長坂源五郎の事

2017年02月12日 09:25

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 02:11:19.37 ID:1YM6JH+R
長坂源五郎の事

武田信玄長坂源五郎の心気を試そうと、
度々美女を源五郎の方へ御用を申し付けて使いに出されました。
すると、度々の事なので後になっていくと、
源五郎は嗜みが緩みその女に戯れた言葉をかけてしまった。
その様子を御側の者から聞かれると、信玄は実際にその様子を御覧になられ、
とうとう源五郎を見限られたといいます。

かりそめにも美童美女等に、たとえ遠くから見る人聞く人がいなくても、
少しも戯れた様子で詞をかけてはならないということです。
嗜むべきなのは『色の道は金銀の事』と
堅く守らなければならないということです。


『武士としては』



596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 02:39:21.28 ID:rnvBOGUA
ハニートラップしかけて浮気調査

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 02:40:36.37 ID:vQNGMvww
モニタリング?

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 06:17:26.53 ID:vMpwbjHL
嫌なやつだなw

中筋村の飢饉 ~妙玄寺縁起~

2017年02月11日 17:06

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/10(金) 16:06:11.92 ID:DUhfrXD6
中筋村の飢饉 ~妙玄寺縁起~


『宝塚の民話』より
慶長7(1602)年の秋は大変な不作でした。
旗本の渡辺氏が治めていた中筋村も納める年貢に困っていました。
代官からは毎日のように
「あわ、ひえでも良いから納めなさい」と矢のような催促が来ます。
「あわやひえまでも納めたら我々は一体何を食べたらいいんだ。
 全員が餓死してしまうではないか」
村人たちは代官所へ行き、何とか一年待ってもらいたいと願い出ましたが
聞き入れられません。

困り果てていたその時たまたま村人のひとりが
米俵を積んだ舟が淀川筋を登っていくのを見かけました。
聞くところによるとその米は、姫路藩主・池田輝政の幼い息女が亡くなり
その百か日の法事の御供養米として、京都の法華宗・本禅寺へ
お届けする品だということでした。
そのことを知ると村民の代表達が本禅寺へ馳せ参じ事の次第を話し
「村民をお救い下さい」と嘆願しました。

話を聴いた寺の日邵上人は
「お困りなのはよく分かったが、法華宗の宗義として他宗のものには
 米一粒、銭を一銭たりとも援助することはできないのです。
 たとえ何人かの法華宗のものがいたとしても、村全体のために
 米を分けてやる訳にはいきません」
との返答です。

その返事を聞いて急いで村へ戻ると、村人すべてを集めて訳を話しました。
「食べるものがなくなり、子どもたちまで死なせるくらいなら」
と今度は村民全員で本禅寺へ行き
「村に住む者は皆、法華宗に帰依します。
 これは子々孫々まで変わることはありません。
 このたびの願い、どうぞかなえてください」
と申しあげ、お願いしました。

そして気持ちの変わらない証(あかし)として
一 中筋村に暮らすものは全員、法華宗を守り、子々孫々まで法灯をかかげます。
一 他の宗派から宗旨がえを求められても応じません。
一 前の宗派へ隠れて詣でることもしません。
という証文をお寺に差し出しました。

ようやくのことお米を融通してもらい年貢を納めることができた中筋村は
全員あげて法華宗の陣門流に帰依しました。
それからしばらくして京都に詣でるには道のりが遠いことから
古くからあった村の寺を建て直しました。

その寺の名は、亡くなった池田輝政の息女の法名
"縁了院殿妙幻叔霊"の妙幻に因み"妙玄寺"としました。
その上村の角には"南無妙法蓮華経 法界"と刻まれた法界石を建て
村の宗派が法華宗であることを明らかにしたということです。


以上の話は宝塚市の妙玄寺に実際に伝わる話だが、ここで出て来る輝政の娘は
どうも督姫の連れ子で池田利隆と婚約していた万姫のことらしい。
近年になって鳥取市の正栄山妙要寺に肖像画が発見されたとか。



この八十島は

2017年02月11日 17:06

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 03:22:48.92 ID:9KjJhSaN
藤堂和泉守(高虎)一代の事を書いた巻物を大献院様(徳川家光)の御前で誰に
読ませなさるべきかとのことになった時、

酒井讃州(忠勝)は「ここに道春(林羅山)がおります」との事だったが、和泉守は、

「私めの一代の大事のことを書いた物ですから、道春などは如何なものでしょうか。
始終を存じている者に、読ませたく存じます。私の家来の八十島助左衛門を召し
連れておりますが、如何でしょうか?」

とのことであった。そこで阿部豊州(忠秋)が挨拶して、八十島を御前へ召し出し、
巻物を読ませなさったのであった。

この八十島は石田治部少輔(三成)の右筆だった。太閤逝去のことを石田方から
源君(徳川家康)へ申し上げた時、そのために遣わした者である。

後に和泉守の家来となり、法体の後に道壽と願い申した。その子もまた助左衛門
と称した。

――『武功雑記』



615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 10:10:50.18 ID:C0rHEjqo
関ヶ原であの鬼島津を激怒させた人物だな

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 21:09:17.19 ID:Ef6mH3qv
>>614
俺が家光だったら、三成に身近に仕えた奴が来たら
僅か佐和山19万石の身分で西軍を取り仕切ってた
石田三成はどのような人物だったか直接聞きたいわ
高虎の出世自慢話なんかよりもな

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 10:12:11.42 ID:nMor2Kps
>>618
真面目な話、当時は正軍首脳部に参画していた人間もまだ生きていたのだから、石田三成
どういう立場だったかなんて、自明の理だったと思うぞ。

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 10:25:57.30 ID:24fLrA8I
七将に狙われて家康に匿ってもらったヘタレです

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 11:35:04.27 ID:vMpwbjHL
それデマだってな

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 13:09:17.50 ID:PNwm5RpP
伏見の徳川屋敷に逃げ込んだ話の出典がわかれば、このスレに収録してもいいかもね

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 16:32:28.50 ID:V4JJPw4p
結果的には圧勝で終わったように思われてる関ケ原だが
秀忠遅参で内心かなり焦ってたろ糞漏らし

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 21:02:48.98 ID:WwSHWUY/
>>623
昨今は関ヶ原の決戦に関しては、もう何がどうなっても東軍の勝ち、といった感じだな。

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 22:13:35.16 ID:PNwm5RpP
関ヶ原って、小松山に立てこもった小早川秀秋救援のための後詰決戦だったんじゃないの?

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 22:13:57.03 ID:eMYpu3XQ
いくらなんでも楽勝って事はないという感じで改めて研究した結果
以前よりも西軍がどうしようもなかった事が判明してより可能性がなくなるというオチ
悲しいなぁ

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 02:23:30.24 ID:1F6Bnp81
>>626
吉川の位置が悪い

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 14:49:27.23 ID:6cpqPOvC
>>628
今では毛利の東軍への寝返りは、毛利輝元自身の指示だったという
説まで出ている。

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 15:23:18.87 ID:JiWMRDCO
岐阜城陥落の時点で負けを見越して生き残る為に動いてるしな

伊達政宗、豊臣秀吉公へ初見之とき謡ひし歌付政宗豊公へみへし考

2017年02月11日 17:04

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 13:33:08.22 ID:UqUUIrB4
伊達政宗豊臣秀吉公へ初見之とき謡ひし歌付政宗豊公へみへし考

何かの時ある人と雑談した折に出た話である。

伊達政宗豊臣秀吉公と初めて見えたとき、
その後には酒宴でもあったのだろうか、
政宗が謡った歌として今も仙台の領地では士庶ともに歌うという。

四海波風治る御世は、さざれいはほに亀遊ぶ

秀吉が「もうひとつも」と請われたので、政宗はすぐに

さんさしぐれかかや野の雨か、おともせできてぬれかかる

と歌われた。
 『秀吉記』と『武功雑記』の二書によると、
この二謡は政宗が豊公に見えた後、もしかしたら宴席があり、
その席上のことであろうか。

(甲子夜話三篇)



617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 20:19:53.17 ID:X+Odj8cp
四海波…サボテン?┌|∵|┘

人々は康政に

2017年02月10日 14:10

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 19:29:50.26 ID:s+N83Bmb
榊原康政は尾州小牧山の陣の折、秀吉の不義を誹謗し、所々に札を立て、

『秀吉は織田家取り立ての臣であるのに、その主君の公達に敵し、神戸三七信孝を滅ぼし、
今度は北畠殿(信雄)に敵した。八逆罪の者である。これに与する者には、どうして天罰を
被らないことがあるだろうか。』

そう書いて人々に見せた。
これに秀吉は激怒し、
「榊原小平太を生け捕りしてきた者は、卑賤凡下を問わず、千戸候を以てこれを称する!」
そう諸将に触れた。

その後、秀吉が関白に任官し京都に滞在していた頃、織田信雄を通じて、徳川家康
秀吉は和睦をした。秀吉は妹を送って縁を結ぶとの事に成り、その事相調い三河より結納を
遣わすことに成ったが、このとき秀吉は、「その使者として榊原小平太を遣わすように」と
所望した。家康がこれを康政に伝えると、彼は畏まり、早速上京した。

康政が京に到着したその夜、秀吉が突然、康政の旅宿へ現れた。
「今回の使節に汝を名指しして呼んだのは、他でもない、先年小牧山対陣の時、この秀吉を誹謗して
高札をたてた憎さよ!汝が首となった姿をひと目実たいとずっと思っていた。

しかし今、徳川家と縁を結ぶに至り、あらためて其方の忠誠を一入感じ入った。まことに汝には
武臣としての実義がある。
私はこの事だけを言いたくて汝を呼び寄せた。但し、だ。我が妹を遣わす結納持参の使者が、
無官というのはいかがであろうか?」

そう言うと即座に奏達し、康政は従五位下式部大輔に叙任された。総じて徳川家の諸将の官名は、
この頃まではその殆どが僭称であった。しかし榊原はこの時初めて、式部大輔の位、口宣等を
受領したのである。

その後、秀吉よりの饗応も善美を尽くしたものであり、そこには相伴として、先に三河を出奔し、
十二万石の大名となっていた石川伯耆守数正が、あえて馳走に出されていた。
しかし康政は終始、数正と一言も口をきかなかった。
その後、秀吉に御暇申し上げ、三河へと帰った。
人々は康政に、節操を感じた。

(武野燭談)



子孫秋月氏と改称す。

2017年02月10日 14:09

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 23:28:32.86 ID:JuuVXvpS
吾が高麗町、土佐秋月氏併唐人街、今薩摩鮮俘、陶器を鬻(すきわい)とする事

 前編五十七に、朝鮮の役で法印公(松浦鎮信)がかの地の人を虜として帰陣された後、
その者達を一ヶ所に住ませて、諸臣が在城しているときの食事を調えさせた。
それを人呼んで高麗町ということを記した。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10527.html

 この頃『征韓偉略』を見ると、
「此の役で、慶州の将朴好仁が来援して城に入て勇戦す。
城陥るに及んで囲を潰て走る。
(長宗我部)元親の兵、吉田政重が彼を捕らえ獲た。
翌年に及んで元親は土佐に帰る。
その良将たるを以て、これを遇るに賓客の礼を以てす。
その身を終ふ。子孫秋月氏と改称す。
その余俘を獲る所八十余人。元親はこれを憐れみ宅地を賜って居らしむ。
皆販売を業と為す。時に唐人街と称す。」

 これらは法印公のことと同じである。
ならばさぞ渡鮮の諸家には、これに類似したことがあるのだろう。

 後にまた聞いた。
今薩摩には
島津氏が朝鮮での戦からの帰陣のときの俘虜を住ませたという村がある。
よって今も鮮国の風を存じていて、
その村の者が皆有髪で陶器を造るのを生業としているとか。
きっと世で薩摩焼と称するものは、この朝鮮の子孫が作っているのだろう。

(甲子夜話三篇)

なぜ、秋月と名乗らせたのだろうか?



612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/10(金) 09:24:29.95 ID:VHI4AhJD
秋の月が故郷の月と同じだった

「孕石の一番槍を見たぞ!」

2017年02月10日 14:08

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/10(金) 02:48:01.57 ID:2I4GYOmF
○ 浜松にて、鳥居金次郎成瀬藤蔵は口論し、果たし合いをしようと約束した。

ところが、成瀬が「いや、明日の合戦で先を争って死ぬことこそしかるべきだ!」
と言い、三方ヶ原で両人は討死した。

この金次郎の子も金次郎といい、長久手で討死した。

○ 山県三郎兵衛(昌景)の与力・孕石源右衛門は小瘡<ほりめがさとも云>
を煩い、行歩は不自由で、殊のほか痛んだ。

三方ヶ原合戦の時、孕石は馬から下りることができず、下人に負われ槍場まで
参り、ひたと這い出て人より先へ行き、一番槍を合わせて、名乗りをあげた。

三郎兵衛はこれを見て乗り来ると、「孕石の一番槍を見たぞ!」と、言った。

その相手は小栗某と取り沙汰し仕ったが、成瀬藤蔵鳥居金次郎の両人の内、
どちらかであるという。

――『武功雑記』



週間ブログ拍手ランキング【02/02~/08】

2017年02月09日 18:27

02/02~/08のブログ拍手ランキングです!


内裏の修理を完了 25

徳川頼宣「動いて見給え。忽ち刺し申すぞ!」 23
秀忠は、参勤してきたとの注進を聞くと 23

十三塚原 22
一人の弟を捨て殺さば 15
その後鶴の汁にあたり申した 15

土呑み裁判 14
朝鮮飴〔細川氏家製〕之事 13
佐州は未だ御愁傷のうちに 11

永禄六年〔足利氏の末〕諸役人附鈔書付考註 9
岡崎殿御生害之こと併異聞 10
【ニュース】織田信長=「大猿」「黒鼠」 豊橋金西寺文書に辛辣な批判記述 6
隅州高城、日州耳川での大友家敗北により 6

正しく沢庵の書であった。 5
“淫乱の人跡”とはいったい… 5
〔壱岐〕朝鮮鴉之事 3



今週の1位はこちら!内裏の修理を完了です!
織田信長という人が、「将軍や朝廷と言った旧権威を否定した」などと言われたのは今や昔。現在の織田信長像は、
旧権威を尊重し、むしろその復興の尽力した人物、とされるまでになりました。ただ、実は史料を素直に読むと、信長は
そういう性格であるとしか読めないのですが、一種の「思い込み」や「願望」に引きずられて、史料解釈が非常に歪んだ
状況が長く続いていた、というべきでしょう。その傾向は、もしかするとまだまだ払拭されていないかもしれません。
「書いて有ることを、先ずは素直に読む。」歴史に限らず、何かを学ぶ時は先ずはそこから始めるのが大切なのじゃないかな。
なんて思ったりしました。

2位はこちら!徳川頼宣「動いて見給え。忽ち刺し申すぞ!」です!
南龍公が龍(?)に驚くというお話、色々解釈できそうなお話ですけど、紀伊の山奥ならこんなこと起こっても不思議じゃないかな、
なんて思っちゃいますねw
ちょっともののけ姫的な光景も想像して、ワクワクしちゃいます。ビジュアルとしてみてみたく成りますね。
徳川頼宣の剛毅さも、紀伊の山奥の土地柄も見えてくる、いいエピソードだな、なんて感じました。

同票でもうひとつ!秀忠は、参勤してきたとの注進を聞くとです!
結城秀康という人の解釈も、現代ではだいぶ変わって、「終生、父家康や弟秀忠と良い関係だった。」と考えられています。
むしろ義父である秀吉との間のほうがしっくり行っていなかったのでは…、なんて思えるフシもあります。
これもまあ、「史料を素直に読むとそうなる。」という話なのですが、史学の世界でも「先入観」の力って、やはり強いのですね。
そしてそういうものを剥がしていくのもまた、研究の力ですね。
ボクは研究者ではないですが、歴史好きとして、なるべく予断を持たずに歴史に接したいものだな、なんて思うものです。


今週もたくさんの拍手を各逸話にいただきました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!



今日は久々に本の紹介を!といっても、今や11刷、累計11万部の大ヒットと成った本、

応仁の乱
戦国時代を生んだ大乱
呉座勇一 著
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2016/10/102401.html

です!
まさに歴史的大乱でありながら、その複雑な構造から、いまひとつその内容が世の中に理解されてない応仁の乱。
それを見事に解き明かした、まさに名著です。大ヒットしているのも納得です。
多くの人が手に取られていると思いますが、まだ読んでいない人には「これを読まないのはもったいないですよ!」
という意味で紹介してみましたw

そして応仁の乱と言えば
応仁・文明の乱
石田 晴男 著


こちらもおすすめです。こちらは乱の分かりにくさをそのまま引き写したような、天下の難解歴史書として、実は有名だったりしますw
読んでいくのにかなりのタフさを要する本なのですが、呉座先生の「応仁の乱」を読んでからなら、かなり頭に入りやすいのでは、
と思います。こちらの本は、とにかくデータの全部乗せ!と言っていい内容の濃さですので、呉座先生の本で応仁の乱を
面白いと思った方には、次に読む本としておすすめしたいです。

この機会に、世間で応仁の乱がもっともっとメジャーに慣ればいいな、と思っています!w

台徳院様が三河田原で御狩りをなさった時

2017年02月08日 10:35

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/08(水) 03:35:26.83 ID:407AQT02
○ 台徳院様(徳川秀忠)が三河田原で御狩りをなさった時、猟師の中に
“あたり筒”を持っている者がいた。

これを岡部八十郎が借りようと先約した。ところが、中川八兵衛も借りよう
として、口論になり、

八十郎は即座に八兵衛を討った。八十郎の若党が八兵衛を討ったという。


○ 右の御狩りの時、九鬼図書(成隆)は御見舞いに参られ、御狩りを見物
致されて、本多中書(忠勝)に会い、

「おびただしき御人数かな。8,9万人もいるのではないだろうか」と挨拶した。

中書は曰く、「いや左程はあるまい。およそこのように山の方から平地へと
続いている人数は大勢に見える。谷底などの人数は小勢に見えるものだ」

――『武功雑記』



588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/08(水) 18:41:40.50 ID:x9+MGLZ0
流石忠勝さんはいつも冷静だな

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 08:21:08.96 ID:i7dwTuub
>>587
そもそも当時の日本で、視界内に8~9万人も入る状態が起こり得たんだろうか

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 18:14:53.87 ID:uZ8rMyA2
俺の財布でもそんなにいないな

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 19:28:19.30 ID:IuYwlBQ0
大げさなこと言ったら真面目に返されたんじゃない?

上野介、良く聞け。

2017年02月08日 10:34

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 21:02:00.89 ID:4ith6HzQ
本多佐渡守正信がある時、子息上野介正純に言った

「逆心は天命に背くと知りながら、北条義時が主君の後を断絶し、己が威を逞しくし、
天子を改めるなど、無双の悪逆を行いながら、時の勢いにてこれに与するもの多く、九代天下を
保った。
その後も北条の業績を真似る者はあったが、北条ほど事を謀るものは無かった。

細川勝元が先祖頼之の業績を学ばず、遠き北条の後を追い、応仁の乱を引き起こした。
これは細川、山名が威を振るったためである。であれば彼らが志を立てて名を揚げたかと言えば、
そうではない。共に死亡して、あまつさえ将軍家の武威を失落させた。

上野介、これを思え。
勝元がたとえ逆意を振るっても、その子政元に忠義が有れば世は治まったはずだ。
しかし政元はますます驕りを極め、将軍義材を退けた。
この君が悪主であったのなら替える例もあるだろう。しかし義材には武道尊氏の風格あり、
六角高頼を退けた時は、足利家は昔に帰るかと言われたとか。
それなのに政元はこれを廃して、幼主義澄を伊豆国より申し上らせ、己が威を恣にした。
彼も父に劣らぬ不忠至極の者である。よってその身も終に滅びた。

上野介、良く聞け。
武家は軍法、武備を諸道の根本としている。軍法と言っても戦をする事ばかりではない。
軍法とは常の備えである。善政は勝ち、悪政は負ける。勝ち負けの根本は国を治めることにある。
例えば、樹木の根が深く入り能く栄えているためには、まず根本を培う事が大切である。
それから段々と成長するに従い、養いを能くすれば、枝葉栄え、花咲き実も多く成る。
少々枝を刈り取ったところでその樹の本体が痛むことはない。
このように、天下国家の基本となる大法を取り失わない事が肝要である。

士農工商は天下の四民であり、そのうち士において、家の老職を仕る者は、農工商を以て
木の根を培うように、これを慈しむべきなのだ。
諸士は木と同じであり、合戦の仕方は枝葉と同じである。そして勝ち負けは花や実に等しい。

基本を失ってはならない。基本というのは忠信を成すことであり、そこから諸事は出るのだ。
おおよそ、忠を成すにも色々とある、身を以て忠を致すもあり、心を以て忠を尽くすもあり。
家老、侍大将などの忠は、主人の前には一月に一度も出なくても、一筋に忠を以て君を守護し、
政道順行を以て君の英名を高くするのを、良き家司と言うのだ。

また、忠ににた不忠がある。
例えば石田三成は、非常に上慢な人物であり、大風雨の夜など、御城廻りの破損の状況を逐一
見て回り、明けて卯の刻(午前6時頃)には報告した。御普請奉行からの報告は巳の刻(午前10時頃)
であった。
これは一見、その職の責任感より生じた、分別ある行動に見えるが、実際にはその家、その家中のために
成っていない。

人は心入こそ大切である。一言の情に一命を惜しまないのは、士が義を知るが故なのだ。
とりわけ老臣は、心入一つの者であり、忠義を心にかけて思う時は、自分の位階、職分、身代より
心を引き下げるべきである。
私は佐渡守にして頂き、重用していただいているが、元来愚痴暗鈍の者であり、多くの御慈悲により
今日までつつがなくご奉公することが出来たのだ。
その方もお側でお言葉を伝える役目を務めているのだから、後々重用されるだろう。しかし驕る心が
少しでもあれば、それは不忠、不孝の至りであるぞ。」

(武野燭談)



609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/08(水) 15:10:50.62 ID:p76OzpPh
主君に仕えるには忠心一番でいいかもしんないけど問題は家臣同士の争いだよねー
隙を見せると足下すくわれるからなあ

『徳は善政に在り。善政は民を養うに在り』

2017年02月07日 15:26

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 20:41:30.36 ID:lRnEA01U
三州柏崎の百姓が、公事の不正を言い立てて訴訟に及んだが、終に負けとなった。
この時の町奉行は本多作左衛門重次であったが、この百姓「判決は依怙贔屓である」と、
方々にて悪口を吐き、あまつさえ落書などして誹謗した。

本多作左衛門はこれを聞いて、重ねてその公事人を呼び出し再審査を行ったが、
それでも判決は変わらず、今度は不正を言い立てたこの百姓を斬って捨てた。

その後、酒井河内守重忠が同じような公事を沙汰した。
公事の不正を言い立てて負けた百姓が散々悪口しているということを酒井は聞くと、
彼は地下人達を呼びつけ、どうしてそういう判決に至ったかを順々に説明し、敗訴した側にも
どこに非があったのかを言い聞かせ、得心するように理を解いた上で、悪口した百姓も
そのまま差し許した。

徳川家康はこの二つの裁判について、両人にその道理を尋ねた。
本多作左衛門は
「上を侵す者をそのまま差し置いては締まり無く、悪事も募りますから、毅然として申し付けました。」
と答えた。

一方酒井重忠
「こんな事で人を殺していたら、今後の奉行は必ず威を振るい、驕りが出てしまうでしょう。」
と答えた。

両人それぞれの政道であり、家康はこの事について、物を知る者に尋ねた。彼が申し上げるに
「上に逆らう者を刑罰するのは、定まった決まりですが、殺さずに治まることであれば、
殺すべきではありません。人を殺すというのは、やむを得ぬ上に行うものです。
尚書にも『徳は善政に在り。善政は民を養うに在り』と見えます。」

これを聞いて家康は、酒井重忠を一層大切に思ったとのことである。

(武野燭談)



595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 22:44:49.94 ID:tjUQOI5Q
>>592
>それでも判決は変わらず、今度は不正を言い立てたこの百姓を斬って捨てた。

さくざがしかる(物理)

永禄六年〔足利氏の末〕諸役人附鈔書付考註

2017年02月07日 15:24

593 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 21:56:10.18 ID:l0/11MB8
永禄六年〔足利氏の末〕諸役人附鈔書付考註

 塙(保己一)の『群書類従』の中に、『永禄六年諸役人附』というものがある。
これは足利氏の時代末期のものである。今その所載を抄書する。

「〔上略〕
外様衆 大名在国衆〔号国人〕
    山名次郎義祐改名左京大夫
御相伴 北条相模守氏康        御相伴 今川上総介氏実(真)  駿河
    上杉弾正弼輝虎  越後長尾      武田大膳大夫入道晴信 甲斐
    畠山修理大夫義継 能登之守護     織田尾張守信長    尾張
    嶋津(島津)陸奥守貴久         同修理大夫義久
相伴  伊東三位入道義祐 日向  
    毛利陸奥守元就            同少輔太郎輝元    安芸
    吉川駿河守              松浦肥前守隆信    肥前
    河野左京大夫通宜 伊予        有馬修理大夫義真 
    同太郎義純    肥前        嶋津(島津)薩摩守義俊
    宗刑部大輔    対馬        伊達次郎晴宗     奥州
    松平蔵人元康   三河        水野下野守      三河

関東衆〔以下略〕」

私、松浦清が説明を加える。
・山名義祐は、今交代寄合の山名靭負義問の祖先であろう。義問は六千七百石である。
・北条氏康は、今の相模守氏喬の先祖であろう。氏喬は狭山領主一万石。
・今川氏実は今の高家、侍従刑部大輔義用〔千石〕の祖先である。
・上杉輝虎は、米沢侯斉定の先祖、今十五万石。
・武田晴信は、今の高家、侍従大膳大夫信典〔五百石〕の先祖であろう。
・畠山義継もまた、高家で、侍従飛騨守義宜〔三千百石余り〕の先祖であろう。
・織田信長は、右大臣、今の羽州村山領主、若狭守信美の祖で、今二万石。
・嶋津貴久、義久は、薩摩侯隅州斉興の先祖で、今七十七万八百石。
・伊東義祐は、飫肥侯修理大夫祐相の先祖であろう。今の五万千八百石余り。
・毛利元就、輝元は、長州侯大膳大夫斉元の祖先で、今三十六万九千石余り。
・吉川駿州は、今の長州の属臣、吉川監物の祖であろう。防州岩国の城に居り、六万石を領している。
・松浦隆信は、わたくし清の十世の祖で、道可殿であられる。
・河野通宜は、今の久留島侯、予州の通嘉の祖先であろう。通嘉は今、豊後森領主で一万二千五百石である。
・有馬義真、義純は、今の丸岡侯徳純の祖先で、今越前で五万石。
・嶋津義俊は、誰か未詳だが、きっと今の薩摩侯の先祖であろう。
・宗は、今の対馬侯の先祖であろう。祖先の中に刑部大輔の称を見たことがある。
・伊達晴宗は、今の仙台侯の祖先で、元祖政宗の先祖であろう。今、斉邦は六十二万五千六百石余りを領している。
・松平元康は、かたじけなくも神君であられます。元康は始めの御諱であられる。
・水野下野守は、今水野越州、羽州、日州の先祖であろう。三氏は今それぞれ六万石、五万石、一万八千石。

594 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 21:56:34.61 ID:l0/11MB8
 以上のことを見よ。世の興廃はかくの如しだ。これは足利が公方と称したときの外様衆である。
しかし、かえって今は主君であった足利がわずかに御旗本の輩に入っているだけで、
大名在国衆なる者も、あるいは旗本または外藩護衛の身分となっている。

 予の先祖の公や有馬伊東の輩が、恐れ多くも神君の上にあれども、
今となっては皆、御当家を敬拝尊従することに至っている。
これというも、神君の御高徳は仁義知勇を備えられておられる御大勲で、
いわゆる立身行道し、名を後世に揚げて父母を顕す者であられるからだ。
上杉武田の両雄、織田の威顕もいつのまにか跡形もなく、
毛利嶋津伊達の強大も、今はわずかにその旧を保つも結局臣伏し、
ただ水野氏は御当家に新属し、かえって古より富めるに至ったのであろう。

 これというも、日光権宮の御深仁である。
明智は論ずるに足らず。
豊太閤は、まだこの時匹夫で名も無い。しかし、たちまち広大になって、
ついには外国を掠奪するに至っても、その道半ばにして身を喪った。
天がなしたのであろうか。
 我が隆信君の子の法印公(鎮信)君は、豊閤遠伐の役に随われ、
出色の勇武であったが、ついに外国で賊徒の名を負われた。
いまこのように太平の時に随従できて内外で非義不仁の名を負う事が無いのも、
まことに神祖の大恩・大恵に違いない。


(甲子夜話三篇)



601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 07:07:58.26 ID:DeSn+Eio
>>593
山名義祐って赤松義祐のこと?

一人の弟を捨て殺さば

2017年02月06日 17:56

森長可   
588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 13:03:39.23 ID:hcZgHN4K
一人の弟を捨て殺さば


天正十年冬、未だ天下の主が定まらないなか森長可の弟
お千(忠政)は岐阜城で神戸信孝の人質になっていたが
秀吉は(長可に)尾藤甚右衛門を遣わして、自分に一味するならば
遠江駿河両国を約するという誓詞を送ってきた。

森家の家老衆を悉く集めた評議の時に、一同それぞれが
秀吉公に一味するのが尤もだと長可様に申し上げたが
長可様がお千のことはどうしようと言われたので、その時
長田又左衛門(長可の姉婿)がお捨てしましょうと申し上げた。

長可様は
「先年三左衛門殿(父可成)が討死になり、蘭丸を始め三人が本能寺で
 生害した。御母公はこのことで日々お目が乾くことはないという。
 その上予の骨肉にはお千を除いて外はいない。秀吉公に一味して
 たとえどれほど立身しようとも、一人の弟を捨て殺さば母公への
 不孝となるので心得がたい」
と仰せられご同心されなかったので、林長兵衛為忠が進み出て
「私がお千様を盗み出してみせます」
と申し上げたので、ならばその方が取り計らうようにと仰せられた。

長兵衛が岐阜城へ行くとお千様は近江櫓にいたので
長兵衛は機転を利かせ櫓の窓子を引き剥がしお千様を跳躍させて
下には大布団を広げ待ち受けたので怪我などはなかったという。


――『森家系譜』

ちなみにこの長田は忠政が家督を継いだ後、居づらくなって出ていったとか。



589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 16:43:13.61 ID:r2/kuP1d
>>588
森家らしくない(偏見

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 18:38:33.89 ID:94zKLE+Z
遺言状とこの話だけで鬼武蔵を知った人は
情に厚い家族思いの武人だったと感動するなきっと

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 19:49:41.22 ID:H2xryelB
徳川の領土の遠江駿河を宛がうだなんて、いくら武蔵がアホの子だからって舐めすぎだろ

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 23:08:42.84 ID:94zKLE+Z
>>591
過去に二回ほど出た逸話だと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5948.html
鬼武蔵「駿河遠江に加え甲斐もよこせ」
秀吉の使者「さすがにそれはならぬ」
(使者が帰った後)
鬼武蔵(家来に)「さっきの条件でもわしに不自由はないのだ。だが駿遠甲の三ヶ国を手に入れれば、次節が来れば
其の方達にも小城の一つでも持たせることが出来たのに、お前たちにとっても運がなかった。」

やはり鬼武蔵さんは情に厚いお方だ

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 23:15:08.55 ID:2frsTZP4
逸話スレが広まる以前に戦国関係の個人サイトでは、
森長可の遺言書の件で情にも厚い武人だったというと紹介されてた思い出

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 23:30:12.41 ID:DTcCJHU8
情に厚い人ではあるんだよ。戦になるとやりすぎちゃうだけで。

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 01:35:08.44 ID:t/aGTs/k
酒呑むと人格変わるキチガイと一緒やな

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 06:01:55.42 ID:MBpleLyQ
ああ嫁が絡まなければの人と一緒だな

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 15:22:33.98 ID:Qz9rerfe
>>597
敵に厳しく家族に甘い…そういえばプーチンやトランプも家族には凄く優しいそうな

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 16:51:11.22 ID:YRcOd+eb
DQNの家と一緒ですね

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 17:47:17.86 ID:tUWAHyh0
そりゃ敵には強面で当たらないといけないんだから
その分身内には優しくしないとまずいだろう

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 17:53:07.49 ID:jlg7zLfd
その割には家族で殺し合いする家が多いような…

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 19:31:21.27 ID:5gqA2q1V
おっと河内源氏の悪口はそこまでだ

岡崎殿御生害之こと併異聞

2017年02月06日 17:55

580 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 00:52:51.46 ID:l0/11MB8
岡崎殿御生害之こと併異聞

以前の類焼の後に、蔵書も多く燃えたので所々から本を借りて読んでいる。
その中には『三河記』という本がある。その本には以下の記述がある。

 八月〔年号は分からない〕、三郎殿〔神祖の御長子、信康君。岡崎殿と称していた〕が
神君〔原本には家康と書いてある。ここでは憚って改めた。下記も皆同じくした。〕
の御気に違わせられて、御牢人〔牢は浪と改めるべきだ。今は原本に従って改めない。〕
を連れて二俣へ出かけられた。
 この子細は、三郎君がわがままで、
宛へ〔宛は恐らく剰えの誤りであろう。あまつさえと読む〕神君の御意見にも従われない。
そのうえ家老の衆さえ、

「勝頼と一緒になられて、野心を企てています」

と申し上げるので、神君はこれらを聞かれると

「親に弓引く事は類例少ない次第だ」

と、服部半蔵に仰せ付けて失いなされた。
三郎殿は

「仰せ置きはなんとも悲しい。親に弓引く事は、ただ両説〔両はおそらく風の誤り。今は原本に従って改めない。〕の事なのに、家老の者が陰口を言うからと親が子を殺すのは、前世の因果と見える。
『我は大敵を滅ぼして天下の主となるべき』、と常に思いかけていたが、
あなたのような親にどうしてか子と生まれ死ぬ事の無念さよ。
二人の息女の事は、絶対に悪くあってはならない。
(『柳営譜略』には、信康君の長女は小笠原兵部大輔秀政室、次女は本多美濃守忠政室)」

と仰せられた。大久保一族その他の人々にも御形見を出し、

「我ゝ(このゝは、おそらく"が"の誤り)後生の事どもは、大樹寺を頼り、よろしく供養してくれ」

と、念仏十篇ばかり唱えながら、腹を十文字に掻き切った。

「服部半蔵! 介錯!」と迫るが、半蔵は

「三代相恩の主君にどうして太刀を当てれましょう。」

と刀を捨て激しく泣き悲しみ倒れ臥した。

「早く早く!」と仰せられるので、遠州住人の天方山城守が、泣く泣く御首を打ち落とした。
御年二十一歳と申すのは〔"は"はおそらく不要〕、花の想いを引き替えて〔"想"、恐らく"姿"の誤り〕、
朝の露と消えられた。

このことを、神君は聞かれて、御涙を流された。
後によくよく聞かれると、ただ偽りを申したため、支えを失われたと
神君の御後悔、御嗔り(いかり)は限りなかった。」

581 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 00:53:15.31 ID:l0/11MB8
さて、ある人の言ったことを聞くと、
東都の中、渋谷の東北寺というところの後ろの山に、岡崎三郎殿の古墓というものが在る。
東北寺の地はもとは大久保侯〔今の小田原侯〕の別荘であったが、後に寺へ寄附されたという。
かの墓が在るのは、三郎殿が生害のとき、内実は大久保氏の先祖と謀り、
害死したと執り成したが、秘かに大久保氏が逃し後まで匿い置いて、
ついに寿命により終わられたので、その荘中に埋葬した跡であると相伝している。
他の書と照らし合わせるべきだろう。今のところは異聞としかいいようない。

またいわく、このようなので『三河記』に載っていた御生害の御年季と、
御墓標の御遺号が違っているという。

また、後年になってこの墓所につき御茶湯料のことを東北寺から願い出たが、
「たとえ真実であっても、今まで知られていないことを、
このように表に出すのは却ってよくない。」と宣告は容れられなかったと聞いた。

(『江戸砂子補』には、禅河山東北寺妙心派は、下渋谷に在るとある。この地のことだ。)

(甲子夜話三篇)



582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 00:57:51.02 ID:IMsa1VVG
謀反を恐れて殺したのにノブのせいにするウンコ漏らし

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 16:39:04.29 ID:r2/kuP1d
>>580
誤字に対する注釈が面白い、今も昔もかわらんなー

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 17:53:59.41 ID:lRnEA01U
>>582
おまえこの本文全く読んでないだろ

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 19:24:05.84 ID:PLy9AzSu
最近、秀吉厨と家康厨が活発にやりあっていてどこも荒れぎみだね

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 19:46:03.96 ID:H2xryelB
まあ信長の武田恐怖症は異常だしな
岡崎が織田を捨てて武田に走る気持ちも分かる

徳川頼宣「動いて見給え。忽ち刺し申すぞ!」

2017年02月05日 13:58

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 19:46:57.69 ID:5MePCLra
紀伊は山国であり、深山には色々と怪しい事ども多かったが、徳川頼宣はまるで気にしていなかった。

ある時、友島に猟に出かけ、臥木(倒れている木)に腰を掛けると、その臥木にわかに動き出し
龍の形となった。
しかし頼宣は少しも驚かず、志津の長刀をその蛇頭と思わしきところに差し当て

「山神であるのなら、どうして腰掛けただろうか!臥木の姿であったからこそ、臥木であると思ったのだ。
なんと見苦しき振る舞いだろうか!動いて見給え。忽ち刺し申すぞ!」

そう怒って叫ぶと、本の臥木へ戻ったという。

(武野燭談)



〔壱岐〕朝鮮鴉之事

2017年02月05日 13:57

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 23:59:21.99 ID:AaFg6Mnf
〔壱岐〕朝鮮鴉之事

 予の小臣に壱岐の人がいる。
話に、かの国には「朝鮮鴉」と呼ぶ、
大きさは鳩のようで黒色鴉に似て白毛の混じった鳥が、夥しく群飛して来て野菜に害をなし、
四、五日を経てまた群飛して去るという。
これは前に記した(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10250.html
カササギである。

 ならば鍋島勝茂が韓征から持ち帰ってその里に繁盛しているという事とは別に、
この鳥が韓土からわが地に渡来する事は今に始まらぬのであろう。
しかし『本草綱目』にも『本草綱目啓蒙』にもこのような無数群行ことは書いてない。
ただ『本草綱目啓蒙』に、筑前筑後では朝鮮がらす、高麗がらすというと載っているので、
かの国などにも飛び渡ることは壱岐と同じであろうか。
ならばいずれにしても勝茂が持ち帰ったというのは珍しくはないことである。

(甲子夜話三篇)



正しく沢庵の書であった。

2017年02月04日 17:41

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 22:10:26.57 ID:yarFx/aF
脇、高安彦太郎が遠祖。彦太郎、少年のとき武術を以て高名の事。付沢庵和尚目撃の賞状

 予は時々能見物に行き、金剛座の脇師の高安彦太郎と会っている。
ある日のこと、彼は語った。

「私の家祖は大和に居住していました。〔高安とはすなわち和州の地名である。〕
その後、私の先祖の太左衛門という者の子の彦太郎が十、四五の頃、
大和の山越えを行ったときに賊が出て取り囲まれてしまいました。
しかし彦太郎はこれをことともせず、刀を抜いて四方に切り払えば多くの賊は死に、
賊は敵わないと逃げ去りましたとか。
折節沢庵和尚が現場に行きかかっていまして、父の太左衛門へその書状を書き記して褒賞しました。
その書は今も家に伝わっています。」

 予は請うてその書を見ると正しく沢庵の書であった。
その文を読むと、沢庵は傍観されてはいなかった。
傍観していた者が沢庵に報告して沢庵が褒賞されたのであった。
なんにせよ彦太郎の手技は乱世近い人の骨柄で、猿楽少年といえどもこうである。
また沢庵の賞辞も今時の出家の言に比すると真に活言というべし。

その書がこれである。

「〆 高安太左衛門殿 御宿所  芳林庵

この一両日にお客様が来られましたので面会できませんでした。
なのでただ今承りました彦太殿が、路次で不思議の子細に驚き入りました。
彼の手柄は申すべき様もありません。さてさて奇特千万で、承りまして感涙を催しています。
御心中御満足のほど推量されます。
誠に比類無い次第だと存じます。
無事珍重でこれに過ぎたるものはありません。
ただ今承りましたので、即刻書状で申しました。
出家の事(空白)別でかようの事承り、奇特千万と存じます。
後日に会いましょう。恐々謹言。
孟夏十八日    宗彭 」


(甲子夜話続編)



土呑み裁判

2017年02月04日 17:39

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 13:09:23.79 ID:eUvcYzR0
土呑み裁判

戦国時代から少し時代は下った寛永15(1638)年、真田信之治世の信州にて村の間で山境の争いが生じた。
役人が双方に事情を聞いたが、双方明確な証拠を出すことができず、水掛け論になった。

そこ真田家では、争いとなっている山境の土を呑み、起請文を書いて自らが正しいといった方に山を与えることとした。

そうしたところ、片方の村の百姓が本当に山境の土を呑んだため、その山や山中の切り開かれた田畠はその村のものとされたとか。

鉄火起請についてはよく知られるところであるが、土を呑んで判決を下すのは珍しいこととか。

太平の世になっても、百姓は大変というお話。



平山優「真田信之


勝者の百姓のガッツのいい話ということで、こちらに。



“淫乱の人跡”とはいったい…

2017年02月04日 17:37

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 03:17:10.72 ID:RWhjGdVD
権現様(徳川家康)が中原御殿におられた折、夜中、にわかに犬が
吠えたので、「誰か見て参れ」と仰せになった。

すると小姓衆が「見に参ります」と言い、御前で手をつき通ったので、

「斯様の時の礼は、かえって無礼ぞ。少しでも早く出て見るものぞ」
と、仰せになった。

さて、犬が吠えたのは“淫乱の人跡”と見えたので、詳細を密かに
仰せ上げられると、権現様は「良きぞ。黙れ」と、仰せになった。

(扨犬の吠たるは淫亂の人跡とみへたる故。委細ひそかに仰上られ
たれば。よきぞだまれと上意なり)

――『武功雑記』


“淫乱の人跡”とはいったい…




574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 09:46:46.25 ID:dvy1U+wC
ギシアンかアッー!(ボソッ!

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 11:46:12.00 ID:iA9RwaR5
獣姦の詳細なんぞ聞きたい奴おるん?

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 12:10:27.53 ID:8RyG3zgi
>>573
>よきぞだまれと上意なり
これ素直に訳すと「解ったもういい黙ってろ。」って事だな。
家康が苦虫噛み潰したような顔でこれ言ったと想像すると結構面白い

【ニュース】織田信長=「大猿」「黒鼠」 豊橋金西寺文書に辛辣な批判記述

2017年02月04日 17:37

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 16:46:58.10 ID:qH0d9C1Q
【歴史】織田信長=「大猿」「黒鼠」 豊橋金西寺文書に辛辣な批判記述、恨み辛み込め「苛政暴虐枚挙に堪えず」弾圧時の仏教界感情示す

http://www.tonichi.net/news/index.php?id=58285