て、大内を頼り山口にでも逃げにゃならんのぅ・・・」

その翌日、内別作は吉田郡山から姿を消した。さては尼子の間者であったかと家臣は大騒ぎとなった。
しかし、当の元就は一人「さてこそ軍は既に勝ちたり(これで勝ったも同然)」と、大喜びであったと言う。
と言うのも もし甲山から城を見下ろされるような形になればどうにもならないが、三猪口は平地であるから、敵が大軍であっても容易に戦えると。
(先の軍議の時、内別作以外の旧来の家臣は甲山に陣敷かれたら上から丸見えだし、逆じゃね?と、思っていたが殿には何か考えがあるのだろうとその言葉に従ったとも言う。)

そして1540年(天文9年)8月、先のとおり尼子晴久は3万の兵を率いて吉田郡山城へ出兵。元就が軍議で危惧したとおり、尼子勢は三猪口に布陣したところ
元就と駆けつけた陶隆房(後の晴賢)、杉隆相、内藤興盛ら大内からの援軍に散々に打ち破られ退散したと言う。




906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/08(木) 00:00:43.74 ID:bLpvlG+u
>>905
陶さん援軍できてたのかw
なんともまあ。

907 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/05/08(木) 06:30:40.14 ID:VK3LLf/M
当時はお味方だし、この戦で負けると安芸はまた尼子にひっくり返されるしで、大内方に
とって大事な戦でしたからね…しかも何の因果か出兵前には将来自分の死地となる厳島で
戦勝祈願もしてると言う…

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/08(木) 07:23:52.27 ID:bLpvlG+u
後に似たような情報で厳島におびき出されてるからなあ。ほんとなんの因果なのか。

毛利元就と琵琶法師その1 三つに折れた刀

2014年04月20日 18:48

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/19(土) 23:58:21.13 ID:GxnFKYrg
毛利元就と琵琶法師その1 三つに折れた刀

陰徳太平記からなので、史実かどうかはおいて毛利元就とその間諜として用いられた者達について

北条早雲が座頭などの盲目の者達を自領から追放すると言う例を出し、退去する盲目の者達に自らの間諜を
紛れ込ませて各地へと散らしたのは戦国スレでも既出であるが毛利元就にも同様の話が有り、
元就は4人の琵琶法師を座頭衆という間諜として代わり代わり周辺に派遣し、各地の領主の人物やその地の
情報を得たり、時には偽情報を流させるなど(尼子国久の新宮党粛清にも一枚噛んだとも)したと言う。

その座頭衆の一人に勝一と言う名の琵琶法師が居た。勝一は琵琶の弾き語りや弁舌に優れるだけでなく、病で盲目になる前は
勉学に励んでおり博識でもあった。
ある日、元就は先祖伝来の刀が3つに割れると言う夢を見、それを不吉に思い勝一に相談した。
夢の内容を聞き、勝一はそれについてこう答えたと言う。

「殿が見た夢は吉兆にござります。何故なら3つの刀は刕、変じて州、すなわちクニとなりまする。
 故にこれは殿が将来一つの国の主となられることを意味しておるのです。」

それを聞き、元就は安堵するとともに大いに喜んだと言う。




836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 01:08:33.59 ID:Gj8yUMWz
>>829
>3つの刀は刕、変じて州
ここがイマイチしっくり来ないけど当時の初代だと似たような字になったのかな

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 13:00:08.75 ID:UxXlvqCG
刕は州の異体字として使われることがあったらしい
刕と州でググったらいろいろ出てくる

毛利元就と琵琶法師その2 元綱粛清と間諜勝一

2014年04月20日 18:48

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 10:09:16.55 ID:VScin6KQ
毛利元就と琵琶法師その2 元綱粛清と間諜勝一

元就の異母弟、相合四郎元綱。元就と共に有田中井手合戦で初陣し、元就に劣らぬ武勇を示し
「今義経」とも称えられた毛利一門の若き担い手である。母は違えど兄元就との仲も良く、頼もしい弟であった。
毛利幸松丸が早世し、元就が家臣団の後押しで毛利家の家督を継ぐまでは・・・。

元就の毛利相続に不満を募らせた元綱は数名の有力な家臣と結託し、尼子や石見の高橋家と結んで元就に対する謀反を企図しはじめる。
それを察した元就は琵琶法師・勝一を元綱の元に「話し相手」として送り出す。
話し上手・琵琶上手の勝一は盲目の為警戒されずに元綱の居館・船山城に出入りし、元綱の謀反の計画を探り元就に伝える
間諜としての役を果たすのであった。

元綱一派の決起が近づく中、元綱は決起前の夜宴で平家物語の弾き語りをするよう勝一に依頼する。
もちろん元綱は勝一に謀反も決起も明かしては居ないが、元綱一派の決起が近いのを察した勝一は
元就に通報。事ここに至っては弟を討つも止むなしと決意した元就は夜宴の最中の襲撃を企て、合図などを決め
勝一を再度船山城へ送り出す。

夜宴当日、元綱の居館船山城を志道広良率いる300の兵が急襲、勝一の弾き語りが佳境となった時を見計らい
兵が突入し、元綱はじめ30人ほどがその場で討ち取られ、勝一から元綱の同調人として名の挙がっていた
坂広秀や渡辺通らも討たれたと言う。


831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 11:01:35.31 ID:VScin6KQ
>>830続きと訂正
勝一から元綱の同調人として名の挙がっていた坂広秀や渡辺通らも後日討たれた。
元就は弟の死を悼むとともに、事件の背後に尼子経久の策謀が有った事を知り、尼子と決別することを決意。
以後、大内側に付くこととなるのであった。





毛利元就と琵琶法師3 あれ、良い話・・・・?

2014年04月20日 18:47

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 11:01:35.31 ID:VScin6KQ

毛利元就と琵琶法師3

元就が座頭衆と言う琵琶法師の間諜集団を組織していたのは先に上げたとおりだが、後年
陶晴賢が主君・大内義隆に謀反、殺害した後に毛利家と争うようになった頃、陶晴賢も一人の
琵琶法師を間諜として元就の元に送り込む。この琵琶法師は元就に気に入られ、様々な情報を
陶側に流したため、元就側の情報は陶に筒抜けとなってしまった。

しかし、周辺に間諜が入り込んだことに気づいた元就は先ごろ迎えたその琵琶法師が怪しいと気づき、
逆にその法師を利用して偽の情報を敵側に流すことにした。
先ず陶配下で堅城、岩国城城主の永来丹後守がこちらに内通した。
と、偽の情報をかの法師から陶晴賢に流したうえ、更に岩国へその物証となる偽の書状を送り、
それをあえて陶側に奪われるよう手配した。自らの間諜からの情報と元就の偽手紙に引っかかった
陶晴賢は激怒して名将としても知られる永来丹後守を殺害してしまった。

計画が成功した元就は更にその法師を自分の側近として、厳島合戦直前の軍議にも参加させた。
そこで元就は
(●▲●)「陶軍に厳島に渡られると困るわー、厳島に作った城はがいにこまい(大変小さい)し、制海権取られて海から攻撃されるし困るわー(チラッチラッ)」
(*^◯^*)(ほうほう、これは良い情報なんだ!)
(●▲●)「陸路で草津・廿日市に攻めてくるなら岩国の弘中隆包がうちに寝返るけん、助かるんじゃがのー(チラッチラッ)」
(*^◯^*)(!これは一大事なんだ、殿にお知らせせねば!)

全部嘘である。
(つづく)

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 11:29:22.72 ID:VScin6KQ
(つづき)
数に劣る元就は、険しい山で形成された厳島に陶軍を誘い込み、数の優劣を無くした上で
敵の船を焼き、退路を断って決戦することを狙ったのであった。

法師(*^◯^*)からの情報を受け取った陶晴賢は直前にも、毛利家老・桂元澄から内応の手紙(これも嘘)を受け取っており、
厳島に渡ることを決め、弘治元年(1555年)10月2-3万の大軍で厳島へ渡海。なお、この時弘中隆包が厳島への渡海を反対したが、
法師(*^◯^*)からの偽情報の為、却下されたと言う。

戦の経緯は省くが結果はご存知のとおり陶軍総大将・陶晴賢討ち死に、弘中隆包親子も討ち死に、陶軍は約5000人の使者を出し、
毛利側大勝利に終わった。
さて、例の法師(*^◯^*)の顛末であるが・・・

(○▽○)「おどれのおかげでわしゃあ、長年の思いを遂げることが出来たわい。褒美に塩(死を)くれちゃるわ、ありがたく飲めや」
(*^◯^*)「えっ?ぇっ?」(ざばーん)
(*^◯^*)「くぁwせdrftgyべいすたんlp;」

開戦直前に元就に海に沈められたそうである。めでたしめでたし。
あれ、良い話・・・・?




833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 22:22:10.28 ID:Isu6luxe
おぼれる者は久しからず、晴(賢)の世も夢の如し
といったところだろうか…( ;∀;)イイハナシダナー

834 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/04/20(日) 22:49:58.73 ID:VScin6KQ
某完璧超人以前に西国無双と呼ばれた人だけど、ちょっと騙され過ぎじゃないですかねぇ、晴賢さん

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 00:01:21.95 ID:urSpSXSo
純粋な武辺者なんでしょ

若き日の謀神

2014年04月19日 18:00

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 23:58:01.49 ID:uArMOhiu
若き日の謀神

毛利元就がまだ毛利本家を継ぐ以前、毛利幸松丸の後見人の一人として、未だ多治比殿と呼ばれて居た時のこと。
当時毛利幸松丸のもう一人の後見人として元就以上の影響力を毛利家中に誇ったのが石見の豪族にして、
幸松丸の外祖父である高橋久光であった。先年、嫡子元光を戦で失い齢60を迎えたとはいえ、
大内・尼子の狭間で生き抜いてきた男の力は伊達ではない。
先の有田合戦で力を示したとはいえ、20代前半の元就の発言力は久光には到底及ばぬものであったそうだ。

だが、高橋久光は大永元年(1521年)備後の豪族三吉氏を撃つべく、兵を出したものの三吉傘下の
加井妻城(青屋城)で青屋友梅に討たれ戦死してしまう。
(一説によれば久光の息子元光も先年、この加井妻城攻めで死んだと言う。)

(続く)

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/19(土) 00:11:37.44 ID:GxnFKYrg
高橋の援軍として参加していた元就は久光の死後、単独で弔い合戦を展開。
攻めるに難しと見た元就は加井妻城を3500の兵で包囲、兵糧攻めを開始する。

しかし城主青屋友梅も去るもので、水・食料が尽きるのを待つ元就方に対し、
見えるところで米を馬にかけ、遠目には水で馬の体を洗ったように見せかけ
寄せ手の戦意を下げようとした。それを見た元就方では撤退や作戦の変更を申し出る者も
多数いたが元就はそのまま兵糧攻めを継続する。
そして数日後、元就は配下の井上光親を軍使として城内に送るのであった。

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/19(土) 00:32:50.00 ID:GxnFKYrg
城主青屋友梅は使者として訪れた光親を大いにもてなし、その上自らの趣味は
馬であるから長戦の慰めに見せてさしあげようと、光親の前に数頭の馬を引き出し、盥に
なみなみと満たした本物の水で馬の体を洗い、更には雑兵が無数の米俵を運ぶ様子を見せ、
光親は自陣に戻るとその有りのままを元就に報告した。

光親から城内の様子を聞いた多くの将兵は、
「こりゃいけんわい、敵方には水も飯もまだようけ有るで・・・」
「城がこがなじゃったら勝たれんのじゃないか?」
と落胆したものの、元就だけは一人
「城内の水は尽きた、敵はまもなく降伏するゆえ今しばらく堪えてより一層包囲を固めよ。」
と、指示を出した。果たして一月もせぬ間に青屋友梅は降伏。元就の言うとおり城内の水と食料は
絶えていたと言う。これにより元就はより一層の名声を高め、目の上のたんこぶで有った、高橋一族の
毛利家への影響力とその勢力自体を削ぐ事に成功する。敵の窮状を見抜いた若き日の謀神の姿である。




825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/19(土) 02:08:14.62 ID:0R6USUEj
常套手段とはいえ、米を水に見せかけて馬を洗ってごまかせるか
現代の学者で実際に検討した人はいるのだろうか

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/19(土) 02:26:10.43 ID:MNIlPhKx
>>825
山を分け入って木々の合間の遠くの方に湖が見えたと思った
…近付いたら山中に似合わず白い砂利がただただ敷き詰められた広大な駐車場だった事がある。

視力は当時2.0だったけど、先入観や常識に囚われると
意外な物に嚇かされる事はたまにあるよ。

雑談・コヤブ歴史堂という朝日放送の番組で

2014年04月15日 18:41

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 20:28:42.01 ID:A3kGIYHV
コヤブ歴史堂という朝日放送の番組で、ここの投稿がほぼそのまんま使われてたらしい件w

毛利元就の春夏秋冬
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4388.html


http://pbs.twimg.com/media/BlKpsG-CQAA9Pq_.jpg
BlKpsG-CQAA9Pq_.jpg




968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 20:36:01.57 ID:AUVkqdDj
>>967
誰か洒落字幕で
「提供 2ちゃんねる ドワンゴ ニコニコ動画」とか入れてくれないかな。

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 22:33:16.48 ID:fmYNFf/q
>>967
逸話自体の真偽はともかく、これ本当にやってたら鬼畜過ぎるだろw

973 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/14(月) 22:41:09.77 ID:s7lc4QLE
毛利さんに限らずやっていてもおかしくないような・・・

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 22:55:33.02 ID:VH+vnNa1
>>972
刈田狼藉なんて戦国時代なら常識だから。
おまえがやらなくても相手は容赦なくやってくる。

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 22:56:08.44 ID:g2KWYUFx
>>972
武田「そうかな」

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 22:56:37.24 ID:JP/bJEGc
戦国乱世に現代の倫理道徳、人権で考えてもねぇ
毎年暖かくなると関東に人さらいに出掛ける軍神様や、甲斐の虎
薩摩隼人や大友も互いに豊後や筑前の人間拐っては島原経由で海外に売ったりしてるしね。

元就の永禄伝記の苅田戦法も小早川隆景伝らしいから事実じゃないかな…

藤木久志著作の「飢餓と戦争の戦国を行く」「新盤 雑兵達の戦場 中世の傭兵と奴隷狩り」にまとめて載ってるばい。

日本に限らず、フランスでも100年戦争中はそんな感じただったらしいし、世界的に苅田戦法や奴隷狩りが流行ってたってか当たり前の時代だったんかねぇ

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 00:56:42.74 ID:89gVv3x8
孫子にも相手の麦を奪って食うのは自分で持ってきたのを食うのの何倍も価値があるとあるし
古来から普遍でしょう

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 01:04:31.10 ID:OvLZry8w
相手を弱らせ味方を富ます
悪評も、守れなかった相手持ち、といいとこ取りだな

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 02:51:41.48 ID:v3tTNlPc
武田は信玄の制札あっても普通に狼藉していったらしいけど、他もそんなもんかなあ

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 11:45:28.99 ID:YDFul9VB
普通が何か分からないが武田だと馬の飼料の大豆は禁制の範囲外だったりはした。
守られない場合もあっただろうけど武田北条などはかなりましで
西国だと乱暴人が来たら討ち取れ、敵対したとは取らない。という内容の
守られないこと前提の禁制というより防戦許可書が多かったりとか

毛利輝元、秀就に送った訓戒状

2014年04月13日 18:45

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 08:53:08.41 ID:Jd7voNHh
まとめにこの話自体は見当たらなかったのでTERUが晩年に息子秀就に送った訓戒状の件。
豊臣氏が滅亡した後、徳川政権による支配体制が確立され、諸大名に対する幕府の監視の目が強まって
改易も多々行われる中、TERUは悩んでいた。

(●▲●)こんな時代だからこそ一門の結束を強め、派手なことはせずに家の存続を考えねばならないのに
うちの秀就と来たら・・・
(*^◯^*)駿府で大御所様の見舞いが終わったら猿楽見るんだ!江戸に帰ったら踊るんだ!酒飲むんだ!
    政治なんて知らないんだ!

(●▲●)・・・・・だめだこの馬鹿息子

そして、1621年に輝元は秀就に21か条の訓戒を送るのであった。

(●▲●)<老臣や奉行の意見を聞け、側近は才能を見て選びなさい、直ぐにはぶてる(拗ねる)な、
     遊びは控えろ、後他の大名との付き合い方は(以下略)
(●▲●)<家康の見舞いの後に猿楽など見とるから形見分けもらってねーのお前だけじゃろが、
      秀忠にワシに養生せよと言われた?お前の行状が改まるのが一番の養生にして親孝行じゃ、この馬鹿たれが。

と言った感じでTERUは細々と21か条の訓戒を秀就に送っている。
そして、秀就もそれについて一つ一つ了承した旨の書状を父に返している。
家の存続に心を砕き、家族に宛て長い訓戒を送るその様子は祖父元就の晩年を見ているようでもある。
この様子をかつての後見人である小早川隆景が見たら、彼は一体何を思ったであろうか?



761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 09:24:43.12 ID:ZF6hgZ9O
なんで毛利家の人間は若いころダメさ加減と、年取ってからのギャップが激しいんだろ。
隆景さんでさえ、若いころの逸話見るとただのワガママ小僧だったりするし。

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 10:48:07.45 ID:CvmebuPg
>>761
弘元「そんなことは」
興元「無いと」
隆元「思うよ」

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 13:28:27.06 ID:0LlpbSRu
地獄から元春さんとか呼んできたほうがいいんじゃないか?

だがこの暴君は

2014年03月08日 18:57

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/07(金) 22:51:28.66 ID:ZVfTRYtl
その当時(1564年頃)、山口を支配していた国主は、安芸の毛利殿(毛利元就)と称した。
彼は既に高齢で、かつてその策略、並びに老獪さによって、残虐なやり方で彼の国を奪い取ったのである。

毛利殿は一向宗の信徒であった。そのために、また自らの性格から、彼は生存中自分の領国において、
バテレンやイルマンがデウスの教えを説いたり、古くからその国にいるキリシタンたちの世話をすることを
断じて許さなかった。それどころか彼は切支丹を圧迫し、かつて教会のあった敷地を彼らから奪った。
そういう次第でキリシタンたちは教会を再建することも、公然と集まってデウスのことを話すことも出来なかった。

山口のキリシタンたちは都に住んでいたガスパル・ヴィレラ師にこれを報告した。
司祭は公方様(足利義輝)の所に出向き、山口のキリシタン達が被っているこの不法行為について恩恵と救済を
乞うた。公方様は、自分の臣下で山口の国主である毛利殿に書状をしたため、『領地の切支丹を保護し、かつて
貴地にぴて破壊された教会を再建してもらえれば嬉しく思う』と述べた。

一人の非常に身分の高い貴人がこの書状を携えて毛利殿の元へ行ったが、折から毛利殿は戦争に従事していた。
山口のキリシタンたちは、公方様からの書状が届いたことを知って非常に喜んだ。だがこの暴君(毛利殿)は
彼らを憎悪していたので、公方様のこの好意を秘してしまったのである。

ルイス・フロイス『日本史』)

毛利元就、将軍からのキリシタン保護の依頼を無視する、というお話




675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/08(土) 01:01:10.22 ID:ip9lhqwI
まあ伴天連の教えは他教を迫害しろだったので元就からすれば論外だろうて

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/08(土) 10:17:14.99 ID:kNInOyCH
てか毛利氏って菩提寺は一向宗じゃなくて臨済宗だよね?
単なる事実誤認なのか、フロイスの中で乱暴なことをする奴は一向宗ってイメージがあったのか…

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/08(土) 11:35:50.26 ID:exdl8bBF
安芸はもともと浄土真宗の強い地域で対尼子戦に協力してもらうために
元就が浄土真宗を優遇してたことがフロイスには信徒に見えたんだろう

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/08(土) 11:36:11.26 ID:hhTjz8cY
>>680
元就は毎朝日の出に向かって念仏を唱える習慣を持ってたし、
安芸の国は本願寺を支援していた安芸門徒の巣窟。
この状況を考えれば、国主である毛利家は一向宗だと誤解しても
おかしくないのでは。

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/08(土) 16:07:41.67 ID:kNInOyCH
>>685 >>686
確かに一神教的な考え方だとある宗派を支援する=その宗派の信者って考えそうだし、
あんまり利害関係なさげなのに本願寺の包囲網突破したりもしてたし、そうした情報から誤解してたのかもね
参考になった。ありがとう!