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【ニュース】山形市 最上義光歴史館開館30周年記念 「復元!!最上義光所用鉄製指揮棒」

2020年02月08日 16:54

619 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/08(土) 10:30:33.30 ID:FBTlD/sc
山形市 最上義光歴史館開館30周年記念 「復元!!最上義光所用鉄製指揮棒」
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山形市の最上義光歴史館で、最上義光愛用の鉄棒を山形県指定無形文化財の刀匠
上林恒平氏が復元し展示中とのこと。
上林氏は結城家に伝わった天下三槍の一つの御手杵の槍も復元しています。


歴史館での解説によると、義光は常に手元に置いて戦場でも愛用し、子々孫々に
伝えるために最晩年に金象嵌で由来を刻んだとか。
ところが最上氏改易のごたごたで蔵にしまい込んだまま忘れ去られて、新城主となった
鳥居氏がこれを発見して最上氏に送り返した経緯があるそうな・・

最上氏改易での領地接収に当った伊達成実の亘理伊達家に、最上家重臣延沢氏の
甲冑が伝わったりしていますので、返却されてよかったとしか言えませんね。
(この甲冑は後に市場に放出され平成になって米国人コレクターに売却された)

鳥居氏も後に何度かの改易を繰り返していますから、もしもそのまま鳥居氏が接収してたら
江戸時代中に失われた可能性が高そうです。



621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 11:19:51.97 ID:7FwsNVis
指揮棒っていうぐらいだから丸い棒だと思ってたんだが
四角いのか

622 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/08(土) 12:00:39.77 ID:MA6fy5um
刻まれた文字は「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」

近年ネット上でうるさい海外出羽守ポリコレ棒と違って、本物の出羽守棒ですな。

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 12:58:56.56 ID:BmZgWOJR
最上記念館に直江軍の旗があるんだけどいかにも手書きで感動した

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 15:36:44.09 ID:POWo705j
鉄製とはいえあくまでも兵権を象徴するもんだし、とっさにこれで応戦はあるかもだけど
これを金棒みたいにぶんぶんは振り回さないよね?

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 15:43:26.27 ID:BWjBwiP7
重過ぎたらまとめの6843
「小幡勘兵衛の鉄の軍配」

のように、権現様が「こんな重いものを持って、どうして兵の指揮が出来るものか」 
と、どなりつけることに

626 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/08(土) 15:57:59.25 ID:hMpJmxV+
http://samidare.jp/yoshiaki/data/15407904041.jpeg
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実際どうだったかはともかく、戦場でもこれを振り回していた伝承はあったようで、
「長谷堂合戦図屏風」では、長さ8尺程に描かれたこの鉄棒を振りかざして殴り付ける姿があります。

627 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/08(土) 15:59:40.89 ID:hMpJmxV+
屏風絵は両手で持ってますが、実物はどう見ても片手用ですね。

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 16:49:04.72 ID:oWA1ySTR
クッソ重いのにブンブン振り回してたから氏家さんに怒られてなかったか?

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 16:49:27.08 ID:oWA1ySTR
山形城の銅像は片手だな。

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 17:10:19.87 ID:BmZgWOJR
最上さん大柄で力自慢なんでしょ?
再放送の戦国鍋テレビで言ってたw

十の内八は大賢人、残る二つは大悪人

2020年02月07日 17:30

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 14:31:37.94 ID:zDEfqtYs
上州佐保と申す侍の娘、若年の女性であったのを、上杉謙信公が近年召され、常に寝殿より離さなかった。

その彼女がある時、故郷の見廻りのためとして御暇を申し上げ罷り帰った。この時謙信公は取次の
女房に、「三月二十日の前後、日限を違わず故郷より戻り出仕すること。」と、堅く申し聞かせた。
彼女はいつも故郷を懐かしみ、また謙信の申し付けを聞かない事があったという。取次の女房はこれを承ると、
くどくどしいほど申し付けた上で帰郷させた。
しかし、三月二十日が過ぎてもこの娘は出仕せず、四月上旬になっても故郷に逗留していた。取次の女房は
気遣いの余り飛脚を仕立て指し寄こし、彼女を呼び出した。

四、五日経て後、謙信公は彼女が戻ったことをお聞きに成ると、御不斷所に召し出し「人や候」と
仰せに成ると、御小々姓の荒尾助九郎という者が罷り出た。謙信公は彼にこう仰せになった

「この女、去る仔細あり。只今ここで成敗仕れ。女なる故に私が直にはせぬ。」

荒尾はこれを承ると『少しでも遅々仕るにおいては、我が身が全う出来ない。』と思い、御声が下されたと
同時に脇差を抜き、彼女が小首を傾ける前に討ち落とした。

総じて謙信公御家中にては、死罪の者は他を十とすると二、三のみであった。
ただし死罪に及んだ者は、事によって侍であれば、半分は御前に召し出され、御坪の内などにて
三十五人衆(謙信に仕えた主な武将の総称)に仰せ付けて処刑させ、稀には自身で遊ばされた。

太田三楽はこの事を後日承ると、北條丹後にこのように語った
「貴方の主人である謙信公は、御武勇の義はさて置き、それ以外の御気質を総じて見奉る所、
十の内八は大賢人、残る二つは大悪人であろう。つまり生まれつき、怒りやすくその感情のまま
致す事が多いという癖がある。それ以外は、或いは猛く勇み、無欲清浄にて器量大きく、廉直にして
隠すことはなく、明敏にして下を察し士を憐憫して慈しみ、忠諫を好んで容れられる。
このように、末世の現代に於いて有難き名将であり、故に八つは賢人と訓し申したのだ。」
そう談笑して去った。

松隣夜話

女色を絶ったと言われる上杉謙信にも、こんな側女(?)についての逸話があるのですね。



838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 16:05:08.31 ID:hMqyTt4h
前半を読みながら、ああこの女性だけでなく取り次ぎの女房まで斬られちゃうんだなあ…と思ったけどさすがにそこまで鬼畜ではなかった

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 16:22:35.91 ID:ho3rY9kO
他の家中のが死罪のひと多かったって書いてあるってことでええんよね?これ
あと謙信の場合は侍相手なら召しだしてからそれなりにえらいやつとか自分で切るって書いてあるけど
他の家中だとこれも異質ってことかね?

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 20:19:23.39 ID:mdwM2iW9
謙信以外で近くにいた人皆殺しかとガクブルした
取次の女房さん、荒尾さん、良かったね

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 20:29:32.95 ID:G1IjvwLA
俺が取り次ぎの立場だったら故郷に帰す時に人を付けるか、期日の2週間前に呼びに行かすけどな

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 21:34:34.53 ID:b2xkCiqJ
ご自身で遊ぶというパワータイプ

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 22:25:01.87 ID:gCvMx7Sm
>>837
これ、他所はもっと悪いと書いてあるけどほんとかな
ちょっと信じられないけど

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 12:10:07.73 ID:BWjBwiP7
>>842
ホイジンガ「ホモ・ルーデンス」
によれば上杉謙信は経済的争いではなく剣を持って戦うという、遊びへの規律に忠実な人間だとか

【雑談】織田信長についてのことなど

2020年02月06日 17:15

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 11:17:49.48 ID:5OMCCWI9
そういえば信長も無断外出した女房達を処罰してたな

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 11:49:01.96 ID:JdBizlSl
信長って安土に移った頃ですら馬廻りや弓衆に命令を聞かない連中がいて処罰してるよね

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 12:02:25.48 ID:1+5PdDNQ
信長の言う事聞かない家臣結構多いですよね
秀吉も手取川前だかに無断で帰ってるし

勝家宛だかの書状でも陰口叩くなよワシの方に足向けるなよみたいな内容出してる辺り
陰口叩いたり足向けるような連中である事認識してたわけだし

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 12:08:21.59 ID:OD3qETlT
火事があって引っ越してないのがバレてさらに燃やされたんだっけ?

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 12:41:09.38 ID:ytodUhRl
>>800
天正9年の桑実寺事件は同時代的にも異様なものだったらしく、
毛利へ「信長が取り乱している」と報告されてるな(石見吉川家文書)

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 13:27:34.45 ID:/N2UOQXO
信長居ない時のフリーダム感すげえだろうなっては思う

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 13:28:04.42 ID:ClW7PRNL
馬廻りは家族ごと安土に引っ越せって言われてたんだけど
家族を岐阜に置いてきてた人の家から火事が出て調べたら同じような奴がたくさんいて
岐阜の家を焼いて家族を強制引っ越し
罰として道路工事もさせた

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 16:57:49.65 ID:yuA3pMt6
そう考えると織田ですら大名集権化にかなり手間取ってたんだなーって、というか出来てないからド油断したのを抜け目なくやられたと言うべきか
大名はあくまでも権利の保証者であって一挙手一投足まで指図される謂れもないわって考えもありそうだし
戦国大名から近世大名化失敗しまくる大名が星の数程いたのもむべなるかな

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 17:18:38.98 ID:ClW7PRNL
ちなみに信長は着工してすぐ安土に来た
信長がせっかちなのを知ってる丹羽は屋敷を用意しておいたのでますます重用されるように

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 17:36:18.21 ID:n3zjBlsZ
信長は自分の意にそぐわないとすぐ激怒するイメージだけどな、馬廻り衆でさえ指示を聞き流しているのか

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 17:46:59.50 ID:1+5PdDNQ
だからこそ激怒しないといけないんじゃないの
いう事聞いてくれるならわざわざ激怒する必要もないし

急激に勢力でかくなったせいで集権化急がなきゃいけない状況になって
綱紀粛正するために厳しめで行かないといけないパターン

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 17:48:55.11 ID:KELwHSj/
秀吉が古参に対して恐怖政治をやった理由の一端なんだろうなぁ。

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 17:52:01.98 ID:dT08o3j2
秀吉は「信長の時代みたいに甘くない」って書状残してるくらいだしね。

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 19:21:03.19 ID:BVx81U5Z
激怒っていうか家臣はすぐに誅殺しないとダメなんだよ
そうじゃないと逆に自分が殺される
とオルガンティーノも書いている

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 19:38:25.63 ID:5aGsRTSp
>>761
>信長卿が武田勝頼を攻められた時、御嫡子である信忠公に数万の軍兵相添えて、関東へ差向けられた。
せっかく関東に差向けられたんだから、
そのまま武田領の上野に全軍で攻めこんでなに食わぬ顔で武蔵へ南下すれば良かったのにな。
>そして信忠公は関東平均を打ち納め、京都へ上洛された。
ここ、ここがアレだよね?高々甲斐を落として関東平均などと大抑にならずに、
愚直に武蔵まで押さえて本当に関東平均しておけば本能寺の変も起きなかったんじゃないか?

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 20:44:40.28 ID:yandyTqS
>>815
どうも甲州征伐の織田軍は兵糧不足に陥っていたらしいので無理だな。
なので昨今では、勝頼も粘ってたら織田軍は撤退したんじゃないか、なんて言われたりもしてる。

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 21:19:40.60 ID:ClW7PRNL
>>816
おもてなししてくれた徳川に米を置いていってるよ

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 21:41:04.61 ID:yandyTqS
>>817
平山優『武田氏滅亡』より、天正10年3月23日付山口秀景書状によると、この時の織田軍は
「一、信州雪深く一段と凍っていて人馬が足も立てることができない。寒さは想像以上である
一、不足しているのは兵糧で、諸陣は大変困っている。多くで脱走が起こっている」
と報告してる。また織田軍に対し家康、北条氏政から兵糧が提供されている。

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 22:29:26.79 ID:n3zjBlsZ
氏政から兵糧を貰っておいて関東制圧するぞとはならんよな

信長は律義で有名だから

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 23:38:00.41 ID:IgwN6hfh
>>819
北条が駿河に攻め込んだのに取り上げ、それどころか上野・北武蔵などの国人衆が
滝川一益の指揮下に収まることになり事実上領地取り上げになりましたけど、なにか?

そりゃ、信長死んだのがわかったら、即、滝川一益を攻めるわな。

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/06(木) 00:37:29.52 ID:a/URv4ty
攻め込んだの滅茶苦茶遅いけどな

今日は汝と相討ちした

2020年02月06日 17:14

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/06(木) 01:36:38.86 ID:wiW6qKyX
永禄九年、越府において、七組衆を初め諸侍は上杉謙信より正月の配膳を給わった。
御儀式は慣例通りに執り行われ、これが終わった後、御座間に於いて賞禄を給わった。
各々、名字を詳らかにせず加恩、与力を与えられ、御機嫌に預かる侍は、百二十余人に上った。

深淵金太夫という尾州浪人は、十年以来御家中にあった。この者が謙信の御座所の次の間において、
仙可という若年の童坊と些細な事で口論となり、金太夫は仙可を捕えて上に乗りかかり床に押さえつけた。

この事に気がついた謙信は、御腰から放さない貞宗の脇差にて、片手討ちに二人を重ねて一刀で、
四つに斬り放した。

仙可の親、内記という者は側でこれを見て憤激した
「金太夫はここでの儀を怖れぬ狼藉者でしたから、こうされるのも仕方ありません。ですが仙可は未だ
童の身であり、金太夫から遁れることが出来なかっただけで、科はありませんでした。それを同罪に
なされるとは、是非に及ばぬ!」

怒りの余り脇差を抜き、謙信公へ斬り掛かった。これに謙信公はあやまたず踏み掛かって、二刀で斬り
伏せられた。謙信公の最初の太刀は、内記もよく合わせこれを避けて身に当たらなかったが、後の太刀にて
右の腕を、手首から二寸ばかり残して斬り落とされた。それでも内記は左手に脇差を持って、猶も斬り合おうと
したが、これに謙信公の御小々姓である上村伊勢松が走り寄り、内記の高股を斬って討ち伏せ仕留めた。

謙信公は伊勢松に「今日は汝と相討ち(二人で相手を討つ事)した。」と、大いに笑われた。

松隣夜話



823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/06(木) 08:45:51.62 ID:zg2W6YPH
>>822
笑う要素どこ…w?

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/06(木) 08:58:16.92 ID:nO95//2p
片手で二人を重ねて一刀とは原哲夫の世界だな。

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/06(木) 10:00:16.23 ID:NeGRkwvU
笑止の沙汰だ

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/06(木) 12:54:53.45 ID:+wvKkEem
親なら斬りかからないとどっちにしろ詰みだな
こんな場で喧嘩するって酒入ってたんだろうな

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/06(木) 21:26:57.16 ID:+MBBoFkl
この性格の人間が家臣言う事聞いてくんないもういい出家する!
ってやるのかー

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/06(木) 21:56:12.30 ID:E9GYgRkG
>>822
内記もぐずぐず喋っていないで無言で刺せば仇をとれたのにな

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/06(木) 23:00:28.75 ID:nTcMQh8p
>>827
おまえらが引き留めたんだから好きなようにやらせて貰う!になったんじゃない?

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/06(木) 23:29:58.29 ID:PE7MHHeN
どうせ死ぬし言いたい事言ってから派手に散るべし
武士の口上は戦闘力と同等に大事

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 00:58:18.23 ID:ho3rY9kO
派手な口上かました挙句爺さんの額に切り傷つけただけの浅野内匠頭は
仕留めるために充分に準備してた稲葉正休って例があんのにだっさいわー
みたいなこと言われてたはずなんで、やっぱ口上よか本懐遂げるのが重要かも?

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 06:33:08.17 ID:uaynckgV
4つにするの好きね

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 07:09:16.88 ID:RkOdVTm7
>>824
花の慶次を読んだ時は盛りすぎだろwと思ったもんだが
謙信は漫画より奇なりだったでござる

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 09:49:33.76 ID:knDHv29+
突発事態な上に斬りかかる相手が家臣でなく大名というか謙信

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 10:06:27.59 ID:rWSfBsWj
バーサーカー謙信

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/07(金) 13:14:39.06 ID:xFe63+7P
称号:謙信

青沼新九郎の事

2020年02月05日 17:06

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 02:36:08.02 ID:NZ2w9/rT
永禄八年七月、上杉謙信配下の柿崎和泉、北條丹後は上州下分にて働き毛作を刈り取り、そこから和田へ
取り詰め巡見をした所、武田衆が堅く守っていたため早々に引き取った。この時、青沼新九郎という
上杉謙信寵愛の小姓が遠筒(鉄砲の流れ弾か)に当たって疵を蒙り、翌日前橋に於いて死去した。
この青沼新九郎は、北條丹後の与力・青沼勘兵衛の三男で、久しく越後へ相詰め、休暇として六月より
父の在所に在った。

謙信公は佐渡より御帰城なされ、この新九郎の死を知らされると、彼が御暇を申さず忍んで父の在所へ
罷り帰り、剰え多日逗留した事は是非にも及ばぬと激怒された。そして既に掘り埋めてあった彼の屍を
引き出させ、これの首を斬り獄門にかけ、父子兄弟悉く追放された。

また、いかなる密事をお聞きに成ったのか、北條丹後の甥である伊豆守の末の弟・水右衛門という者、
その年二十二、三歳の、若く清気なる侍であったが、彼を飛脚を以て召し出した。
そして普段過ごされる部屋に彼を呼んで御言葉をかけ、例の國吉二尺九寸の刀にて袈裟斬りに斬り捨てられた。

松隣夜話

残虐な逸話の残っている武将というのは多く在るけれども、自身で人を手にかけるという描写がこんなに
多いのは謙信くらいでしょうね。



794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 03:53:57.45 ID:IgwN6hfh
わけのわからないところで激怒するのが本当に怖いな…

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 07:47:21.68 ID:CBM3uDpN
酒を飲んだら人が変わる

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 07:51:23.83 ID:IcG/PCM6
>>793
なんで斬ったのかだれか解説してくれ

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 08:06:05.81 ID:LXVG1nRp
青沼新九郎
 越後に詰めていなければならないのに、無断で実家に帰って、
 戦死するまで3ヶ月も自分の役目に戻らなかった
 一族も新九郎を役目に戻るように計らわなかったので追放

北条高広の甥・水右衛門
 何かしらの密謀に関わってた(と謙信が判断した)ためお手討ち

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 09:08:46.43 ID:JdBizlSl
さすが謙信台風
落馬しかけたときに助けようとした家臣を怒鳴りつけて殺した逸話があるらしいけど、松隣夜話が出典かな?

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 10:24:14.44 ID:InAPMqiN
謙信公の名を貶めるようなことばかり書くとはまるで中韓アレルギーのネトウヨが如き作者ですね

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 11:17:49.48 ID:5OMCCWI9
そういえば信長も無断外出した女房達を処罰してたな

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 11:49:01.96 ID:JdBizlSl
信長って安土に移った頃ですら馬廻りや弓衆に命令を聞かない連中がいて処罰してるよね

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 12:02:25.48 ID:1+5PdDNQ
信長の言う事聞かない家臣結構多いですよね
秀吉も手取川前だかに無断で帰ってるし

勝家宛だかの書状でも陰口叩くなよワシの方に足向けるなよみたいな内容出してる辺り
陰口叩いたり足向けるような連中である事認識してたわけだし

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 12:08:21.59 ID:OD3qETlT
火事があって引っ越してないのがバレてさらに燃やされたんだっけ?

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 12:32:39.88 ID:LXVG1nRp
>>797
6月に家に帰って7月に戦死だから
3ヶ月→1ヶ月(しかも最長で)
だった、赤っ恥

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 12:41:09.38 ID:ytodUhRl
>>800
天正9年の桑実寺事件は同時代的にも異様なものだったらしく、
毛利へ「信長が取り乱している」と報告されてるな(石見吉川家文書)

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 13:27:34.45 ID:/N2UOQXO
信長居ない時のフリーダム感すげえだろうなっては思う

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 13:28:04.42 ID:ClW7PRNL
馬廻りは家族ごと安土に引っ越せって言われてたんだけど
家族を岐阜に置いてきてた人の家から火事が出て調べたら同じような奴がたくさんいて
岐阜の家を焼いて家族を強制引っ越し
罰として道路工事もさせた

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 16:57:49.65 ID:yuA3pMt6
そう考えると織田ですら大名集権化にかなり手間取ってたんだなーって、というか出来てないからド油断したのを抜け目なくやられたと言うべきか
大名はあくまでも権利の保証者であって一挙手一投足まで指図される謂れもないわって考えもありそうだし
戦国大名から近世大名化失敗しまくる大名が星の数程いたのもむべなるかな

週刊ブログ拍手ランキング【01/30~02/05】

2020年02月05日 14:15

01/30~02/05のブログ拍手ランキングです!


汝も今より武蔵と名を 12

『高遠の屋根ふき衆』 8

伝左衛門に小荷駄を預けたのは、某一代の不覚 7
将至って剛きは則ち士必ず応じず 7

永禄五年二月十三日、山根城(騎西城)合戦 6
【雑談】森蘭丸の蘭の字が 6

【雑談】森家の通称・幼名 5
穴山梅雪の使い 5
虎口に死を免れた心地にて 4


今週の1位はこちら!汝も今より武蔵と名をです!
いい悪いスレでは有名(?)な、森長可による瀬田の大橋乗打のお話ですね。「急いでいるから」の一点のみで信長の定めた決まりを
強引に破り信長のもとに駆けつける長可ですが、ともかくも筋は通しているのと、自身の命はいつでも捧げるという姿勢を見せる
事で信長からあっさり許されるだけでなく却って褒められています。この時点で既に何人か死んでいる所を見て、この時代の
兵卒の人命の安さというものを感じることも出来るでしょうw
実は信長はこういう、自分の兵卒が殺されても別に何とも思わない(むしろ殺された兵卒のほうが悪い)、という逸話がわりと
ありますね。甲州征伐ではこんなお話も伝わっています淡路守の倅
良くも悪くも、信長という人は味方の兵卒が多少死んだ程度では動じない人物という印象があったと言えるかも知れません。
それにしても、鬼武蔵だけでなく信長についても異様な空気感の在る逸話だなと、読むたびに思いますw

2位はこちら!『高遠の屋根ふき衆』です!
こちらも有名な、甲州征伐における鬼武蔵の活躍のお話ですが、面白いのは、現代的には相当、勇猛と言うか凶暴と言うか、
そういった印象がある、高遠城での屋根に登っての射撃ですが、こちらの記事が編纂された当時において「武田の兵に正面から
当たることから逃げて屋根に登ったのだ」という認識があった事ですね。つまり恥ずかしい行為であると。
もちろんこれも後世の倫理観に寄った印象に過ぎないわけで、同時代の評価を必ずしも反映しているわけでは無いのですが、
織田軍による高遠城攻めに関して、後世の武田旧臣、あるいは高遠地方の人々にはこのような感情が有ったのではないかと
想像すると、この戦いについてもまた別の感慨を持てるかも知れません。枠外にわざわざ記載する辺り、どうしても言って
おきたかったのでしょうねw

今週管理人が気になった逸話はこちら!永禄五年二月十三日、山根城(騎西城)合戦です!
これも一部では有名な上杉謙信による山根(騎西)城攻めのお話。自身の武威を示すというだけで、いい面の皮が何百何千いようと
構わないというあたり、確かに上杉謙信は稀有の英雄であると感じてしまいますねw
これの記された『松隣夜話』はおそらく江戸期に編纂された軍記で(成立年不明)、上杉謙信、太田資正を中心に関東の戦国を
描いています。で、ここでの謙信に対する描写は、決して彼の残酷さ、残忍さを強調したものではなく、むしろ謙信の称揚を目的と
したものと考えて良いと思われます。上にて森長可の高遠城攻めにおいて、屋根の上からの射撃が批判された例を紹介しましたが、
逆にこちらのように、たとえ現実的意味がほぼ全くなくても、真正面からの攻撃は讃えられたという事であり、評価の根は一つだと
感じます。
「正々堂々」を主とする「武士道」は、江戸期に広まった儒教により定義された道徳であると考えられがちだったのですが、昨今では
室町期には既に江戸期的武士道の原型が顕れており、戦国期はその武士道倫理がむしろ広まった時代であったと捉えられています。
そういった観点からこの逸話を読み直すと、武士道的な「正々堂々」の意味もなんとなく感じられるかも知れません。
そんな事を思った逸話でもありました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話を見つけられたときには、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
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【雑談】森家の通称・幼名

2020年02月04日 18:10

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 03:47:22.38 ID:hg3s6MrU
森家、あまりに幼名が有名な三男の乱丸につづいて力丸、坊丸、千丸
ですけど次男は勝蔵?ってなんか妙に毛色が違うんですね

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 09:08:28.87 ID:e/CShCHM
>>601
三左衛門、傳兵衛、勝蔵
乱丸、坊丸、力丸
千丸(仙千代)→近太夫

残ってるのが通称か、幼名か、両方か
の差では無いかな

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 12:11:52.19 ID:rsIlikFX
勝蔵は通称、乱丸は幼名でしょ

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 14:10:48.02 ID:uKjy8IMS
>>605
小姓3兄弟は元服済みじゃない?
乱丸の諱は成利
先輩たちも大人になってもお長とかお竹とか幼名で呼ばれてる

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 15:39:28.80 ID:hg3s6MrU
>>603
あれ、勝蔵って通称でしたっけか

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 17:41:25.38 ID:uKjy8IMS
>>608
森武蔵守長可って名乗ってたはず
お父さんが死んじゃったから元服と家督を継ぐの同時だよね

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 19:13:59.39 ID:e/CShCHM
信長公記なんかにも初出から死ぬまで勝蔵で通してるし通称(仮名)でいいと思うぞ

穴山梅雪の使い

2020年02月04日 18:09

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 04:33:50.85 ID:dDz2W3gf
甲州の穴山梅雪が越後の上杉謙信に対して、越後北の庄龍峰寺まで、空庵という僧を指し寄こした。
彼はこのようなことを伝えた

「いささか故あって、武田信玄は近来、総領の太郎義信を押し下し、庶子である伊奈四郎(勝頼)を
後継として立てようとしています。そのいざこざが猶も止まず、内戦に至らんとする機が既に顕れています。
そういう事であるので、謙信公が義信を養子としてお取り立てに成って頂ければ、梅雪が彼を連れて越後へ
罷り越します。信玄の家中にも四、五名が義信を支持しております。ですので更科より侵入されれば、
信州は大方、謙信公のお手に入るでしょう。これによって多年の御願望である、村上義清を本領に帰還
させる計策も成すことが出来るでしょう。」

この口上を聞いた謙信公の近習である諸角喜介、本郷八左衛門は、次の間に控えていた先手七組の諸老に
相談した。七組の衆は
「これは大吉の事である。甲州を謀る術の便りなのだから、早々に謙信公へ御披露すべきである。」
との意見であったので、諸角、本郷両人は謙信公の御前に罷り出て委細報告した。

謙信公はこれを聞くと「その僧をここに召し出すように。直答するべし。」との仰せであったので、
それに従い間もなく空庵は御前に参り謁見した。謙信公は空庵にこのように言った

「御坊、よく聞いて梅雪に伝えるように。
義信の使いを以て信州を取れとの義、この謙信には合点できぬ。どうしてもそれが必要なら、私は
人手を借りることはない。義信はまだ若いので仕方がないが、梅雪は何故にこれほどうつけたる言葉を
出すのか。身を寄せる所がないからそのような事を頼み入るという話であれば、この謙信としては何とも
慮外であると言わざるを得ない。

御坊、その黒衣に免じて、今回は無事に帰す。すぐに立ち去れ。(御坊黒衣に対して今度は無事に帰すとく去れ)」
そう、きつと白眼で睨むと、空庵は色を失って走り去った。

松隣夜話

義信事件に関して、こんなお話もあったのですね。



604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 12:11:35.13 ID:T1G3qkQP
>>602
信玄の謀略くさいね

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 15:14:53.67 ID:u69+w5aj
>>602
上手く行けば儲けもの、失敗しても義信処分って感じ

永禄五年二月十三日、山根城(騎西城)合戦

2020年02月03日 16:31

783 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 01:03:13.60 ID:JYHGVG8w
>>776の続き
上杉謙信は再び太田三楽を呼び出すとこのように言った
「私がここまで遥々出てきた以上、敵と手を合わせずに帰ることは出来ない。しかし利根川の北条・武田の
陣に掛かれば、信玄は工夫の深い人物でもあり、また手を詰めたような合戦に成り難しい。
そこでこの近辺に、氏康の要害は無いか?」

そう尋ねられたのを三楽承り
「山根城と申す所が、奥へ下道を四里の場所にあります。これは氏康秘蔵の要害であり、ここには忍の
成田の弟である小田助三郎、長野対馬守を置かれています。

ただし悪いことに、そこに行くには武田北条の両陣の前を遥々と奥へ通らねばなりません。
またそこを突破し要害を攻めることが出来たとしても、この城主は氏康奥筋の先手を任された
老功の者であり、千五百の人数が堅くこれを守っています。
前には城堅くして雌雄が決せられない内に、武田北条両旗にて押し懸られては甚だ危うい御軍となって
しまいます。
さらに、仮にこの城が手に入ったとしても、遠国の事でありますから保持は諦め乗り捨てにするより他に
道はなく、このような無益の場所の攻略に、腹心に等しい配下の大功の武士達を損ずるというのは、
御手違いであると存じ奉ります。これについて直江殿、宇佐美殿は如何お計らいに成るでしょうか?」

そう申した所、謙信はまた気色を損じられ、諸老の異見も窺われず
「謙信が守る所はそれではない!」
と、直ぐに須田という者を野根川の北条武田の両陣に使いに立て、このように伝えた

『輝虎は松山後詰めのため、ここまで罷り出てきたのであるが、早速に落城していた上は是非に及ばず、
あなた方も定めて、たぎらぬ振る舞いであると思し召しになっているだろう。恥じ入るばかりであり、
このままで罷り帰るというのは、両御旗に対し弓箭の無礼であると存じる。
そこで、氏康公秘蔵の要害と承る山根を明日押し破るつもりである。
その事無用と思し召すならば、両旗にて如何様にもこれを妨げられるように。』

そして利根川の品木の渡しに船橋を掛けさせ、押し渡って後に綱を切って船橋を流し、越後勢に太田三楽勢が
加わりその勢一万余騎にて武田北条陣の前、九町ばかりの傍を押し通り、山根城へと攻め寄せた。
この時太田三楽は内々に、『今度の戦いは他に譲ることは出来ない。』と考え、謙信に対したって先陣を乞い、
自身の軍勢二千に対し「我らの内一人でも生きている間は、越後衆に太刀を抜かせてはならない!」と
手の者達を励まし下知した。

この時の謙信の備にて定められた城攻め先鋒の面々は、西の手に大田三楽二千、南は柿崎和泉守、北條丹後
二千六百、東は直江山城守、河田豊前あわせて二千、御旗本は甘粕近江、長尾小四郎、中條五郎右衛門、
竹股勘解由、赤輪新介等であった。

謙信は諸将に会し「今度は無理に各々の一命をこの輝虎が所望申す。城攻めの方法は、私が下知を加えるに
及ばない。ただ荒攻めに仕るように。私はこれよりそれを見物する。もし武田北条による後詰めの有った時は、
本陣の合図に従ってこのように備を立てるように。」
そう言うと絵図を出した。

一方の山根城中はそのような事を全く知らず、矢倉にいた侍が小田助三郎の役所に来て「利根川の方より
馬煙夥しく見え、それが次第に近づいています。氏康公が奥筋に御手使されるのでしょうか?」と報告した。
これを聞いて小田助三郎も覚束なく、長野対馬守を伴って矢倉に上がりこれを見た。しかし両将としては、

「利根川に陣している軍門の前を押し通り、敵が通るはずもない。近国には上杉輝虎と太田三楽以外に
敵は無い。そして輝虎と三楽は松山城の後詰めのため昨日より前橋に到着したと聞いたが、松山城が
落ちた以上今日には定めて帰陣するはずである。
もし又、謙信が誤って奥筋に手勢を使わしたとしても、両将があのように居られるのだから、どうして
一戦もなく通るだろうか。

ではあるが又、味方であるとも見えない。大物見をかけよう。」

そして小田小四郎及び与力同心五十騎を引き連れ、自ら物見に出て七、八町西にあたる円山峠に乗り上げた所で、
太田三楽の先手である渋谷の一手が三百ばかりにて、険しい山の峰をつらぬいて攻め寄せてきた所に行き逢った。
双方は衝突し鑓を合わせ、一足も退かず各々の敵に当たり、そして物見の兵士は一人も残らずこの丸山にて
討ち死にし果てた。小田は太田の家来、深川修理という者に討たれ首を与えた。

784 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 01:03:50.11 ID:JYHGVG8w
長野対馬守は小田の便りを今か今かと待っていた所に、丸山の辺りに鉄砲の音が聞こえ、誰かは解らぬが
その勢二千ばかりが攻め懸けて小田の配下の者達を追い来たる、急いで対処せねばと判断した所に、
また南の山手より、銀の吹き流し矢筈の指物数多指した一備、馬煙を挙げて近づいてきた。長野は大いに
驚き手分けをして各持ち口に馳せ合わせようとしたが。混乱し騒動したため下知も届かず、長野対馬守
歯噛みをして「口惜しや!利根川の腰抜けたる味方を頼りとし不覚の死を遂げるものかな!」と言い捨て、
西の門を破って敵勢に乱入し、太田勢に馳せ向かうと、与力同心一四、五人共々暫く戦い、東を顧みると
北條・柿崎両手の馬印が早くも本丸に迫っていた。河田組、直江組もそれに続いて攻め入り、その中でも
太田勢は西の川の手より険しい山を一息に攻め上り外郭を破り、二の曲輪の門際まで切り行ったが、
長野対馬守が隙無く防戦したことで本丸への侵入を許さなかった。しかしながら城兵たちは敵より
あまりに強く攻められたために足を立てることも出来ず、明いていた北の方向に推しなだれた。

これを見て長野対馬守は同心の由良五六を近づけ、「御辺は早々に本丸へ入り、小田と我が妻子たちを
下知してよきに計らってほしい。郎従たちも残っているはずなので、きっと未だ事を果たすこと出来ると
推量している。どうか、頼み入り候。」

そう伝えると五六も委細相心得、「御心安く御戦死遊ばし候へ、それがしは御子息たちの御供を仕り、
直ぐに追いつき参るでしょう。」と申して立ち別れ、主従四人にて本丸役所へ入り、長野と小田の
妻子に自害をさせると、五六自身もその場で自害した。
長野対馬守は「この城を辛労してどうにか守っているが、一体いつまで保てるものか。この上は
心ゆくまで打ち合おう。」と、三楽の旗本に斬って掛かり、比類なき働きをして。父子主従、
十七人が一所にて討ち死にした。

こうして、直江山城、河田豊前、柿崎和泉、北條丹後、太田三楽ら三方より同時に乗り入れ、謙信公の
下知に任せ、老若男女、僧俗を分けず当たるを幸いに突き伏せ斬り倒した。
こうして謙信公の諸勢は過半が城に乗り入れた。この時御旗本より、竹股勘解由、本庄清七の組、合わせて
六百ばかりを別けて北の方に廻し鉄砲を以て逃げ出す者を撃った。このため助かる者は、百人のうち
一、二も有ること稀であった。

城中に籠もった者達は北条家に於いて度々武辺仕る、戦いに馴れたる勇士たちであったのだが、鉄砲を二打と
快く放つ者も無いほど、三方の寄手が急に攻めて刹那の間に乗り入れたのである。

謙信公は丸山よりこの様子を終始見られ、「侍は勿論の事、雑人下部まで一様に身命を塵とも思わぬ
働き、見事である。」と、度々称賛された。

辰の刻(午前8時ころ)に取り合い始まり、午の刻(午後12時ころ)に乗っ取った。今回、山根城において
死んだ者は、上下、男女、僧俗、童、おおよそ二千六百であった。
寄手で死んだ者は三百七十五人、手負い五百人であった。

事終わって直ぐに諸手を丸山に引き入れ、腰兵糧を使わせて人馬を休ませ、城は乗り捨てにして
また元の道を帰り、利根川下の瀬の渡り前橋へ入った。
永禄五年二月十三日、山根城合戦とは、これのことである。

松隣夜話



785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 01:10:21.16 ID:77IM5cvd
このキャラ付けが何がどうなって義のひとに味付けされたんだろ

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 02:36:28.59 ID:/IgTbzXx
撫で斬りから3文字脱落したんだろう

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 08:30:00.80 ID:S5bz4vh3
>>784
ここまでやったのに
>城は乗り捨てにしてまた元の道を帰り
災害かな?

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 14:19:52.48 ID:4Cy1SCXO
松隣夜話だからといえばそれまでだけど
直江景綱の官途名混同してるな

>>787
松山城後詰に失敗した意趣晴らし100%の城攻めだから
武威を示すために残虐になるし
災害以外の何者でも無いわな

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 19:17:18.00 ID:HwF5Po/z
城攻めなのに寄せ手の被害のほうが圧倒的に少ないのは、流石というかなんというか。

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 22:05:21.49 ID:TG2SWWxN
信長「謙信って残虐だよな」

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 22:17:06.28 ID:/IgTbzXx
史実かはともかく、上杉謙信なるものがこういう人だと考えられてたわけだよな

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 12:03:52.95 ID:T1G3qkQP
人質の童子を寝所に連れてって夜伽をさせるのかと思ったら処刑かよ
きっと兄弟ともにブサイクだったんだな

虎口に死を免れた心地にて

2020年02月02日 16:04

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 04:00:17.37 ID:3/dAnLfC
永禄五年正月、北条氏康武田信玄へ使者を以て依頼をした。

『武州松山の城は以前より氏康持分の所であるが、それを去年、太田三楽(資正)が越後の柿崎と合わさって、
量らずもこれを乗っ取られてしまった。松山は東国の固めであるため、それ以降奥筋近国の手使が心のままに
叶わなくなった。であるので、この氏康は近日人数を出してかの城を取り返しいたいと考えている。
そういう事なので、三楽は必ず越後に後詰めを頼り、上杉謙信を引き出す事疑いない。今回は必ずかの城を
奪回するつもりなので、信玄公には氏康の警護をしていただきたい。松山城を取り返し、武州を押さえ
治めることが出来れば、以前の如く節々の御不祥の義を申し入れるような事は無くなるであろう。』

武田信玄はこれを了承し、甲州並びに信州に陣触れされ、二月下旬に信玄、嫡子義信一万八千余騎にて
武州に発向された。北条は氏康、嫡子氏政、その弟源蔵(氏照)の二万八千余騎、両家合わせてその勢
四万六千余騎が松山城を取り囲み、昼夜をいとわず攻めた。武田勢の内、甘利左衛門の与力・米倉丹後が、
竹束と言うものを用意して城に寄せた。諸手攻め近づいたため、城内からの火砲による抵抗もさほど威力を
発揮せず、籠城の兵士たちも気力を失った。城代の上杉友貞(上杉憲勝)も軍卒も、粉骨を尽くし難く、
武田北条は五万に及ぶ大軍で間断なく攻めたため、防戦の術も尽きて二月十日、上杉憲勝は降伏し、
城を明け渡した。

太田三楽はこれ以前に、越後に使いを出して、上杉謙信が出陣する旨の返答を得ていた。これによって
後三日も城が持ちこたえれば難なく寄せ手を追い払うこと疑いなしと思っていた所に、存外の急な落城であり、
臍を噛んで前橋まで出向き、謙信の到着を待った。

北条氏康武田信玄は、謙信が出陣してくることを上杉憲勝が白状したため、これを聞いて両軍山を
後ろにし、利根川を前に立てて鳥雲の陣を成した。

謙信はそれから二日して、八千騎にて前橋に到着し、太田三楽に対面すると激怒した
「これほどの不覚人に要害を預け、この謙信を引き出し手間を取らせ恥をかかせたこと、甚だ奇怪である!
こんな事ならば三楽を討ち果たす!」
と、刀に手をかけ、その場で三楽を手打ちにしようとする様子であった。これに三楽は騒がず、静かに
申し上げた

「仰せ、誠に尤もであります。しかしながら上杉(憲政)殿御浪人以来、それがし程の小身にて氏康の
大身の持分に挟まれ、今まで滅びること無く居られたのは、全く他でもなく、偏に謙信公の弓箭のお陰です。
ですので今回に限らず、何時であっても氏康信玄の大軍に仕掛けられてしまっては、それがしの二千三千の
兵では、たとえ呉氏孫氏の術を得ていたとしても手に及ばぬ事であり、何度でもお助けを待ち奉るしか方法は
ありません。
である以上、この三楽がたとえ禽獣であったとしても、どうして川の流れを酌んで、その水源を枯らすような
事をするでしょうか?

上杉憲勝は多年私の手について、武蔵上野所々の働きを任せてきましたが、終に不覚を取ったことは
ありませんでした。また三楽の重恩を以て全う仕る者でありました。ですのでこのような事が有り得るとは
考えなかったのです。それはそれがしの愚昧の成す所なのでしょう。是非に及びません。

籠城にあたって弓箭、鉄砲、弾薬、兵粮等は、ともかくも半年は不足の無いよう覚悟を仕っていました。
また今回のあまりの事態に、人質に取っていた、上杉憲勝の弟と実子をここに召し連れてきています。
これらをどうぞご覧になってください。」
そう言って兵粮弾薬の注文表と、上杉憲勝の子弟を御目にかけた。

謙信は立ち上がると、二人の童子の長い髪を左手に握り、中に提げると、右手にて即座に刀を抜き両人を
一打ちに四つに斬って投げ捨て、気を直し酒を出させ、一つ召すと、これを三楽に指し与えた。
三楽は『少しでも躊躇しては良くない』と思い、差し寄って一つ傾け、その上で側より引き取り、虎口に
死を免れた心地にて息をついだという。

松隣夜話

続き
永禄五年二月十三日、山根城(騎西城)合戦


777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 12:07:25.19 ID:aJsksDuw
野蛮にも程がある

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 12:18:51.87 ID:JORXOmS3
>>776
>二人の童子の長い髪を左手に握り、中に提げると、右手にて即座に刀を抜き両人を
>一打ちに四つに斬って投げ捨て、気を直し酒を出させ、
漫画のラスボスかよw

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 14:19:38.57 ID:v9fR+9K+
ヴィンランド・サガの初期にありそうな展開

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 17:10:21.74 ID:TaRyTcHC
岩明均の「雪の峠」にそのまま出てくる話だな

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 17:29:37.77 ID:aroExui4
歴史漫画に便乗して
センゴクのプーチン謙信なら普通にやりそう、だと思った

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 22:49:38.55 ID:bEQuBdMs
イスラム国の処刑人でも真似できないだろ?

伝左衛門に小荷駄を預けたのは、某一代の不覚

2020年02月01日 16:35

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/01(土) 01:13:51.72 ID:7C4kLm0Z
(最初の越山の小田原包囲の後)近衛(前久)殿は小田原より鎌倉へ御輿を寄せられ、鶴岡に御社参され、
謙信公はこれを守護された。これに対し宇佐美駿河守(定満)は、「事終われば速やかに去るべきだと
申し伝えられています。この度の御社参は参るべきではありません。」と申し上げた。然しながら謙信公は
「何程の事が有るものか。」とこの意見を用いられなかった。

鎌倉に於いて半日人馬を休め、瀧山という閑道にかかり、その世は関山の広野に御宿陣された。諸軍は
小田原より平井へ帰され、御供には加治内匠、柴田大学、宇佐美駿河、直江山城、本庄清七、河田豊前、
長尾小四郎、中條五郎右衛門、大田三楽、かれこれ八千に過ぎなかった。これに対し三月末の二日間に
夜半ころより敵が幾重ともなく取り巻き、その松明は峰の形に光り、晴れた夜の星よりも繁く鉄砲を
放ち掛け、襲おうとした。

さて、この鎌倉八幡宮にて東国の諸将は近衛公方へ御礼を遂げる時、忍の成田長康(泰)という者が
酒に酔い、言語が些か尾籠であったのを、謙信公は怒り給い、扇子を以て忍の頭を二つまでしたたかに
打たれた。この遺恨によって、成田長泰は一門家族を催し、武州の千葉・清党(清原氏)を語らい、
謙信公が幸いにも小勢の折節であるのを覗い、足軽をけしかけ夜軍にして討って恨みを報ぜんと企てた。

しかし謙信公はこれを察知した。「成田めが野伏を仕掛けるとは。しかし暗夜でもあり切所でもあり、
これより彼らを追い詰め討ち果たすのは叶いがたし。太田殿と直江は公方(近衛前久)を警護されよ、
中條は戦場を見計らって宇佐美と策をめぐらせ敵を近づけ一戦を遂げ、少しであっても打ち取るように。
本庄清七、加治内匠は後陣に下がり、小四郎と協力して小荷駄を守護仕れ。」と下知を成し、自身は
柴田大学と河田豊前を前後として、平塚という小さき尾に陣を張り、夜を明かされた。

敵は次第に近づき、矢石を雨のごとく飛ばしてきた。中條五郎右衛門、宇佐美駿河は足並みを見せ
敵を広野へおびき出し、伏兵を起こして鑓を入れて追い崩し、敵四十余人を討ち取った。

しかし後陣に付けておいた小荷駄両陣の内、長尾小四郎はこれを守ることが出来ず、同名伝左衛門は
敗軍に及んだ。これによって小荷駄は残らず奪われた。

これに対して謙信は大いに怒り、翌日早朝に長尾伝左衛門の首を切り関山に掛けさせ、そうして家来たち
二十四人、歴々の者達と一所にて残る敵を一人も残さず討ち捨てにした。その敵の中でも特に働きの有った
兵士を、自ら鑓を以て突き伏せられた。

夜既に暁天に及び、敵は残らず引き退いたため、日が出て後軍を発し、古路にかかり、大田三楽が先陣を打ち、
直江山城が後陣へ下り、九里の山中も難なく押し通り、その夜には葛見に宿した。そこで酒飯を備え危軍を
労り、三楽を客位に請し物語暁天に及んだ。ここで謙信は諸士に語った

「関東諸州の面々、皆弱兵であると思い侮って、伝左衛門に昨日小荷駄を預けたのは、某一代の不覚であった。
そうでなければ、どうして成田長泰ごときの敵にこれを奪われるだろうか。私は常々、甲州の武田信玄には
私が及ばない長所があると思っているが、それはこの事なのだ。あの法師は、弱敵と見ても猶弓矢を大事に
取り、このような卒爾の無い人物である。大事の場であると思えば誰であっても迂闊なことはしないものだ。
しかしそう考えない場所では、動くときも慎みが無く敵に対して疎略な対応をしてしまう。
信州更科の村上義清などは、軍の場にいどみ相対する時は、武き事も賢き事も、信玄に勝りこそすれ
劣るものではない。しかし愚に正直なる男であるので、常々細かい配慮がなく、そのため度々遅れを取るのだ。」
と申された。

松隣夜話

例の鶴岡八幡宮での謙信と成田長泰のお話ですが、こちらは退去どころか即座に謙信に夜討をしかけるという
アグレッシブな話になってますね。



774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/01(土) 21:03:01.30 ID:2CcDwnar
>>768
>言語が些か尾籠であったのを、謙信公は怒り給い、扇子を以て忍の頭を二つまでしたたかに
打たれた。

成田「おこなの?(´・ω・`)」
謙信「o(`ω´*)o」
小四郎&伝左衛門「小荷駄を任されたぞ!」

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 00:30:47.35 ID:ZMW/EJLp
謙信、結構短気な逸話多い気が
いやまぁ実際書状でとにかく馬鹿って言葉使いまくる人だから切れやすいかもしれないけども
短気で悪口のボキャ貧な謙信公が腹筋に候なんてパワーワード生んだのが面白い

【雑談】森蘭丸の蘭の字が

2020年02月01日 16:34

森蘭丸   
766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/01(土) 00:29:57.50 ID:xb5ZsLQv
森蘭丸の蘭の字が他の兄弟の名前見る限り乱のがあってそうな気がせんでもないんだけど
やっぱり蘭の字なんだろうか

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/01(土) 01:07:34.67 ID:n/NFstfN
>>766
同時代史料だと、森乱、或いは乱法師。
蘭丸表記は江戸期になってからだね。

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/01(土) 03:00:00.37 ID:xb5ZsLQv
>>767
おお、やっぱり蘭の字は後付けでしたか
ありがとうございます

信長が後世に暴君的な扱いになっていくにあたって乱丸が傾国の美女的な扱いになっていくようになった感じなんですかね
その途上で麗しそうな当て字が当てはめられた的な

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/01(土) 03:12:15.38 ID:PeSnTRaX
>>766
館山市立博物館で見た蘭丸が団平八に宛てた自筆書状は「森乱」で花押部分の署名は「成利」だったよ

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/01(土) 03:22:34.69 ID:971EeQfn
芝居では名前を変えなきゃならないから
小田春長、森蘭丸、真柴久吉、武智光秀
というように変えていたら蘭丸だけややマイナーだからそのまま広まったのかと思った

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/01(土) 04:36:30.64 ID:72hdcskU
もし蘭丸がもっと表立って活躍してたらあの兄や弟みたいな性格で蘭じゃなく乱の方が有名になっていたのだろうか
どうにも蘭丸は大人しくてしっかり物のイメージしかないから本当は乱と言われても違和感がある

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/01(土) 11:52:50.07 ID:6FJYrFcW
傅兵衛 勝蔵 坊丸 力丸 千丸
ここに蘭を入れるのは違和感あるな

将至って剛きは則ち士必ず応じず

2020年01月31日 17:01

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/31(金) 03:24:15.61 ID:97HhbuUN
永禄三年三月上旬、越後の管領・輝虎入道謙信公は。近衛公(近衛前久)を大将とし、一万六千にて
北越を御進発され、北条氏康の旗下となっていた上州平井へ御馬を進められた。
上杉勢の先方は、荻谷太郎左衛門の木澤城を押さえ、小幡日向守の居城である高津に取り詰め、
一日の内に攻め破り、女童まで一人も残らず、千余人を斬り捨てにした。その足で直ぐに木澤城に
押し寄せ攻めようとすると、この勢いに堪らず、荻谷太郎左衛門は降参し人質を出して幕下となった。

太田三楽は三千余騎にて武州より駆け付け、先陣を給わり、上州の要害あるいは居城のうち、
味方に参らない者達を、一城も残さず三日の内に攻め破り、当年に生まれた幼児まで斬り捨てにした。
これによって、その聞こえは甚だしく、龍のように天に響き、関八州は申すに及ばず、北国、南海、
京上方までその勇鋭に怖れない者は無かった。

その威に伏し、小幡、大石、見田、白倉、忍、荻谷、藤田、長尾、三浦、岡崎、宗龍寺、那須、清黨の
上杉家の諸侯馳せ集まったため、二日の内に軍勢は七万余騎となった。これにより軍勢は平井の陣所から
あふれ、唐坂口まで充満した。

翌日より総軍を進め、太田三楽を魁首として小田原へ押し詰め、蓮池まで乱入した。そのような中、
所々で取り合いが有ったが、謙信は毎回二の手より駆け出し、初対面となる東国武士の心も知らず、
諸手へ乗り入れ兜も被らず、白き布にて頭を包み、朱の采幣を取って下知を成し、その人を虫とも思わぬ
振り廻しを見て、諸将は大いに恐れをなした。

「たとえ彼がいかなる良将であったとしても、この人を主と頼んでは、自分たちの首の斬られる事疑いない。」
(假令如何なる良将にてもおわせ此人を主と頼なハ首の切れん事無疑)

そう思って困り果てない者は居なかった。『将至って剛きは則ち士必ず応じず』という兵法の言葉は
この事なのであろう。

(松隣夜話)

上杉謙信が怖すぎて、関東武士のみなさん、却って謙信の下に付きたく無くなってしまったというお話。



763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/31(金) 07:50:57.04 ID:2p182VAP
成田長泰が下馬しなかったから烏帽子打ち落とした話までは書いてないか

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/31(金) 22:38:35.43 ID:LRiK7arZ
そもそも不識庵が義の武将なんて嘘のイメージを作ったの誰なんだろうな

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/31(金) 23:48:48.17 ID:Q1L6WlMm
>>764
比較対象が信玄なら、謙信ですら義将になるってことかも…

『高遠の屋根ふき衆』

2020年01月30日 16:17

森長可   
761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/30(木) 01:28:48.66 ID:Ii3m2zTb
天正五年五月、森蘭丸、坊丸、力丸の三人共、織田信長卿が召し出され、御近習に召し使われると
仰せ付けになられた。中でも蘭丸は、器量人に勝れ発明であったので、御寵愛限りなく思し召された
故に、御側を離される事がなかった。

信長卿が武田勝頼を攻められた時、御嫡子である信忠公に数万の軍兵相添えて、関東へ差向けられた。
武蔵守(森長可)も手勢を率いてお供し、信州伊奈郡、小笠原掃部の城に武蔵守は取り掛かり、攻めた所、
早速に城を明け渡して降参し、城内の者達は旗下に加わった。次に飯田城へ押し寄せ散々に戦い勝利を得られ、
城を乗っ取り、首三百余を信忠公へ進上した。
そして高遠城へ取り掛かり、息も継がせず、各務兵庫、渡辺越中、豊前縫九郎、同市之丞、細野左近、林新右衛門、
同長兵衛、井戸宇右衛門、その他家中一命を軽んじて攻め戦い、この城も長くかからず落とした。

信忠公は御感限りなく、「今に始まらぬ武蔵守が働きよ」と御喜悦斜めならず、御感状を下され、信州四郡、
更科、高井、水内、埴科を下され、海津城を拵え住居すべしと仰せ付けられた。そして海津城の普請のための
軍営が成就した所で、近辺の野伏一万が海津城へと押し寄せ、鬨の声を上げた。この時海津城は未だ堀も
出来ておらず逆茂木すら無かったため、森勢は各々外へ打ち出て追い捲いて、火の出るほど戦った。
野伏たちは堪らず散々に打ち負け引き退いたが、森勢はそれを追い詰め追い討ちをかけて、首三千余を討ち取り、
信忠公へ実検に入れ奉った。信忠公は再び御喜悦斜めならぬ様子であった。そして降伏した小幡備中、春日周防
からの人質を預けられた。

舎弟蘭丸は京都に在ったので、海津城は各務兵庫を城代と為し暫く居住した。そして信忠公は関東平均を
打ち納め、京都へ上洛された。これらの事は悉く信長記に書かれている。

(枠外註:高遠の城攻めで、織田の兵は武田の鋭武に当たること能わず、森の兵は城の屋根に上り、
屋根の上より鉄砲を撃ち入れたとか。『高遠の屋根ふき衆』と言って、その頃物笑いにしたという。)

(兼山記)



汝も今より武蔵と名を

2020年01月29日 17:33

森長可   
582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 02:05:21.04 ID:nBERtwW+
織田信長卿が天下を掌の内に握り給い、内裏の修理のため伏見に御座を据えられた。ここで国々の
諸大名は残らず上洛するに於いて、瀬田の橋に関を置いて、通過する者の家名実名を尋ねた上で
通過する旨を仰せになった。

森勝蔵が家中の面々を引き連れ瀬田の橋に差し掛かられた時、関守の侍たちが立ち出て言った
「上意であるので、下馬をして家名実名を名乗った上で通られよ。」
勝蔵はこれを聞かれると

「急いでいるので御免有れ。濃州の住人森勝蔵と申す者である。御帳へ書くのはそちらに頼む。」

そう言い捨てて通ろうとした所、関守の侍たちは勝蔵の馬の口にすがり
「そのような事では通せない!その上乗打することは出来ない!」
そう言って鑓長刀を出し、番所は立ち騒ぎ色めき、「ここは通さじ。」と伝えた。

勝蔵はこれを見られて
「元来心得ない者達だ。乗打とは何事だ!公方の御前であればまだしも、汝らの如き侍の分際で
この勝蔵に下馬だと!?推算なり!」
(元来心得ヌ者共也。乗打トハ何事ソヤ、公方之御前ニテアラハコソ、汝等如キ侍之為分ト
此勝蔵ニ下馬トヤ推算也)

と太刀を抜き、二、三人の首を打ち落とし、諸鐙を合い懸け通られた。
関守の侍たち大勢がこれを追いかけ、大津膳所の町口の木戸を早く打ち閉めよと呼ばわった。これに町人共が
両所の木戸を打とうとしたが、これを見た勝蔵が「それ侍共、火を懸けよ!」と宣うた所、町人たちは
驚き木戸を開いた。

そこから駒に白淡噛ませ、伏見の御殿に着くと直ぐに御前に罷り出て、瀬田での事を委細言上し、切腹仕る
覚悟の旨を申し上げた。
これを聞いて信長卿はうち笑わせられ、「昔五条の橋にて人を討ったのは武蔵坊であった、汝も今より
武蔵と名を改めよ。」と、誠に御機嫌にて仰せになった。(誠御機嫌ニテ被仰ケレ)
満座の人々も、「実に忠ある武士のためしかな。」と羨ましく思った。
その年の内に侍従の位に上り、森武蔵守長可と申された。

(兼山記)



583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 02:08:42.18 ID:QnyOZgTw
長可も暴れてからやっちゃったと思ったのかちゃんと腹切るって言ってるのね

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 08:29:26.01 ID:61Wwk3D+
忠あるという概念w

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 11:43:47.15 ID:XF+bDJjT
ほんと若い奴に甘いな信長

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 12:18:16.89 ID:QnyOZgTw
これ信長の命を忠実に守って命落とした関の門番たちは補償なりあったんだろうか

森可成の件があったから森家に優しいのかそれともこういう荒武者好みなのか、どっちなんだろう

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 20:27:12.93 ID:vADGVagl
ちょっと悪い話の気がする
鬼武蔵を通せば信長に斬られ
信長の命令を守れば鬼武蔵に斬られる
関所役人としては回避しようのない絶『対』絶命

信長はその他一般には厳しく処断するけど
親しい奴には滅法甘いからなぁ…

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 22:47:43.41 ID:9dW4fkmE
>>587
関所の役人は武蔵を討取ればよかったんだよ

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/29(水) 23:47:19.33 ID:vADGVagl
>>588
お気に入りを斬られてぶちギレた信長に斬られるに3000貫!!

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/30(木) 07:31:15.36 ID:qL0nrU6k
>>587
>鬼武蔵を通せば信長に斬られ
信長はそんなことしないだろ、苦笑いしてあいつ相手ならしょうがないって許すよ

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/30(木) 08:24:15.48 ID:AwV3CZX4
こうして関所が廃され楽市楽座がすすんだのであった

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/30(木) 09:10:47.13 ID:Xt7Yd0o4
やらかした時に先んじて自己申告して責任取ろうとする
というのは上から見て可愛い部分かもなぁ

そう観ると鬼武蔵って傍若無人なやばいやつじゃなく
むしろコミュ力お化けだった可能性あるな
vsノブ特化かもしれないけど

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/30(木) 16:24:41.88 ID:iZ8V0ScY
武士って基本コミュ力お化けじゃないとやってけないものね、コネ社会だし
古武士然とした武士って本来武士としちゃ異端も異端なんだろうなー

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/30(木) 19:05:41.89 ID:DRGE5Nek
>>590
信長は感情の振れ幅が大きいから可能性は0ではないけど…
お気に入り以外だと怠慢や命令無視として激怒することが多いし
例外の対象は鬼武蔵であって関所役人じゃないし…

信長は京の民心掌握を重視して家中に身分の上下を問わず
京での振る舞いに注意する御触れを何度も出してる
二条城築城時に女にちょっかいをかけていた家中の者を
御触れを無視したと激怒し信長自ら斬り捨てたこともあるからなぁ…

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/31(金) 08:44:00.65 ID:z9QzQJP3
>>592
気に入ってる幹部の息子だからだろ…

週刊ブログ拍手ランキング【01/23~/29】

2020年01月29日 14:31

01/23~/29のブログ拍手ランキングです!


斎藤龍興の没落 9

土岐頼芸の美濃没落と後半生について。 9

斎藤道三下剋上のこと 9

かくして、斎藤左京大夫は日を追って権勢つのり 7
”岐阜”の変転 6
土岐頼芸追放後の斎藤道三 6
斎藤道三の滅亡 5



今週の1位はこちら!斎藤龍興の没落です!
斎藤龍興と言う人物については、軍記などの影響で、特に竹中半兵衛がらみのお話で、暗愚な君主という印象が一般的には
強いのかも知れません。
しかし美濃没落後、長島、越前などに渡り、信長に敵対し戦い続けた勇猛な戦士であり、またキリスト教にも入信したらしく、
キリシタン関係の史料にはその高い理解力、深い洞察力が驚きの声とともに紹介されています(もちろんキリスト教の側からの
主観でもありますが)。彼の後半生の印象から見ると、国というものはたとえ果敢で活動的で賢明であっても、時に保つのは
難しいものなのだ、と言うことを感じてしまいます。そんな事を考えさせてくれた内容でした。

今週は同票でもう一つ!土岐頼芸の美濃没落と後半生について。です!
こちらは上の龍興の祖父、斎藤道三に追放された土岐頼芸の後半生についてのお話。なんとこの人、道三どころか信長、龍興より
長く生きているのですね。そしてその生涯はある種の悲哀に満ちており、このお話の中では上総国万喜へと落ちていますが、
実際にはこの後甲斐武田氏を頼り、やがて織田信長の甲州征伐の際「発見」されて、稲葉一鉄の援助により美濃に帰還、そして
その半年後に死去するという人生だったといいます。
この土岐頼芸は今年の大河にも登場しますが、主人公の明智光秀とも関わるようで、はたして物語の後半、光秀も参加した
甲州征伐での再会も描かれるのだろうかと、今から楽しみにしています。
それにしても、斎藤龍興のお話もそうですが、歴史の表舞台から退場した人たちの、その後の人生にも、或いはだからこそ
ドラマがある。そんな事を思ったりしました。

さらにもう一つ、今度は斎藤道三!斎藤道三下剋上のことです!
いわゆる典型的な、江戸期の軍記物などで現れる斎藤道三が描写された下剋上の模様だと思います。
この斎藤道三という人、同時代的にも、美濃周辺では非常に評判の悪い人物だったようです。すこし時代は下がりますが、
近世初期の笑話集『醒睡笑』などにも、道三が悪人の典型、といった形で紹介された小話があり、畿内においても彼の「悪」が
一般に強く印象されていた事が見て取れます。これはつまり、それだけ敵が多かったという事の現れでもあるのでしょう。
また多くの敵が有ったからこそ、下剋上をせざるを得なかった、という理解も可能かと思います。実は下剋上って、やる方も
出来ればしたくないのですよね。
こちらの内容は明らかに、美濃守護土岐家の目線から描かれていますが、この内容から逆に、斎藤道三の目線を考えるのも
非常に面白い。そんな事を感じました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます。
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

”岐阜”の変転

2020年01月28日 17:47

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/28(火) 13:40:48.67 ID:VFA0F6Hg
永禄七年(正確には永禄十年)九月中旬、織田上総介信長は稲葉山の城に移り岐阜と称した。
この城の麓、常在寺は元の寺領五百貫を召し放たれていたが、由緒ある寺であるので、当住の
日韵上人の申出により日野村にて百貫文の朱印を賜った。
その後、信長は江州安土に城を築いて移り給い、信長長男信忠を岐阜城の守とした。

天正十年六月二日、明智(光秀)謀反にて信長信忠父子とも、京都にて生害の後、岐阜城は
信忠の長男・秀信の後見として神戸三七信孝が当城に住せられた。

天正十一年、柴田修理亮勝家に同意して秀吉と取り合いが発し、そのため三七信孝は当城を去り、
尾州野間の内海にて、二十六歳にて切腹した。この時の乱に、常在寺も兵火にあい、信長より賜った
朱印、そのほか遺物共に焼失した。しかしながら、その後当寺は再興された。

三七信孝の跡に、少将豊臣秀俊(間違い。実際には豊臣秀勝)が住せられた。これは織田秀信の後見であった。
秀勝は朝鮮軍の時、肥前の名護屋へ出陣して、彼の地にて病死した、

慶長五年、岐阜中納言秀信公は石田三成に与して岐阜城は攻め落とされ、終に紀州高野山に入って卒し給う。
この時の兵火に瑞龍寺も炎焼したが再興された。常在寺は信長に賜った日野村百貫文の朱印を、秀信公まで
相違なく給わっていたのだが、慶長五年に秀信公が亡びられた後は寺領断絶し、常在寺に現在残っているものは、
斎藤道三の画像と斎藤義龍の寿像ばかりである。

道三の画像は、信長の北の方が、父のために建立したもので、また義龍の寿像は、その子息である龍興が
建立したものである。
常在寺の本尊である文殊菩薩は、昔長井藤左衛門長弘が本巣郡文殊の城が落ちた時、そこの文殊堂も兵火に
かかった。この時本尊を取り出し、斎藤氏の由緒ある寺なればと、常在寺に安置したものである。

(土岐累代記)

この常在寺に残った道三の画像というのが、有名なこちらですね。
https://i.imgur.com/RPTq9Wt.jpg
1024px-Saito-Dozan-2.jpg



斎藤龍興の没落

2020年01月27日 17:11

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/27(月) 14:05:59.36 ID:evGfP5sX
織田上総介信長はその心中に様々の計略を働かせ、美濃の旗下である稲葉伊予守(良通)を始め、
氏家常陸介(直元))、安藤伊賀守(守就)、不破河内守(光治)を味方につけて内通せしめ、
永禄七年九月朔日(実際には永禄十年)、大軍を率いて濃州へ討ち入り、稲葉山城東西南北に
火を放って焼き立て、息もつかせず攻め戦った。この時葦手の正法寺も兵火の余炎に掛かり
灰燼となった。土岐家数代の旧跡はこの時焼亡し、その後再興する人もなく、正法寺の名のみ残り、
退転した。
この時、瑞龍寺も焼亡したが、この寺は悟渓一派(悟渓宗頓:瑞龍寺開山。大徳寺52世住持、妙心寺
11世住持、妙心寺四派の一つ東海派の開祖)の旧跡であったので、再び再興された。

稲葉山城中は信長の攻勢に叶い難く、斎藤龍興は降を乞うて城を明け渡し、近江へと落ち行き、
浅井備前守長政を頼った。大伯父である長井隼人佐道利も関城へと落ちて、龍興とともに江州へと
落ち、後に越前へ越えて朝倉義景に与し、永禄天正の間、所々にて武功が有った。

龍興は天正元年八月八日、姉川の軍に討ち死にした。(姉川の戦いは元亀元年。実際には刀根坂の戦い)
また長井道利はその後将軍義昭公に仕え、摂津にて討ち死にした。その子は稲葉能登守(信通ヵ)の
家に奉公したという。

(土岐累代記)

後の反信長戦線の印象なんでしょうけど、斎藤龍興が浅井長政を頼って落ちていったという伝承もあったのですね。



斎藤道三の滅亡

2020年01月26日 16:28

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/26(日) 11:54:36.87 ID:Khkap7O0
織田家との和睦が成り、その後尾濃両国太平と成って国民が安堵の思いを成す所に、斎藤父子の合戦が
たちまち始まり、終に当家滅亡の時至ること、天罰のいたる所である。故に国中兵乱起こり国民は薄氷を踏む
思いを成した。

斎藤道三は当腹の子・孫四郎を寵愛し、右京亮と名乗らせ嫡子義龍をいかにもして害し、右京亮に国を
立てようと企んだ。これは偏に、義龍が先の太守の胤であった故にこれを謀ったのである。
義龍はこれを聞いて大いに怒り。

「我斎藤の家名を継ぐと雖も実は先太守頼芸の胤であり、忝なくも源頼光の嫡孫である。一方彼は松波庄五郎
といって商家の下賤である。先の太守が次郎と呼ばれていた時、長井長弘の取り持ちによって鷺山に入り込み、
父頼芸に進めて伯父頼武を追い落とし太守とした。その功に依って寵愛に誇り、あまつさえ後には長弘を討ち
太守頼芸を追い失い奉った事、無動の至極と言うべし。そしてあまつさえ私を害しようと計ること、無念の
至りである。ならば此の方より取り詰めて今に思い知らせん。」

そう、密かに関の城主・永井隼人佐と相談し、家臣の日根野備中守弘就、同彌次右衛門両人に申し付け。
弘治元年の秋、二人の弟を鷺山より稲葉山城家の下屋敷に呼び寄せ、斎藤右京亮、同玄蕃允二人を忽ちに
討ち捨てた。

稲葉山の家中より此の事が鷺山に告げられると、道三は大いに怒り、国中の武士に下知して、「稲葉山城を
攻め落とし左京大夫義龍の頸を見せよ」と息巻いて下知した。しかしながら元来入道の悪逆無道によって
義龍に懐いた国勢共は悉く稲葉山に馳せ加わり、鷺山の手には十分の一も行かなかった。鷺山は老臣、
林駿河守通村・入道道慶、川島掃部助、神山内記、道家助六郎を発して長良の中の渡りに打ち出た。
稲葉山勢も大軍を川の東に押し寄せ、川を隔てて相戦った。

敵も味方も同じ家中であり、双方一族演者であった。義龍の旗大将・林主馬は鷺山の大将である林駿河入道の
甥であり、別して晴れがましい軍であった。然れども義龍勢は大軍であり、新手を入れ替え入れ替え、透きも
無く攻めれば、道三は叶わずして鷺山を去り、山県郡北野という所に古城が有り、鷲見美作守と言う者の居た
明城であったが、これに道三は引き籠もっら、林駿河入道は鷺山に在って日々戦った。

同二年四月、山城入道(道三)は手勢を率いて北野城より城田村へ出張し岐阜の体を窺った。この時に
時節良しと思ったのか、同月十八日に中の渡へ発向した。義龍も出馬し川を隔てて散々に戦い、終に道三
打ち負けて、同二十日の暮方に、主従わずかになるまで討ち取られ、城内を目指して引き上げている所を、
義龍勢長良川を押し渡り追い詰め、小牧源太、長居忠左衛門、、林主水の三人にて道三を取り込み、突き伏せて
首を討ち落とした。証拠のためとして、長居忠左衛門は道三入動の鼻を削ぎ取った。
斎藤義龍はこの頸を実検した後に長良川の端に捨てたが、これを小牧源太が拾い、土中に埋めた。
現在、斎藤塚として川の端にある旧跡である。この小牧源太は尾州小牧の者にて幼少の時より山城守の側近く
仕われたが、非道の扱いを受けたこと数度に及び、怨みを含んでいたため、人も多き中に優れて道三を
討った。然れども多年の恩を思ったのか、このように懇ろにその頸を取り納めた。

斎藤義龍は帰陣してそれぞれに恩賞を施し、それより斎藤氏を捨て、一色左京大夫義龍と名乗った。
一色を名乗った故は、道三が実父では無いことを世間へ知らしめる故であった。また土岐氏に一色を名乗る
故事が有るとも、幼少の時に厚見郡一色に居られた故とも、また母の三芳の御方は一色左京大夫の娘で、
母方であるとも云われている。
先ずその心は、一色が母方であるという祖父は丹州宮津の城主で(一色義有ヵ)、武勇人に勝れ世に隠れ無き
勇将であれば、その武威を子孫に伝えんとする心なのであろう。

土岐累代記

斎藤道三の滅亡について。



757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/26(日) 16:44:08.08 ID:nZTiVtXX
信長にも道三にも老臣に林がいるんだね
どちらも通の字を通字にしてるし、何か関係があるのかな?

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/26(日) 17:01:05.07 ID:nZTiVtXX
駿河守通政と佐渡守秀貞は従兄弟か
元は稲葉姓

土岐頼芸追放後の斎藤道三

2020年01月25日 16:54

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/25(土) 12:51:57.67 ID:id9IS+DC
かくして斎藤山城守秀龍(道三)は、太守土岐頼芸を追い出し国を横領し、ほしいままに一国を悪逆し、
また前太守頼芸の舎弟である、土岐七郎頼光と、八郎頼香を始めより騙して両人共に聟となし、一族として
置いた。頼香は西脇に住して西脇与三左衛門光口と云った。

山城守は、土岐の氏族が終始よく従うことはないと思った。七郎頼光はその心武く、智勇の士であったので
容易く討てないと考え、毒害にて殺した。また八郎頼香は羽栗郡の無動寺村・光徳寺にて切腹させた。

この頼香には女子が一人あり、江州に住んで六角左京大夫義賢・入道承禎の妻に成ったという。

さて、山城守は長男新九郎を斎藤美濃守と名乗らせ大いに奢って国民を貪った。また日蓮宗常在寺は、
前々に一命を助かりし高恩の寺であったため、日運上人の世に、寺院を新しく修造して、数ヶ所の荘園を
寺領として寄付し、子を二人まで出家させ、日運上人の弟子とした。すなわち常在寺五世日饒上人、六世
日覚上人がこれである。

山城守は剃髪して、山城入道道三と号した。他に男3人、女子一人が同腹にて出生した。
斎藤勘九郎、後に孫四郎と改めた。次が斎藤喜平次、後に玄蕃と改めた。その次は斎藤新五郎と号し、
梶田の領主として近郷を領した。

またそれより、尾州織田家との合戦が始まって、折々合戦止まず、天文十五年、織田備前守(信秀)は
大軍を率いて濃州へ攻め入り稲葉山城を攻めた。秀龍入道は兵を出して瑞龍の西南に陣を張り防戦した。
織田軍は中々入り立てる事ができず、要害堅固の名城であるので攻めあぐんで、城下の四方、民家を
悉く放火した。瑞龍寺も兵火のために寺院一宇も残らず焼失した(後に再興したという)。
織田も兵を大半討たれ、尾州に引き退いた。

そのようであったのに再び、同十七年九月、備前守は大軍にて濃州に乱入し、稲葉山城下にて大いに戦った。
織田家はまた大いに敗軍し、兵数千が討ち死にした。一族である織田因幡守、同与三郎も討たれた。

斎藤道三はこの戦勝に乗じて、同年十一月、大軍を差し向け大垣城を攻めた。城には尾州勢の織田播磨守が
入れ置かれていた。そのうちに両方和睦有って、道三の娘を備後守長男・三郎信長に遣わした。

こうして道三は斎藤左京亮義龍に稲葉山城を譲り、その身は鷺山城を普請してこれに移ったというが、
実は義龍は先の太守頼芸の胤であり、道三は心中に、彼を害して次男である孫四郎に国を譲ろうと考えていた。

(土岐累代記)

土岐頼芸追放後の斎藤道三