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大雨で川が気になった義光は

2015年10月29日 13:49

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 14:29:24.21 ID:2fQS1N47
大雨で川が気になった義光は

慶長の頃、長雨と台風で山形城北三の丸を流れる城川(白川・馬見ヶ崎川)の水が増水し、堤防の水位が上がった事を聞いた最上義光は落ち着きがなくなり川の様子を見に行こうとした

家臣らが「川は危険です。報告は私共が行いますので殿(義光)は全体の指示をお願いします」と奏上すると
義光は「そなたらの報告はたしかに承っておる。しかし川は城のすぐ先。故事に一見は百聞よりも勝る(百聞は一見にしかず)と言う
川付近の民らにきちんと避難勧告は届いてているのか?川もたしかに気になるが民あっての義光である
氏江(氏家守棟か氏家光氏か)、ここは任せる。ワシは川を見に行く」
と馬に乗って城を出て行ってしまった

「山形の昔話」

川の増水を見、堤防の決壊を察した義光は矢継ぎ早に家来や肝入(庄屋・名主)に僧や民らを川上の山方に避難させた
川は氾濫し、この洪水で北山形の龍門寺周辺までが大水に漬かったが、義光の行為で人的被害は軽減されたと伝わる



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 15:10:13.02 ID:6Gytu2pF
死亡フラグ回避したいい話か

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 15:36:08.29 ID:c89pYJqB
アイツもう死んでるんですけど

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 16:46:34.82 ID:2fQS1N47
死亡フラグ ファイナル・デッドコースター

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 21:10:56.29 ID:5VwRtjUE
赤座「自分もちょっと増水した川の様子を見てくる」

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/29(木) 10:32:44.80 ID:SKtWbEoR
越中大門川だったら\アッカリーン/してた

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/29(木) 12:30:10.80 ID:C1u/8KrS
実際越中大門川の増水を見に行って溺死では

そして「驍将」「羽州の狐」という異名が誕生した

2015年10月26日 18:49

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/25(日) 15:24:44.40 ID:VCeKIptj


それまで全国的に今以上にマイナーであった最上義光をテーマに本を著したのが誉田慶恩である。

誉田慶恩は「奥羽の驍将-最上義光-」(1967年6月)で駒姫と最上義康の非業の死と、最上義光没後の短期間での御家騒動を元に義光を積極的には評価せずに、
暗殺や謀事の面から「驍将」「強い者に膝を折る卑屈な人物」「暗殺や謀事を得意とする梟雄」といったテーマで人物像を位置付けした。

1971年3月に「山形市史・中世篇」が纏められたが、大部分は誉田慶恩の最上義光像がそのまま公史に取り込まれた。

市史は義光と最上家を取り扱った中世篇から出版がスタートし、古代史篇や史料篇が後年に渡り纏められたが、
郷土史に係わる人物はそれほど多くなく、研究者の数も限られた。
そして最上義光を研究していた佐々木銀弥といった人物がこの市史と前後し登場する。

佐々木銀弥「秀吉の勢力が天下を支配したところ、その威を借りた義光のずるがしこいやりかたは、まさに虎の威を借る『最上のきつね』とでもいうべきであろう」

誉田慶恩並びに佐々木銀弥の本は近世に置ける最上義光のイメージを定着させ
大河「独眼竜政宗」で見られる様な
最上義光=暗殺が得意で裏で暗躍する謀将
ーといった武将像と驍将・最上の狐→羽州の狐の異名が誕生した。




541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/25(日) 16:45:01.99 ID:jaBqglJz
松永霜台と通じるものがあるね

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/25(日) 17:03:25.73 ID:3gq2Bg1h
弾正はあれでええんや…w

大水の後に

2015年10月19日 14:02

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/19(月) 13:53:17.95 ID:imdy5iM4
大水の後に

大水の後に
一、流れて来た木材が上流の橋の材料と判明した場合は返しなさい
一、漂着した船や家材で持ち主がわかるものがあれば肝入(地主・名主)や役人に相談しなさい
一、仏像や御神体を見つけたら大切に扱いなさい

「最上家条々付」

(´・ω・`)川の氾濫や大水の後の拾得物の扱い方





【雑談】徳間書店の新刊の『北天に楽土あり』を買ってみた

2015年10月13日 18:28

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/12(月) 14:25:51.40 ID:Vc45SD/3
徳間書店の新刊の『北天に楽土あり』を買ってみた

208ページの一部
…義光が朝餉をとっていると、一匹の猫が近づいてきた。小姓が連れ出そうとするが、猫は義光の膝に駆け上がり、膳の上の菜にかじりついた
義光「むむっ!」
猫がかじったのは義光が楽しみに取っておいた焼き鮭である…

あ、戦国ちょっといい話悪い話の「かわいいから許す」エピか(´・ω・`)
(原典は山形の昔話)

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3467.html


他にも駒姫が猫を飼っている話など「やる夫が山形城に生まれたようです」からの引用ぽいところも

(´・ω・`)永岡・中村本の「最上義光」よりは面白いんですけどね



475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/13(火) 10:03:52.46 ID:QoCbxlXr
>>470
以後、鮭の味を覚えたネコは毎朝膝の上に乗り....

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/14(水) 13:43:16.35 ID:RPEGoU08
>>470
改易後を義姫と猫にすべてをもって行かれる鮭様本。

義光と好奇心

2015年07月31日 15:03

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/30(木) 12:26:29.65 ID:nMAQyjxo
義光と好奇心

あるとき最上義光は奥州の国境にある座王ヶ嶽(蔵王)という高峯に登った

ここの権現は大和国の金峯山の分身で、月山や鳥海山に並ぶくらいの山峯で、世間に夏が来ても雪が残り、秋に花が遅咲きし、冬には鳥も近づかないくらい過酷な環境の山だった

蔵王の地には常に煙が立ち上がり、「まるで焼ける地獄がこの世にあるかのようだ」と人々は評した

さて、この噴煙の昇る地獄の様な地にとある岩穴があった
岩穴の入口は二丈斗ほどて、どれぐらいの深さかはわからないくらい闇の中に道の様なものが続いていた

義光が山案内の僧に尋ねると「これは『人穴』と言い、冥土にまで続く穴と言われています。昔より余り入る者もおらず、修験の行者が千日業をして内に篭った際には穴の奥から管弦の様な音が聞こえて来たそうです
穴の終焉を調べ様と奥に入って行った者で再び生きて戻って来た者もいなかったはずです」と説明された

義光はこれを聞いて

(´・ω・`)「嗚呼、仙術を学んで習得していたなら末代までの話の種に穴の奥を確かめに行ったのに
凡俗の身だから止めておいた方がいいのか…」と語ったと言われる

「伝信弁手記(残欠本)」




130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/31(金) 08:52:47.40 ID:NxEb3sBj
>>129
「この穴に潜ってみたいから、当主辞めて修行するね!」とか言い出さなかったんだなw

おくりびと

2015年07月29日 13:06

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/29(水) 08:02:34.34 ID:K7P2fOJq
おくりびと

天正年間の事、酒田の東禅寺義長は内陸の最上義光の支援を得、大宝寺義氏に続き大宝寺義興を倒し、その継養子大宝寺義勝(本庄千勝丸)を越後へと駆逐した
酒田・大宝寺・尾浦・田河・余目と庄内一円を手に入れた義長に対し義光は
先の寒河江の大江氏攻めにより最上家に降った大江家旧臣の外交役で長崎城主の中山朝正を補佐として庄内に派遣し
東禅寺義長・勝正兄弟と中山朝正の合議により諸事が執り行われる様になった

しかし庄内にはかつての同僚の東禅寺の一人勝ちと山形からの中山朝正の派遣を快く感じない者があり
「東禅寺の風下にはいられない。いっそ越後の上杉にこの地の政事を任せてはどうか」と旧大宝寺派の国人たちは春日山に密使を送った

上杉方ではこの知らせを大いに喜び、本庄繁長を大将に数千の兵が国境を越え出羽へと侵攻を開始した

上杉軍の出兵を知った中山朝正は急ぎ山形へと援軍を要請

最上義光は草鬼虎助(草苅虎之助)を援軍の先発として六十里越道から庄内へ向かわせ
義光自らも近習や馬廻りばかりを召し連れ後詰としての用意を図った

虎之助は大宝寺南方の尾浦城に着くとすぐさま軍評定を開いた

虎之助「こたびのいくさは急ないくさの上に敵は大軍でその上地下人ですら上杉に靡く者も出ている様です
これからも城の内外にも敵に合力する兵が出るやも知れません
篭城をして味方の中からいつ裏切り者が出るかを不安視するよりは、いっそ城外で上杉相手に短期決戦を臨んだ方が良いのではないでしょうか?
城内にいては思い切って戦う事も叶わなければ、用意も不十分な小城では持ち応える事も難しいでしょう
速やかに売って出、名を万代に残しましょう!
しかし城には味方の妻子もおり、このままでは女や子が上杉兵に捕らえられる危険もあり、これは誰かれの妻よ子よと晒し者にされる可能性があるのは後ろ髪を引かれる様でいくさをするにも集中できません」

軍議に加わっていた氏家守棟の子氏家光棟がこれに意見を申し出た

光棟「中山様が城の女子供を連れ山形へ送り届けては頂けませんか?」

中山朝正はこれを聞いて激怒した

朝正「わしは庄内の政の補佐を殿(最上義光)から命ぜられてきた訳だが、事態が難儀になったからといって庄内を離れ城の女房子供を連れて去ったなら、庄内や上杉の人々は『朝正は女子供をダシに逃げた卑怯者臆病者だ』と嘲られるだろう
そんな世にも恥ずかしい事できるものか!」

光棟「庄内ですら地下人が反旗を翻しております
きっと山形への道中にも野伏せりや人さらい、野党(夜盗)を組む者が現れましょう」

虎之助「中山殿、落ち着いて聞いてくだされ
東禅寺勝正さまはこの尾浦城の主です
私と光棟は加勢を命じられてここに来ました
中山殿は政の補佐役でしたので我々とは訳も立場も異なります
また城には名のある人たちの一門の女子供がたくさんおります
これを敵から捕われずに山形に届けられるのは中山殿しかいらっしゃらないのです
いくさで討ち死にするよりも、義光公への忠義であり、いくさよりも大変な重要な役目です
それなのに嘲り云々と言われるのは中山殿らしくない物言い。ですから諸人のためまた誠の忠節を示すために一刻も早く妻子らを山形へと届けてくだされ」

朝正は肩を落とし「時間がないのは承知。そちらの意見に従います」と応えると城内の妻子らを集め
その後勝正や虎之助の方へ戻ると声を発っした

朝正「いいかいいか、けして死に急ぐな。女子らを山形に届けたらわしは必ずここに戻って来る」

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/29(水) 08:22:37.10 ID:K7P2fOJq
中山朝正一行が月山の高所を過ぎ湯殿山付近の峠を越えたところ、野伏せりや野武士らがあちこちから攻め掛かって来た

朝正は部下の兵たちに「ここで戦えば乱戦となり、女子が一人でもさらわれる事があれば末代までの恥と心得よ!女房たちを先に急がせよ。山険の道は狭い一本道だ
敵は一手にしか攻められぬ故、急げ急げ」と発破を掛けた

野党共は朝正一行を追いかけて来たが、朝正の言う通り山道は先に行く程断崖の一本道しかなかったので
朝正はこの様子を見て号令を発っした

朝正「頃合いぞ!ねりひばりにせん!」

朝正が大薙刀を振り回し敵に突っ込み、部下たちも朝正に遅れてはなるかと突っ込んだ

野党らは斬り捨てられ、或いは谷底にまくり落とされ、残った者は蜘蛛の子を散らす様に逃げて行った

朝正「深追いはするな!目的を見失うでない!」

朝正は人数をまとめ、やがて無事に山形へ到達する事が出来た

「義光物語」

尾浦に残った東禅寺勝正と草苅虎之助、氏家光棟は千安十五里ヶ原の地の露となり
庄内では最上派の国人の池田盛周や阿部某らが気勢を挙げていたが
やがて一人二人と討たれ
ついに庄内は上杉軍の支配する所となった



火事、火事、山形城

2015年07月24日 12:44

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 02:10:38.55 ID:Gqa9tZ/Z
火事、火事、山形城

近年の山形城の復元工事に伴う発掘調査と新史料の発見で、
山形城下が最上義光治世の1584~6年頃(有屋峠合戦前後)、1588年頃(大崎合戦~十五里ヶ原合戦頃)をはじめ、
1580~1620年ほどの間に山形城二ノ丸から市街の主要部に渡る大規模な火事に5~7度程は見舞われていた事が発掘された秀吉時代の金箔山ノ字瓦や地層の灰土からも確認された

また「最上家伝」では義光の治世の折りに書物蔵も全焼し、城下の復興には町民の有志による植木市が役立ったとされているが、義光が山形城を大改築し死亡した後の子の家親や孫の義俊の代にも三ノ丸内や市街で大火事が起きた事が確認された
(義俊の代には蔵王の噴火まで前後している)

山形城復元に当たって最上時代の「本丸御殿絵図(平面図)」(西ヶ谷文庫)と発掘調査の礎石の位置から御殿内部の様子がおおよそ判明したが
昔話では義光時代の本丸御殿の茅葺き屋根の上には見映えは悪いが火事の火消し対策に雨水を貯める水桶が複数据えられていったといった伝承がある

二条城や仙台城の御殿絵図にはそういった火事対策の水桶が屋根の上に据えられていたといった画は無かったかの様に思える

義光が肥前名護屋に唐陣の折りいた際に山形の家臣宛てに書かれたいくつかの手紙には「火の用心」の文字も確認されている

大火事の多かった山形城下の悪い話



105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 08:34:56.45 ID:vljXCLa2
>>101
昔の人は火事に気をつけてたんだなあ。それにひきかえ電撃ジジイときたら。山火事の元を放置してんだから。

乗阿と義光

2015年07月23日 15:40

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 02:43:24.57 ID:fjcy2PWW
乗阿と義光

最上義光は豊臣治世の折りに上方あり
山科言継、細川幽斎、里村紹巴、古田織部らの文人と交流し、文学や茶を学んだ
また京に滞在中に源氏物語の研究者である一花堂乗阿に直接指導を頂き、切り紙(免許)を許された

それからも義光は乗阿を師と仰ぎ交流を深め
慶長8(1603)年に乗阿を山形に招く事に成功した

乗阿は赤松氏の出で、甲斐源氏の武田信虎の養子とも言われ、なかなかの歳ではあったが義光の礼応じ山形を目指した

中途の旅で落馬をして腰を痛めて駕籠に乗り、ついに越後本庄を経て鶴岡から山形へ向かう

乗阿「山形も近くなれば、つくり並べたる家々数多く、柳桜植ゑぬ門もなく、見る目かがやくばかりなれば、おぼえずして又もとの都のうちに帰り入るかと、聞きしにはまさりはベりぬ」
「(山形は)見る目かがやくばかり」
「又もとの都のうちに帰り入るか」

田舎とばかり思われた出羽は義光の街普請で活気に満ちていた

そんな乗阿を迎えに義光自身が山形城の三ノ丸外まで赴いていた

乗阿「はるばるとさ迷い下ってきた心細さも、力がついた心地」

乗阿は山形城そばの光明寺の住職となり、大石(知行)の他にも事あるごとに米や布を持ち切れぬほど給せられ、連日義光やその家臣団に勉強会や連歌の集い、説法等に声を掛けられ持て囃されたという

「道記」

現在光明寺は山形城東大手門前(現山形美術館と最上義光歴史館敷地)から七日町の東側に移されたが、乗阿の墓所は最上家始祖斯波兼頼の墓の左側に佇んでいる



443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 04:31:12.71 ID:ghkLyUV1
ヤクルト乗阿

「殿、何をやってるんですか」

2015年07月23日 15:39

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 01:59:42.46 ID:fjcy2PWW
「殿、何をやってるんですか」

さる年の夏のさながら、高濱(高原?)の山家河内(山家公俊)が知り合いの長岡某といった侍と鷹狩を楽しんでいた時のこと
大川(馬見ヶ崎川か高瀬川か)のほとりに高価な鞍を載せた毛並みの立派な馬が繋がれていた

二人は「これは見事な馬だ。さてはやんごとなき方のものに違いない」と弓を置き笠を外し、その馬の傍らで談笑をしていたところに
川の中からざんぶと音を立てて下衣一丁でざんばら髪ののいかつい男が現れた。

山家・長岡「…」
義光(´・ω・`)「おう、ご苦労」

「山形の昔話」「山形叢話」など

最上義光が供も連れずに方々に、馬で闊歩をしていた話は山形市の各所に遺る
(大雨の日に川の水かさが気になり城川を見に行ったり、手隙を理由に泳ぎや遠乗りに出掛けたり、専称寺に駒姫の墓参りに行ったり、乗阿に光明寺に会いに行ったついでにそのまま街に市の様子を見に行ったり)




90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 06:47:24.66 ID:sC6WpDhO
一人で出回れるくらい治安がよかったのか。帰ったらお説教くらう鮭様の絵が浮かんだ。

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 08:05:01.75 ID:kPu34eeG
>「これは見事な馬だ。さてはやんごとなき方のものに違いない」

それが自分とこの殿様かもしれんとは思わなかったのだろうか?w

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 08:05:25.22 ID:l9rr4M8C
大雨の日に独りで川なんか行くなや

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 08:23:17.45 ID:rdi8lV8G
ちょっと罠の様子を見てくる

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 11:15:49.06 ID:fjcy2PWW
鮭の遡上を聞いていても立ってもいられなくなって馬で飛び出しただの、あまりに頻繁に遠駆けを好むので城門付近で隠れて待ち構えていた家臣に諌められただのといった話もあるのですが、断片的な話しかないので面白そうなものをチョイスしました

95 名前:89[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 14:07:14.55 ID:fjcy2PWW
89の話の詳細ですが、こちらもいくつか細かな内容が異なるものがあり、
「狩の途中に涼を求め河原に降りた侍が立派な馬を見つけた」「これだけの馬だ。いずこの家中のものだろう」「繋がれているからには近くに主がいるに違いない。確かめてやろう」
→川から鮭様登場といった流れですが、その後は具体的にどうしたといった続きはなく、だいたいは馬の主は自分の仕える城の主であると知って驚いたといった尻すぼみのオチになる様です

・運動がてらで遠乗りに行く
・「ちょっとそこまで出掛ける。すぐに戻る」と言って城下に出る
・草苅備前宅に押しかける素振りをする(武藤光安相手の謀事)

織田信長の様に自ら市井の様子を見る事を兼ねていたのかも知れません




庄内失地

2015年07月18日 16:59

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 14:38:27.52 ID:2AhyKDAD
庄内失地

天正16(1588)年春、東禅寺義長の治める庄内に、越後揚北の本庄繁長が突如として侵攻を開始した
旧庄内の領主大宝寺派の国人等も越後勢に呼応し、庄内の地は一挙に騒然となった
大崎合戦の始末で虚を突かれた最上義光は近臣草苅虎之助を大将に数百騎を庄内に派遣し、自身も後詰めとして近習馬廻を召し連れ山形城を発し、各地の諸将士軍勢には「急ぎいくさ仕度をし、庄内境で合流すべし」と早馬を飛ばした

中山境の里見民部は対伊達への牽制で動けず
延沢満延軍は大崎家支援のために陸奥名生にあり、
氏家、志村、鮭延、日野、安食等の郎党たちが次第に庄内境に詰めてきたが、そこには庄内からの敗報が櫛の歯を欠く様に入って来ていた

庄内からの早馬「尾浦の城落城!」

芳しくない報せに義光は血眼になり「無念この上ない!今いる兵だけで構わないから急ぎ押し寄せ味方に合流し、越後勢を留めよかし」とおっしゃったが
氏家守棟志村光安等は「この度はにわかな出陣で号を掛けた領内の兵もまだ馳せ集まっておりません!数百の兵では数千に及ぶ越後勢に敵わぬのも自明の理、地理もまた不利にて難所越えをして戦うのも兵をあたら失う事必定です!」と諌言をした

そこに別な早馬が二三駆けてきて報告した

早馬「地安(千安)黒瀬で東禅寺軍敗北!東禅寺勝正(東禅寺義長の弟)様討ち死に!草苅虎之助様も討ち死に!」

義光は守棟をきっと睨んだが、次の伝令が言葉を続けた

「…氏家様御子息、氏家光棟様、討ち死に!」

守棟「…殿、寡兵では越後勢に敵いませぬ
時期を待ち軍を調え、その上で本懐を遂げさせ玉(給)え」

どちらかが折れなければ収まりがつかなかったが、守棟のこの言葉に義光が折れた

最上義光物語」

その後庄内は上杉領となり、庄内の地が最上家のものとなったのは慶長6(1601)年の関ヶ原始末以降の事である

間に合わなかった援軍の話



76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 15:59:15.71 ID:kMIIe4Qf
貴重な鮭の補給地が

山形新聞、小説「最上義光」7月11日から一年間連載

2015年07月10日 13:25

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/10(金) 09:15:38.48 ID:Yn/oX+Ad
山形新聞、小説「最上義光」7月11日から一年間連載

山形新聞(寒河江社長)ではいよいよ7月11日より小説「最上義光」の連載が始まる。
県外にお住まいの方でもパソコン・タブレット・スマホの有料会員申し込み登録で購読が可能。
現時点では連載後の製本化や県外書店での販売等は未定。
http://kuwabou.com/?page_id=33
http://kuwabou.com/wp/wp-content/uploads/2015/06/img002.jpg
http://yamagata-np.jp/e_yamashin/

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/10(金) 09:32:38.49 ID:WMMFzQoz
>>352
読みたいけど山形新聞かよw
製本化されるのを期待して待つか。

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/10(金) 09:42:56.36 ID:2McPgj1c
>>353
ネットでも見れるじゃないか

いま一と もかみのつちをふみ申度候 みつを一はいのみたく候

2015年07月09日 15:53

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/08(水) 17:57:26.90 ID:+XA+R0Ud
いま一と もかみのつちをふみ申度候 みつを一はいのみたく候

おおよそ100年前に最上義光の業績を調べていた方の資料を頂いたので
その内で気になった部分を

文禄元年(1592)年3月17日公(最上義光)47(歳)
「猶々用所候て 喜成相下候間 可傳達候以上
三月十七日に 洛中打立 同廿八日に境自渡海候て 唐御陣へ打立候 築紫なこやと申所まてなるよしに候
可御心易候
何様秋中者下向可及面談候 爾し其許普請以下 火之用心等□入申候 又者細々と出仕候て 総領殿へ可被掛詞事所希候 事々重而 恐々謹言
此由船越同左馬殿 両人へ傳言□入申候
三月廿八日 義光
蔵増大膳亮殿」

文禄二年(1593)年5月18日公48(歳)
渡海五陣亦は十五陣予定→特別に帰国予定
「(幾字か不明)勅使は明國二人こにしてまへへこし候 たたさへ日本仁かうらいのみやこをにけ候はんと存候みきりの事に候間 よき事に候て 無事之おつかいになし候て 勅使両人をめしつれかうらいのみやこを みなみな引候て ふさんかいへ御みかたほつみ申候
今十五日に 勅使みやこつき被成候 ちとは無事
一 かうらいへの人を御こし候 あか國のうちほくそしろをせめ候へと おほせこされ候
なにと候はんしられ不申候
こそよりかうらいに候御みかたは ちからもなき体にきこへ申候
一 ふんこのやかた
はた三河守 しま田又六郎
かうらいにておくひやうを申候とて しろしろへ御代官入申候
一 木村ひたち
はせ川藤五郎 をはしめ ほそ川けい州のちやくしなとこそ 霜月ほくそうしろにてはいくんを申候
木常なと御やく申て候かにけ候 しんたいめしかられ候かと下々申候
さりなからいままては たた御しかりにはかりにて候 すへもよくあるましきと申候
ふんこのやかたなとの 身の上を御らんし候ても おのおのここもとのさむらいとも あすは我か上と おも□□候へく候 又いまはしんたいほしくもなきやからに 成たきよしもなく候と 人々おほせ
あたまをすり候て いつくの山のおくにも候て いのちをかきりに ありたきとのねかいを おのおのおうせ候
一 われらとかいの事ありさうもなく候
ひたとのへたつね候も かうらいの御みかた 一所にあつまり候て 又はんまいなく候間 人しゆにことはかかす
こめはなく候間 あとよりかうらいへは 人しゆ御こし候ましく候間
心やすく候へと 御かたり候
あわれあわれ そのことくにて いのちのうちに いま一と もかみのつちをふみ申度候
みつを一はいのみたく候
一 上さまは 六月十日のうちに 御上洛と申候
一 いへやすさまへ からちんのやとをなされ候へと うへさまよりおほせつけ候よし 承候間 はしにてもけつり可申と申候て つかいをこし申候へは
そのときわれわれかたへ御ことはりには 不しきに出羽も我等ま此度の命をみつけ候
やかてやかて 國へくたり たかをつかい候はん事 ゆめかうつつかとよろきひ候よし承候
あわれあわれ さやうに候へかし
一 其元うちたてのほりふしんいかか候哉 一度にはまかりなるましく候
一所つつも きわめきわめつかまつり候て よく候わんと存候
ほりは地のしききかたよりほり候て みつをおとしおとし 地のあかりのかたへほり候へはよく候
あわれあわれ ふしんなかはにくた□候て いけんを申度候
一 火の用心 よく候よし候て 火事も無出候よし めてたく存候
干要に候
一 のへさわ家内 おのおのけんこのよし ふみ申候て満足申候
いつかいつかくたり申候て 又五郎ふうふのものに申度候
一 うちたてへ ねうほふ衆 一両人もおき候よし申こし候
尤可然候
わかくよく候を とてもおきてたまわり候へく候 まかりくたり候へは □□しられ不申□□さやうに申候ての ねかひに候へ めてたくかしく
五月十八日 出
いらこしなのとのへ」
包 添 畧

伊佐早氏資料並びに厩氏資料

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/09(木) 16:45:56.25 ID:ob7I3cXM
いま一と もかみのつちをふみ申度候 みつを一はいのみたく候

関連
名護屋からの手紙
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8934.html

包み・添え文を含めて全文のわかりやすい解説があればな…


334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/08(水) 18:43:19.30 ID:+XA+R0Ud
後期の手紙が平仮名だらけになったのは、唐陣の為に山形を長く離れていたストレスで不安がかなり高まっていたからだと勝手に想像している。

寒河江口の戦い

2015年07月08日 15:57

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/08(水) 09:34:06.36 ID:+XA+R0Ud
寒河江口の戦い

山形境寒川の江(寒河江)並びに谷地といった地に大江尭元と城取武任(白鳥長久)といった領主がいた
郎党には羽柴勘十郎(大江頼綱)、曾根文弥、熊野三郎といった豪傑がおり
慈恩寺成盛、金峯大夫坊、地獄谷鬼眼坊といった寺社勢力も地縁人結でこれらの領主と仲が深かった

去際白鳥長久が最上家伝統の出羽守を詐称し、山形を軽んじた事に怒衝した最上義光は謀を巡らし長久を暗殺

義光は山名一吽と氏家守棟と詰膝し、残る河北(大江)対策を論じた

一吽「…重ねて申し上げますが、かように軍を勧め申す事は民の痛み軍卒の疲を存ぜぬにはあらず
もし此義お任せ頂ければ計略を以て諸士御手に属し申し趣…」
守棟「内々面々示し合わせ、計略を仕る旨応申し上げます」

評定は離間計を大江と寒河江の国人や寺社に用いる事が肝要と決し、義光は密使を走らせた

天正12(1584)年寒河江領内の有力勢力の幾人かの内応を取り付け、義光は寒河江攻めを決行

対最上の喉元に突き付けられたる新田や高屋といった大江方の城館に大将義光が真先を駆け、例の鉄棒を奮い味方を卒して突出して働けば、大江勢は寄りつくしまも無し、最上軍は早々に数城を陥落させた

「羽源記」「山形軍談」ほか



寒河江白岩落居之事

2015年07月07日 12:57

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 17:55:11.14 ID:8Yqs3qU3
寒河江白岩落居之事

寒河江橋間の羽柴勘十郎(大江頼綱)が最上軍の銃撃で討たれると、大江軍の勢は「せめて一太刀」と城外へ斬り出て名乗りを上げて討ち死にする者や、老母妻子を思い落ち行く者もいた
昨日の平穏は今日の戦乱の前には夢の滴に等しい

最上軍の将兵は大江軍の残軍を掃討しようとしたところ、義光は鶴声を発っした
(義光)「追撃を止めよ。狼藉もするな。兜を脱ぎ武器を捨て投降する者は羽柴の一族であろうと害(殺傷)してはならぬ
落ち行く者は見逃せ。守りを固め備えを崩さず控え、暫く攻撃を休め」

寒河江城内にもこの義光の声を聞き、兜を外し旗を巻き、続々に降伏する者が現れた

最上義光は戦死者の塚(墓)を築き、寒河江の戦死傷者の一族を労り、怪我人には薬や米を与え、名のある者やいくさ働きで最上軍によく反撃した士卒を召し出し、旗本へ加えた

降参した兵共には「恥は去物。新恩に励み努め」と声を掛け
最上義光を昨日迄は敵と見做していた者も、情は味方怨は敵と、人質や誓紙を用意し、武装を解いて臣従してきた

白岩城には松永右衛門といった大江家の重臣で近郷遠村を纏める者が「勘十郎様の弔い合戦ぞ」と気勢を上げていたが
松永に味方し最上軍に弓を弾こうとする者はなかなかに集まらず
白岩に篭っていた者も「いくさは止めじゃ」「我も我も」と兜を脱ぎ城門を出
松永勢は目も当てられない有り様となり
ついには右衛門を先頭にまとめて氏家守棟の陣に降伏を請取りに来た

守棟は右衛門を義光の下に連れて行き
義光は松永父子の本領を安堵すると「政を糾し猶忠勤を励むように」と命じると
代官を右衛門につけ
寒河江で新たに幕下に加えた旗本を引き連れ山形城へと帰っていった

「羽源記」

最上義光のいくさの後始末の話




二人の士

2015年07月07日 12:57

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 18:33:46.18 ID:8Yqs3qU3
二人の士

義元(※最上義光)が18才の春、身分を隠しわずかな供を連れ諸国を見聞のために旅行していた事があった

相州鎌倉に逗留し、古戦場や旧跡名刹を尋ね廻っていたところ
元は尼子の旧臣が相州日向の薬師堂で、所領を騙し奪われた旧領主の子を義によって扶け、30人近いならず者を数人で討ち取り仇討ちを成功させたといった噂話を聞きつけた

義光は「なんとしてもその人達に会い、運が良ければ家来にして山形に連れて帰りたい!」と
噂を頼りに松ヶ崎といった所で話の尼子の侍と対面した

侍の名は山名一吽。仇討ちには一吽の従兄弟の堀喜吽といった者も加勢していたが、喜吽は7~8人を相手に勇戦したが手傷を負って床からは起き上がれない状態だったので
義光は一吽と頼朝堂で君臣の契りを結ぶと一吽ばかりを先に山形へと連れて帰る事にした

喜吽は「湯治で傷が癒えた後に山形へと向かいます」と翌年山形へ向かう事を約束した

義光と供の者一向と一吽は七人みさきの形にて文庫ありたる金澤から舟に乗り
房州を行脚し清澄山から走水、東金、千葉、八幡、中山、真間法花道場、戸嶋鴻の台古戦場
香取鹿島明神
水戸千の方
棚倉三春二本松より出羽にぞ入りたる

山名一吽最上義光に従い天童・谷地・八ツ沼・庄内・会津陣までのいくさを支え
義光とは魚となり水となり寸暇も離れる事なく文武の師とぞなりにける

義光死後駿河家親に至りて諌臣は次第に退去の時を知り
一吽は隠居をすると暇乞いをし、武州江戸に至り名を変え隠遁し
浅草辺りで後世菩提を願いけり

「羽源記」



34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 21:04:27.29 ID:a/cF0aia
まるで、太閤立志伝みたいな話だなw
てか、堀喜吽さんはどうなったんだろう・・・

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 21:15:04.77 ID:8Yqs3qU3
>>34
1600年10月頭、長谷堂西方狐越街道女子林で直江兼続軍を追撃中、突出した鮭様を諌めようとしたところ義光に「大将が先を征かなくて部下がどうしてついてくる?そんな事を言って敵が怖いのか?」と言われ
売り文句に買い文句で
堀喜吽「私が先に敵(上杉軍)を蹴散らかして来ますから、臆病者かどうかはそこで見てろ!」と突進し
水原親憲の鉄砲隊に狙撃され肩から胸を撃ち抜かれて戦死
(長谷堂合戦屏風に描かれてて、この狙撃で鮭様も兜に被弾)

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 21:25:10.84 ID:DMNMtKxF
ところで、尼子家の旧臣って1000km以上移動したのか。
なんで京都に留まって鹿助の尼子再興軍に参加しなかったんだろ。

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 21:28:40.08 ID:a/cF0aia
>>35
かたじけない。
堀さんはまとめスレにも記事がありましたな。
ていうか、いい歳こいて義光お前・・・

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 21:54:08.12 ID:tKnnyIQM
下総に入って西進したと思ったら東進か
帰りは船かな?

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 22:07:19.57 ID:8Yqs3qU3
山名一吽は尼子滅亡の後
→残軍の多くが毛利に降る
→二君に仕えるのを恥と思い出家し諸山巡り
→従兄弟の堀喜吽が山名一吽の才能を惜しみ筑紫から後を追っかけて来る(堀喜吽は尼子には仕えていなかった兵法者)
→摂津尼崎で喜吽、一吽と再会
→話し合いの結果武者修行
→東国巡り中相模へ

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 22:22:31.66 ID:8Yqs3qU3
>>38
鹿島→水戸(佐竹領)→棚倉三春(内陸)→出羽

ぷらぷら名所を見ながら陸路で山形に帰ったと思われる

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 22:28:22.65 ID:8Yqs3qU3
>>37
1546年正月生まれだから長谷堂の戦いで50代半ば

しかも女子林までに例の愛用の鉄棒で上杉兵を5人ほど叩きのめしてる記録が…

弁寛と鬼虎

2015年07月07日 12:56

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 23:28:57.67 ID:8Yqs3qU3
弁寛と鬼虎

最上義光が八ツ沼城を攻めた時の事、城の中から異様な風体の僧兵が躍り出して来た

身長6尺余、肌は色黒く、渋縄目の鎧に白綾の鉢巻きをし、8尺余りの鉄棒を振りかざし

弁寛「遠くにいる者は音に聞け!近くの者は寄って見よ!
俺は当国一ノ宮羽黒山の飛礫の弁寛さまよ!
仲間からは一騎当千と評され八ツ沼勢に加勢仕まつった
最上義光さんも俺の事は知っているだろう!越後に囚われた大宝寺義氏を救出したときに数万人の敵兵を踏み散らし、本庄繁□を捕縛し、今弁慶と呼ばれた出羽三山一の荒僧兵よ!
いわば俺さまに敵う奴などおらんわ!」

弁寛は城の戸口にあった大石を軽々と担ぐと手鞠の様に2~300町の距離を投げた!

最上軍中に投じられた大石によってある兵は腕を砕かれ、ある兵は人馬とも薙ぎ飛ばされ、手負・死傷者が続出した

(この頃鮭様は敵陣から出て来た龍頭兜の武者を一騎打ちで倒してその首級を上げ、意気揚々と陣に戻る途中で城の様子には気付いていない)

弁寛「さて」

弁寛が馬にも乗らずに鉄棒を構えて最上軍の寄せ手に討ち掛かってきた!

最上義光の旗本に獣の名をもつ大剛の士で工藤鬼虎といった者がいた

鬼虎の力は80人分にも相当し、敵を生け捕る名手と呼ばれていた

鬼虎は黒革威の鎧に五枚□の緒をしめ、これはこれでやはり鉄棒を得物として装備し、

鬼虎「この坊主の料理は俺に任せろ!」と弁寛の前に立ち塞がった

弁寛は大いに嘲笑うと鬼虎に鉄棒を振り降ろし攻撃を仕掛けた

鬼虎が不利と見たある最上兵は火縄銃で弁寛を撃とうと狙いをつけようとしたが
鬼虎は鉄棒を捨てて素手で弁寛を捕まえ様とタックルをかまし
むんずと組み合い引くや押すやを繰り返した

敵も味方も二人の力試しを固唾を呑んで見つめたが
二人の力が余りにも強く
踏ん張った足が崖を割り、いきなり足場が崩れた!

義光(´・ω・`)「あっ!」

二人は組みながら数百丈の谷底に落ちていってしまった…

双方助ニアフベク様モナシ
死生知ラレザリケリ

その後二人の姿を見た者はいない

「羽源記」




八ツ沼春日沼の伝説

2015年06月26日 11:59

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/26(金) 10:39:47.49 ID:xs6h9JXm
八ツ沼春日沼の伝説

山形県朝日町の八ツ沼にはかつて八ツ沼城という天険の要害があった

戦国時代に敦賀城主の原甲斐(原忠重)が戦に敗れて後、出羽に逃れて八ツ沼の地に入った
八ツ沼城の東方には鳥屋ヶ森の城館があり、木曾義仲の末裔と言われる鳥谷ヶ森城主の幾志美作(岸義満)には弥生姫という美しい娘がいた

原忠重には美濃守半兵衛(原兼道)という嫡男があり、果沼の薬師祭に偶然弥生姫と兼道の二人が出会い、互いを好くようになった

しかしある日兼道が弥生姫を八ツ沼の春日沼に誘って逢瀬を楽しんでいたところ、
隣接地の和合領主和合但馬(和合秋広)が弥生姫に一目惚れし、姫に結婚を迫ったが、岸義満は姫を原兼道に嫁がせると断りを入れた

和合秋広弥生姫を諦められずに祝儀の日に宮宿で伊達の久保姫掠奪の例に倣いこれを奪おうとしたが原勢の護衛に返り討ちに遭い、私怨から山形の最上義光に「岸と原が共謀し、近く山形攻めを画策している」と偽りの書状を持たせた密使を送った

永禄8(1565)年8月、和合秋広の手引により最上義光は八ツ沼攻めを決意

城に鹿垣や逆茂木を配し、岸・原勢は、小関加左衛門、飯沼源八や客僧将羽黒弁寛、白田某、鈴木、清野といった者たちが善戦したが、最上軍の大軍の猛攻の前に城は数日で落ちた

兼道と弥生姫は落城を前に城の裏手の春日沼に身を投げ、今でも二人は湖底で夫婦として暮らしていると伝えられている

五百川の伝説

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/26(金) 11:00:54.28 ID:xs6h9JXm
※永禄8(1565)年説は朝日町に伝わるもの。寒河江合戦の後の話から実際には天正期(1580年代)の事と思われる



最上義光その外の塚など苔むして残れり

2015年06月05日 18:16

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/05(金) 01:18:54.83 ID:+JJ2fW0M
天明8(1788)年、幕府の地方巡見役に随行していた古川古松は山形の光禅寺を訪れた

「山形に光禅寺という禅院あり
最上氏(最上義光と家親)墳墓の地にて百万石領し給う節建立あり、その節は堂塔魏然として結構なりしに、物替わり星移りて今は破壊の古跡となれり
境内広く、最上義光その外の塚など苔むして残れり」

『東遊雑記』

最上義光の本廟は荒れ、殉死者の墓は苔むし、寺の堂宇も傷みや倒壊が目立ったという、親藩大名の左遷地となり、寺領の減ったかつての大寺院の廃墟の様を物語るちょっと悪い話



最上軍の追撃

2015年05月22日 13:02

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 02:27:57.79 ID:nWgigd4P
最上軍の追撃

慶長5(1600)年9月末日、直江兼続は負傷兵と荷駄隊を陣の後方へ移送し、富神山から幡屋(畑谷城)の方へと引いていた
菅沢の旧本陣には水原親憲を殿として残し、10月朔日(1日)の早朝をもって米沢へ向けての全軍撤退とされていた

山形城を出、須川沿いに陣を展開していた最上義光に関ヶ原で東軍が勝利したとの報が着いたのが同9月末日の午後(?)
義光は翌朔日(10月1日)早朝をもって直江軍を追撫する旨を全軍に布告し、長谷堂へも早馬を走らせた

朔日(10月1日)日も出る前、菅沢の水原軍は陣を焼き撤退を開始
タイミングを図っていた義光は上がる火の手を見て味方を鼓舞をするや否や陣頭に立ち、すぐに追撃戦に入った

富神山麓で水原軍と最上軍は混戦に入る

義光は肌身離さず常に携えていた例の鉄棒を振り回し、逃げ惑う上杉軍を追い駆けた

朝日が昇る頃秋霧の立ち込める女子林なる處に来たる迄、五人程の上杉兵を御手自らその鉄棒で打ち据え撲垰(殴り倒し)、尚も追撃しようとしたところ、
前線は拡がり、敵味方は方々で乱戦の状態であったので、最前線の義光の周りには僅かな馬廻りと供の者しか着いて来れない在様(ありさま)だった

堀喜吽といった法師武者が義光に馬を近付け
「敵がどこに潜んでいるかも知れません。後方の兵(本隊)が追いつくまで今暫く追撃をお待ちください」と諌めたが
義光は喜吽に「直江軍が勢を崩している機(機会)である。味方が追いつく迄待っていては敵を逃してしまう
その様な事を言って戦いが怖いのか?不覚者」と強い口調で抗議した

喜吽は「我は臆病風に吹かれたのではありません。そこまで言われるのなら先に上杉兵を蹴散らして参ります。剛勇の程を此で見ていてくだされ!」と反論すると数町馬を走らせたが、
薮に隠れていた上杉兵に狙撃され、胸板を貫かれ落馬して果てた

義光の兜にも弾丸は当たり、義光に付き従っていた志村藤右衛門等も銃撃により討ち死にした

山一つを隔て最上義康が隊を引き連れ義光に追いついて来たが、直江軍は岩陰や薮、林に鉄砲隊を配し
最上軍に一撃加えては撤退を幾度も繰り返した

10月2日(?)曼珠ヶ鼻を越える迄最上・上杉軍は戦闘

義光の息子の山野辺右衛門佐光茂(山野辺義忠)は撤退する直江軍を最後まで追撃しようとしたと伝わる

「奥羽永慶軍記」「冩山形軍談(残欠本)」

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 02:44:35.34 ID:nWgigd4P
※過去に出て来た話と異なる部分は
堀喜吽とのやり取りがかなりはしょられている
「大将が先を行かずして、どうして兵がついてくる」が「上杉軍に最集結(反撃)の機会と逃げる機会を与えてしまう」といったものになっている
10月1日だけでなく、2日目以降も戦闘が続けられた事になっている
9月30日には直江兼続がすでに後方に引き始めている

※山野辺義忠はこの時13歳で、書き物によっては徳川家康に人質として出されている
(光茂は清水義親の旧名なので混同されているとも)

(´・ω・`)正直どの話が正しいのかよくわかりませぬ




長谷堂合戦図屏風

2015年05月15日 18:31

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/14(木) 20:21:20.12 ID:ARBECF2Q
長谷堂合戦図屏風

秋田県湯沢の斎藤家に「奥羽永慶軍記」の著者の戸部一敢斎(戸部正直)の筆とされる合戦図屏風がある

箱の墨書は「戸部一閑之画屏風一雙入 明治貮拾五年辰八月吉日記 湯沢町斎藤氏」
蓋裏には「戸部一閑之画最上合戦之図一雙入」

しかしこの屏風図は現存している戸部正直の絵画とは筆致が異なるとされ、屏風に描かれた人物に付随する人名にもいくつかの異なる時代と字体の文字が確認された

それまでこの合戦図屏風は湯沢の小野寺氏と最上勢が戦った「有屋峠合戦図」と称されていたが、
湯沢市の文化財として再調査がなされるまで、図中の人物名から合戦が有屋峠とは無関係の長谷堂のものを描いている事は特には問題になされていなかった模様

屏風は戦いの序盤と中盤を描いた右隻と、終盤を描いた左隻の六曲一双から成り
序盤には上杉軍を急襲する鮭延秀綱勢とそれを援護する志村光安勢が
また終盤には直江軍を追撃するために先陣を駆ける義光公と、それを止めようとする家臣たちの姿が描かれている

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/14(木) 20:34:09.37 ID:ARBECF2Q
↓序盤から中盤
http://samidare.jp/yoshiaki/box/hasedo-1.jpg
hasedo-2[1]

↓徹退する直江軍と追撃する最上義光。真ん中辺りには義光を引き留め様として直江軍の鉄砲隊に討たれる堀喜吽の姿も
http://samidare.jp/yoshiaki/box/hasedo-2.jpg
hasedo-2[1]

武将詳細
http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=93454



778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/14(木) 22:26:12.77 ID:3+jS2T4R
やはり大河ドラマシスコン最上義光決定だな。天地人で残念だった長谷堂をがっつりやってくれ

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/15(金) 08:25:04.03 ID:ihLIDHz5
携帯でさらっと読み流していたら、ドラマシスコンがドンフランシスコに見えたorz
いつ洗礼なんか受けたっけと本気で悩んじゃったよ

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/15(金) 08:53:56.91 ID:DPdAmh7s
>>779
笑わすなw

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/15(金) 10:05:07.42 ID:SO70f9ju
元祖ドン・フランシスコが怒っております

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/15(金) 11:10:38.84 ID:ihLIDHz5
振っておいてさらに脱線するのもなんだが、ドン・フランシスコて菓子が由布にあるんだな
モンドセレクションで12年連続金賞とかどうなってんのよ

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/15(金) 11:59:26.31 ID:LqnsQeBe
知らないの?
主水セレクション金賞はお金を納めれば誰でも貰えるんだよ、ググってみ