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伊香賀隆正の立ち腹

2011年10月29日 22:02

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 15:25:21.40 ID:max6tfAO
自分は訳も解釈も自信がないけど投下するぜ!

1555年、厳島に渡り、宮尾城を攻めていた陶軍数万は、
10月1日未明の奇襲によって混乱し、あっという間に総崩れとなった。
大将の陶入道は踏みとどまって戦い、討ち死にすべしと心に決めたが、側近たちに引き立てられて退却する。
上陸した大元浦まで退いて陣を立て直そうとするも失敗、
捲土重来を胸に浜づたいに逃れ船を探すも、船影一つ見当たらない。

もはや、これまで。
陶入道の手を引き、腰を押して進んできた側近たちも、
情けなくも雑兵の手で討たれるよりは、と覚悟を決めた。
小姓に持たせていた胡餅を分け合って食べ、
松の葉で綴じた木の葉を杯として、酒の代わりに谷川の水を注いで呑み交わし、
脇差を扇に見立てて謡い舞う。別れの宴だった。

入道は石の上に座し、腹を十字に掻っ切った。
腸を掴み出そうとしたところに太刀が振り下ろされ、首が落ちた。

介錯をしたのは伊香賀民部少輔隆正、陶入道の乳人(養育係)を務めた男だった。
伊香賀は刀を取り落とし、入道の遺骸を掻き抱いて、
「あなた様が赤子のころから一日も、片時も離れずに、慈しんで参りましたものを。
日に日に成長されるのがどんなに嬉しかったことか。昔のこともまるで昨日のように覚えております。
私こそが先立つべきなのに、その首をこの手で落とさねばならないとは」
と、泣き崩れた。享年35、早すぎる死であった。

残った者たちは陶入道の首を小袖に包み、岩陰に厳重に隠し終えると、
さて自分たちも、と思い思いに刺し違えて息を引き取った。
伊香賀も入道のそばで死にたかったが、
自分の遺骸が近くで見つかると主君の首も探し出されてしまうだろうと考え、
数百メートルも離れた浜辺で、立ったまま腹を掻き破り、自分で首を押し切って果てたという。




333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 15:43:51.44 ID:K73uKaNZ
こういう話、いかにも武士らしくて好きだよ
ただ誰が見ていてどうやって記録したんだろうと思ってしまう

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 16:07:24.96 ID:b9rL1d7r
生き残った人とか近隣の村人とかじゃね

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 16:09:44.90 ID:ayWuz64l
なんと冷静なツッコミ

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 16:21:14.47 ID:oErLQ1t4
近隣の村人がそんな至近距離に居るわけないだろ

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 16:38:20.35 ID:9Qm7ZXcp
まあ端的に言うと身分ある武士が一人で居るということはありえず、必ず下人などが付いるものなので、
この手の話は伝わるのは生き残った下人などからだろうね。

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:13:22.64 ID:uD6DEZs5
久しぶりに逸話らしい逸話を読んだ気がする
ありがとう、>>332

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:15:47.97 ID:eGAHmx0f
伊香賀さんの無念っぷりが泣ける



345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 19:50:16.66 ID:max6tfAO
>>332だけども遅レスすまん。

>>333
これは胡餅を持たされてた陶入道の小姓が生き残って敵方(毛利)に話したってことになってる。
ただ、ここからは悪い話で、こいつは伊香賀民部に
「おまえはまだ幼いから敵も殺しはしないだろう。いいか、絶対に入道の死をバラすなよ。
山口に帰ってから信用できる重臣だけにそっと話すんだぞ。わかったな」
と念を押されたにもかかわらず、自分から落ち武者狩りの毛利勢のところに行って、
「大将首の在り処を教えるから命を助けてください」と、さっそくゲロったんだ。
民部が浮かばれないよう……
まあ出典が「陰徳記」(軍記物)なので、信憑性はアレだけどね。

>>338
べ、べつにアンタを喜ばせるために拾ってきたんじゃな(ry
こちらこそありがとう。


346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 21:21:55.76 ID:qxlDkG4y
船を完全に抑えられて、島全体が「殺し間」と化した厳島から生きて帰れ、
というのも無理ゲーだと思うぜ。
厳島まではフェリーで10分だから、泳ぎが得意なら泳いで帰るのも
不可能じゃないかも知れないが

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 21:58:56.43 ID:CkTUFiVV
>>346
対岸は毛利の勢力圏だから周防まで泳がなきゃならないしねえ
しかも台風?で荒れてる10月の瀬戸内海を…




対岸で船探せよとか言わない

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 22:24:29.48 ID:XIlXBcBZ
でも秀家さんならw

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 23:14:40.87 ID:Ve/6I5UE
宮島の鹿って、泳いで本州まで行くんだろ?
鹿も四つ足、馬も四つ足。 鹿にできて馬にできないはずはない。

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 23:19:03.69 ID:9Qm7ZXcp
>>349
義経公お疲れ様です。

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 23:32:53.90 ID:CkTUFiVV
梶原景時「鹿は偶蹄目で山を移動するのが得意で馬は奇蹄目で平原を移動するのが得意」

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 01:12:53.85 ID:7hXNx9WP
>>346
というか、毎年何人も宮島から本土まで泳いで渡ってる。
…トライアスロンやってるからな、宮島w
ttp://www.cci201.or.jp/ta/2011top.html

多分ウヨウヨいる毛利勢に見つからずに泳ぎきって逃げ切れるかは知らない。

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 01:29:59.14 ID:S7hOMOuG
>>349
これがホントの馬鹿ってか

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 02:20:17.70 ID:2aqRBeZV
>>352
流石に夏だねトライアスロン

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 02:27:31.82 ID:17zPE6cd
>>352
「泳いで参ったー!」って言っちゃう人でてきそう

部下は隆房に有無を言わせず

2011年10月01日 22:06

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 02:20:18.05 ID:ifv7643A
上の方で株が下がった陶さんの話でも。旧暦だけど10月1日は命日らしいしね。

というわけで厳島合戦のときの陶さん。このときには剃髪して、名を晴賢から全薑(ぜんきょう)に改めていた。
毛利軍の朝駆け(夜討ち?)に虚を衝かれ、混乱し総崩れとなる陶の大軍。
一部は踏みとどまって奮戦防衛するが、
狭すぎて大軍の利が発揮できないどころか、大人数があだになって槍が振るえない。

(#゚д゚)「あんな小人数相手に、何押し負けてんの! 返せ! 戻せ!」
部下A「無理ですよ。狭いんで動けませんて。俺らは逃げます」
(;゚д゚)「大将を、捨てていく・・・だと・・・?」

(#゚д゚)「フ、フン、臆病風に吹かれた者など足手まといよ。三千の精鋭ども、集え!」
部下「えーと、だいたい五百人ぐらいしか残ってませんが」
(;゚д゚)「えっ」
部下「ここでは地の利が悪うございます、一旦引き、陣を立て直してください!
   我らはそれまでの時間稼ぎに引き返して防戦いたしますので」
(#゚д゚)「ヤダもん! わしもここで討ち死にするもん!」
部下「お早く! 敵軍の鬨の声がすぐそこまで迫っております!」
(#゚д゚)「でも」
部下「御免!」
( ゚д゚)「・・・・・・!」

部下は隆房に有無を言わせず、肘をつかんで引き立てた。
反対側の肘も捕らえられ、ズルズルと引き摺られてゆく大将でした。

この先は切なすぎて、笑い話にできないんだよな。





陶氏最期の風景

2011年10月01日 22:05

146 名前:1/2[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 17:31:25.80 ID:hMTHCs4a
では、ゼンキョーさんの末路はスッ飛ばして

陶晴賢(隆房)の死後、大内氏は急速に崩壊、2年後の弘治3年(1557)3月には毛利軍が山口まで侵攻した。
大内義長は、重臣・内藤隆世の命と引き換えに長府へ退去する事を許されたが、毛利軍はあっさり約定を破り
長府にも押し寄せ、義長は下関に程近い長福院で最後を待つばかりとなった。

陶氏の家臣・野上隠岐守房忠は、ひとり山口に残された晴賢の末っ子・鶴寿丸のもとに駆けつけ、六歳になる
この幼子をかき抱いて言った。

「義長公は、毛利と申す人のせいで山口を追われ、長府へお出でになりました。今は大勢の敵に囲まれており、
近日中に御自害なさる由にございます。されば敵は若様をも捜し出し、殺さんとするでしょう。
もはや落ち延びる事もかないませぬ。雑兵の手にかかるよりは長府へ参り、主君の義長公とともに逝かれませ。

さすれば『幼少ながら死に場所を知っている、さすがは陶入道の子よ』と、世人こぞって若様を称えましょうぞ。
亡き父上や兄上方も、さぞかし喜びまする。そうお思いになりませぬか。」

涙を押さえて説く房忠に、鶴寿丸が「では、ご主君のおともをして、いずこへゆくのだ?」
と問うと房忠は、
「極楽という良い所です。水面に七宝のごとき花が咲き誇る池のほとりに、金銀瑠璃で飾った楼閣が立ち、
天より音楽が降り注ぎ、世にも珍しい鳥が飛び交う、面白きこと限り無き所にございまする。
その地にて、父上や兄上方にもお会いになり、ともに仏になるのです。」と答えた。

147 名前:2/2[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 17:33:29.45 ID:hMTHCs4a
「そうか。そこには、ふねでゆくのか?それとも、うまでゆくのか?」と、なおも問う鶴寿丸。
「どちらでも。舟ならば彼岸への渡し舟が、馬ならば馬頭観音が馬となられて、お迎えに来てくれます。

ただ、その時には敵が太刀を並べて参り、私も太刀で若様を打ちまする。そこで少しも恐れず、笑っておれば
父上様方に会いに行けましょう。もし心残り等して泣いてしまえば、地獄と申す所へ行き、赤鬼青鬼どもの
責め苦を味わい、父上様方に会えませぬ。その上、世人は後々まで『あれが陶入道の子か』と笑うでしょう。」

「そうか。ちちうえにあえるなら、なんでこわがるものか。さぁはよう、ご主君のもとへまいろう。」
「天晴れ!さすがは・・・入道様の・・・・・・」

「?ふさただは、なぜなくのじゃ?主君のおともをして、人にもほめられるのに、なにがかなしいのだ?」
「・・・・・・」
「そ、そうか。わしは、しぬのじゃな。い、いやじゃ!ははうえや、うばとはなれて、しぬのはいやじゃ!」

真相に気づいた鶴寿丸は大声で泣き出したが、すぐに涙をぬぐうと、
「や、やぁふさただ!いまはこうでも長府へまいれば、かなしみも、なきもせぬわ!こころやすくおもえ!」
と言って、顔を赤くしながらも、房忠の隣に立った。

長府で義長と合流した鶴寿丸は見事に殉死を遂げ、介錯をした房忠も腹十文字に切って後を追ったという、
「陰徳太平記」に記された陶氏最期の風景。




149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 22:40:56.42 ID:YkmngnrG
>>146
大内義隆没後は、なんかもう見ていられないよ大内氏
義弘公あたりから延々と積み上げてきた輝かしい歴史が…
史跡こそあれ、山口が西の京と呼ばれてたなんて嘘みたいだ

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 03:41:55.86 ID:KLnfSjZa
>>149
義興が上洛なんてしなければ大内はもっと続いただろうなあ

いりこ酒の隆房様

2011年09月26日 22:01

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/25(日) 22:04:22.92 ID:AQD8nKru
市松さんみたいな人発見w

陶隆房(後に晴賢)は、いりこ酒(ヒレ酒のにぼしバージョン)が山口で大流行したときに、
夜な夜な諸将の主催する酒宴に顔を出してたんだが、ある日、オールで遊んで朝帰りした。
酔いも覚めやらず、寝所の外で鳥の声を聞いていると、家の中から近習が話す声が聞こえてきた。
近習たちは隆房の帰宅に気づいていない様子だった。

「殿はこんな時間まで、どこで何をされているのやら。心配だなあ」
「なに、殿はいりこ酒だ。いりこ酒の隆房様よ!」

馬鹿にされたと思ってカチンときた隆房は、荒々しく障子を開け放つと、脇差を抜いて
「いりこ酒」と言った近習に斬りかかり、反対側の庭まで追い詰めて首を差し出せと迫った。
近習は縁側に上がり「殿の悪口を言ったのではなく、ちょっとふざけただけですが、
そこまでお怒りならどうぞお好きになさってください」と諸肩脱いで首を延べ、
隆房は一も二もなくその首を落としてしまった。

この近習は隆房の乳兄弟で、父親も隆房が赤子のころから養育係として仕えている。
父親を呼んで成り行きを話し、死骸を弔ってやるようにと言うと、父親は息子の遺体を庭に突き落とした。
曰く、「こんな不届き者、私の息子じゃありません。天魔か狐の類でしょう」
この父親、他の人にも悲しみを見せなかったが、夜になるとこらえきれずに涙で枕を濡らした。
それでも、その後も隆房を恨む気配もなく、一途に仕えていたため、
隆房も自分の行いを恥じて、近習を殺したことを悔やんだそうな。

酒癖の悪い主君を持っちゃった家は大変だね。




110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/25(日) 23:09:16.77 ID:hR4yMktv
>109
乳兄弟を切るなんて嫌な話だ
首を出されたら切らないで引くわけにはいかなかったんだろうな
そもそもその程度でカッとなって斬りかかったのが間違いだろうけど

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/25(日) 23:49:28.32 ID:YzF229A4
近習は最期の言動を見る感じ
「ああ、この人はダメだ」と思いつつ斬られてそうなのがまた悲しい

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/26(月) 00:53:45.98 ID:sVDG7Hm8
しかしこの陶さんが西国無双の侍大将って呼ばれてたんだもんなあ
人品は関係ないんだろうな

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/26(月) 01:39:59.84 ID:qskgS5Z1
信長が舅殿を斬るようなもんか

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/26(月) 16:21:00.32 ID:jSz+peDf
陶の評判大暴落w

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/26(月) 19:16:00.10 ID:bXtP2px0
乳兄弟と穴兄弟(アーッ的なほう)

どっちの絆が強いのかね・・・

大内義隆婦人貞子、義隆が下女に出したラブレターに

2011年05月14日 00:01

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 10:52:59.77 ID:zg7sWHRw
大内義隆と言えば男色女色区別なく、色事に実に名を馳せた人でもある。
そんな義隆があるとき、人もあろうに正妻・貞子(万里小路秀房(公家)娘)の侍女、おさいに
ラブレターを出した。

この亭主の浮気を知った貞子は、おさいにこのような和歌を送った

『頼むなよ 行く末かけてかはらじと われにもいひし言の葉の露』
(義隆様の言うことを信用してはいけませんよ?自分の愛は将来にわたってずっと変わらない、
なんて事をあの人は、私にも言ったのですもの)


大内義隆がどんなふうに女性を(もしかすると男性も)口説いていたか、みえてくるような
話であるw




137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 11:34:27.35 ID:W69l+B63
陶さんが八方美人ぷりに嫉妬するわけだ

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 11:59:23.99 ID:sdfBJIpw
生まれる時代を間違えたな、義降さん

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 12:07:25.13 ID:P1kJUoGw
陶さんには、お手紙こなかったから…

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 17:31:05.27 ID:1EOL3Cdz
山口の王の色狂い、ザビエルもあきれた。

相良武任の辞世の句

2010年11月01日 00:00

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/31(日) 19:38:45 ID:cm4c9LzF
相良武任の辞世の句を最近知って同情してしまった。

空蝉の つくしよしとは 思はねど 身はもぬけつつ なくなくぞ行く




185 名前:sage[] 投稿日:2010/10/31(日) 21:13:37 ID:m8oslHVx
>>184

周防守護代の家柄の、あの方が許しません。


191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/31(日) 22:54:54 ID:UmnmHU72
>>184
相良さんは人吉相良の一族らしいが人吉球磨の山ん中まで逃げればよかったのに・・・
表は2万石でも山深い盆地の人吉は実質10万石ってぐらい豊かなのにね。
他の九州南部地域と違い焼酎を米でつくってるしねえ。

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/01(月) 00:11:59 ID:Q8ALSc9m
>>184

大内義隆の寵臣だけあって辞世も風雅に溢れていますね
主君義隆が諦観の境地とも言うべき歌を残しているのに対して
あえて未練を残しつつと言うのもおもしろいですね。
関わりは無い人物ですが武田勝頼の辞世などはもう悲惨の一語ですが

「おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは」

武田の弓勢も衰え僅かの供と逃げ惑い、小山田か北条を頼るつもりで東へと進んでいる筈なのに
もはや行き着く先は西方浄土であろう。

武田勝頼勝頼が落ち延びながら見上げた月は
きっと自身の雲行きと同じく雲で少し遮られた弓張り月だったのではと思いますが
弓張り月は秋の言葉なので雲懸った所も合わせて春の言葉である朧月が良く似合います
亡くなる寸前であろうともこれだけ言葉に趣向を凝らす古人は偉大ですね。

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/01(月) 01:04:29 ID:soExALX+
>>197
洒落た歌がよめるってかっこいいすなぁ




Wikipedia相良武任
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%AD%A6%E4%BB%BB

瀬戸内水軍の遠征

2010年10月29日 00:06

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 18:07:13 ID:jMdOby3K
永正9年(1512)の事だそうだ。

讃岐の寒川氏は大内義興の命により兵卒を揃え引田の浦にて五艘の軍船を整えた。
そこに同じく讃岐の香西氏、安富氏の軍船が集合し、計二〇艘となって引田の浦を出航、
備後の鞆に到着すると伊予の能島に報告、能島、因島の村上氏と合流すると、瀬戸内を拔け
南洋、中国南部方面へと進んだ。

さて、このような船団が組まれたことには、こんな理由がある。

この少し前、能島村上氏(村上隆勝か?)より大内義興に提言があった。

「南洋にある離島があります。これを得れば和漢の交易路を保持するのに、長く日本の利益と
なるでしょう。」

寒川家の記録には、その島の名は書かれていないものの、どのような島かは記載がある。
島の主は元々明国は浦東(今の上海か)の領主であり、明から大船を招き、日本と中国との中間交易の地として
大いに栄え、住民達は互いに親しむこと親友以上であり、その島はまるで一国の首都のような賑わいだというのだ。

島に行った日本人の中には、自らの国が乱世であり、一夜の安眠すら困難なのに比べ、この島には争いもなく
皆安楽に暮らしていることに、帰国を嫌がるものも多かったという。


さてこの島、日本の武装した兵船が押し寄せるとすぐに通詞を出して和を請い日本に服すことを約束した。
このため何事も起こらずこの遠征は終わったのだが、これには理由がある。

この当時の日本船というもの、外国船に行き当たればそれに押し寄せ攻め立て、資財を出させてそれを取り、
嫌だというものには攻め懸けて船を乗っ取った。
このようであったため、異邦人でも日本の兵船の言うことを聞かない、という者はなく、海上において
日本船に行き会うことを恐れない船はなかった。
ためにこの島も、あえて日本船と戦おうとはしなかったのである。

ところでこのころの日本船、皆八幡宮の文字を書いて旗印としていた。
このため異邦人より、日本船をさして八幡船と言うようになったそうである。


大内義興の命による、瀬戸内水軍の連合軍によってなされた、とある島への遠征についてのお話。




106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 21:15:42 ID:NVTqAnCd
>>101
この頃は村上水軍は大内に心中していたんですね
どういう縁でこの後離れて義隆の代に攻められることになったのかな?

大内義隆が子どもだった頃

2010年10月25日 00:01

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 22:32:20 ID:gTWJuGdj
大内義隆が子どもだった頃、義隆は子どもたちが銭を玩具にして
遊んでいるのを見て自分も銭で遊んでみたいと思っていた。

これを聞いた義隆の守り役、杉重矩
「銭なんて汚らわしいものを、主君となるお方が見てはいかん!」
と思い、黄金の笄で銭を突き刺した。

そして「こんなものはポイだ!」と、
笄と一緒に銭を汚物の中に投げ入れる様を義隆に見せてやった。




883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 22:40:25 ID:MD5hxvLH
>>882
いい話…なのか?w
義隆の金銭感覚のなさを見ると教育方法を間違ったようにしか見えん

雑談・あの将軍歓迎メニューが再現!

2010年10月20日 00:01

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/19(火) 18:10:45 ID:ax1N1cKW
この話の

大内義興足利義稙歓迎宴会メニュー!・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-848.html

将軍歓迎メニューが再現されたらしい


室町時代の豪華料理を再現

 室町時代に中国地方を中心に勢力を伸ばした守護大名大内氏が足利幕府前将軍をもてなした
豪華な料理が、このほど約500年ぶりに山口市内の観光拠点施設で再現された。
 再現されたのは、ホヤ、タラ、からすみなどさまざまな食材を使ったメニューで、32膳(ぜん)
101品に上る。
監修した食文化研究家の江後迪子さん(75)は「文献として現存する献立としては日本一の品数」と
説明する。
http://www.jiji.com/jc/c?g=jfn&k=2010101500515&mogi
http://www.jiji.com/news/kiji_photos/20101012bo01n.jpg




790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/19(火) 19:17:53 ID:FwBbE0O/
>>789
おもしろいね
記事読むと、やっぱ鶴やイルカはダメかー
鶴の吸い物とかいろんなとこで出てくるから、一回くらい食べてみたいw

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/19(火) 19:25:30 ID:LxveChbw
ひこにゃん「醤油はないんですか?」

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/19(火) 22:23:13 ID:aUbGAMgQ
>>789
ホヤって山口でも食べてたのか

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/19(火) 23:41:40 ID:uNWMaIa6
醤油もない時代の料理だろ
あんまり美味そうな気がしない

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/19(火) 23:54:58 ID:Tv2naFzg
醤油の代わりに酒に梅干し入れて煮詰めた、煎り酒ってのがあったが、
これの考案が室町末期っていうから、ひょっとしたら使ってたりするのかなぁ。

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 02:24:26 ID:KdVZ1ggJ
醤油って結構昔からあるみたいだぞ
少なくとも原型の味噌と醤油の中間みたいなものはあった筈

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 03:18:52 ID:3XNpWj4G
>>791
醸造の醤油が一般的になるのはもう少し後で、この頃は醤(ひしお)なんじゃない?

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 03:32:42 ID:TjK5xz0G
>>797
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-23.html

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 03:39:01 ID:3XNpWj4G
ないとは言ってないんだけどね。逸話の類は成立時期の風俗とかの影響もあるしなぁ。

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 12:31:18 ID:PEEVABz9
一般に出回ったのが江戸期で暫くは伊勢の方だけのものだって何かで読んだんだけど、出展が思い出せない…

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 18:00:24 ID:CzCqT+wL
>>794
ホヤは延喜式の時点で既に出てくるくらいの伝統食なわけだが。

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 22:24:38 ID:57Jy+cZn
>>801
どうしてアレを食べようと思ったのか、延喜式には記録しておいてほしかった。

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 22:31:14 ID:TjK5xz0G
どうして・・・って
昔の人は何でも食べてみたし、不味かったり毒があれば、
どうにか食べる方法がないか工夫を凝らしたんだと思うよ。
食えるかどうかは最大の関心事だったんだから。

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 22:50:25 ID:h3nTBWBi
河豚すら食ってるんだからな。
河豚を食おうと最初に思った奴は凄い。
とてもあんなの喰えるとは思えないだろ…。
[ 続きを読む ]

大内晴持の顛末

2010年08月08日 00:06

347 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/06(金) 22:44:22 ID:4qpgEtsS
大内晴持単独がなかったから投下
過去の「大内義隆と溺愛した養子・悪い話」と一部被ります
大永4年(1524年)に土佐一条家に次男として生まれる。
父一条房冬。母は側室で大内義隆の姉。(房冬の父房家の四男説あるらしい)
兄の房基の母親は皇族伏見宮邦高親王の娘でありどう転んでも当主にはなれない。
一生冷や飯を食うかどこかに養子に飛ばされるのがおちである。

ちょうどその頃母方の実家には跡継ぎがいなかった。
実家とは当時の西日本屈指の勢力を持ち、あちこちで戦をする武闘派であり、
勘合貿易でガッポリ稼いだり、代々海賊との黒い交友があったり、
金の力で冠位をもぎ取るタイトル王だったり、ニート公家の保護活動を行なってたり、
某王族の末裔の称したり、とマルチな活躍をする大内家だ。
そこへ養子に行くことになった。
冷や飯食らい候補から一転、シンデレラストーリーである。

分家とはいえ公家の名門一条家の血筋でありとても義隆から可愛がられた。
晴持もよくそれに答え文武に秀で大内家必須教養の和歌も身に付け、いわゆるエリートに育っていった。

このまま終われば良かったのだが天文11年(1542年)晴持18才の時に悲劇が訪れる。
大内義隆が1万5千の兵を率い尼子討伐に向かうことになり晴持も一緒に出陣した。
当時おそらく日本最動員じゃないかな?普通負けない。
だが尼子のゲリラ戦や裏切りでまさかの敗北、撤退することになった。

撤退の最中、運の悪いことに義隆とはぐれてしまった。
船に乗って逃げるとき、後から後から兵士が詰め掛け船が転覆し溺死してしまった。
義隆の乗った船は冷泉隆豊が薙刀を振り回し船にしがみつく兵士の腕をばったばったと切り落とし無事生還。

晴持の死の衝撃があまりに大きかったため義隆は・・・。
後は知ってのとおり。
はぐれてしまったばっかりに自らの命を失ったばかりか義隆の心まで失わせてしまったちょっと悪い話。




349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/06(金) 23:38:56 ID:COa1+Kvx
義隆は死んだ晴持の為にわざわざ将軍家に働きかけて
義の字つけさせるくらいだからな
養子に肩入れしすぎ

晴持が出雲遠征から無事生還した場合
その後、義隆に実子が生まれた時どういう扱いを受けるか考えると興味深い

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/06(金) 23:44:09 ID:Q7+VBvnP
長慶「息子が死んだからって廃人になるとか、精神的に脆過ぎませんか」
元親「まったく、そんなガラスのハートで戦国の世を渡ろうとするとは、馬鹿げた話ですな」

帯刀「…犬にでも食わせとけ(ボソ」

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/06(金) 23:48:27 ID:llZRZTw8
ちょ、待て!その三人はせつな過ぎる!

352 名前:菅谷[sage] 投稿日:2010/08/06(金) 23:57:43 ID:u/sO4BTE
息子よ、殿のために氏ね

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/06(金) 23:59:17 ID:SWsDxRbS
まったくもって常真殿は親孝行な息子でございますな

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/07(土) 13:48:34 ID:P2qwTDdz
>>350
マイナーな話題ですまんが、この間のやる夫真田見たばっかだから、
2番目の人が切なすぎるw

陶晴賢には、前々からの不満があった。

2010年07月21日 00:00

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/20(火) 02:38:56 ID:gIG/NoYJ

乙です。埋めがわりに


天文20年(1551)、大寧寺の変で主君、大内義隆を討ち取った陶晴賢には、前々からの
ひとつの不満があった。
瀬戸内の海上交易についてである。

何故に海賊たちに、自由に通行料を取らさねばならないのか。
これがなければ瀬戸内の交易は、間違いなくもっと栄えるのである。
現に前々から堺の商人たちも、この通行料についての不満を言って来ていた。

大内氏は海賊の既得権を認めてきた。だが、今やこの地域の支配者は自分である。
今こそこの長年の懸案を解決する、チャンスではないか。

陶晴賢は宣言した

『我々はその支配する海域において、商船が「煩い無く往来」することを保証する!
海賊たちが持っていた通行料徴収の権利は「謂れ無き事」であるので、これを廃止する!』

陶晴賢は能島村上氏などの瀬戸内海賊による海の支配を否定し、瀬戸内海水運の
直接掌握にとりかかったのだ。豊臣秀吉の海賊停止令に先立つ、35年前のことである。
この政策が上手くいっていれば、戦国の瀬戸内の風景は、大きく変わっていただろう。
…が

瀬戸内海賊最大の勢力、能島村上氏はこれに多いに反発。
陶晴賢との対決を決めた毛利元就に味方し、厳島合戦において彼の勝利を大いに助けた。

陶を滅ぼした後、毛利は村上水軍に当然のごとく、その権益を完全に保証した。


陶晴賢による、速すぎた政策に関する話である。




989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/20(火) 03:15:13 ID:yPFAxmM1
あらら・・・そりゃ村上水軍も毛利に味方しちゃうよな。

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/20(火) 07:09:03 ID:OR5SM7ma
謀叛後の晴賢ちゃんは生き急ぎすぎ

殿中の見物禁止!

2010年07月06日 00:00

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/05(月) 18:08:56 ID:O5dzooFn
山口の大内氏館といえば、室町期守護館の典型例として長期にわたり発掘調査が行われ、
往時の大名の有りようを今に伝えてくれる貴重な史跡として、多くの観光客も訪れる場所と
なっているが、この大内館が観光客を呼び込んでいたのは現在だけではなかったようだ。
大内氏の分国法、「大内氏掟書」にこのような禁制がある

『殿中の見物禁止!

守護館の殿中を見物させることは、前々から禁止していたのに、
ややもすれば知人を引き入れて見物させ、あろうことが君主のプライベートエリアである
「常の御座所」あたりまで見せて回っている者すらいる。以ての外の事です!

これ以後は、お庭であっても見物に入ってはいけません!
たとえ大内氏に従っている者であっても、外様の人間には「奥」を見せるべきではないのです。
以後、違反者があれば特に処罰をします!

延徳元年(1489)12月29日』


このころ応仁の乱で大暴れした大内政弘が帰国し、山口の守護館を新築したようで、
この新築なった館への見物が大変流行った、ということのようだ。
その押しかける観光客にプライベート空間にまで侵入され、業を煮やした大内氏は遂に
見物の禁止を法律にした、ということである。

今も昔も物見高い人は多く、それへの対処は大変だった、と言うお話




729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/05(月) 19:16:02 ID:GJrsSmf3
大内家代々の家風からして
絢爛豪華な造りになっているのは目に見えてるからな

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/05(月) 19:27:29 ID:PH6ypF3x
いっその事、見物料とって金儲けすればよいのに

日本人と眼鏡

2010年05月27日 00:04

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 07:43:22 ID:rgaMkLOr
ついでにさっきNHK教育のシャキーンという子供向け番組でやってた話なんだけど
戦国にも関係あるから投下してみる

日本人と眼鏡

日本に眼鏡が入ってきたのは天文二十年(1551年)、
ザビエル御一行が西国の大名・大内義隆に献上されたのが始まりと言われている。
ザビエルの配下が身につけていたこともあり、山口の庶民も見かけることがあった。
が、今まで眼鏡を見たことのない人々にとって眼鏡をかけた人間は恐怖の存在でもあった。
「こいつ目が4つもあるぞ!バケモンだ!」
当時はこう噂されていたとか。

この後眼鏡は徐々に浸透していき、江戸時代の頃には日本産の眼鏡も作られる事になる。
しかし元々は西洋で開発されたもの、日本人にはどうしても馴染めないところがあった。
それは「日本人は西洋の人に比べ鼻が低いため、レンズがまつ毛に当たってしまう」という問題だ。
同じく「鼻が低いため眼鏡がずり落ちてしまう」という問題には比較的早く気が付き
紐をつけて耳で支える方法を思いついたものの、
このレンズが当たってしまう問題の解決方法「鼻あて」を思いつくには
義隆に眼鏡を献上されてから350年後、1900年代に入ってからのことだったという。

眼鏡の進化にも歴史があるという話。
どっちに投下しようか迷ったけどこっちで。




39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 18:09:42 ID:vFugsoZi

>>35
ネギ先生の丸眼鏡にはそんな歴史があったのか
今じゃヲタ系漫画でしか見ないな

小槻伊治の娘・おさいの方

2010年05月04日 00:01

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/02(日) 22:46:26 ID:KKnVhZ5w
>>512
大宮伊治じゃなくて小槻伊治かな
これに関連して

小槻伊治の娘・おさいの方

おさいの方は義隆の正室・貞子に仕えていたが
大層美しい娘であったためいつしか義隆に思われる身になったという
このスレでも既出の義隆の浮気メール誤爆(浮気相手に送る恋文が貞子に届いて修羅場に)
浮気相手はこのおさいの方だとも言われている
こうして義隆の側室となったおさいの方は義隆の寵愛を一身に受け嫡男・義尊を生んだ
一方、結婚して二十年近くなる貞子には義隆との子供がおらず、
元々夫婦仲も最悪だったため、とうとう離婚して実家のある京都へ帰ってしまった
正室・貞子のいなくなったおさいの方は自らが正室と言わんばかりに
貞子がかつて住んでいた御殿に移り住み、この世の春を楽しんだ

このような経緯があるせいか、家中のおさいの方の評判は最悪であった
義隆の功績をまとめた「義隆記」には、彼女の生んだ義尊を
「御曹司ハ実子ニテハヲハシマサヌト申セドモ証拠ハ更ニナカリケリ」と書き記している
陶隆房が義隆を隠居させて義尊を新しい当主として立てる、
という計画を曲げたのはこの風評があったからかもしれない

ちなみに彼女、父親とは違って陶の謀叛を乗り切る事が出来た
義隆がおさいの方のために避難場所の寺を手配し、そこへ逃げるように説得したからである
その後おさいの方はは墨で染めた衣と袈裟を纏い、
故人の供養のために毎日念仏を唱えながら暮らしたそうな




515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/02(日) 23:08:35 ID:H9IvAQg8
大内の逸話は悲惨な結末にしかならないから困る・・

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/03(月) 09:52:23 ID:bo6tl2hf
>>514
大内義隆は側室と母親の安全は確保したくせに
15歳の娘だけは一緒に連れまわして死なせたんだよな
娘も寺に入れてやればよかったのに

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/03(月) 12:26:59 ID:himJIg+h
>>519
ババァたちは寺に入れば安全でも娘は色々しのびなかったんじゃないの?

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/03(月) 13:52:46 ID:fHtzmxej
復権する気あったから娘連れていったんじゃね?
尼子あたりと婚姻むすんで陶追い払うとか
側室と母親は後から呼び寄せればいいんだし

大宮伊治「禍福はあざなえる縄のごとし」

2010年05月03日 00:00

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/02(日) 20:00:24 ID:2gsSwPlG
「禍福はあざなえる縄のごとし」

大宮伊治は金に困っていた。
元々中級公家なのでそれほど裕福でも無い上に、ライバルの壬生家とのポスト争いに負けて
官職を独占できなくなったのだ。
そんなところに一発逆転のとんでもない幸運が舞い込んだ。彼の娘が西国の王とも言える
大内義隆の嫡男を産んだのである。
本来、義隆には万里小路家から迎えた正室があった。伊治の娘など、格が違いすぎるので広橋兼秀の養女として、
兼秀の実娘のおまけとして嫁いだのである。
が、その娘が寵愛されて世継ぎの母となったのだ。つまり伊治は大内の外祖父となったのである。
この時代、公家が羽振りの良い武家を頼るのは珍しくも無い。まして伊治は別格のポジションだ。
遠慮なく何度も山口に下向しては贅沢三昧を楽しんだ。
山口には他にも流れてきた公家がたくさんいたが、例え家格が上でも山口では伊治のご機嫌を損ねることは出来ない。
伊治、まさにこの世の春であった。

が、陶の謀反に巻き込まれ、あっさりと殺されてしまうのであった。




信玄のかませ犬の息子

2010年04月28日 00:01

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 11:52:52 ID:/gpPlFB7
信玄のかませ犬の息子

1537年武田信玄が初陣で平賀成頼(源心)を討ち取ったことは知られていますが、
その嫡子平賀清恒は家を再興することができず姉の嫁ぎ先の冷泉隆豊を頼り周防に落ち延び
大内氏に仕えたといわれます。
その後、大寧寺の変で主君が死ぬと長門の厚狭に落ち延び帰農しました。
3年もの熟考した末に鉱山にわらじを運び、鉱夫のわらじと交換することで
わらじから砂金を集め莫大な資金を手にしたとされます。
彼はこの資金を開拓に用いました。
厚狭川を堰き止め、千町ヶ原に水路をひき灌漑をおこなうことで貧しい一帯を美田へと変えました。
村人は彼を讃え祠を建てて寝太郎権現と呼んだと言われます。

あの有名な三年寝太郎のモデルです。
記録が残っておらず三年間寝て過ごしたり、当時発見されていない佐渡金山で稼いだなど
尾ヒレがついており信ぴょう性は薄いおとぎ話ですが、寝太郎堰は実在します。

その後は弟の白石国長とともに伊達氏に仕官したとも言われています。




591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 12:38:34 ID:JbOTn5M2
寝太郎にモデルがいたなんて厚狭在住のオレも知らなかったよ。
山梨あたりから落ち延びて来たなんて、相当な苦労があったんだろうなぁ。

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 12:50:28 ID:EEKCZLGB
逆に山本菅助は、元々大内被官で山口から甲斐に行ったと言う話がある
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2527.html

山県昌景も安芸から親戚の飯富虎昌を頼って甲斐に行ったという話がある。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2523.html

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 17:18:53 ID:f0iwQvBu
>>592
戦国時代ってローカルで固まってたイメージが強いけど
意外と東西交流は盛んだったのかな


596 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/27(火) 18:54:05 ID:SuQi77fi
>>594
まあ、武将と言っても浪人してたら往来は自由だったんじゃない?
立花宗茂なんて敗戦後に江戸に定住したくらいだし。

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 19:05:03 ID:aHO8ALPh
平賀玄信が滅亡後、一族は奥州の白石に移り伊達氏に仕え、白石姓に改めた。明治維新後は、平賀家に復姓。

平賀玄信は架空説がでているけど
いちおう平賀一族は実在するようだな。

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 19:25:36 ID:rgZoDHcf
>>590
いいね、こういう話

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 20:56:06 ID:G2ARq0Kd
>>594
明智光秀が大友の城の縄張りしてたってのもあったよな

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 22:23:24 ID:MFF7Oht3
>>592
相木市兵衛が山中鹿之助の縁者ってのもあるしな

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 22:31:34 ID:EEKCZLGB
戦国期の大名の交流といえばこれすごいびっくりした

朝倉氏遺跡でガラス玉、工房出土 日本海交易に一石
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news0/index.php?page=article&storyid=21099&storytopic=1

>  同理事によると、当時北海道のアイヌ民族はガラス製品や刀装具を好み集めていたという。
> 北海道では室町時代の越前焼が見つかっており「越前焼などとともに『交易品』として送っていた
> 可能性がある。その代わりに毛皮や金、昆布などを得ていたのではないか」と話す。
>
>  一方で、川越主任調査員は「義景にごく近い上級武士が、ガラス玉を琉球との交易品に
> しようとしたことも考えられる」との見方を示す。
> 朝倉氏は琉球との交易を図ろうと、島津家に仲介を求める書状を送っていたことがあるためだ。


北海道から沖縄まで見据えた交易戦略、朝倉すげえ。

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 23:11:46 ID:rsAh2NS8
>>603
古代から朝鮮半島と交易してるような所だからそれほど驚く事じゃないと思うが
NHK教育の受け売りだけど

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 23:15:59 ID:Nh8clTiz
日本海交易なんてもう鎌倉時代ぐらいからそんぐらいの距離移動してんだろ

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 23:20:53 ID:W1WCKDIO
十勝とか神津島の黒曜石が日本各地から出土してるんだから縄文時代からそのくらい常識だろ

大内義隆と太寧寺の井戸

2010年04月14日 01:14

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 22:54:05 ID:2dZo3b8J
さて、最近すっかりアッーのイメージが付いてしまった大内義隆の最期にまつわる伝説。

ご存じの通り、陶に反逆された揚句重臣一同に見捨てられ、北長門まで落ちのびてきた義隆一行。
海路石見か九州へ逃れようとしたが、海が荒れて進めない。
仕方が無いので陸路を15kmぐらい引き返し、三方が山、一方が川というちょっとした要塞みたいな太寧寺に籠ることにした。
色々あっていい加減疲れた義隆殿、水を所望して何気なく参道脇にある井戸を覗き込む。
するとその水面には、あるべきものが映っていなかった。

「……首がない」

これで駄目押しされた義隆殿、見事腹を斬ったそうな。

後の参道改修の折にこの井戸は潰されたが、今は境内の隅の方に、この時兜を掛けたという兜掛けの岩(ママ)と共に
姿見の池として再現されている。
もし行かれる機会があれば、湯治のついでにでも覗き込んでみては如何だろうか。
ある大名の最期にまつわる、縁起の悪い話。

ちなみにこの寺、元関東管領・上杉憲実の墓もある。誰得。




101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 23:02:43 ID:ees48gsC
>>100
ああ、悲劇の忠臣上杉憲実。この人の生きざまは泣ける。

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 23:23:26 ID:2dZo3b8J
風呂に入っててふと不安になったのだが。
>>100の話は地元ではそれなりに有名な話なんだが、どこをググっても出てこない。
まぁだから書いたんだけど、まさかこの話をカキコしたら夜中に義隆公が尻を借りに来る呪いとかないよな。うん。……ないよな?

>>101
簡単に調べてみたが、悲劇の人だね。誰得なんて言ってすまんかった。

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 23:49:18 ID:c8Ob2R1R
>>100
なぜ憲実の墓が長門に?
旧臣の誰かが毛利に仕えたとかかな。

105 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/13(火) 00:12:48 ID:9WulXGQR
>>103
最後は諸国遍歴して、最後に大内氏を頼ったそう。

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 03:29:07 ID:4Z1zMjly
>>102
>>100の逸話は確か太閤立志伝でイベントになってた記憶があるな

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 07:01:35 ID:Z9bYVrxY
>>109
髪の乱れを気にして池の水面を覗きこんだら
姿が映っていなかったというやつか

いかにもありそうな話だと思ったのに元逸話はもっとグロかったんだなあ

大内義隆と祈祷

2010年04月03日 00:00

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/02(金) 18:41:59 ID:j98h8f7M

話は変わって 大内義隆と祈祷

信心深い大内義隆は東大寺に破格の金額を献金しとある祈祷を頼んだ
その祈祷の内容は「大内家の武運の上昇」と「陶隆房の怒りが静まるように」というもので
この時既に義隆と隆房の不仲は決定的であったため、神仏に頼って状況を改善しようと考えていたのだ
しかしこの祈祷で隆房の怒りが静まったかといえばそうではなく…

隆房は怒りを静める為の祈祷を自身に向けられた調伏と勘違いしてしまったのだ
この時の反応は書かれている本によってまちまちなのだが、主に
・未だにそんなものに頼る義隆に呆れる
・調伏を恐れて殺られる前に殺ろうと考える
の二つで、どちらにせよ謀叛を決行するための後押しになってしまっていた

そもそも隆房の謀叛に至る原因の一つに「陶氏の所領には東大寺から横領した地があるので一部東大寺に返還せよ」
という相良武任の意見を義隆が聞き入れた事にある
たとえ隆房が勘違いしていなくても、
その東大寺に自身の怒りを静める祈祷などされるのは決して気分のいいものではないだろう

祈祷で怒りを静めるどころか、どう転んでも火に油を注ぐ結果になる義隆の悪い話




860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/02(金) 22:39:35 ID:LBjh1sA2
貧すれば鈍する、というけど、末期の大内ってまさにそんな感じがするんだよな…

大内家の勘合貿易での利益

2010年03月23日 00:06

941 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/03/22(月) 18:41:13 ID:+2AkejU7
金の話が出てきたので当時最大級の金持ち大内さん景気のいい話。
勘合貿易はものすごく儲かったらしく「臥雲日件録」(相国寺僧端渓周鳳の日記)によると
最盛期のある年の輸出総額は600万貫あったそうだ。
勘合貿易には船の決まりがあり幕府=2500石、大内=1800石、細川1200石。
それからざっと計算すると大内さんの取り分は約200万貫。一文を10円とすると200億円の輸出益。

で、得られた銭のうちどのくらい輸入に回したかは不明だがかなりボロ儲けの商売だったようだ。
幕府の貿易顧問の楠葉西忍によると
古金蘭・書画・骨董品は仕入れ値の10~100倍で売れた。
唐糸1斤250文は5貫で売れた。
生糸2斤(10貫相当)は40~50貫で売れた。
これだけ儲かってるから山口京都化計画もできたんだろうな

942 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/03/22(月) 18:44:39 ID:+2AkejU7
因みにこれに目をつけたソーリンは弟を使って勘合貿易をやろうとしたけど

明皇帝「てめぇは大内ちゃうやろ」
とあっさりバレたそうだ。




946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/22(月) 20:06:38 ID:e8mJek2u
>>942
義長は大内家の後継者として明側に認められなかったとかなんとか

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/22(月) 20:16:47 ID:jskK3Xrs
まあ明って、懐良親王を日本の国王だと思ってて、室町幕府を最初は全く相手にしてなかったくらいだそうだしね

948 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/03/22(月) 20:58:07 ID:+2AkejU7
200万貫あったら戦国大名として具体的にどんなことができるの?
官位をもらう、兵を雇う、武器を買う、寺を建てる、インフラ整備、美少年を集める、
他に


949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/22(月) 21:59:09 ID:sSlGd369
>200万貫

えーと、人間なら家康を2000人買える金額(ちなみに影武者なら40万人)。


950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/22(月) 22:14:16 ID:WwTfKQ/+
そう言えば、土佐一条氏も遣明貿易でかなりの財力があったみたいだね
大内家と土佐一条家は縁戚関係にあったけど、貿易つながりだったのかな



951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/22(月) 22:24:03 ID:dB+DUQm3
>>948
信長が堺に求めた矢銭が「2万貫」本願寺には「5千貫」。
堺も本願寺もこれに反発して戦争を覚悟した。ここから200万貫の価値は推して知るべし。


952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/22(月) 22:28:51 ID:v4oZgLP4
うまい棒に換算してくれ

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/22(月) 22:32:23 ID:1UQbZWfN
うまい棒で一国が作れる
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大内義興のソテツ

2010年02月24日 00:08

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 22:21:30 ID:oPKCYjpK
大内義興が将軍から「義興」の名前を授与された時のこと、
足利義尚の側近の有力者である鹿苑院(金閣寺)主の亀泉集証が山口に赴いてきた。
彼は大内氏館の庭に見たことのない木を目にすると物欲しげになんども眺めていた。
あまりに気にしている様子なので「朝鮮から取り寄せたソテツというものです。上様が欲しいのなら献上しましょう」
と気を使うと、院主は「御所にもソテツくらいある、あまりに立派なので見入っていた」と意地になって固辞した。
しかしこの後、院主の残した蔭涼軒日録に何度もソテツのことが記されており
相当後々まで引きずっていたことがうかがえる。

実はソテツは宮崎や鹿児島にはいっぱい自生して珍しいものでもなく
朝鮮から取り寄せずとも硫黄取引のあった島津氏から容易に調達できる。
しかし、京都人には珍しいものであることを見越したうえで献上品として箔をつけるために
義興は朝鮮から取り寄せたという話をしたのだ。

ソテツといえば堺の妙国寺のソテツを織田信長が安土に移すと泣くので切りつけたら
血が吹き出たという逸話などが有名ですが、豊臣秀吉も徳川家康もソテツに興味を持ち
わざわざ遠方から取り寄せています。
なぜか権力者達が気に入って遠方に移されたソテツは現在国の天然記念物に指定されています。




761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/22(月) 22:23:42 ID:oPKCYjpK
ちなみに遠征中の加藤清正が秀吉の為に朝鮮からソテツを送っているので
朝鮮にもソテツはあります。

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 07:08:44 ID:b2QDX3Xy
>>760
ぐぐってみたらなにやら南国の匂いがする植物だった

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 11:41:41 ID:hxUa/PwS
日本庭園の石と松と苔の中にポツ~ンとソテツがあるところを
想像するとシュールだよな。

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 11:46:09 ID:SWtCtub7
でもソテツって大きなまつぼっくりみたいな形だしなあ
松との相性はいいかもしれん

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 12:57:38 ID:2MTwyopv
最近ではけっこうポピュラーな植物な気がする>ソテツ
庭というほどでもない一戸建てのちょっとしたスペースによく植えられている。

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 13:29:45 ID:8ubqZHpA
ミニ庭(せいぜい4畳半程度)とソテツの相性の良さはガチ

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 14:03:24 ID:vwCA8HK1
ソテツと聞くとソテツ地獄という言葉を思い出すな。
なんでも有毒なので食用にするには入念に毒抜きする必要があるそうなんだが、
飢饉が悪化してソテツを食べざるを得なかったりした時に毒抜きが十分じゃない
ソテツを食べて苦しむ人が沢山出たとか。

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 18:35:03 ID:ynvPmYZx
>>769
彼岸花みたいなエピソードですね。
あれも根だかにでんぷんが含まれてて、食べれるんですが有毒なんで流水で長時間晒すなど
毒抜きをしないと大変な事になるとか。
これを食べた後は飢え死ぬか人肉しかない。
故にこの世とあの世の狭間を指す、「彼岸」花と言われるとかいう説はありますね。
775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/23(火) 18:46:44 ID:lmiEYOG9
>>773
ヒガンバナ科の植物は根に毒性があるのが多いから注意が必要。
水仙も毒性が強くて、野蒜と間違えて食べて食中毒起こす事件がたまに起こる。

あと、その手の間違って食べて中毒起こす植物だと夾竹桃。
野外調理の際に、枝を削って箸にして食中毒。