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週間ブログ拍手ランキング【07/04~/10】

2019年07月10日 13:27

07/04~/10のブログ拍手ランキングです!



その心持が面白かった 7
森武蔵守平井頼母を討つ 7

尊公を一度御代に立てて、三好一族も安堵申したい 6

安国寺肩衝 5
森武蔵守土岐三河守を討つ 5
「能ある鷹は爪を隠す」は「北条氏直時分諺留」が元 5

太郎信勝の良き生まれ付きも 3
心安い人に、茶室の外での立ち振舞を見られてしまっては 3
悪くなるのは仕方のないこと 3
田島の屋敷 2



今週の1位はこちら!その心持が面白かったです!
珍しく(?)、千利休が翻弄されている感のあるお話ですね。墨跡の所有者、善意と嫌味のギリギリのラインをきっちり
攻めてくるあたり、なんとも京都人っぽいなと思ってしまうのは一首の偏見でしょうかw
それにしても、多くの場合「茶聖」「茶哲」として、茶の世界では他者を圧する天才と描かれがちな利休ですが、
こういうお話を見ると、彼も他者から一本取られる、血の通った人間だったのだな、という気持ちにさせてくれます。
そんな、利休の多様性も感じ取れる、よいお話だと思いました。

今週は同票でもう一つ!森武蔵守平井頼母を討つです!
森長可による平井頼母謀殺とその後の波紋の物語。鬼武蔵の側の苛烈さが目に付きますが、そもそもは平井頼母の無礼(?)が
発端です。これが事実かどうかはともかく、この頃鬼武蔵は未だ25,6歳という比較的若年であり、特に本能寺後美濃に帰国した
後は、寵愛を受けていた信長の庇護を失ったこともあり、周辺国衆から甘く見られていた部分は有ったと思うのです。
信長より与えられた川中島の所領を放棄して帰国したことも、決して勇猛なこととは見られなかったでしょうしね。
森長可の美濃帰国後に、暴勇と言っていい逸話や戦い方が多く見られるのも、そういった周辺の見る目を改めさせるという意図が
少なからず有ったのではないか、なんて思ったりします。

今週管理人が気になった逸話は、もう一つ鬼武蔵!森武蔵守土岐三河守を討つです!
FGOにも取り上げられ、鬼武蔵界隈があらためて盛り上がりそうですしねw
こちらも本能寺後の、鬼武蔵による久々利頼興謀殺のお話。「仕済みたり」という最後のセリフも恐々たる響きがありますね。
そして久々利頼興をはじめ、兼山周辺の国衆が、息を潜めて本能寺後の情勢を見極めようとしていた様子も感じ取れます。
この逸話の鬼武蔵も、謀を用い騙し討にするなど非常に梟雄的ですね。逆にそういう手段を取らざるを得ないというところに、
当時の森家の置かれた状況を感じることが出来るかもしれません。
森武蔵守平井頼母を討つの方にある「今の治平の世」というのは、信長の時代をそう受け取っていたということであり、
信長の横死で自力救済の世界が復活したことを表しているとも言えるでしょう。
信長権力の元で押さえつけられ変化しつつ有ったものが、いざタガが外れた時どんな事が起こったか、を感じさせてくれる
お話でも有るなと思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました!いつもありがとうございます。
また気になった逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやって下さいね!
(/・ω・)/

田島の屋敷

2019年07月09日 18:29

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 15:32:28.95 ID:xtfu1St6
大神君(徳川家康)は忍の近辺で御鷹野をなされた。その節、岩松万次郎殿(守純)は御先祖である
新田の御末葉で、御尋ねになったところ新田に幽居して郷民どもは尊敬し、助力仕っているとの由が
御聞に達した。

そこで御会い遊ばされる旨を仰せ出された。これにより(岩松が)忍に参られて御目見した時、岩松
は、当家は嫡流で大神君は御末葉(当流之嫡流大神君には御末葉)との由を以前から家自慢申されて
おり、御前でも同様で、「内府は結構な御巡り合わせです。目出度い(内府は結構之御仕合目出度)」
との由を仰せ上げられた。

これにより大神君も驚き思し召し、御物も仰せられず内に御入りになったという。その後「餓死せぬ
ように」と仰せ出されて、御代官所より20石ずつを進め来たるという。

忠秋公(阿部忠秋)が忍を御拝領の折、御代官中より申し継いだので此方様方(忠秋)より20石ず
つを岩松殿に進めなさり、その後、厳有院様(徳川家綱)の御代に忠秋公は仰せ上げられ、岩松は御
先祖様の御筋目なので御知行を下されるように御世話をなされた。

当時は万次郎殿(富純か)の御亡父(秀純か)の御代で、御知行の屋敷まで御拝領を仰せ出された。
御知行の場所も良き所を渡すように御代官所に仰せ渡しなさったので、此方様(岩松)は御家の御厚
恩と思し召したとの由で、御知行の所も百石御拝領したところ、3百俵程を納めたという。

屋敷も3万坪あって林の惣囲いだという。“田島の屋敷”と申す。

(原注:義貞公(新田義貞)の御居城は分かっているけれども、御当家(徳川家)御先祖の有親公・
親氏公の御居住の場所は分からないという。もしかすると、只今の万徳寺比丘尼の所に大木などがあ
り、景色は常ならぬ場所というが、「ひょっとして、ここでもあろうか」と岩松万次郎殿は仰せられ
たという)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 21:03:41.02 ID:g5uv+C8i
系図貸してって呼び出した時のお話か
岩松は足利義兼の庶長子の出であり且つ源姓畠山の祖でもあるからプライドは高いんだろうなあ

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 23:28:48.29 ID:AaMMFxaz
岩松家を下克上し、守純にとっては親父の仇・由良氏を召抱えてて
そんなのが新田を仮冒して一門面して会いたいって言ってきたわけで……
皮肉の一つもいいたくなるでしょ

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 07:56:39.66 ID:EhSynLtZ
なるほど
そうでもなきゃ神君怒るよね

安国寺肩衝

2019年07月09日 13:25

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:25:24.04 ID:0PpH8yMY
三斎公(細川忠興)は、父幽斎より譲られた肩衝(茶入)を、心にかなわないと安国寺恵瓊へ一千貫で売られた。
その後、安国寺恵瓊が処刑された折、この肩衝は徳川家康公の元に献上された。

ところで安国寺恵瓊の処刑の原因と成った石田三成の乱(関ヶ原の戦い)の時、津田平左衛門(正しくは小平次、
秀政)が家康公に
「天下がお手に入ること必定でしょう、その仕置の際、多数の肩衝が献上されると思います。その中から
必ず拝領をいたしたく思います。」
と申し上げた所、家康公は非常に機嫌よく「そのこと、そのこと」と申された。

合戦後、予想した通りに1日だけで肩衝が16も献上された。この時津田にも新たに領地を与えるとの
上意であった所、「忝ない事ですが、青野ヶ原(関ヶ原)で申し上げましたように、御加増よりも
御茶入を拝領いたしたいのです。」と重ねて言上したため、「尤もである」と、この安国寺肩衝を拝領した。

その後これを三斎公が一万貫で買い取り、中山と銘をつけた。
(筆者注:この時忠興は安国寺肩衝を黙って懐に入れ持ち帰り、後で代銀を届けたという)

この肩衝を見た時、三斎公はこのように詠まれた

 年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり佐夜の中山

これは西行法師が関東での修行から帰る時に詠まれたもので、「下るときはまた越えねばならないとは
思っていなかったのだが、今越えることとなった。命が有ればこの佐夜鹿峠のような難所を越えるという
憂鬱な目にも逢うものだ。」という意味である。

この茶入は子息の越中守(忠利)に譲られましたが、後に越中守は金子1600枚で酒井宮内少輔(忠勝)に
売却されたという。

(三斎伝書)

関連
細川忠興と『有明の茶入』


その心持が面白かった

2019年07月08日 17:50

千利休   
71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 21:56:58.28 ID:v9H8Sln5
ある時、千利休が、「圜悟(えんご)の墨跡(中国宋代の臨済宗の僧、圜悟克勤の墨跡。村田珠光が
一休宗純より印可証明として与えられたとされる)を御覧ください。」と、前田肥前守(利長)、蒲生氏郷
牧村兵部、細川三斎(忠興)の四人を、その墨跡を所持する人の茶会に案内する段取りを付けた。

ところがこの茶会の当日、急にこの利休ら5人に豊臣秀次公よりお召があり、時刻も過ぎて茶会に間に合わなく
なったため、利休は人を遣わして「御前に用が出来たのでご容赦していただきたい。料理も結構ですので、
御用意なされませんように。菓子にて御茶を頂きたいと思います。」と伝えた所、「やむを得ません、
御用が終わり次第お出で下さい。」と返事が有った。

そうして日が暮れてから、手燭を出しての席入と成った。入る時に利休が「手燭を持って床の掛け物をよく
御覧になって下さい。」と申した所、亭主である墨跡の所有者は障子を開けて出て、利休に対し
「どうぞ墨跡をお焼き下さい。」と言った。これに利休は「面目を失った。」と言った。

中に入ると金銀を散りばめ、土器などにも絵を描いた豪華な料理が出た。これを見た利休が
「料理は無用と御連絡したではないですか。さてさて合点の行かないことです。」と申した所、亭主は
「ご尤もです。しかしこれは、食事を召し上がるように、との事ではありません。皆様が私のところへ
お出でになられるということで、ただ忝なさのあまりこれを用意したのです。召し上がるには及びません。」
と答えた。利休は「また恥をかいた。」と言った。

後に三斎公は「その心持が面白かった。」と言われた。

(三斎伝書)



72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 22:17:22.94 ID:3+H2OFSP
いわゆる小者

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 05:56:03.31 ID:PErBWv+E
当日キャンセルをかます成り上がり者に対する亭主の抵抗が窺える

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 19:30:32.72 ID:FDy5Rb+b
戦国時代とはいえ割と面倒くさいこともしてんだなw

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 21:10:55.98 ID:6lk5Uw6S
小者ってのは いつの時代も大して変わりゃしない

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:31:12.85 ID:BTnI+Yho
どこの誰なんでしょうね

森武蔵守平井頼母を討つ

2019年07月07日 13:05

森長可   
231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 04:07:09.23 ID:2ZKpV0XZ
森武蔵守平井頼母を討つ

岩村城主・森蘭丸は京都本能寺の変に殉じたので、森氏家中の各務兵庫(元正)を城代に遣わした。土岐の
高山・小里及び明智分は城附である。

高山の城主・平井頼母方へ森長可は使者をもって曰く、「貴殿の領地は当方の朱印の内なので、紛れもなく
当家中である。そうであるからには金山に屋敷を渡し申すので、近日参着して受けとるように」と。平井は
使者に対面し「下命の趣、つぶさに承る」と言って、急に返状をしたためて使者に渡した。

 来命を受けるといえども、いささか承知しがたい。

 さて私は元来播磨国に城を有し、昔より数代の将軍にかしずき、諸騒乱の時のみならず木曽の戦の砌に
 は、織田信長公に従って木曽路に迫り、丹波国の住人・西尾某は3百余人を率いて上海道を固めて、土
 岐郡釡戸境権現の城を守った。某もまた2百余騎を率いて伊賀・伊勢・尾張から下海道の要害として当
 城を固め、ついに軍功をなして自力の働きあり。

 しかるに何故、今新たに武蔵守に属すというのか。まったくもって思慮に及ばぬなり。よって返状かく
 の如し。

         天正11末年(1583)正月      平井頼母佐

                  森武蔵守殿

この返状が武蔵守のもとに至る。武蔵守はこれを見て「頼母方は当方の領分でありながら、謂れなきこの言
い立て、近頃のわがままな振る舞い以ての外である! 高山の城へ押し寄せて討ち取るべし、用意せよ!」
と命ず。時に森主水が進んで曰く「今の治平の世に、私に弓矢を弄んではこれ偏に乱を好むようなものです。
私がよろしくこれを処しましょう」と。武蔵守が主水に任じると、主水はすなわち家中の高木与一を久々利
に招いて、密かに内談した。

与一は分別して「まず私が高山の城主・頼母に対面して、計略をもって我が方へ招き寄せて詰腹を切らせま
しょう。私に了見があります」と言い、高山の城へ馳せ参った。頼母に対面すると慇懃に一礼を述べ、次に
「今日某が来城したのは別儀にあらず。この度、貴方より武蔵守へ返状した趣を、君公(長可)は甚だしく
立腹しています。しかしながら私がよろしく取り成し、そのうえ和睦を取り繕うとしています。内談もして
頂ければ」と来訪を勧めた。頼母はその好意を感謝し、「明日推参する」と約束した。高木与一は急ぎ立ち
帰り、屈強の武者2,30人に旨を含めて、頼母が来るのを待った。

平井は家老の土本某とその他家来2人を連れて、久々利に高木を訪ねた。与一は迎え出て、山海の珍味でこ
れを遇した。予め用意した兵どもは広縁の先に出ると「森武蔵守の命である! 平井頼母急ぎ切腹せよ!」と
大音声で呼ばわった。

平井は思いも寄らず「そのこと心得難し! 誰かある!」と呼べば、随行の家老を始めとして部下2,3人が
太刀を抜き、切り出て守り戦うも衆寡敵せず、多勢に切り立てられついに土本は討たれ、他の者どもは皆逃
れ去った。平井も今や叶わぬと思ったのか押し肌を脱いで、「口惜しや! 高木に謀られたるか!」と腹を十
文字に掻き切って死んだ。与一は立ち寄って首を掻き、ただちに武蔵守に送った。

この報が高山に至る。頼母の嫡子・巳之助はすでに13歳の時に母と離別し、今また18歳で父を討たれて
愁嘆限りなし。頼母の妾のまのという者は腹に子を持っていた。

時に巳之助は命長らえても仕方のないことと既に切腹せんとするのを、まのはすがり付いて「どうして切腹
するのです! 播州には一門多し、一先ずはかの地へ忍び、両親の御菩提のために出家しなされ! まず私の
故郷である渡合の里に姥母の家もありますから、ここへ忍ばれませ。幸いにもまた、虎渓山の慶徳院の僧は
播州生まれで、先君と縁だと常に承っておりますから、播州への案内も私から願い出ましょう。それ故、急
ぎ渡合の里へ忍びなされ!」と諫めれば、巳之助ももっともであると部下1人を連れて渡合へ落ちて行った。

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 04:14:45.25 ID:2ZKpV0XZ
小里城主・和田彦五郎、明智城主・遠山民部(景行)らはこの由を聞き、密かに城を開けて各々立ち退いた。
さて小里・明智の両城主は三河辺りに隠れる。武蔵守は高山の次第を聞き、林長兵衛(為忠)を城代とする。

さて林長兵衛はその城下の百姓どもを召し寄せ「この度、平井の一子・巳之助が落去した。所在が分かった
らただちに当方へ知らせよ」と命ず。百姓どもは村々家並に触れを出した。しかるに渡合にいたまのの母は
この由を聞いたことにより娘に密かに告げ、「巳之助を匿ってもし高山に漏れ聞こえたら、どんな憂き目に
あうかも計り難い。密かに訴人して汝も我も命を逃れようと思うがどうか」と語った。

まのは思って「さてはもはや命のほども知れた老母! 今際も知れぬ歳で訴人し命長らえようと計る所存は、
親子ながら恨めしい!」と申せば老母は手持無沙汰の顔をして、ただしおしおと立ち出て後ろの山に登って
行く。まのはこの様子を見るなり「さては訴人するか!」と合点して、老母の心底委細を巳之助に告げた。

巳之助は「そうだろうな。某はこのように世に落ちたのだから是非もなし。討手が向かうなら討死する所存
である。汝は若君を連れてここから妻木の家中に忍び、中垣助右衛門を訪ねて行って、この由かくの如しと
頼み申せ」とあって、まのは仰せを承る。

「私とて女であっても心は男に違いありません。この若君を刺し殺して御最期の御供申さん! たとえ討手
が50騎,百騎来ようとも私が防ぎ申します! 主君はその間に御自害なされよ!」と、まのは足を上げて
力足を踏めば、大地も動くほどであった。

巳之助もこの有様を見て「汝は常に柔和に見えたが今の有様は、まことに木曽義仲の妾の巴とやらもどうし
て汝に勝てようか。たとえ軍兵50騎,百騎が押し寄せてくるとも恐れるに足らず。けれども今を限りの我
が命、所詮長らえることはできない。是非若君を連れて落ち、成長すれば父母、次には私の忌日も語り知ら
せて菩提を頼むぞ!」と是非に是非にと促せば、まのも今は力及ばずして「主君の仰せならば」と泣く泣く
妻木の城下へ落ちて行った。

そこへ討手の大勢が馳せ来たり「頼母の一子・巳之助がここにいる由により討手に向かった! 早く御切腹
あらせられよ!」と呼ばわると、「平井の一子・巳之助これにあり!」と言うやいなや太刀を振りかざして
受けつ開きつ戦ったが、さしもの大勢に切り立てられて思わず後ろのいり(圦か)へ落ち込んだ。討手の者
どもがこれを見て、松明に火を付け振るが如くに投げ込めば、どうして堪えられようか、ついに巳之助は空
しくなりにけり。討手の者どもは首を取り、勝鬨を揚げて帰った。

また、まのはようやく妻木の城下に着き、中垣助右衛門を訪ねて泣く泣く始終を語れば、助右衛門はこれを
聞き「さても頼母氏は切腹、巳之助も今を限りとは痛ましき有様なるかな。願いのままに親子諸共匿い申す
のは安きことだが、ここは高山に程近い。幸い尾州品野の里に永井作右エ門という私の縁者がいる。私から
書状をもって頼み送ろう。まず今宵はここで休息せよ」と心を尽くして言った。

まのは一入力を得て当方の子を抱いて中垣に向かい「このうえの情には、この君は未だ名もありません。名
を付けて頂ければ生々の情でございます」と申すと、中垣は「しからば」と自分の名を形取り“平井助五郎”
と呼ばしむ。程なく夜も明ければ、仲間1人を添えて尾州品野村の永井氏へ送られた。作右エ門は承知して
「5年,10年匿い申そう!」と頼もしく申されたので、諸共に安堵したのである。

かくて助五郎まだ7歳の時、土岐郡の某はかねてこの事々を詳しく伝え聞き「養子にしたい」と永井氏へ申
し入れると、永井氏は「いかにも所望に任せよう。しかしながらこの人は深い由緒のある者なので、養子と
なされても平井の名字を名乗らせられたし」と、肥田の某の方へ送り遣わした。しかるにこの時は森長可
討死して、舎弟の森右近忠政の代であった。

――『妻木戦記』



234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:55:25.67 ID:BTnI+Yho
>>232
戦国の世とはいえ読んでてつらい

森武蔵守土岐三河守を討つ

2019年07月06日 13:07

森長可   
230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/05(金) 21:28:01.80 ID:+PSLviV1
森武蔵守土岐三河守を討つ

可児郡兼山城烏峰は、永禄年中に信長公の下知によって森越守可勝(越後守可行)が城主であった。その
子・三左衛門可成を経て、武蔵守長可に至って当時は信濃にいたのだが、信長の凶変(本能寺の変)を知
ると急いで帰って領地の可児郡木曽川を限り、恵那・土岐三郡の内7万5千石を有す。ただし妻木領はそ
の他である。

さて妻木(広忠)の舎弟・喜十郎頼明、及び妻木長兵衛頼知の嫡男・久右衛門惟知両人は森長可へ降って
旗下となる。惟知は名を“日本六蔵”と改める。

長可は久々利城を降さんとの意あり。されど三河守(久々利頼興)は文武二道の達人なので、容易に討つ
ことはできないため、方便をもって討とうとする。天正11年(1583)正月、使者を送り、とにもか
くにも打ち続いている疎遠を謝罪し、さて軍議仕りたいので御大儀ながら御来駕を待っている由を、慇懃
に申し送った。

三河守は返答して「口上の委細は承知したけれども近頃は不快(病気)に付き重ねて折を得て、もって参
上致そう」と使者は復命した。長可は重ねて使者を遣わして言う。

「御所労に付き御出馬なき由ですが、当節は取り分け穏やかならぬ砌ですから御疑いもありましょう。貴
殿は信長公の御噂でも、『近辺に肩を並べる者はなし。味方にしたいものだ』と仰せられた程で、貴公よ
り他に頼む方はおりません。御疑いを散ずるがため、舎弟の仙千代(森忠政)を人質に遣わしますので、
隔意なく水魚の思いをなされてしかるべきです。もし御来駕が長引くに及びますれば私めが推参申します」

と、清げなる若武者を仙千代に作り立てて乗り物に取り乗せ、侍2人を差し添え日本六蔵を使者にして、
程なく久々利へ赴いた。三河守に対面して弁舌あざやかに言い、巧みに述べたところ三河守は易々と方便
に落ちて気を許し、「再三の御使者、殊に人質まで御念の入ったこと痛み入る。それならば明日参上して
御意を得申すべし」とのことであった。

よって人質ばかり返し置き(残し置き?)、程なく日本六蔵は首尾良く立ち帰り、ただちに登城してこの
由を武蔵守に告ぐ。武蔵守は喜ぶこと限りなく、ただちに佳酒美肴をもって歓待した。

翌朝、三河守は烏峰に入る。武蔵守は対面してその厚遇に至らざることなし。三河守曰く「御相談の事が
あるとして再度の使者、殊に我が疑いを散ずるがために人質を送られた心底分明、どうして疑おうか。故
に舎弟の仙千代殿と同道して来城したものである」と仙千代を返す。

武蔵守はいよいよ喜び「御承諾のことは大慶浅からず。さてまた相談の事とは他でもない」と雑談を繰り
返し繰り返し、酒を持たせて饗応した。その時の吸い物は鹿だという。台所は狼狽えて生の鹿を出した。

盃が終わって三河守は退城しようとする。かねて合図していた者ども8,9人はこれを送った。城の坂の
東にかかり、板の洞の大道に達する頃に「帰られよ」と言って、三河守が何心なく馬に乗ろうとしたとこ
ろを、戸田勘右衛門(勘左衛門)が抜き打ちに肩先から脇腹にかけて切り落とせば、従者も案に相違して
驚き入り、抜き合わせようとしたが敵い難く是非もなし。皆散々に逃れ帰った。

かくして三河守の首を取り、実検に備える。長可は「仕済みたり」と喜んで久々利を押領し、戸田勘右衛
門を置いて守らせた。

――『妻木戦記』



太郎信勝の良き生まれ付きも

2019年07月05日 18:26

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/05(金) 01:56:33.78 ID:mC5kOoJC
(前略)しかればその太郎信勝公(武田信勝)11歳の時、小姓衆多き中にて近習である友野形部の
息子の又一郎と、日向源藤斎の息子の伝次とで「扇切りを致せ」と太郎殿は仰せになった。

その時、友野又一郎は腰に差している扇を抜く。日向伝次は手に持っている扇を腰に差して、指を立
てて向かう。その時に信勝は「はや見えたるぞ、置け。せぬ扇切りに伝次は勝ったこと、逸物の心で
ある」と褒めなさり、日向に褒美を遊ばす。

これを高坂弾正は聞いて曰く、

「この御曹司太郎信勝は近代の名人の大将衆、安芸の元就・北条氏康・北越の輝虎(上杉謙信)・尾
州信長・三州の家康・祖父信玄公の幼い頃に似ている。そのような信勝でおありならば…」

と、只今武田の家は万事政事みだりになり、一昨年長篠にて勝頼公は御分別相違なされた故、長坂長
閑(光堅)・跡部大炊助(勝資)両人の諫めをもって信玄公取り立ての衆は尽く討死して、なお家風
は悪しくなった。そうしてついに武田が滅却してしまえば、太郎信勝の良き生まれ付きも要らず、空
しく相果てなさるだろうと、涙を流すばかりであった。(後略)

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』



229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/05(金) 18:08:57.65 ID:SJY8LEsO
>>228
戦わずして勝った?それとも逃げるが勝ちっていう精神勝利法を意味してるの?
確かに長篠では決戦せずに退却していればよかったんだろうけどさ、家康と信長を同時に討てるチャンスはこれ逃したらもう無かったろ
解説お願いします。

心安い人に、茶室の外での立ち振舞を見られてしまっては

2019年07月05日 17:14

千利休   
62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/04(木) 20:41:57.31 ID:/ZtdOmxc
千利休は本住坊が参られる度に、茶室で茶を点てた。本住坊が恐縮して「毎回このように
されては、何とも参りにくく成る。」と言った所、利休は

「その事です。関東や筑紫から望んで来るような人であれば、わたしがどのようにした所で、
『このようにするのか』と思うだけであり、また見ても解りはしないでしょう。しかしあなたのような
心安い人に、茶室の外での立ち振舞を見られてしまっては、私の茶の湯ができなくなります。」
そう答えたという。

道に長じた人の心持ちとは、そのようなものなのだろう。

(長闇堂記)



尊公を一度御代に立てて、三好一族も安堵申したい

2019年07月04日 15:42

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/04(木) 01:54:58.94 ID:lsPqjLpR
一、天文21年(1552)に阿波国の館・細川讃岐守持隆を、家臣の三好豊前守義賢が討ち取った後は、
  細川の領地はすべて義賢が知行した。三好家はますます威勢を増した。さて義賢は弘治の頃、法体して
  “実休”と号し、五畿内所々に一門を居置いて、おのずから天下の執権を司る。

  しかしながら三好家は細川の家来であることにより、三好の執権を諸国の守護は大いに嫉み、そのうえ
  奢りを極めて我意に任せた故、将軍義輝公も以ての外憎みなさった。

一、三好山城守(康長)・同下野守(宗渭)・同日向守(長逸)・松永(久秀)らが評議したことには、

  「今回の両度の合戦(>>111)はまさしく義輝の御計らいである。そうであるからには我々の行末はしか
  るべからず。深慮を巡らせて義輝を討ち奉り、中国の義冬(足利義維)を都に据え置いて、一族中を心
  安くするべきである」

  と、永禄6年(1563)の秋に三好日向守は周防へ下り、義冬へ申したことには、

  「徳雲院殿(細川持隆)が果てられなさったことにより、ここへ御下向されたことは我々にとって面目
  もなきことですが、しかしながらその折に、我らが実休に組しなかったことは御存じなさることでしょ
  う。実休は天命によって高政(畠山高政)に討ち果たされました。

  さて高政と喜三の両陣は、義輝公の御計らいでございます。実休のことはもっとも悪逆の者なので(義
  維が)御憎みなさるのも道理です。別儀なき我らを御憎みなさることは以ての外です。そうであるから
  には、行末でさえも心安からぬのです。かれこれ時節は到来仕りました。このうえは、三好一家として
  兵を起こし、尊公(義維)を一度御代に立てて三好一族も安堵申したいのです。

  しかしながら尊公が遠国におられては評議もなり難く、まずは阿州へ御帰りなされませ。実休の息男・
  長治は阿州におりますが、かつては幼少でございました。そのうえ父の実休も尊公を疎略には存じてお
  りませんでしたし、また彦次郎(三好長治)は義輝を親の仇と存じていますから、尊公へ少しも別心は
  ありません。早々に思し召し立ちなされよ。そのために一家中より某が御迎えに罷り下り申しました」

  と色々道理を尽くして申したので、義冬は満足なされて早々に思し召し立ちなさったが、「この事を一
  先ず大内介(大内義長)に知らせなければ」との内意があると、大内ももっともとは思いながらも、他
  家の取り仕切りで義冬を代に立て申しては、大内の外聞は良からずと思ったのか、「仰せはもっともで
  すが、私めに存ずる子細がありますので、まず今回は御無用になされませ」と、強いて止め申すことに
  より義冬も日向守もどうしようもなくして、日向守は「罷り上ります」と港まで出て行った。

  義冬は名残惜しく思いなされて、義親(足利義栄)と2人で船着きまで送りなさったところ、三好は船
  から申し越して「今一度申しておきたいことがございます。恐れながら少しの間、船へ御召しなされま
  せ」と申せば、何の思案もなく義冬親子は共に船に乗りなさった。

  すると日向守はかねて家来の者に言い含めており、そのまま船を押し出した。義冬はどうしようもなく
  おられ、折しも順風で難無く阿州に到着して、元の平島の庄に帰る。彦次郎を始めとして三好一家は残
  らず伺候致した。そして日向守は諸事を計らい、領地も相違なく渡した。

――『阿州将裔記』



227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/04(木) 03:31:42.40 ID:ggM6iep6
>>226
永禄6年なら大内義長は死んでますね
年次の誤りか別の誰か?

「能ある鷹は爪を隠す」は「北条氏直時分諺留」が元

2019年07月03日 15:53

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/02(火) 19:02:50.69 ID:Clh68Acw
そういやツイッターで、「能ある鷹は爪を隠す」とかのことわざは「北条氏直時分諺留」が元らしいがなんで北条なのか、
なんて書き込みを見つけたのだが、詳細は国会図書館デジタルコレクションで『諺の研究』(藤井乙男、昭和4年)の
229ページと238ページを参照のことだね。

『諺の研究』藤井乙男 著より「北條氏直時代諺留」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453442/123

↓画像



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悪くなるのは仕方のないこと

2019年07月03日 15:48

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/03(水) 02:38:55.24 ID:Xi9PJ/pM
古田織部殿に取り立てられた服部道巴が、遠州殿(小堀遠州・政一)を茶会に招いた時、
その供として私(久保長闇堂)も同道した。その帰り、私が「さても見事な数寄者でした」
と申した所、遠州殿は「一段と不出来な仕方でした。」と批評した。
「なにかお気に入らぬ事が有ったのでしょうか」とお尋ねすると

「そうです。炭手前をした時、彼は前の大炭へ火がよく廻ってしまっていたのを失敗と思い、
動かして隠し、火気を丁度良く見事な状態にして炭を置きましたが、これは道巴には似合わぬ
事でした。悪くなるのは仕方のないことです。それを良く見せようと思う心は、初心の仕方です。」
そう言われた。

(長闇堂記)



週間ブログ拍手ランキング【06/27~07/03】

2019年07月03日 12:53

06/27~07/03のブログ拍手ランキングです!


この吟味を三四郎に仰せつけられたのは 10

就中信虎御隠居分事 7
信玄公御座なくば家康を信長ころし候はん 7

まったく家康は只者ではない 6
この釜は、このようにしか据えようが無い 6
そうしたわけで、「長闇堂」と名付け 6
数寄がいつ始まったのかは知らず 6

台子は道の秘伝であり 5
江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ、横行シテ人ヲ害ス 5
南部下野殿改易は 5

奥州会津へ行って南部下野は 3
浅井某雲母坂奇怪事 3


今週の1位はこちら!この吟味を三四郎に仰せつけられたのはです!
北条三四郎さんの処置、ここではヒューマンエラーは起こるものだから糾明しても仕方ない、という事に読めますね。
明良洪範の方では責任者の切腹を命じられ、このようなことで軽々に生命を奪うべきではない、という流れになっており、
深刻度の差異を感じます。ともかくも、おそらくこれが逸話として成立した江戸中後期においては、主君、主人というものは
徒に配下の、個々のミスを糾明すべきではない、という意識が有ったということなのでしょうね。

2位はこちら!就中信虎御隠居分事です!
武田信玄によって駿河に追放された父信虎ですが、どうも武田家よりの生活費の仕送りが滞っていたようで、今川義元から直々の
催促の書状。なかなかの世知辛さも感じちゃいますw義元は「信虎さん困ってんぞ」と書いていますが、この書状を書かせるまでに
義元と信虎の間にどんなやり取りがあったのか、想像するとちょっと面白いですねw信虎には仕送りだけでなく、義元から所領も
与えられていたようです。信虎は駿府で大人しくしているどころか、男女合わせて子供も3人作り、一家を成していましたから、
ある意味お金がいくらあっても足りなかったかもしれません。
良くも悪くも、信虎の大名らしさを感じる内容だな、なんて感じたりしました。

今週2位は同票でもう一つ!信玄公御座なくば家康を信長ころし候はんです!
こちらの甲陽軍鑑の記事、確かに「武田家なら殺すだろうな」という意識は有ったと思いますw
この記事に限らず、甲陽軍鑑は全体的に家康を高く評価していますが、実は家康に限らず、上杉謙信など、正面の大敵というものを
高評価する傾向がありますね。強靭な敵をリスペクトする、という事では在るのでしょうか、一方で「その強靭な敵を退ける我々は
もと凄い」「そのもっと凄い我々をもっと評価すべき」という面も大きいのでしょう。
それにしても、結果として武田にとって家康を敵としてしまったことは痛恨と言っていい事態で、武田家の視点で見ると、信玄の
後半生は家康に苦汁をなめさせられ続けたと言えるかもしれません。その鬱憤の爆発が三方ヶ原なわけですからねw
しかしながら強敵をきちんと強敵と認識できる組織は強い組織だな、なんてことも考えた逸話でした。


今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いおつもありがとうございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してくださいね!
(/・ω・)/

まったく家康は只者ではない

2019年07月02日 17:36

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/02(火) 01:55:04.11 ID:epDKg5+D
ある時、長遠寺の所へもてなしに、馬場美濃守(信春)・内藤修理正(昌豊)・高坂弾正・山県三郎兵衛
(昌景)・原隼人佐(昌胤)・小山田弥三郎、その他各々大身衆が寄り合って1日の雑談があった。

その内、山県三郎兵衛は駿河江尻の城代なので、遠州浜松の家康の噂をよく聞いていて申された。「内藤
殿は関東・安房・佐竹・会津までのことを語りなされ。小山田殿は小田原の近所なので北条家のことを語
りなされ。高坂殿と馬場美濃殿は越後・越中までのことを語りなされよ」とあって、山県は申される。

「さて、家康は義元公討死より以降10年の間、内外の国持ちであるが、駿河の盛りの作法を幼くして見
聞きしたことであろう。信玄公の奉行衆が公事を裁く、その様子に少し似ているようだ。

何であっても公事の落着は目新しいことを聞かないが、それは昨今の家康が国持ちである故で、各々の感
心なさることはまだ10年過ぎてもないことだろう。あの若き家康が申し付けた3人の奉行は、三様の形
儀を言い付けられたと見えて、“仏かうりき・鬼作左・どちへんなしの天野三兵”と浜松で落書が立てられ
たと聞く。

さてまた、ひととせ私めどもが30歳ばかりの時分、信州更科の出家の公事で、武蔵殿と櫻井殿が若き時、
今井殿ばかりが家老で今福浄閑(友清)が中老であったが、4人は歳も形儀も異なっていたのを、奉行に
信玄公は仰せ付けられた。その様子に、これ程の家康が少しずつ似ているのは不思議である」

と山県三郎兵衛が語れば、馬場美濃・内藤・高坂各々は申されて「まったく家康は只者ではない」と言わ
れた。その中で馬場美濃が申されるには、(後略。>>52)

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』



就中信虎御隠居分事

2019年07月02日 17:35

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/02(火) 00:24:13.86 ID:bhPTTZ/Z
内々以使者可令申之処、惣印軒可参之由承候際、令啓候、信虎女中衆之事、入十月之節、
被勘易巫可有御越之由尤候、於此方も可申付候、旁以天道被相定候者、本望候、就中信虎御隠居分事、
去六月雪斎并岡部美濃守進候刻、御合点之儀候、漸向寒気候、毎事御不弁御心痛候、一日も早被仰付、
員数等具承候者、彼御方へ可有御心得之旨、可申届候、猶惣印軒口上申候、恐々謹言、


(内々に使者を出して申し述べるべき所ですが、安星惣印軒がこちらに参ったことを承りましたので、彼に
伝えました。(武田)信虎殿の世話をする女中についての事ですが、10月に入った頃に、占いなども鑑みて
遣わされるとの事、尤もだと思います。こちらに於いてもそのように申し付けておきます。
あまねく天道によって相定める事は、本望でしょう。

なかんずく信虎殿の駿府での生活費についての事ですが、去る6月にこちらから(太原)雪斎と岡部美濃守(久綱)
を遣わしたおりに合意した事であり、だんだん寒気も増してきて、何事にも御不便され、御心痛されています。
一日も早く仰せ付けられ、その生活費を承った者を信虎殿の元へ遣わされるべき旨を心得られるようにと
申し届けました。なおこの事については惣印軒より口上にて申し上げるでしょう。恐々謹言。)

     九月廿三日    義元(花押)
    甲府江参

(天文十年九月二十三日付、武田信玄宛て今川義元書状)

今川義元より武田信玄へ、「信虎さん困ってるから仕送り早く届けろ」という書状である。



223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/02(火) 19:52:44.70 ID:ixlhX9sa
>>221
義元さんも困るわなそれは
ただでさえ厄介な人押し付けられてるのに

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/02(火) 20:17:55.08 ID:AsuUgu9e
>>221
生活費自分で稼がせれば…いや下手に定期収入得ると怖いなこのおっさんはw

この釜は、このようにしか据えようが無い

2019年07月01日 16:52

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/01(月) 00:57:48.62 ID:UePEq9TT
遠州殿(小堀遠州・政一)が伏見で口切り(茶壺を開封する儀式)をされた時、古田織部殿が翌朝
お出でになるという前日、相伴の桑山伊賀守殿(元晴)、天野屋覚甫、服部道巴の3人が、前礼のため
六地蔵の遠州殿の茶室へ参られた。そこには明日に使う釜が仕掛けて有ったのだが、彼等はその仕掛けようが
気に入らず「釜を据えなおされよ。これでは織部殿が気に入るはずがない。」と言われた。
しかし遠州殿は「先ずこのままお見せした後、悪ければ直しましょう。」と答えた。

翌朝、織部殿はこの3人を相伴として座敷に入られた。この時伊賀守殿が「釜の掛けようは、これで
良いのでしょうか?」とお尋ねになった所、織部殿は「この釜は、このようにしか据えようが無いだろう。」
と答えられた。

先の3人の予想と違ったため、それ以降遠州殿は一目置かれるように成った。
この釜は森右近殿(忠政)が所望されたため、譲られたという。

(長闇堂記)

これにも何気に森忠政が出てた



信玄公御座なくば家康を信長ころし候はん

2019年06月30日 15:09

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 14:09:52.24 ID:sks/4Xkg
一、信玄公の御仕置で、諸々の境目の侍大将衆へ近国・他国の大将の行儀・作法・仕形を聞き出して、
  その次第・善悪ともに一書にして言上致せとのことに付き、ある年に遠州犬居の天野宮内右衛門と
  申す侍大将の所より進上仕った書き付けによると、

  「美濃岐阜の織田信長へ周り1尺の桃3つがなったのを枝折りに仕り、霜月中の10日に上げると、
  信長は差し引きの冴えた名大将で、表面は事を破っても内心では時によって一段と練ったことの多
  き武士でいらっしゃった。

  そのため、桃の大きさに心祝いして1つは信長が召し上がり、また1つは嫡子の城之助信忠へ参ら
  せられ、3つ目を遠州浜松の徳川家康公へ送りなさった。家康は『世の常ならずかたじけない』と
  の返事をなされ、その桃を隠して捨てて家康が食う給うことはなかった」

  この事を天野宮内右衛門は書き付けて上げた。一書の多い中でこれは左程の事ではないと存じてこ
  そ、末にいかにも粗相に書いてあるのを信玄公は御覧になった。その書き付けを御手に取りなさり、
  しばらく目を瞑りなさって後に御目を開いて宣うには、

  「家康は今年きっと30歳ばかりであろう。40歳に及ぶ殊に大身の信長に、五位も増して締まり
  所のある分別だ。

  流石に武士の心遣いなき者ならば、『歳相応に似合わぬ』とも申すだろうが、三河国を治めようと
  19歳から26歳まで8年の間に粉骨を尽くし、戦功の誉れ形の如くなれば海道一番の武士と申し
  ながら、日本国にもあまり多くはあるまい。

  丹波の赤井(直正)・江北の浅井備前守(長政)・四国の長宗我部(元親)・会津の盛氏(蘆名盛
  氏)、若手にはこの家康であろう。

  さて時過ぎたる(旬の過ぎた)この桃を捨てた分別は、出世を考えてこうしたのだ。その出世とは
  年明かば吉事なり。この意味は馬場美濃(信春)・内藤修理(昌豊)・高坂(弾正)はきっと合点
  仕るだろう」

  と宣ったのである。

一、(前略)その中で馬場美濃が申されるには、「家康の身の上について私めは見及んでいる事がある。
  美濃の命を今20年生きて、この考えが当たるか試したい。20年生きれば80に今少しだ。鉄の
  鎖で繋いでも成らぬことを願うている」と言って笑いなさった。

  高坂弾正は申して「家康の身の上を何と馬場殿は考え給うぞ」と問えば、美濃は申されて「流石の
  弾正殿ならば、私めより早く考えがあるだろうに」と言った。すると小山田弥三郎は手を合わせて、
  「御両所の考えを願わくば聞きたい」と頻りに所望した。

  高坂は申して「美濃殿の考えを承りたさに、私めが下座から申そう」と、弾正はすなわち言う。

  「家康は今信長と二世までの入魂により両方が加勢を助け合い、それ故2人は堅固なれども信長の
  敵は上方14ヶ国の間で、信長に国を取られないことを基本として、信長の国へ取り掛けようと存
  ずる武士は1人もなき故に、この如く次第に大身となった。家康はいつまでも三河一国と遠州の3
  分の1なので、ついには家康は信長の被官のようになって、後に祝言は致した(終には家康信長被
  官のやうになりて後祝言は申しつ)。

  信玄公が明日にも目を塞ぎなされば(明日にでも死ねば)信長は安堵して、(かつて)今こそ嫡子
  の城介殿と同じに思うと3つの桃を1つ(家康に)送ったけれども、強敵にして大敵の難しき信玄
  公がおられねば、家康を信長は殺すことだろう(強敵大敵の六ヶ敷信玄公御座なくば家康を信長こ
  ろし候はん)。

  それで大事ないのならば、家康の果報は少々の藪神とは考えなりかねよう」

  と高坂が言えば、馬場美濃は大誓文を立てて「私めもそれなり」と言う。内藤修理も同じく誓文し
  てその通りであった。

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』



53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 18:12:33.34 ID:jSCm0gOK
まあ家康の腹のうちは分かるとして
藪神ってなんだろ

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 21:32:26.64 ID:lN9ljRxX
>>52
傷んだ桃食べたら命に関わるから食べなかっただけじゃないのん?
それは石田三成の逸話か

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 21:53:44.71 ID:sSNhz914
柿じゃねぇんけ?

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 22:16:13.98 ID:jK95gmra
TERUから秀吉に贈った桃を旬じゃないからって送り返した逸話があった気がする

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 22:39:53.21 ID:SUOfy+Yz
甘いもの好きなノブが桃を貰って捨てるわけがない

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/01(月) 00:20:46.00 ID:fSFnRT/t
森忠政「桃で人死なねーだろJK」

そうしたわけで、「長闇堂」と名付け

2019年06月30日 13:11

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 00:39:14.11 ID:raA9xB2O
私(久保長闇堂)の庭前にある七尺堂は、東大寺大仏再建の聖である俊乗上人の御影堂であった。
中井大和守(正清)がそれを建て替えられた時、その古い堂が古びて趣深かったので、ある人に頼んで
前栽の中に移し、繕って茶処に用いたのである。

堂の内はわずかに七尺(約2.1メートル)四方、その中に炉を入れ、床と押入と水屋がある。
水屋に茶道具を仕舞い、床に花や掛物を飾って、押入床を持仏堂に構えて、阿弥陀の木仏を安置した。
茶会をしても、狭いということはない。

鴨長明は維摩(居士)の方丈に倣って隠居し、人と交じわらない事を楽しみ、ただ一筋に阿弥陀を頼った。
私の堂は方丈より小さいとは言え、多くの人を招いて茶の湯をしているため、浄名居士の獅子の座には
叶っていると思う。そんな私がどうして鴨長明を理想とするだろうか。阿弥陀の木仏は俊乗上人の古堂に
ふさわしいと思って安置しただけであり、私には阿弥陀を頼もうという気持ちはない。俊乗上人は法然の
弟子であるから、上人に礼儀を尽くしただけなのである。

江月和尚が江戸に居られた時に私はこの堂を営んだため、用があって書状を差し上げたついでに、この事を
述べて、この阿弥陀の狂歌として

 狭けれど 相住みするぞ阿弥陀仏 後の世頼みおくと思うな

と書き付けて送った所、やさしくも詩歌をもって答えられた

 観音は 同坐とこそは伝えしに 相住まいする弥陀は珍し

 盡大三千七尺堂 堂中同坐仏無量
 自由一箇自然楽 今作西方古道場

そのようであったが、ある時(小堀)遠州殿が来られたので、この事を語って「額を一つ書いていただきたい」と
頼んだ所、微笑まれて「それでは」と、『長闇』の二文字を書き付けられた。私が「どのような意味ですか」と
尋ねると、遠州殿は

「昔の鴨長明は物知りで、智が明らかなので「明」の字が相応しい。一方あなたは物を知らず、智は暗く、しかも
方丈を好まれている。よって鴨長明から「長」の字をとり、また「闇」はその心である。」と笑われた。

そうしたわけで、この七尺堂を「長闇堂」と名付け、「長闇子」を私の表徳号とした。

(長闇堂記)



220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 18:00:42.20 ID:jSCm0gOK
うーん、どう解釈して良いのか謎だ

台子は道の秘伝であり

2019年06月29日 17:48

千道安   
49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/28(金) 20:24:43.65 ID:DTOY7Kmh
大阪にて、秀吉公が桑山法印(桑山重晴)の屋敷へ御成になった時、千道安(利休実子)が来て台子飾りを準備した。

ここに薩摩屋道七(山上宗二の息子、山上道七)が挨拶に来て、その台子を見ると
「何者がこんあ無知なことをしたのだ」
と散々に言って、直ぐに飾り直した。

この時道安は次の間に居て、道七の言っていることを聞き、他の歴々の人々も聞き、いかにも
可笑しかったのだが、道安はまるで聞こえていない様子でそのままにしていた。

この座に松倉豊後守(重政)が居られ、後で私(久保長闇堂)に話された。
その時は豊後守殿も道七の飾り方が尤もだと思われたそうだが、その仕方を知る人に密かに
尋ねた所、道七の仕方は古風で、利休、道安の仕方は当世風であったとの事で、彼は
「台子は道の秘伝であり、道安はそれを道七に知らせまいとしたのだ、たいへん用心深いことだ。」
といった。

その時は右構え(現在の逆勝手)だったという。

(長闇堂記)



50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/28(金) 23:02:09.85 ID:A8ks1j2U
くだらねぇ

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 12:59:59.99 ID:bqTSCWea
たしか古今著聞集で
ある貴族が儀式の際、言葉に詰まったような感じになって
皆が「おや儀式をしくじったのかな?」と思ったところ
儀式後、その貴族がひとり残っているところにある有職故実に詳しい貴族が駆け寄ってきて
「秘伝、誰にも漏らしてはなりませんよ」
と言ったとかいう話を思い出した

江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ、横行シテ人ヲ害ス

2019年06月29日 17:47

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/29(土) 01:57:08.33 ID:vUiZFcjS
江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ、横行シテ人ヲ害ス、幕府、ソノ首魁ヲ磔シ、余党ヲ誅ス

『駿府記』

7月7日、水野監物(忠元)が江戸より御使のために参着。(注釈:中略。七夕賀のことに係る)こ
れについて上意を得られたという。

江戸御番衆中の柴山権左(注釈:右)衛門は去る月25日、その小姓に科あってこれを殺した。する
とかの小姓の傍輩が側にいて抜刀し、権左衛門を刺し殺して逐電した。幕府はこれを聞こし召し、方
々へ追い掛けさせ給い、ついにかの者を虜にしてきた。

かの者が語って言うには、日頃約束して曰く「たとえ主人といえども理不尽のことがあれば、その仇
を報いるべし」との由で、連署して徒党を結んだのでこのようになったという。よって拷問して尋問
なさると、その党類を一々に白状した。その族は世に言うところの“哥部妓者(かぶき者)”である。

下鬢髪を切って狂紋所を染め、大刀長柄(原注:その刀には戯言を刻んだ)を帯びてその容貌は尋常
ならず。件の輩はかの白状を聞いて逃げ散ったが、これを捜索してゆうに70余人を搦め捕らえなさ
る。その他に逃げ去った者は5,60人。この如き者は、面々の家中に1人2人はいた。

さて穂坂長四郎など若年の数十人を拘束し、これをもってその所領を離されて、その番頭にその身を
預け置かせなさるという。

(徳川家康の)仰せに曰く、悪党を禁じ召されることは政道の肝心であり、すなわち駿府においては
この如き類はあってはならず、御糾明なさるものであるという。(注釈:『武徳編年集成』には「糾
明すべしとの旨を、町司の彦坂光正に命じられた」とある)

『慶長年録』

大鳥井逸兵衛(大鳥逸平)と申すかぶき者がいて召し捕らえられた。これは2,3年以来、江戸中の
若き衆、並びに威張る下々までが皆一味同心して“逸兵衛組”と称し、一同の思いをなして互いに血判
の起請文を書いた。

その趣は、「この組中はどのような事があろうとも、互いに身命を捨てて見馴染むべし。たとえ親類
父主でも思い替え、兄弟よりも頼もしくあるべし」と申し合わせた。

大将分は大風嵐之助天狗摩(魔)右衛門・風吹は散右衛門(藪右衛門)、下の組頭は大橋摺右衛門
と申す者で、江戸中に充満して(注釈:『慶長見聞書』に7,8百とある)所々で辻斬りは絶えず。
その喧嘩は数度に及んだので、御法度に仰せ付けられ、「下々で左様の者は召し捕らえて断罪を仰せ
付ける」との由を仰せ出された。

ここに柴山孫作と申す者の家来はその組の小頭であった。孫作は聞いて大いに驚き、他所からの訴人
もいない中で「成敗してしかるべし!」と25日、権左衛門(孫作)は家来の者2,3人に申し付け
置いてかの者を呼び出し「手討ちに仕るべし!」と用意した。すると残る家来どもは皆かの者の組に
なり、「主にも替えてはならない!」と申し合わせて誓紙を書くと、家来は寄り合わせて主の権左衛
門を打ち切って出奔仕った。

これよりなおもって御法度は強くなり、方々の路次に関をそえて在々所々まで御穿鑿なされた。6月
の末に神田の町において夜五つ過ぎ、月夜に笠を着て通る者がいた。不思議であると申して町よりこ
れを捕らえて引いて来て見れ、ばかの主を殺した者である。すなわち宿を尋ねて道具を取り寄せ穿鑿
したところ、一味の悪党の名を書いた帳があった。その類5百人余りなり。

大将の大鳥井逸兵衛を御調べなさればその宿は八王子にあり、すなわち召し捕らえに遣したのである。
逸兵衛は高幡という所の不動堂に相撲見物に行っていたので、大久保石見(長安)家中の町奉行・内
藤平左衛門という者が高幡へ行き、謀って逸兵衛を召し捕らえた。

平左衛門も大力で逸兵衛も相撲の達者、互いに取り合い上下へ返すのを、逸兵衛は大勢より縄を受け
て江戸へ引いて参る。青山権之助(成国)の所に逸兵衛を召し置き、色々と御穿鑿し、水火の責めに
及ぶも逸兵衛は同類を1人も白状申さず。

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/29(土) 01:58:56.39 ID:9XrjuxYh
この逸兵衛は元来は本多百助(信勝)の小者で、勘解由と申していたずらな倅である。さる慶長の初
めに秀忠公御上洛の御時、百助が御供に参った時に伏見で小者どもが毎晩御殿の近所の辻で、草履の
詰め開き、馬の受け取り渡しを稽古致し、あまりにうとうとしたので、後に御法度になった。その大
将を召し捕らえ、百助の小者も大将で出奔致して佐渡へ逃げ入った。

それから大久保石見の家中で辻喧嘩など一両度首尾の良いことがあり、大久保石見守の目代・大久保
信濃と申す者が逸兵衛を侍に取り立てて召し使った。さて天性この者は利根で弓を上手に撃ち習い、
鉄砲も達者、兵法は槍、総じて侍の嗜みを残さず稽古致した。そのため中小姓に取り上げたうえ、馬
なども乗ることを許された。

その後、本多百助方より構い申すので大久保信濃はすなわち故主へと戻し、逸兵衛が百助方へ帰った
時、逸兵衛は下々4,5人を連れ、弓盾を持たせて犬を引かせ、乗り掛けてやって来た。百助もこの
体を見て「召し使っても詮なし」と衣服などを取らせ、4,5日過ぎると信濃方へ送った。その後、
討ち者などを首尾良く致し、さて信濃に暇を受けて江戸へ来ると、かぶき者の組を立てて棟梁となり、
ついにはこの如くとなった。

(注釈:『武徳編年集成』に「歌舞妓組の棟梁となり、八王子の下原康重作の刀に『生過二十五』と
いう文字を彫った物という。これを使って闘諍辻斬を好んだが、その刀はまことに下作ながら骨の切
れることはその類無し。逸平はこの年25歳なり」とある)

本多佐渡守(正信)・土屋権右衛門・米津勘兵衛(田政。初代江戸北町奉行)方において色々取り調
べたが「一度も申すまい!」との由を申し、何程強く御責めになるとも「同類は申すまい!」と全く
申さず、水責めの又者が脛をひしいでも申さぬ故、米津勘兵衛は「あまりに申しかねるならば、尿水
をくれて問え!」と申し付けた。

逸兵衛は大いに怒って「侍たる者に左様の拷問とは前代未聞なり! いかに罪科の重き者であるとも、
『官人の尸(屍)は平土の上に置かず』と聞く。これにより官人は尸の号あり(武士は死を称えられ
るということ?)。侍はまた侍の法による拷問の作法がある。

なんとまあ、物を知らぬ奉行かな! 左様の問い様をするならば、其の方の子息・勘十郎も私めと同
類だ! 勘十郎にも尿水をくれて問え!」と申して、その後は口を閉ざした。聞く人は「さてさて、
この逸兵衛は只者にあらず」と皆舌を巻いた。

(注釈:『慶長見聞書』には「御馬廻衆の御歴々7,8人を白状致す。その後、方々より白状あって
以上百人ばかりが出奔し申したのを召し出し、切腹、改易、追放なされた」とある)

7月7日、水野監物をもって駿河へこの由を仰せ上げられ、その後逸兵衛は江戸中を引き渡して機物
にかかり(磔にされて)同類は皆成敗。3百人ばかりが切られ、この内無体に死に申した者もいた。

これは当5月に同類が辻喧嘩を致し、相果て申した者がいて、これはこの組の中の牢人である。その
ため同類にあらずといえど、知人と寄り合って代物を用意致し、寺へ送って弔い仏事を致した。その
帳を寺から出したので、帳に付き代物を致した者は罪なくして切られ申す。後日にこの事は知られ、
「奉行衆の誤りではないか」と人は申した。

9月、江戸で今回逸兵衛の同類になった衆で方々に御預けとなった衆は、

米津勘十郎。勘兵衛の子。津軽へ。
岡部藤次。奥州南部。
井上左平次。半九郎(井上正就)の兄。佐渡へ。
保坂長四郎。金右衛門(大坂夏の陣の旗奉行)の子。越後村上へ。村上周防(忠勝)に御預け。
坂部金大夫。越後柴田(新発田)へ。溝口伯耆(宣勝)に御預け。

(注釈:『慶長見聞書』には以上の他に内藤小伝次、大久保源之丞の2人を加える。また『武徳編年
集成』には逸平を梟首したこと、及びその党を斬戮したことを7月に係けている)

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/29(土) 01:59:33.88 ID:9XrjuxYh
『津軽旧記』

慶長16年(注釈:17年)、柄木田勘十郎(米津勘十郎)御預け。これは公儀御町奉行・柄木田勘
兵衛(米津田政)の子息なり。大取市兵衛と申すも(者の?)御穿鑿に付き、御預けの旨。後に元和
3年、御許しによって罷り上り申す。

(注釈:これより先に煙草の事に因り、悪徒が組を成して京都にいたこと、並びに茨組のことは14
年7月の煙草禁止の条に見える。

この後、寛永6年10月18日、幕府は京中に令して町人が長刀を帯びることを禁じ、ついで慶安元
年2月22日にはその長刀を帯びてかぶきの体を為すことを禁じ、5年正月20日に至り、さらに大
いにかぶき者を逮捕した。かぶき者・町奴・男伊達・侠客などの事がまたその条に見える。

ついで同年2月3日には町人がかぶきに扮することを禁じ、また幡随院長兵衛が殺されたことは明暦
3年7月18日に。任侠の徒を禁ずることは同月22日に。水野成之を刑したことは寛文4年3月2
7日に。さらに男伊達の徒を禁ずることは寛文5年6月に。平井権八を磔にしたことは延宝7年11
月3日に。男伊達の者らが町家に強請することを禁ずることは宝永7年4月に、各々条あり。参照す
べし)

【参考】(>>169)

――『大日本史料』



214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/29(土) 06:49:03.76 ID:ziUySTGo
男伊達に草生える

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/29(土) 08:59:39.43 ID:/SeNJM5V
>>211-213
かぶき者の勢力がすごいことになっとるwこういうの放置してるとそのうちヤクザの組になるんだろうなー

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/29(土) 11:04:07.74 ID:00Yqoxvp
警察官とヤクザは人間的には同類っていわれてますし

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/29(土) 20:55:20.66 ID:2+Bij+Sw
まとめの8778
「豊国祭礼図屏風」(伝・岩佐又兵衛作)について
の「豊国祭礼図屏風」の太刀の鞘に
「生きすぎたりや廿三」と書かれているように
かぶき者の間ではかなりの流行語だったようで

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/29(土) 21:38:24.11 ID:giT/Oas0
隆慶一郎の小説でよくあるあれだ

この吟味を三四郎に仰せつけられたのは

2019年06月28日 18:52

48 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/28(金) 18:19:00.29 ID:dyezkOlD
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8784.html
これの若干異なるバージョン

(酒井)忠勝様から伊達政宗様へ送られた書状を右筆が封じ違えており、他へ送る書状であったため政宗様は添え書きをなされお返しになった。
忠勝様は立腹され、役人を召し「すぐに吟味するように。右筆の糾明は北条三四郎に申し付けるように」とお命じになり、この書状を居間に置かれてご登城になった。
三四郎は筆跡を吟味する体を装いこの書状を焼却した。
ご退出の後忠勝様は吟味の様子をお尋ねになった。
三四郎は「筆跡の吟味をすれば筆者が誰か分かるでしょうが、(右筆のミスは)誤ってのことなので無益の吟味だと思い、書状は焼却しました」と申し上げた。
忠勝様は「軽率なことだ。しかしあの書状がないのなら吟味する手がかりもない」と仰って事が済んだ。
この筆跡の吟味を三四郎に仰せつけられたのはお考えがあってのことに違いないとご家中は感心した。

(仰景録)