水野勝成さん、水野家出奔から蟹江城攻めまで

2018年07月05日 12:48

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/05(木) 09:38:54.04 ID:OR8ekP7n
父・惣兵衛(水野忠重)の家臣である富永半兵衛と申す者が、私のことを惣兵衛に告げ口し
その仲を散々にさせたため、あまりにも迷惑し無念に思い、牢人するのならこの者を斬ってから
牢人しようと心に決め、伊勢の桑名で手討ちにした。

それから私は牢人したのだが、伊勢長島に常真公(織田信雄)が居られたので、伺候して「奉公をしたい」
と申し上げたものの、これを知った惣兵衛より「倅を召し出すのなら、我々は味方をやめ在所に引く!」と
殊の外強く構いをしたため、(当時、小牧長久手の戦いが起こっていた)奉公することは出来なかった。

それから私は小牧山に参った。権現様(徳川家康)へ本多佐渡殿、高木筑後を通して『前々のごとく
召されますよう』と申し上げたが、常真の時と同じように、これを知った惣兵衛が構いを申し上げたため
これも成らなかった。

この時権現様は「そのうちに惣兵衛を説得しよう。それまでは私が存ぜぬ体にて隠れて居るように。」
そう仰られたため、小牧に居るわけにもならず、清須の須賀口の寺に滞在した。

その頃太閤様(羽柴秀吉)は美濃口に出陣という沙汰にて、惣兵衛と丹羽勘助は美濃口のだきという所へ
遣わされた。その時、前田の城主である前田与十郎が常真公を裏切り、滝川一益を蟹江城に引き入れた。
このため惣兵衛、丹羽勘助も急遽こちらに向かい、私も駆けつけた。
6月17日、滝川の子である滝川三九郎が東の大手より出撃した所を、横合いから突撃し、黒母衣で
金の半月の指物の者(その名失念いたし候)と鑓を合わせ、三鑓突いたが、すばやく門内に引き返し
門を閉めたため、討つこと出来なかった。その時私も二ヶ所鑓によって負傷した。

その後、権現様が前田の城の傍に作った堤に馬を立て休憩されていたところに伺候し、先の私の戦いを
詳しく申し上げた所「今に始まらぬ手柄である」と御感なされた。この時、傍に朝比奈左近も居たので、
その様子は左近が詳しく知っている。

(水野日向守覺書)

水野勝成さん、水野家出奔から蟹江城攻めまで


908 名前:sage[] 投稿日:2018/07/05(木) 17:50:05.82 ID:/LwZ2lnk
父親大激怒。

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/07(土) 16:33:36.73 ID:i9a9NQi9
どうも、最近の勝成研究では、富永半兵衛は佞臣だった、ということになっているらしい
https://blogs.yahoo.co.jp/tachanace/40076741.html

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/09(月) 14:06:32.67 ID:0EAhNFSl
佞臣という言葉がすでに新しくないというかなんというか

鷹に鶴を取らせる心

2018年07月04日 22:41

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/04(水) 21:45:13.29 ID:chNAFmln
本多佐渡守(正信)の一族に、本多加信という人が居た。

彼の物語に、ある時権現様(徳川家康)の御前に、あん信という唐人が招かれ、家康はこの唐人に、
唐船の事を詳しく尋ねた。そしてその後、このように言われた

「日本船が唐船と戦うときは、鷹に鶴を取らせる心が無ければ勝利することは出来ない。
例えば、千町の田地に鶴が多く有る時、これを取るために逸物の鷹を千羽求めても、鷹師が下手なら
鶴を取ることなど出来ない。

鷹師が上手ならば、予てからそのための訓練を行い、また当日の天気と風と距離を考え、息を合わせ
調子を合する時は、たとえ一羽であっても鶴を取ること疑いない。
進物の鷹が、どれほど心剛だとしても、その鷹の資質だけでは鶴を取ることは出来ないのだ。

唐船と日本船は、この鶴と鷹のようなものだ。日本船がどれだけ心剛だとしても、それだけでは
彼に勝つことは難しい。将が予てからその戦いを想定していることが必要なのだ。

(松永道齋聞書)

唐船に限らず、合戦すべてに必要な心構えでもあるのでしょうね。



54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/04(水) 22:20:04.42 ID:jbqGHTD4
まあ、基本的には日本船の性能が劣るからなあ。

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/05(木) 20:32:30.54 ID:Pi+ZurNJ
>>53
三浦按針ではなかろうか

週間ブログ拍手ランキング【06/28~07/04】

2018年07月04日 22:38

06/28~07/04のブログ拍手ランキングです!



日置の夜合戦 23

毛利輝元、自分の少年時代を振り返って 16

合戦というものは結局、気負い次第 15
なにやってんねん織田家 15

大坂御陣中御支度の事 12
天下で切支丹御法度となった事 10

大阪の陣の頃の流行り色々 9
池田恒興、息子に正室の実家を継がせる 9
大野修理襲撃事件のこと 6
伊藤武蔵守、馬験を拾う事 5



今週の1位はこちら!日置の夜合戦です!
この木造長政さん、後には関ヶ原で織田秀信を補佐し、敗北したにもかかわらず、福島正則から2万石で迎えられるなど、
高く評価された武将であり、決して凡庸な人ではありません。
そんな木造さんが仕掛けた罠にまんまとハマりながら、それを平然と覆せるのが、蒲生氏郷の、氏郷たる所なのでしょうね。
確かにチートキャラ呼ばわりされても仕方ありませんwこれで倒せないならどうやって倒せばいいのか。
武士という人たちの中には、稀に兵というより生きた機動兵器みたいな人が現れますが、氏郷さんも明らかにその一人ですね。
こんなのが暴れまわっていたのですから、戦国というのも本当に厄介な時代ですw

2位はこちら!毛利輝元、自分の少年時代を振り返ってです!
「その地位に見合うよう厳しく育てられた」といえばそれまでなのですが、輝元の場合それが良かったのかどうか。
そういう面があったから、もしかして輝元は、嫡子秀就に甘かったのかもしれません。
秀就は「毛利殿は生まれつき不調法」とまで言われ、本来一番の味方であるべき親類たちほぼ全てと緊張関係に
なってしまうような人で、逆にこういう人には厳しく躾けなきゃダメだったんじゃないかな、とも思ってしまいます。
彼の息子の綱広に至っては、家臣たちから押し込めをされてしまう始末で、実は毛利はお取り潰し寸前だったのですね。
しかしそこでお取り潰しを免れたのは、毛利輝元が関ヶ原の後家康からもらった安堵状のお陰が大きかったようで、
輝元も、結果的に子孫を救っているのだなあと、不思議な思いを感じたりします。
この書状も歴史を勉強するほど興味深く読める、そんな内容ですね。

今週管理人が気になった逸話はこちら!なにやってんねん織田家です!
「なにやってんねん織田家」といいつつ、そもそも信長の頃から織田家というのは、この手の芸事、イベント事に非常に
熱心な家風がある気がします。信長も若い頃女装して集団でダンスイベントやってたり、京に出てから家臣とともに競馬に
興じたり、例の「馬揃え」も、その延長線上の物なのでしょう。
そう考えると、信雄や有楽が新興の芸能に興じ、その家臣たちがテンションが上った挙げ句騒ぎを起こすというのも、
むしろ「織田家らしい」と考えるべきではないか。なんてことがふと頭をよぎったりしました。
まあ信長がこんな有様を見たら激怒はするでしょう。だけど彼の身内への甘さを考えると、最終的にはなあなあで
許していただろうなあ、とも。
「織田家の家風」について思いを馳せる事の出来る、そんな逸話だと思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

大阪の陣の頃の流行り色々

2018年07月03日 21:43

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/03(火) 21:31:20.04 ID:XBNxngP4
大阪の陣の頃、数寄屋道具に織部焼と言って、厚手にして青黒い薬をかけた茶碗を用いていた。
上下ともに、その道具にて円座を敷き、茶を点てることが流行した。

その頃、馬道具などは大小名から下々まで、紫、または紅の大房の尻懸が流行っていた。
刀脇差の鞘は、のし付きの金銀、又は朱鞘などが用いられていた

(長澤聞書)

大阪の陣の頃の流行り色々


日置の夜合戦

2018年07月02日 18:38

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 17:32:24.99 ID:+lDXEXb7
蒲生氏郷が羽柴秀吉より勢州松島を拝領した頃は、伊勢に限らず諸国未だ静謐成らなず、
小牧・長久手の戦いが始まっていた。

氏郷は松島に入部すると、先ず領地の仕置を優先し日置へ押し寄せようという気持ちは全く無かったにも
関わらず、織田信雄の家臣である木造左衛門佐(長政)の支配する日置方面からは、氏郷の領内へ夜な夜な
人数が出て苅田などを行った。
氏郷はこれを聞くと「哀れ足長にも出てきたか。討ち果たしてやろう。」と、方々に物聞(見張り)を
置き、苅田をする者たちが侵入してくれば鉄砲を撃ち、これを合図に松島より出撃しこれを討つ決まりとし、
これにより度々侵入者を撃退した。この時、氏郷は早馬を以って真っ先に乗り懸かった。
これを見た木造長政は、謀略によって氏郷を討ち取ろうと工夫を考えた。

9月15日の夜、木造長政勢は氏郷の領分である会原という場所に侵入した。この時、木造の家中において
物頭をし、発言権を持つほどの兵は残らずこの会原周辺のよき場所に伏兵として起き、氏郷が駆けてくれば
即座に討ち取れる準備をさせ、あとはいつものように苅田をさせた。

これに蒲生の見張りが気づき鉄砲を撃って知らせ、この音を聞き松島より蒲生氏郷が駆けつけた。
その夜は月が冴えて、まるで日中のような明るさであったが、氏郷はそこに真っ先に駆けつけ、
その後に早馬を持つ兵たち7,8人が続いた。彼らが入ってくると伏兵たちが一斉に起き上がり、
氏郷たちを包囲し攻めた。この時は流石に危うく見えたが、氏郷は馬の達者でありその騎馬も逸物で、
四角八面に懸け破り、突き倒しては駆け回り、乗り散らし乗り返し、その戦いにおいて蒲生方の
外池長吉、黒川ノ西、田中新平などと言った者たちは散々に戦い討ち死にした。
小姓の姿であった外池孫左衛門という者は氏郷の矢面に立ち塞がり防戦した。
この時、氏郷の銀の鯰尾兜に銃弾3つが当たり、鎧にも傷数ヶ所があったが、その身には薄手すら
負っていなかった。

このようなうちに、氏郷勢が追々駆けつけ、騎馬のもの7,80騎となると、氏郷は敵の少ない所へ
そのまま馬を乗り入れ東西南北に懸け破り蹴散らし、敗北した者は手下に討ち取らせ自身は追い打ちをかけ
日置の城下まで追い詰め、木造家中にて物頭を勤める屈強の兵30余人、その他甲冑をつけた者36,
雑兵数多を討ち取り勝鬨を作り、日置の城下から10町ばかり引き取った場所に陣を取った。
これにより、木造長政は在城を諦め、翌日詫び言をし命を助けることで城より退去した。

世間において「日置の夜合戦」と呼ばれるのがこれである。

(蒲生氏鄕記)

敵の計略どおり単騎突撃してまんまと罠にハマったけれども特に何ということもない氏郷であった。



48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 20:20:12.31 ID:rLUgrkrt
連邦のモビルスーツか

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 20:33:58.80 ID:rorhF+dI
え-、なにそのチート…

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 20:39:34.50 ID:AoEQtwek
秀吉「氏郷が活躍するのは珍しいことではないから」

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/03(火) 11:07:03.37 ID:MtOOE3S3
>>47
花の慶次かな?漫画のキャラみたいな活躍で草

合戦というものは結局、気負い次第

2018年07月01日 21:07

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/01(日) 00:49:51.09 ID:QOgqRimO
大阪の陣の時、権現様(徳川家康)はこのように仰った
「何度やっても本当に理解できるものではないが、しかし合戦というものは結局、気負い次第なのだ。
今回ならば、秀頼と組み合い、最後に上になった者が勝つということだ。」

これ以外に、大阪の陣に置いて軍法に関する仰せ出は無かったという。

(諸士軍談)



43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/01(日) 13:56:04.98 ID:xUOsaneP
最後は気合い。

大坂御陣中御支度の事

2018年07月01日 21:07

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/01(日) 20:13:07.83 ID:xUOsaneP
大坂御陣中御支度の事

 大坂冬の陣では、諸大名の軍勢に兵糧を給与した。およそ三十万人、一日に千五百石。
遠国の兵には倍を支給した。夏の陣では、家康は、松下浄慶を呼び出し、大坂の賄支度は、
膳米五升、干鯛一枚、味噌、鰹節、香物、少しばかりを用意せよ。それ以上はいらないと
仰せられた。そのため台所用品は、長持一棹のみで事足りたという。

(常山紀談)

 家康ネタを重ねる。
 夏の陣は数日で済むと、最初から見通していたわけか。京都が出撃拠点だから、そのく
らいで充分事足りたのかな。一日一升食べても、5日分。

 おかずが足りないような気がするけど。具なし味噌汁と干鯛一かけら、漬物で山ほどの
飯を食う。天下人として、ものすごい質素だな。それとも、おかずが誰かが献上するのだ
ろうか。



45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/01(日) 22:01:36.50 ID:ub6eO5wf
鰹節って江戸時代に入ってからだよね?
少なくとも大坂の陣の頃はポピュラーな食べ物じゃない筈

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/01(日) 23:03:38.98 ID:syCr0qO5
>>45
花鰹なら15世紀末の包丁書に出てきてる
それのことじゃないのかな
でなければようやく製法が編み出されたいまの鰹節に近いもの

大野修理襲撃事件のこと

2018年06月30日 21:12

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 22:51:44.49 ID:d3bXhUj1
大阪冬の陣の講和の後、大野修理が御城より帰り、内御門の脇にて小便をして居た。
ここに30ばかりの、撫で付けにした小紋の袷を着て、一尺三寸ばかりの脇差を持った男が、
大野の60人ばかりの供の者に紛れていた。

その時は夜の五つ時分(午後八時頃)であっただろうか、男は大野に飛びかかった。
脇差が大野の身に刺さったまま、男は駆け逃げた。
闇夜であったので大野の供の者たちは方々を探したが男は見つからなかった。
しかし大野の小姓が、焼き崩された片桐且元の屋敷跡の、石垣の際にて男に追いつき、肩先から
一太刀で討ち留めた。
この小姓は後で豊臣秀頼より、過分のご褒美を下されたという。

そして、かの討ち取られた男についてだが、大阪城より、金子五十枚を賞金としてかの男の
身元を知る者は訴えるよう属託したところ、翌日には二人のものが訴え出て金子を受け取った。
すると本町に住む牢人が、家に火をかけ自害するということが置きた。

後に下々の者は、この事件は片桐且元が起こした事だと申していた。

(長澤聞書)

大野治長襲撃事件のお話。一般には治長の弟の大野治房などによる襲撃と言われますが、大阪では
片桐且元の仕業」という噂が流れていたのですね。



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 23:29:33.60 ID:UkJDX4f0
へうげものに出た大野兄襲撃エピソードって元ネタがあったんだな

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 11:53:43.89 ID:FfwUYCBs
死人に口なしってのが、暗殺事件の基本だわな。

伊藤武蔵守、馬験を拾う事

2018年06月30日 21:12

899 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/06/30(土) 12:04:43.19 ID:FfwUYCBs
伊藤武蔵守、馬験を拾う事

同じ日秀頼は楼門に打出でて、灑金を緋威にしたる物具著て、太閤の時より伝えられし金
の切っさき二十本、茜染の吹貫十本、玳瑁の千本槍を並べたて、太平楽と名付けたる七寸
有りし黒の馬引立てられし所に、先陣皆敗北しけると聞こえければ、今は是迄なり、敵の
中に駈入り討死せん、と進まれしを、速水時之、今打って出たりとも勝利候まじ、疾く本
丸に入らせ給え、とて引返す。斯りければ士卒散々になりて馬標を棄てたりしに、伊藤武
蔵守遅れて帰りは入りしに、是を見て、朝鮮迄聞こえし豊臣家の馬標を敵拾いなば、大坂
城中に男子は一人も無きと日本国中の物笑いとならん、と言う儘に、手づから振りかたか
けて、城中千畳敷に帰り入りけり。

(常山紀談)

 大坂夏の陣の終局場面、5月7日の話。
 数千の秀頼馬廻り衆が、戦わずして壊乱か。最終的にほとんどが討死したとされるが、どのように戦ったのだろう。

 玳瑁の槍千本って、ものすごく高価そう。キンキラキンの豊臣家らしい武装。

※玳瑁(タイマイ)


毛利輝元、自分の少年時代を振り返って

2018年06月30日 21:10

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 14:43:23.66 ID:wJckDjva
毛利輝元、自分の少年時代を振り返って


以下は毛利輝元が、毛利秀元と福原広俊を通して嫡男の秀就(数えで19才)に
訓戒させるため、慶長18年(1613年)12月に送った書状。
長いので意訳&抜粋。


私が長門(秀就)の行儀に対して堅く申し付けてはいないのだと、世上で
言われています。(実際行儀はよくないので)仕方がないことではありますが
私は知音の上方衆から、(秀就が)領国に帰ると手荒く居丈高に物事を申し付け
『近年の毛利家中は申し付け様が緩いのでよくない。
 手荒く申すようにすれば人が恐れるだろう』
などと申していると聞きました。

私にも少々荒く申し付けた方が若い者らしく、人も(立派に思って)驚くと
下々の者が申したことがあり、それを真に受けてそのように振る舞っていたときが
ありました。しかしそれでは下々の者が迷惑し憎むようになるのでよくないと
聞いた後はそれに合点して、その後はよい振る舞いをするようになりました。
総じて若い間は、礼儀も善悪も全くないものなのです。

まぁ私も立派な人間ではありませんから、申すようなことはありません。
十一で親(隆元)と離れ、十三で嶋根陣(月山富田城の戦い)に行き
日頼様(元就)の側に詰めるようになってからは、私は十九になるまで、お側を
離れず御奉公したものの、それでも立派な人間になることは出来ませんでした。
良くも悪くも日頼様の御意を窺って、それが親子の間での最上の振る舞いだと
思っていないと仕えていくことは出来なかったのです。

日頼様の(私への)御折檻は内々に人目を憚ったものでしたが、今も存じている者が
いるはずなので、尋ねてみてください。そういう訳なので私はこの年になっても
世上を敬い、当世の利根才覚がないので大事大事と朝夕考えながら日々を過ごして
国主などになりました。今時の風潮とは違うようですが(このような有様なので)
一つとして私は(秀就に)毛頭申すことなどありません。


――『毛利家文書 一一五七号』



901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 15:08:18.32 ID:0QCKxBzw
>>900
謙遜じゃなくてマジなのがせつないというかなんというか…

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 16:38:51.60 ID:WAV9ogJV
なんか、尻すぼみ感がすごいな。輝元自身が、シオシオとなっていく感じが…

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 17:46:36.57 ID:v37hq9s4
偉大な祖父や叔父からひどい折檻受けて育てばなぁ…。
優秀すぎたせいで、そこそこの出来の子供の養育方法わからなかったのかもしれない。

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 19:49:43.61 ID:Gy5MCzvM
アレらが殿上人のような存在だと自分を卑下してイエスマンで有り続けるしかない
次期当主がそれだと困るから折檻されるのだが思うようにやっても結果が伴わないので結局折檻される
こうして歪んでいき結果傾国したのであった

905 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/01(日) 21:47:16.21 ID:X9OW92xd
> それでも立派な人間になることは出来ませんでした。
> 良くも悪くも日頼様の御意を窺って、それが親子の間での最上の振る舞いだと
> 思っていないと仕えていくことは出来なかったのです。

隆元も、元就に対して同じような気持ちだったんじゃないかな。せつないなあ……。

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 12:25:56.88 ID:bR/a18wF
>>900
自分を虎だ龍だと思い込んでる奴よりは余程好感が持てる

なにやってんねん織田家

2018年06月29日 18:16

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 19:52:50.59 ID:uDHlqSWM
大阪の陣が終わった後、京都ではもっぱら女能が流行した。

その頃、吉野という傾城の太夫が四条河原にて能を興行していたが、これを織田上心(常真・信雄)が
お忍びで見物をしていたところに、織田宇楽(有楽)も見物に来ており、ここで常真の衆と有楽の衆が
喧嘩と成った。
これにより双方多くの侍が死亡し、また能舞台も完全に破壊されるという、殊の外大きな騒動と成った。

この事件があったため、女能は固く禁止と成った。

(長澤聞書)

アイドルのライブで乱闘騒ぎ起こしたようなものか。なにやってんねん織田家



890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 20:36:11.72 ID:z4iy15Aq
>>889
>能舞台も完全に破壊される
とばっちりにもほどがあるw

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 21:02:27.51 ID:7FJJQwwj
喧嘩という名の局地戦。

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 22:20:16.12 ID:/ZvrGPKO
女能って言えばその芸女は遊女も兼ねてたから、きっとアフター権利を巡って争ったんだろうな

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 12:59:47.65 ID:aCJ1kYtX
阿国歌舞伎もレズビアンショーみたいなものだったしな

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 13:27:21.37 ID:5kUak/hA
あら^~

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 19:45:30.05 ID:Fy+Q12xR
どこからそうなるんえ?

池田恒興、息子に正室の実家を継がせる

2018年06月28日 16:27

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 00:06:56.30 ID:wWSPXeF5
池田恒興、息子に正室の実家を継がせる


尾張知多郡にあった木田城の城主の荒尾氏は、在原業平の末裔を称し
室町幕府の奉公衆にも名を連ねる国人領主であった。
荒尾空善の時代には織田家に仕えるようになっていたが、今川義元が
尾張に侵攻してきたときに、空善は嫡男のいないまま討死してしまう。

仕方なく、同じ知多郡にある大野城主の佐治左馬允の弟(母が荒尾氏の縁者)に
空善の娘を娶わせて婿養子扱いとし、荒尾善次と名乗らせ城主を継がせた。
だが善次は桶狭間の戦いのときに、今川方に投降した責を負い隠居したため
その後は嫡男である善久が、木田城主となっていた。

善久は合戦の前に、池田恒興に嫁いでいた姉(善応院)のもとを訪れて
「某には子供がいないので、合戦で勇気が出ません」
と言ったので、善応院
「私には子供が多くいますから、古新(輝政)をそなたの養子にやりましょう」
と仰せられた。
そうして、その後の三方ヶ原の戦いで善久は討死した。

善久には、17才の小作(成房)や次郎作(隆重)*という弟たちがいたので
荒尾家の家老の冨田和泉や空善の弟である荒尾甚左衛門は
「荒尾の血脈を家督に立てるべし」
と主張したが、善応院
「あらかじめ約束したのだし、古新を立てるべきでしょう」
と仰せられて、和泉と甚左衛門に同心しなかった。

このことから恒興が信長公に相談したところ、「勝手次第にすべし」と
差図があったため、恒興は甚左衛門の方に出向いた。
甚左衛門がもてなそうとしたところを、家臣の堀甚兵衛がむずと組み付き
恒興はそのまま甚左衛門を刺し殺した。
堀甚兵衛はこのとき少し手傷を負ったが、加増され七百石を賜ったという。

和泉や他の家来は伊木忠次の方に招いて討取り、小作、次郎作も人質に
取ってしまったため、荒尾家中ではもはや異議は出ず、天正元年9月7日に
古新は信長公から荒尾家の領地を安堵され、10才にして木田城主となった。


――『池田家履歴略記』

* その後成房は善次と共に佐治家に引っ込み、隆重はそのまま池田家臣となる。
 恒興が摂津を領するようになると、成房の方も恒興に召し出された。
 子孫は鳥取藩家老としてそれぞれ米子1万5000石と倉吉1万2000石を領した。



888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 14:39:10.59 ID:7FJJQwwj
見事な御家乗っ取り。エグいなあ。

天下で切支丹御法度となった事

2018年06月27日 19:18

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/27(水) 13:58:19.61 ID:Py8YpCep
天下で切支丹が御法度となった事について、それは板倉伊賀守(勝重)が京都所司代に成った頃のこと、
五条松原通を稲荷の神輿が渡っていた所、柳の馬場の辻において、神輿に半弓が射掛けられた。
これにより神輿の渡りは出来なくなってしまい、この事は板倉伊賀守に報告された。

伊賀守は早速配下を数多遣わしてこれを捜査した所、犯人が切支丹宗旨の者だと判明した。
そしてこの事件以降、切支丹が御法度と成ったのである。

三条五条の橋に、切支丹の者たちを竹のす巻きにして欄干にもたせ掛けて置き、宗旨変えを誓う者は赦された。
宗旨を変えない者たちは、その後七条河原にて70人が火炙りを仰せ付けられた。
以降、切支丹は厳重に禁止された。

(長澤聞書)



884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/27(水) 15:07:23.54 ID:tCs7j6lY
キリシタンって普通に他宗を攻撃する排他的なカルト教団だし
弾圧されるのも残当

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/27(水) 15:22:46.48 ID:H7tae2x0
キリスト教が長崎でどんだけ破壊と殺戮やったか知ると、そりゃ報復も苛烈になるわって思う
松倉勝家がどうであろうと、キリスト教を旗印にして嫌がる村まで道連れに軍事反乱まで起こしてるし

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/27(水) 17:49:50.02 ID:Ys4oUs31
ほんまかいなというエピソードだけど・・・

週間ブログ拍手ランキング【06/21~/27】

2018年06月27日 19:13

06/21~/27のブログ拍手ランキングです!


敵の後にただ一人 14

大阪方の人々 13

大阪の陣の頃の世間の風潮 12
松野亀右衛門鉄砲修練の事 11
軍法は、聖人賢人の作法 10

我は常に軍旅の事を 9
大阪冬の陣の和睦の時 9
吹かねど花は散るものを 9
陣佐右衛門一揆の長四郎が首を取る事 7


今週の1位はこちら!敵の後にただ一人です!
蒲生氏郷が北条勢の夜襲に単騎で、しかもろくな武装もせずに夜襲勢の後ろに回り壊乱させたというお話です。
いかにも単騎突撃大好きな蒲生氏郷らしいお話ですが、このように線機を鋭敏に感じられるからこそ、単騎突撃を
繰り返しても生き残り、また家臣たちも「銀の鯰尾兜」の後をついていったのでしょう。
そう考えると、この逸話も蒲生氏郷の武将としての本質を描いているのかも知れないな、なんてことを思いました。

2位はこちら!大阪方の人々です!
長沢九郎兵衛という、おそらくは比較的近くで観察できた立場の人による大阪の陣での城の中の人々についての印象です。
やはり目につくのは秀頼が「世に無いお太り」という所で、この「太る」を同時代的にどういう印象として捉えるか、というのも
なかなか難しいですね。
確かに太い=がっしりしている、という意味もありますし、また太っていることがその裕福を表していた事もあったようです。
ただ仏教系の縁起を描いた絵画などを見ると、太っていることは貧欲や怠惰を象徴している、という意識もあったようです。
それだけに「世に無いお太り」というのも、色々な感慨を込めているのじゃないかな、なんて感じたりしました。
後藤又兵衛の「百人頭という風情」というのは、高級将校と言うより、兵士に密着する実戦部隊の部隊長のような雰囲気が
あった、という事かなと解釈しております。

今週管理人が気になった逸話はこちら!軍法は、聖人賢人の作法です!
これは直後の切り返しがうまいw
後藤又兵衛と言えばやはり黒田長政との関係を思い出しますね。創作物などでは、黒田官兵衛の下、長政と又兵衛は兄弟の
ように育てられたなんて描かれたりしますが、どうも実際には官兵衛は又兵衛に対してほぼ無関心で、彼は長政によって
見出され出立した家臣だったようです。だからこその長政による奉公構だった、と言えるのでしょう。
逆に、この又兵衛による一種の「大将論」から、彼が自分を引き立てた長政の下から出奔した原因を想像するのも、
面白いかも知れませんね。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

大阪の陣の頃の世間の風潮

2018年06月26日 10:34

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/25(月) 20:34:10.90 ID:X2M4avTS
・その頃(大阪の陣当時)、弓で的を射ることが流行った。京において勧進(興行)されたのは
「射ながし」と言って、さし矢に星をかけ、弓場の作法も無しに射た。
又は、世間で兵庫付と言って、弓場の付け様、檜垣の塀の切り様、矢代の気味、前弓後弓の次第、
星の射上垣破という、先例よりの作法を吟味して射た。これは関白様が弓を好む方々の射礼を
お聞きになり、そのうち兵庫付の作法が良いと言われたことによる。

・この頃の流行り道具(武器)は鍵鑓で、上下ともに用い、10人の内8,9人はこれを持ち鑓としていた。
対の鑓はおおかた二間半から三間柄(約4.5~5.5メートル)であった。

・その頃侍も町人も残らず茶の湯が流行り、円座を敷いて炒り大豆を拵え、茶の立て様や呑み様を
稽古した。当時茶の湯の上手と呼ばれたのは、古田織部、小堀遠州、桑山左近、永井信濃守であった。

・大阪籠城の間、世間では米の値段が17,8匁くらいであったが(1俵当たりか)、大阪では高騰し、
10日ほど130匁まで騰った事もあった。

・その頃、侍または町人百姓まで、牢人といえば隠棲している者であっても頼もしく思い、一度も
会ったことがない者でも近づきと成り肝煎りとなったものであった。

・その頃は、奉公人を召し抱える時も、その人物を万事吟味し、品々良き者を召し抱えるよう
御内の者に仰せ付けていた。意図的に贔屓するようなことは出来なかった。召し使わす者も
その先祖まで良く良く吟味された。

(長澤聞書)

大阪の陣の頃の世間の風潮について



40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/25(月) 22:36:19.51 ID:yfM2uK9e
武器にも流行り廃りがあるんか。

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/26(火) 21:45:36.17 ID:WN+xHaZ/
鍵槍って十手みたいな補助部分が相手の武器引っ掛けるのに便利そうではあるね

軍法は、聖人賢人の作法

2018年06月25日 16:53

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/24(日) 21:54:29.29 ID:AYWzaaZT
後藤又兵衛は常にこう話していた
「軍法は、聖人賢人の作法であり、常によく行儀作法をいたし、大将たる人は臣に慈悲深く、
欲を浅く士の吟味よく召し、もし戦が起ころうとしたなら、すぐにその備を作れるように、
よく注意しておくものだと伝わっている。」

(長澤聞書)



38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/25(月) 14:13:22.54 ID:121ckDlk
よく吟味した上で奉公構にしました
(長政)

我は常に軍旅の事を

2018年06月24日 14:45

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/23(土) 21:19:53.04 ID:4kKiA17m
我は常に軍旅の事を


(池田輝政が)あるとき厠に入ったかと思うと、けしからぬ声が聞こえてきたので
お側の人々が驚いて厠に走り入ると、卿(輝政)は笑って
「我は常に軍旅の事を考えているのだが、今も図に当たったなと思ったら
 つい声が出てしまった。怪しまなくていいぞ。沙汰なし沙汰なし」
と仰せられたと、老人が語り伝えている。


――『有斐録』



36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/23(土) 23:52:48.83 ID:PEJlXB4/
・・・どんな声出したんだよ。側仕えが駆け込んでくるって。

大阪冬の陣の和睦の時

2018年06月24日 14:44

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/24(日) 00:07:50.74 ID:AYWzaaZT
大阪冬の陣の和睦の時、大阪城内では、城の弾薬、兵糧米などが尽きようとしているので、
豊臣秀頼一人が腹を切る事で、籠城衆を助けるのだと取り沙汰された。
そして、例え兵粮が多く有ったのとしても、大阪城から5里隔てた幕府方の附城4ヶ所ほどに
それぞれに大名衆を置き、結局兵糧攻めにされるのだとも言われた。

その時城内より遣いとして参ったのは松の丸殿孝蔵主であったという。
大阪章(ふみ)と申すのは文英清韓長老が書いたものだという。

(長澤聞書)

冬の陣講和の時に、大阪城内で言われていたこと



879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/24(日) 15:54:28.25 ID:u7rojT8f
結局、遅かれ早かれだったな。

陣佐右衛門一揆の長四郎が首を取る事

2018年06月23日 18:42

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 17:15:43.68 ID:K53k58Oq
陣佐右衛門一揆の長四郎が首を取る事

一揆の長、四郎が首を細川家の足軽陣佐右衛門取りけり。二の丸にて鉄砲に中り、倒れし
者の首を斬りしに、忠利前髪有る首を選り出させ、鞭にて彼首を指し、四郎が首とも覚し
きに、誰か見知りたる、と問う。須佐見権之允、四年以前に四郎を召使いし事の候。紛い
無き四郎なり。左の耳の下に瘤の候。是其証なり、とて生捕りたる四郎が母に見すれば、
吾子なり、とて泣倒れしかば、忠利使を立てて首を石谷十蔵の方に送られけり。後陣に千
石の禄を与えらる。

(常山紀談)

 誰か分かって取ったわけではないのだな。二の丸で銃弾に当たって倒れていたというの
が不審。吉村豊雄『天草四郎の正体」によれば、量産型天草四郎が一杯いたそうだが。

 千石の俸禄を得ているにしては、その後、細川家の家臣団に陣氏って見かけないような。
どうなったんだろう。


大阪方の人々

2018年06月22日 10:32

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 09:17:50.00 ID:+Vch1/Y2
豊臣秀頼公は、大阪冬の陣のおりには御歳23であった。世の中に無いほどのお太りであった。
木村長門も同年である。
大野修理はその頃、47,8くらいに見えた。
後藤又兵衛は60あまりに見えた。男ぶりは百人頭という風情の人であった。
真田左衛門佐は44,5くらいに見えた。額に2,3寸ほどの傷跡があり、小兵なる人であった。
秀頼の御子8歳と長宗我部の二人は戦後生け捕られ、京にて御成敗された。

(長澤聞書)

大阪の陣で後藤又兵衛に従った長沢九郎兵衛による、大阪方の人々の印象



32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 10:47:30.98 ID:K53k58Oq
何でそんなに太っちゃったんだろう・・・

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 12:11:36.59 ID:tpZc7hd2
蒲鉾が大好きだったんだよね

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 16:21:57.96 ID:L0H/Woxq
北の将軍様もお太りになってるよな