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勝頼が兵を用いることの意味を

2019年03月15日 21:08

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/14(木) 19:35:17.78 ID:NtugCGIo
勝頼の代に至って、武田の威が衰えたのは、勝頼が兵を用いることの意味を理解していなかったためである。
勝頼は下條越前(信氏もしくは信正の事か)に信濃飯田城を守らせていた。士卒合わせて4,500人の
頭であった。

織田信忠がこれを攻めるという時、勝頼は小幡因幡(信定か)に命じてその加勢とした、因幡は小幡尾張(信貞)
の嗣子にて、五百騎の将である。この加勢の時も、二百騎あまり、総軍二千ばかりの人数であった。
そして小幡因幡は大身であるがゆえに下條越前の下知を受けず、下條越前は本城の守将である故に
小幡因幡の指図を用いず、互いに不和にして。因幡は自分の従兵を引いて遂に城を出たため、その騒動により
守備は崩壊し、士卒は半ば戦う前に離散して、飯田の城は陥ちたという。

(武将感状記)



789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/14(木) 21:38:17.40 ID:/7It3Fsz
>>788
実際は保科正直ってのが逃亡したらしいけど

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/15(金) 17:06:50.69 ID:PU3Ax35N
さすが逃げ弾正w

791 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/03/15(金) 23:01:53.64 ID:Rrpezbrm
>>790
高坂昌信「え?もう亡きお屋形様の所逝ってるんですけど?」

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/17(日) 18:01:12.52 ID:5akfMxjR
槍を合わせずに逃げてる弾正さん

793 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/03/18(月) 09:51:18.67 ID:eWwD9w/z
お屋形様の槍を貰いにあの世へ逃げ弾正

池田輝政、晩年に松平氏を賜る

2019年03月14日 16:25

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 22:48:15.34 ID:F5e/KcLN
池田輝政、晩年に松平氏を賜る


慶長16年(1611年)3月に池田輝政は、二条城での家康と秀頼の会見に同席したが
次の年の1月に中風を発症し、3月には秀忠が輝政の嫡男の利隆に連日書状を送るほどの重態となった。
8月に快復した輝政は、その報告のために13日には駿府で家康に、23日には江戸で秀忠に拝謁した。

快気祝いで、松平氏を賜り参議に推薦されることとなった輝政は、9月4日には再び駿府で
家康に拝謁し、山名禅高、藤堂高虎が茶会の接伴役をし、家康から歓待を受けた。
17日に輝政は朝廷に参内し、正式に松平氏を称して参議に任じられた。
利隆のほか、家康の外孫にあたる忠継、忠雄は元服と同時に松平氏の下賜を既に受けていたという。
その後姫路へと帰ってきた輝政は、毛利輝元に書状を送っている。


わざと啓上します。先ごろ東から帰ってきました。(祝いの)御使者のこと光栄に存じます。
愚礼になりますが早々に、蝋燭千丁、綿百把ならびに鹿毛の馬一疋を進覧させます。
詳しくは使者に口上を申し含めますので事細かには述べません。恐惶謹言。

                    松   三左
  後十月廿六日             (輝政印判)
   宗瑞様(毛利輝元)人々御中
 
 未だに手が震えているので、勝手ながら印判で失礼します。以上。

――『毛利氏四代実録 考証論断』

年が明けて慶長18年、中風が再発した輝政は1月25日に数え50才で亡くなった。


【雑談】ホームシックにかかって脱走する兵士が後を絶たないから

2019年03月13日 19:18

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 08:25:30.39 ID:SrppcBwW
柴田みてもわかるように北國勢は冬は領国に籠るから春夏に掠奪が出来なければジリ貧だよ

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 11:25:04.75 ID:Y8BGkzOR
>>776
冬に領国へ籠るとは限らないでしょ
謙信なんか通行できるうちに越山して夏に越後へ戻るし

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/12(火) 18:11:16.87 ID:mHf2sfph
>>777
ホームシックにかかって脱走する兵士が後を絶たないから見せしめに脱走兵を残酷に殺したっていうのにな

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/12(火) 18:14:24.11 ID:I98YknG5
>>782
その逸話聞きたいな

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/12(火) 22:08:20.07 ID:9iofhsJA
立花道雪なら
まとめの876
立花道雪と軍令違反・悪い話

でそういう話があったけど

その鳩を鉄砲を以て撃ち落とし

2019年03月13日 19:14

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 18:14:59.38 ID:e+3JSm8n
武田信玄が信濃に発向する時、鳩一羽が庭の前の樹上に来た。人々はこれを見て、口々にささやいて
喜ぶ色があった。信玄がその故を問うと

「鳩がこの樹の上に来る時、合戦大勝にあらざる事はありません。これは御吉例です」

これを聞くや信玄は、その鳩を鉄砲を以て撃ち落とし、衆の惑いを解いた。
鳩がもし来ない時は、人々に結果に対して疑いくじける心が生まれ、戦が危うくなることを
慮ったのである。

(武将感状記)



718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 20:05:54.14 ID:/4hQLrGf
>>717
文章だと一行で終わらせてるが、話聞いてから鉄砲一式持ってこさせて発射するまでどれくらいかかるんだ?

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 20:14:20.74 ID:ZvDr02Zm
「これは吉例です」「今日は凶日です」と言われたら、それを敢えて否定しにかかるエピソードは明智光秀や羽柴秀吉にもあったね

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 22:28:50.52 ID:VWiLU7G0
>>717
太閤「鳩が来ないなら来させてみせよう」
権現「鳩が来ないなら来るまで待とう」
ノブ「やっぱり鳩が来ないなら○す」

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/14(木) 10:26:52.61 ID:FIxJ6/9L
ノブは桶狭間の時わざと神社で鳥放たせて吉兆扱いにしたんでは

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/14(木) 10:46:03.82 ID:fpOp7GYF
上洛した時サクラ使ってる以上ありえん話ではないが
ノッブくらいになると咄嗟に何か見つけてアドリブで周囲を納得させられるだろう

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/15(金) 17:09:20.79 ID:PU3Ax35N
鳩殺して負けたら神の使い殺してバチ当たったと言われそう
そんな逸話何処にでも転がってるよな

週間ブログ拍手ランキング【03/07~/13】

2019年03月13日 19:12

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「敵に塩を送る」異説 12

牧村家督顛末 11

斉藤山城守は、先手の兵士に三間柄の直鑓を持たせ 9
中村はそれに逢迎 9

例の猩々緋よ、唐冠よ 7
故に良将はかならず軍を監督し 7

臆病神がいつの間に憑いたのか 5
まことに良将が軍を統べる故なり 5
この二つは最も名誉とされる事である 5


今週の1位はこちら!「敵に塩を送る」異説です!
上杉謙信が信玄に塩を送ったのは、東方での争いを膠着させ、自身の北陸経営を有利に運ぶため。という内容ですね。
これはおそらく、謙信が後年、結果的に関東からほぼ追われ、北陸の経略に軸足を移した事を、逆算した発想なのでしょう。
塩留めと言いますが、実際には多くの軍需物資を含む物品の流入を阻止する貿易封鎖であり、当時の用語としては「荷留」と
呼ばれていたようです。
上杉謙信と武田信玄は、不倶戴天の敵のように言われがちではありますが、謙信にとっての実際の主敵は終始
小田原北条氏であり、武田に対しては是々非々という態度を感じますね。実際足利義昭による甲越和議を受け入れたり
していますし(しかも越相同盟の裏でw)
謙信という人も、今後研究が進んでいくと、だいぶイメージが変わるんだろうな。なんてことを考えていたりします。

2位はこちら!牧村家督顛末です!
これはまた暗澹たる内容で…。確かに稲葉家らしい、といえばらしいお話ですw
ツイッターで言われて気が付きましたが、この牛之助に刺客を放って殺した稲葉道通、妻があの日根野盛就の娘なんですよね。
稲葉道通も甥の暗殺後あえなく死に、伊勢田丸藩も改易されることを考えると、関わる人たち皆亡ぶという日根野盛就の呪いは
ここにもあったか!なんてことを感じさせるお話でもありますねw

今週管理人が気になった逸話はこちら!斉藤山城守は、先手の兵士に三間柄の直鑓を持たせ です!
長鑓と言うと織田信長が有名ですね。信長公記には少年時代既に長鑓を使うべきと考えていた、とあり、また畿内では、
三好がやはり長鑓によって合戦での強さを顕した、なんて逸話もあります。現代では戦国時代の武器といえば鉄砲と
捉えられがちですが、長槍もまた、合戦の様相を大きく変えた武器であると、当時から認識されていたのでしょう。
この逸話も、そういう長鑓評価の流れの中にある話であると思います。
昔の人も、戦国期急激に膨張した勢力に対し、その膨張の合理的理由を求めたのでしょう。そしてその理由の一つとして、
長鑓の活用というものが、納得の行く理屈であったのでしょう。
こういったお話は、そのくらいの意識で読むのが良いかな、なんてことを思います。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

臆病神がいつの間に憑いたのか

2019年03月12日 13:33

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/12(火) 08:03:24.12 ID:dhtldici
久世三四郎(広宣)は禄五千石、鉄砲百挺、与力三十騎の頭であった。
元は榊原式部大輔康政の従者であったが(実際には大須賀康高の組下)、旗本に召し出された。

大阪の陣の折、「榊原遠江守康勝は攻口の仕寄りはどのように付けているか、向かいの土手を
取れそうか見て参るように」との命を受け、御使として遣わされた。

久世が馳せ向ってこれを見た所、榊原家の家臣、武功の者共は、久世が今直参と成ったことを心に妬み、
「そこは敵からの鉄砲がきびしく射ち込まれており、危ない故、すぐに帰られよ。」
と言った。

久世は静かに乗り廻って
「昔は榊原家といえば、城方と寄せ手の旗先が行き逢うほど近くまで仕寄をしたものだ。
今のこれは、その間が未だ遠すぎないかと危ぶむ。私が昨今まで、貴殿などと肩を並べ膝を組んで
親しんでいた頃には、こんな事はなかったのに、臆病神がいつの間に憑いたのか。
旗本の者たちがこれを聞けばどう思うか。」

こう言ったところ、これに答える者はなかった。

(武将感状記)



715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/12(火) 10:21:29.40 ID:2UbgfmCZ
15年たてばこうなる

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/12(火) 18:22:28.97 ID:K/7K7qpL
榊原康政って秀忠の軍監だから、小田原征伐以降はまともに戦ってないんじゃない?

例の猩々緋よ、唐冠よ

2019年03月11日 17:14

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/11(月) 09:25:27.29 ID:rW6/n506
摂津半国の主であった松山新介(重治)の家臣である中村新兵衛は度々の手柄を顕した勇将であり、
時の人は彼を「鑓中村」と号して、武者の棟梁と讃えた。

彼は戦場において、羽織は猩々緋、兜は唐冠に金纓を用いていた。敵はこれを見ると「すわ、
例の猩々緋よ、唐冠よ!」と、戦う前から敗れ、あえて向かい近づく者も無かった。
ところがある人が、中村にこの羽織と兜を強いて所望し、彼はこれを与えた。

その後戦場に臨んだ時、敵は中村の羽織と兜を見なかった。これ故中村の部隊に対し
競いかかって切り崩しに来た。中村は鑓を振るって敵を多く殺したが、中村が居ると知らない
敵はこれを恐れず次々と向かって来、彼は遂に戦没した。

これより、敵を殺すのが多いからと言って勝つわけではない、威を輝かして敵の気を奪い、
軍勢の心を挫けさせる事が大切なのだと理解すべきである。

(武将感状記)



781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/11(月) 11:52:08.86 ID:drPnIBZj
初陣の松山重治の若殿に貸したとか、死ぬ間際に後悔したとか脚色はあるが
菊池寛がそのまんま短編にしてるな

故に良将はかならず軍を監督し

2019年03月10日 21:33

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/10(日) 09:15:15.13 ID:7JNEY6op
上杉謙信が自ら兵一万余りを率いて越中に入り、柿崎和泉(景家)に命じて、別将を副えて
辺塞を攻めさせた。ここから引き取る時、敵将が出てきたためこれと戦った。
この時柿崎の従兵である大川十郎は、左の腕を射抜かれたその矢も抜かず、取った頸を掲げて
柿崎の前に来た。ところがこの時、柿崎は大川を怒鳴りつけた

「お前は元より頸一つを取りかねるような者ではない!どうしてこの程度のことを誉れとするのか。
お前はまた、矢一筋くらいで弱るような者ではない。どうしてそんな事を勇だと思っているのか!?
一歩でも進むべきところを、知らないのか!」

そう辱めた。このためこの戦で士卒頸は斬捨てとなり、柿崎の軍は大いに苦戦した。

首級を置いて闘撃を先とする時は、功名の先後が転倒してしまう恐れがある。これは武士が怨みを
含む端緒となる。だからといって、ただこの恐れを無いようにした場合は、戦いに集中すべき場所を
引いて闘撃を止め、首級を貪ろうとする場合もある。こちらは兵勢が挫かれる基となる。

これ故に、良将はかならず軍を監督しこれを正すのである。

(武将感状記)



斉藤山城守は、先手の兵士に三間柄の直鑓を持たせ

2019年03月09日 21:25

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/08(金) 22:31:21.26 ID:fDyNMKVL
斉藤山城守道三は、先手の兵士に三間柄の直鑓を持たせ、鑓の石突の端を縄で結んで手がかりとし、
鑓戦の前になると兵士はこれをかかげ、上より下ろしかけ、叩き立てれば、味方は則ち上鑓となり、
敵は自ずからそれを仰ぐ形になる。仰ぐ形になっては踏みとどまること難しいものであれば、多くは
これを以て突き崩し、勝利を得たという。

(武将感状記)

長槍の使用法について



713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 13:02:54.31 ID:FNk28PsE
>>711
おいおい
上に持ち上げて落とすだけかよ
それで勝てるなら全員真似するわ

まことに良将が軍を統べる故なり

2019年03月09日 21:24

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 18:40:43.12 ID:6ECJ3CPn
(賤ヶ岳の戦いの時)

清秀(中川清秀)はこれ以前に度々に及んで武辺に落ち度を取らず、勇力を世間に知られた侍なり。

「度々の晴れ戦、万一鈍兵の名を得ては生涯の不覚!」と思い定めた清秀は「運は天にあり、進ん
で退くことなかれ! 」と諸卒に言葉を掛け、1千余騎が塁を離れて突き出た。玄蕃助(佐久間盛
政)の兵はこれを見て、余さず漏らさず押っ取り込めて、数刻攻め戦う。

清秀は我劣らじと、兵5,60騎が弓手馬手に並び、散々に切り合い割り入り追い立てた。清秀は
一旦は勝利を得たものの、敵は多勢をもって手負い死人を顧みず、風の発するが如く河の決するが
如く乱入して、ついに清秀は討死した。

その時、玄蕃助は勝ちに乗じて太刀場を取り、前は鯨波が地を響かし後ろは狼煙が天をかすませた。
風はふるい、旌旗は光を添えて日に輝く。甲冑は影を並べ、その威光は誰をもって争えようか。

この時、清秀が速やかに引き取っていれば、一化先は敵の勝手をなすとしても“勢に因りて之を破
る”との諺をもって、その尽くが居陣となったものであろう。

秀長(豊臣秀長)の陣所を始めとして、先手の陣取りは各々堅固の備であった。一陣が敗れて残党
も無事ではないといえど、士衆は一致して軍は心を結んだ。これまことに良将が軍を統べる故なり。

そうして江北の戦は相果てた。事が済んだ時、それより羽檄をもって件の注進あり。秀吉はこれを
聞いて清秀が討たれたために、甚だ深く哀憐した。

――『天正記(柴田退治記)』



「敵に塩を送る」異説

2019年03月08日 16:01

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/08(金) 08:55:46.57 ID:fDyNMKVL
北条と今川は相計って、遠州、武州の塩商人を留め、甲斐信濃に塩を入れず、これを以て
武田信玄の兵を苦しめんとした。

上杉謙信はこれを聞いて、領国の駅路に命じて、塩を信玄の元に運ばせ、
「我は兵を以って戦いを決せん。塩を以って敵を窮せしむることをせじ。」
そう言い送り、信玄はこれを受け取った。

これは上杉謙信の義にして、かつ勇なる所であると雖も、必ず深慮遠謀があったと見るべきだろう。
信玄は謙信より先輩であり、北条、今川の地を掠め奪う者は先ず信玄であった。
これ故に、信玄を仇とすること、六国の秦に対する如きものであった。

信玄がもし危機に至れば、その次は必ず謙信である。信玄が諸牧と戦って兵が久しく解けなければ、
その間に北国を一円に撃ち従えて勢い盛大となれば、東海の国々がたとえ力を合わせ志を一つにしたとしても
恐るるに足りない。謙信はそう考えたのだと言えるだろう。

(武将感状記)



775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/08(金) 18:11:03.52 ID:YVaPWxdX
>>772
でも謙信は関東で遊び疲れてから
北陸でも勢力伸ばそうとしたよね
ちょっと遅かったよね

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 08:25:30.39 ID:SrppcBwW
柴田みてもわかるように北國勢は冬は領国に籠るから春夏に掠奪が出来なければジリ貧だよ

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 11:25:04.75 ID:Y8BGkzOR
>>776
冬に領国へ籠るとは限らないでしょ
謙信なんか通行できるうちに越山して夏に越後へ戻るし

牧村家督顛末

2019年03月08日 16:00

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/08(金) 13:12:56.98 ID:EifkUekl
 利休七哲として有名な千利休の弟子の中に兵部大輔の牧村利貞という大名がいる。
 彼は稲葉一鉄の孫であったが、父親が庶子であったため、稲葉家ではなく外祖父の牧村政倫の家督を継いで
美濃の牧村城の城主となった。
 利貞は秀吉のもとで出世して伊勢の国で2万600石の領地を与えられ、1593年には牛之助という息子が
誕生するが、不幸なことに牧村利貞はその同じ年の7月10日に朝鮮出兵で出陣した先で病にかかり亡くなった。
息子がまだ赤ん坊だったため、利貞の弟の稲葉道通が継いだ。もちろんこれは一時的なもので、牛之助が
成人したら家督をゆずる約束であった。
 稲葉道通は関ケ原の戦いで東軍について活躍し、その功績で加増されて伊勢田丸の4万5700石の大名となった。
 1607年、牛之助は15歳になったが、稲葉道通が家督をゆずる気配は全くなかったので不満をいだいた牛之助は
徳川家康にこのことを訴えて何とかしてもらおうと画策したが、その動きを察知した稲葉道通は刺客を放って
牛之助を亡き者とした。
 こうして完全に領地を我が物にした稲葉道通であったが、その後、半年足らずで急死してしまったので、
人々は甥の牛之助の命を奪ったたたりだと噂しあった。家督の方は稲葉道通の息子の紀通が継いだが、
1648年、幕府から粗暴な振る舞いについてとがめられたことが引き金となって自害し、そのことが原因で
改易処分となっている。
 親の因果が子供に報いをもたらしてしまったのであろうか。


中村はそれに逢迎

2019年03月07日 16:52

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/07(木) 11:44:19.44 ID:iijwI8SO
豊臣秀吉の朝鮮征伐の時、池田三左衛門輝政は、船奉行の中村九郎兵衛に命じて、兵粮を
肥前名護屋に送らせた。中村は名護屋へ出港する前に、提灯2,300,太鼓3,40を買った。
そして船を出し間もなく名護屋という時、時刻は巳の刻(午前10時頃)で潮の状態も良かったにも
かかわらず、玄界灘の島に船を止めわざと日の沈むのを待ち、亥の刻(午後10時頃)になって
船を漕ぎ入れた。この時、船の周りに取り付けた2,300の提灯に火を灯し、3,40の太鼓を
一斉に敲くと、火の光は海面に映り、太鼓の音は城の上にまで響いた。

秀吉は使いを遣わして何事かと問わせた所、「輝政家来中村九郎兵衛、兵粮を漕するの船なり」と答えた。
秀吉という人は素より華美を好み、中村はそれに逢迎(こびへつらうこと)して、甚だ秀吉の心に叶った。
その後秀吉は中村を朝鮮に渡海させたが、彼が朝鮮に至った頃には既に和平が成立していた。しかし
日本軍の兵粮は盡きかけており、諸将は大いに喜んだ。

(武将感状記)


この二つは最も名誉とされる事である

2019年03月06日 19:41

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/06(水) 06:16:40.26 ID:REEwPBTX
加藤清正が蔚山において援軍来たらず、兵粮も既に尽きて、馬を殺してこれを喰った。
そこで兵力が完全に疲弊する前に斬って出て闘死せんと議する所に、漢南人もまた
兵粮が続かず、兵を引いて帰った。清正は九死に一生を得たのだ。

その時、夜半に石火矢の発射音が山川を振動させた。蔚山城中では、漢南人が夜に乗じて
攻め入るのかと、持ち口を固めて待ち構えたが、その後は寂として人馬の音もなかった。
夜が明け、漢南人の陣を見ると、夜の間に皆引取って、ただ空営の跡のみ残っていた。
蔚山城より十町も離れていないのに、2,3万ほどの人数を引き取っても、城中にその気配が
聞こえなかったのは、彼らの軍令が能く徹底されていたためで、これは日本兵の及ぶところではない。
その後陣屋の跡を見た所、厠が一つもなく、また糞尿の汚れも無かった。
この二つは最も名誉とされる事である。

(武将感状記)

割と珍しい(?)、朝鮮役の明軍を評価している逸話。



709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/06(水) 11:22:36.66 ID:1Sh+A8XF
明人はウンコしない

週間ブログ拍手ランキング【02/28~03/06】

2019年03月06日 19:40

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甲州・信州・駿州三ヶ国が本意に属する旨は 14

この時に及んで富士山が私の山となり 10

信長信託 9
ガスパールの茶会事件 9

梅北一揆顛末 7
「賞功不踰時」というのはこれなり 5
これにより杉原・荒・仙石が先をなし 5

一体彼が何人力だったのか 4
その場の存念にあらず。年来の逆意と推測される 4


今週の1位はこちら!甲州・信州・駿州三ヶ国が本意に属する旨はです!
甲州征伐が天正記の段階では、ほぼ全部織田信忠の軍の功績と、きちんと把握されている所がまず興味深いですね。そして
この結果として東国はほぼ織田政権に属した、との認識があったこともわかります。この戦いはやはり、織田政権にとっての
画期だったと、当時の人々も思っていたということでしょう。それが1年も経たずに瓦解するわけですから、ここでその活躍が
讃えられている河尻秀隆の運命も含めて、つくづく人の未来なんてわからない。そう感じさせる逸話だなと思いました。

2位はこちら!この時に及んで富士山が私の山となりです!
で、甲州征伐後の富士見物で満足この上ない織田信長。このときが彼の頂点だったとは、神ならぬ身の誰が気づくでしょうか。
そういえばこの富士見物で、信長が斎藤利三の事を語ったこんな逸話がありますね
織田信長、富士山を見て、ふと
斎藤利三は、富士山を見てはしゃいでいる信長の姿に、この程度かと見切りをつけた事が本能寺の端緒である。
なんて小説的発想もできそうな気もします。

今週管理人が気になった逸話はこちら!ガスパールの茶会事件です!
様々に興味深いですが、やはりこの時期の「連座」の範囲の広さを感じてしまいますね。この連座の範囲については外国人の目にも
非常に特異なものと映ったらしく、近世初期くらいには「日本の治安が良いのはこのため」という報告も有ったりしますね。
この風習が徐々に緩和されていくのは、江戸幕府が安定しだした頃からでしょうか。
まあ秀吉は例の落書事件の時は容疑者が逃げ込んだ先の町の区画の住民全員を連座させるような人なので、その点
特に厳しかったかも知れません。秀吉の時代の社会の空気の重々しさ、というものを感じられる記録かもしれません。
あとは当時も、同じキリシタン同士であっても兄弟愛とはいかずこうして生々しい殺人もあったのだ。という、まあ当然といえば
当然な面を再認識させてくれる、そういうお話であるとも感じました。



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「賞功不踰時」というのはこれなり

2019年03月05日 18:08

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/05(火) 17:59:17.91 ID:kXHf7c1b
(柴田勝家討伐後)

今回の柳瀬表で秀吉が切り崩した時の一番槍はことごとく近習の輩である。

その面々は、福島市松正則・脇坂甚内安治・加藤孫六嘉明・加藤虎助清正・平野権平長泰・片桐
助作直盛(且元)・糟屋助右衛門尉(武則)・桜井左吉(家一。原注:秀長近習也)である。

石河兵助一光(石川一光)は一番に駆け入り、冑の内を突かれて討死した。これにより、舎弟の
長松一宗を召し出して家督となしたものである。

その9人はよき席を設け盃を下して領知を遣わし、添えて黄金羅帛と感状あり。その文言に曰く、

 今回の三七殿御謀叛により濃州大垣に陣替えした時、柴田修理亮は柳瀬表に至り出で立った。
 そのため一戦に及ぶべく秀吉が一騎で馳せ向かうところに、心掛け浅からぬ故、早々と駆け
 つけて、眼前で一番槍を合わせた。比類なき働きなので褒美(原注:あるいは3千石。ある
 いは5千石)となして宛がう。ますます今後も軍旅の忠勤を抜きん出れば、勲功を計るもの
 である。よって件の如し。

  天正11年(1583)7月1日 秀吉判

軍書に曰く「賞功不踰時」というのはこれなり。

――『天正記(柴田退治記)』



梅北一揆顛末

2019年03月05日 18:07

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/05(火) 17:41:18.44 ID:CvS0qjxX
加藤清正が朝鮮に赴いている時に、その跡にて薩摩人の梅北国兼が肥後の地を侵掠した。(梅北一揆)
境善左衛門は熊本に留守居として佐敷城に居たが、肥後の国衆は多くが梅北に従い、兵勢いよいよ盛んであった。
境はこれと戦っても力で匹敵することは出来ないと判断し、一旦偽って梅北に降伏する体にして、
彼を刺し殺そうと思い、城を梅北へ渡した。

梅北は入城したが心許さなかった。そこで境は「今日より臣令を取るの始めなれば、祝詞のため御盃を頂き
候はん」と、梅北を饗した。この時梅北の心を和らげようと、酌取りに美女を出した。

梅北先ず飲んで、境にさし、座を立って肴を与えた。
境は「かねてこの時斬ろう」と企んでいたが、その威におされたか、手出しできずに座に帰ってしまった。
しかし「この時を過ぎては叶わじ」と思い、短刀を抜き飛びかかり、梅北を刺殺した。

その場にあった者たちは手々に刀を抜き放ち境に斬ってかかろうとしたところを、境は目をいからし
声を励まし

「汝等狂せりや!?梅北は賊である。彼に属するのが本意であるのか?
私と心を同じうして、彼が与党を討てば、清正はお前たちの咎を宥し、これまでの非を改め、
むしろ賊を討つの功を賞せられるだろう。
これを拒否すれば、秀吉が汝等の三族を梟首とするのに数日とかからないだろう。
汝等は、わきまえないのか!?」

これを聞いて、皆境に同意し、北梅の手の者たちが逃げるのを追いかけ切り伏せ、この乱を鎮めた。

境善左衛門の知行はそれまで二百石であったが、清正は後に十倍の二千石を与えた。

(武将感状記)



これにより杉原・荒・仙石が先をなし

2019年03月04日 18:27

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/04(月) 17:51:38.81 ID:5DaS4Rjq
さて、羽柴筑前守秀吉は舎弟の小一郎秀長を伴って、さる天正6年(1578年)に播磨へ下り、
別所と対峙して以来、西国征伐の軍主を奉り、備前美作の守護・宇喜多は手に属し、播磨・但馬・
因幡以上五か国の人数を引率し、天正10年(1582)3月15日、備中国へ向かって冠城に
押し寄せた。敵の備はもっとも剛強なり。

さてこの城は、たとえ人数を損おうとも無二に攻め破り西国の響きにする旨を、かねてより定めて
いた。これにより杉原七郎左衛門尉家次・荒木平太夫(木下重堅)・仙石権兵衛秀久が先をなし、
かの地で肝要の践をなして水手を攻め入りこれを取った。

秀吉は感悦して3人ともに馬・太刀を遣わしたのである。城からはとりどりに懇望を尽くしたが、
これを聞かずに万牛五丁の攻めをなして即時に乗り込み、ことごとく首を刎ね終えたのである。

――『天正記(惟任退治記)』

わざわざ名前が挙がるあたりこの3人当時は期待されてたのかなぁと思った。


一体彼が何人力だったのか

2019年03月04日 15:01

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/03(日) 22:50:49.97 ID:xdjGo/EV
秀吉の朝鮮出兵で、赤松左衛門尉広秀(斎村政広)も朝鮮に派遣された。
彼の家臣の田路勘四郎は強弓であり、敵を多く射斃し追い払って、小川の堤に沿って馬を進めていると、
その友人である衣笠宗兵衛の馬が、堤の下を走ってきた。「衣笠は敵に討たれたのか?」そう思いながら
進むと、先の方で朝鮮の兵が衣笠を捕え、胴を左の脇に挟み、頸を右手で握り、小川の流れの中に
衣笠の頭を押し浸し、二口三口水を飲ませては引き上げ、再び水を飲ませては引き上げる、という事を
行っていた。呼吸を遮り苦しみながら殺そうとしたのであろう。

これを見た田路は後より駆けつけ、刀を抜いてこの挑戦兵を袈裟斬りに斬り殺し、衣笠を助けた。
「一体どうしたのだ」と尋ねると、衣笠は

「あの朝鮮人が私に敵せんと相向かった所を、拝み打ちに切り払ったが、彼は長い袖を挙げて
刀を払い、そこで組み合ったところ私は横抱きにされた。力を尽くして彼より脱しようとしたが、
力及ばなかった。一体彼が何人力だったのか解らないが、私はまるで2,3歳の小児にように扱われた。
そしてこの川に降ろされ、あの様になっていたのだ。彼はその間、苦しむ私の顔を見て何度も笑った。
無念類なかったが、貴殿の力によって不慮の死を免れた。」

こうしてうち連れて自陣へと帰った。

(武将感状記)


その場の存念にあらず。年来の逆意と推測される

2019年03月03日 16:03

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/02(土) 19:12:03.59 ID:N0xXXHkF
惟任(明智光秀)は公儀を奉り、2万余騎の人数を揃えた。ところが備中に下らず、密かに謀反
を企てる。しかしそれは、その場の存念にあらず。年来の逆意と推測されるところである。

さて5月28日、光秀は愛宕山に登って一座の連歌を催した。光秀の発句に言う、

「ときは今あめかしたしる五月かな」

今これを推し量ればすなわちまことに謀反の先兆なり。何人がかねてより悟ったことであろうか。

――『天正記(惟任退治記)』

本能寺の変の同年に成立した惟任退治記の記事。「何年も前から叛意があったようだ」とのこと。