「南蛮寺興廃記」より、日本人キリシタンのハビアン、コスモ、ジュモンについて

2017年06月16日 17:52

875 名前:「南蛮寺興廃記」4[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 18:31:46.74 ID:vOUcUOZp
「南蛮寺興廃記」より、日本人キリシタンのハビアン、コスモ、ジュモンについて

智慧才覚あって破天連の門弟子と成り愚蒙の者を教化する者三人あり。
一人は生国加賀国の者にして禅家の僧、名を慧春と号す。
此の僧、癩瘡を病み身体破れ膿血溢腫、僧家の交わり叶わず。
其の親、貧賤にして保養することも叶わざりければ乞食となり京都に至り
真葛ヶ原の辺に倒れ臥して在りしを南蛮寺より引取り両イルマン施薬して
数月を歴ける所に癩病漸くに平癒して、遂に全体快復することを得たり。
此の僧大きに悦び誠に不思議の因縁を以て天帝広大の恩恵を蒙り難病忽ちに
全快を得て再び人界の生をまぬがる、此の高恩を報ぜんには縦い粉骨砕身すも
宗門の為にせんこと本望たるべしとて、信心に帰伏す。
(この後に、もともと富豪であったが没落し梅毒にかかった呉服屋安右衛門、
口唇裂のあった百姓善五郎の話があって、同様に信心を起こしている)
両破天連(計理故離(ケリコリ)=グレゴリオ・デ・セスペデスと弥理居須(ヤリイス)=ルイス・フロイス?)、
是等三人が智慧さとく、ことさら博識にして教えに通達せるを大きに悦び、
慧春を梅庵(ハビアン)と号し安右衛門を告須蒙(コスモ)と名付け、善五郎を寿問(ジュモン)と
号して天帝の宗意を伝え追々帰伏の人をして此の三人を以て説法教化して説得せしむるに
和語を以て教諭する故、弁理能通して大いに利益ありければ南蛮寺の法器を得たり。
破天連イルマン悦びあえり。両伴天連、感悦の余り密かに内殿にて奇術を教えるに
此の三人、流水に棹をさすが如くに砲術を伝授して、手拭いを以て馬と見せ、
塵を虚空に投げて鳥となし、枯れ木に花を咲かせ、塊を宝珠とし、虚空に坐し、地に隠れ、
俄に黒雲を出し、雨雪を降す等の術、得ずということなし。
(此の後、南蛮寺で治療してもらった人々が報恩のため全国に布教を進めたことが書かれている)

※ハビアンは不干斎ハビアンで、当初はキリスト教の優秀さを仏教・儒教と比較して書いた「妙貞問答」を著述したが
後に修道女と駆け落ちし破門されたため、反キリスト教の「破提宇子(破・デウス)」を著述。
コスモとジュモンの話の話は過去に果心居士めいた話が出ていた。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4612.html



876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 22:09:35.65 ID:FnLuyGVB
バテレンは奇術師だったのか!

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/16(金) 01:10:33.75 ID:OT8kP4lS
当時ですら魔法使いだの人肉を喰らうだの噂が立ってたくらいだから
江戸時代になればまあこんなもんだろう

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/16(金) 14:50:47.22 ID:f8eZnz2g
梅毒を持ち込んだ奴等がそれを治療して信心を起こさせる…うーん

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/17(土) 01:13:46.04 ID:Utr99RBV
伴天連が梅毒を持ち込んだわけじゃない

白鷺か何ぞと人の問いし時

2017年06月15日 17:42

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 00:30:38.37 ID:dWS33giL
長岡幽斎が鶴の料理法を人にお教えされるとき、
その人は貴重な鶴の替わりにと
白鷺を板に乗せて出したので、
とっさに、

白鷺か何ぞと人の問いし時 鶴と答えて食いなましものを

「『伊勢物語』の

白玉か何ぞと人の問いし時 露とこたえて消えなましものを

の本歌取り」

(昨日は今日の物語)



32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 18:43:51.74 ID:Dny9w7CR
>>30
「昨日は今日の物語」ってタイトルめっちゃオシャレや!

なお本文の意味はわからない

加藤の亡魂

2017年06月14日 19:00

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 01:02:25.08 ID:OUrzwPNV
加藤肥後守(忠広)が没落以後は、
熊本の城は細川肥後守(忠利、越中守?)が横領して入城したが、
その後には城内外で家鳴り等がして騒がしかった。
加藤の亡魂が念を残したからだと申し伝わっていたので、
細川公は残念な事であると、菩提寺にある加藤が着ていた具足を乞い受けて、
天守の四重目に納められたら、その後に静かになったとか。


『武士としては』



25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 01:05:07.82 ID:e6F4knWm
横領とは酷い表現だな

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 01:34:30.30 ID:WE0HmbYS
「横領」は明治中期以降に出来た言葉らしいが、原文はどうなんだろう

27 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/06/14(水) 09:53:05.94 ID:xVPK1Uvj
>>22
              :ill||||||||||l:
             :i|||||||||||||||
           /''';:|||||||||||||||||l:、
          /:i  :||||||貞|||||||i `'!
          / :|  :||||||||||||||||||l ノ!
          | ヽ |||||||||||||||||||| :|
          ! !;ヽ:||||||||||||||||||||!; |
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28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 10:16:45.54 ID:TDMsc1AT
忠広の生霊か

その節諸事に御軽きこと

2017年06月14日 19:00

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 18:16:53.47 ID:i+cO2s5n
中根宗閑と内藤善斎がある時の話で申し上げなさった事には、

台徳院様(徳川秀忠)が、ある時に御鷹野をなさり、田の畦に
御腰を御かけ遊ばされて、御膳を召し上がりなさった。

その時、御湯がなかったので、「向かいの在所に参って湯を
沸かさせ申すように」との旨を仰せにつき、

百姓の家より御湯を御取り寄せ遊ばして召し上がりなさった。

その節などは、このように諸事に御軽きことであったとの由を
(宗閑らは)申し上げなさった。

その旨、戊戌閏10月21日に拝聴仕った。

――『松雲公御夜話』


週間ブログ拍手ランキング【06/08~/14】

2017年06月14日 18:53

06/08~/14のブログ拍手ランキングです!


藤堂高虎遺訓ニ百ヶ条で、よくわからないもの 21

一つとして難ずるべき所無し 15

男子これなく候へとも、 13
三斎は実は 13

御鷹の鶴の胆(マル)を上げらるるときの咒文 8
「南蛮寺興廃記」より、イエズス会が伊吹山に薬草園をひらくこと 8
「南蛮寺興廃記」より、南蛮寺ができるまで 8

英雄の掘った井戸である故 7
釣り髭であった 7
今は石垣山と呼んでいる 6
三池典太光世の鎌 6

『好き』を止めよ 5
人の挨拶 5
牧野成里、池田輝政の仲介により帰参 5

吉村には似合わぬこと 4
「南蛮寺興廃記」より、キリスト教布教の様子 2


今週の1位はこちら!藤堂高虎遺訓ニ百ヶ条で、よくわからないものです!
実は追加まで含めると204ヶ条ある藤堂高虎遺訓。その中には一見現代人にはよくわからないものもあるというお話ですが、
高虎自身、叩き上げの人だけに、彼の得た教訓も体系化されているわけではなく、そのアドバイスも、この遺訓と同じように、
断片的であったり、ニュアンスを感じろ的な物ではなかったかなと想像できますね。
また彼の遺訓から、豊臣秀長や秀吉の手法も想像できるのではないかな、なんて感じます。

『藤堂高虎遺訓』は伊賀上野城のサイトからも通販できるので、興味のある方、藤堂高虎ファンの方は是非!
http://igaueno-castle.jp/?page_id=24

2位はこちら!一つとして難ずるべき所無しです!
織田家の歴々が、竹中半兵衛の軍略に感嘆するお話です。
逸話ですが時期を想像すると天正5年前後でしょうか?半兵衛は信長直臣であり、秀吉に寄騎として付けられていた筈ですね。
この逸話で面白いのは、半兵衛が自軍の戦略についてだけでなく、敵である毛利の分析について、織田家諸将から感心された、
という所でしょうか。このあたり、当時の「軍師」に求められる物は何かを表しているようで、興味深く感じました。
「軍師・竹中半兵衛伝説形成の過程の一つ」というべきお話かもしれません。

今週管理人が気になった逸話はこちら!
「南蛮寺興廃記」より、イエズス会が伊吹山に薬草園をひらくこと
「南蛮寺興廃記」より、南蛮寺ができるまで
です!
キリスト教関連の話は、やはり主に、当の宣教師たちの記録からの研究がほとんどですが、やはり日本側の記録も、
きちんと見た上でないと見方が偏る、と思います。その意味でこの>「南蛮寺興廃記」は、非常に貴重なものだと思います。
それにしても京の教会を「永禄寺」と名付けようとした、という記事は非常に面白いですね。
これはキリスト教も「寺門」の一つに組み込もうとした、と見ることが出来ますし、この路線で行けばやがてキリスト教の
上層部には、皇族や摂関家、あるいは武家の子弟が「門跡」として入ったことでしょう。いわゆる「権門体制」の中に、
キリスト教も組み込まれてしまうわけですね。
宣教師の側の、キリスト教を日本に広める運動と同時に、日本の側にもキリスト教を体制に取り込む発想があった、
という部分を想像するのも面白いかもしれません。


今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

吉村には似合わぬこと

2017年06月13日 15:30

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 14:59:20.56 ID:j0uYUwB8
睡庵(渡辺勘兵衛了)が坂本に居住していた時、睡庵の家来が大津の町において喧嘩のこと有りと聞いて、
吉村又兵衛(宣充)、その頃は牢人であったが、睡庵のもとに急いで駆けつけてきた。

水庵は対面するや言った
「喧嘩見舞いであるのなら、特別のこともないので帰られよ。
ほかに話したいことがあるのなら、飯を食ってから話されよ。」

吉村
「喧嘩のことを聞いて急いで見舞いに来たまでである。そういうことならば帰る」
そういって帰ったが、この時睡庵は次男を道まで遅らせた。水庵は次男にこう申し含めていた

「私は直に言わない、汝、密かに吉村に伝えてほしい。今日の見舞いのこと、吉村には似合わぬことである。
我等の手の者の喧嘩のこと、別にこれといった仔細のあるものではない。こういう事には天下の大法が
大方定まっている。我が者が斬り殺されれば相手の者は切腹に成るし、人を斬れば此の方の者が切腹と成る。
である以上、気遣いに成ること無い。

こういったことに吉村が大急ぎで京より来るというのは、まるで一揆合いで手足の働きをするの若者の
ようではないか。以降慎まれるように、と」

然るべき事である。

(士談)


「南蛮寺興廃記」より、キリスト教布教の様子

2017年06月13日 15:29

859 名前:「南蛮寺興廃記」3[sage] 投稿日:2017/06/12(月) 20:13:59.55 ID:NCJxUsnF
「南蛮寺興廃記」より、キリスト教布教の様子

是を伝聞して五畿内は勿論、四国・中国・京近国来集すること夥し。
南蛮寺は日々群衆を成すと雖も宗に帰伏せざる者には本尊を拝することなし
南蛮寺には此の群衆の人にはいささかも構わず洛中洛外へ人を出し或いは
山野の辻堂橋の下などに至るまで非人・乞食等の大病難病等の者を尋ね捜し
召し連れ来たらしめ風呂に入れて五体を清め、衣服を与えて之を暖め、
療養しける程に昨日の乞食、今日は唐織の衣服を身に纏い病も自らこころよく
快復せるたぐい多し。なかんずく癩・瘡等の難病、南蛮流の外療を受け
数月をへずして全快し誠の仏菩薩今世に出現し救世済度したまうなりと
近国貧賤にて我が力に叶わざる者、或いは諸医の療養に治すこと能わざる者
貴賤ともに南蛮寺に群衆すること斜めならざりけり。
両イルマン悉く是を南蛮寺に留めて良薬を施し医療半ばに快復する病人共を率い
是等に説いて曰く、「そもそも我が本国は四十二箇国といえども此の国の類に非ず。大国なり。
然れども天に帝釈を敬うが故に貧賤の者なく難病に侵さるる者なし。
我が国王仁慈にて国民を憐れみ恵む。其れ世界の諸国此の天帝を崇敬して貧苦病難の
患を逃れ現安後楽の宗法を知らず。今生の苦患のみならず未来永劫の罪に陥ることを
憐れみて今我等の如き者を世界に渡して此の天帝の法を弘通せしたまう所なり。
此の日本等の如きは天帝を敬うことを知らざるが故に貧賤なる者多し。
是より起きて邪欲深く盗賊悪党をなし、或いは難病等の患いに沈みて未来善所の願も
叶わざれば、貧なる時は邪起こる。邪起こる故に難病又身を責む。
されば今生の病は我等の療養を以て治するも未来の難病は治する能わず。
身の不浄は洗えども心の不浄は大海の潮にもさらし尽きず。
然るに今世に邪なる事をなさずと雖も悪病貧苦に責めらるる者は前生の悪業のしからしむる所なり。
しかれば其の前生を果たさずるは永劫の罪遁るること能わず、各々心を清浄にしめ
未来の悪縁遁るるや遁れざるや此の鏡を拝せらるべし」とて三世鏡と号する宝鏡を恭しく
掛けて拝せしむ。此の者共心に信心を起こし未来の仏を見ること誠に有り難きことなり。

860 名前:「南蛮寺興廃記」3[sage] 投稿日:2017/06/12(月) 20:16:10.07 ID:NCJxUsnF
是を拝みけるに或いは牛馬鳥獣の形、或いは醜偏形の類、鏡に映りて顕れければ
此の者も驚き怖れ泣き悲しみ天帝の大慈悲を垂れて未来の罪を助けさせたまえと両イルマンに
嘆きければ両イルマン曰く「各々嘆き悲しむ所、最もなり。天帝を崇敬する所の真言を授け
与うべし。心を清浄にしめ他念なく此の数珠を以て真言を一遍唱えて一粒ごとに繰るべし」と云い
四十二粒ある数珠を与う。陀羅尼文

配後生天破羅韋 増有前生摩呂

七日の間、昼夜悪念を生ぜず此の真言を唱えて両破天連へ拝謁し天帝の宗経を戴き
天帝の御影を拝せば今日の鏡にうつる所の未来の罪業消滅しめ天帝の大慈悲を蒙るべし、と
教化しければ皆同音に真言を唱えて七日信心を凝し昼夜に真言を唱う。
両破天連両イルマン愚蒙を誑かして邪法に陥るること是等の方便なり。
(此の後寛永十五年天草原城攻めの時既に城中同音に唱えたる真言あり)
サンタマリヤ、サンタマリヤ、斯くて七日勤行をいたせば、両イルマン此の者共を
率いて仏殿に至るに美麗荘厳金銀をちりばめ金襴錦の幡翻り。各香薫し渡り光り輝き
真に極楽の七宝荘厳もかくやあらんと思うところに、両破天連、金襴の衣を纏い
仏殿に出、又真言を授けて天帝の宗法を説き畢りて両破天連を拝せしむ。
両イルマン又其の者共を率いて三世の宝鏡を拝せしむるに前度の像に引き換えて
天子の容貌四十二相を具え我が身知らず天土に至る心地にて愚蒙の者共声を放ちて
悦び泣き、両破天連曰く「汝ら七日真言を唱えると雖も心既に改めて天帝を尊敬するが
故に今世にて天上に通達しめ天帝の恵みを得たり。面々決して天帝の尊恩を忘れ奉らず。
たとい今世は火・水・磔・牛裂き・車裂きの苦しみを受けるも其れを以て未来永劫の苦に
替え、今拝し奉る所の天上に至らんと思うべし。
しからば天帝本尊を拝せしめん。
クルスという物を取り出す。此のクルスという者は黄金を以て先二寸四分程にして針を植えたる如く
にして(今の山葵卸という物の如く)二尺計りの柄を付けたる物。
彼の者共の肌を脱がせ彼のクルスを以て脊を抓むしる。骨痛み血流れ出る所の血を以て
左右の手に塗りて両手を合わせて帝釈天の画像を拝せしむ。
(此の南蛮の礼を行うがゆえに日本にて仏を拝する礼と異なりと云えり。生涯の悪を悦ぶ
と云わば未来永劫の苦にかわると云う心なるべし)。
金襴の戸帳を巻き揚げれば容顔美麗なる女体の尊容、懐中に小児を抱き乳を含めたる本尊なり。
玉の冠を戴き、身に七宝の衣を穿きたり。両破天連示して曰く「此の帝釈天は智慧を世界に
降し汝らの悲苦を以て母の子を懐に抱入れ、乳を飲する如く憐れみ恵み給う。
必ず今世を顧みることなかれ、未来永劫をたのみ奉るべしといいければ
多くの者共血まみれの手を合わせて拝して退去す。
また追々集まる所の病人快復を得、難治の者共死する(死せざる?)も数多なり。
大難病にて諸医の力に及ばざる者快復を得たるも三十人に及べる。斯くの如くの方便を
以て追々此の門徒に起伏する者夥し。

新興宗教セミナーのような書かれ方(セミナリオだと学校だ)
※国会図書館デジタルコレクションからの転載なのでコピペではありません。


『好き』を止めよ

2017年06月13日 15:29

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/12(月) 23:53:28.88 ID:HBYm4LkC
寺沢志摩守(広高)曰く
「武士たらん者は一戦の時に、人より勝れた稼ぎをするのは珍しくない事だ。
平常に畳の上の忠功をしようと思ったら各々の『好き』を止めよ。
物に『好き』が過ぎると必ず奉公も疎くなる。
私は秀頼公の御時まで、茶の湯を好いていたが、考えてこれを止めてしまった。
このように言うと武士は武道の方を止めよと聞こえるかもしれないが、そうではない。
常に武を好いていなかったら、戦国ではあまり役に立てない。
ただ自分の業より他の道を求めてすごしてはならないという事だ。」
とのことである。
乱舞・囲碁・双六・俳諧・茶の湯の類を知り過ぎて、
上手になって何の益があろうか。

『武士としては』


賛否両論ありそうな、御説ですがとりあえずこっちに投下



862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 00:52:33.15 ID:96j7pvDR
おまえが言うな、とまず思うわな

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 02:35:53.01 ID:hBpLduh/
好きと数奇

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 22:36:25.38 ID:VBnBI38R
曜変天目とか馬蝗絆はお宝感が半端ない

井戸茶碗とか伊賀焼きとかはゴミ感が半端ない

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 22:55:11.09 ID:1fDn7Mkq
なぜ中国で曜変天目が残らなかったんだろうね

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 23:38:39.48 ID:fVSM+6Nu
トーハクの茶の湯展は素晴らしかったねぇ…

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 00:15:38.16 ID:7NaUQXst
>>865
秀吉乙

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 04:41:13.13 ID:X0DuNaUp
伊賀焼って信長が発見したんだってなあ

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 10:32:33.42 ID:jpDlM1/L
ちょっと何言ってるか分からない

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 10:48:29.56 ID:wXic2RaU
信雄じゃないの?>伊賀焼き(討ち)

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 18:44:48.75 ID:qrjRLL6v
信長は伊賀伊賀守を召し抱えていたからな

御鷹の鶴の胆(マル)を上げらるるときの咒文

2017年06月12日 19:11

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 22:05:45.74 ID:5UlT2XLV
公方様、御鷹の鶴の胆(マル)を上げらるるときの咒文

  ある人がひそかに話してくれた。
公方将軍様が御鷹狩に鶴を獲られて丸肝をあげられたときは、
御上と御小納戸頭取がお供のものと心中で唱えさせる呪文があるという。

「業尽きるの衆生は、放つといえども生ぜず。
故に人仲に宿して、得らるるを以って善果とす。」

これは、禽類でも鶴は大鳥でかつ寿命を保つものなので、
これを害するのは殺生の中でも罪が深いに違いないからとの事である。
きっとこの呪文も確かにあるのだろう。
基本、神祖から受け継がれていたのであろうか、
御代々唱えられている事だと聞いた。

 秘かに神祖の御知遇を考えてみた。
この呪文を生み出したのは大樹寺の登誉上人であろうか。
この人は神祖が天下を取られたころにはもう亡くなられている。
また天海僧正だと、神祖とはちょっとの間にしか会っておらず、
力が盛んだった時期の多くは台猷の二世(秀忠・家光)の頃であった。
ならば増上寺の観智国師であろう。相応の時の人である。
きっとこの国師が神君に差し上げたのであろう。

 しかしこの呪文は仏経の何によるのであろうか、出所はまださだかでない。


(甲子夜話三篇)



20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/12(月) 05:34:25.20 ID:Y/zvUrtP
心の中でしか唱えてないのになんて知ってるのw

英雄の掘った井戸である故

2017年06月12日 19:10

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/12(月) 18:37:21.30 ID:xZqoEU9p
井伊掃部様の御屋敷前、坂中の北に仰々しい井戸がある。それは
汲みもしないのに立派な釣瓶縄を備えていた。

それは昔“鱗屋敷”といって、直江山城守が住んでいた時に掘った
井戸だという。これをトウ庵先生(古賀トウ庵)に聞くと曰く、

「直江は天下の英雄なり。英雄の掘った井戸である故、井伊家では
用いないけれども代々大切にこれを保存しているのである」

とのことである。

――『直江兼続伝(天雷子続)』


22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 01:49:44.51 ID:qTIEz3oo
>>21
大河で井伊の先祖は井戸から出てきたとか言ってたし、井戸を特別視してたのかも

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 18:59:57.31 ID:oqc2RtC1
>>21
憲政記念館の所に現存しているよな。この井戸

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 19:09:14.48 ID:qFtwVh1m
兼続の屋敷跡が
「憲政」記念館になったとは、
御館の乱の因縁があるようなないような

今は石垣山と呼んでいる

2017年06月11日 10:44

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/10(土) 22:20:06.79 ID:I7EY2XpE
 物事の勢いによっては、事がはかどって行き自ずから人も育って力が増すものである。
 天正十八年、北条氏政を太閤秀吉が攻められた時、
小田原の城から西にあたる所に高い山があった。
要害で地の利がよいと、すぐに石垣を積み上げて、所々に櫓を上げて、悉く屏をかけ、
たちまち壁を塗り、一夜の内にその上に白紙を張った。
これが白壁のように見え、城主はこれを見てその器量を感じたとか。
 今は石垣山と呼んでいる。


『武士としては』


男子これなく候へとも、

2017年06月11日 10:43

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 01:27:24.99 ID:ZNnSTgYf
立花宗茂の家臣に堀次郎右衛門という人物がいたのだが、立花家が棚倉から柳川へ戻って
ほどなくして没し、堀家には男子がいなかったため宗茂は次郎右衛門の娘のくろに次の書状を送った

父次郎えもん事、代々奉公、ことに東国まてまかり下り、へつしてしんらうの事に候間、
男子これなく候へとも、其方にたいして山間郡よしかい村之内、百石あておこない候、
後々は似合いのさい合をも申付候はんため、右之通りに候、仍如件
元和八年七月六日  宗茂(花押)
堀くろ女
『柳川市史資料編Ⅴ 鬼塚文書 立花宗茂知行宛行状』

江戸時代に藩主の配慮で女性に家を継がせたという珍しい事例



15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 02:10:37.92 ID:YQxDzO82
後家に化粧料を与えて、後で婿を取らせて家を再興させよう、って話じゃないの?

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 02:12:55.86 ID:GSPWhLoP
関東管領憲政さまも戦死した家臣の女子に家督と城主の座を認める手紙を出してたなあ

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 02:23:11.93 ID:ZNnSTgYf
>>15
奥方じゃなくて未婚の娘に対してだから似てるけど違う感じだな

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/11(日) 05:48:10.37 ID:FeToHE5W
普通に堪忍料を与えて再興の目を与えてるだけのような

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 18:48:07.31 ID:oqc2RtC1
>>14
山間郡は原文ママ?吉開は山門郡にある

「南蛮寺興廃記」より、イエズス会が伊吹山に薬草園をひらくこと

2017年06月10日 21:20

9 名前:「南蛮寺興廃記」2[sage] 投稿日:2017/06/09(金) 18:59:32.61 ID:eAHh5iIP
「南蛮寺興廃記」より、イエズス会が伊吹山に薬草園をひらくこと

寺の結構荘厳眼を驚かす。又ウルカン一人にては弘法力に叶うべからず。
本国より数人召しよべしと命ぜられる。ウルカン悦びて本国へ申し送る。
そもそも南蛮切支丹国と云うは国号イスパニヤならびにポルトガル、カステラと
云う海上日本里程一万二千余里世界の国を以て見る時は唐土日本よりは日本より
西方に当たる国なり。然るに南蛮と号することはこの国の従属の亜媽港、
呂宋等、日本の南方に当たれり。故に南蛮と号する者か。
アマカワ、ルスン等は日本より里程八百里にて殊に日本より南に当り、
イスパニヤの隣国にも非ずしてその国の従属たるアマカワ、呂宋等は守護も無き
島なる故南蛮人往々に其の島に船を止め今は南蛮人多く住居するが故に類属の国なりと云えり。
イスパニヤ隣国にエグレスと云う国あり(インギリヤともイギリスとも云う)
阿蘭陀の西に在る島国なり。日本里程一万千七百里と云う。
此のイギリスは南蛮国と別種なる由、云い伝う。
斯くてウルカンが本国より渡来するは浮羅天破天連、計理故離イルマン、弥理居須イルマンと云う。
(破天連と云うは師のごとく、イルマンと云うは弟子のごとく)是等が乗るところの南蛮船、
若州(若狭国)小浜に着船す。
南蛮人若州より江州海津へ至り船を湖上に浮かべて大津に至り京都南蛮寺に入りて
ウルカンに謁し信長へ注進す。信長悦びて安土へ召し呼ばわる。
浮羅天破天連はウルカンより背高きこと一尺五寸。色青く髪髭黄色なり。
衣類はウルカンが如く、相隣の両イルマンは医術外治ともに奇妙なり。
(最初ウルカンが安土へ来たりし時より南蛮人奏者は長谷川竹(秀一)に命ぜられる)
今般は六種の捧げ物あり。瑠璃の宝珠、香一包、犬皮十枚、瑪瑙の机一脚、虎皮十枚、
五色羅紗五十枚献上す。
不日に南蛮寺へ帰り重ねて信長へ訴え曰く。天帝宗はあまねく病難貧苦を救いて
起臥を安んじ法を伝え、現安・後楽の願望を成就す。
薬園を給いて薬種を植え、其の備を成さんことを願う。
信長許諾して山城近国の内其の地を選ぶべしとありければ、両イルマン江州伊吹山を願い得、
此の山に登りて五十町四方切り開き薬園として本国より三千種の薬草の苗種を取来せしむ。
伊吹山にこれを植え(此の故に今二百年の後までも其の根此の山に止まりて川芎艾(もぐさ)の類
此の山を以て名産とす。)それのみならず本国より財宝おびただしく取り寄せて
金銀に替え七宝の瓔珞金襴の幡錦の天蓋六十一種の各香、門外まで薫し、往来の人々止まる。
(此の寺常に一仏壇に本尊を立てすと云えり)。

落語「亀屋」に出てくる、灸に使う艾の宣伝文句が「江州伊吹山のほとり、柏原、本家、亀屋左京、薬もぐさよろーし」
だったけど、もとをたどればイエズス会のおかげだった?



10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/09(金) 19:08:57.96 ID:eAHh5iIP
よく考えたら百人一首の藤原実方の歌で
「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」
とすでに歌われていた

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/09(金) 23:14:49.81 ID:M6wlLfbw
俺も気になって調べたけど、イエズス会側の史料で薬草うんぬんの話は見つけられなんだ

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/10(土) 13:46:44.58 ID:MzfslN0X
>>9
>若州(若狭国)小浜に着船す。

まーた小浜か
前にもアラジンとかいう名前のイスラム商人とかも流れ着いてなかったっけ?

人の挨拶

2017年06月10日 21:19

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/10(土) 04:47:37.43 ID:OWDQQE2A
この掃部頭殿(井伊直孝)は大坂の御陣の時、家来の者が槍を合わせている
に付き、高い場所に上り、馬から下り立って槍を杖について見物しておられた。

そこへ本多安房守(政重)が足軽2百人ばかりを召し連れてやって来て挨拶を
致したところ、掃部頭殿は目の前に気を取られたのか挨拶を返さなかった。

すると安房守は、「掃部は腰が抜けたのか? 人の挨拶も聞き付けぬとは!」と
大声で憚りも無く申して、罷り帰った。

その後、対面の折に挨拶したとの旨、癸巳正月11日の夜に(松雲公前田綱紀
より)拝聴仕る。それ以後も度々この話を仰せでござった。

――『松雲公御夜話』


釣り髭であった

2017年06月09日 18:41

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/09(金) 17:07:05.10 ID:jMN9vXWl
台徳院殿秀忠公は御釣り髭であられたという。井伊掃部頭殿(直孝)も釣り髭であった。
(台徳院殿秀忠公には御つりひげ御座候由。井伊掃部頭殿にもつりひげ有之候。)

――『松雲公御夜話』


一つとして難ずるべき所無し

2017年06月09日 18:40

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/09(金) 18:36:19.82 ID:ezl2clO7
竹中半兵衛には、若くして弓矢巧者の評判があった。

織田信長の時代、柴田滝川といった人たちは寄り合いで
「若輩者に何ほどのことがあるだろうか。いつか竹中に出会った時、弓矢の詮索だてを致せば、
一句も言えずに理に詰まるだろう」
などと彼を評していた。

そのような折、羽柴秀吉は中国より竹中を使者として、信長に仔細を言上するため京に上らせた。
柴田たちはそんな寄り合い話をしていただけに、内々に竹中と参会したいと望み、「ならば招き入れて
一献を勧め、そして詮議をも致そうではないか。」と、竹中を柴田の所へと招待した。

その場において一礼の後、柴田がまず言った
「この度、中国において毛利家との対陣の様子、筑前(秀吉)の思惑などを話してみよ。」

竹中聞いて
「私は筑前殿よりその思惑を承ってはおりません。何事を申せるでしょうか?」
そういって、それを語ることを辞退した。
すると柴田は重ねて

「ならば筑前の思惑は差し置き、そなた自身の考えもあるだろう。御辺の思惑、如何様に
この戦をすべきか、それを語られよ。」

竹中、止むを得ずして、毛利家弓矢の風情、此の方のあしらい方、双方の考えといったことを
一々に説明し

「未だ上様(信長)に、筑前殿よりの使いの趣を言上いたしておりません。先ず御前を済ませたいと思います。」
そう挨拶して出ていった。

その場に居た、柴田、滝川、丹羽、佐久間といった歴々は竹中の言ったことを聞いて
「彼は前々に聞いていたより、なお勝っていた。
今日の物語、毛利家のあしらい、弓矢の勘弁、一つとして難ずるべき所はなかった。
ならば、弓矢の才というものは、合戦の経験の多い少ないによるものでは無いのだろう。」
そう感じ入ったという。

(士談)


藤堂高虎遺訓ニ百ヶ条で、よくわからないもの

2017年06月08日 17:30

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/07(水) 23:09:04.55 ID:wSC6ug/z
藤堂高虎遺訓ニ百ヶ条で、よくわからないものをまとめてみた

十、合戦道具で柿色はよくない。紺色が良い。色々あるが書付にするほどのことでもない。

七十六、不用心な道中を通る時は錐を拵え持っておくと良い。色々徳がある。
     錐の拵え方に心持ちがある。

七十八、刀の下緒は長いのをつけよう。仮初にも短くてはいけない。

百五十七、仮初に刀を持って出るときでも、左手で持つよりも、右手で持ったほうが徳が多いと口伝されている。

百五十八、少し歪んだ刀は、手洗いに綺麗な水を入れ、刀の柄に縄をつけ、切っ先を下にして逆さまに釣り、
      水鏡に映せば必ず治るものである。

百八十三、鮫鞘を好んではならない。

百五十九、追撃している者を馬上から斬りつける時、あぶみの踏み方がある。

藤堂高虎遺訓ニ百ヶ条)

同時代だと理解できたんだろうか



844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/08(木) 02:01:42.02 ID:9FNpujTF
>840

戦場での視認性の問題かな。柿色や茶色系統では目立たないとか。
七十六
刀以外の、気楽に使える何かしらの得物をもって用心しろという事かな。
杖や棒でも良いような気がする中、何故錐をお薦めされているのは分りませんが。
七十八
何かを結んだり縛ったりする紐としても使えるようにという事かと。
「こんなこともあろうかと」の精神ですね。
百五十七
とっさの際には左手にある刀を抜くより右手の刀を鞘ごと振り回したほうが色々早い、という事かも。
高虎公の膂力があっての事かもしれませんが。
百五十八
刀を吊るす事で自重によって歪みが矯正される、とか?
良くはわからないですが、ともかく道具の手入れは欠かすなよという注意かと。
百八十三
鞘を飾る余裕があるなら別の事に使え、という贅沢嗜好への戒めかと。
百五十九
鐙できちんと体を支えてないと勢い余って落馬する事もありそう。

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/08(木) 02:59:47.96 ID:6Vf15pDY
>>840
高虎の遺訓は1664年に大神朝臣惟直って
大友家から藤堂家臣になった佐伯(大神)惟定の血筋の人物が
書き残してるんだよな

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/08(木) 06:13:57.05 ID:q5O1cTh1
遺訓の数にワラタ

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/08(木) 09:18:53.21 ID:nYIjRBij
>>840
10当時、柿渋染めは怪我をした時に血が止まりにくいという説があった。
一方紺染めには虫よけの効果がある。

158刀は多少曲がっても、復元力が残っていると真っすぐに戻る場合があるので
ダメ元でも釣るしておくのは理に適ってる。水鏡に映すのは迷信の一種。

183鮫鞘は高いし、湿気の多い時期になるときつく締まるので、とっさに抜きにくいという欠点がある。

三池典太光世の鎌

2017年06月08日 17:29

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/07(水) 23:42:29.02 ID:mTM/64Wp
近所の爺さん婆さんから聞いた話です。

むかしむかし、筑後のある山で、男が草を刈っていた。
彼は恐ろしく切れ味のいい鎌を持っており仕事はどんどん捗ったので、木陰で休憩することにした。
そのままウトウトしていると、なにやら妙な気配がする。
目を覚ますと、目前に巨大な大蛇が大きな口を開け、男を丸呑みにしようとしている。
男がなんとか逃げ出そうともがくと、腰に差した鎌がひとりでに抜けて大蛇と戦い始め、大蛇をバラバラに切り刻んだ。
そこに、少し離れた所から一部始終を眺めていた武士が話しかけた(助ける気は無かったらしい)。
「なんともよく切れる鎌じゃな。しかも、不思議な破邪の力がある。わしに譲ってくれまいか。」

続く

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/07(水) 23:44:15.33 ID:mTM/64Wp
交渉の結果、武士は男に山のような米俵を対価として約束し、鎌を手に入れた。
これにより、この辺りは「米の山」と呼ばれることになる。
鎌を手に入れた武士は、刀の目利きが得意な商人に見せてみた。
商人「これは・・・間違いなく、三池典太光世作の鎌でございます。」
武士「なるほど!それで、破邪の力があるのも頷ける!」
武士はその鎌を家宝とし、生涯大事にしたそうです。
ちなみに米の山という地名は現在も福岡県大牟田市に現存し、そこにはごく最近まで光世の炉の跡と伝わる場所があり絶対に霜が降りないとか、夜中にトッテンカーンと槌音がするとか・・・。
近所には光世の墓石と伝わるものがあって、それに不用意に触ると熱病にかかるとも言われている。
鎌ですら大蛇を退治するくらいなので、前田家の大典太や権現様のソハヤノツルキウツスナリに、不思議な破邪の力があるのも当然・・・と思わせる、(気味の)悪い話。



843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/08(木) 00:16:11.10 ID:RT7mDd+1
>>841-842
首切り茂吉の佩鎌だったに違いない

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/08(木) 09:29:38.28 ID:qsXeTEam
著名な刀鍛冶が打った農具ってあったのかな?
正宗作のクワとか、郷義弘作のカマとか、吉光作のノミやカンナとか。
ま、仮にあったとしても、銘は入れないだろうから残るわけないか。

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/08(木) 12:23:37.17 ID:R5hVJ1jy
>>843
それ2ちゃん発信じゃねえかw

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/08(木) 13:11:42.08 ID:dyN/USPU
正宗の包丁なかったかな?
刀鍛冶が嫌になったころに作ったやつ
昔話か何かにあったような

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/08(木) 14:16:02.57 ID:qsXeTEam
>>851
包丁正宗じゃなくて、ほんとに正宗作の包丁ってことかい?

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/09(金) 10:42:45.49 ID:McYISloz
日本昔話に村正のナタって話があったな

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/09(金) 12:15:26.84 ID:eAHh5iIP
政宗なら正宗の刀でも包丁にしそう

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/09(金) 13:24:50.81 ID:sVQGeu1h
>>854
包丁で指切ったら包丁を手打ちにしそう

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/09(金) 19:55:42.49 ID:WLD6xBxc
たまたま近くにいただけの小姓を包丁もって追い回すんじゃないかな

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/09(金) 22:44:26.17 ID:Oz51GCCN
市松なら、その小姓の嫁さんに怒鳴られて包丁を下賜するハメになるところが目に浮かぶ。

三斎は実は

2017年06月08日 00:27

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/24(水) 02:47:35.45 ID:/PRBbIyV
幽斎は細川への養子で、本名は三淵である。幽斎の兄を三淵大和(藤英)
という。光源院殿(足利義輝)の弟(義昭)は幽斎を頼みにして信長に頼った。

(信長と義昭の間には)20ヶ条の掟があったが、(義昭は)後にこの掟を
用いずして槇島に籠城した。信長は(義昭を)熊野に追い込みなさった。

光源院殿の御宮妾が懐妊3ヶ月の時に、幽斎は御宮妾を与えられたので、
三斎は実は光源院殿の子である。三斎は光源院殿に顔が似ていた。

本願寺東泰院の父(教如)も光源院殿の落胤という。稲葉能登守(信通)は
三斎の孫である。

(光源院殿妾御宮。懐妊三月に幽斎は被下候ゆへ。三斎は実は光源院殿子
也。光源殿に顔似たり。本願寺東泰院父も。光源院落胤と云。稲葉能登守は
三斎の孫。)

――『武功雑記』


牧野成里、池田輝政の仲介により帰参

2017年06月07日 18:54

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/07(水) 02:05:06.33 ID:MvKnZtxw
牧野成里池田輝政の仲介により帰参


牧野伝蔵成里は十六歳で父の仇を討って当家(徳川家)を立ち退き
久留米侍従(長谷川)秀一や関白秀次に仕えた。
関白の事があってからは、石田三成に仕え関ヶ原の戦でも石田方にいたが
大敗したので兵十余人ばかりを引き連れ、大敵の中を切り抜けて
池田輝政の所に来たので、輝政は播州に(伝蔵を)伴って帰った。
そのまま輝政の所に身を寄せ、剃髪し一楽斎と名乗った。

(伝蔵が)播州で輝政に(徳川家への)帰参の事を乞うたが、年月を経ても
その沙汰がなかったので、ある時播州から伏見に参り輝政に向かって
「させもが露も年ふりし」*
などとほのめかせば、輝政は
「まだそのような折ではない。成里は先に帰国するように
 我もまた見はからうとしよう」
と言って慰めた。
その後(家康の)御夜話に侍する者に、(輝政は)この後折を見て
成里の事を言い出してくれと頼んだ。

ある夜(家康が)三遠にいらっしゃったときの話だが、いつもより機嫌よく
伺候している者の膝近くまで御座を進められ、近づかれて来られたので
牧野伝蔵と板倉四郎左衛門が縁故のあることに話が及んだときに
「伝蔵は今も永らえているようですよ」
と一人が申し上げた。
君(家康)はどうとも思っていないような様子だったので、みな固唾を呑んだ。

4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/08(木) 09:44:40.99 ID:49cEHkDI
この時輝政も御次の間の襖際に蹲って仰せを聞いていて
「(この上は加増された備前に代えても伝蔵の事を執り成さねば……)」
と思っていたが、(家康が)江戸の者を呼べと仰せられ
(近臣が)鵜殿兵庫重長がおりますと申したところ
「兵庫を江戸に遣わして
 『ここで勇士を一人掘り出したので差し上げる』と申せ」
と仰せられたので、輝政が喜びを堪えることが出来ず
御次の間から走り出て、上意に対してありがたいと感謝すると(家康は)
「成里は大剛の者なので永らえていて喜ばしく思ったのだ」
と仰せられたので、輝政は
「近日召し連れてまみえさせます」
と申せば
「我が会うまでもない。江戸に遣わし将軍家にまみえさせよ
 幸い明日は酒井忠世が井伊直政を連れて江戸に参るのでそれと同道させよ」
と仰せがあった。

輝政が御前を出ていこうとしたところ、近藤石見守秀用の一族の某が
輝政の袖を引き
「秀用の事もこの機会にお許しを願って下さい」
と言った。輝政は
「牧野の事だってかろうじてお許しをもらったのだぞ。秀用の進退など
 どうして気にされることがあるだろうか。我が力の及ぶ所ではない」
と拒めば
「あの方が今日ほど御機嫌のよいことはまたとないことでしょう
 ぜひともお執り成しになって下さい」
と言ったので、輝政が再び御前に出て申し上げると
すぐに恩免をもらえたので、輝政は言うまでもなく
秀用の喜びも尋常ではなかった。

かくして成里は江戸に参り、還俗して旧名に戻り三千石の新地を賜った。
のちに叙勲して伊予守と称したという。


――『東照宮御実紀』『武徳編年集成』

*百人一首に選ばれている藤原基俊の和歌
「契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり」の隠喩。
基俊が息子の官職を人に頼んだが得られなかったときに詠んだもの。