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水底にいたそれは

2013年09月24日 19:51

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 18:21:33.92 ID:l1i8co3u
水野勝成が備中吉井村にいた時、三郎兵衛という人がいて勝成はこの人に従って軍術を学んだ。

ある時、三郎兵衛は鮎を取りに行って勝成もこれに伴った。この時、物が網にかかって
引いても離れなかった。勝成が淵に潜って探ってみると、何か毛のあるものが手に当たったので

勝成は出て来て三郎兵衛にしかじかと告げた。今度は三郎兵衛が潜って引き出してみると、
水底にいたそれは死んだ子牛で、その足に網がかかっていた。

――『福山志料』




381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 18:56:16.29 ID:SPCcdel0
これだけ?
その死んだ子牛が生き返って海老すくい踊りだした、とかないの?

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 19:41:51.01 ID:l1i8co3u
>>381
この話はこれだけ
今思ったけど子牛を引き出した三郎兵衛マジ怪力という話…なのか?

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 22:53:30.76 ID:M//NfNzX
三郎兵衛マジ水練が上手という話…なのか?

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 04:56:00.93 ID:6FNXoKkA
いい話のほうとセットにしたほうがいいような気も

水野家の家風

2013年09月13日 20:24

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 09:17:32.35 ID:FJ+vx4u1
まとめに載ってる話の別バージョンを見つけたので

水野家の家風

岡崎城主水野忠善は、朝は4時から5時のあいだに起き、冬は自分で氷を割って頭を洗い髷を結う
明け六つの太鼓を待ち構え乗馬訓練。毎日2、3頭は乗りこなし
質実剛健を合言葉に、家中にも厳しく武芸の訓練を言い渡した

ある日、名古屋城の掘端を、深編笠の不審な男が、しきりに城の様子を探っていた
鉄砲玉を結びつけた紐を掘りに投げ込み、大胆にも堀の深さを測り始める
それを見た徳川義直は怒鳴る
「こんな大それたことをする奴は、岡崎の忠善しかおらん!何者であっても打ち殺せ!」

忠善は、岡崎までの道中に用意しておいた七頭の馬を乗り継ぎ
追っ手を振り切って一目散に逃走
岡崎城の大手門を通り抜けようとした時
「何者だ?待て!」と門番の武士が追いすがり、たてがみを掴んだ
忠善は構わず馬を走らせ、門番は引きずられながらも手を離さない
二の丸近くになって、主君と気づき手を離した門番に
「下馬所まで手を離さなかったら、百石ほど増してやったのに」
と流れる汗も拭いもせず、のたまったそうだ。

--『岡崎の歴史物語』より--

大手門から二の丸まで1km弱あるんだが…




312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 10:04:09.96 ID:sbwWR3sQ
名古屋城を探るって何を考えてたんだろ?
それも城主の目の前で。

313 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/09/13(金) 11:59:23.41 ID:WzibEuwq
水野忠善が堀を測る話は、池波正太郎の『戦陣眼鏡』って短編が好きだな。
戦が終わった時代に産まれた殿様の哀れさというか、かわいさというか、そんな感じがよかったなー。

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 12:27:33.25 ID:72lGd9ja
この頃にはもう御三家なんて将軍家から見ると逆に安心出来ない存在になってたんじゃないだろうか

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 12:32:27.55 ID:dJ/wW2me
尾張と紀伊は覇気に満ちた性格してるしなw

水野勝成、治療する

2013年07月14日 19:12

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/14(日) 17:54:58.86 ID:E2EHQAbj
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7686.html
こちらに出で来る廣田図書とたぶん同一人物

 水野勝成の家臣に広田儀太夫という者がいた。
 小身で右筆をしていたが、道明寺の戦いで敵の勇士と戦い首を獲って勝成に見せた。
 勝成が歓喜しているところに、儀太夫は何を思ったのか
「失礼だと思うのですが申し上げます。明日の戦いでは側近くに置いていただけないでしょうか」
 と願い出た。勝成は儀太夫の心中を察して側近くに置いた。
 さて、また当日に戦いがあり敵の隊の一つが水野軍の旗本に突撃してきた。
 儀太夫は一番に敵と槍を合わせて討死した。
 勝成自身が槍を振るうほどの状況になったが、やがて水野軍に加勢が来たため敵は退いていった。
 勝成は儀太夫が勇ましく討死したのを不憫に思い死体を確認すると多数の槍傷で体中が真っ赤に染まっていた。
 あまりに不憫に思った勝成が、笄(こうがい、刀の鞘に挿しておく、金属性のへらのようなもの)で儀太夫の口を開けて薬を飲ませると息を吹き返したため急いで医者を呼んで治療させた。
 治療の甲斐あって儀太夫は助かり、有馬温泉での湯治で完治した後に大加増され家老となり広幡図書と名を改めたという。『勇士物語』


 ちなみに水野家を代表する家老に広田図書という人物がいる。
 若いころから勝成に仕え、厚い信頼を受けた側近。大坂の陣後、勝成が福山藩主となると、領内の総奉行を任され、農業生産に関する改革にあたった。
(戦国武将データファイル99より)

 さらに余談として勝成は、家臣が病気になると、自ら薬を届けた逸話があるが
 勝成は当時、平戸に来る中国人との貿易を行っている(小場家文書)ので漢方薬が入手できたと思われる
 と『福山開祖・水野勝成』に書かれている






水野勝成、山家付城兵糧入れ

2013年07月12日 19:50

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/11(木) 20:04:36.76 ID:UXpdGKNA
天正15年(1587)肥後国惣国一揆の時のこと、私(水野勝成)は佐々内蔵助(成政)に支えており、
方々に働いた。

佐々方は山家の城の近くに付城を一つ作り、そこには佐々が取り立てた三田村庄左衛門という者を
置いていたのだが、その城に兵糧を入れるという時、安国寺恵瓊を物頭として、毛利殿より
兵糧を入れることとなったが、一揆勢は兵糧を入れさせまいと、ウチノコカという場所から軍勢を出した。
そのため立花左近(宗茂)兄弟が軍勢をこれに詰めた。

兄の左近殿も手柄をなされたが、とりわけ弟の弥七郎殿(直次)、この頃20歳ばかりに見えたが、
残る所なく大いに働かれた。

天野源右衛門(安田国継・本能寺で明智方として森乱丸を討つ)は太閤様の御舎弟美濃殿(秀長)の
家来であったのだが、浪人し西国へと下ってきていた。美濃守殿の所に居た頃は安田作兵衛と
名乗っていた。この頃は立花殿に客分として在り、この戦いでも白に鶴の絵の指物を差し残る所なく
働いた。

佐々内蔵助の手勢では、私と遠藤助右衛門と申す者の二人が、この方面に出撃し戦っていた所、
立花殿の家臣で十時(連貞)と申す者と、先の天野源右衛門が合流し、弓をとって互いに言葉を合わせ働いた。

ところで私はこの時の立花殿の家臣の名を失念していたのだが、先年、肥後加藤家改易(寛永9年(1632))
による肥後の城の請取に参った時、立花三左衛門(鎮久)に逢い、原の町の茶屋で

「昔、肥後の山家の付城に兵糧を入れた時、そなたの朋輩で私が知っている居るはずなのだが、
久しいことでも在り名前を失念してしまった。何と申す人であろうか?」

「それは十時と申す者です。」

そう教えてくれた。その後、十時の倅である山弥が私のところにやってきて、肥後でお逢いした。

「あなたの親父殿は今も御息災だろうか?」

「去年、おこりを患い、だんだん悪化して、今は歩くこともかないません」

そのようなことを語ってくれた。

天野源右衛門は上方に在り、今も友人である。
(水野日向守覺書)


水野勝成、肥後国人一揆における兵糧入れについての証言である。





キリングマシーンに挑んではいけない

2013年07月08日 19:52

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/07(日) 22:47:47.58 ID:74KvpU7N
肥後国誌にこんな記述があるそうだ

城中ヨリ小場太郎左エ門ト名乗リテ出シヲ寄手モ水野六左エ門勝成ト名乗テ蒐合セ小場ヲ討テ首級ヲ上ク、
之ヲ見テ城中ヨリ三人一同ニ切テ出水野ヲ中ニ韜ミケレ共勝成屑トセス三人共ニ切臥ル

肥後一揆の城村城攻めのとき
城内から小場太郎左エ門がでてきて、寄せての水野勝成と互いの名乗りをあげて、一騎討ちをした
勝成が勝利。
それをみて、仇を討とうと城内から三人がでてきて、一斉に囲んで勝成をやっつけようとしたけど
三人とも返り討ちにされてしまいました

という訳でいいのかな?

キリングマシーンに挑んではいけない





大坂城、桜門に幟を一番に

2013年07月03日 19:51

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/02(火) 20:19:21.44 ID:rTXVgEIo
大阪夏の陣、幕府軍は遂に大阪城内に突入する最終局面となった。

私(水野勝成)は船場の道から城に乗り込もうと考え、その道筋を進んだ所、
船場方面から明石掃部の軍勢が押し上がってきた。そこは去年の大阪冬の陣で、
東堂和泉守(高虎)が仕寄せした場所であった。

敵はその道を押し上げ、鉄砲を一度に撃ち放つとそのまま騎馬の者達が突進した。
この攻撃に味方は追い立てられ崩れ、我々の手前まで逃げて逃げ駆けて来る。

私はその時馬から降りて立ち、

「卑怯者共!一体どこへ逃げる気か!?お前たちの顔は皆見知っているぞ!返せ!!」

と怒鳴ったが、聞くこともなく皆崩れ懸った。

この時私の家来である廣田図書、尾関左次右衛門と申す者達が鑓を手に敵へ向かっていった。
特に廣田図書は私のいた所から14,5町(およそ1.5~6キロメートル)先まで進み、敵と
鑓を合わせてこれを突き倒し、首を獲ったのを目撃した。

それから私も急ぎ進んで、廣田図書の首を取ろうとした者を突き倒し、図書を討たせる事を
阻止した。そして突き倒した者の首を

「これこそ鑓下の首(相手を倒し喉に垂直に鑓を突き立てたもの)である。この首をとれ!」

と言って、岸文左衛門と言う者に首を取らせた。
そして他のもの2名が私に向かってきたが、私は彼らを突きまくった。
するとまた一人、今度は金のなし打ちの兜に鳥尾の引廻しを付けた者が私の右側から鑓を
突いてきた。私はその場でこの敵を突き倒し、傍に居た成瀬久太夫と言う者が走り出て

「この首を私が討ちます!」

と申したので、その首は久太夫に取らせた。

その後、敵は引いていったので、桜門に私の幟を一本、一番に立てた。
この時、幟奉行の神谷久右衛門と言う者を召し連れて出陣していたのだ。

二番に越前の一伯様(松平忠直)の幟が一本立った。
この二本より他に、桜門に立った幟はなかった。
(水野日向守覺書)

大阪夏の陣で、大阪城に乗り込む時の模様である。




598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/02(火) 21:18:00.17 ID:aeQlAzKj
強い人は本当に強いんだな

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/02(火) 22:09:41.90 ID:wnAbh2d7
>>597
するとまた一人、今度は金のなし打ちの兜に鳥尾の引廻しを付けた者が私の右側から鑓を突いてきた。

派手な格好した奴が出てきたなぁ
金色の梨子打烏帽子型の兜に鳥尾の引廻し…
そりゃ格好まで強烈に印象に残るわな
実際、こうして勝成が思い出して語ってるわけだし
やられた奴も本望かと

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/02(火) 22:20:38.15 ID:xFdArd2N
安土城といい大坂城といい名城が焼け落ちて残ってないな

声をかけたその所で

2013年07月01日 19:55

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/01(月) 08:51:43.63 ID:tc6sVpyT

(天正17年(1589)の天草国人一揆における、小西行長・加藤清正による志岐城攻めの折のこと、
当時小西行長の配下であった水野勝成は二の丸まで乗り込んだ)

私(水野勝成)は二の丸に乗り込むと、二の丸の中の”ひちやう”と言う曲輪に一番に取り付き、堀際まで乗り込んだ。
この時、福島左衛門大夫(正則)の家臣・山瀬久兵衛の弟である山瀬勘右衛門という者も私同様に堀の裏まで
乗り込んだのだが、堀の端から鉄砲が二挺出てこちらを狙っていた所を、一挺は私が引きかなぐり取ったのだが、
もう一挺によって山瀬久兵衛は、股から尻まで撃ちぬかれてしまった。
私は彼に

「今までは一所に進んできたが、それでは最早役に立たない。そういう事だから早く撤退しろ!」

と言って山瀬久兵衛を城の下へ下ろした。

この時、阿波鳴門介が使っている、清吉と言う小姓がやってきて

「鳴門介様にはぐれてしまいました。六左衛門様(勝成)の指物を見かけましたので、ここまで罷り越しました。」

そう言うので、私は

「さてさて心がけも早く参ったものだ。これからこの曲輪に乗り入る所なので、私の傍についてこい」

と声をかけたその所で、清吉は鉄砲に当たり死んだ。
(拙者申やうにハさて々心かけ早く参候。只今乗込申候間、我等傍に罷在候得と申所に、其場にて鉄砲に當り相果候)
(水野日向守覺書)

城攻めの戦場のリアルな様子を伝える記録である




992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/01(月) 11:22:02.25 ID:GviWTAMs
強い人は運もいいな

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/01(月) 13:41:02.24 ID:wu0N9C1I
名のある武将が主人公だとしたら
それに仕える武将等は脇役
その他大勢のエキストラまさしく死に役

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/01(月) 14:47:39.88 ID:0U6I1beA
>>991
最後の一文、笑っちゃいけないというか笑いどころですらないんだろうけどなぜか失笑してしまった

995 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/07/01(月) 16:55:47.73 ID:iA3e6Eqk
さすが勝成、鉄砲の弾も避けて通るとは。

追撃しようぜ?

2013年06月30日 19:05

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/30(日) 15:42:49.51 ID:OoHs8WB4
(大阪夏の陣、道明寺の戦いで水野勝成ら幕府軍は、後藤基次などの大阪方を撃退した)

しかし、敵は未だ藤井寺のあたりから平野道まで軍勢を集結させていた。
そこで私(水野勝成)は伊達政宗に使者を送り

『朝の合戦は早くも我々の勝利となりましたが、敵が撤退している今、追撃を行えば、
平野からこちらの方にある敵は大方討ち取ることが出来るでしょう。
非常に良い形勢なので、ぜひ早々に、そちらも追撃を行なってください。』

そう伝えた所、政宗より返事があり

『あなたの言う事も尤もだと思いますが、我々は真田の軍と3度の競り合いをしたため、
鉄砲の弾薬も残り少なく、その上軍勢の中には負傷者や死者も多く出ました。
そのため、今日追撃を行うことはできません。』

などと言ってきた。考えを変えさせるためにもう一度使者を送ったが又断ってきた。
諦めず再び使者を送った所、3度目には政宗が自分で直接やってきた。

「出来ねえって言ってるだろうが!!!!!」

激怒している。

しかし私は政宗がやってきたのを幸いに、かまわず説得することにした

「政宗殿、あなたがそう言われるのも尤もだ。だが今日、敵が撤退しているというのに、
それを追撃しなかったら、上様はきっと『どうして敵を追撃しなかったのか。』と
不審に思われるでしょう。そうなればせっかくの身上も相果ててしまうでしょう。
身体が果てるよりも、敵を追撃して討ち死にすれば、上様への御奉公になるじゃありませんか。

だから、追撃しようぜ?」

「いや、だから我々は…」

無視して話を進める
「それでね、作戦なんだけど、我々の前に立ちふさがっている敵は大野修理(治長)と毛利豊前(勝永)の
軍勢で、真田(信繁)の部隊は野中村の小高い山に備を立てています。
真田軍の位置は大野修理達の場所より遥々と離れた南の端で、前面の敵である大野修理の軍を追い崩す事は
簡単なのだが、そこに横から真田軍が救援に入って後ろに回られれば、逆に我々が全滅するだろう。

そこで政宗殿は真田の前面に出て、鉄砲隊に攻撃させて、真田をあしらって頂きたいのですよ。
そうすれば彼らが横から救援に入ることは不可能に成るでしょう?
これでどうか、お願いいたす!」

そう、達て申したところ、政宗は

「だから!さっきから言っているようにこっちは動ける人間も少ないっての!
今日、敵を追撃するのは我々には出来ない!この事は私から御両所様(家康・秀忠)にも直接申し上げた!
とにかくどうしたって、我々に追撃をさせるのは、無用である!
政宗の所は現在、追撃できるような状況ではない!」
(是非是非付候事は無用にて候。正宗事は中々付申間敷候)

そう言い捨てて自分の陣所に帰っていった。
(水野日向守覺書)

ちなみに他の人は官位などで呼んでいるのに、政宗に関しては安心と安定の諱呼び捨て、
しかも『正宗』表記である。追撃を断られた嫌がらせだろうか?w





それは曲事であるぞ!

2013年06月29日 20:00

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/28(金) 21:56:17.04 ID:WzbYBEfU
(大阪夏の陣が始まろうという時、二条城の徳川家康は伏見城にある秀忠からの使い、土井利勝と
酒井忠勝が到着したのを受け、本多正純、安藤帯刀、成瀬隼人らとともに、合戦の軍議を行った)

その日の晩、灯火をつける時分の事である。「日向に御用がある、お城に上がるように」
との上使が下されたので、私(水野勝成)は早速二条城に登り家康公に御目見得をすると、
膝近くまで寄るように、との御意なのでお側まで近づいた。

この時家康公が仰せになったのは、
「藤堂和泉守(高虎)に一番備、並びに伊井兵部(直孝)に二番備を申し付けた。
そして其の方は大和口より押し立て、この両人とその先で合流せよ。
そのため大和衆を其の方の旗本に申し付けるので、召し連れて行くように。」

私は、これを聞いてこう申し上げた
「去年(大阪冬の陣)、私は堀丹後(直寄)を召し連れて参陣いたしましたが、今回も同じく
堀殿に申し付けて頂けますか?」

「宜しい。丹後を召し連れて行くがいい。」

この時私は、去年の大阪冬の陣で、大和衆は藤堂高虎の麾下を仰せつかったのに、彼らは高虎を侮り、
仕寄りの時など高虎の言うことを聞くものがおらず、命令を聞かせても何かと我儘を言って
少しも役に立たなかった、ということを知っていたため、このように申し上げた

「私は藤堂高虎よりも小身であります。であれば私の言うことを、大和衆は聞かないでしょう。
ですのでこの仰せをお請けいたしても、もし前線で役に立たなければ、両御所様の御意に違う
結果となってしまいます。」

家康公はこれを聞くと殊の外機嫌を悪くされ、このように仰せになった

「藤堂と日向を一所にして、大和者共がとやかく申して来ると言うのか!?
もし我儘を言うものがあれば、公儀の命令を心得ぬ者どもは、一人でも二人でも踏み殺していけ!」

私はこの仰せを聞いて、家康公に直に申し上げた
「この上は、どんなことでも御意の通りに致します!」

すると家康公のご機嫌は治られた。御側に在った本多上野介(正純)がここで言った

「日向殿とあの時の藤堂殿を一所にして申すことはできません。今回日向殿は、上様の名代として
軍を率いるのです。ですので、もし我儘を言うようなものが在れば成敗されてかまいません。」

「忝い」と申し上げた。すると家康公が御意に

「良いか?今回は其の方に軍勢を率いさせるために申し付けたのだ。絶対に絶対に、
昔の一本槍の覚悟で身稼ぎをしてはならん!それは曲事であるぞ!」

と仰せられた。
(水野日向守覺書)

水野勝成、家康から大役を仰せつかるも最期に一言釘を差される、というお話。
家康はやっぱり勝成の事良くわかっているのですねw





正重よ、そういうことは

2012年10月03日 20:27

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/02(火) 23:14:36.58 ID:rr0ZzEuQ

小牧長久手の戦いの時、水野太郎作正重の隊下の同心が、森長一(長可)を銃で
撃ち落した。敵陣が色めくのを見て正重はただ一騎山の尾崎を下り突入していった。
徳川家康はこの様子を見て馬廻に命じて仕掛けさせ、敵陣を攻め破った。

戦後、家康は「今日の戦は大久保忠佐が先駆けになって大功を立てたな」と
感心した。正重は「これはそれがしと忠佐を見間違ったのだ」と思ったが、
無闇に言い争ったりはしなかった。ところが、重ねて軍功について論じた時、
またも家康が同じことを言うので正重は耐えかねた。

「山を下ったのはそれがしだ。あなたはその時、渡辺弥之助(光)と同じように
控えていたではないか。余人ならばこんな言い争いはしないが、あなたのような
何度も武功を立てた人が、上の見間違いをいいことに人の働きを自分の物に
しようというのか! あなたらしくもないことだ!」

光も「正重の申すことに些かの間違いもありません。それがしも見届けました」
と証言した。家康はつぶさに事情を聞き、「そうか、儂の見間違いだったか。
正重よ、そういうことは心に隠さずともよい」と懇意に諭したので
正重も畏まってその場を離れたという。

――『徳川実紀』




681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/02(火) 23:51:47.72 ID:/kQXZxDD
何か考えがあるのかと思ったら普通に見間違いだったのか

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/03(水) 00:27:39.09 ID:8y/DQByZ
見間違った家康のちょっと悪い話しかと思ったけど
正重も言うように忠佐さんほどの歴戦に武功ある者が
家康の言うことは絶対だからといって黙って手柄にしようとした?のは悪い話だな~w
当の忠佐さんはどう思っていたのか知りたいな

勝成のこんな恩返し?

2012年06月03日 21:05

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/02(土) 19:14:43.50 ID:nKtVF/4J
勝成のこんな恩返し?

若かりし頃
父親から奉公構えを食らって西国を放浪していた六左右衛門は
ある時、美作国の安東国貞と言う地侍に気に入られ
そこの娘婿として、その家に入っていた

地侍と言っても、かつては信長公の小姓として仕えた者である
それなりの家の者だったのであろう

だが、生来の腰の軽さどうかは知らぬが
その安東国貞から「お前は身持ちが悪い」と言われ
勝成いつもの逆ギレをし、その義父を斬って
嫁さんを残し、また放浪の旅に出てしまう


ここまではどう見ても悪い話の範疇なのだが


その後、勝成の息子の勝俊の代になって、
とある者が福山藩に仕官となった

何でも、かつて大殿と縁のあった家の人間だという

勝俊は話を聞き、裏を取った結果
かつて親父殿が娘婿で入ってた家の人間とわかると
仕官をそのまま受け入れた

こうして安東国貞の兄弟
貞清の孫、安東助之進は福山藩に仕官をはたしたのだった


…いい話だよね?





728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/02(土) 21:20:25.78 ID:ws2GTVEi
>>720
プラスマイナスゼロ。
ただヤンキーが良い事したみたいに勝成が良い事すると必要以上に評価される。

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/02(土) 21:30:51.32 ID:dsKKWkzP
一度婿養子に入ったような家の人を雇うのってプラスっていうか
当たり前のことのきがするし、総じて見ればマイナスのほうがでかい気がしないでもない

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/02(土) 21:33:58.51 ID:+nj8KBwp
悪い話スレだしそれでいいと思うが・・・

水野勝成は出陣の景気付けに

2012年02月06日 21:53

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/05(日) 19:38:01.57 ID:ceyndC/V
大阪の役を目前とした時期、水野勝成は出陣の景気付けに、
家臣たちと酒宴の席を設けた。
宴も盛り上がって来た頃、勝成は杯を皆の前に掲げ、上機嫌で言った。

勝成「おい!この合戦で『我こそは大将首を上げてやる!』という者は前に出よ!
   前祝にこの杯をとらしてつかわす!」

家臣一同「・・・・・・」

勝成「・・・・・・おい、誰かおらんのか?」

家臣一同「・・・・・・」

勝成「・・・・・・おい、誰もおらんのか!?」

気まずい空気が流れた。
いくら酒の席のことであっても、主君と家臣一同の前での首取り宣言。
果たせなければ、単なるお調子者。家中の笑いものになることは明白である。
たかが酒宴の座興にしては、武士としてあまりにもリスクが大きすぎた。
が、誰も名乗りでなければ、それはそれで勝成に恥をかかせることになる。

『く、空気が重い・・・』『だ、誰か名乗り出てくれ・・・』
『ちょ、と、殿がキレかけてるぞ?』『早く、早く誰か・・・』

その時、河村新八郎という若者が進み出て、首取り宣言。勝成から杯を受け取り、呑み干したのである。
勝成の機嫌も直り、一同はホッとしたものの、今度は新八郎のことが心配になった。

「お前、なんであんなムチャな宣言したんだよ?出来なかったらどうするんだ」

「だって、誰かが名乗り出ないと殿のお立場が無かったでしょう?
 まあ、大将首が取れなければ切腹すれば済むことですよ」

そして大阪の役。
河村新八郎は大阪方の豪傑 薄田兼相と一騎打ち。
見事その首をあげ、家中のみならず天下にその名を知らしめたという。





761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/05(日) 20:51:30.46 ID:Kde3qX/o
ただの酔っぱらいか、それとも死兵状態を作り出す作戦なのかわからない
無頼者と名君、両方のイメージあるし

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/05(日) 20:56:20.41 ID:LDCtRY8S
昔の自分を基準に考えて名乗り出る奴なんぼでるいるだろ
くらいの勢いだったのかな?

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/05(日) 22:02:27.03 ID:0zdz7MT7
>>759
当時の勝成は3万石程度の小大名でいきなり
大和口の総大将を任命されたからな。
後藤又兵衛や真田幸村といった豊臣方の主力相手に
自分より格上の伊達政宗や松平忠輝といった
ひとくせもふたくせもある連中を率いらなければならないという
プレッシャー(いくらあの勝成でもあっただろう)で一杯だった。
そういう時の景気付けの酒宴だから勝成も相当気合が入っていただろう。
だからこそ河村新八郎の首取り宣言は勝成にとっては相当うれしかったのだろう。
たとえハッタリでもいいから場を盛り上げたかっただろう。
それに応えた河村新八郎もすごいけど

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/05(日) 23:16:11.41 ID:fQ6Vj62c
薄田さんかー。狒々退治とかの逸話と橙武者の差が激しい人だなー。

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/06(月) 02:01:53.17 ID:BvjymRen
薄田さんと岩見さんには一応、別人説もある

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/06(月) 17:41:51.83 ID:MLSXUNRB
>>763
総大将は松平忠輝、勝成は先手大将

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/06(月) 18:28:20.07 ID:GxVBBIF5
たかだか三万石で大坂城攻めの先鋒を勤めるのは怖すぎて
普通の武士ならテンション上がらない

・・・勝成は別として

774 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/06(月) 19:53:02.91 ID:CsLik4wO
さすがに勝成も初めは先峰を辞退したけど
家康が先峰はどうしても先峰は譜代じゃないといけないと勝成を説き伏せて先峰を任命した。
その時の条件が兵士の生余奪権と成功した際に十万石以上の所領だった。


775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/06(月) 19:59:08.25 ID:vou0y3iK
名乗り出るのが居なかったらお前ら大将首を取ってこなかったら俺が殺す、ってなってた可能性もありそうだなw

776 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/06(月) 20:05:09.34 ID:WFrRyY/U
>>774
そう言う流れなら勝成の家臣への無茶振りも解らんではないな
兎に角勢い付けたかったんだろ


777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/06(月) 20:29:02.10 ID:iodz87Hl
>>775
むしろ酒の勢いも相まって「じゃあ俺が穫ってくるからそこで震えて見てろ!」ってなりかねんのじゃないか

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/06(月) 21:41:43.27 ID:CsLik4wO
十万石の件だが、相変わらず大将自ら先陣を切って戦った為、家康の怒りを買って大和郡山六万石に抑えられたけど(それでも倍増だが)
家康の死後、約束通り勝成の縁の土地である備後福山十万石が与えられた。

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/06(月) 22:17:13.05 ID:WYFK1w6+
>>772
水野関係の本だと、水野が総大将っている
実際、松平忠輝は戦線参加してないし
水野が指示で戦ったことは、いろいろな逸話からわかる

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/06(月) 22:31:25.58 ID:MLSXUNRB
>>780
そりゃ総大将は普通は戦わない

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/06(月) 22:34:45.71 ID:WYFK1w6+
ちょっと誤字が見苦しかったんで

水野関係の本だと、勝成が大和口総大将と書かれている
実際、松平忠輝は戦線参加してないし
水野の指示で戦ったことは、いろいろな逸話からわかる

ちなみに俺が読んだ本は、
「福山物語 開祖水野勝成一代記」「福山開祖・水野勝成
残念ながら>>759の逸話は書かれてなかったように思うが、
河村新八郎は大垣城攻めのときにも活躍しているようだから、
このころは若くなかったように思う

雑談・つーか水野勝成って

2012年02月04日 21:53

945 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/03(金) 20:32:44.72 ID:VqxbQ0/J
水野勝成は三河武士であり黒田家家臣であった時期がある。

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/03(金) 20:51:29.65 ID:9libVIPh
つーか水野勝成って

徳川家(水野家)→父親の部下斬り殺して出奔(奉公構出される)→仙石秀久
→豊臣秀吉→殺人事件起こして出奔(秀吉から刺客を放たれる)→佐々成政
→小西行長→殺人事件起こして出奔(小西から刺客を放たれる)
→加藤清正→殺人事件起こして出奔(清正から刺客を放たれる)
→黒田長政→長政にむかついて出奔(長政から刺客をry)→三村親成→親成の茶坊主を殺して出奔
→三村家に出戻り。親成の娘とか側仕えの女とかゲット→徳川家帰参

これだからな。貴種流離譚にもほどがあるw



947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/03(金) 21:08:47.93 ID:49nFjdiS
黒田のところは長政じゃなくて親父のほうだった気がした

それに、これ貴種流離じゃないだろ。ほぼ自業自得

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/03(金) 21:41:10.38 ID:62maokfe
普通、一番首は第一の武功とされるが、徳川家はあまり褒められなかった
それが嫌で出奔した武士も結構いたとか

まぁ三河武士相手に一番首が第一の武功としたら、誰も命令に従わずに
カチコミ入れるから仕方がいないかもしれないが

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/03(金) 21:53:41.40 ID:IahED78K
>>946
そんだけやらかして、大名になってから
不通関係にならないとか凄いな。


950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/03(金) 23:05:54.50 ID:6HgHKC9p
水野勝成はヤクザ者でも遊女でも分け隔てなく付き合うナイスガイなとこあるから下からは好かれそう。
よい風にとれば(笑)
気に入らないことを我慢しないのはオヤジとの関係の影響かも。
典型的な不良少年タイプ。
時代は変わるが大陸浪人の伊達順之助も同じタイプだろう

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/03(金) 23:20:58.19 ID:r3sMs/Y+
>>946
水戸黄門や暴れん坊将軍とかのパターン脚本に通ずる安定感があるなw

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/03(金) 23:46:54.51 ID:3QEbyHdW
>>946
刺客の皆々様は返り討ちしまくったの?

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/03(金) 23:50:34.33 ID:9libVIPh
>>952
返り討ちにしたかどうかはわからないが、生き残ったことは確かだな。
それでも秀吉が死んで家康が主導権を握るまで、畿内には近づけなかったらしいw


954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 02:10:19.87 ID:3QspYOpw
>>947
すでに如水が家督をゆずったあとだから、長政で正しい<水野勝成の主君

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 07:27:24.52 ID:T4jCdRMP
>>951
水戸黄門や暴れん坊将軍にも家康を経由して水野一族の血は流れているんだよな。
恐ろしすぎるぞ水野一族。

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 07:46:41.51 ID:T4jCdRMP
家康自体が水野一族が作りだした最高傑作だし、
その祖父である松平清康も母親が水野一族出身であるように
徳川家は松平家と水野家が何代にも交配して作り上げた一族である。
その所以か徳川一族に狂人が多いのは水野の血が騒いでるからなんだろうな。


958 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/04(土) 10:15:11.54 ID:xEbrWwuJ
あの、水野勝成が家督を継いだ時に家康の母がやっとまともな後継ぎが出来たと言うぐらいだから、これまでの水野家の人物が異常過ぎる。
勝成の親父である忠重やその兄とかの性格がかなりドキュンだった訳だし。
忠重が暗殺されたのは酒の席だし、その兄も松平家を離縁されたお大の方が水野家に戻される時に、送りの従者を全滅させようとしたり(その時はお大の方の機転で回避されたが)
かなり無茶苦茶やってたわけだし

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 11:16:38.53 ID:ZR0xlA4l
武蔵大河がありなら勝成大河もありということか

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 11:19:57.73 ID:HN975UnA
赤き(刺客の)血潮と愛(欲)の大河

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 11:21:31.74 ID:i1KXTJnM
清盛みてると、若い頃は無頼者のほうが受けると脚本家は考えているようだ
水野勝成ならぴったりではないか

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 11:27:59.98 ID:GDxTLFHm
清盛か、あくの強い主人公の大河見れるかとちょっと期待してたけど
結局いつもの安直な正義マンで残念だな。
江みたいに役者の演技まで殺してないからまあいいけど。


963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 11:55:01.87 ID:Xot3z9II
大河○周年とかにかかってなければ可能かもしれなかったけど、今年はNHK的に無理じゃろ>あくの強い
主人公の大河

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 11:59:31.43 ID:hFWmiBor
次は100周年に期待するか

965 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/04(土) 12:23:00.07 ID:JldKVMjF
水野勝成だけの戦功じゃないけど、こいつが参加した黒駒合戦で兵力差通り
順当に北条が勝っていたら、徳川=東海だけ領有する中堅大名、北条=関東
甲信を支配する超大名になって歴史が変わっていたかも知れない。豊臣政権
との東西日本分立とか。

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 12:37:11.30 ID:Xot3z9II
>>964
いや、NHK的にメモリアルイヤーだと小うるさい上層の皆様方と絡んで無理だろという話。
お年を召した時代劇好きの大部分は、本格派好きのごく一部のお年寄りと違って確実に勧善懲悪好きだからな。

将来有る若い人間が上層にいればけれん味の強い野心家の物語も受けるだろうが。

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 14:11:57.91 ID:Ewqhq/+l
水野勝成が四天王入りするには、>>946だけじゃ不十分?
もっと理不尽さがなきゃダメかしら

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 14:15:42.93 ID:jd0/x7zK
一種の茶目っ気や人間臭さが無いと駄目なんじゃね
理不尽さで言えば越前の狂犬のが上に着そう

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 14:29:26.35 ID:YzPyj8Ge
五人目の四天王に入れてもいいんじゃないかと個人的には思う。

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 15:58:19.53 ID:WTWtvrgb
水野勝成が四天王に入りづらいのは、徳川帰参・水野家督後がちょっとびっくりするほど
名君なためかも知れないなw
家臣に優しく領民は慈しみ、その政治は模範と讃えられたという。

大名になってからDQN的なのは、当時の超人気の舞妓を愛人にして、その愛人に大金をかけて、
京で大々的に歌舞伎興行させたくらいかw

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 16:09:23.25 ID:ZR0xlA4l
勝成がDQN四天王ならその前に信長が入ってると思う
それくらいのレベルじゃないかな?

978 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/04(土) 17:45:33.09 ID:xEbrWwuJ
確かに後半の勝成は立花宗茂並の名君になっているな。
お互い、正反対に見えて似たような生き方だし、意外と相性もいいな。

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 17:57:20.35 ID:UFkVnKj9
主君を次々と変えてるのに、高虎さんとは違って成長してるようには
思えない…

981 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/04(土) 18:05:52.40 ID:xEbrWwuJ
戦場以外では大分成長してるよ

雑談・しかし勝成って

2012年01月23日 22:00

784 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/20(金) 01:29:50.13 ID:tb3YdIQF
鬼武蔵って水野勝成に倒されたんじゃないのか?

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 06:35:57.93 ID:DxU+oHdd
>>784
しかし勝成ってノブヤボの評価とか低いな
三国志の徐晃くらいのポジションだな

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 07:56:11.71 ID:tMsrIsrg
徐晃ならかなりの名将じゃん

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 10:31:23.55 ID:A1Yd9z+Y
ノブヤボのゲームシステムで、勝成さんや可児さんやらの一騎武者を表現するのはキツイじゃね?
三国志はまだ一騎打ちっていうシステムがあるからいいけど

一騎武者って表現が適切かどうかは微妙だけどねorz

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 10:46:10.81 ID:Jl7bIYIK
表現の仕方としては天翔期の慶次みたいな兵科適正All Eで能力だけ高い、かねぇ。

ま、後期シナリオじゃなぜかSに化けてたが

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 11:55:03.92 ID:7ZXqXj9A
>>818
楽進くらいだろ

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 11:55:24.20 ID:YapjXU1r
徐晃は演義だと猪武者、正史だとわりと完璧超人と
扱いが違いすぎる

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 12:32:45.19 ID:N0cqPcbn
>>823
突然、孟達に額射られて死んだ時は
えええええってなった


825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 12:57:33.84 ID:vu6LukV/
まあ日本にも眉間撃たれて死んだ猛将もいるし

826 名前: 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 [sage] 投稿日:2012/01/23(月) 13:44:57.44 ID:EAKbR95A
元就にやられちゃった人か

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 15:20:14.41 ID:YdtnbgAD
四天王だっけ?
鮭「ちゃんと兜してなきゃダメだよね」

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 16:15:31.03 ID:DxU+oHdd
>>819
だから両方名将で評価が低いと思う

水野勝成・豪胆にして繊細、勇猛果敢な武将にして有能な為政者

2012年01月13日 21:59

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 02:38:35.26 ID:AY2+RVW6
これはいい話

水野勝成
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1300543875/

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 00:36:35.50 ID:hkBIrevH
http://www.bes.ne.jp/forum/bingoohrai/akiyama_yumi/017/index.html

水野勝成の武将としての功績は現在多くの方が著されているが、
古くは勝成の逸話をおさめた『宗休様御出話』という史料が残されている。
 ひとつには、家中の軍功のある者や、古くから仕えている家臣の病が重いと聞くと、
勝成はその家まで見舞いに行き、みずから薬を与えたという。
 また、家中の者は、安芸や京、大阪、伊勢へは御暇願を出さずとも、
老中へ届け出るだけで自由に遊覧できた。帰ると、勝成に土産を差しだし、世間話をした。
勝成はその者に、無事であったかとか、旅の様子など楽しく聞くのだが、
その際自分の側近衆も家中も差別なく待遇したという。
若い頃の自らの放浪を懐かしむような、温かい目線であったことだろう。
 ある藩士が事情があって、紀州徳川家に仕官し、紀州から照会があった折り、
勝成は「福山藩では望み通りの知行がやれなかった。しかし召し上げれば、役に立つ者である」
と往信した。他の藩に仕官する者にもそうであった。
武士に奉公構え(他の藩に仕官できないようにすること)は無理な仕置きである。
主将の道には慈悲に欠けてはならないと言っていたという。
自らが奉公構えを出され苦労した経験が、見事に活かされている。
 このような数々の逸話は、勝成がいかに家臣や領民にとって良き統率者であったかを語っている。
豪胆にして繊細、勇猛果敢な武将にして有能な為政者、
そしてその人間味あふれた人物像が浮き彫りになればなるほど、彼の虜になってしまう人は
現代においても多くいる。
 分断された南側に今も建つ賢忠寺には、勝成の甲冑や肖像画、頭髪、茶碗、砂時計など
多くの遺品が所蔵されている。
 水野勝成の功績や人柄と共に、広く公開されればと願う。





406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 03:38:40.89 ID:tpp8ttnJ
勝成が某やる夫の影響もあるがベジータにしか思えない

410 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/13(金) 11:38:54.06 ID:qarJKv0c
水野勝成と立花宗茂は真逆なイメージがあるけど相通じるとこが多いな。
戦国の世の中を生き残るには水野タイプか立花タイプが一番いいみたいだな。
とにかく中途半端はイカンな

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 11:53:59.86 ID:/3eBJAHo
氏真「だよねー」
豊国「そうそう」

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 14:27:51.70 ID:jtoSXHov
>>410
その二人は実力と運と人脈に恵まれて、たまたま生き残っただけで
戦国時代には無数の勝成・宗茂もどきの屍が転がってたと思う

麦と大雨と水野勝成

2012年01月11日 21:59

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/11(水) 18:01:22.95 ID:3hRTfHhi
天正12年(1584)、水野勝成は父の家臣を惨殺して出奔。
その後なんのかんのあって仙石秀久→豊臣秀吉に使えるが、秀吉のもとでまた刃傷事件を起こしたらしく
出奔。このとき激怒した秀吉から刺客を放たれたそうなので、よほどひどい事をしたのは間違いない。
まあともかくそんなこんなで勝成が畿内にも居られなくなり、西国を放浪していた頃の話である。

出奔したとはいえ嫡男である勝成を流石に放っておくわけにはいかなかったのか、水野家家臣
杉野数馬近藤弥之介は牢人を装って勝成の居場所を捜索、ようやく発見し、刈谷に帰るよう説得したが、勝成

「冗談ではない」

と断固拒否。二人は困り果てたが勝成を一人にするわけにもいかず、仕方がなく彼の後について
放浪の旅に従った。

と、そのうちに備後か備中のあたりで蓄えが尽き、杉野・近藤は勝成をお堂で休息させて、その間にその地の民家に
施しを貰いに行った。まさに乞食旅である。
時に初夏であったため、二人は麦の施しを受けた。彼らは一旦お道に戻り、渋紙の上にこれをおいて
乾燥させ、再び施しを受けるためその場を離れた。

ところが一天俄に曇り、大雨が降り注ぐ。勝成がふと気がつくと、お堂で乾かしてあった麦は
この雨で流され始めたではないか!


さて、雨があがる。
杉野と近藤はようやくお堂への帰路についた。
この時、杉野は近藤にいう

「さっきお堂に干しておいた麦だが、雨に流されてしまっただろうな。」
「ん?若様が取り入れてくださっているさ。」
「何を言うか!」

杉野が少々色を成して言った

「あの麦を取り入れるようでは、若様に将たる器量はない!もし取り入れているなら、その程度の器量の人間に
付き従い流浪していても意味が無いので、早速に刈谷に戻り忠重様に総報告しようぞ!
しかしあの麦を取り入れず捨て置かれていたのなら、これは大勇の器であり、その貪らない性格は
見上げたものであるといえよう。そのような人物であるなら実に、助け仕えるべきだ!」

二人がお堂に帰ってきた。これを見つけた勝成は大声で呼びかけた

「ふたりとも遅かったな!さっきにわかに大雨が降ってきて、おまけに大風まで吹いて麦をことごとく
流してしまったぞ!大風は横様から突入して敵を散らすよう、雨に打たれては飛び上がり押し流される有様、
まるで逃げる敵を追撃するようであった。それは合戦の攻防そのままで実に面白かったぞ!」

これを聞くと杉野・近藤はハッとして飛び下がり膝をただし

「なんとありがたい仰せでしょうか。先に自分たちは、若様が麦を取り入れるか否かを話しておりましたが、
このような賢慮はまさに大将の器量です。殿の出世開運は間違いないでしょう!」

と、感動して申し上げたという。


これとよく似た話が立花宗茂にもありますが、名君の逸話のテンプレとして存在したのでしょうか?
ともかくも水野勝成、麦が流れ吹き飛ばされるのを見ていた、というお話
(岡山の伝承「でんぐら堂ものがたり」より)




382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/11(水) 18:16:49.41 ID:yM8McyF/
大名でもちゃんと取り込んでそうな人はいるだろうな。利家とか

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/11(水) 18:51:20.71 ID:K+u9WCAs
家康もクロカンも絶対に取り込んでるわ

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/11(水) 18:53:33.67 ID:QmOoNs8Q
北条氏政なら、乾かさずにそのまま食べる

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/11(水) 18:54:52.86 ID:iqPjhPKj
>>383
さらに帰ってきた家臣に教訓めいたことのの一つも説教しそうだ

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/11(水) 20:29:58.69 ID:KTyPqdLH
黒田の若殿ならすわ敵か!と刃物振り回して家臣団に知恵のなさよ…大殿の思慮のかけらも…とされてくれる

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/11(水) 21:37:39.47 ID:Y1Ag0hTu
勝っちゃんは放浪して苦労してるんだから取り込まなきゃいかん気もするが。
おお、若様こんな気配りが出来る様になって…ってキャラじゃないですね、うん。

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/11(水) 22:00:04.22 ID:B6xEIrgn
施してくれた農民に悪いと思わんのか牢人共

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/11(水) 22:07:26.18 ID:Zz4Q1Rzr
左近将監殿がお話でわ・・

水野勝成の弟、水野忠胤

2011年12月10日 22:00

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/10(土) 00:14:26.40 ID:+b9WMFoa
これは悪い。オチ的にも。

> 87 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/12/09(金) 21:52:35.70 ID:Xw/UPtzD
> 水野勝成の弟
> 水野 忠胤
> 水野忠重の次男として生まれる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、
> 兄の水野勝成と共に東軍に与して美濃曽根の砦の守備や大垣城攻めで功績を挙げた。
> このため、三河国内で1万石を与えられた(与えられた年は恩栄録によると関ヶ原の
> 直後と思われる)。
> こうして大名として三河水野藩(藩庁所在地などは不詳とされる)を立藩する。
> その後、従五位下・市正に叙位・任官し、大番頭に任じられた
> (ただし、柳営補任には大番頭になったと記されていない)。
> 慶長14年(1609年)9月29日(徳川実紀では9月1日)、
> 遠江浜松藩主・松平忠頼を自宅に招いて茶会を開いていたが、
> 忠胤の与力である久米左平次と服部半八郎の両名が囲碁
> (もしくは武道)の勝敗をめぐって口論、そして刃傷事件にまで
> 及んでしまったのである。この争いを見て忠頼は両名の仲裁に入ったのだが、
> 逆にその仲裁に切れてしまった左平次が、よりにもよって忠頼を殺害してしまったのである。
> さらに徳川実紀では、忠胤が伏見城番を務めていたとき、配下の番士による悪行を取り締まれなかったこともあったという。
> これらの理由から、10月16日に忠胤は家康より切腹を命じられた。同時に三河水野藩も改易された。
> 子の水野勝信は正室との間に生まれ、兄の勝成に引き取られて養子となり、後に徳川忠長に仕えた。





322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/10(土) 01:01:14.90 ID:1TDr5i3J
最後の最後で吹いちまったじゃねーか

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/10(土) 01:23:20.63 ID:MLlvCnhk
ピンポイントに貧乏くじ引いてくなW

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/10(土) 03:18:09.40 ID:WbwlfvNm
Wikipediaの丸写しかよw



341 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/12/12(月) 00:13:47.34 ID:LVYOB98f
Wikipediaの丸写しだが勝成のもう1人の弟もかなりのもんだ

水野忠清(天正10年(1582年) - 正保4年5月28日(1647年6月30日))は、江戸時代前期の大名。
上野国小幡藩主、三河国刈谷藩主、三河国吉田藩主、信濃国松本藩初代藩主。沼津藩水野家初代。
水野宗家19代で三河刈谷を領した水野忠重の四男。備後福山藩初代藩主水野勝成の弟。正室は前田利家の娘。
子は水野忠次(長男、早世)、娘(京極高三正室)、娘(山内忠直正室)、水野忠職(次男)、娘(土方氏久正室)、
祖活(僧となる)、水野忠増(四男)、娘(有馬康純正室)、娘(菅沼定実正室)、水野忠顕(五男、水野忠貞養子)。
三河国刈谷に生まれる。慶長5年(1600年)、父が加賀井重望に殺された後、水野氏の家督は兄の勝成が継ぎ、
忠清は徳川秀忠の家臣として仕えることとなった。同7年(1602年)、上野小幡に1万石の所領を与えられて大名となり、
同年、従五位下に任官し隼人正を名乗った。同10年(1605年)には書院番頭に任ぜられ、また奏者番を兼ねた。
慶長19年(1614年)からの大坂の役では冬、夏の両陣とも参戦し、元和元年(1615年)の夏の陣では敵将・大野治房を破るという大功を挙げた。
この際青山忠俊と行賞をめぐって争い、謹慎を命じられたが、翌2年徳川家康死去の寸前に謹慎を解かれ、父忠重の過去の功績と大坂の役の軍功により、
三河刈谷に移封された。
寛永9年(1632年)に2万石を加えられて三河吉田4万石に移封され、
同19年1642年には信濃松本7万石に加増移封された。正保4年、江戸にて死去。享年66。
法号:真珠院郭誉全忠。墓所:東京都文京区小石川の伝通院。

水野勝成「武士には17の恥がある」

2011年11月13日 22:01

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/13(日) 07:24:53.09 ID:S/Aig44k
勝成といえば良いか悪いかわからないけど
この17の恥が気になる
ttp://homepage2.nifty.com/yagumo/fukuyamasiro.html
ttp://youm-youh.jugem.jp/?eid=582

子孫に「水野勝成遺書」をのこし自分の武士道を説いた。
勝成は「武士には17の恥がある」という。
1、主君の命でも受けるべきでない命令は断って去るべき、それをせず、主家に留まる事。
1、人の手柄をねたむ事。
1、自分の武力の程を知らず、ちょっとした強さを大分強いと勘違いして自慢すること。
1、味方が多い所では強気になり味方がいない所では弱気になる事。
1、心立ては如何なる大将軍にも恥ずべかざるように。

武士の勤務にだけはまじめ。
「勤め向きは半時(=1時間)早く出て一時遅く退去と心得て交代すべき事」
(『視聴草』)と戒めている。

本人的には自分でやっちゃった事を悔いてるのかもしれんが
あと残りの恥も気になるな




水野勝成の女歌舞伎公演

2011年11月12日 22:00

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/12(土) 12:07:02.86 ID:6m4o+4yY
水野勝成の女歌舞伎公演

慶長13年(1608)5月、三河刈谷城主・水野日向守勝成は、前年10月に京で身請けし国元に連れ帰った歌舞伎女の
出来島隼人を引き連れ、先月上洛した。
隼人の衣装や装いは殊の外煌びやかでかぶいていた。

勝成は内々、伏見の聚楽町で隼人による歌舞伎の公演を考えていたのだが、それはあまりよくないと
知人などからしきりに諫言をうけたためこれを止め、洛中において勧進法楽(公演)することにした。

この歌舞伎公演に見物の貴賎は門前市を成した。
出来島隼人が去年身請けされた時、勝成が亭主に支払ったのは銀子30貫目だったそうだが、今回の公演で
衣装その他に銀子70貫目かかったという。

京の町人たちは皆この歌舞伎公演を褒め称え、京の若者でこれを見物に行かなかったものは居なかったほどだそうだ。
(当代記)

と、派手な公演を成功させ天下に面目をなした良い話だが、実はこの時期、勝成は放浪時代に作った妻子
(後の正妻お登久と嫡男勝俊)を、慶長3年(1598)に出奔して以来、未だ備中成羽に残したままにしているのである。
実に10年間の放置。カラッと忘れていた可能性すらあるw(引き取るのは翌年)

妻子をほっといて愛人と派手に遊んでいた水野勝成の悪い話。




967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/12(土) 14:37:30.73 ID:qGMDS3Eb
女房と畳は新しい方が良いからな

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/12(土) 15:20:45.68 ID:FaZvTUE8
忠臣蔵版吉良「いや、畳は古くて構わん」

長久手合戦・水野勝成大暴れ

2011年11月09日 22:00

898 名前:1/2[sage] 投稿日:2011/11/08(火) 21:02:31.24 ID:d0ZyDstj
天正12年(1584)4月9日、水野藤十郎勝成は長久手の合戦のため小幡を出発した。
が、この頃勝成は眼病を患っていたため兜を着けていなかったのを、父の惣兵衛(水野忠重)が見つけ

「藤十郎!お前の兜は何のためにあるのだ!?今のような時こそ着けるべき兜をどういうつもりで
着けないのだ!?」
と、以ての外に叱りつけた。これに勝成、頭にきた!

「親父殿!あんたにそんなに恥をかかされた以上、もう兜は着けねえぞ!
俺の頭を取られるか、俺が一番首を取るか、今日の俺はそのどちらかだ!!」

そう叫ぶとすぐさま敵の方に向かって馬を駆けた!この馬鹿息子に忠重は水野家家臣、大田十助と言う者に
追いかけさせる。「若様それは軍令違反です!ここに留まってください!」しかし勝成、五月蝿いので追い返した。
すると今度は水野家の武者大将・水野喜右衛門が追いかけてきて、「若様どうか、達てお留まりください!」と
懇願したが、「もうすぐ鑓合わせが始まるというのに、どうして引き返せるものか!」とちっとも構わず
敵陣に向かって突撃した!

と、この道で勝成は、同じ徳川軍の米津梅干之助(康勝)に出会った。うめぼしのすけである。これもすごい名前だ。
それはともかく梅干之助が声をかけてきた
「おいおい藤十郎、早くに出てきたもんだなー」「お前もな」「どうだ?鑓場まで一緒に行かねえ?」「OK」
このように同道したが、梅干之助は鑓場の直前で鉄砲に足を打たれた

「畜生、このまま同道したかったんだけどさ、足の甲撃たれて立つことも出来ねえや。こいつは是非に及ばねえなあ」
これに勝成

「まあお前がこんなに早くここまで来た心掛けだけでも比類の無いもんだよ。こうなったらしょうがないから
さっさと退却しろ。」
そんな優しい言葉をかけ梅干之助からとっとと別れた。その直後!三好孫七郎(豊臣秀次)の家来、白井備後の部隊と
遭遇!「こちらは白井備後である!お主は何者か!?」「敵だぁ!」勝成は大喜びでこの部隊に一人で襲いかかり
備を突き崩し、白井の首を取り、一番鑓の高名をなした!

「こいつは家康公にお見せしなきゃ!」

勝成がランラン気分で戻り、本陣の山の下で家康の旗本に「御旗本の動き遅いぞ、何やってるの!急げ急げ!」と
煽っている所に、使番の内藤四郎左衛門正成と高木主水清秀に出会う。内藤と高木
「さてさて藤十郎、もう手柄をなしたのか!一番首の高名だ、早速殿にお目にかけられよ!」と家康の上覧に入れる。
家康もこれに「早々に手柄をいたし、高名をしたなあ」と御感に入った様子。


899 名前:2/2[sage] 投稿日:2011/11/08(火) 21:03:00.39 ID:d0ZyDstj
その後から、太田新左衛門、久野三郎左衛門家老本間重左衛門、同忠三郎、勝成の伯父筑紫忠兵衛、
山田平市郎、といった者たちが続々と首を持って家康の上覧に入れに来た。
家康はそれらの実検が終わると、ふと勝成の方を見て

「ところでお前…家来は?」「は?」「は?じゃない。お前の家来はどうした?」
「ああ、え~っと私はアイツら置いて先に戦場に出ちゃったもので、家来のことは解らんです。惣兵衛(父親)の所に
居るんじゃないでしょうかね?」

「お前という奴は…」家康も呆れながら「しょうがないやつだ。まあいい、わしの馬廻りに付いて参れ」と命ぜられ
「そういう事なら御馬について行きます!」と家康の後ろをひょこひょこしていると、井伊兵部(直政)に
ばったり合う。直政は勝成に「俺らこれから足軽部隊をあっちに出撃させるんだけど、藤十郎殿も付き合わないか?」
勝成もちろん「行くにきまってんだろ!」と、すぐさま井伊部隊に参加する。

井伊直政が指揮を取った部隊は見事であった。攻勢をかけてきた敵を追い返しただけでなく、さらにそれを
追い崩した。これは既に高名である。ここで勝成「いかん!このままではここの手柄を全部兵部に取られてしまう!」
そうはさせるかと猛ダッシュ!直政よりも15.6町(1.6~1.7キロ)も先に行き、敵に向かって乗り込んだ!
と、そこに黒母衣の武士発見!間違いなく名のある敵!そう判断した瞬間にはもう討ち殺していた。
首をとって兜の付いたままのそれを、その者が付けていた母衣で包み、首実検の場に持っていった。

それからまた戦場に戻って組み打ちをし首を取ったが、高木筑後守の弟の喜左衛門と、久永源兵衛はどこで見たのか
「藤十郎、さっきの組み打ち、かっこ良かったぞ!」と声をかけたそうだ。
この日勝成は、一番首を含めて首3つを取った。


それからずっと後年、勝成が江戸に下った時、梅干之助が「自分が長久手の一番首をした!」と話していると聞き、
勝成は梅干之助を呼んで

「お前は鑓場の前で怪我して引き退いたじゃないか!一番首を取ったのは俺だぞ!」
と言ってやると、梅干之助はしどろもどろになったそうだ。
水野勝成覚書)

長久手合戦における、水野勝成大暴れの模様である。




900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/08(火) 21:06:01.19 ID:YP66jFa2
阿波鳴門之介(小西行長時代の同僚)
梅干之助
もしかして、勝成って適当に考えた名前を語っているんじゃないよな

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/08(火) 21:22:14.75 ID:IxwMmU0l
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E6%B4%A5%E6%94%BF%E4%BF%A1

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/08(火) 21:23:52.23 ID:YP66jFa2
本当に梅干之助だったのか
じゃあ勝成は変わった名前の同僚とつるむタイプだったとか

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/08(火) 22:52:53.76 ID:DPfxa7Nh
自分と同じように戦場で前に突っ込む奴とつるむんだろうし、そういう奴らは目立つために変な名前つけがちなのかも

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/08(火) 23:54:09.35 ID:yzavzB7/
>>892
間違いない、あの派手な武者が一条信龍だ!
者共おおおお、討ち取れば褒美は欲しいままぞおおおおおおおおおお!!!

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/09(水) 23:10:36.96 ID:pz0GWdn1
>>897ー903
梅干之助
×うめぼしのすけ
○ほやのすけ

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/09(水) 23:17:12.09 ID:pz0GWdn1
あっゴメン、アンカー失敗しました
お詫びにソース↓、勝成の本にも「ほや」とふってありましたよ
http://www2.ocn.ne.jp/~nukunuku/MyPage/K0209C.HTM

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 00:45:37.20 ID:se+bujcI
何故梅干之助なんて付けられたんだろう
意識しなくても顎に梅干が出来ていたからだろうか
だとすれば家康がつけたのでは…

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 01:32:27.47 ID:rSR8q7ee
真っ先に家康が浮かんだ
名付ける時いつも直球だし