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永禄12年、武田軍駿河撤退と武田重代の家宝・八幡大菩薩の旗

2019年01月06日 19:17

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/05(土) 18:31:56.44 ID:1kKF9x1m
今川氏真の掛川開城の頃までも、山県三郎兵衛昌景は武田信玄の命を守り、駿府の焼け跡に仮の柵を付けて舎宅を営み
守っていた。神君(徳川家康)は駿河に打ち入って駿府城へ押し寄せなさるが、山県は僅かの柵だけでは防戦叶わずと
知り、城を捨てて甲斐へと逃げ帰った。

神君は小倉内蔵助(資久)をもって、北条氏康父子へ信玄とは永く誼を断ち給う由を仰せ遣わされ、それより氏康父子
と示し合わせて今川氏真を駿府へ帰還させなさる由を懇ろに沙汰された。しかし駿府の城郭は先に信玄のために焼亡し、
住居できる場所もないので、氏真は戸倉城にあって小倉内蔵助・森川日向守に命じ、城郭を修築せしめた。その功が半
ば成就したので、まず岡部次郎右衛門正綱とその弟治部右衛門、安部大蔵元真らに駿府を守らせて、もっぱら作事を営
ませた。(原注:『武徳大成記』『家忠日記』)

武田信玄はこれを聞いて大いに憤り、1万8千の軍勢を催して再び駿府を奪い取らんと、6月12日に甲府を打ち立ち、
富士山中の金王を通り、大宮に出て神田屋敷・蒲原・善徳寺・三枚橋・興国寺の城々には押勢を残し、1万2千の人数
で韮山口まで押し入り、17日に三島社内を侵して近辺を放火する。それから人数を進め、河鳴島に陣を張らんとした。

この時、原隼人(昌胤)は「この場所では水害があるかもしれません」と諫めたのだが、信玄はこれをまったく用いず、
河鳴島に陣を取った。北条氏康もこれを聞き、3万7千余兵を引率して出馬し、信玄と対陣して互いに兵を見繕って戦
いは未だ始まらず。

そんな折の19日夕方より雨が降り続き、夜に入った後に大風が激しくなり、雨はますます篠を突くが如し。甲斐勢は
雨革や渋紙、桐油などで陣屋を囲もうとする間に風はいっそう激しくなり、雨はなおも車軸を流し、本篝と末篝をとも
に一度に吹き消した。視線も定まらぬ暗夜に火打ちと付竹を取り出し、灯を立てようとしても陣屋陣屋の間は野原なの
で風が吹き入れて灯は移らない。とやかくと苦辛してようやく陣屋を囲めば、子刻ほどになっていた。将卒どもは疲れ
果て、甲冑を枕にしばし休息した。まして歩卒どもは宵の普請に労疲し、高いびきして前後も知らず伏していた。

この時、北条方が蒲原・興国寺・三枚橋の城々から信玄の旗本へ入れ置いた忍びの者どもは、密かに陣々の馬の絆綱を
切って捨てた。かねてより示し合わせていた事なので、その城々からの屈強の勇士3百余人は、その頃は世上でも稀な
“雨松明”(原注:一本は“水松明”と書く)というものを手々に持ち、筒の火で吹き付けて陣屋に火を掛け、三方か
ら鬨の声を揚げた。

甲斐勢はこの声に驚き「ああっ夜討が入ったぞ! 1人も漏らすな!」と言うも、すでに洪水が押し来たり、陣営は皆
水となった。「弓よ、鉄砲長刀よ!」とひしめくが、篝火も灯火も皆消えてまったく暗く、兵具の置き場所も分からず、
「敵味方を弁えかねて同士討ちするな!」と呼び喚き取り鎮めようとするところに、河からはしきりに洪水が溢れ出て
陣屋陣屋に流れ入り、しばらくの内に腰丈まで浸れば、諸将卒ともに慌てふためき高い所へ登ろうと騒ぎ立った。

陣々にあった弓・鉄砲・槍・長刀・武具・旌旗・兵糧まで津波に取られて押し流され、諸将卒は逆巻く水を凌いでよう
やく興国寺の峰へと押し登った。退き遅れて水に溺死する者も若干であった。信玄はしばしも滞留することができずに、
早々に大宮まで引き退き、もと来た道を経て甲斐へと帰陣した。この時、甚だ狼狽したものか、武田重代の家宝である
八幡大菩薩の旗を取り落とし、北条方に拾い取られたのである。

――『改正三河後風土記』


569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/05(土) 18:32:29.35 ID:1kKF9x1m
さる程に、永禄12年(1569)6月17日、信玄は御坂越に人数を出して、御厨通りを桃苑という所まで出張した。
先手の者どもは三島へ乱暴して明神の社壇を打ち破り、戸帳を盗み取る。社殿の中を見ると神鏡だけで本尊がなかった。

諸勢どもは「甲斐国は小国だが、どんな小社でもすべて本尊神体がある。これは甲州は神道が正しいからだ。三島は海
道に聞こえる大社であるのに、どうして本尊がないのだろう。なんだか分からぬ石のようなものがあるが、これが明神
の神体であるのか、その他には何もない。ただ宮ばかりで、尊きこともないではないか。このような神もなき宮に何の
罰があろうか。宝蔵をも打ち破り取ってしまえ」と申した。

その頃、吉田の某は浪人して甲斐国へ下り、信玄の手書をしていた。某はこれを余りに不届きに覚え、信玄へ進み出て、
「そもそも神道は陰陽の根元にして易道の本地であり、形もなく影もないところに神秘があるのです。これは皆神秘で
すから、凡人の及ぶところではありません。浅ましい狼藉でありましょう」と、制止したのだという。

信玄は韮山口まで働き、鳴島辺りに陣を取ったと氏康は聞きなさり、3万7千余騎を引率して駿河に発向した。信玄も
2万5千余騎を引率してしばらく対陣した。19日の晩景より雨が降り出し、箱根山の方から黒雲一叢が立ち来たり、
夜に入ると風は激しく篠を束ねて、降る雨はさながら流れ込むが如し。にわかに大水が起こって陣屋に込み入り、しば
らくの内に腰丈まで浸かり、甲斐勢は我先にと高みに登った。

物音はまったく聞こえず、長いこと震動があった。「これは只事であるはずがない。何れにしても三島明神の御咎めな
のではないか」と心ある者は思ったのだという。

その頃、高国寺城の勢が少ないとして、加勢のために福島治部大輔・山角紀伊守・太田大膳ら数百騎が蓑笠を着て松明
をともし高国寺城へ入った。これを甲斐勢の夜廻りの者が「敵が夜討に寄せて来る!」と告げるや、甲斐勢は騒ぎ立ち、
小屋は倒れて兵糧・雑具・兵具まで流し、甚だ取り乱したのだろう、余りに慌てふためいて武田重代の八幡大菩薩の旗
を波に取られてしまった。

その旗は北条家に取られ、氏康に献上された。「誠に信玄一代の不覚」とぞ聞こえける。その旗を九島伊賀守(福島伊
賀守)に賜り、伊賀守家の奇宝とした。

水は次第に増し、逆巻く水に向かってようやく命を助かり、夜もすがら信玄は甲府に引き返された。氏康も小田原へと
帰陣なさった。

――『小田原北条記』


572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/07(月) 00:30:39.58 ID:aCvm3RMw
永禄12年(1569)6月19日、武田信玄は河鳴島に陣を取り、北条氏康の軍勢と対峙したが、
洪水にみまわれて敗走し、よほど狼狽したのか武田重代の八幡大菩薩の旗を取り落として、北条方
に拾い取られてしまった。(>>568)

氏康は蒲原城に善徳寺曲輪という大郭を築き、その他に大宮・神田屋敷・興国寺・三枚橋・戸倉・
韮山・新庄・山中・深沢・鷹巣・獅子浜などの城塞に援兵3万余人を配分して籠め置き、自身は小
田原へ帰陣した。かくて北条方では、

「流石の信玄も今回はよほど狼狽したと見えて、重代の旗指物を取り落としてしまった!」

と嘲った。これに信玄方では、

「重代の重器であっても、津波のために流れたものをどうして恥としようか! 津波に流れた兵具を
拾い取って、武功手柄のように高言する笑止さよ! 旗が欲しくば、いくらでも製作して授けるぞ!
武略の優劣は戦場の勝負にあり。天変を頼みにして物を拾うを武功と思う浅ましさよ!」

と誹謗した。北条方はまたこれを聞いて、

「信玄が例の巧言曲辞をもって、その過誤を飾るとは片腹痛い! さる永禄6年2月の上野箕輪城
攻めで、信玄の家人の大熊備前(朝秀)は自分の指物を敵に取られたことを恥じ、敵中に馳せ入っ
てその指物を取り返した。その時に信玄は大いに感心して、『無双の高名比類なし』と感状を与え、
その時から大熊を取り立てて騎馬30騎・足軽75人を預けたのだと聞いている。

しかしながら、家人が指物を取られたのを恥じて取り返したことを賞美して、その家重代の重宝で
ある八幡大菩薩の旗は敵が取っても恥ならずと言うなら、大熊に授けた感状は今からは反故となる。
信玄の虚偽はさらさら証しにはできないな!」

と、双方嘲り罵ってやまなかった。その頃、老練の人々はこれを聞いて、

「信玄が洪水のために重代の重宝を流して敵に拾われたことは、天変であるから信玄の罪にあらず。
『河鳴島が卑湿の地で水害があるだろう』と原隼人(昌胤)が諫めたのを用いずに、その地に駐屯
してこの難にあった事こそ、一方ならぬ不覚である」

と誹謗したのだという。

――『改正三河後風土記』



570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/05(土) 20:16:27.89 ID:VzBE3OlO
>>568>>569
>3万7千
どっちも共通してるんだな、少しぐらい盛りそうなもんだけど。

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/06(日) 12:10:41.04 ID:8AG8nNZJ
武田に勝つには倍以上ないと心許ない

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/07(月) 14:28:39.05 ID:eQrzQF2I
>>572
レスバトルかな?

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/09(水) 08:45:56.18 ID:0LSUZlgm
見事なレスバトルやな

どこもかしこもみなやけ申候

2019年01月05日 18:20

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/04(金) 21:11:35.24 ID:+NkA4Ls3
どこもかしこもみなやけ申候


以下は元和7年1月に江戸の徳川義直の新邸から出火した火事について
13歳の池田光政が国元にいる父・利隆の乳母・栄寿尼に報じた手紙。

________________________________________

一ふて申し参らせ候。
こゝもと正月廿四日のなゝつぢぶんからおわりのちうなごん様(徳川義直)、
なへしま(鍋島)、くない(池田忠雄)、扨、まさむね(伊達政宗)、もりいまさか(森忠政)、
おれかやしきはかりやけす候、さこん殿(池田輝澄)、うきょう殿(池田政綱)、
てらさはしま(寺沢広高)、廿四日の七つちふんからひるの四つしふんまてやけ申候、
どこもかしこもみなやけ申候めてたく、かしく。

   正月廿四日        新太  幸隆(花押)
      うはゑいしゅ 参

     おわり(尾張)     みと(水戸)       きの(紀州)
       △            △            △
              このふたついゑはのこり候

めんめんに文にてもかへすかへす申候、はんすれとも
いそかしく候間まつ此むきにて候、かしく。
________________________________________

大名屋敷が25軒も燃える大火事で他にも上杉、毛利、島津などが焼けたらしい。



567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/04(金) 21:35:36.19 ID:0RJw0w3F
子供にまで"まさむね"と書かれるのか

それでは、試しに受けて見給え!

2019年01月04日 19:54

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/04(金) 01:31:25.48 ID:YYkFjjjl
天文23年(1554)の春、今川義元の三河出陣に際して織田信長は北条と通じ、氏康は駿河へ軍勢を
差し向けなさった。対して義元は甲斐を頼み、武田晴信も駿河に軍勢を出して、両軍は苅屋川で戦った。

武田旧臣の原虎胤は近年故あって北条家に来たり、剛強名誉の働きを致してこの度の戦いでは先手の斥候
となり、紺糸の鎧に半月の指物を差して、冑の真向に“原美濃守平虎胤”と書いている立物をして猪首で
身に着け、鹿毛の馬に黒鞍を置いて打ち乗り、小幡に言葉を掛けて小山田の備へと乗り掛けた。

小山田弥三郎の備の内から「関東浪人、近藤右馬丞!」と名乗って馳せ掛かる者がいた。原はキッと見て
「優れた気立てであることよ!」と太刀を抜き持ち、峰打ちで近藤の冑の錣の端や首の骨を続けて3打4
打すれば、近藤は馬からドッと落ちた。

そこへ後から続く小田原勢が下り重なって首を取らんとする。これに原が「その者は私が甲斐で目を掛け
た者で候! 許してくだされ!」と申したので、引き取ったのであった。

太田源六(康資)は知られた大力の剛の者で、大荒目の鎧に三枚冑の緒を締めて、樫の木の棒を抱え込ん
で白鴇毛の馬に乗って駆け巡った。「おい美濃守殿! これを見給え!」と申すと源六は、武田勢の先駆
けの武者7,8騎を馬の上から打ち落とし薙ぎ倒し、猛威をあらわした故、甲斐勢は辟易して引き退いた。

源六は乗っている馬に矢を射立てられて徒立ちとなり、原と連れ立って静々と引き返した。

永禄7年(1564)正月7日、国府台で北条と里見の軍勢が戦った。太田源六は遠山丹波守(綱景)を
始めとして進む兵6騎を馬上から切って落とした。

北条方の相州無双の大力で、志水右馬丞という剛強の兵は、柘の棒に筋金を入れて打ち振り、太田源六と
寄せ合わせてしばし戦うと見えたが、源六は持っている太刀を鍔本から打ち落とされて、貝を吹いて逃げ
ていったのであるが、余りに無念に思い、常に秘蔵して持っていた長さ8尺周囲7寸の鉄の棒引っ提げて
「志水を打ち落とす!」と、乗り廻し乗り廻し探すも、志水と遭遇しなかった。

源六は「この上は!」と当たるを幸いに向かう敵の冑の鉢や甲の胴中、馬人ともに尻居になるほど打ち据
え、横手に払い薙ぎ倒して打ち据えれば手負い死人はますます重なった。太田下野守は源六の舅であるが
小田原勢の先手にあって、源六の有様を見て馬を駆け寄せると、

「源六よ、余りにも正なく謀反したものだ! 咎を悔いて降参し給え! 某が命に替えても取り成すべし!
今日の働きは厳めしく見える。しかしながら、人こそ打ち給うとしても、馬には咎もないのに無用の罪を
作り給うものだ!」

これを聞いて源六は高らかに打ち笑い、「殊勝にも宣うものですな! 今は仰せに任せて人だけを打ちま
しょう。それでは、試しに受けて見給え!」と鉄棒を取り伸ばし、下野守を丁と打った。

下野守も「心得た!」と太刀で打ち背けようとしたが、大力で打たれてどうして耐えられようか、冑は砕
けながら首は胴に没入し、前方の深田へ転び落ちて死んでしまった。

戦いが散じて源六は宿所に帰り、妻の女房に向かって申したことには「和主の下野守殿は某に諫めの言葉
を掛けられたので、鉄棒で冑の鉢を打ち参らせたのだが、今頃は痛んでおられよう」と語った。

このため女房は大いに驚き「なんですって! 父を打ち殺しなさったのですか! 情けのないことじゃ!」
と下人を遣わして探したところ、下野守は深田に倒れて頭は冑とともに打ち砕け、首は胴の中に没入して
いるのを、泥にまみれながらも葬礼して仏事を営んで女房は髪を剃り、尼になって菩提を深く弔った。

この女房の建立した寺という武蔵江戸神田の浄心寺に尼の木像が今も存在している。

――『鎌倉九代記』

先に投稿した逸話と微妙に内容が違うので

関連
なんですって! 父御前を打ち殺しなさったというのですか!


我を殺すのか、又甲冑を奪うのか!?

2019年01月03日 16:12

562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/02(水) 20:21:19.56 ID:EIuaIzZA
丹羽佐平次は織田信雄の小姓であったが、後に豊臣秀頼に仕え、大坂落城の時、大阪城より
脱出し泉州貝塚まで落ち行ったが、そこで落ち武者狩りの野伏に道を遮られ取り巻かれた。
この時佐平次は彼等に言った

「我を殺すのか、又甲冑を奪うのか!?着ているものを剥がされるのは恥である。
しかし私は既に日本国を皆敵にしたのであるから、今も自分が世に有るとも思えない。
よって出家をしたい。どうかそのために、僧を一人呼んでほしい。」

これを聞いて野伏たちは僧を一人連れてきた。佐平次は「ならば」と、彼に立ち寄ると、
その僧をひしと取り押さえ、刀を僧の胸に当て、人質とした。

これに野伏らはどうにも出来ず、人質の命と引き換えに「どこであろうと送り申そう。」と言い、
そこで紀州和歌山に所縁の人があることを告げ、野伏たちにそこへ行かせ、暫くして迎えの者がきて
其の者と共に紀州に隠れ住んだ。それから程なくして赦免を被ったという。

(常山紀談)



563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/02(水) 21:09:01.11 ID:GSc+bkMx
>>562
落ち武者狩りなのに律儀w

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/03(木) 13:04:20.09 ID:+x4SZTyg
その僧の檀家たちが野伏だったのかもしれない

みだりに人数を殺すのみを武と思うのは、

2019年01月02日 19:07

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/01(火) 21:20:45.80 ID:mQpvXqZI
大坂落城の日、興国公(池田利隆)の家臣である斉藤織部は黒母衣をかけて、西国道に落ち行く敵を
追撃し、既に討ち取らんとした時、この敵は振り返って叫んだ「落武者の頸取られたりとも、さばかりの
武功とも言うべからず。どうか助けてくれ!」

これを聞いて斉藤は、従者に指させていた相印の腰指を彼に与え
「さあ、落ちられよ。もし見咎める者が居れば、池田の家中、斉藤織部という武士の従者であると言われよ。」
そう教えると、彼は忝ないと謝して落ちていった。

斉藤が帰陣した後、彼の友が来てこう語った
「大坂の落ち武者の中に、私にゆかりのある者が居たのだが、貴殿に助けられ、相印まで与えられたため
逃れることが出来た。その後、彼は密かに私の所に参って、この事を申したのだ。」

斉藤はこの事について、後に人にこう語った。
「私がその時、あの武者を討つのは容易かったであろう。されども落武者が降参するのを斬ったとしても、
母衣武者である私にとっていかほどの功名となっただろうか。今は却って奥深く覚える。みだりに人数を
殺すのみを武と思うのは、大いなる僻事である。」

(常山紀談)



613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/02(水) 06:33:39.94 ID:GWdJevgd
最終戦争だもんな

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/03(木) 21:41:43.99 ID:jxPNPj0i
クリンゴン人「戦う気の無い者を討ったところで何の名誉が得られようか」

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/03(木) 22:07:18.62 ID:MThnkwH5
>>612
戦場と比べて落ち武者の首は評価低いのか、まあ勝ち確定の状況だしそりゃそうか。

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/06(日) 22:22:52.84 ID:GFepOi2A
>>615
落ち武者刈りなんて百姓の仕事だしなぁ

【謹賀新年】週間ブログ拍手ランキング【12/27~01/02】

2019年01月02日 19:05

今年始めて!12/27~01/02のブログ拍手ランキングです!


平田宗次セブン 17

門を開けたままにしておけ 15

掛川開城 12
四郎こそ我が子と言いながら 12

池田光政、お見舞いのお菓子を作る 11
すべて信玄の作謀 11

故に私は法体となるべし 9
池田長吉と犬狩 9

同名淡路守・同弾正、並びに采女佐の知行宛行いの事 8
天狗の仕業に疑いなし 8
慶長18年ローマ法王宛、伊達政宗書翰 5


今週の1位はこちら!平田宗次セブンです!
諱被り過ぎwいくら通常諱を呼ぶことは無いとは言え、ほぼ同時期に同じ一族内でこれだけ被るのは本当に珍しいと思います。
その上それぞれの死に様が、さすがは当時の薩摩武士と言わざるを得ませんね。最初の3人位で諱にしても縁起が悪いと
改名なり同じ諱を控えるなりありそうだとも思うのですが、そんなちょこざいな真似をしないのも、これが薩摩隼人かと
不思議な感慨を持ちましたw

2位はこちら!門を開けたままにしておけです!
「門を開けっ放しにするの好きだねえ」、全くですwよほど「逆にこうした方がビビる」という確信があったのか、そういうスリルに
身をおくことが好きだったのか。ただ日本の城郭の縄張りは、一見開放されているように見えて入り込むと皆殺しの間、というもの
多いので、そういう発想なのかもしれません。また火縄に関しては本来赤々と松明を炊けばよいのでしょうが、そうすると
内外の緊張感を高めてしまうという事での火鉢であったのかと思います。大胆さと繊細さの併存は、家康という人物の
真骨頂ですね。そんな事も思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!慶長18年ローマ法王宛、伊達政宗書翰です!
こういう書状をぬけぬけと出せるのが、政宗の強さなのだと、割と真面目に思っています。
この書状も下手に出ながら、よく読むと現地に高位の責任者、及び高度の決定権を持ってくるように誘導していますね。
つまり政宗の影響下でコントロールできるようにすることを意図しているわけで、このあたり、政宗という人の、政治家としての
油断のなさを感じます。
伊達政宗は、本来大変にプライドの高い人物であると感じているのですが、必要であると思えばそのプライドを即座に
押さえられる部分が、政宗を政宗たらしめたのだろうな。なんて思ったりしました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
そして、今年はブログ開始11周年。元号も新しくなり、新たなスタート、という気持ちでやっていきたいと思います。
本年もどうぞ、よろしくお願いいたします!
(/・ω・)/

新年のご挨拶

2019年01月01日 19:50

昨年も、皆様に大変お世話になりました。このブログを続けていけたのも、戦国ちょっといい話、悪い話本スレの投稿者の皆さんの
お陰であり、またこのブログを楽しんで下さる皆さんのお陰です。心より、御礼申し上げます。
本年も、地道に更新していけると良いなと思っています。その中で、見に来た人が歴史って楽しいと感じて頂けるよう、微力ながら
頑張りたいと思います。

地道なことくらいしか取り柄のない管理人ではありますが、本年もどうぞ、宜しくお願い致します。
皆さんにとって、ご多幸な年となりますように。

まとめ管理人・拝
(/・ω・)/

同名淡路守・同弾正、並びに采女佐の知行宛行いの事

2019年01月01日 19:32

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/31(月) 22:47:04.94 ID:WBFFkdFS
久野三郎左衛門宗能はこの正月の掛川城攻めに際して今川氏真に語らわれ、その一族家人どもは
皆裏切ろうと計った時、宗能一人は同意せず御加勢を待ち受け、反逆の一族家人を討ち滅ぼして
忠義を励み、戦功も多かった。

そのため神君(徳川家康)はその忠勲を賞され、一族らの没入の地を加恩として宗能に賜った。
その時に下された御書に言う。

  同名淡路守・同弾正、並びに采女佐の知行宛行いの事

 右はこの度、かの3人が逆意するも宗能は別儀なき旨、甚だもって忠節である。そこでその
 賞としてかの跡職知行など一円を与える。これは永久に相違することはない。もし同心の者
 どもの不承知があれば、存分に申し付けられるように。またかの同心者が訴訟するとしても、
 許容しないものである。よって件の如し。

   永禄12年己巳8月28日

               家康御判

         久野三郎左衛門殿

――『改正三河後風土記』


天狗の仕業に疑いなし

2019年01月01日 19:31

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/31(月) 19:05:56.83 ID:+OVb+YgT
この年(1560)8月、氏康公(北条氏康)は足柄城を修造されるために巡見に出られて、関本の最乗寺に
参詣された。

この寺の開山の了庵和尚は、曹洞の開基である道元五代の法孫なり。この場所に山居があったが、大森寄栖庵
が常に信じて、この寺を建立した。そして関東奥羽までこの和尚の法孫として末寺が尽く当寺の住職を勤めて、
1年替わりで輪番した。七堂伽藍の建立なり。

開山の了庵和尚の弟子に道流という者がおり、我慢邪知にして大力の悪僧であったが、「私は生きながら天狗
となって、末世永々までこの山を守護せん」という誓願を起こして毎日荒修行を致し、道流は果たして天狗と
なって山中に住んだ。

「今も悪知識の者がいる時には、必ずやって来て障害をなすこと必定なり」と寺僧が仰々しく語ると、氏康の
供の人々は大いに疑って、「末世にもそんな不思議があるだろうか。その天狗とやらは鳥か獣じゃないのか」
などと言ってささやいた。

するとにわかに大風が吹き落ちて樹木を吹き倒し、寺の門戸を破って震動雷電すれば、「只今天狗に攫われて
いくのか!」と皆人は舌を振って驚き恐れた。こうして「まことに晴れていた空がたちまちこのようになった
のは、天狗の仕業に疑いなし」と氏康も信仰されて、この寺を再興なさった。

――『小田原北条記』



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/31(月) 23:08:02.71 ID:rE7ObUZk
天狗よ!天狗の仕業よ!

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/01(火) 14:49:39.46 ID:N7a8tba2
>>558
リアル天狗の仕業でワロタw

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/01(火) 17:18:54.23 ID:bPx3K1wo
    r⌒\// ////:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ //// //
    (´ ⌒)\ ///::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|// //
ポッポー ||  \|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| _/ /ヽ        /ヽ
     人   ...\    +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;/ /   ヽ      / ヽ
    (__)     \    ( (||||! i: |||! !| |) )    /__/U  ヽ___/  ヽ
また (__)天狗か .\+  U | |||| !! !!||| :U  /__/   U    :::::::::::U:
    (・∀・#)       \   | |!!||l ll|| !! !!|/| | 天 // ___    \     ::::::::|
  _| ̄ ̄||_)        \∧∧∧∧/  | | 狗|   |    |  U     :::::::::|
/旦|――||// /|      <   天 >  | |  |U |    |        :::U::|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| . |      <   狗 >      l ├―‐┤   U   ...:::::::/
|_____|三|/      < の の >     ヽ      .....:::::::::::::::::::::::<
────────────< 予 仕 >─────────────
      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \< 感 業  >天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!   
/⌒ヽ  / ''''''     ''''''  ヽ<.!    >こういう天狗のように鼻が立ってたのが
|  /   | (●),   、(●)   | ∨∨∨∨\天狗の天狗なんだよな今の天狗は
| |   |    ,,ノ(、_, )ヽ、,,     / ヤダヤダ \天狗の天狗を知らないから
| |   |    `-=ニ=- '    /〃〃∩  _, ,_  \天狗の仕業じゃ!  , ;,勹
| |   !     `ニニ´   `/  ⊂⌒( `Д´) <\          ノノ   `'ミ
| /    \ _____ /      `ヽ_つ ⊂ノ    \        / y ,,,,,  ,,, ミ
| |    ////W   / )、._人_人__,.イ.、._人_人_人     / 彡 `゚   ゚' l
| |   ////WW /<´ 天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!>\  〃 彡  "二二つ
| |  ////WW /    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒   \|  彡   ~~~~ミ

慶長18年ローマ法王宛、伊達政宗書翰

2018年12月31日 17:59

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/31(月) 05:28:17.14 ID:tCCcIX7y
慶長18年ローマ法王宛、伊達政宗書翰

広大な世界における御親、五番目のはつは はうろ様(パウロ5世)の御足を、日本における
奥州の屋形、伊達政宗、謹んで吸い奉り申し上げ候。

我が国においてサン・フランシスコの御門派の伴天連、フライ、ルイス、ソテロが、貴きデウスの御法を広めに
御越しの時、我らの所に御見舞にこられました。その口よりキリシタンの様子、何れからもデウスの御法の事を
承りました。それについて思案するほど、殊勝なる御事、真の御定めの道であると存じました。
それに従って、キリシタンになりたいと考えましたが、現在それは仔細あって、未だ成せない状況です。
ではありますが、私の分国中おしなべて下々までキリシタンに改宗するよう勧めたく、このために
サン・フランシスコの御門派の内に、わうせれはんしゃ(オブセルバンシャ:サン・フランシスコ派の一派)の
伴天連衆が御渡り下されます事が、何様にも殊勝大切と存じます。その伴天連衆には、万事に付、許認可の
権限を許されて派遣して下さい。彼等には我ら自身が寺を建て、万事に付き御馳走申します。

我が国の内において、貴きデウスの御法を御ひろめに成るためには、そうすることが良いと考えられる程の
事は、相定め預かるため、別して大いなる司(大司教)をお一人定めて下さりますように。そのように
いたせば、直ぐにでも皆々キリシタンに罷り成ること確実と考えます。
我々は如何様な申し出でも承りますので、御合力の事は少しもお気遣い無いように。これについては、
我々の存念は、このフライ、ルイス、ソテロ等が存じておりますので、それを貴老様(パウロ5世)御前にて
申すことを頼み入り、我々の使者として定め、渡海しました。彼等の言うことをお聞きになりますように。

このフライ、ソテロ等に差し添えて、我が家の侍である支倉六右衛門尉(常長)と申す者を、同使者として
遣わせました。私の名代としての御従いの印、御足を吸い奉る為に、ローマまで進上しました。
この伴天連ソテロ、途中の路にて突然果てても、ソテロが申し置いた伴天連を、同じように我々の使者と
思し召され派遣して下さい。
私の国とエスパーニャ(スペイン)の間は近国でありますから、今後エスパーニャの大皇帝とん・ひりつへ様
(フェリペ3世)と話し合い、その調整をして下してください。伴天連衆の渡海が成るよう、頼み奉ります。

なお、私の事については、貴きデウス天道の御前において、御内証にされますよう頼み入ります。なお
この国において如何様の御用であっても仰せ付けて下さい。随分に御奉公申し上げます。
そしてこればかりではありますが、日本の道具を恐れながら進上仕ります。なおこの伴天連、フライ、
ルイス、ソテロ及び六右衛門尉が口上にて申し上げます。その口上次第に成ります。
早々恐れ入り候。誠恐誠惶、敬白

                    伊達陸奥守(花押)
   慶長十八年九月四日             政宗(印)


故に私は法体となるべし

2018年12月30日 16:40

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/30(日) 00:31:04.83 ID:iDiiY0TM
義堯公(里見義堯)が御法体となられるにつき、御一門や御家老中が申し上げたことには、

「昔から大将が法体となることは色々とありますが、大方は不吉でした。平清盛や北条高時のように
侍の行儀を苦しく思って法体となり、悪行をなす者もいました。また常人では大将の威勢がないので、
法体となる者もおりました。主君はどのように思し召されますか」

義堯公はこれを聞こし召すと、

「私が義豊を討ったのは父の仇である故で、是非なく討ったものである。それなのに私は嫡子の方を
殺して自分が大将と誇ることを喜ばぬのだ。故に私は法体となるべし。しかしながら、両国を他人に
取られることは、なおもって不孝である。今より以後は義弘を大将として、各々は忠を励まし給われ」

と涙を流して宣った。このため皆々これを感動し、涙を流して御前を罷り立った。その後の合戦では
義堯公は後見のために出陣されるといえども、大将は義弘公と御定めになったのである。

――『里見九代記』


池田長吉と犬狩

2018年12月30日 16:39

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/30(日) 15:01:21.19 ID:QgRtDTK3
池田長吉と犬狩


慶長8年、池田備中守殿(長吉)は犬狩を行った。
巨濃郡湯山(現・鳥取市)の砂漠(海浜)の四方を海の方は開けて一辺五町で囲い
犬が通れないように、竹の菱垣を縛って催すことにした。
家中でお触れがあり、家臣の面々は日頃嗜んでいる武具を締め、馬を持つ者は
馬具を鮮やかに飾り、馬を持たぬ端侍は歩立になり弓槍を持って美を争い出立した。
その日になると、城下領内の者はもちろん国中遠里深山の者まで聞き及んだ者は
稀代の物見と思って、老若貴賤男女の区別なく竹垣の外に立ち並んでいた。
長吉公は高櫓を架けて、そこから見物していた。

飼い置かれていた数百匹の犬どもを少しずつ放し、かけ声をあげ追い立てると
群衆に恐れをなして、あちらこちらに逃げていった。
犬に当てようと矢比を測り馬を駆け回し、矢叫の声をあげて犬を射ると
当たって倒れる犬もいれば、当たらず逃げる犬もいた。
馬の逸足で追いつかれて、手元で矢に当たり倒れた犬もいた。
槍持ちに追いかけられ、槍で刺される犬もいた。
犬どもはあまりに追い回されるので、逃げる所がなくなり海へ逃げ込み泳いでいた。

備州公(長吉)は侍の立ち回りや弓槍の良し悪しを書き留めていた。
武者の駆け引きを試していたので、この場に出た侍たちは好機であった。
終日の騎射の面白さに諸人は心を慰めて目を覚ましたので、日が暮れて晩になり
太守(長吉)が帰城したところで見物人も退散した。
三日間の犬狩の間、諸人が行き交うのは言語を絶する壮観だったという。
長吉公が珍しき遊覧を行い諸人の目を驚かしたのは、ひとえに武道調練の嗜みを
家中の者に稽古させるためであると伝わっている。


――『因幡民談』
もうすぐ戌年も終わるので……。



554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/30(日) 15:40:05.75 ID:99p8w06u
>>553
一般大衆の娯楽でもあったのか、ワンチャンカワイソスと思うのは現代人のおごりかなぁ~
>飼い置かれていた数百匹の犬ども
世話してた人、情が移ってそう

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/30(日) 17:04:00.85 ID:EJ7XcMUV
美味しくいただきました!

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/31(月) 13:47:07.49 ID:aukyqnVg
>飼い置かれていた数百匹の犬ども

太田三楽斎「(∪^ω^)」

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/31(月) 14:49:19.90 ID:abDIRCtt
数百匹って凄いね、金かかって大変だろう

池田光政、お見舞いのお菓子を作る

2018年12月29日 17:15

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/29(土) 16:10:06.29 ID:0XdPBbAf
池田光政、お見舞いのお菓子を作る


御大老の酒井雅楽頭(忠勝)が(病気で)御不食のとき、御大名方が珍味を贈り物に
していたので、公(光政)も何か(雅楽頭に)差しあげたいと思われた。
御膳奉行を呼んで相談したところ、浮麩*がよいということになったので、赤小豆をすり
米粉を取り寄せて、御自身で拵えて小さい重箱に入れられた。
(光政は)御留守居役を使者として遣わしたが、余りにも少ししかないので(雅楽頭が)
気分を害されるかもしれないと使者は思いながら参った。

御口上を申し入れると、御使者へ逢われるそうなので待つようにと言われ暫くして
奥へと段々通され居間の襖障子が開くと、そこに(雅楽頭が)いらしゃった。
「新太郎殿(光政)の御使者に、懇意の贈り物のお礼を申せそうにありません。
 最近は何も食べられなかったのですが、御親切のお礼に食べてみせますよ」
と仰せられ、快く一つ分を召し上がった。

このことを帰ったら申し上げるように伝えられていたので、(光政は)殊の外お喜びに
なり、御使者も存外の首尾で帰ってくることが出来た。


ーー『率章録』


すべて信玄の作謀

2018年12月29日 17:14

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/28(金) 19:44:13.74 ID:pBe2OoRD
永禄12年(1569)5月下旬には、遠江一円が神君(徳川家康)に帰順した。かねがね大井川を限りに西は尽く
御領地となさる旨を武田信玄とは堅く盟約されたので、御領地の境を御巡見のため僅かな御供5,6百騎を召し連れ
なさって、榛原郡に赴かれた。

その時、信玄の侍大将・山県三郎兵衛昌景も3千余騎を連れて駿府よりこの辺りに来たり、金谷にて思いがけず行き
違った。昌景は礼をなしてその場を過ぎようとしたが、神君の御供が少ないのを見ると、喧嘩に事を寄せてたちまち
打って掛からんとした。これは内々信玄の密旨を受けており、かねてより虎狼の心を抱いていたからである。神君は
この様子を御覧になって、

「山県は味方が小勢であるのを見て時節よしと思い、かねての約を変じてにわかに備を立て直し、味方を襲い討たん
としている。去年に秋山伯耆守(虎繁)が約を背いて我が国境を犯そうとしたのも、今日の山県の狼藉も、いずれに
しても信玄の偽謀に疑いない。しかしながら味方は僅かの小勢、しかも地の利を得ず。少し引き退いて地利に拠って
戦うべし!」

と仰せになると、兵を5,6町引き退け険路に備えて待ち受けなさった。山県は徳川勢が逃げると思い勝ちに乗じて
暇なく追っ掛けたところ、本多平八郎忠勝が一番に小返りして奮戦した。その手に属する三浦竹蔵・原田弥之助・
桜井庄之助・梶金平(勝忠)・柴田五郎右衛門・大原作之右衛門・木村三七・渡辺半兵衛(真綱)・多門越中・荒川
甚太郎・本多甚六・河合又五郎は同じく進んで槍を入れる。

二番に大須賀五郎左衛門康高と榊原小平太康政が婿舅一手になり、槍を振るい決戦した。両将の手に属す坂部又十郎
(正家)・筧龍之助・久世三四郎(広宣)・筧助太夫(正重)・渥美源五郎(勝吉)・伊藤雁助・清水久三郎・鈴木
角太夫・加藤平次郎も劣るまいと争い進めば、

三番に大久保七郎右衛門忠世・弟の治右衛門忠佐が、また御旗本からは渡辺半蔵(守綱)・服部半蔵(正成)・菅沼
新八郎(定盈)・石川又四郎が馳せ出て槍を合わせ、敵7,8騎をたちまちに突き落とせば、山県はこの戦いに利は
あるまいと知って早々に人数を引き纏め、駿府目指して逃げ去った。

神君は秋山・山県らの狼藉はすべて信玄の姦謀であると御知りになって、これより永く信玄とは誼を断ちなさった。
信玄もこの頃に世上では信玄の姦謀を批難したのでこれを憂い、一旦山県を蟄居させ、その後程なく馬場・小山田ら
が愁訴するからとして山県を許したのであった。これはすべて信玄の作謀の致すところである。

越後の謙信もこれを聞いて「この度、信玄が徳川殿と盟約を変じ、山県をもってその虚に乗じ討たんと計ったことは、
武田家の瑕瑾(名折れ)である」と評したのであった。

(原注:按ずるに応仁以来、諸国割拠の英雄豪傑は少なからず。その中でも、越後の謙信と甲斐の信玄の2人は殊更
胸に六韜三略を明らめ、手に常蛇を制す。兵を用い陣を敷き、城を攻め敵を計る。尽く孫呉と機を同じくせずという
ことなし。天下後世が規則として仰ぐこと泰山北斗の如し。

しかしながら信玄のなすところは、すでに父を追って国を奪い甥を倒して地を掠み、天倫の道は絶えてしまったので
隣国の盟約を背く如きは論ずるに足らず。されどもこの度、盟約は未だ数ヶ月も経ずして山県に密かに計略を含め、
兵の少なきを窺って襲い討たんと計った偽詐姦邪はおのずと国々へ言い伝えて、これより大いに人望を失ったという
のは、そのようになってもっともな事である)

――『改正三河後風土記(武徳大成記・東遷基業)』


掛川開城

2018年12月28日 18:21

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/28(金) 01:16:16.37 ID:pBe2OoRD
(掛川城の戦いの時)

掛川城中では朝比奈備中守泰能(泰朝)・小倉内蔵助資久らがとりどりに評議し、

「これまでは今川旧好の輩が馳せ集まり堅固に当城を持ち固めたが、今は遠江一円が徳川殿に帰服し、当城は兵糧が
次第に尽きて飢えに臨んでいる。これでは長く籠城は叶い難し。氏真は小田原に避けなさって北条を頼まれ、開運の
時節を計られるのがしかるべし」

と評議は一決した。しかしながら、氏真は疑念深く未だ決定しないので、小倉内蔵助は諸々に諫言した。折しも奥平
美濃守貞能も神君(徳川家康)を諫めて「氏真を許して御和睦なさり、早く遠江を平均なさるべし」と申すと、神君
はもとより御同意であった。

その時、今川方は朝比奈弥太郎泰勝(原注:子孫は今水府(水戸藩)に仕える)を使者として石川家成・酒井正親の
方まで和睦を申し請うて来た。(原注:『東遷基業』)奥平貞能は久野宗能・浅原主殿助と和睦を相計り、4月8日
に主殿助が御使者として城中に入り、小倉内蔵助と対面して仰せの旨を伝えて仰せ送られたことには、

「家康が幼年より今川義元の扶助を得ていた旧好は、今においてもどうして忘れることだろうか。家康に氏真を敵と
する心はない。如何せん氏真は讒佞を信じて私を仇とし、矛盾に及ばれたのでやむを得ず合戦に及んだが、まったく
もって本意ではない。只今のような状況では、遠江をも駿河と同じく武田信玄に奪われることだろう。速やかに駿河
を私に避けて渡されたならば、私はまた北条父子と相計って氏真を駿河へ還住させ申す」

内蔵助は大いに喜んで氏真を諫め、内蔵助が氏真の使者として双方誓詞を取り交わし御和睦は整ったので、内蔵助は
また小田原へ赴き、北条父子へこの由を告げた。よって北条からは北条助五郎氏規を氏真の迎えに掛川へ遣わした。

氏真は5月6日に掛川を出て掛塚の浦より船で小田原へ赴けば、神君からも松平紀伊守家忠をもって送らしめられて、
海路を守護させなされば、つつがなく伊豆戸倉に着岸した。今川・北条の者どもも「徳川殿は情けある大将かな」と
感心した。

これより掛川城は酒井左衛門尉(忠次)・石川伯耆守(数正)・本多作左衛門(重次)が受け取り守衛したが、同月
22日に神君が掛川に入りなさって軍士を饗応せられ、当城を石川日向守家成に賜った。

これより以前、(三河が)一円に御手に属した時、三河の国人を二組に分け、酒井左衛門尉とこの家成の両人に属せ
られて両人を左右の旗頭と定められたが、家成が当城を賜った後は旗頭を甥の伯耆守数正に譲って、自身は大久保・
大須賀・松井と同じく遊軍となり、本多広孝・本多忠勝・鳥居元忠・榊原康政らは御旗本を警衛した。

(原注:今川と御和睦の事は『武徳大成記』には今川より朝比奈泰勝が使者として申し越したとあり、『東遷基業』
も同じである。『家忠日記』には徳川家より御使者を小倉資久へ遣わされたとある。本文は両書を合わせ意を迎えて
綴ったものである)

この頃に石川に属したのは、西三河の松平源次郎直乗・松平宮内忠直・内藤弥次右衛門家長・平岩七之助親吉・鈴木
喜三郎重時・鈴木越中守重慶。(原注:『東遷基業』では、石川の組に酒井正親・鳥井平蔵・松平三蔵・松平信一を
加える。いずれが是であるかはわからない。よって両説を備える)

一方で酒井に属するは、東三河の松平右京亮親盛・松平内膳家清・松平源七郎康忠・松平玄蕃頭清宗・松平又七郎
家信・松平弥九郎景忠・設楽甚三郎貞通・菅沼新八郎定盈・西郷新太郎家員・松平丹波守康長・奥平美濃守貞能・
牧野新次郎康成。

この輩に加え、また石川伯耆守の弟・半三郎は猛勇の士であったため、先に攻め落とされた堀川を下され、その地に
土着して土人を主宰せしめなさる。よって気賀の徒は屏息して大いに恐れ、この後に一揆を起こす者はいなかった。
(原注:『東遷基業』『武徳編年集成』)

――『改正三河後風土記』


平田宗次セブン

2018年12月28日 18:20

551 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/12/27(木) 15:24:03.69 ID:WAd4eUEx
平田宗次セブン

島津氏の家臣に薩摩平田氏という一族がいる。
嫡流筋の7代当主・平田光宗は家老になるほどの家柄に成長した。
そんな平田氏にスポットをあてたいと思う。

過去にサイトでは朝倉教景が5人いたと紹介されたが、ここ薩摩平田氏には同時期になんど7人も諱かぶりがいた。
まあ通称とか官職などで呼ばれてたから別にいいんだけどね。
だが、同時期に7人も同じなのは狂気の沙汰である。


それはともかくとして、選手を紹介していこう。死亡した順番で紹介いく。

(1コース)又十郎・・・1558年に曽於郡にて戦死。
(2コース)源太/新助・・・日向福島にて戦死。
(3コース)平次郎・・・朝鮮出兵で戦死。
(4コース)三五郎・・・大隅財部にて男色相手と共に出陣するが、相手が戦死したため敵中に突入し戦死。
(5コース)万兵衛・・・関ヶ原合戦で戦死。
(6コース)新次郎・・・日向野尻の狩りで伊集院忠真と馬を交換したが、忠真謀殺を狙う島津忠恒の配下による誤射されて死亡。
(7コース)左馬頭・・・9代当主・増宗が島津忠恒によって上意討ちされると、2年後に連座で処刑される。

結局7人全員まともな死に方してねえじゃねえか!
誰1人とも枕の上で死んでない。

↓系図はこちら↓
https://i.imgur.com/PrOIwht.jpg


鹿児島県の史料集などから抜粋


門を開けたままにしておけ

2018年12月27日 14:31

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/27(木) 09:21:54.83 ID:3nG+GfMx
豊臣秀吉の死後、徳川家康の伏見屋敷では、晩の七つ時分(深夜3時ころ)になると、ぴたりと門外より
屋敷内を覗いて走り去る者が多くあった。下々は「いかなることか、晩に及んで敵が寄せて来るのでは
無いだろうか」などと疑った。

この事はそのまま村越茂助より徳川家康に報告されたが、家康は「門を開けたままにしておけ。」と
命じた。その上で「夜間の警備に当たる者達の所へ、これを持って参れ」と、火鉢二つを出し、
茂助がこれを承った。いずれも寒気防ぎの為であると思っていたが、実はそうではなく、火縄の火を
急につくるのに、蝋燭などではなかなか付かないものだという家康の考えであった。
これは村越道半によると、森川金右衛門が語ったことであるという。
(武功雑記)


四郎こそ我が子と言いながら

2018年12月26日 22:26

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/26(水) 20:53:09.94 ID:ye6XdlVb
四郎こそ我が子と言いながら


ます田の四郎(天草四郎)、この者は近年肥後のうとふ(宇土)と申すところにいたそうだが
この度天草へ参り、みなキリシタンに立ち帰ってしまったという。
しかし大将となった四郎の母、祖母、姉は肥後殿(細川忠利)に捕らえられていた。
捕まっている山に、四郎の姉婿の大矢野の小左衛門と申す者がいたが、四郎が
「母、姉が捕らえられては是非も無し」
と申したので、小左衛門は忍び込もうとしたが捕らえられたのだという。

小左衛門を伊豆(松平信綱)が召し出され四郎のことについて尋ねると
「『四郎は普通のせがれではない』と親が申し做しており、四郎は人間ではないと
 評判になっていたので、人はみな騙されてしまった。私も同様でございます」
と申したという。

(中略)

小左衛門に伊豆殿御公使衆が(四郎の)様子を尋ねると
・四郎は十六だが利発で、読み物をあれこれ読む
・未だかつて十方にいないようなせがれであると、四郎の親は思っている
・親は「四郎こそ我が子」と言いながら「人間ではない」と奇特不思議なことを
 言いふらしたため、天草・有馬の者がキリシタンに立ち帰った
・自分も騙されて「敵がどんなに詫びてきたとしても目を眩まされるな」と言われ
 本当だと思って、みなの為に物事が上手く運ぶようにしていた
と申し、他に申し分はないとのことだった。


ーー『池田家中某氏島原陣覚書』



550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/27(木) 10:34:37.91 ID:A2FsnyoP
畜生のように逆さに吊され生きたまま生皮剥がされるのを目の当たりにすれば転んで自白しちゃうよね

週間ブログ拍手ランキング【12/20~/26】

2018年12月26日 22:25

12/20~/26のブログ拍手ランキングです!


可児に好まれて辞し難し 22

久野氏内紛 18

伊勢貞衛と名刀・小烏丸 14
永禄12年正月22日掛川城攻め 12

正信偈合戦顛末 11
イケメンすぎて町娘から惚れられる森蘭丸 11

今は速やかに天意人望に応じて降参するべし 9
掛川城の戦いの時。23日の城攻め失敗後 9
悪右衛門尉由来 9

伊達政宗、慶長六年(1601)四月二十一日付書条 8
堀川城の戦いの時。掛川城再攻後 8
南北合体 5

三月七日の掛川城攻め 4
吾陰嚢の垢ほどもあらぬ物を 4
【ニュース】江戸時代初期に「大坂幕府構想」検討か 新たな書状見つかる 4


今週の1位はこちら!可児に好まれて辞し難しです!
レスにもありましたが、『天下七兄弟』、辻小作と中黒道随に出ているように、辻小作、可児才蔵、中黒道随は「天下七兄弟」と呼ばれる義兄弟の契を結んでおり、故に打ち取るかどうかで
すこし悩んだ、という事なのですね。しかし友人同士でも、敵味方に別れれば馴れ合いという感じをさせないのは、流石
この時代の名のある武士たちですね。ここでは勝敗がほぼ決定したからこそこの態度であったのでしょうし、もし勝敗
定かならぬ激戦であれば躊躇わず命を奪い合ったことでしょう。しかし、基本秀吉系とはいえ、様々な家の家の家臣が
友人関係という「横のつながりを結ぶというのは、秀吉の天下統一により、多くの武士が京に集住したことで生まれた
現象なのでしょう。そう考えるとこの逸話も、秀吉の天下統一が成って初めて生まれたもの、と言えるかもしれません。

2位はこちら!久野氏内紛です!
掛川城攻めのさなか、家康と今川氏真の間で揺れ動く国衆久野氏。戦国時代には、このような立場に追い込まれた国衆が
何百何千と有ったことでしょう。そして運の良い少数は生き残り、殆どは歴史の表舞台からからひっそりと退場しました。
この久野家は、この後も色々あったものの、最終的には御三家紀伊徳川家の家老となり、伊勢国田丸城代として1万石を
所領し、そのまま明治を迎えます。勝ち組そのものと言っていい一族ですが、それもこの時のギリギリの決断が有った故
であると思うと、運命の不思議さなども感じてしまいます。

今週管理人が気になったものはこちら!伊達政宗、慶長六年(1601)四月二十一日付書条です!
後半の秀吉についての提案は非常に有名ですが、前段も面白いですよね。最上義康との連携は非常に上手くいった。
彼の父親である義光とは上手く行かなかったのに、不思議だなー(棒)、のあたり、様々に察せられますねw
最上義光への牽制など色々考えた上でのこの表現なのでしょう。政宗も政治家ですね。
秀頼を家康の手元で育てる、という提案ですが、もしかすると家康は「そんなこと出来るならとっくにやっとるわい!」という
思いだったかもしれません。そのあたりに興味のある方は、、黒田基樹先生の「羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩」を
おすすめします!結局大阪の陣に至る流れも、直線ではなく、本当に紆余曲折なわけなんです。



今週もたくさんの拍手を各逸話にいただきました。いつも有難うございます!
また気になった逸話がありましたら、どうぞそこの拍手ボタンを押して下さい。

なんのかんので、今年最後の拍手ランキングとなりました。今年でこのまとめも10週年となりましたが、どうにか無事に
年を越せそうです。有り難い事です。
本年中も、元スレの皆様初め、ここを閲覧しに来て頂いている多くの方々に大変にお世話になり、様々な場所で励まされ、
元気づけられました。心より御礼申し上げます。

来年はいよいよ平成も終わり、そして文化14年(1817年)の光格上皇以来、およそ200年ぶりの上皇の誕生など、
正しく歴史的な年となりますね。そんな中でも、特に変わらず淡々と更新できればいいな、なんて思っています。
少し早いですが、来る新年が、皆様にご多幸有る年と成りますように。

まとめ管理人・拝
(/・ω・)/

今は速やかに天意人望に応じて降参するべし

2018年12月25日 21:19

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/25(火) 19:01:46.98 ID:Ptb2kkHD
(掛川城の戦いの時)

掛川城再攻により、今川方が和睦を評議していると聞こし召し、神君(徳川家康)は岡崎に帰城して人馬を休めんと
された。すると尾藤主膳や気賀一揆が堀川城の旧塁に立て籠った。またこの頃、大沢左衛門佐基胤が再び今川に一味
して遠江敷智郡の堀江城に籠り、中安兵部定安・権田織部泰長らと同じく敵の色を顕した。

(原注:関白道長より四代の中務大輔基頼の子・持明院左京太夫通朝の十代・左衛門佐基久が遠江に居住し、丹波の
大沢を領した。今の基胤は基久より九代である)

そこで3月25日にこれを井伊谷三人衆の近藤石見守康用とその子・登之助秀用、同じく三人衆の鈴木三郎太夫重吉
(重時)・菅沼次郎右衛門忠久、野田の菅沼新八郎定盈らに命じて討手に向かわしめられた。

(中略)

また堀江城は井伊谷三人衆と野田の菅沼定盈が押し寄せ攻めたが、鈴木重吉が討死した。その後、日数を重ねて攻め
囲みなさったが、神君は4月12日に城中へ御使者を立てられて仰せ遣わされたことには、

「大沢は氏真の被官家人でもないにも拘わらず、旧好を忘れずに只今衰運の今川のために籠城し、日を経て苦戦する
その義烈はもっとも感銘を受けるところである。しかしながら、私は今遠江一円を手に入れて掛川も和睦した。今は
速やかに天意人望に応じて降参するべし。本領は相違なく与えよう」

これにより大沢主従はいずれも仰せに従った。よって御誓紙を下されると、大沢を始めとして中安兵部・権田織部も
皆降参した。この時、中安・権田の両人は御家来に召し出された。(原注:『東遷基業』『武徳編年集成』)

――『改正三河後風土記』