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伊東家再興の事

2016年06月06日 21:24

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/05(日) 22:48:37.10 ID:uRfp4+2t
天正9年8月下旬、伊東義祐に仕える山伏である三部は、大峯山に登った帰り、羽柴秀吉が
姫路城を建築し、大層な普請であるとの風聞を聞いて、立ち寄って見物した。
するとここで、一人の武士が三部を見て話しかけてきた

「客僧は何国の人ですか?」

「九州日向の者です。」

「であれば、貴方に訪ねたいことが有ります。」

この武士はそう言って、三部を座に招き、聞いた
「日向では伊東殿が浪人されたと聞いていますが、本当でしょうか?」

「はい。島津家に国を奪われ、今は伊予国河野家の領内に蟄居しています。」

「日向伊東家のイトウの”トウ”は、藤の字を用いるのでしょうか?」

「いいえ、”東”の字を用います。」

「であれば!正しく私と同族ではないか!もし義祐殿が羽柴殿に仕える気があるのなら、私が宜しく
周旋しよう。私は伊東掃部助と言う者です。貴方は急ぎ帰国して、この事を告げてほしい。」

これを聞いて三部は彼に篤く謝礼を述べ、急ぎ伊予に下り有りの儘に申し述べた。
しかし伊東家の人々は、数年の間住み慣れた所を出ること名残惜しく、また自分たちを受け入れてくれた
大内氏の情けも捨てがたく、さらに女性たちは、三部のためにこの上さらに憂き目を見るのかと
嘆いたため、決断は先延ばしにされた。

その内に年も暮れ、天正10年正月、伊東義祐70歳、嫡男祐兵は24歳となった。
三部はその間もしきりに秀吉に見参することを進めていたが、終にその言葉に同意し、
伊東義祐父子、並びに奥方、川崎駿河守ら上下二十余名は、名残を惜しみながら道後の城下を離れ
小舟一艘に乗り込み播磨国姫路に渡った。

姫路では三部の案内にて伊東掃部助と対面し、掃部助は懇ろに義祐父子を饗し、秀吉に対して
しきりにこれを推挙したが、秀吉は

「今、蔵米も払底している有様である!こんな時に浪人など扶持できるか!」
そう拒絶された。
そこで掃部助も、ここは暫く様子を見ることにした。
そして伊東祐兵がよろず武芸に達し容貌も魁偉なのを見て、掃部助は工夫し、秀吉が城外に
出る時を見計らい、路の側に平伏させておいた。
案の定、秀吉は祐兵を一目見て、側の者達に聞いた「あいつは何者か?」
そこに掃部助が後ろから出て申し上げた

「彼は前に申し上げた、日向の伊東です。」

「なるほど、骨柄たくましい壮士である。私が西国征伐を行う初めに、西国の武士が頼ってくるのは
吉端であろう。」
そういって即座に三十石を与えた。伊東祐兵はこの頃、六郎五郎と名乗っていたが、この時から
民部太輔と称した。

掃部助は、伊東義祐にも、秀吉に見参するようにと勧めたが、義祐は
「私は不肖なりといえども。辱くも三位の位を頂き、年齢も既に70。今浪人の身とは言いながら、
何の面目あって木下藤吉ごときに追従しようと言うのだ。
しかし子孫再興のためであるから、祐兵は格別である。」

そう言って、ついにそれを受け入れようとはしなかった。

(日向纂記)



802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 08:08:23.62 ID:UHSHnu6x
ガラケーなので確認してないけど以前に見たような記憶がある

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 08:42:19.06 ID:i4Vt1r+V
>>802
前のは出典が日向記だな。
ベースは日向記なんだが、時代とともに逸話の変化を見るのも楽しいよ

伊東祐兵、秀吉公に仕える。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7567.html


伊東三位入道、秀吉との謁見を断る
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7566.html



805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 16:14:07.06 ID:fnaWRgWi
>>801
>伊東義祐70歳、嫡男祐兵は24歳
すげーw

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 19:39:05.73 ID:UHSHnu6x
現代でも原樹里の親父さんなんか80超えていたような

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 20:06:55.64 ID:vmhAmFX+
金森長近なんかは80越えてから子供生まれてるな

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 21:15:35.25 ID:BBMgsAJR
秀吉じゃないが本当にお前の子供かと、問うてみたい

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 23:11:47.67 ID:FeuIYPzX
鹿児島の現在の知事は伊藤祐一郎氏だが
先祖は島津日新斎に仕えたそうな
すると日向伊東と同族ではないということか

812 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/07(火) 08:41:11.26 ID:hyaoyfFP
>>805
46の時の子供なんて…。
大権現さまを見てごらんよ。

伊東義祐父子、伊予に亡命す

2016年06月05日 22:03

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/04(土) 19:24:47.85 ID:fhquBQUK
大友勢が耳川の戦いで敗北すると、豊後に亡命していた伊東義祐父子の居住も何ともなく心苦しい
ものとなっていった。そのような折、嫡子祐兵の奥方は容儀美しい女性であったので、義祐父子を
殺害して奥方を奪い取り、大友義統の嫡子惣五郎(大友義乗)の妻としようとする、という企てが
あると、密かに伝える者があった。

この頃、この奥方は母の阿喜多夫人の宿所を訪ね臼杵城中にあった。そこで川崎駿河守が工夫して、
阿喜多夫人の侍女に新大夫という心利いた者があり、彼女に計略を授け、夜に紛れてゴミ取りの
穴より彼女を盗み出した。

その頃伊東義祐父子は野津の光明寺を忍び出て、彼女らを途中で待ち受け、海辺に向かって
落ちていった。ここでは落合四郎左衛門尉兼家が、かつて薩摩に人質に行った折に拝領した
金作りの刀で小舟一艘を買い取り、これに伊東父子を乗せた。そして

「私もお供仕りたいのですが、年老いて、却って足手まといになるでしょう。願わくば、
早く御運が開かれ、御吉左右の程を承りたい事です。」
そう、涙を流して別れた。そして落合は程なく、豊後にて病死した。

伊東義祐父子は、供の男女20人余を引き連れて伊予の道後へと渡った。時に天正7年4月。
道後は代々河野家の居城にてこの時の領主は河野四郎通直であったので、先ずはこの人を
頼みとしたが、河野は、
「日向一国の領主であった人を、今流浪の身であると言っても、抱えおく事は出来ない。」
そう言って保護を拒否した。

伊東父子はどうするべきかと、進退を失い困惑した。
しかしここで、河野家の一族である大内次郎左衛門尉信孝という者が、その知行である久保田の
寿王庵に迎えたいと表明し、伊東父子はここで天正7年4月から同10年正月まで、貧しい月日を
送った。彼らは朝夕の食事すら調わない有様で、川崎駿河守は、一人で酒を醸造しこれを売り、
奥方の女房であった阿竹の方という女性は仕事の合間に木綿の帯を織って道後の町で売って、
これらを朝夕の助けとなした。
また三部(名は快永)という山伏は下野の者であったが、日向に下り数年の間義祐の恩顧を蒙った故に、
この時も付き従い、諸事の調度を取り賄った。

こうして、苦しい生活の中でも、心は慰められ滞在していたそうである。

(日向纂記)



792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/04(土) 19:49:57.33 ID:+NFWd+lq
寄生虫やん

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/04(土) 23:05:58.77 ID:TYTWMosG
宗茂だって浪々の折りはみんなにおんぶにだっこやったやん

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/04(土) 23:53:34.34 ID:a6XJEzQL
宗茂の場合普段と変わらぬ姿を見せることが何よりも家臣の励みになるという特殊?な関係なので…

旧伊東勢蜂起の失敗

2016年06月04日 14:33

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/03(金) 21:36:49.07 ID:QWsdQD4s
日向伊東家の旧臣である長倉勘解由左衛門祐政は忠勇義烈の士であり、島津家に奪われた本国を
必ず回復すると、密書を以って日向に残った伊東家故旧の輩に作戦を授け、ここには3,40人、
あそこには5,60人と一味連判をして、天正6年10月10日、火の手を合図に蜂起し、
贈於郡に討ち入って一時に本国を乗っ取ろうとの謀りであった。

ところが、この同志の中から薩摩に心変わりしたものが出て、この計画を密告したため、
同月9日、一味の者達大勢が薩摩勢によって討ち取られた。
伊東旧臣たちを後援していた豊後の大友家は、兵員を載せた船を、内海折生迫まで乗り付け、
合図は今かと待っていたが、火の手は上がらず音もせず、手筈相違したため、空しく豊後へと帰っていった。

しかし長倉祐政の策によって、同月24日に平野や三納の兵たちが平郡粂田に火の手を上げ河原田へと
押し寄せ、贈於郡に討ち入ろうとした。

しかし諸方と当初の計画と違い、また既に多くの一味の者が討ち取られており、一方敵はますます大勢となり、
僅か千名に満たないこの軍勢は多くの死傷者を出し三納城へと挽き退いた。

三納城には八代駿河守を初めとして、佐土原摂津守、湯地三河守ら伊東家に忠烈なる人々立て籠もって、
少しも弛まず11月18日まで島津勢の攻撃を退けた。
そこで島津勢は策を設けた。彼らは六野原に伏兵を置き、三納城の囲みを解いて撤退した。
三納城の兵たちは敵地の中にあり、他に頼む援兵も無かったため、敵が退いたのを幸いと、城を出て
豊後へ向かった。そこで伏兵を受け、駿河守、摂津守、三河守以下、名ある忠臣30余人が討ち死にした。

この時は本国を回復する絶好の機会であったのだが、心変わりの者があってその事を成せなかったのは、
伊東家の運命拙き故とは言いながら、口惜しいことである。

(日向纂記)



674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/03(金) 21:59:58.87 ID:PsfaBUpp
確かにこりゃ口惜しい

葛の根は 小松ばかりに残れるや

2016年05月31日 17:00

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/30(月) 22:08:45.97 ID:v9uyzl3r
永禄八年頃のこと、日向の伊東義祐は鬼ヶ城の城代を小松兵部太夫に命じた。
その頃は真幸口、飫肥口両方に軍勢を出し島津などとの合戦がうち続き、山東の軍勢は
休息する暇もなく、五番代わり、三番代わりに交代した。この事は二十日番と呼ばれ、
この軍役に対する上下の難儀は一方ならぬもので、この件への訴訟が絶えることなく
上がってきた。

このような状況ではあったが、城代の小松兵部太夫はその訴訟を押さえつけ受付なかった。
そのためか非常に機嫌が悪く、常に顔を膨らませて気色荒げていた。
そんななか、ある日何者かがこのような狂歌を詠んだ

『葛の根は 小松ばかりに残れるや いつも腫れたり番代がつら』

これは飢饉の年、窮民たちが葛の根を掘って食うと顔が腫れるということから、
この様に詠んだのである。

(日向纂記)



667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/31(火) 11:42:44.20 ID:zj+ISLhb
すべて島津が悪いんや

「義祐様を押し籠めよう」

2016年05月30日 18:04

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/30(月) 09:45:32.35 ID:v9uyzl3r
天文20年(1551)、日向の三位公(伊東義祐)は大仏堂の建立を思い立ち、先ず南都(奈良)の
仏師・源五郎兄妹を召し下し大仏を造らせ、大仏堂は大工の奥野筑前守に命じて、同年6月8日より
柱立した。何れも程なく成就したため、その年の12月28日に大仏を安置した。

翌天文21年、今度は佐土原に寺を建立し、金柏寺と名付けた。
同年10月28日、大鐘を鋳てこれを寄付した。その銘文に『日薩隅三州太守藤原義祐』云々の文字があった。

また、海道衆と号した10人の僧侶に笈(修験者や行脚僧が仏具・衣類・食器などを入れる箱)を背負わせ、
昼夜仏名を念じて歩行させ、或いは5人づつ左右に分かれて終日仏論を論議させ、三位公自身も
袈裟を着て捨身の行を行った。
また、或いは諸僧を集めての法問を行った。

三位公のこのような仏教への耽溺は、伊東家中の行儀を乱し、我儘の事のみであったため、国内からの
嘲りも多く、諸大将も国家の大事と思い、密々に評議を行って、「義祐様を押し籠め(強制引退)よう」
となった。

しかしここで、落合源左衛門尉兼永が異論を唱えた。彼は伊東家諸将の中でも忠勇無双の男であり、
諸将の評議を聞いた上で

「一度諌めてそれでも承知なければ、そういうやり方もあるだろうが、最初から少しも諌めず
押し籠めを行うのは、臣たる者の道ではない。とにかく私に任されよ。」

そう言って家にも返らずそのまま君前に出て、諸将の疑念をありのままに言上した。
彼は三位公の顔を見て声柔らかに諌めると、三位公も自分の行いを大いに悔悟し

「以後は何であっても各々の異見に従う。」

そう言って以後行いを改めた。
「思っていたのと違い、賢君であられる。」これに日向の人々は安堵の思いを成した。

(日向纂記)



「野村の乱」と祟りの顛末

2013年09月06日 19:50

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/05(木) 20:23:36.48 ID:U/JkuELF
文明18年(1486)、日向伊東氏の一族である伊東二郎佑邑は日知屋の城主であったが、
豊後の大友家に遣いを出して隣国のよしみを通じた。これは、現在伊東家が戦っている
島津家が大敵であるために、大友家と有効を深めれば国家(伊東家)の強みになるとの
趣旨からであった。

ところが佑邑のこの行為に対し、『国家のためではなく我が身のためにやっているのだ』との
流言が言われた。

これは伊東佑邑の舅が、伊東家重臣の野村右衛門佐であり、彼の一族は伊東領内11箇所の
城主に任じられ、野村の威勢は、当時並ぶものが無く、また自らも恣なる挙動が多かった。
其の上先代の光照公(伊東祐国)が楠原の戦いで戦死(文明17年(1485))した時、それは
指揮をとった野村右衛門佐の作戦が悪かったためだと、国中の者達が爪弾きにして彼を憎んだ。

そのように野村に悪評が集中していた時期だったため、この事も、伊東宗家には
光照公の正しき嫡男である伊東尹祐が居るにもかかわらず、それを差し置いて、婿である
佑邑を家督に据えようとしているのだ、と疑われたのである。

同年、4月9日の事である。
その日伊東佑邑は日知屋の屋敷で早く起き、発句を考えていた。そして

『露はおき 萩はまだぬる朝哉』

と、発句を吟じた、その時、
その声を合図にしたように刺客が現れ、たちまちに佑邑の首を獲った。
同時に野村右衛門佐父子を始めとした野村一族の11箇所の城に伊東家の軍勢が押し寄せ、
尽く腹を切らせた。
伊東宗家による野村一門への粛清であった。
この事は、後に「野村の乱」と呼ばれた。

ところでこの時殺された伊東佑邑は、この後、伊東家に祟りをなしたらしい。
そこで享禄4年(1531)12月13日、都於郡一乗院にて、この佑邑を祭り八幡大菩薩と崇めたが、
しかしその霊魂が祟りをなすことを止めることは出来なかった。
そのため、遂には天文5年(1536)重ねて佑邑の霊を国富荘本郷に移して神とし、
さらに、朝廷に奏聞を経て、加護八幡の勅号を賜ったのである。
(日向纂記)

戦国初期の日向伊東家における「野村の乱」と、その後の祟りについての逸話である。




282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/06(金) 22:12:05.30 ID:RdyeBw4w
鶴岡監督や浅香光代が激怒しそうな乱だな


日向伊東家においては、『四天王』と称する家柄は

2013年09月03日 19:59

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/03(火) 17:23:56.84 ID:JbuHno4d
日向伊東家においては、『四天王』と称する家柄は、それぞれ二つある。

その一つは、山田、荒武、津留、大脇の四家であり、これは興禅公(伊東祐重(氏佑))が
京より下向されるとき、先に国元にあってこの下向を周旋した人々である。

もう一つは、稲津、落合、湯地、川崎の四家であって、こちらは興禅公に供奉して
京都より来た人々である。

この人々は下向の衆であるからとして客座に着座し、国元に在った四家は
居付きの衆であるからと主座に着座する慣例となっていた。

これはいずれの四家も序列の甲乙がつけがたいため、このように命じられたのだという。
(日向纂記)

「四天王だけど五人六人いる」というのはいくつかありますが、こちらは
『四天王Aと四天王Bの二つ有る』という、斬新な形態である。




268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/03(火) 19:35:18.14 ID:bh4mIP9F
満州八旗みたいなものか

稲津重房の帰参

2013年08月12日 19:51

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/12(月) 02:42:17.05 ID:sRHr9IkJ
稲津二郎兵衛尉重房は日向伊東家の譜代の家臣であったが、伊東義祐の日向没落(伊東崩れ)の時は
未だ年齢は14で、三位公(義祐)に伴することが出来ず、心ならずも薩摩島津氏の幕下に属した。
その後、島津家の大坂屋敷に勤務し、母と妻は薩摩に留め置いてあった。

そんな所に、伊東祐兵が豊臣秀吉より、旧領である日向飫肥を拝領する、という話が聞こえてきた。

稲津は「累代の旧君を余所の君主として見ることは快からず。大名として旧領に復帰されるからには、
たとえ死すとも、帰参しなければならない!」と思い立ち、自分の譜代の郎党を呼び、
この決意を話し

「我が心底は以上の通りである。お前は急ぎ薩摩に下り、我が母と妻とを伴って飫肥に
連れてくるのだ。私はその頃合いを考えあわせて、この大坂屋敷を立ち退き飫肥に向かう。」

そう命じて早舟を求め、これに乗せて薩摩へと下した。そして郎党がもはや薩摩に着いたと思われる
時期に、稲津は密かに島津の大坂屋敷を脱出した。

稲津重房の逃亡を知った大坂屋敷の番頭は、早舟を仕立ててこの事を国元に知らせた。
ところが、である、

稲津の郎党の乗った早舟は、はるか以前に大坂を出たのであるが、海上の波風が悪く、
殊の外到着が遅れ、却って大坂屋敷の番頭の出した注進の早舟のほうが、1日早く
薩摩についてしまったのである。

この注進を受けて島津家では、『この処分を寛大にしてしまえば、これまで我が家に降参した者達に
非常な悪影響を与える。』と考え、稲津重房の母と妻を殺した。

稲津重房は飫肥に帰り着き、伊東祐兵は彼に200石を与えた。
のち、慶長5年10月9日、木脇口にて戦死した。享年37歳であった。
(日向纂記)

稲津重房帰参における、悲劇についての逸話である。





米良弥八郎と右松次郎三郎の脱走

2013年08月09日 19:51

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/09(金) 06:01:01.30 ID:bnUnt1oH
天正5年(1577)日向の伊東義祐は島津の攻勢を耐えることが出来ず、ついにその主城である佐土原を
放棄し、豊後の大友宗麟を頼り落ち延びた。(伊東崩れ)

さてその頃。伊東家重臣である米良四郎右衛門尉の子、弥八郎と、右松四郎左衛門尉の息子、次郎三郎の
両人は、島津の人質として薩摩の鹿児島に在ったが、伊東家が米良四郎右衛門尉らが中心と成って
豊後と通じ、大友勢が日向に進攻するという企てがあることが鹿児島に聞こえ、島津家においては、
その人質を取り逃がしてはならないと、彼らを幽閉し6人の番兵をつけて油断なく監視させた。

二人は自分たちの監視が厳しくなった理由を伝え聞くと、密々に話しあった

「我々の父は、私たちのことを思わぬということはないだろうが、しかし親子の情も、
累代の君恩には代えがたいものだ。
国外に出た主君を本国に入れようとの志を持つのは、武士ならばそう有るべきことだ。

ということであれば、父たちは我々に構わず行動するので、我々の命が奪われるのは、
どうしても逃れられぬことである。
であれば、ここから逃亡をしては見ないか?」

そう決めると、彼らは番人が油断した隙を伺い、その6人の者たちを惨殺し、夜に紛れて逃げた。
元来彼らは三城で生まれ育ったので、舟に乗ることが巧みであったため、密かに船を盗んで
これを自ら櫓を漕いで対岸に渡り、陸路に上がると昼は隠れ、夜は進んでようやく鰐の口を逃れ、
7日目の夜に佐土原に到着した。

ここには彼らが親しい者が居たので、一飯を乞うて数日の疲労を休めた。

ところが、頼みがいのないのは世の習いである。この親しき者はその頃、どうにかして新しい日向の支配者である
薩摩に忠節を立て奉公の下地にしたいと考えていた折であったため、二人を天の与えたものと喜び、
底意の見えないように彼らをもてなし、やがて疲れから熟睡したところを伺い、これを縛り付けて
薩摩へと差し出した。本当に、情けのないことである。

二人はそれから再び鹿児島に引き出され。福昌寺において殺された。

しかしこれを聞いた彼らの父である米良四郎右衛門尉右松四郎左衛門尉は、
この上はもはや少しも心に掛かることは無いと、益々伊東家への忠節を励んだという。

(日向纂記)




140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/09(金) 12:10:45.13 ID:0l675Wjy
せっかく捕まえ直した人質を殺してどうすんだよw

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/09(金) 12:24:18.04 ID:qOjtWs+4
処罰無しだととりあえず逃げてみる奴が増えるだろ

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/09(金) 23:39:25.86 ID:MijMLdMi
6人も殺してるんだから、さすがに腹立つだろ

天正3年、正月の騒動

2013年08月06日 19:51

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/05(月) 20:32:24.79 ID:lT1U2Z29
天正3年、日向の伊東家では正月元旦の賀儀も例年通りに行われ、出陣の沙汰もなく、
国中平和で上下ともに喜悦の眉を開いていたところ、都於郡(とのこおり:現・宮崎県西都市)において
大きな理由もないのに騒動が起こった。

その始まりはこうである。伊東右衛門佐(伊東加賀守の弟)には男子が二人あり、嫡男を駿河守、
次男を金法師と呼んだ。
嫡男駿河守の師は、那珂の平等寺であった。
次男の金法師は、父の兄である加賀守の嫡男・源四郎と養子の縁組をして、加賀守家の
名跡を次ぐこととなった。

ところで、養父である源四郎の師は、都於郡の一乗院であったため、金法師にもここで
教育を受けさせようという事となったが、これに、金法師は三河守の弟なので、兄と同じく
平等院で教育を受けるべきだとの反論が出た、論争となった。

これを聞いて都於郡では怒りが渦巻き、年少の者達36人が互いに連判し、この議論が決裂し
対決となったら、自分達は命をかけて戦う!との姿勢を見せた。

しかし伊東家の主君である伊東義祐はこれを聞いて不快感を示し、連判をした者達は
身の置きどころが無くなり、財部城の落合氏を頼んで落ちていった。

彼らの中心人物は、財部城主・落合藤九郎の子・落合丹後守、湯地又四郎、稲津又次郎、
野辺孫二郎、杉尾甚兵衛、小山田掃部助、荒武某、中村藤十郎、中村孫三郎、杉尾帯刀、
八代新十郎、福永新七郎、と言った者達であった。

このような中、野辺孫二郎が財部城で、密かに小山田掃部助に向かってこのような愚痴を言った

「私達が地元から逃げこのような事になったのは、全て落合丹後のせいである!」

そんな事を終夜に渡って言っていたのだが、その落合丹後がたまたま物陰からこれを聞き、
大いに立腹し

「互いに恨みの無いよう、一味同心の連判までしたのに、今更私一人を恨むとは、
これこそ遺恨である!」

そう言い放つとその事を話していた二人をたちまち討ち果たした。
この騒ぎに何事かとやってきた杉尾甚兵衛も、落合丹後によって手傷を負った。

そうして落合丹後が考えたのは
『私は流浪の身となっても、いつか伊東家に帰参したいと考えていたのに、こんな事に成ってしまって、
もはやとても命の助かるものではない。
こうなれば(伊東義祐のいる)佐土原城に騙し入って、義祐様に一刀恨みを晴らしてくれよう!』

そう言って佐土原へと取って返した。

ところがこの落合丹後の錯乱は、いち早く佐土原にも報告され、落合の姿が見えると
たちまち騒動となり、すぐさま取り囲まれ斬り合いとなった。

落合丹後は大勢を負傷させ、自信も数箇所傷を被ったが、島原右近と組み打ちとなり、
右近が組み伏せられ今にも殺されんとした所で、杉田宗伴が馳せ懸り、ついに落合を刺殺した。

これで漸く、この徒党の乱は鎮静したのである。
(日向纂記)

領主の養子をどこで教育するかというだけのことで、大勢の死傷者まで出す騒ぎとなった事件の顛末である。




132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/05(月) 21:55:30.77 ID:EibEX9UK
落合丹後がいなきゃ、もっと静かに事は収まったんだろうなー

和田民部の祟りの理由

2013年08月04日 19:16

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/03(土) 20:25:23.05 ID:JzFxxB+f
永禄11年(1568)、伊東義祐島津忠親の守る飫肥城を攻め、これに島津方の援軍として薩摩より来た
北郷時久の軍勢を大破した、小越の戦いでのことである。

この時、伊東家家臣山田次郎三郎は、島津方の和田民部少輔を討ち取ったが、
この和田民部少輔の子である助六、この時18歳が父の討たれたのを見て、駆け入って
山田と刺し違えようとした。

しかし助六の郎党が一人、鎧の袖にすがりついて言った
「どうか命を全うして、亡くなられた父君の遺蹟を立てて下さい!」
そう叫んで制したが、助六は
「今このような事態に直面して、誰が一人逃げるようなことがあるか!」

そして郎党を振り払い山田に切り懸った。
しかしこれを、山田はすかさず取り押さえる。だが、この者が年少であることを察すると、
若年にしてその志が勇なることに感じ入り、これを立たせ、そのまま帰らせた。

ところが、同じ伊東方の長倉次郎右衛門尉がこの様子を見ていて、帰ろうとする助六の後を追い駆け、
情けなくもその首を打落した。

後でこのことを聞いた人々は、山田次郎三郎の情けは、古の熊谷が敦盛を助けたことにも劣らぬ、
と言い、長倉次郎右衛門尉のやったことは、非常に浅ましいことだと批判した。


長倉次郎右衛門尉は、今の長倉喜多郎佑栄の先祖である。
長倉佑栄の家に今も言い伝わる、和田民部の祟りというのは、この話が理由なのである。
(日向纂記)




121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/03(土) 22:11:30.14 ID:Ky1FvhDZ
直実が敦盛助けた・・・?
助けようとした、が味方が来てしまったから首を泣く泣くはねた、時の直実の情けの意味か
それとも直実自身が息子の首を代わりにはねて敦盛を逃した説のことを言っているのか
単なる勘違いか

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/03(土) 22:21:57.68 ID:x/8x+kAC
我が子をそんな討ち取り方されたら、
そりゃ祟りたくなっても無理はないという悪い話だなw

ただ、和田民部の祟りってのがどんなのかが気になるな。

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/04(日) 09:06:46.00 ID:bY2LBvL/
代々の当主の子が斬り死にするとか

和田民部って山田の父を殺してるんだな
自分は首尾よく敵討ちを果たしたけど、お前さんにはまだ早いよってことか

家伝の御旗系図を再度お手に入れられる事

2013年07月12日 19:50

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/12(金) 08:49:41.95 ID:Z6dCIJ8o
家伝の御旗系図を再度お手に入れられる事

祐兵様が入国に及び、日向没落時の奈須右近将監祐貞(日向星原城主)の
忠節の功を謝する為かつ三位入道殿が預け置かれた御旗御系図等を返して
もらう為にと、曽我雅楽助を使者として送られた。

右近将監は「曽我は我が親類であれば他人の疑いも遁れ難い。大切な御旗
系図であるから伊東の御一族か、さもなくば一軍の大将たる人を寄越して
頂きたい」と申され曽我をすげなく返された。

これによって山田土佐入道匡徳が豊後大友殿へ先年の謝礼の為に使者と
して送られていたが、続いて神門村へと赴き御旗御系図等を受け取って
帰るようにと仰せ付けられ、かの所へと到着した。

右近将監は畏まって預け置かれた御旗御系図ならびに文書目録を調えて
一紙に抑留仕らぬ旨の起請文を添えて渡し、匡徳にも馳走して藤島の脇差
を与えられたと言い伝えられている。

(日向記)

山田土佐入道は、以前の逸話にも登場した島津義久に妻子を送り返して
貰った人で匡徳(匡得または京得とも言う)は入道後の号です。




672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/12(金) 14:43:24.52 ID:TSNLLwvw
>>670
家久勢を破った堅田合戦で佐伯勢の指揮採った人か

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/12(金) 15:43:44.57 ID:Z6dCIJ8o
>>672
その人です。

三位入道たちが豊後を去った後、佐伯氏に仕えて島津と戦い続け
九州征伐後に伊東家へと帰参した訳です。

假屋原甚右衛門の活躍 その1 馬の飼料

2013年07月06日 20:00

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/06(土) 07:42:34.85 ID:VdEudswC
假屋原甚右衛門の活躍 その1

祐兵様は都から一里ほどの松山(セウセン)と言う城に文禄二年二月より
在陣していたが、このとき馬の飼料が尽きて難儀に及んだ。

これにより祐兵様は假屋原甚右衛門尉満次を呼んで「昨日、島津又次郎
家中の者が大豆を求めに出たが、唐人多人数が現れて半弓で射たて、是
を追ってきたので、手負い数人を出してむなしく陣屋へと戻ったと聞く。
汝は才覚をもって筏を組みモクソ川を渡って大豆を求めてくるように。
警護の為に鉄砲足軽十五人を差し添えよう」と仰せられた。

假屋原は難儀な事だとは思ったが断わりようもなく、陣屋を出てモクソ
川を渡って大豆二十五石を得て、その上テルマカクセイの郷民等十八人
を捕えて戻ってきた。

(日向記)

朝鮮陣のところでやたらと假屋原甚右衛門の記事があったので、三部作
として書き込みます。

ところで島津又次郎って誰なんでしょう。




623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/06(土) 18:05:14.53 ID:WbhhgLau
ググってみると小田原の北条氏家臣ってのしか出てこんね>島津又次郎

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/06(土) 18:36:58.55 ID:VdEudswC
>>623
そうなんですよ。他は幕末の人だったりしますしね。

次郎以外の又○郎だとすれば多数の候補が出てくるし
次郎が正しいとすれば藤次郎あたりもありそうですし・・・

假屋原甚右衛門の活躍 その2 兵糧才覚

2013年07月06日 20:00

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/06(土) 07:43:08.77 ID:VdEudswC
假屋原甚右衛門の活躍 その2

祐兵様が朝鮮国楚天(泗川)に在陣していたとき、兵糧が既に尽きよう
としていた。そこで假屋原甚右衛門を呼んで汝が才覚するようにと
仰せられた。

甚右衛門は警護の足軽十人を召し連れ田里へ出て人跡山林を見回って
みたころ、洞穴を隠したような怪しい所があるのを見つけて掘りかえ
してみたところ、穴蔵が三つ見つかった。

甚右衛門は大いに喜んで、大小豆大小麦を掘り出して馬を探しだし百駄
をつけて帰ってきたと言う。

(日向記)

「前回と同じパターンかよっ」と言いたくなる出だしですが、それだけ
朝鮮陣では兵糧馬糧の手配に困ってたんでしょうね。

隠し倉庫を見つけられた住人にとってはとんだ災難でしょうか。





假屋原甚右衛門の活躍 その3 蔚山遊猟

2013年07月06日 20:00

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/06(土) 07:43:58.22 ID:VdEudswC
假屋原甚右衛門の活躍 その3

祐兵様が清館に在陣していたとき、士卒を船に乗せ蔚山へと鴨狩に
遣わされたが、この時、伊東平右衛門と家僕一人、曽我弥三郎が同道
して三人で奥深く遊猟していた。

假屋原甚右衛門はこの三人と途中で行き会い、甚右衛門は平右衛門に
対して「少人数で奥深く入られると伏兵にあって難儀するでしょう。
早く引き返して下さい」と申しあげた。

平右衛門は血気盛んな若武者であったから「何ほどの事があろうか、
其の方も来られよ」とさらに奥へと向かった。

甚右衛門はこれを見捨てがたくともに遊猟していたところ、案の如く
韓人三十人余りが現れ半弓をもって射たててきた。

多人数に対抗するすべもなく引き上げようとしたが、弥三郎は皆とは
離れていたので早々に討たれてしまった。

平右衛門と家僕、假屋原の三人は離れずに引き退いたが、厳しく追い
迫ってきたので、道の端にあった少し切り立った場所を後ろ盾として
襲い来る韓人を切り払う事、三・四度に及んだ。

これで討ち取り難いと思ったのか怯む色が見えた所で、三人一緒に
切って出て追い払った。

この時、平右衛門は二ヶ所、家僕は三ヶ所、假屋原は六ヶ所を負傷
した。平右衛門主従は深手であり歩行も叶い難く見えたので、韓人が
うち捨てた半弓を手輿としてこれに乗せ、舟へと戻って帰陣した。

祐兵様はこれを聞き「假屋原の働きにより平右衛門の命が助かった」
と肥田木伝右衛門を使者として備前祐定の御刀を褒美に与えられた。

(日向記)

ようやく兵糧探し以外の話です。大名でも中川秀政が狩猟中に討たれ
たりしてるから、敵中の狩猟は危険だったのでしょうね。

なお伊東平右衛門は以前の逸話にも登場した虎ハンターです。





他家と合同で虎狩りをしたとき

2013年06月23日 19:05

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 13:41:08.34 ID:vUlDoYAD
伊東平右衛門尉は伊東相模守祐梁の孫である常陸守の子である。
天流の兵法を鍛錬し武士の道を嗜んだ剛の者であった。

朝鮮において他家と合同で虎狩りをしたとき、平右衛門尉は虎一頭を
鉄砲で仕留めた。

他家のものも同時に鉄砲を撃ったので、誰が仕留めたのか争論となり
諸士が集まって詮議に及ぶこととなった。

仕留めた証拠について問われた平右衛門尉は「私の撃った鉄砲の玉は
銀の玉です、もし肉の中に残っておれば疑いないでしょう」と述べた。

虎の傷口を調べてみたが幸い玉は残っており、取り出して磨いてみた
ところ銀玉に伊平の二字が彫り込まれており、これにより平右衛門尉
が仕留めた事と定まった。

諸家の侍が集まれば争論もあるだろうと、あらかじめ備えておいた
用意の良さを諸家の人々も感心したと言う

(日向記)

伊東平右衛門尉の準備のいい話




559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 14:37:30.84 ID:KtueGrNH
どこのバンパイアハンターですか

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 15:14:13.29 ID:yIWcRtRd
手柄を横取りしようとした他家の者の名はなんと

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 15:35:00.83 ID:3ZhAMKml
玉ぶっつぶれたりしないのな

562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 17:52:38.06 ID:rvCObUkJ
いざという時のために作っておいたとっておきの弾だったのかな

福永の逆心により没落する事

2013年06月20日 19:54

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/20(木) 15:20:20.19 ID:AzboqeYI
福永の逆心により没落する事

福永らは天正五年十二月七日夜半に薩摩勢を野尻城へと引き込もうと計画し、高原城の
上原長門守と示し合わせた。

まず三百余りの兵を野尻へと攻め込ませ、これにより薩摩勢侵入と喚きたてたので山東
からの添番衆は胆をつぶして逃げ帰った。

翌八日、三位入道(伊東義祐)殿はこれを聞いて軍勢を率い紙屋まで出陣したが、同日
島津義久も大軍を率いて野尻の城へと攻め込んで来たので、戸崎城も守り難くなり
陣屋へ火をかけ山東に退くように指示された。

野村の一党は福永にとってはあるいは甥、あるいは従弟であったのでかねて同意していた
通り、そこかしこに叛乱の火の手をあげた。

三位入道殿はこれを見て後背を遮られては不味いと急いで軍勢を引き下がらせた。

それより数多の逆心の与党どもはあるいは家に火をかけ、あるいは城を囲むなど思うがまま
に振る舞った。

この状況では、いずこを味方と頼りようもなく三位入道殿は一門の侍、譜代の歴々を召し
集めて評定を行ったが、にわかに名案を出せる人もいなかったので「しからば居城を去らずに
一戦を遂げ、討死を遂げよう」と仰せられた。

大将一同は「まず御命をまっとうして、敵を滅ぼすことこそ良将でありましょう。」と申され
「早々に屋形を落とさせ、山中の様子をご覧になられ、米良山をお頼りになってそこから肥後
か豊後へと向かわれるのが良いでしょう」と申しあげた。

三位入道殿は「それも理である」と思われ、九日の明け方に佐土原を捨てられ、三位入道殿、
佑兵に一門の侍が供奉して財部へと退かれた。

その時、東光坊と言う山伏に栗木太郎五郎を添えて財部城に送り通路を求めた。

財部城主落合藤九郎は元来小男であったので、三位入道殿はこれを「ひきう人」と常に呼ば
せていた。

落合藤九郎はこの時「一城の主たるものをひきう人などと名付けて取り次ぎをされた事は
遺恨である。その上朋輩間の若衆で争論になった際に落合丹後守(藤九郎の息子)を成敗
されるなど、どこをとっても恨みが多い」と怒鳴りつけ、かの東光坊を討ち殺してしまった。

栗木はこれを見て急ぎ馳せかえりこの事を告げたが、城からはさらに足軽が少しばかり走り
出てきて矢を射かけてきた。

三位入道殿は「これでは行末も覚束ない。ここで腹を切るべし」と言われたが、供奉の人々は
「もっともではございますが、まずは義賢様・佑勝様の到着を待ってから御思案なされては」と
申し上げていると、そのうちに都於郡から義賢様・佑勝様と一門の衆その他が退いて来て、
これに追いつかれた。

改めて開いた評定では「まず穂北をお頼りしましょう。大将の命は惜しむべきものであり、
たとえ野に伏せ山に寝ても命あれば運をひらくことも多かろう」と定まった。

穂北城主長倉洞雲斉は嫡子藤七郎をひそかに花園原まで迎えに行かせた。
長倉家は数代一門に組まれ御重恩に報いる為にと、格別に御馳走を致されたので、かの城に
一宿して翌十日には米良山に入られ、長倉藤七郎も三十町ばかり案内を勤めた。

誠に身分の高い者も卑しいものも流浪の身ほど悲しいものはないであろう。

(日向記)

福永丹波守の謀反による伊東家の日向没落の様子である





かの上原は思慮深いものだったので

2013年06月19日 19:50

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/19(水) 16:39:18.00 ID:a5/J2VU0
覚頭合戦(木崎原合戦)で伊東家が大敗した後に最前線となった野尻
城は地頭である福永丹波守が守っていた。

島津方は奪い取った高原城の地頭として上原長門守を入れ置いた。

かの上原は思慮深いものだったので、ある時は山東に人を送って
国中の情報を集め、またある時は福永丹波守の行動が悪く取られる
ように書き記した書状を山東に落とさせるなどして、福永の立場が
悪くなるように仕組んだ。

三位入道(伊東義祐)殿は福永の悪評を聞いて、これは本当の事では
ないかと思われ、何度か丹波守が参上した際にも会おうともせず
その上に二度、三度と出仕を停止させた。

丹波守の嫡子藤十郎が元服の為に出てきた際にも見参させずに送り
返えした。

これによって丹波守は腹を立て涙を流して、もう二度と出仕はしない
と誓いを立てて帰って行った。

以後は深い恨みを抱き上原長門守を頼って薩摩方と申し合わせるよう
になった。

(日向記)

上原長門守が謀略を用いて福永丹波守を寝返らせる話
そしてテンプレのようにひっかかってしまう三位入道クオリティ





伊東家、豊後から退転

2013年06月17日 19:56

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 11:49:57.62 ID:VrAJmhBe
大友の諸勢が日向高城において敗北した為、大友を頼っていた入道殿(伊東
義祐)や祐兵は心苦しく思っていた頃、祐兵の室家(妻)が野津から御母堂の
旅館を訪ねて逗留していた。

彼女は容顔美麗であったので大友家は密かに祐兵を殺害しこれを奪おうと
謀っているとにわかに密告するものがあった。

そこで入道殿と祐兵に対し「急ぎ豊後から立ち退きましょうと」と家臣達が
諌めたが「武の家に生まれたものが、命を惜しんで妻女を奪わせる事が
できようか」と承引されなかった。

これによりも室家も救出して皆でともに脱出しようと河崎駿河守(祐長)ら
が密かに談じ、母堂の女中新大夫は頼りになるものであるから、これに
計らわせようと告知した。

城中の旅宿は警備も厳しくそのまま忍び出ることは困難であったが、新大夫
は寝殿の庭内に塵出しの隙間を見つけ「あそこから脱出させましょう。夜に
紛れてお迎えにきてください」と注進した。

これにより計画を定め、三位入道殿や祐兵は密かに旅館を逃げ出して室家の
脱出を待ち構えていた。

室家のお迎えには河崎駿河守に物馴れた侍を二名差し添えて、かの塵出しの
外で待ち構えていたところ、計画通り塵出しの隙間から脱出なされた。

駿河守は室家にお供して入道殿、祐兵が待っている場所へとたどり着いた。
両主は喜ばれ、皆で船に乗って伊予国へと赴いた。

(日向記)

伊東家が豊後から退転する模様である




878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:09:43.41 ID:G40qEFIS
そーりん自重しないなw

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:16:24.63 ID:VrAJmhBe
「大友家」とあるので宗麟かどうかは不明です。義統の可能性も十分です。
何より豊後退転をとりつくろうための創作の可能性も否定できないですし。

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:17:08.65 ID:aOSoVu2J
女が絡む時の宗麟は息子並にぼんくら

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:18:20.59 ID:aOSoVu2J
>>879
逆に考えると大友某に女を奪おうとされた!と言えば世間に納得してもらえるということでもあるw

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:39:51.07 ID:VrAJmhBe
>>881
は・・・反論の余地が無いw

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 15:19:00.41 ID:fisDmLvD
大友家危険度チェック

・妻女は見目麗しい
・評判の茶器を持っている
・仏に深く帰依している
・武士として八幡大菩薩は尊重している
・気分次第で沙汰が変わるのには我慢できない性質だ

1つでも該当した場合身の振り方の再考をお勧めします。
特に上2つ。

全部該当した場合大至急退転してください。
貴方とご家族の命と操が今まさに危険にさらされています。

釜山の喧嘩騒動と褒美の与え方

2013年06月12日 19:50

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/12(水) 12:01:29.20 ID:5k95V3pO
釜山浦城に御在番のとき、大将毛利壱岐守(勝信)と当家の間で喧嘩騒動
が起こり、毛利の者どもが大勢で当家船手の者を海へ追い込んだと注進
があった。

まず最初に落合九右衛門尉、宮田久左衛門尉、平賀喜左衛門尉とその他
足軽どもにて交戦し、その時三名が討死した。

さらに河崎大膳亮ら大勢で駆けつけて、敵多数を海へ追い込んだが、
当家の者も数十人が手負いとなった。

その時、落合九右衛門尉の嫡子小辨と言うものは年は十六歳で容顔美麗
であり佑兵様の小姓としてお傍に居たが喧嘩の注進を聞いて駆け向かい
一文字に切って掛かった。

毛利家の侍何某が弓を取って矢を放とうとしていたが、その幼年にして
勇猛な事を感心したのか、それとも美麗なるを惜しんだのか、その矢で
地面を射、小辨の姓名を尋ねこれを讃えて退いた。

喧嘩騒動は寺沢志摩守、島津又七郎、相良左兵衛の三大将が間に入って
和睦となった。

この小辨は元来勇士であり、ある時、佑兵様の目の前で敵を討ち取った。
比類なき働きでもあり、格別のご褒美を賜るであろうと誰もが思ったが
その沙汰は無かった。

この措置について佑兵様に尋ねたところ「褒美を遣わすべきなのは当然の
事である。しかし、かの者は若く余りある勇気を持っている。今褒美を
与えれば、今後も同じような行動に及び討死するのは必定だと思ったので
そうしないのだ。」と仰せられた。

小辨には後にその事とは別に御脇差が与えられた。元服してからは落合
浅之助と名乗り、日向宮崎合戦でも活躍した。

(日向記)

釜山の喧嘩騒動と褒美の与え方の話




462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/12(水) 16:14:48.87 ID:SewYdqbu
してその毛利家の何某とはどなたなのですかな?