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細川忠興「おかしくてたまらぬ」

2013年09月04日 19:53

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/04(水) 04:27:47.17 ID:P8HCoiTH
恒例の細川忠興から忠利宛の書状ネタ。
 
  あの茶釜を(忠興弟の)興元が欲しがっているようだが、おかしくてたまらぬ。
  興元にあの良さがわかるはずがない。
  あの釜は貴方が思っている以上に良い物だ。
  他の者にやるなどと言わず、是非とも自分に譲って欲しい。
  興元には別の釜をやればいい。

忠興、興元兄弟和解後の元和期に書かれた書状だが、
利休高弟の自負心溢れるいかにも忠興らしいお手紙でした。




270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/04(水) 09:27:57.80 ID:yDSF2cya
本当に良い釜だったのか?ただの興元さんへの嫌がらせなのか?それが問題だ

細川忠興、フンドシの心得

2013年08月13日 19:57

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/12(月) 20:34:17.70 ID:sRHr9IkJ
細川三斎忠興が、立花宗茂の招きに応じ、一夕、共に会飲し、雑談も興に入る座で、
宗茂の家臣、伊藤某という者が、忠興にこんなことを質問した

「戦場において、往々に勇士と呼ばれた者が下帯を脱いだ醜状で、屍を晒していることがあります。
これはどうして、そのように成るのでしょうか?」

忠興答えて
「それは当然の事であり、特段不思議に考える程の事ではない。
総じて人の体というものは、血気充満している時に上帯も下帯も共に体に密着して
外れないようになっていても、勇士が戦いに斃れると、直ちに体はやせ細る。特に
刀剣の傷を追って斃れた者は、血液が一時に流出するため、たちまち身体が衰痩する。
それ故上帯はもちろん下帯も脱げ、見苦しい醜態を晒すことが多いのだ。

そうであるから、真の勇士はこのような状況を考え、下帯を肩から吊り下げて
落ちないように注意するのだ。

醜態を晒すのは、勇士と呼ばれるほどの者であっても、常に死ぬ覚悟がないから、
そういう注意もなく覚悟もないためなのだ。
これは、武士たるもの良く謹むべき事であるぞ。」

この言葉に、伊藤某はもちろん、宗茂も大いに感じ入ったとのことである。
(古雄逸談)

細川忠興の、フンドシの心得である。




876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/12(月) 20:36:23.91 ID:n2Ib811t
すると越中褌忠興考案説はやはり俗説にすぎないわけか

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/12(月) 20:43:37.45 ID:9yECAV+6
>総じて人の体というものは、血気充満している時に上帯も下帯も共に体に密着して
>外れないようになっていても、勇士が戦いに斃れると、直ちに体はやせ細る

いくら科学が発達していないからって、経験的にありえないって分かるだろ(´・ω・`)

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/13(火) 08:29:22.14 ID:EWgVWtBb
死んで筋肉が弛緩したら脱げたりし易そうな気はするけど、どうなんだろう?

俺はフンドシの死体をみたことがないから、経験的にはわからないなぁ

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/13(火) 08:53:36.29 ID:JFDt+KEn
痩せるかはわからんが失血死した遺体が妙に軽かったのは知人の葬儀で棺担いで感じた

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/13(火) 11:44:35.79 ID:mECXmptM
敵にやられた死体を味方の方まで引きずってくる時に脱げちゃうんだよ。
その結果ドラクロワの有名な絵「民衆を導く自由の女神」の倒れてる男みたいになる。

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/13(火) 13:38:16.89 ID:gF9vDsen
そっか
胸がはだけるのか

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/13(火) 21:47:57.39 ID:sbGLydIn
>>881
マテ。真ん中のオネエチャンじゃなくてその足元に倒れとるヤツのことやないかと。

血液だけで4~5リットルあってその半分から三分の一が失われると失血死、
その他にも体液流れちゃうだろうからサウナで2~3kg絞ったとき位はサイズ減るんかね?
+筋弛緩で緩んでもおかしくはないのかなー。褌使ったことないけど。あれどうなってんの?

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/14(水) 12:06:06.97 ID:hNPJCILw
>>884
下もすっぱだが胸もはだけとるで

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/14(水) 16:30:06.61 ID:9Eku+TQl
>>875
亀レスで申し訳ないが、その話は『細川三斎「パンツじゃないから」・いい話?』
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-996.html で紹介済みなんだけど、
>>875では伊藤某という立花宗茂の家臣となってるけど、上記リンクの中では
細川家の御用医師・伊藤三白と細川家の人間となってますね。

細川越中守国替之事

2013年07月10日 19:59

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/09(火) 20:43:35.15 ID:Sks87be+
細川越中守国替之事

いにしえより細川家を見ていけば、足利義詮公が早世され、跡継ぎの義満公が
幼く征夷大将軍に任じられたこの時に、細川武蔵守頼之朝臣が後見をし奉り、
それより細川家は代々、三管領四職に人材を輩出してきたのであるが、天文11年(1542)の春、
三好筑前守長慶が細川家に変わって天下の権を執り、細川晴元を捕えて芥川に押込めてより、
細川家は衰微して、永禄・元亀の頃には、細川兵部太輔藤孝は、微々たるありさまで、
山城国長岡に居住していた。

藤孝はこの頃、京都七人衆(稲屋妻豊後守、下津権内、岩成主税介、荻田亀之助、
細川兵部太輔藤孝、小泉某、鴨目某)と呼ばれた者達の一人であった。

嫡子の與一郎忠興は、明智日向守(光秀)の聟となり、明智の贔屓によって段々に立身し、
天正9年(1581)には丹後へ来たりて、翌年中に丹後一州、ことごとく手に入れ、
20余年の間、丹後の国主をされた、

慶長5年(1600)関ヶ原の一乱に莫大な軍功があったため、国替えを仰せ付けられ、
豊前、並びに豊後の杵築を与えられ、その年の冬、細川忠興は豊前の小倉に入部するため、
宮津の城を御出になった。

家の再興はこの宮津より起こり、また馴れ久しい国でも有ったため、忠興も
思い残すこと多く感じられたのであろう。犬の堂を過ぎると、天の橋立を
歌に詠まれた

 立ちわかれ 松になごりはおしけれど おもひきれとの天のはし立

(丹州三家物語)

細川忠興が、国替えのため丹後を出立するときの模様である。





幽斎忠興不和の事

2013年06月25日 19:57

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 20:09:44.41 ID:RYB1E3S1
慶長5年(1600)、この年の奥州会津の城主・長尾景勝討伐の時、
細川越中守忠興は徳川家康の味方として宮津より出陣された。
細川幽斎は隠居の身であったため田辺城に留守をされ、忠興のみが
景勝討伐に出た。

こうして細川忠興は、雑兵たちを含めて三千の人数にて6月11日、宮津城を出馬され、
御暇乞いを申すためとして、父幽斎の在る田辺城に立ち寄り、その夜は田辺に宿陣した。
幽斎は天守に登り、軍勢の行列を見物された。

さて、忠興は若狭を通って近江路へ出ようと、丹後・若狭の国境である吉坂まで
進んだのだが、若狭の熊川にはその頃関所が有り、しかもそれを、敦賀の城主である
大谷刑部少輔(吉継)が命じて、非常に堅固なものにしたため、そこを往来することは
容易くないとの情報を得た。

ここで忠興は
「若州より近江路へ出ようと考えていたが、存ずる仔細が有るので、丹波路を進むこととする。」
として吉坂から取り返し、丹波路を山家へ進んで、伏見へと出た

この事を幽斎は聞いて、激怒した
「形部少輔に何か謀があったとしても、忠興の通行を妨害するような理由はない!
この頃は世間物騒の時節であれば、とにかく関所まで進み、逆に形部少輔の様子を見届けて
通るべきだったのに、吉坂まで進んでいた陣を取って返して丹波路へ出るなど、これは
不覚悟の至である!

忠興がもし生き残り、帰陣してきたとしても、私はあいつと対面しない!」
そう、奥歯を噛み締めて怒った。

一方の忠興は、西軍の小野木重次らが田辺城を攻めた田辺城の戦いにおいて、
幽斎が勅命とは言いながら、いま少し耐えようともせず城を渡して京都に上ったことを、
大変不本意なことだと考えた。

これにより、父子の間には互いに隔心が出来、段々と不和になっていき、
その悪感情は次第につのり、ある時など父子それぞれの侍たちが、1日の間に
2度まで槍を合わせたことが在ったそうである。
(丹州三家物語)

幽斎忠興不和の事、というお話





937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 20:26:09.68 ID:pQ9LQrMi
そこはホラ、お玉様が間を取り持ってだね…あっ…

細川忠興、関ヶ原前夜

2013年05月26日 19:04

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/25(土) 20:25:30.11 ID:WefcJGVz
慶長5年9月14日、関ヶ原前夜の事である。

その未明に、細川忠興の軍勢は、陣屋の外から東軍の諸隊が陣替えを行なっている様子が見え、
これを忠興に報告した所、「どういう事かよく解らない」と述べた所、隼人左馬充殿が御前に上がり
「諸隊は色めき立っております」と報告した。

この時福島正則より、『急ぎこちらにお出で下さい』との遣いが到着し、忠興はそのまま出て行った。
残った家臣たちはこの事を玄蕃殿(忠興弟・細川興元)にも知らせ、そうして何れも陣屋の
小屋の前に出て忠興が帰るのを待った。

すると北の方より、馬に乗り「玄蕃!玄蕃!」と声高に呼びながら、忠興が帰ってきた。
そして小屋前まで乗り付けると、小屋前に居た人々はそのまま立っていた。
ここで忠興は玄蕃に、正則の陣でのことを語った

「太夫殿(正則)の陣所に乗り付けと、太夫殿は手で私を招いた。そこで『こんな時に騒いでは、
下々の気が違う物ですぞ!』と大声で言ったのだが、太夫殿が言われたのは

『吉川(広家)の所から黒田(長政)の所に申越した所によると、昨日は毛利は、東軍の
お味方をすると言ったのであるが、今夜になって治部少輔(三成)が大垣から関ヶ原へと廻り、
色々と仕掛けたため、昨日の状態ならお味方できたのだが、今の状況では、敵対はしないまでも、
御見方も出来ない、』

と言うことであった。」

そして忠興は

「話はこれで済んだ。仕掛けてきた合戦は、ただ受け取るのみである!
急ぎ小屋の前に軍勢を集結させよ!」

そう玄蕃に命じ、また先手の軍勢も、あらかじめ垂井の宿の方に進出させていたため、
忠興はそこから戻らせ、軍勢を伊吹山に続く山際まで移動させ、また黒田長政の備に乗り付けられ、
合戦が始まるまでは、左馬殿(加藤嘉明)、出雲殿(金森可重)、黒田殿(長政)、そして
細川忠興が一所にて、敵味方の状況を観察したとの事である。
細川忠興軍功記)





細川忠興軍功記より、七将襲撃事件の模様

2013年05月23日 19:50

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/22(水) 21:18:37.37 ID:YXi0xOw8
慶長4年(1599)閏3月3日、大納言・前田利家が死去すると、これまでの政治的混乱は石田治部少輔三成の
せいだと、反三成派の武将たちが決起し彼を襲撃する、いわゆる「七将襲撃事件」が起こる。

この時三成は大阪にあったが、襲撃を避け宇喜多秀家の屋敷に逃げ込んだ。
この宇喜多屋敷は前田利長の屋敷の隣であったため、利長の屋敷に七将は詰めかけ攻め懸る準備を進めた。
三成はこれに気付くと、女乗物で密かに宇喜多屋敷を出、摂津から京に向かい、伏見の自分の屋敷に
入り、ここに立て籠った。この三成の屋敷は伏見城の西の丸近くにあり、その上城同然の要害で
あったため、七将は思うように手が出せず、ためらいが広がった。

しかも三成は、今度は自身の手勢を手分けさせて、逆に伏見の七将の屋敷に襲撃をかける姿勢を見せたため、
七将は銘々に、自身の屋敷の防御を固めた。

この時、細川忠興の伏見屋敷は低地に有ったため、内側より堀に詰め橋をかけて、寄せ手が来るのを
待ち構えていた。すると加藤清正より使いが来て、

『あなたの御屋敷は防衛に向かない低地にあります。
しかし京橋は要害の良い地であるので、あなたが京橋に立て籠って頂ければ、あのあたりは
私と黒田殿、そして細川殿の3人で固めることと成り、これならばどれほどの軍勢で
攻め懸けられてもビクともしません。急ぎ京橋に立て籠って下さい。』
そう伝えてきた。しかし忠興は

「三成の軍勢が仕掛けて来ると言われていますが、私はまだ状況も確認していません。
状況を確認した上で、ここで我々が戦うのは無理だと判断される時は、そちらに後退いたします。」
との返事をした。

さて、この様に忠興の屋敷に三成の手の者が襲撃をかけると沙汰される中、この忠興の屋敷の
裏方は、森忠政の屋敷であったが、忠政は忠興を屋敷に訪ね

「私とあなたは、信長様の時代からこの方、2代にわたる朋輩であります。その上、屋敷も裏合いであり、
深い縁があります。ですのでどうか、お互いに相談し合い、一緒に戦いましょう。」

そう協力を申し出、森家の人数で細川屋敷の周りを固めさせた。
さらに忠興に親しい金森和泉守殿、平野遠江殿、氏家志摩殿、津田興庵といった人々も
駆けつけたが、細川屋敷が狭く収容出来なかったらめ、忠政が自分の屋敷に詰めさせた。
これは隼人左馬之充が後に語ったことである。

このような中、徳川家康が事態の収集に乗り出し
「治部少輔が政治に関わっているため、あなた方はそのようにお腹立ちになっている。
彼を佐和山に逼塞させよう。これで腹立ちを収めて貰いたい。」

と七将に伝えると、
「治部少はお為悪しき人物です!」
とあちらこちらから声が上がったものの、最終的には「内府公の御分別次第」と纏まり、
こうして三成は佐和山に引退した。

これによって、大阪伏見の情勢も静まったのである。
細川忠興軍功記)

あの七将襲撃事件で、実は三成の反撃計画が有り、しかもそれへの対応のため攻めているはずの
七将の方がむしろ防衛的になっていたという、興味深い内容の記された記録である。





676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/22(水) 21:22:36.60 ID:xVQ8I8TP
伏見の自分の屋敷、てはっきり書かれてるのになぜ家康のもとに逃げた
と誤解されていたんだろ

しかし、森忠政と忠興
>「私とあなたは、信長様の時代からこの方、2代にわたる朋輩であります。その上、屋敷も裏合いであり、
>深い縁があります。ですのでどうか、お互いに相談し合い、一緒に戦いましょう。」
もう一個深い縁があるようだが、このスレ的に

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/22(水) 21:29:07.97 ID:gnwbBSSy
他にも結構忠興と忠政が絡む逸話多かったような、仲いいのかね

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/22(水) 22:51:29.68 ID:ZysHbaov
>>676
関原軍記大成あたりでさえ、伏見城内の自邸に立てこもったとあるから
近年の小説とかかも知れんね。

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 00:41:35.37 ID:so1pz6EK
どこかで「仮にも大名やってる連中が嫌いなだけで軍勢率いて人間一人を襲撃するわけないだろ」
ってのと「嫌いってだけで襲撃しかねないのが江戸初期以前の怖さだろ」って話があってむむむとなった
個人的には某スレの清正則の政権参入策ってのが面白いと思った。お話しとしてはだがな!

細川忠興、家康・利家の講和を成立させる

2013年05月20日 19:51

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 19:29:47.82 ID:TsEqvZW6
豊臣秀吉の死後、石田治部少輔(三成)は大納言・前田利家に、
「家康は早くも専横を行い、評議の場にも出て来ません。このままにしておいては、今後秀頼様の
御為に成りません。今のうちに討ち果たすべきです!」
と、様々に語り、利家もこれを尤もだと考え、大阪から家康の居る伏見に攻め上がろうと考えた。

三成の考えは、
「家康の伏見の屋敷は、低い土地にあります。向かいの高台に宇喜多屋敷がありますので、ここから
火を放って焼きたてれば、下々騒ぎ出し表に出てくるでしょう。ここで我らは宇喜多屋敷から
出撃し討ち取り、裏から出るようならこちらも味方の者達によって討ち取らせます。
こうして家康の屋敷跡は、我らの下屋敷といたしましょう。
只今、佐和山より4千人の人の人数を召し寄せています。この作戦、難しいことでは有りません。」

さて、この事を聞いた、利家の嫡男・肥前守利長はこれを細川忠興に話した。
「治部少輔はこのように言っているが、あなたはどうお考えなさるか?」
忠興は答えた
「治部少の企てに乗ってはいけません。」

「それはどういうことか!?どうしてそのようにお考えに成るのか!?」
利長は顔色を変えて聞き寄った。これに忠興

「あなたは私の縁者でもあり、一大事でもあるので、私の考えをはっきりとお伝えしないと、
後で後悔するでしょうからここで言いますが、今回、内府との関係が決裂するのも保たれるのも、
偏に、あなた方父子のお考え次第です。
仮に決裂ということになれば、私がそれから逃げたいと思っても、人が逃げさせてくれないでしょうし、
あなたが逃げたいと思っていても、やはり周りが逃げさせてくれません。私たちは同じ立場に有るとお心得下さい。

私が理解している所では、石田治部少の奴がこの日本において恐れているのは、内府公(家康)と
大納言殿(利家)の両名です。そのうち大納言殿は、かねてから重い病であり、大納言殿が死去成された後は
治部少は自分こそが主人になろうと、色々と策動しているのです。

今の時点ではまだ、それは難しいことです。しかし大納言殿が亡くなった後は、貴殿は今の十分の一も
人を抱えられなく成るでしょう。

よくよくお考え下さい。あなたは内府公を主人としますか?それとも治部少を主人としますか!?
私は治部少を自分の主人にするような事は、絶対にできない!(私ハ治部少主に用申儀、不罷成候)

これを聞いた利長は、一々至極尤もな事だと思い、忠興に同意した。
「では大納言殿に異見し、説得なされるべきです」と忠興が進めると、利長は
「いやそれが、あなたも御存知のように私は口下手でして、なかなか父上を説得できるとは
思えません。あなたもどうか一緒に来てくれないだろうか?」

そして利家の居室に二人で向かい、忠興は次の間に待たせ、先ず利長一人が部屋に入り、利家に
異見を述べた。

利家は病のため床に伏せていたのだが、利長の話を聞くとムクリと起き上がり、畳をバンバンと
叩きながら利長に対し激しい罵声を浴びせた。

利長は慌てて「わ、わたしは口下手ですので、父上が納得できるように話すことができません!
ここに越中守殿(忠興)を同道してまいりましたので、彼から聞いて下さい。
越中守殿、お入りを!」

こうして忠興は利家の前に出て、それまでの見解を説明し、また家康を滅ぼすのが困難なことを
語ると、利家の方も、家康が自分たちとの協調体制に戻るなら、戦うことはない、との認識を示した。
そこで直ぐ様家康に連絡を取り、家康と利家の間に和平を取り付けたのである。
細川忠興軍功記)

細川忠興、家康・利家の講和を成立させる、というお話。しかし本当に三成のことが嫌いだったんだな…




647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 22:58:48.53 ID:RVFqjO8Z
むしろこの話で利家死後の三成襲撃の理由がわかりやすくなった。
ドラマでよくある「とにかくムカつくから殺す」みたいな曖昧な理由じゃなくて
「こんな物騒な計画立ててた奴は今のうちに排除しとかないとヤバい」
って危険を感じたから先手を打ったと考えた方がしっくりくる。

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 00:16:56.71 ID:8yt9yU0v
利長の悪い話でもあるよね

摂政関白秀次公、御身体果て申す次第

2013年05月18日 19:55

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 01:36:51.64 ID:1C5sJy7C
摂政関白秀次公、御身体果て申す次第

前野但馬守(長康)、木村常陸、石河敦賀、白井備後、明石左近、羽根長門守と言った人々は、
豊臣秀次に対して、『公の仰せに成ることは、何事についても異議を申し上げない』という誓約を書き付けた。

ところが、この事を石田治部少輔(三成)が聞きつけ、太閤(秀吉)に申し上げた。

このため秀吉は秀次に、事を糾す遣いを送った。秀次はこれに大いに驚き、聚楽を出て伏見へと下がり、
色々と弁明に勤めたが、秀吉は納得せず、そのため秀次は終に高野山へと入った。
しかし高野山の秀次のもとに、福島左衛門大夫(正則)が検使として派遣され、秀次はここで切腹をされた。

この時、誓約の書付をした者達も残らず切腹を仰せ付けられた。
中でも前野但馬守(長康)父子は中村式部少輔(一氏)預かりとなっていたが、駿河府中において、
但馬守嫡男出雲守(景定)は切腹を成された。

細川忠興はこの誓約の書付を行なっていなかったものの、日頃から秀次と特別に親しい仲であった上に、
黄金百枚の拝領を受け、さらに前野但馬守の嫡男出雲守は、忠興の婿であった事から

「縁者である以上、一味となっていたはずです」

と、三成が秀吉に申し立てていた。

この事態に忠興は、この先どうなるかわからないと、米田助右衛門に対し、伏見からの報告次第で、
聚楽の細川屋敷に急行し、屋敷にある忠興の妻(ガラシア)と子供たちを殺し、屋敷に火をかけ、
助右衛門自身は切腹するようにと命じた。

忠興は、黄金百枚の件は、秀次から拝領したものではなく、薬院法印の肝煎で秀次から借用したものであると
秀吉に対し、米田助右衛門を遣わして弁明した。
この時、秀吉が言い出したことは

「先年の、明智謀反の時、お前たちは信長公の恩を思い、明智に味方しなかった。
今回秀次に一味したが、あの時の忠節により、赦免してやろう。」

この言葉が徳善院から忠興に仰せ渡され、ここで初めて忠興は安堵したという。
細川忠興軍功記)

秀次事件の時の、細川忠興の模様である。




626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 12:23:43.39 ID:VqmxySfn
三成ろくなことしねえな

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 16:28:03.58 ID:XFbh7/80
これは三成悪く無いだろ

細川忠興、前田利家を説得する

2013年04月29日 19:51

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 12:57:07.98 ID:RWWE4Uuz
豊臣秀吉の死後、対立していた徳川家康前田利家が急遽和睦したのは、以下の様な切っ掛けが有った。

両者の対立中、利家の傍にあった細川忠興は、彼の跡継ぎである肥前守利長についてこの様に語った

「仮に奉行の者共が内談して、家康公を滅ぼすような事になれば、大納言殿(利家)は老病であります。
遠からず卒去なされるでしょう。そうなった後は奉行たちが肥前守殿を追い倒すのに、手間はいりません。」

そのように将来を見通し、

「そういう状況であると私は判断しますが、ここで家康公と筑前守殿が入魂な関係になれば、これは将来的に肥前守殿の
おためにとっても良い結果となるのではありませんか?」

このように異見したところ、前田利家もこれに納得し、さらに加藤主計頭清正、浅野左京大夫幸長を加えて
相談した上、家康との和平を行うとの決断に至った。

この事は後になって知られたことである。
(玉露叢)

細川忠興前田利家を説得する、というお話




152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 13:04:43.06 ID:GIZpt2zd
対立はしてても家康なら奉行と違って勝者になった後も追い倒したりしないと信頼してたってことか

細川忠興お気に入り!「大蒜味噌」

2013年04月02日 19:54

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/02(火) 13:06:03.88 ID:BkAuIAbb
細川忠興お気に入り!  「大蒜味噌」

(福岡県)糸島市井田の教法寺の前住職(個人名の為、伏字)が、同寺に伝わる
戦国武将、細川忠興の古文書にある「大蒜味噌(にんにくみそ)」を手作りし、評判となっている。
(個人名)さんは「寺の歴史を生かし、糸島の豊かな食材をもり立てる手助けになれば」と話している。

2010/10/06 10:56 【西日本新聞】  ( )内は、転載者加工分

記事が古くて全文検索出来ないので、詳しいサイト様の記述をお借りして簡約すると、

糸島市高祖城(たかすじょう)は、旧・筑前国(現在の福岡県糸島市高祖)の城。
天正15年(1588年)豊臣秀吉の九州征伐により、城主原田氏は所領没収され
その城主が出家して入寺したのが、ここ教法寺だそう。

古文書は「頂いた手作りにんにく味噌一樽いただき喜んでいます」忠興の署名捺印(宛先不明)
この印章には「忠興の名前がアルファベットで記述」されている珍しいもの(某サイト様の画像より)

檀家さんが手作りしたり、サイト上でレシピも公開されており、食すと大変美味とのこと

詳しいサイト様は『 細川忠興 大蒜味噌 』で検索すると出てきます。

過去スレでも鮎の焼き加減や食餌養生にこだわりを持つ、三斎様も激賞の大蒜味噌
是非、スレの皆様も「手作り」してご賞味下さい。……味に嵌って「一樽分」作ってみる?




899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/02(火) 13:18:14.35 ID:Pj4a4frD
Googleさんで 細川忠興 と入れると、次の検索候補がヤンデレなのは如何なものだろう。

902 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/04/02(火) 22:20:17.16 ID:jkmiJKE5
>>898
何で細川忠興なんだろ?
その辺は黒田長政の領地じゃないのか?

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/03(水) 01:36:19.41 ID:AxTu9FQk
朝鮮出兵の頃の話じゃないの?

904 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/04/03(水) 08:28:49.86 ID:KZsY2iGY
朝鮮だと丹後じゃなかったっけ?

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/03(水) 08:39:04.12 ID:gz7nEPN0
当時を知る人「有名な大名なら誰でも良かった」

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/03(水) 11:42:11.04 ID:s8R7JhKx
名護屋城へ行く途中に寄ったとか

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/03(水) 14:15:02.80 ID:6n2AhutK
高祖城主、原田信種って所領(ほぼ)没収の後肥後に飛ばされてんだから出家はともかく入寺はアレなんじゃ…

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/03(水) 14:22:59.86 ID:eV8owq4Y
元のサイト見ると島津征伐or朝鮮征伐で縁があったんじゃないかって書いてるね

もっと大事な物を

2013年03月23日 20:05

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 23:46:52.35 ID:QyjunG1i
前スレ>>922の続き 

秀次からの借金を返納し、閉門を解かれた細川忠興は伏見城へ登城した。
奥へ通られよと言われ、列座の中を通って行ったが、
皆、忠興はこれから大丈夫だろうかと心配している様子であった。

秀吉は奥の間で寝ていたが、
忠興が来ると三成が訴えの証拠とした連判状を取り出し、

秀吉「ここにあるのはその方の判に相違ないか?」

忠興「いかにもよく似てはおりますが、筆格が違います」

秀吉「そうか・・・近う寄れ」

と言って忠興の懐に手を入れ探ったが、懐剣も持っていなかったので

秀吉「なるほどそうであろう。大倒れ者に一味し、このような連判状があると言っても、
総じて十人中五人や三人は謀判(※偽の判)ということはあるものだ。
忠興は先年明智の謀反にさえ与しなかったのだから、この判は偽りだろう。
例え一味であったとしても以前の忠義に対して許す。
さぞこの度は気詰りであったろう、茶の湯をして気を晴らすがよい」

と『有明』という茶入を与え、忠興は畏まりお礼を申し上げた。
その時、御側衆の者らが全く結構な物を拝領されたものよと言うと、

秀吉「いや、それよりもっと大事な物をやったぞ」

忠興「・・・? ・・・そういえば、前にも時雨の茶壺を頂きましたな」

秀吉「いやそれではない。最も大事な命をやったのだ」

忠興が退出すると、御次の間の人々は命さえ危うかったのに名物を御拝領とは、
冥加に叶ったことだと申したものだ。

後に有明の茶入は普請の時に金が足りないので
黄金50枚(30枚とも)の質に入れてしまい、その当時は麦飯ばかり食っていたという。

(綿考輯録)

参考
松井康之の諫言


15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/22(金) 23:51:02.33 ID:up/4tzRQ
有明の茶入って取り戻そうとした例のブツだなw

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 00:28:49.75 ID:r6ZOaW2f
ある意味オヤクソクの細川貧乏話でオチ

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 00:32:05.65 ID:A5b12PEl
大名が麦飯なら家臣とか領民はどうなってるんだよ((;゜Д゜)ガクガクブルブル

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 00:39:05.33 ID:dKYcbkq+
>>17
殿がまた手打ちにしたぞー!
ありがてえありがてえ、これで鍋が出来るだ

19 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/03/23(土) 01:32:25.25 ID:90sbCDzh
>>17
そりゃ普通に上の立場が我慢する時もあるだろ…

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 12:32:47.97 ID:oZpfXNTr
お米がなければお餅を食べればいいじゃない

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 16:26:21.25 ID:KPrdK7Rt
>>14
この時代に黄金って言った場合、慶長小判かな慶長大判かな?
50枚だと小判の方なら1千万くらい、大判なら1億くらいの価値かな

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 17:33:48.18 ID:028GQTpY
>>22
小判なら両で表記されるし枚なら大判でしょ。

現代の金銭価値への換算は意味が薄いかな。物品へ換算するか、
労働力換算するかなどで桁違いの値になっちゃうし

細川忠興の仁政

2013年03月10日 19:10

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/09(土) 21:12:29.35 ID:4OYzBoeR
細川忠興には父幽斎にも勝れた行状が多かった。後年、豊前小倉の城主だった時、
領分に旱魃があって一向に作毛なく、百姓たちは餓死に及ばんとした。

その旨が役人たちより訴えられ、その時の飢渇のみならず、来年の手当も心許なし
と聞いた忠興は大いに心痛して「普通のやり方ではいけない」と思い、
父幽斎より相伝の名物の茶器を残らず近臣に持たせて、

「この品を質物に入れて金子を借用し、急変を凌ぎたいところだが、そのくらいでは
不十分だろうから、よき相手に残らず売り払え」と命じ、京都へ遣わした。

これらの品を多くの人が欲しがったが、名高い品々で天下の名器ゆえに後難を恐れた。
そこで表向に買い求めようと所司代の板倉へ伺ったところ、周防守は、

「その茶器の由緒がいずれにせよ、只今格式のある細川家が持ち主として売り払われるのであれば
別条のないことだ。所望の者は勝手次第に買い取るべし。代金の事が済んだ上は一覧するつもりだ。
名前を聞き及ぶばかりで、今まで見ることもなかったものだから、幸の事だ」との見解を示した。

金持ちたちは、それならば何も気遣うこともない、と争って品々を求めた。そうして得た金子を
早々に大坂に持参し、米や麦を始めとして食料になる品々を金子の限り買い揃えて船で小倉に運び、
残らず領中に分け与えたので、大勢の者たちが飢えから救われたという。

この事が諸国で取り沙汰され、誠に国郡の主たる人の手本なり、と忠興は賞美された。
それゆえ、その仁政の余慶によって、加藤肥後守の断絶した跡をこの人が給わった。

――『良将言行録』




698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/09(土) 21:52:22.26 ID:8+NklLJ6
>>697
この話しのバージョン違いか

細川忠興の領民救済と板倉勝重・いい話?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-659.html

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/10(日) 01:31:48.65 ID:T/3iRVbA
三斎様は教養高いし、武将としても一流
為政者としても文句のつけようもない完璧超人だよなー

 嫁 が 絡 ま な け れ ば

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/10(日) 02:06:44.67 ID:u9uTm1cb
あと親父と弟と長男次男もな

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/10(日) 02:23:07.40 ID:Ytv8+Bf0
>700
身内ばっかじゃねーか

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/10(日) 02:38:15.68 ID:NMDWlHhb
三斎さまは妹もパンチ効いてるから困る
憎い兄さんざっくり事件


三度の遺恨

2013年03月05日 19:51

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 20:04:56.17 ID:JtyqrRGR
大阪冬の陣が始まろうとする時、徳川家康より、黒田右衛門佐(忠之)には島津押さえのため
在国をし、この他筑後柳川城主・田中筑後守(吉政)、豊前小倉城主・細川三斎、加藤肥後守忠広の
計4人は九州に残り、大阪で戦闘が始まれば、各々が島津を誘い、田中と黒田が先に出発し、
中に島津を行かせ、後ろから長岡内記(細川忠利)、加藤が後払いをして上洛するように、との
命が下った。

ところがその所に、細川越中守三斎から、押して大阪に着陣したいとの要望が提出された。
その内容には

『私は秀頼に対して、3度まで遺恨を持っているのです!
そのため前々から、今のような事態が起これば将軍家のお供をつかまつり
ご奉公申し上げたいと思っていた所、このような好機が訪れました。
ここは押して、罷り上がりたいと思います!
そのため、軍勢は国元に残し、私はただ7騎だけを召し連れます。』

これを見た家康は尤もな事だと思い、「将軍の秀忠はまだ若輩であり、本多佐渡守(正信)の
組に入り、旗本にあって補佐してほしい」と仰せ出なされたとのことである。
(村越道伴物語留書)

これによると三斎様にはよりによって豊臣秀頼に遺恨が、しかも3つもあったとのこと。
一体どんな遺恨なのか、秀頼は何をして三斎様を怒らせたのか、内容が非常に気になる、そんな逸話である。




817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 20:31:30.33 ID:KWkIqVzj
遺恨は建前で戦いに飢えてただけかも

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 20:38:03.16 ID:xal1JMkw
①秀頼の父親のラスボスが利休を切腹させた事

②秀頼の父親のラスボスの家来の三成がお玉を自害させた事

③秀頼の父親のラスボスの軍師の息子がムカツク

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 20:47:44.42 ID:tllSGyrA
秀次のことも絡んでそうだな

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 22:34:21.55 ID:GTMLJwHY
秀頼「全部しらんがな」

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/05(火) 07:29:57.24 ID:D5EsEx4u
親の因果が子に行く悪い話だな。
豊臣といい武田といい子供もあほじゃないだけに気の毒

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/05(火) 10:36:18.98 ID:4WdYuiZL
>818
もっと具体的に挙げてったら某19ヶ条の折檻状みたいになりそうだな。w

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/05(火) 11:03:44.77 ID:I7biCgT7
>>818
どう考えても②が全てで3つの遺恨なんて取って付けたような気がする。

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/05(火) 11:08:15.22 ID:FlIt+4OE
長男忠隆廃嫡の経緯とかから察するに、どうせ難癖なんだろうと思う

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/05(火) 11:28:00.51 ID:o+bA4p+T
遺恨のうち秀頼の名前を使ったものだと・・・
・ガラシャを自害に追い込んだ
・丹後に兵を差し向けた
・大友吉統に杵築城を渡す朱印状を出した

それ以降は無いよね? 多分。

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/05(火) 13:01:46.98 ID:FUC88L43
>>823
>>825
その辺は関ヶ原で晴らしたでしょうに

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/05(火) 13:12:15.12 ID:o+bA4p+T
関ヶ原当時に数えで八つの子供だし、あの時点で遺恨があるとは思えんけど
その後は接点がほとんど無いからなぁ。

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/05(火) 13:15:02.56 ID:tssyF7h7
実は特に遺恨は無くて
単にヒャッハーしたかっただけじゃね?
この人武闘派だし

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/05(火) 13:20:34.70 ID:DxhmMoME
まぁ、アレだ「この間の遺恨、覚えたるか」的な何かで

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/05(火) 15:47:02.76 ID:g8S3FBo3
もし稲富祐直を捕まえたらどういう方法で殺すのか
気になる

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/05(火) 17:58:17.69 ID:vkryKHfZ
>>830
あのホラーな蝋燭の逸話の発展系かも知れん。
垂らす、燃やすetc.

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/05(火) 18:02:31.85 ID:rYcjJfQJ
稲富自身が調合した花火の火薬とともに「たまやー」
いわゆるパノラマ島

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/05(火) 19:22:35.98 ID:mLcDgo1B
やる夫によると
井伊直政の仲介により役目失敗の罪を問われることなく細川家へ帰参がかなうことになった
とあるから祐直に万が一のことがあったら直政が黙ってないんじゃないか
それこそこの逸話もあるしな・・・
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3993.html

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/05(火) 20:09:53.16 ID:R912+cQE
>>832
たまさんが亡くなってるだけに、その掛け声は死亡フラグだ。

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/05(火) 22:11:46.83 ID:Y1RKo5Mw
たまや、とは、たまの御霊屋のことだったのだ

木綿足袋は

2013年03月05日 19:50

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/05(火) 18:29:23.80 ID:ZLdiNGRd
木綿足袋は今の製法のようなものは、長岡山斎の母が初めて作った。
山斎の茶の会に出られる時、足が冷えるということではかれたのだとか。

――『老人雑話』




637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/05(火) 18:32:27.98 ID:pKLULJFP
長岡山斎って、三歳さんのことなんかね?

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/05(火) 18:50:55.22 ID:9mq18G3e
>>637
細川忠興の事だね

>木綿の足袋は、着物を着る時の必需品。昔、長岡三斎(細川忠興 )の母が
>茶室で足が冷えないようにと作ったのが始まりといわれる

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/05(火) 18:59:56.63 ID:DxhmMoME
三斎様デザインの越中褌にジャコウさんデザインの足袋がHosokawa Style

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/05(火) 20:08:44.66 ID:R912+cQE
>>637
山菜さんかも


かえせと言ってはいけないのだ

2013年02月19日 19:53

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 00:17:49.36 ID:j1OudHiP
度々の功のある人だった長岡玄蕃(細川興元)はこう言ったという。

「私は関ヶ原の時、引いて退く馬武者を見て『かえせ!』と言ったのだが、
その武者はすぐに立ち帰って来て、私は組みしかれた。

あわや首を取られるという時に、郎等の一人が来て武者を引きはがし私に首を取らせた。
危ない目にあった。足を乱さずに引く武者には、かえせと言ってはいけないのだ」

――『老人雑話』




656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 00:21:36.29 ID:j2wQy1hN
情けない話のようだけど、教訓にしてるからイイ話かもな

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 00:33:46.89 ID:Y9dVhO/Q
「もう二度とあんな真似はしないよ」

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 00:45:02.40 ID:e6ubEhM2
有楽「知り合いに、助命のお願いしてやるとか言ってはいけないのだ」

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 13:20:31.65 ID:0g8ybFHf
帰師には遏むることなかれって孫子にあるじゃないですかやだー

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 16:01:12.22 ID:vgNhBVPG
クマ「足を乱さずに」
宗麟「撤退する島津を」
センゴク「深追いしてはいけない 」

四天王、信親、存保「…(-_-;)」

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 16:04:17.26 ID:5SQiINAA
一人だけ落ち着いてて目だってたからつい声かけ事案を起こしてしまったのかな

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 17:53:06.68 ID:wTlf7E0P
>>660
リアルさを損なわないために、釣りの餌には何も教えないと言うブラックな説もあったなぁ

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 22:07:10.32 ID:Dj7pfXN7
>>660
大友の場合はそーりんじゃなくて田原さんやで。

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 03:33:34.66 ID:oinhnwMU
>>660
井伊直政、松平忠吉「足を乱していても深追いは危険」


名香初音由来

2012年12月09日 19:02

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/08(土) 20:04:18.65 ID:GbC7Nc8l
名香初音由来

細川三斎は武に優れ、また歌道を嗜み、父幽斎の風流に劣らず、茶道にも心を寄せて、
風流を愛する心優しい大将であった。(ホントにこう書いてある)
三斎は長崎表に異国船が入港すると聞くと、その地へ家来を派遣して珍しい品物を求めさせた。

ある年、興津弥五左衛門と言う侍に相役を一人つけて、異国船の珍品を買うため使いにやった。
この度は珍しい伽羅(香木)の大木が渡ってきたが、元木と末木の2つがあった。
丁度その折、仙台の伊達政宗からも、唐物を買うため役人が来ていたが、同じ伽羅の元木を競り合って
互いに値段をつけて争った。

興津の相役はこの状況を見て、このままでは値段がひどく高値になるから、同じ木のことだし
末木を買っていこう、と言い出した。だが興津は「立派な元木の方を殿は喜ばれるであろうから、
是非にもこれを買うのだ!」と言いはって口論となり、カッとなった興津は、ついに相役を
斬ってしまった。そして思った通りに元木の方を買い取って隈本に帰り、その経緯を述べて
切腹を願い出た。

三斎はこれを聞いて、自分への奉公のために相手を切ったのだから切腹を剃る必要は無いと言い、
相役の者の子供を呼び出して、決して興津を父の仇と恨んではならないとよく言い聞かせ、
自分の前で、その子と興津に盃を交わさせた。そのため、興津はその後も無事に務めに
励むことが出来た。

その後、三斎は他界した。やがて万治・寛文年間の頃、一周忌の折、興津弥五左衛門は山城の
船岡山の西麓で潔く殉死を遂げた。
大徳寺の清岩和尚は引導を渡し、手厚く葬ったとのことである。
そして興津が持ち帰った伽羅の木は類ない名香で、三斎は事に秘蔵せられ、
銘を初音と付けられた、と伝えられる。
(淇蝶庵翁艸)




706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/08(土) 20:19:41.08 ID:hhcMNr12
競り勝たないと歌仙入りしちゃうからなあ

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/08(土) 21:55:40.75 ID:QRCWIm9g
斬り殺した位で恨んぢゃダメだよね

…と、心優しい三斎様は思うのでした

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/08(土) 22:03:59.21 ID:IZysI9lN
また相手は仙台様かw
王義之の写本の時のように元木を半分に出来なかったのか
           ↓
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-376.html

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/08(土) 22:04:06.47 ID:ynrA/Zmy
政宗に競り負けて安物購入→…絶対死ぬ!

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/08(土) 22:04:05.90 ID:gVYu6ZUl
これの詳細バージョンか 愛役は横田清兵衛というらしいね
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1365.html

三歳様は美術品関連だと割とまともなんだよなぁ
奥方様が絡むと瞬間沸騰しちゃうけど

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/08(土) 22:26:36.80 ID:OLCesmLg
心優しいって今と昔とでは意味が違うのか?w

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/08(土) 22:54:27.19 ID:2PUqc9rq
>(ホントにこう書いてある)
わざわざ>705がこう書かなきゃならないあたりに三斎様への信用の高さが窺える

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/08(土) 22:54:41.41 ID:hfiJWi3B
>>707
そうそう、カッとなって人を斬るなんてよくあることだし?
忠義に厚い家臣のおかげで貴重な香木も手に入ったんだから
親を斬り殺されたくらいで騒いじゃいけないよなぁ
三斎様は心優しいなぁ

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 00:01:14.27 ID:nkpcJusa
伊達さんちの役人からすると、香木競り合ってただけなのに
何故か相手が目の前で香木巡って口論はじめて激高して仲間切り殺しちゃった、と。
そりゃー競り勝ちにくいわなあ・・・。

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 00:19:42.06 ID:b4U4/JMy
それ聞いた政宗が爆笑してる光景が何故か目に浮かぶ

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 14:52:27.05 ID:wCSDCmbh
っていうか政宗、わざと忠興さんところに騒ぎの種を振りまくために
忠興が香木を買い求めるらしいな、ひとつ邪魔してやれとか
そんな理由で家臣派遣してるだけなのかもしれないねw

利休の弟子にも又頑固で強情な人が居た、

2012年11月02日 19:59

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/02(金) 03:32:33.10 ID:94eY9sen
千利休は茶の湯においては決して妥協は認めない、その様な強情な所があった。
利休のそうした頑なな性癖が秀吉との衝突を招き、切腹の一因になったともいわれている。

その利休の弟子にも又頑固で強情な人が居た。

彼の父は優れた武人であると同時に、優れた教養人でもあった。
その薫陶を受けた彼は、武の道だけではない、歌、画、舞、そして茶、
全てをこなす父にも負けない人物に成長したのだが、
「武士たるもの、常に出陣の覚悟をしてしかるべきである。
 茶の湯はその余暇に楽しむ物だ。」と、あくまで武を第一と考えていた様である。

利休は茶の湯においては、身分を差を越えた交わりを求め、
刀掛を創り、武士には茶室での武装を固く禁じた。
しかし彼はこれを決して受け入れず、常に脇差を差したまま出入りした。
これには利休もほとほと閉口し、遂には特例として黙認したという。

利休門三人衆や利休七哲に数えられる細川三斎の逸話である。

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/02(金) 03:35:55.24 ID:94eY9sen
武人として芯の通った良い話とするか、茶人としての悪い話にするか非常に微妙で迷ったけど悪い話へ。
事実なのか、特例をいつまで続けていたか、等気になる話です。




126 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/02(金) 05:43:24.79 ID:nXPt3N/K
>>122

宇喜多直家「茶の席ってリラックスするためのものだろ」

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/02(金) 07:14:59.45 ID:5+mcFQY3
筋弛緩剤はおやめくだされ

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/02(金) 08:32:19.26 ID:2zpl/52J
肩凝りの酷い俺には妙薬なんじゃがのう

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/02(金) 12:30:24.12 ID:sIApixx3

>>122
なんだかんだ言って許されていたんだろうな

細川忠興「我は価を重んずるにあらず」

2012年10月27日 18:08

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 02:43:48.08 ID:mTSUofq/
ある人物が細川忠興の所有していた名物の茶入をいたく気に入り、熱心に頼み込み、
遂にその茶入を譲って貰った。
そしてその謝礼として銀千枚と青江の刀を忠興に贈り、それに因み『青江の茶入』と名付け深く愛用した。
 
忠興を強欲な人物と批判する声もあったのだが、
青江の茶入を譲られた人物はというと、むしろ安すぎると考えていた様で後日改めて銀千枚を贈った。

忠興はこれを辞さずに受け取りつつ、
 「我は価(あたい)を重んずるにあらず、人に懇望せらるれば、
  其の価を論ぜず、唯義に依って、之を興(あた)ふるのみ。」と語ったという。

この話から、忠興は価格の高低を問う気持ちが無い事に注目するべきである。

        茶道美談より




88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 06:23:36.87 ID:6D8Sx0Er
忠興「もっと持って来てもいいのよ?」


89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 07:19:32.27 ID:aEIVsLLX
銀を受け取ることで茶器の価値を高めてあげるよっていうことなら分かるけど、
単に価格の高低を問わないってなら、懇願する人にはタダで上げるのが義なんじゃないのか?

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 09:03:22.18 ID:YvRJnxfD
忠興さんが変なところで癇癪おこして斬り殺すんじゃないかとよんでてヒヤヒヤした

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 09:05:31.73 ID:NUAj0tSv
利休七哲の一人でもある三斎様がうっかり
「もっとよこせ」
とか
「そんなにいらないよ」
とか言ったらなかなかに向こうの立場がないからじゃないかなぁ

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 09:47:36.30 ID:KoLg5t1x
>>89
別に打ったわけじゃないから
謝礼を受け取らないというのは非礼にあたるんじゃないかな
なら、追加も受け取れっていう考えもあるけど、
そこまでいくと価値判断みたいになっちゃって嫌ってことかと

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 11:23:46.73 ID:B8DVTMsL
>>93
バットで茶器をホームランするシーンが浮かんだ

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 14:18:51.25 ID:ZXiMqwVP
まーくんが打ってゲヒが金で接ぐと

親子の間でもこういう状態

2012年09月04日 20:50

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 11:56:07.37 ID:r640aWM8
戦国から江戸時代にかけて土地以上に重要だったのが、
「労働力」である百姓の確保。
失う物のない小作農たちは条件の悪い大名を見捨て、
もっと条件のよい大名の下へ逃げて、そこの領民になってしまうためだ。
このため各大名は、
「新規に領民になったものは農具支給!」
「うちは初期の年貢を免除!」
「うちのご新規さんは当座の生活費に米を支給!」
などと百姓の確保・流出阻止はかなり気を使っていた。

細川家がまだ豊前小倉藩であったころ、細川忠興が隠居して、三男の忠利が藩主となった。
忠興は豊前小倉藩39万9000石の中の37000石を自分の領地として隠居。
この時、忠利の領地から忠興の領地に百姓たちが逃亡。
忠利「逃げた百姓、うちに返して!」
忠興「だが断る!」
という手紙が残っている。
親子(つか藩主と前藩主)の間でもこういう状態だったらしい・・・・・・

元ネタは「逃げる百姓、追う大名」(宮崎克則 著)




300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 11:58:44.10 ID:oZWWxE70
携帯会社か

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 12:49:55.87 ID:A3ER51lW
>>299 の元ネタの本は、逃亡百姓をめぐる黒田と細川の確執がおもしろかったよ。
図書館で借りたので今は手元にないが。

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 13:54:06.36 ID:8m5v88rh
黒田と細川は中悪かったっけ?

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 14:20:02.05 ID:bpJGoU6p
細川と黒田って言うか三斎様と長政が

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 14:38:20.26 ID:hYJ1yZhx
長政の年貢持ち去り事件で細川と険悪になっただろ

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 17:48:31.17 ID:7HBV1JOD
>>299
北朝鮮の脱北と一緒で逃げて捕まると打ち首だしリスクでかいな

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 18:18:22.22 ID:hrR9vWZW
>>305
むしろ帰ってもらうために徳政令出すレベルだけど

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 18:35:58.86 ID:jMYJjAos
長政は>304の年貢持ち去り事件の時、優秀な農民とかも一緒に連れてったらしい
そりゃ普段は温厚な三斎様もブチギレますよねー

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 18:44:52.22 ID:66aEW1aU
>>305
仕舞いにゃ「怒らないから帰っといで」て高札掲げたり…

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 18:47:12.02 ID:WZc8jDCA
で、磔にしちゃうのがtdms

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 18:53:52.95 ID:nnPv7FPR
戦国時代の東国とか露骨だよな。
領主に不満があると村全体で「逃散」して国境地帯まで行って、自分たちに優位な条件を出す大名の方に行って
耕作するというw

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/05(水) 01:03:21.65 ID:c7W3Hz70
一揆するよりり離散のほうが多いって話だな。
城の近くでひもじい!ひもじい!と合唱した加賀の領民って話もあるがw

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/05(水) 07:05:10.71 ID:FzqNIhT8
ほら加賀はアレだ、他領から移って来たら犬のお父さんグッズとか貰えるんだろう

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/05(水) 13:08:12.68 ID:pd5+Bpcm
>>315
というか逃散自体が一揆の主要な形態のひとつだな。
領主からこれだけの譲歩を引き出すと決めて、あとは我慢比べ

熊本城天守内に展示されていたみんな大好き三斎様の逸話

2012年07月30日 20:55

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 14:46:23.55 ID:GOW/5i/X
熊本城天守内に展示されていたみんな大好き三斎様の逸話
ものすごく有名なやつで今更と思ったけど、清正公ベタ褒めの中でこれかよと思うと
笑えてきたのであえて貼ります。

以下原文ママ

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 14:52:37.31 ID:GOW/5i/X
ここがスゴいよ!細川忠興
 怒ると怖い?忠興
忠興の愛刀には「歌仙・兼定」とよばれたものがあります。
「歌仙」(六歌仙または三十六歌仙)とは和歌の名人の総称で、刀はこ
れにちなんで名付けられたといわれています。
では、なぜこの刀は「歌仙」になぞらえて呼ばれるようになったのでしょうか?

それは、忠興がミスをした自分の家臣や使用人を、この刀で6人(一説では36人・・・)
手討ちにしたから、といわれています。
戦国時代を生き抜いた忠興は、怒るととっても怖い武将だったのかも
しれません。仕える家臣たちもまさしく「命がけ」だったようです。

以上。





794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 14:58:33.03 ID:Aa25Wzxv
清正が朝鮮役の時に、虎を倒した足軽に金玉って苗字をつけた、って話をきちんと紹介しないと
公正ではないなw

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 15:04:51.91 ID:GOW/5i/X
>>792
本文の長さを調整してたら投稿ミスしてしまいました。お恥ずかしい・・・
炎天下の熊本城を一周した結果がこれだよ・・・

ちょっと37番目の歌仙になってきます。

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 15:45:35.23 ID:rzZNOCkj
それには及びませぬ、暑い中走られてさぞ汗もかかれたであろう。
水をふんだんに用意した故、備中高松城へ参られよ。