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「義鑑公御舎弟八郎殿、大内家を継ぎたまうこと」

2021年12月26日 15:58

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/25(土) 23:13:53.37 ID:fzoKlB+k
大友記」より「義鑑公(宗麟)御舎弟八郎殿、大内家を継ぎたまうこと」
百済国の王子林処(琳聖)王太子より二十八代の後胤、周防豊大内義隆公、安芸の毛利陸奥守元就と戦いたまうこと類度におよばれども、
大内殿大身にましませば御馬を出さるることなく、冷泉院などという侍大将に人数少々相添えあしらわせたまう。
元就公は仕出の侍、弓矢をとりて、かく器用なれば心がけ深くして大内殿の国おおかた元就が手に入り、
大軍をもって義隆居城周防山口へよせければ、義隆一戦にも及ばず深川大寧寺にいらせたまう。
元就つづいて追いかくれば、力なく天文二十年辛亥九月朔日に義隆公、父子ともに御腹召さる。
既に大内家退転しければ大内殿家老陶尾張守晴基(陶晴賢)、
「義鎮公御舎弟八郎御曹司を申しうけ奉り義隆公御跡目に仕りすべまいらせたき」よし、田原近江守を頼りにせんと申し上げる。
右の旨言上しければ、義鎮公仰せら候は
「尾張あるじの義隆をうたせ、元就という敵と合戦ならず、居城山口をさえ敵にとられ籠るべき一城もなく、義隆跡に仕えすべしと申すも無分別なり。
義隆跡に八郎まいりたりと元就聞きそろわば、時日をうつさず大軍をもって押し寄すべし。
その時尾張一身の才覚にて元就に手向かいなるまじく候。
たとい一戦に及ぶといえども、しばしもこらうべきようなければ追い崩れならん事うたがいなし」よし、何事も聞き入れるべかるずとある気配にそうらえども
八郎殿おことわりありて「義隆あとのき、元就手指国にてそうらえば、元就におそれ自ら退き仕り候と、諸人のあざけりも口惜しき次第にて御座候。
元就と一戦を遂げ討死仕り候事ならば子の上の面目にて候」とて義隆跡目に御約束なり。
尾張守よろこび安芸国厳島に城郭を構え、八郎殿を大内義長と号し厳島へいれまいらす。
元就はやりたる大将なれば、やがて押し寄せ一日一夜攻めし戦い、尾張守打ち負け周防豊国長府谷長福寺へ引き退き、
毛利つづいて追いかくれば尾張守討死いたす。義長公力なく御腹召さる。
それより中国八カ国、毛利成敗とぞなりにけり。

毛利元就が大内義隆を討った逆臣で、陶晴賢が大内家再興に努力した忠臣みたいな



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世は変わり行くとも

2021年10月24日 16:08

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/24(日) 11:23:33.99 ID:kqitHUZS
香西豊前入道宗玄はこの竹山の原に一宇の禅林を建て、常世山宗玄寺と号す。いま
寺跡に小庵がある。またこの東南の原に三位義興(大内義興)の像を造立して一宇
を立て“大内堂”という。また“大内寺”と号す。退転して今はない。

鎮守荒神の小祠があり、この辺を大内堂と地名に称す。大内寺本尊の観音は、今は
西光寺の内仏にあるという。この大内堂の東隣は作山城跡である。

――『香西記

讃州の諸将は細川政元卒去の後、大内義興に服従して国を守り、地を保ち数年を越
した。特に将軍家より安富山城守、香西豊前守(元定)は海上の警衛を奉り、廻船
の非常を制した。故に上京せずして、兵衆の煩労もなかった。

かつまた、能島兵部大夫に属して大内家の朝鮮の役(>>719)に加わったので、財は
足り民は豊かで、兵力は有り余った。

これは義興の芳恩であるとして、香西氏の産神藤尾八幡宮の向かいの山に堂を立て、
義興の霊像を安置してこれを祭った。これを“大内堂”という。

世は変わり行くとも、その林木と名だけは今も存在する。

――『南海通記



そのため異邦人は大内家を日本国王と

2021年10月23日 16:23

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/23(土) 15:29:28.02 ID:Ejmsdc+U
伊予国の海表に能島、来島、院島という3つの大島があり、その他小島が10余
ある。予州河野氏の部類にして、周防山口の府に隣するため、大内家に交接する。
能島と院島は村上源氏である。来島と興居島は河野氏である。

(中略)

大内政弘より以来、大明朝鮮の勘合をもって商船を渡し給う故に、島家を保つ輩
は大内家の陰に倚らずということ無し。

大内義興は九州の戦に勝ち、兵威を盛大にして諸国を帰服せしめ、周防、長門、
石見、安芸、豊前、筑前6ヶ国を領し、伊予讃岐を来服せしめ、大明朝鮮の勘合
をもって商船を渡した。そのため異邦人は大内家を日本国王と思っていた。

そうして永正17年(1520)、村上兵部大輔より使者を通して大内義興の命
を達する。讃州塩飽島は村上鎗之助が来て、宮本佐渡守の宅より香西に達した。

その言に曰く「今年、朝鮮国へ兵船を渡海させるところである。公儀軍用の余分
をもって兵船を仕立て差し遣わしたい者は、その員数を記して注進せよ。その趣
によって禄物の差別があるべし」と、すなわち塩飽より香西氏に達する。

香西氏は議定して注文を調えこれを送り、乃生縫殿助、池水太郎兵衛、本津右近
を船長として兵船3艘を遣わした。

塩飽島より宮本佐渡とその子助左衛門、吉田彦左衛門、妹尾、渡辺が加わり用意
をなした。直島に高原左衛門尉、児島日比の戸に四宮隠岐守が共に用意し、引田
小豆島は寒川丹後守の所有なので引田浦に船が揃った。

讃州諸浦の船どもは能島隼人佐の手組に約し、深く交わりを結んで朝鮮の役を勤
めた。浦々は繁昌して、諸方これを羨まずということ無し。

さて朝鮮の役は先年に大内政弘が大軍を催して朝鮮に発向し、朝鮮王はすなわち
政弘に和を乞うて全羅道の貢物を大内家に入貢した。これより続いて義興も全羅
道を入貢せしむ。

この年、朝鮮国に大軍を遣わして全羅道の境を巡察した。これは大内家の兵威を
敵に振るうためであろうか。義興が年来管領としてその費用を繕ったのも、朝鮮
の入貢、大明の勘合の利用があったからである。

――『南海通記

実際の出来事かは分からないが大内氏の貿易の様子を伝えるものだろうか



陶長房の滅亡

2021年10月21日 17:32

陶長房   
100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/21(木) 16:14:26.25 ID:vu/Oysxu
陶五郎長房は父入道(陶晴賢)を始め一門支葉、譜代恩顧の者までも芸州厳島に於いて
悉く討たれ(厳島の戦い)、また倉掛、沼の両城も没落したと聞いて、周防国都濃郡富田の
富田若山城に閉じ籠もるより術なく在ったが、これを聞いて毛利元就父子は、宍戸隆家、
小早川隆景は直ぐに富田表へ打ち出て若山城を囲んだ。

この時大内累代の臣である杉伯耆守重矩の二人の子、杉弾正重輔、同七郎正重は、去る天文の頃
父重矩が陶晴賢に殺されて以来、時節を以て親の仇を討つために豊前国箕島に在り、恨みを防州の雲に馳せ、
憤りを箕島の浪に漂わせ、時を窺い日を移していた所に、陶入道は厳島に於いて一族もろとも討たれ、
五郎長房も若山の城に籠もっているが、日を移さずそこも落城するだろうと聞き、杉兄弟は

「主君の讐、親の敵である晴賢を討てなかった事は心外であり口惜しい。剰え五郎に矢の一筋も射掛け
なければ天の咎もいかがであろうか。生前の面目、死後の恥、永々以て免れない。片時でも早く
打ち渡り、胸中の恨みを散じなければ。」

と、兄弟打ち連れて走るその様子は韋駄天の如くであった。すると前代報恩の者たちがここそこより
集まり、その勢百ばかりに成って、弘治三年(1557)二月二十二日、若山に駆け付け見ると、
若山城は毛利勢が取り囲み、旗幟が並んでいた。そこで杉兄弟は搦手へ廻ると、城中よりこれを見て、
彼等は下口より敵が来るとは考えていなかったため、この勢は必定大内義長からの加勢であると思い、
門を開けて彼等を入れた。杉兄弟は自身で謀る事を成さずに、安々と城に入ると、城中より切って出ると、
城を取り囲んでいた毛利勢は、城中に返り忠の者が出たのだと思い、我先にと乗り込むと、即時に城は
乘り落とされた。

五郎長房は山口に落ちようとして、徳地の庄まで落ちた所で、この地は吉見正親の領地であり、
郷民たちは蜂起して彼を通さず、よって徳地に於いて害された。こうして陶一族は根を絶ち葉を枯らした。
君を弑した悪逆の因果、不昧は臣たる者の咎である。

(宍戸記)



【ニュース】【山口】大内氏の宴は…料理を再現

2021年10月07日 16:27

648 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/05(火) 21:25:35.67 ID:9t9xVy1s
ニュース
【山口】大内氏の宴は…料理を再現

https://news.yahoo.co.jp/articles/bbbc5dc457ad971b98d9e2c564bf332fb4a8b5f8

関連
大内義興、足利義稙歓迎宴会メニュー!・いい話

石見銀山の発見

2021年07月22日 17:06

330 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/22(木) 12:37:17.70 ID:3kVbbLt2
石見銀山の発見

鎌倉時代末期に周防を支配した大内弘幸はある日、自家の守護神で有る北辰の神が枕元に立ち、『石見国仙の山に宝有り、汝銀をとりて外敵を排せよ。』との神託を夢に見てこの銀山を発見したと言う。
それから200年ほどが過ぎたある日、博多の豪商神谷寿禎は鷺銅山の購入目的で海路を行き出雲へと向かっていた。
その最中、船が石見沖に差し掛かった時、寿禎は陸の山から眩い光が放たれているのを見て船頭に尋ねたところ、

「あれは仙の山と言い、昔、銀が出た山で、光は清水寺の観音様の霊光だ」

と船頭は答えた。寿禎は急ぎ船を陸に寄せて上陸し、光の差す方へと目指して行くと、清水寺へ辿り着き、そこに転がる多くの光る石を目にした。

幾つかの光る石を貰い受けた寿禎は当初の目的地である鷺銅山に赴くと、当地の山師・三島氏に光る石を見せて鑑定させたところ、三島はこれは銀鉱石に相違ないと答えた。

寿禎は帰路、周防の大内義興に面会すると、石見の仙の山に銀脈があることを申し上げ、この報告を受けた義興は直ちに軍を石見へ派遣すると、この地を占拠し神谷寿禎に銀山の採掘と経営を始めさせた。

寿禎は多くの技術者らを招いて銀山の採掘と銀の精錬を行い、これにより当地は栄えることとなるが、同時にこの銀山を巡って大内義興、尼子経久を含む周辺の武家勢力の争いも始まることとなった。

銀山旧記)より

以下参考サイト
島根県ホームページ
http://www1.pref.shimane.lg.jp/contents/kochokoho/photo/145/01a.html

石州瓦 屋根の学校
https://www.sekisyu-kawara.jp/iwamiginzan/hakken/index.html

石見銀山通信
http://iwami-gg.jugem.jp/?eid=3761#gsc.tab=0

331 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/22(木) 12:42:29.56 ID:3kVbbLt2
続参考サイト
山陰いいもの探県隊
https://sanin-tanken.jp/guttokuru/detail-2021-spring



334 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/22(木) 17:51:30.55 ID:EEyg0KQp
大内氏って元々多々良姓を名乗ってるし、本拠地近くには鋳銭司って地名も有るから、精錬関連に関わりのあるお家かと思ってたけど掘る方にも関わりが有ったのね。

335 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/22(木) 21:05:12.87 ID:GW5wIYkV
武田信玄「採掘にかけては我が家も負けてはおらぬぞ(意味深)」

事情を聞いた義興は

2021年06月05日 17:27

250 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/06/05(土) 04:43:15.95 ID:SzDQL2Bk
大永5年(1525年)2月22日、大内義興が安芸国厳島に滞在中のこと。義興は大野(現在の廿日市市大野町)の門山城の辺りを見るため島から渡海した。
義興が島を留守にしている最中、有ノ浦(厳島)沖に停泊した御座船で火事が起こり、その日の船番を担当していた能美孫三郎は御幡箱(旗の入った箱)を手に取って持ち出すと、海へ飛び込み他の船の舵だか何かに取り付いて辛うじて命は助かった。
そうこうしている内に義興が島へと戻って来たが、御座船が焼けた責で孫三郎は切腹になるのではないかと孫三郎本人や周囲の人々は思ったが、
事情を聞いた義興は孫三郎が若輩ながら旗を守って船から逃れたことを褒め称え、防州田布施に50貫の所領を与えた。

棚守房顕覚書

義興さん太っ腹なお話。



大内義隆、方角を忌説

2020年04月24日 17:26

4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/24(金) 10:24:21.43 ID:T4UpEmkq
大内義隆、方角を忌説


 大内左京太夫義隆は並びもなき大名で、周防国山口に住んでいた。
武道を忘れて、華奢を好んでいた。
常に甚だしいほどのの物忌みを行っており、
家人に屋敷を与える時は、
水性の者は北、木性の者は東、
火性の者は南、金性の者は西と定めていた。
もし木性の者は金性の子を産んだ時は、西の方へ預けていた。

 今按ずるにこれは大内氏のみの話ではない。
今の世(正徳頃)にも、この類はある。
 ある者は家を建てて地を移すのときに、
東北の間は鬼門なり、今年はあっちは金神なり、土用には土は動かさないとしたり、
水神・荒神の祈り、疫病・疱瘡の呪い、矢違・愛敬守、男女の相性、葬送の友引、名鑑・判占い等と忌み、
夢見、カラスの鳴き声、鶏の宵鳴き、犬の長吠え、幽霊、化物、野狐、金花?(ねこまた)などを恐れる。
 尼姥はもとより理に暗い者なのでさもありなん。
武夫がこのようでは、見る目も浅ましく、聞く耳も情けない。
もし書を読み理をわきまえ、吉凶禍福を請い求め逃れ避けようとする思いもせず、
万事万物全て天に任せていたら、宇宙の間に何を疑う事があるだろうか。

(広益俗説弁)

矢違はなんなのかわからないけど、お守りの一種ですかね
武士が迷信にとらわれるなって話なのでしょうが、割と信心深いエピソードありますよね



5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/25(土) 06:55:07.49 ID:e5r/qk9y
矢違は敵の矢が当たらないという御守りのことですよ

毛利元就が石見の山吹城を攻めたときにこの御守りで九死に一生を得たエピが地元に伝わってます

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/25(土) 20:53:04.74 ID:0aAtX73o
>>4
矢違のお守りについて
ttp://www.chofuku-ji.jp/temple

大内とは 目出度き名字 今知れり

2019年04月03日 18:04

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/03(水) 13:51:06.14 ID:5i1rn27A
大内多々良の義隆は、防州山口、鴻ノ峰の御館を普請し、並びに新造に屋形を輝くばかりに磨きたて、
北の方(室町殿物語は持明院基規娘とする。万里小路秀房娘の誤認か)を移し参らせ、築山の御前と
号してかしずいた。

しかし姫君は都を恋しく思い、事の折に触れては言い出されたため、義隆は「ならば当初に都を移そう」と、
一条から九条までの条里を割り、四カ国の大身、小身の屋形を、いからを並べて造った。京、堺、博多の
商人たちも、軒を争い続けて店舗を建築した。大内領国の諸侍は、朝暮に出仕を遂げ、彼らがこれを
大切にすること記すにいとまあらず。

それだけではなく、諸門跡をはじめ、公卿、殿上人、又は五山の惟高和尚達を請待し、ある時は和歌、管弦の
遊び、またある時は詩、連句の会を朝夕の業とし、その他京都、南都(奈良)よりも申楽の名人を
呼び下し、能芸を尽くさせ、さらには茶の湯を催し、和漢の珍器を求めて弄んだ。

さるほどに、国々より諸商人が山口へ到来して、毎日のように市町が立った。されば防州には時ならぬ
春が来て、山口は「花の都」と唱えられた。

この当時の京都は廃れ果てており、山口の繁栄に及ぶべくもなく、であれば山口の一条の辻に、いかなる人の
手によるものであろうか、このような札が立った。「九重の天こゝにあり」として

 大内とは 目出度き名字 今知れり
         裏の字略せし 大内裏とは

(室町殿物語)

大内義隆の時代の、山口の繁栄の様子。



770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/03(水) 13:55:12.43 ID:xCkas3Ae
文化方面に行く人は……ね

“大内本”

2019年04月02日 18:09

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/02(火) 17:44:28.73 ID:caEwBzl0
大内介(大内氏)は西国一の大名であった。周防山口の城に居住した。紙を大明に遣わし、書物を
刷らせて取り寄せた。今に至って“山口本”とも“大内本”ともいう。

この家臣に陶氏あり。陶は後に大内を取って除け、繁昌した。大内は子孫かすかにして信長の時分
まではいたという。

毛利元就は陶・尼子などを滅ぼして大名となる。元就の父を弘元という。弘元の時は、いまだ微々
たるものであった。

――『老人雑話』


大内家滅亡

2018年04月05日 17:54

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/04(水) 20:58:14.12 ID:Y93a5UA7
天文二十年七月、細川右京太夫晴元の軍勢が近江坂本より打ち立て京の相国寺に陣を取った。
しかしこれに敵対する三好筑前守長慶は、七月十四日、相国寺へ押し寄せ火をかけ攻め込むと、
晴元勢は一戦にも及べず散々に落ちていった。(相国寺の戦い)

この時、京はこのように乱れきっているが、西国は猶静謐であるため、公方足利義輝、および
細川晴元は、猶も三好が京に迫ることあらば、慧林院殿(足利義稙)の時のように、中国の
大内の元へ御動座あるべき由、内々に評定がなされた。

ところが、その年の天文二十年九月二日、大内義隆の家老である陶晴賢が謀反を起こし、
大内殿を攻めたところ、不慮の一戦叶わずして、義隆は長門国に落ちていった。

その頃、京都の大乱の故に、公家衆も多く大内殿を頼んで周防へ下向され、
禁裏様(天皇)をも山口に行幸されるようにと、大内は多年に渡り支度をしていた。

しかしこのような災い起こり、前関白二条尹房、持明院中納言元規、前左大臣三条公頼といった
人々がここにて自害した。
大内殿は長門国深川にて自害。御年四十五歳であったという。藤三位親世、藤中将良豊も
自害された。

この人々は都の乱を避けてこの国に下られ、このように亡んだこと。一業所感(人はいずれも、
同一の善悪の業ならば同一の果を得るということ)とも言うべきであろう。

陶晴賢は主を亡ぼし、豊後の大友義鎮(宗麟)を頼み、次弟を申し受けて大内八郎義長と号し、
山口の館に移しこれを主とし、自分は執事となり、心のまま振る舞った。
そして子息の阿波守(長房)に家督を譲り、入道して法名全羨と号した。

(足利季世記)

足利義輝細川晴元の周防亡命の計画が有ったとか、大内は山口に天皇まで迎え入れようとしていた
らしいとか、大内が亡びなかったら戦国史はどうなっていたんでしょうかね。



陶興房、我が子を殺害すること

2017年12月10日 17:56

陶興房   
401 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/12/10(日) 10:58:48.78 ID:OPxf38VL
陶興房、我が子を殺害すること

大内義興・義隆の家老を務め軍事政治に活躍した陶興房には1人の麒麟児とも言うべき嫡男が居た。
名を次郎興昌。彼は器量骨柄に優れ、父興房をして
「次郎は武も文も全備し、そのほかの芸能の道から弓馬は達者だし乱舞にも堪能、詩歌・管弦に至るまで、
人間がたしなむべき道では何一つとして劣ったものが無い。今の乱世において希有な存在である」

と評されるほどであった。しかし次郎は常日頃から何れ自らの主人となる筈の義隆を見掛けると、
「隋の煬帝の詩に出そうな大将だ。坊主くずれか流浪の公家みたいな事ばかりして、こんな人を武士が主君と仰ぐものではない」

と影で馬鹿にしており父の興房も次郎のその様な言動を知ると、一抹の不安を覚えた。
ある日越前より幸若太夫が下向して来た折、義隆は太夫に烏帽子折を所望した。その舞を見た者は貴賎問わず感動し、涙に袖を濡らさぬ者は居ないほどであった。
興房が宿に戻り次郎を呼ぶと
「お前は何時も好んで舞を踊っているが、幸若の音曲も習ってみるか?」
と言うと次郎は
「私が幸若を真似るのは実にカラスがカラスの真似をするようなものですが、父の命であれば、似せて舞ってみましょう」
と扇を手に取り、手拍子を打って舞った。
次郎の舞は、先に見た幸若の舞よりもさらに趣深いものだった。
興房は我が子の才能に驚くと共に、これでは次郎は才を鼻にかけて益々主人の義隆様を侮る様になるのではないかと不安を高めていった。

またある日、大明国から義隆に書簡が送られた際のこと。義隆は香積寺・国清寺などの長老西堂を呼び集め、その書簡を訳させた。
その末座に陶次郎も列席していたので、興房は自宅へ帰ると、次郎を呼び寄せ
「お前は今日の書簡の内容を覚えているか?」
と問うと、次郎は
「末座で一度聞いたところで覚えられるわけがないでしょう。しかし推量で内容を当ててみましょう」
と言うと硯に墨をすり、聞いた内容を書き記して読み上げた所、その内容は一字一句違わぬ上に読み上げる口上も非常に立派なものであった。
その後も興房は注意を払って次郎を観察していたが、次郎の器用才芸にはさらに磨きがかかり、また主人義隆を軽んじるような考え方もやめなかった。
父の興房は、
「次郎は将来、義隆卿を侮って主従の礼を乱し、大内家の頭痛の種になるかもしれない。主君の御ためを思えば、わが子など取るに足らない」
と考え、ひそかに次郎に毒を飲ませた。
次郎は十五歳(墓の説明には二十五歳)になった春のころに、哀れにも亡くなってしまった。

その後陶興房は、問田紀伊守の嫡子を養子として、五郎隆房と名乗らせ跡を継がせた。
(陰徳記)

陶五郎隆房、後の陶晴賢である。



402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/10(日) 13:59:52.11 ID:TC+Z/ZXd
>>401
なんという皮肉w

403 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/12/10(日) 14:37:48.38 ID:AbautfzL
陶さん家は興房の長兄である武護が在京中にいきなり摂津へ出奔して坊さんになって3年後に帰って来たかと思ったら次兄の興明を殺して家督を奪い、
当時筆頭家老の内藤弘矩を讒言で死に追いやった後讒訴がバレて義興から死を賜った末に興房が家督を継ぐと言う何か最近似た様なアレな事件が起きてたり何かもうアレよね…
義興義隆時代にまともに大内家に忠を尽くしたのが興房だけなんじゃねーか?って言う…

404 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/12/10(日) 15:03:34.26 ID:AbautfzL
て言うか、調べたら父親の陶弘護暗殺事件も色々闇が深そうだなぁ… 大内家の内情ェ…

雲州侵略会議、大内家終わりの始まり

2016年10月09日 12:33

188 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/09(日) 01:11:35.87 ID:IrCiT5D0
雲州侵略会議、大内家終わりの始まり

1541年正月14日、前年より吉田郡山城を攻めていた尼子晴久の率いる三万の雲州勢は長き攻防の末、毛利元就と陶隆房率いる大内方の援軍の前に撤退を余儀なくされる。
余勢を駆った毛利元就と陶隆房はそれぞれ芸州の反大内勢力である、佐東銀山城の安芸武田氏と、桜尾城の友田氏を滅ぼし芸州の勢力はほぼ大内方へ靡く事となった。
また、先の吉田郡山城合戦まで尼子方だった芸備雲石の国人13名(三吉広隆、福屋隆兼、高野山久意、三沢為清、三刀屋久祐、本庄常光、
宍道正隆、河津久家、吉川興経、山内隆通、宮若狭守、古志吉信、出羽助森)が陶隆房に
「義隆卿が自ら雲州を攻められるならば、我ら13名は味方し先陣いたします。尼子を退治した暁には備雲石の三国から身分の大小に関わらず今の所領と同じだけの所領を御加増下さい」
と内応を申し出た。
是を受け陶隆房は直ちに主君義隆にこの事を申し上げ、雲州攻めを上申。義隆は叔父の大内高広、杉、内藤、青景以下の家臣や子らを集め相談した。
隆房は他の意見を聞こうともせず、尼子攻めを主張。その主張はこの機を逃しては先の13名の国人どもに義隆様は父君義興公に智勇劣ると侮られ、再び尼子へ掌返され今後当家に味方する者は無くなるでしょう。
1日も早く雲州を攻める決を下されます様にと、大変強い物であった。
誰もが押し黙る中、相良武任が進み出て、
隆房殿の仰る事はもっともながら、幾ら13名の国人が味方しようと今我らが雲州を攻めれば先の尼子晴久が毛利の吉田郡山を攻めた二の舞となるでしょう。
先代義興公も雲州攻めを画策したものの九州の敵が筑、豊を攻めた事に妨げられ、事を為し得ませんでした。また今の尼子方の郎党には英雄豪傑数多く、軍勢も当家が殊更多い訳ではありません。
ここは石州から陥れ、一城ずつ落として兵を堅め徐々に雲州を攻略してはどうだろうか?
隆房殿が戦いを急がれ敵をたちどころに打ち破ろうとするのは戦法として危うい。
先ずこちらが負けぬ工夫をし、戦わずして勝つと常々おっしゃっておられる事こそ、隆房殿の御父興房殿もご存知のところです。
今義隆公のご智勇、先代義興公に劣っておられる筈はありませんが、老功の将と若年の将とでは、世間の対応からして全く違います。
若き義隆公のご武勇のみを頼りに、敵を打ち破る事容易く思い数カ所の敵城を越え月山富田城まで進攻の作戦を立ててもご勝利かどうか甚だ確かではありません。
それにしても隆房殿が武勇を誇り敵を侮られるのは頷けない事です。
今少し他の国人の意見も聞くべきです。
と意見を述べた。次に冷泉隆豊
隆房殿、武任殿お二人の言い分どちらも理にかなっています。隆房殿が言われる通り敵の国人数名が同心して味方に加わりその上敵軍が吉田表で敗軍した折ですから、この破竹の勢いに乗り敵国を攻めるは道理にかなっています。
また武任殿が義興公の遠路ご進行の経験を例に出されたのもごもっともです。私からご両人の議を相兼ている謀りごとを申し上げましょう。

まず芸州へ進攻し、味方に与する国人たち、同じく備後の侍達から人質を取り堅められ、次に石州に暫く在陣して本庄、小笠原、更に雲州の三沢、三刀屋、河津などの人質も取り、
赤穴の城を攻め落として軍士を入れ、その後出雲に攻め入り降る者から人質を取り、敵するものは城を攻め、尼子の本拠を攻め急ぎする事なく、国中の城々を味方で守り堅め、謀りごとを先にして戦いを後にすれば敵は士気衰え、やがて降旗を立てるでしょう
と述べた。満座の者はこの意見に賛同し、その日の評定はこれで決着がついた。
しかしながら、隆房と武任とはこの時の議論に互いに含むところがあり、泥中に荊あるがごとく、たちまち不和となって、これがついには大内家滅亡のもととなったという事である。



189 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/09(日) 08:24:07.32 ID:Xify1bNh
相良のが陶よりまともな事言ってる気がする

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 08:39:49.17 ID:t9v3aFpB
冷泉発言は後年元就が行った尼子十旗&月山富田城攻略戦そのものだったりする
でも陶の性格からして相良や冷泉のような戦略を取るのは無理だろうな

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 11:40:43.39 ID:Oau9qfpR
>>189
ただの慎重論、臆病者あるあるです

192 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/09(日) 11:49:45.17 ID:YB5Da6Hm
>>191
お晴カス

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 14:26:28.85 ID:Oau9qfpR
>>192
臆病者久幸おつ

197 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/09(日) 15:07:23.02 ID:YB5Da6Hm
>>196
(晴賢の晴だったんだけどなぁ…まいっか)
その臆病尼子比丘尼に救われたのは誰でしたかのう?

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 21:57:38.33 ID:Oau9qfpR
臆病者あるあるですね

199 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/10(月) 07:43:12.23 ID:dtnoel3P
経久「晴久君、ちょっと話があるから雪隠裏行こうか」

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/10(月) 11:04:09.18 ID:M8uKGH4G
老害おつ

鷹羽の心根

2016年03月08日 13:11

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/07(月) 22:17:29.27 ID:iMfW4Wz6
(大内)義隆公は、ことのほか芸能や美しいものを愛し、講西寺に立ち寄った際に
その境内で演奏をしていた流浪の芸人の笛吹きを召し抱え、さらにはその者の子供が
美童であり鼓に秀でていたため小姓として、鷹羽と名乗らせた。
陶(隆房)殿が兵を挙げると、義隆公は吉見(正頼)殿を頼って長門の大寧寺まで
落ち延びたが、そこで塀に囲まれ自害することとなった。
鷹羽も義隆公に従っていたので同地で殉死するか戦って死んだと思われたが、ある日、
山口の地でこれを見かけた者があった。
「義隆公のお伴をしたのではなかったのか」と問うと、「我が死んだごときではご主君への
恩は返せぬ。かと言って戦う力もないので、私のような者でもご主君の敵を討つことができる
機会を探しているのです」と語った。
それを聞いた相手は、他の者に「命を惜しんであのような嘘をつくとは、生まれが賤しい者は
心情も賤しい」と語り、それを聞いた者たちも鷹羽を臆病者・恩知らずと罵り嘲った。
半年後、陶殿を毒殺せんという企みが発覚し、その下手人として台所に紛れ込んでいた
鷹羽が捕えられた。
陶殿は豪気なおかただったので、主君のために尽くそうとした鷹羽に感心し、右腕の肘から
先を切り落とすだけで、鷹羽の命を許した。
鷹羽が臆病者であるという悪評はおさまったが、片腕となった鷹羽は得意の鼓で稼ぐことも
できず、乞食などして糊口を凌いでいたので、口が悪い人は「身の程知らずのことを企んだ
罰である。元の身分に戻っただけのことよ」と笑いあった。
そうこうするうちに、鷹羽の姿は山口から消え、誰もそのことを忘れてしまった。
弘治元年、陶殿は大軍を率いて安芸厳島に上陸したが、そこで毛利軍に敗れ自害なされた。
厳島から引き揚げの際、毛利軍は自軍の中に見慣れぬ怪しげ者が紛れ込んでいるのを見つけ、
大内方の兵が毛利軍の振りをして逃げ延びようとしているのだと思い、これを殺した。
殺された者は右腕が無く、素性を問われて「義隆公の恩に預かった鷹羽という者である」
とだけ名乗り、後は経文を唱えるだけで何も語らなかったという。
これを伝え聞いた(鷹羽親子が召し抱えられた場となった)講西寺の和尚は、鷹羽の心根を
哀れに思い、小さな墓を建て祭ったということである。
(防長古老説話集)

非力な美少年が、何としてもご主人様の仇を獲ろうとして果たせなかった(あるいは
果たせた?)哀しくも美しい話



439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/07(月) 22:49:39.00 ID:ZeNQm+KB
史記の刺客列伝か侠客列伝に出てくるような剛の者だな。
結果、名が高く残ったいい話だと受けとりたい

茶入・玉堂

2016年01月07日 08:17

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 21:52:48.17 ID:H+6WH/5C
 周防の山口太守大内義隆公、陶尾張守の謀反によって、同国の菩提所大寧寺にて自害した。
さらに尾張守は大寧寺を焼き立てて、僧俗によらず切り捨てた。

その内の出家の者であった玉堂和尚は、大寧寺へ義隆公から寄付された名茶入を三、四つに割り、鉄鉢の底に入れ、
危ういところから命からがら助かり都へ上り、茶入をくっつけて売り払った。
この茶入は継ぎ手があるというのでかえって値段も上がったという。

 この和尚は玉堂と申すので、そのまま茶入の名となった。

 この僧は尾張守が滅亡の後、この金子で大寧寺を再興し今も残っている。甚だ殊勝な出家のものである。
(本阿弥行状記)

この茶入と思しきものが徳川ミュージアムにあるのですが、
特につなぎ目みたいなものは見当たりませんでしたね..



150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 22:35:33.17 ID:L9nbHTsQ
大寧寺と言う法灯を今に繋いだと言うことか

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/07(木) 02:53:24.13 ID:VhdIqWPd
そして宗教へと続く

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/07(木) 03:58:53.66 ID:8GTdO5fn
継ぎといったら古織という勝手な思い込みがあるが、先人がおるんやな

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/08(金) 03:23:54.44 ID:iX36EQHW
必要もなく壊してくっ付けたのと一緒にすべきなのだろうか

大内晴持の死

2015年04月15日 18:32

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/14(火) 19:58:05.31 ID:xEnJ2PJf
大内義隆による尼子氏の富田城攻めは、大内方として在陣していた備・芸・雲・石の国人である、
三澤、三刀屋、宮山、山名、出羽以下、13人が一同に心変わりし、尼子に内通、
天文12年4月晦日、彼らが一斉に富田城に入ったことで一気に形勢が変わった。
この時尼子に内通しなかったのは、毛利、平賀、三吉、福屋、熊谷、天野、益田と言った人々であったが、
彼らもこの内通劇に驚き、翌5月1日は諸陣以ての外の騒動となったが、ここは陶尾張守(隆房)が
固く下知して、翌日には静まった。

しかしこの事態に、陶は大内家の老臣を集めこう申し述べた
「今度国人達の心変わりによって、家城に残っている彼らの一族が、防州との通路を塞ぎ兵糧を断ってしまえば、
我らが軍士が飢餓に及ぶこと確実である。先ず今回は、この陣を引き払い、再び九州の味方を催して
出陣すべきと考える。」

この事、大内義隆に伺いを立て、5月7日未の刻(午後2時頃)、大内義隆・義房父子は経来木山を引き払った。

義隆父子は、湯屋より別々の船にて退いた。この時、義隆の船に、取り残された者達が乗り込もうと
取り付いたが、冷泉隆豊が長刀で彼らを切り払い、無事漕ぎ出した。

陶・杉・内藤といった重臣たちは、湯屋まで義隆父子を見送って、再びの雲州出陣の為であると、
船には乗らず、その勢三千ばかりにて、白潟に廻って引き退いた。

大内義隆の養子である周防介義房(晴持)の船には、あまりに多くの者達が乗り込み、船子たちは
猶も乗り込もうとする者たちを、櫓で打ち払い漕ぎ出そうとしたが、なおも慕い来て取り付いたため、
ついに船は転覆し、義房を始めとして一人残らず溺死した。

この周防介義房は、土佐の一条大納言房家卿の子息で、義隆姉の腹であったのを、三歳の時より
大内家の養子として、従五位下に叙せられていたが、この年十一歳になられたと聞く。あるいは二十歳という。

異書に曰く、この時義房は雲州得ノ浦に落ちたが、敵が夜に入って大勢にて押しかけて来たため、
味方の者達は周章狼狽し、義房も危うき所に、篠山九郎左衛門という、義隆寵愛の扈従が駆け上がり、
「我こそ周防介である!」と名乗って、手の者2,30人と共に防戦した。

この間に義房は落ち延び船に乗ったが、この船が転覆し溺死したのだという。
篠山は暫く防ぎ戦ったが、従兵達は皆討ち死にし、逃げるべき方法もなく、今は義房も落ち延びたであろうと
考え、自ら太刀を胸に当て、そのまま伏せて倒れ、貫かれて死んだ。

その後、篠山はその浦の祠に祀られ、浜の宮と号し、それは今も存在している。
(芸侯三家誌)





富田城攻めの陣取り

2015年04月14日 18:37

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/13(月) 19:36:33.44 ID:WbwXWuQx
大内氏による出雲攻めの時のこと。

異書に曰く、山口勢は出雲の畤地という所に到着すると、評議の上、そこから富田の向こう、経来木という山に
陣を寄せるべきとの話になったが、これに毛利元就が反論した

「尼子は近年、武威が少し衰えたといえども、未だ数カ国を領し、近国の武士の大半は旗下に属し、
そのほか家中の諸士に至るまで、経久以来代々の武備に慣れて、武辺剛者の侍ども、多勢立て籠もって
おりますから、味方に卒爾の働きがあっては、却って落ち度があるでしょう。

であれば、城を急に攻め抜こうとの戦略では、勝敗は甚だ測りがたいと言えます。

ここは、富田より4,5里も隔てて陣を据えられ、諸所に軍勢を分けて置き、近国より尼子への
兵糧運送の通路を差し塞ぎ、防州との通路には、つなぎの城々をかまえ人数を籠め置き、兵糧を運送せしめ、
長々在陣の覚悟にて、次々と奇計を設けて、攻め悩ますようにすれば、敵は次第に弱り、
必ず落城の功を経てられます。これこそ、味方必勝の謀というべきです。」

そう、再三意見を加えたものの、大内義隆の寵臣である田子兵庫助(あるいは豊後)が
「経来木山は地の利完全であり、ここに陣を据えれば、たとえ城中より敵打ち出て付懸ってきても
危うい事はなく、城下の建物を放火して、取り巻いて攻めるにおいては、他所より兵糧を運送することも、
城内に取り入れることも叶わないだろう。ならば城中耐え難く、すみやかに落城するであろう。

そのように敵を、奥深く怖れるように計らうのは、却って味方の勇気を挫く端緒とも成る。」

そう頻りに申すによって、遂に義隆は経来木山に陣を寄せたのだという。

(芸侯三家誌)

結果は言わずもがなである



667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/13(月) 23:56:02.71 ID:i2yHmMl5
大内に従わない豪族が背後を脅かして補給線を寸断したことが敗因ですね
陣地にした山は確かに良かった

大内義隆の娘・珠光

2014年09月14日 18:51

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 13:08:41.55 ID:8tyGaRkz
大内義隆の娘・珠光


大内義隆のいえば、陶晴賢の下克上を受けた人、陶晴賢とアッー!した人として有名である。
彼は衆道も好きだが女道も好む両刀使いであった。
そんな彼にも子供はいた。

長男・義尊、次男・義教(問田亀鶴丸)、そして長女・珠光である。

珠光の母は不明であるが、珠光は成長すると、家中でも美貌がとても評判の娘になった。

時は1550年、大内家中が不穏な空気に包まれていた中、相良武任はこちらも美貌で
評判になっている娘を陶隆房の子・長房に嫁がせようと画策した。
しかし、隆房は格の違いを理由に拒否。
更に大内家中は混沌とした空気となってしまった。

年は明け、1551年になると義隆は決断する。
自分の娘を隆房に嫁がせてやろう、と。
しかし、隆房は適当な理由をつけてこれを辞退してしまう。

そこから先は義隆はほとんど対策もとらないまま運命の8月を迎えてしまった。

20日に隆房挙兵、29日に山口を放棄。珠光は父に従い大寧寺に入った。

9月1日、大寧寺も落ち、義隆は子供たちに落ち延びるよう促す。
嫡男・義尊は若年の武将・小幡義実に託した。
次男・亀鶴丸も他の武将に託し、長女・珠光にも落ち延びるよう促した。
しかし、珠光はこれを拒否して父らと運命を共にする決断をする。

かくして大内義隆・珠光父娘らは自害して果てた。
珠光は享年わずか15歳の若さだったという。



263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 13:25:51.01 ID:cbRYxJFg
あーあ田亀丸かわいそう

学問も悪く学んでは

2014年06月16日 18:58

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/15(日) 23:23:36.67 ID:JL0uWGGY
学問をするものは、その国その家の知性であるのだから、何よりの宝である。
しかしこれも、悪く学んでは、中国の大内殿のようになってしまう。

どういう事かといえば、大内義隆殿は書籍に関してどんなものでも暗いということがなく、
七書などは空で覚えて、「良将は戦わずして勝つ道理なり、また戦って勝っても不慮の勝ちである」
などと言って、はかりごとの沙汰ばかりをしていた。
そのため大内殿の家中の者達は、近習も外様も皆、はかりごとの吟味ばかりしていた。

せめて一手の大将をするほどの者であれば、はかりごとを心にかけるのも当然であり、
開戦して討ち取れない敵にはかりごとを入れるが、こういう事は大将、あるいは家老、侍大将が
行うことである。
もし外様の侍たちが、計略を心がけて戦場での働きを心がけないなら、その大将の下に槍を突く者は
いなくなってしまうであろう。

学問をするのは良きことである。しかし、大内義隆殿の学問は滅亡の原因となった。
それは、大内家の大身者である相良遠江守、陶尾張守という二人が不和となったが、義隆殿は
相良を愛して、陶を殺そうとした。そのため陶は大軍を擁し義隆殿を攻めると、義隆殿は
かねてから心がけていたはかりごとをすることも出来ず、打ち負けて石見国の吉見氏を頼って、
その勢二千あまりで落ちていった所を、陶が追撃したため落ち延びることが出来ず、ついに
自害した。

しかし、もし日頃から槍の柄を取って戦う心がけのある士がいたなら、時の運で合戦に負けたとしても、
義隆殿の身はつつがなき様に防いで落とすことは容易かったであろう。
ところが、いらざる知略の工夫建てに年を暮らした為に、属し、従う武士まで言い甲斐のない死を
してしまったのである。

このたぐいの学問は、しないほうが良いのである。
(武道心鑑)


「学問で滅んだ」大内家に関してのお話しである。




521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/15(日) 23:44:12.83 ID:27sVN4UV
朝廷や幕府に対するはかりごとだろうな
公家化を戒める内容だ

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 00:41:25.49 ID:isHC7Fml
宇喜多某「謀ばっかやっとったらアカン言うこっちゃ」

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 02:30:02.46 ID:ihIZy5HE
あほう
大内のと田舎侍の宇喜多のとでは次元が違うわ

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 02:37:32.72 ID:Z2Z46jPS
× この類の学問はしない方がいい
○ 直接戦う人間は学問より武芸の方が重要

あと、陶を殺そうとしたことは不問なのが興味深いな。

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 07:09:15.53 ID:2H/v/CvX
謀反を正当化されたら困るでしょ

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 07:38:12.16 ID:wUphW9SS
平安時代には、とにかく大地から芽ばえたものはなかった。
武家が公卿に代わったというは、腕力が観念に代わったという意味にとられてならぬということは、さきにちょっと記した。
武家は腕力をもってはいたが、武家の強さはそれではない。
武家の強さは、大地に根をもっていたというところにある。
武家はいつも大地を根城としていたのではない。武家は腕力はある、武家と腕力とは離れられぬ。
が、大地に根ざさぬ限り、腕力は破壊する一方だ。
公卿文化は、繊細性の故に亡びる。
武家文化は、その暴力性・専横性などの故に亡びる。
腕力と大地とは一つものではない。腕力だけしかないものもある。
公卿たちでも大地が顧みられていたら、平安時代のようなことはあるまい、この点を深く考えなければならぬ。
平安時代に取って代わった鎌倉武士には、力もあり、またそのうえに霊の生命もあった。
力だけであったら、鎌倉時代の文化は成立しなかったであろう。
鎌倉文化に生命の霊が宿っていたということは、その宗教方面に見られる。
平安時代は、あまりに人間的であった。鎌倉時代は、霊の自然・大地の自然が、日本人をしてその本来のものに還らしめたと言ってよい。
『日本的霊性、鈴木大拙、岩波文庫より抜粋』

この文章を第二次世界大戦敗戦直前(昭和19年、東條内閣解散の年)に書いて出版した鈴木大拙

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 07:39:45.02 ID:wUphW9SS
>>526は>>520の関連レスね
もちろん逸話投稿ではない

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 12:31:13.34 ID:L2n+DHhu
>>525
神君氏真公「えっ」

謀聖、終生のライバルと夜襲

2014年05月02日 19:17

陶興房   
180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/02(金) 00:16:48.94 ID:w/ilQyvt
謀聖、終生のライバルと夜襲

大内家家老、陶興房。大内氏譜代の重臣陶家の陶弘護の3男であるが、父が暗殺された後に起きた長兄・武護と次兄興明の争いで次兄興明が死に、
後に長兄武護が主君大内義興に誅殺されたことにより陶家の家督を継ぎ、長じて大内家の家老として文武両面で主君義興を支える存在となる。
戦場で常に主君義興を補佐し、大内軍の副将として各地で戦ってきた興房は1511年、船岡山合戦で一人の戦国大名と出会う。
足利義稙を擁する大内義興、細川高国に従い上洛した山陰の尼子経久である。
敵方の足利義澄方が陣取る船岡山を囲んだ大内連合軍であるが、その直前に擁する足利義澄が病死したにも関わらず
戦意旺盛な敵方を攻略するために尼子経久は大内の副将たる陶興房に一つの提言をする。

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/02(金) 00:40:25.99 ID:w/ilQyvt
経久「敵方に夜襲を仕掛けてはいかがか?我が軍が先陣となれば敵兵全て葬って差し上げよう。」

これに対し、丹波で合流したばかりの西国の兵を信用できなかったのか、直前に赤松義村が裏切ったこともあってか興房は

興房「我が大内軍は夜襲が苦手でな・・・」

と、夜襲の提言を退けたと言う。なお、その船岡山合戦の結果は・・・

大 内 軍 が 先 陣 と な っ て 夜 襲 

した事で大内義興・細川高国連合軍が勝利。京は足利義稙側の手に戻っている。
興房が尼子経久の夜襲の提言を退けた後、自分達の手柄とする為に大内軍が夜襲を仕掛けたのか、それとも尼子経久が義興に直談判して
夜襲を決意させたのかは定かではない。
ただ、山口県文書館蔵の義興の手紙には大内軍大将の義興自身が先陣に立ち、夜襲軍を率いていることなどが伝わっていることから
義興は夜襲にノリノリで賛成したのではないかと思われる。

この数年後に尼子経久は中国地方へ覇を唱えんと、義興不在の山陽地方に手を出すのであるが、この時経久の提言を退けた陶興房が
何度となく彼の前に立ちはだかる事となるのである。

終生のライバル同士の初の出会いにして相手の手柄を横取りしたようなされたような、ちょっとだけバツの悪い話。

182 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/05/02(金) 00:58:07.28 ID:w/ilQyvt
>>180-181に追記。
この時、陶興房は尼子経久の夜襲の提言を
「大内軍は夜襲が苦手ゆえ・・・」

と断っているが、実際に1524年に安芸・佐東銀山城の戦いで援軍の尼子方・毛利元就連合軍の夜襲を受けて破れたりしている。
夜襲(されるの)は確かに、苦手だったのかもしれない。
しかし、この戦で毛利元就の存在とその武勇、安芸における重要性を知った陶興房は、先に毛利家で起こった、元就と
弟元綱の家督争いで尼子家と毛利家の関係の危うさを見抜き、翌1525年に調略により毛利家を大内側に寝返らせることに成功している。

名将は転んでもタダでは起きないのであった。




202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 19:07:58.69 ID:I+S/6sjV
>>180-182
こういう逸話好きだなあ