「法度は改め変える事なかれ。年貢は少なく取ろう」

2017年03月17日 07:46

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 02:42:53.78 ID:cTLi9xmA
勝頼滅んで後、東照宮(徳川家康)は甲斐を治めなさると、

「法度は信玄より用いるところを改め変える事なかれ。年貢は少なく取ろう」

と、仰せ出しなさったので、百姓は大いに喜びあった。小田原(後北条氏)
滅んで後、その地を治めなさる時も、また同じであった。

諸民は大いに喜び、数百年の恩義が相結ばれるに同じであった。

――『常山紀談』



722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 03:09:38.35 ID:QiuwIqqf
百年にわたり善政を行い民百姓との結びつきが強いと言われた後北条氏だが民は年貢を多少割り引いて貰っただけで敵側だった徳川わっしょいになるなんて、所詮はその程度のものだった
穿った見方をすると悪い話し

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 07:44:17.53 ID:wCCIMaLG
>>722
真面目に言うと、家康は関東に入ってすぐに、水路の整備など、農村の改良事業といった、
戦乱のため北条が「やりたくても出来なかったこと」を大々的に行ってる。

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 08:40:17.24 ID:nnSE9C2g
>>722
ついでに言うと北条家の家臣はほぼ登用しておりあまり法律とかやり方を変えてないしな。住む方にとってはありがたい。

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 12:03:48.43 ID:ZFO1X/J/
盗賊にまで落ちた風魔がいたね

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 12:33:44.27 ID:SiKtZsUe
>>724
実はあまり登用していなかったんじゃなかったっけ。
ただ農工商いずれに渡っても領民と徳川の中に入っていって
色々スムーズにしていったとか聞いたことある。

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 20:38:45.25 ID:bg166cIu
家康は小牧長久手の戦役で15歳から60歳までの男子を総動員している。
農繁期にこれをやっちゃったので、秋の収穫は酷い事になってるんだけどね。
甲斐では家康が統治してからも検地反対の一揆などが頻発してて、民が喜んだなんて嘘っぱちなんだけどなあ。

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 22:56:50.30 ID:gv6zUOc6
>>727
いつどの辺りで起きたの?
首謀者は百姓なの?
それとも武田の旧臣?

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 23:57:35.83 ID:bg166cIu
当時においては百姓と武士の違いなどあいまいだ。区別はできないな。
そもそも当時の百姓は甲冑槍弓で武装し、場合によっては火縄などまでもってる。

時期は家康が五か国総検地をやった時。
その前も小牧長久手の後遺症で領内が大飢饉に陥っていたけどね。

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 09:30:45.43 ID:e23UI1NM
妄想?それとも何か文献あるんだろうか。

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 13:01:10.66 ID:mqYEINS8
龍門寺拠実記によると小牧長久手の戦いで男でがとられて、領内は荒廃して飢饉になり、
老人は口減らしで死んでいた事が記されているよ。

秀吉公は神明を仰がれられて

2017年03月17日 07:45

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 01:49:54.67 ID:3F32zGZe
 太閤秀吉公が名護屋に御在陣の時加部島で鹿狩りを催し、
狩った鹿を田島大明神の社壇の前に集められた。
多くの臣下が神明の咎が蒙るかもしれずいかがなものかと思い、外へ持ち出すべきだと言ったが、
秀吉公は少しも恐れられず、

「どうしてそのような事が起ころうか」

と悠然とおられた所に、たちまち風波起こって集まっていた鹿を残らず吹き飛ばし穢土を清めた。
秀吉公はすぐに宮司に仰せられて、神鎮めの神楽を奏上された。
 その後祈祷祈念を怠られず、奉納寄付等があった。
既に朝鮮渡海の先鋒小西摂津守・加藤主計頭の軍勢が出船していたので、敵国調伏の祈祷をさせられた。
 御社の後ろの森の中に大石がある。この前に壇を築き注連縄を引いて、宮司は丹誠を尽くして祈る。
数百騎の精兵は弓矢を帯びて朝鮮の方に向かって矢を放ち鯨波を揚げると、大石が中から縦に割れた。
その石は割れたままで今も宮殿の後ろにある。
秀吉公は御感ひととおりでなく神明を仰がれられて、軍勢海陸無難、敵国調伏の祈願をこめられた。
 その後一艘の船を献じ朝鮮の梅と奈良の八重桜の苗を社内に植えさせられた。今もその樹が残っている。

 松浦郡の神社は皆田島大明神の末社であったという。
境内の末社に佐用姫の神社がある。縁起にもあることである。
秀吉公は、往昔に神功皇后が御祈願をこめられた例により、田島大明神を尊崇された。
また大伴狭手彦の因縁があるので、朝鮮征伐の時から、百石高、山林で相違ないと御朱印を与えられた。
今なお御代々の将軍から賜っており、宮司は従五位下を任官し昇殿を許されている。

『松浦古事記 寛政元年(1789年)成立 著者不詳』

・「往昔に神功皇后が御祈願をこめられた例」というのは、多分「神集島」のことで「加部島」ではない
・秀吉が佐用姫神社に百石寄進した朱印状は実存し名護屋城博物館に収蔵されているらしい
・佐用姫と大伴狭手彦というのはさよ姫伝説の事

「宣化天皇の頃、任那を新羅から救済する為大伴狭手彦が唐津に駐屯した。
そこで狭手彦は現地の豪族の娘の佐用姫と夫婦になるも、
狭手彦は朝鮮への出征により佐用姫を置いていくことにする。
佐用姫は夫を慕い、乗っている船を追いかけて加部島までたどり着くも、
結局夫と離れ離れになってしまう。
嘆き悲しんだ末、佐用姫は石になってしまった。」

というもの。(諸説ある)
元ネタは『肥前国風土記』の弟日姫子と大伴狭手彦だが、
出征して離れ離れになるとこまでは同じだが、加部島には行かないし石にもならない。



675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 18:45:26.29 ID:MF2YxTVe
万葉集で大伴旅人に歌われるような伝説にたいして風土記が元ネタというのは違和感が


676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 15:20:21.58 ID:L6OBA41M
>>675
正確には、奈良時代には広まっていた肥前国であったとされた伝説が元ネタですね。
万葉集では別れを惜しんで山に登って領巾を振る光景を主に詠っていますね。
どちらでも、佐用姫は加部島に行かないし石にもならない。

ついでに、佐用姫と秀吉の逸話をもう一つ投下


豊太閤が名護屋の御城におられた時、加部島を逍遥された。
浜辺に一つの石があったので、しばし休もうと腰をかけられると、
この石が温かくなってむくむくと動いた。
太閤は驚き、

「これは怪しい石である。きっと由縁があるに違いない。」

と古老を呼んで尋ねられた。

「あれは佐用姫の御形石です」

との答えがあったが、太閤は

「どうしてそのようなことがあろうか」

と尿をかけられるた。
すると沖の方からにわかに大波が来てこの石を洗い流した。
さすがの太閤も大変感じ入り、自らの無礼を詫びられて、
古人平野某を召して神司とし、
その場で百石の証文を授けて佐用姫の霊に仕えさせるよう
大谷吉隆(吉継)に仰せられた。

今もその例により、徳川家から代々百石の朱印を授けられている。

『松浦の家つと 安政六年(1859年)序 明治三十一年(1898年)刊  著者 岡 吉胤』


677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 15:59:59.61 ID:TyxkKzHL
>>676
なんなの秀吉のテンプレでもあるのw
秀吉がおごり高ぶったことをする(しかも下品なこと)
→自然現象が起こる
→神意をみた秀吉が反省して色々奉ってみたりする

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 16:13:56.51 ID:lNAyAxB5
あるいは太閤の小便には超自然現象を起こす能力があるのやも知れん

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 22:54:13.84 ID:/FtvZE1I
>>677
あるんだろうね
秀吉が家臣の妻に手を出そうとしてしっぺ返しをくらう、みたいに

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/19(日) 03:51:10.05 ID:gSypgfin
なんとなく秀吉=将軍さま 自然現象=一休さんの構図が見えた

平手政秀は優美な男であった

2017年03月16日 21:17

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 06:35:00.73 ID:IzqYErIF
平手中務丞政秀は思案を廻らし、何とかして清洲勢(織田大和守家)を味方にし、
一国の乱を静めようとして、様々に和睦のことを取り扱ったが、

清洲の家老・坂井大膳、同甚介、河尻(与一)らの同意なくして、年内<天文17年>
は打ち過ぎた。ようやく翌年の春の末に、互いに同意して差し障りなく和睦させた。

政秀はそもそも優美な男であったため、その頃、大膳、甚介方へ和睦珍重の旨の
書札を遣わした。その端に一首の古歌を書き付けたという。

「袖漬ぢて 結びし水の 凍れるを 春立つ今日の 風や解くらん(紀貫之の歌)」

――『織田軍記(総見記)』


「さざえ”あわびのかみ”になられたのだ。」

2017年03月16日 21:16

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 00:57:14.93 ID:ESpxuFY9
 天正の末のことである。
関白秀次の家臣の人々が新しい諸大夫になった時、
その若造どもは聚楽の番所のわきに集って居た。

「我が主殿は、今度”かみ”になられたか。
社参してくる衆も『めでたくございます』と樽酒を持って参る。
が、まだ賽銭などは見えませんな。」
「何の”かみ”におなりになられたのか?」
「さざえ”あわびのかみ”になられたのだ。」
「それは少し生臭いかみじゃ。しかしながら、これは御意であろうのでどうしようもない。
うちの主殿も昔から、”なまこの寿千寺”といってきている。」

 評して云う。
万民を憂う心は弱く利を思う心が強い人を宰相の職に挙用したら、
雀部淡路守をあはびのかみ、尼子寿千寺をなまこと聞き違える害がでたのだろう。
善悪が生じる原因は、智に明るいかどうかではないだろうか。

(戯言養気集)



672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 10:10:26.13 ID:9pvTh3BL
落語の「松竹梅」を思い出した
長屋の松さん、竹さん、梅さんが名前が縁起がいいってので若旦那の婚礼の座興をすることになったが
松「なったあ、なったあ、じゃになったあ、当家の婿殿じゃになったあ」
竹「なんのじゃになられた?」
梅「長者になられた」
というところを梅さんが間違って
「大蛇になられた」「風邪になられた」
最終的には「亡者になられた」
と言ってしまい、あわてて逃げ帰るという

今は、天下創業の御政務である。

2017年03月15日 19:17

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 17:53:08.67 ID:FwIHOceO
ある人が言った
「大久保相模守忠隣、本多上野介正純などは、父祖代々御当家に仕えて大功のある人々の子です。
であるのにその一身が修まらざるによりて、最期には辱められ、彼らに縁のあった大名たちもまた、
名家、あるいは数代の武臣であったのに、多くがこの事によって改易されました。
これは非常に荒い御政務ではないでしょうか。」

これを土井大炊頭利勝が聞いた
「愚かなることを申す者かな。私などは今、武家(将軍家)執事職を兼ね勤めていると言っても、
子孫が君命に背くなら、他の者よりも罪を糾明されてこそ本意である。
またその上で、折が有れば、大久保・本多といった罪を問われた人々に存命の子孫が有れば、
宜しく召し仕わされる事、これが仁政である。

今は、天下創業の御政務である。
だからこそ、先ず御譜代より厳しく戒め置かれているのは天下に恐れられている。
御譜代の者が別してその罪を深くしてこそ、上の後威光が増すのである。

忠隣、正純の父である、大久保忠世、本多正信も、息子に対して泉下で憎んでいるだろう。
仮に存命していれば、共に子を勘当したであろう。
彼らはそういう人物であった。」

そう申されたという。

(武野燭談)



668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 19:41:25.77 ID:jC7m6Npx
>>667
いい話じゃない?

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 21:45:02.10 ID:kjNWxgyd
正純の父が正純
※訂正済みです
670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 22:44:16.45 ID:ccF9VRfj
Oh!マサズミホンダJrのコトダネー

週間ブログ拍手ランキング【03/09~/15】

2017年03月15日 19:12

03/09~/15のブログ拍手ランキングです!


山口さんお疲れ様です。 45

讃岐守の子は油断できない 22

「織田信長は類なき大うつけ者」 15
大河ドラマ応援エピソード 12

大人・公子の御身として、幽霊女の真似など 10
此の方の宛名は何と書いた 10
すなわち御名を織田三郎信長と付けなさる。 10

髪に伽羅を 9
もはやというところで余りの苦しさに 8
三州山中八幡の事  7

「父は知らず。母は官女」 6
賊軍の平行長から 6
平戸広前院、壱岐覚音寺、田平弥勒寺、城下正安寺、誓願寺等鐘之事 6

坂田五郎左衛門、穴沢左近と勝負之こと 付異聞 5
種子島蔵人 5


今週の1位はこちら!山口さんお疲れ様です。です!
この山口直友という人、かなり不思議な人物で、丹波赤井氏出身なのですが何故か信濃山口氏を相続しいつの間にやら
徳川家康に仕え近習と成っていたりと、徳川家中でもかなり珍しい経歴の人ですね。
なお、この、かなりアクティブな経歴からは「ホントかよ?」と思ってしまうのですが、病弱だったようで、
そのため長く女性を遠ざけていたにも関わらず。60歳になってから18歳の妻を娶り、この妻が早世すると
74歳で19歳の妻と再婚するという、老齢に成ってから何かに目覚めたフシのある方でもありますw

それにしても徳川家康という人は、こういう学術的な技能を持つ家臣をわりと大切にしますね。
オランダ人から時計が献上されたときも、家臣にこれを分解させてその原理や技術を習得させています。
信長が時計を献上された時、「我々では壊れても修理できないから」とそれを返した、なんて話がフロイスの日本史に
収録されていますが、こう言ったあたりに信長と家康の個性の違いを見ることができるかもしれません。
このあたりも一般的な印象と逆ですが、織田信長という人はかなり素朴な武辺の人で、家康の方が新奇なもの大好き、
だったりします。
そんなこともふと思ったりしました。

2位はこちら!讃岐守の子は油断できないです
島原の乱の頃は、何のかんのでまだまだ徳川家中の「武功派」が生きていますから、若手との摩擦というのは
当然有ったことでしょう。そんな一面を感じさせてくれる逸話です。
それにしてもこの時期の幕府重臣というのは、この酒井忠朝もそうですが、この手の組織の中の摩擦をうまく調整する
能力に長けた人が多い、って感じがありますね。「豊臣政権」にこの手の能力を持つ人が少なく、結果分解してしまった
事を考えるに、非常に対照的に思えます。
こう言った人材が集まったこと、意図的なのか偶然なのか。相違言ったことをいろいろ考えてみるのも、面白そうです。

今週管理人が気になった逸話はこちら!
「織田信長は類なき大うつけ者」です!
個人的には、若い頃の織田信長は、本気でグレていた、と思っていますw
それが、平手政秀の切腹などで改心して、「世間から模範的な武士と呼ばれるようになろう!」と一念発起した事が、結果として
彼を天下取りの道に進ませた。と考えています。
そういう目で見たほうが、織田信長という人物をわりと素直に理解できると思うのですよね。
前にそんな風に考えていたことをふと思い出した逸話でした。


今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してみてくださいね!
( ´ ▽ ` )

大人・公子の御身として、幽霊女の真似など

2017年03月14日 17:39

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/14(火) 17:34:44.98 ID:T6KbAzrH
ある年のこと、尾張大納言徳川義直の元に酒井讃岐守忠勝が訪問した時、馳走にと
嫡男五郎太殿(後の徳川光友)による能興行があった。
この時、五郎太の手の舞い、足の踏む所、自らの拍子を、『讃岐守はきっと感賞するであろう』と、
義直は自慢げに見せるのを、忠勝は一切褒めず

「勿体なき大事の御身でございます。どうぞ余人に仰せ付けてください。すでにご器用なのはよく解りました」
(勿体なき大事の御身にて候。只余人に仰せ付けられ候へ。最早御器用の程は見え申したり)

と、しきりに止めようとした。立ち返ってから

「武家は何度も武を賞賛されることこそ本意である。大人・公子の御身として、幽霊女の真似など、
全く益がないではないか。」
故に全く感心できなかったのでやめるよう言ったのだと、成瀬隼人正正成に語ったそうである。

(武野燭談)


666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/14(火) 21:27:44.11 ID:BQ1j7HGy
でも武を見せつけると謀叛の疑いをかけらるんだろ

此の方の宛名は何と書いた

2017年03月13日 09:35

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/12(日) 21:11:39.63 ID:Ss9DL0Db
慶長19年、大阪冬の陣和睦の際、大阪城からは木村長門守重成を以て、神盟の御判元拝見に
さし寄越された。木村は家康の御座近くに参るための支度はしていたが、彼の気色が怪しいため、
家康側近くの者達は、彼を遠ざけ置いた。

この時、大阪城へも豊臣秀頼の判元を確認するため、幕府より使者が遣わされたが、人々は
「きっと侍大将の中から選ばれるだろう」と噂していた所、『若者のうちより、分別があって
事がもし破れたときに一己の働きのできる忠士』として、板倉内膳正重昌が選ばれた。

家康は重昌を召すと「和睦の誓紙を見て参れ」と命じた。
板倉重昌はこの時18歳。近習として召し使われ、心やすく思っている者であったので遣わされる、
との事であった。
大阪においては「関東勇功の老臣が派遣されるであろう」り心支度していたものの、それは相違した。

さて、板倉重昌は秀頼の御前に出て、御判をされる時、座を立ってその膝元に寄り、左右を顧みて
申し上げた

「右丞相(秀頼)の御器量、関東にて承り及ぶよりも、ことに勇々しく見奉りました。
関東にては秀頼功の御膝が、扇子丈ほどもあると承り伝えられているばかりであります。
このような機会に拝し奉り、関東への土産としたいと思います。」

そう言うと腰の扇子を抜いて座を立ち、膝を計ろうとするふりをして、御判元をしっかりと確認した。

その後秀頼より、「宛名は何処にすべきか」と尋ねられた。重昌は
「その事について特別に仰せ付けられてはおりませんが、関東・大阪御和睦の儀にて候へば、
現代の将軍である秀忠公に宛てるべきでしょう。」と申し上げた。このため宛名は
『江戸将軍へ』と書かれた。

この頃徳川家康は「内膳正に第一に言っておくべきことを忘れていた!」と、大変気にしている様子だったので、
人々は「一体何事だろう」と心配していた所、重昌は程なく帰ってきた。この報告を受けると
家康は御次の間まで出てきて

「どうであった内膳、判元を見て参ったか。
実は第一に申し付けるべきことを忘れていた。此の方の宛名は何と書いた?」

重昌畏まって
「その段、仰せ付けは承りませんでしたが、関東・大阪御和睦でありますから、新将軍家へと
望みました。」

そう申し上げると、家康は甚だ御機嫌にて「でかしたり!でかしたり!」と、大いに喜び、
また全体の首尾が報告されると、一入感じ入ったとか。

(武野燭談)


髪に伽羅を

2017年03月13日 09:34

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/13(月) 07:24:37.86 ID:ZXvx5ar4
 秀頼公の乳母子木村長門守(重成)は忠義の士で、二十三歳で忠死をとげた。
かねて討死を心掛けていたので、髪に伽羅をとめていた。
安藤長三郎がその首を挙げまして、家康公が御覧になられました。
空焼きの匂いをかがれて、
「いつの間にかような心付きをしたのか。殊勝な若造だ。」
と上意があったとのことだ。

『武士としては』


もはやというところで余りの苦しさに

2017年03月12日 16:44

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/12(日) 03:54:09.75 ID:Ea6rH+3d
 関白秀次公の御咄衆に、曽呂利と申す者がいた。
あまりによく話をしますので、ある時話をつまらせてやろうと思し召された。
彼が朝の寝起きで未だ顔も洗わず目をこすって取り乱している体であったときに、

「何か話を一つせよ」

と仰せられた。すぐの話なのでつまりかけたが、ふと昨夜の夢を語りだした。

「さても、今宵夢を見ておりましたのか。
ある所へ行きまして、道に小金が夥しく落ちておりました。
さても嬉しい事かなと存じ、思う存分に拾い持ち帰るところに、
落とした主が来て取り返そうと追いかけてきました。
汗水をかきながら逃げましたが追いつかれそうになり、
もはやというところで余りの苦しさに、大便を垂れてしましました。
そこで目が醒め、かの金を探ってみましたが金は跡形もなく、
大便はたくさん垂れてありました。」

(昨日は今日の物語)


讃岐守の子は油断できない

2017年03月11日 09:19

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 22:28:02.88 ID:so4sl6CD
寛永年中、島原表での一揆の折、諸手へ旗本より軍場御目付を遣わされるにおいて、人々は
大阪にて戦功あるものが仰せ付けられると思っていた所、思いの外、脇の人々の中より選考された。
これに居並ぶ老功の勇士たちが嘲笑っている中、何某とか言う若輩の人物も、御目付として選ばれた。
その人物には、幕府重臣・酒井備後守忠朝よりその旨申し渡され、彼も面目を施し、
お請け申しているその半ばに、控えの間より大久保彦左衛門が声高に言った

「世も末になったものだ!若輩の者共が軍奉行だ御目付だと言って戦場に向かう。
どれほどの功が立てられるものか!
座敷の上の軍場とは違い、料理を食うようにはいかないのだぞ!」

その嘲りの声殊の外高く、かの何某はこれを聞いて、控えの間に戻るとそのまま彦左衛門の居る
席に向かい、彼と言い合いを初めた。

この一座の者達も、みな痴れ者ばかりであったので(一座の輩、何もしれものの集りなれば)、
口論を止めようともせず、あわや事に及ぼうとする時、酒井備後守忠朝が聞きつけ
この部屋の障子を押し開くと、この何某を呼びつけ

「其方が左様な不覚悟とは誰も知らなかった。だから今度の選考に推薦したのだ!
大事の御使を承りながら、彦左衛門などと口論するなど、甚だ以て不届きである。
早々に支度して、罷り立てられよ!」

そう荒々しく言いつけると、何某もすぐに退出し、島原へと向かった。

その後酒井は彦左衛門に向かい
「其方はその老功や御役柄で、人が許すからと言いたいばかりを申される。
若き者は、何の功で武辺を得たかなど、誰のことであっても耳にかけようとするが、
貴殿からは鳶ヶ巣城の一番乗りの自賛を、毎度承っている。
その頃は16歳の初陣の高名と申されたのを、私も覚えている。

であるのに、その貴殿が今の若者に、彼らが若年にて高名できないなどという批判は心得がたい。」

そう、言葉穏やかに言うと、さすがの彦左衛門も閉口し。酒井は奥に戻っていった。

この後彦左衛門は同僚に向かって
「讃岐守(酒井忠勝 )の子(忠朝)は油断できないな。若いが理屈をする。恐ろしい恐ろしい。」
そう、賞美したとか。

(武野燭談)


三州山中八幡の事

2017年03月11日 09:17

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/11(土) 06:45:08.19 ID:c4YBRzER
三州山中八幡の事

 三河国額田郡に山中八幡宮という社がある。
御朱印高百五十石である〔この社は文武天皇三年秋九月九日影向したという〕。
親氏君、広忠君が信仰されて宮を造立された。その時の神職を竹尾二郎左衛門尉という。
神君御誕生のときには御代参として本多平八郎が詣でられたという。
〔本多系図に、忠勝の父、祖父も皆平八郎と称す。この二人のどちらであろう〕

 本願寺一揆のとき白鳩二羽舞い上がった。
これから舞木というのを改められ舞上八幡と称し、
その山を御身隠山と称することという上意があった。
 神主数代は三河州の所々で御戦に随従し、代々に武功戦死の者も出し、今も御感状数通を持ち伝えている。
関東御入国の後は専ら神職を勤めるよう命ぜられ、当代は竹尾但馬と称している。
ただし任官はせず代々無位で武士であるという。
このことを癸未(1823年)の春に、隣宅の但馬が来て語ったのを記した。
(甲子夜話)


大河ドラマ応援エピソード

2017年03月11日 09:17

655 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/10(金) 21:36:32.50 ID:I2lYKaTf
大河ドラマのおんな城主直虎が不発なので応援エピソードを送る

1983年の大河ドラマ徳川家康でのエピソードだが
(NHKオンデマンドで見れるシーンだが)
徳川家康の幼年時代に今川家に人質になった年の正月に
今川義元から屠蘇をもらう時、竹千代のそばに美しい姫が二人並んだ
1人は鶴姫といいもう1人は亀姫という
義元は竹千代に将来、鶴姫を嫁にしないか?と言われる。
竹千代は殿の命令ならいただきますと答えた。
すると義元は竹千代にでは亀姫はどうか?と尋ねられ
竹千代は即答で亀姫を嫁にしたいと答えた。
数年後、竹千代の嫁になったのは鶴姫だった。
それから数年後、亀姫は竹千代事、徳川家康の敵としてはばかり
悲劇の最後を遂げるのである。
亀姫が亡き後、家康は亀姫にそっくりな姫を側室にして
その側室が2代将軍秀忠を生むのである。

ちなみに亀姫が死んだ後に鶴姫は亀姫の墓前に
椿の花を数百本植えて弔った弔ったいうエピソードがある。



656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 22:01:22.78 ID:SqWqwXvN
それって大河以前の出典のあるエピソード?

657 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/10(金) 22:13:40.76 ID:I2lYKaTf
原作読んでないからわからん
脚本家の創作かも知れないけど

658 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/10(金) 22:39:44.07 ID:I2lYKaTf
これからの「おんな城主直虎」は田鶴との血を血で洗う攻防戦になるから
これをどのように描くのかシナリオに興味があるな
この田鶴との攻防戦のできによっては面白くなるか
オニギリ以下の大河ドラマになるかの瀬戸際だから注目しといていいよ

659 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/10(金) 22:51:14.59 ID:I2lYKaTf
ネタバレになるのだが
大河ドラマの徳川家康の亀姫=おんな城主直虎の田鶴なんだよな

徳川家康では竹千代の初恋の姫で、直虎では直虎の最大の天敵というのも面白いですと思う

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 23:24:00.65 ID:TbL3G2rO
10年くらい前にいい悪いスレに上がってた話をドラマで見れるとか胸が熱くなるよな

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/11(土) 10:28:41.06 ID:NRxTn7fG
鶴姫=瀬名
亀姫=田鶴

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/11(土) 12:42:16.66 ID:3jYWWDyx
鶴がついてる方がつるひめじゃーないのか

「織田信長は類なき大うつけ者」

2017年03月10日 13:11

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 03:14:47.66 ID:wBEwJPR7
さて、信長公は17,8の御歳まで、特別の御遊びをなさらず、朝暮武芸を御好みになり、
日夜合戦の御嗜みであった。

弓の師は市川大介、鉄砲の師は橋本一巴、剣術の師は平田三位で、この者どもを
毎日召し寄せて稽古しなさった。朝夕、馬に乗りなさったが馬も優れた上手であった。

3月から9月までは、河水の遊びを御好みになり、たいそうな、水練の達者であった。
その頃、若侍どもを呼びなさり、竹で叩き合わせたのを見なさると、

「とにかく、槍は短き柄は良くないであろう。長柄に優ることはあるまい」と、仰せになり、
三間柄、あるいは三間半の柄で槍を拵えさせなさった。

その頃、信長の御行儀は甚だもって異相であった。日頃着なさる帷子の両袖をほどき
なさり、半袴や燧袋など、色々数多のものを身に付けなされた。

御髪は茶筅頭に紅糸、あるいは萌黄糸などで巻き立て結いなさり、太刀は朱鞘で皆
ことごとく赤武者の出で立ちにするよう仰せ付けなさった。

さてまた、鷹狩りを御好みになり、鷹野に出なさる時に毎度町を通りなさると、人目を
少しも憚らず、栗や柿、梨を馬上でかぶり食い、町中では立ちながら餅などを食い食い
通りなさった。

あるいは人に寄り掛かり、または人の肩に取り付き、連なりぶら下がって通りなさった。
その頃、世間は古風を慕って人は皆公方家の礼義を忘れず、儀式を好む世であった故、

このような異相であったから、近国や他国は押し並べて「織田信長は類なき大うつけ者」
と、申し合った。

――『織田軍記(総見記)』



713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 04:43:13.72 ID:e8L42e2/
三男坊だしええやん

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 08:09:59.39 ID:Ku4oyBYM
順序は関係ない
嫡男やし

「父は知らず。母は官女」

2017年03月10日 13:10

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/09(木) 23:55:41.28 ID:RVhtdrtc
或る説によると、豊臣秀吉が、実は神皇百六代後奈良帝の御落胤であるという。
母はこの朝廷に仕えていた所、禁裏衰微の故から御妊娠のあと故郷に帰り、上中村の何寺
とやらに居た叔父の僧の世話に寄って木下弥右衛門の所に嫁いだのだとか。

この説によると天瑞院殿(大政所)は弥右衛門の継室であり、瑞龍院殿(秀吉姉日秀尼)とは
別腹ということになるが、この説を豊臣秀吉は非常に喜び、後に朝鮮より素性を尋ねられた時、

「父は知らず。母は官女」

と書かせたという。

(翁草)



650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 00:18:49.42 ID:CuKbDLlq
大村由己「天正記」を真に受ける人がいたとは

なお朝鮮の宰相・柳成龍「懲毖録」によれば
「秀吉については、ある者は『彼はもともと中国人で、倭国に流れ込んで薪を売って生計をたてていた。
ある日、国王が外出中に道ばたで出会い、その人となりの尋常でないのを見て、軍列に加えた。
勇敢で、力があり、戦上手であったので、功績をあげて大官に出世し、権力も握るようになって、
ついに源氏(足利氏)を奪ってこれに代わったのだ』と言い、またある者は、『源氏が、ある人に殺され、
秀吉がまたその人を殺して国を奪ったのだ』とも言う。」
(中略)
その国では、天皇を尊び、秀吉以下は、すべて臣下の礼をもって対処している。秀吉は、国内にあっては王を称えず、
ただ関白とか、博陸侯とか称している。いわゆる関白とは、霍光の言った『凡そ事は皆まず関わり白(もう)せ』という
語からとって、そのように称えているのである。」
となってるので落胤とは思われてなかった模様



654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 13:55:56.55 ID:c5Zdyy3A
>>650
>『源氏が、ある人に殺され、秀吉がまたその人を殺して国を奪ったのだ』

爆弾正「よし、途中が抜けてるからセーフだな」

賊軍の平行長から

2017年03月10日 13:08

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 00:39:46.61 ID:CuKbDLlq
ついでに↓でも触れられているけど柳成龍による巨済島の海戦
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1642.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2860.html

賊(日本)軍の平(小西)行長から要時羅(よしろう)という人物が金応瑞に派遣されて
「自分は講和交渉を台無しにした加藤清正を甚だ憎んでいる。
これこれの日に、清正の倭船が渡海してくるので朝鮮の水軍は迎え撃つべきだ」と言った。
権慄はこれを信じたが、李舜臣は賊の罠だと疑い、前進せずに遅延してしまった。
とうとう清正が上陸してしまったため、朝廷は李舜臣を咎め立てし獄舎に投ぜられた。
するとまた要時羅が派遣されて「これこれの日に倭船が来援します」と伝えてきたため、
李舜臣と仲の悪かった元均は、あるだけの船を全速力で向かったところ、
強風が吹いて散り散りになり、疲れたところを賊軍に襲われてわが水軍は壊滅してしまった。
思えば、賊軍は水軍にだけは敗北を喫していたため、秀吉がそれを憤って行長に撃破を命じ、
行長は応瑞を騙し、李舜臣を罪に落とし、元均を海上におびき寄せて襲撃したのだった。
その計略は至って巧妙で、わが方は、ことごとくその計略にはまり込んでしまった。
哀しいことである!

友軍を売ろうとしたら大戦果を収めてしまった小西行長であった


平戸広前院、壱岐覚音寺、田平弥勒寺、城下正安寺、誓願寺等鐘之事

2017年03月10日 13:07

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 00:57:59.00 ID:B06BHJSI
平戸広前院、壱岐覚音寺、田平弥勒寺、城下正安寺、誓願寺等鐘之事

 天保甲午に侍臣の父が古談を言ったとして話した。
〔以下の文は他人が聞きやすいように記してある。〕

城下の町中にある七郎権現という祠は大きな宇である。
その祠前に道を隔てて海辺に船着きの石段がある。
法印公(松浦鎮信)が朝鮮へ御出陣の時はここから御船を出された。
この時祠の傍らにある別当広前院の門を顧みると、撞鐘が懸けてある。
公は軍吏に命じて
「かの鐘を銃丸とすべし」
とおっしゃられた。
〔予が思うにこの銃丸はいわゆる唐金丸(からかねだま)であろう。
堅物を貫ける利点がある。朝鮮着岸のとき、兵達の利となるように慮られたのであろう。〕

 これから公の鋭志を見ることができた。
この話を聞き、近頃かの侍臣が広前院の門を視たがその門は今日の物ではなく、
甚だしく古色であった。しかし懸鐘の鉤はなお衡門に存在していた。
鐘を取った後からまた年月を経てそこにある。この門の安否は知らないと。

 また不動院〔この僧は平戸の生まれで、久しく壱岐の某寺に住んでいた〕が話では
今壱岐の覚音寺〔立石村〕にある鐘は、法印公は朝鮮に持っていかれた広前院の物だという。
なぜ壱岐にあるのかというと御帰陣のとき混雑だったためだという。ならば銃丸の話はまた一説であろうか。
 少年の時に広前院に仮住まいしていた者に聞いても、前説のようであった。
これはかの寺で言い伝えだという。
また、懸鉤はかの古門を修造するときに取り離したときに、
そのころの住僧がよく心得ていて古い例によってもとのように打たせたという。

 またある者の話では領内の田平村の弥勒寺という寺には、領内の数里隔てた相神浦真法寺という寺の鐘があり、これも朝鮮帰陣の時のことと言い伝わっている。皆の混雑の有様が想われる。

 城下の正安寺という寺は古き祖先公が開基の寺である。
この鐘も朝鮮に持って行かれたが、この寺の銘がある鐘は今日向国にあると聞いたので、
そこの島津淡州に頼んでかの国に問うた。
何八幡とかいう社頭馬場がある辺りの寺に、
正しく平戸島正安寺と銘がある鐘があると答えた。
これらは元の場所と違い所に行き、島津氏が手に入れる結果となった。

 また城下誓願寺という浄土宗も古い寺である。
この寺に今ある鐘は大きな物であるが、長州吉田郷何々の鐘とか銘がある。
また誓願寺の鐘はいずれかにあると。
『扶桑鐘銘集』かに書いてあると思われる。
これは暗記なので定かではない。
この寺の鐘も古寺のことゆえ、朝鮮の役に持って行ったものの一つであろう。

(甲子夜話三篇)



653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 11:40:36.45 ID:gLZd/NjL
メチャクチャですがな w

すなわち御名を織田三郎信長と付けなさる。

2017年03月09日 20:38

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/09(木) 04:04:26.09 ID:v5m1NhMr
さて、吉法師殿(織田信長)を名古野(那古野)の城に差し置きなさり、備後守殿
(織田信秀)より、林新五郎(秀貞)、平手中務(政秀)、青山与三右衛門(信昌)、
内藤勝介、この4人が家老に付けられ、もっぱら傳り立て奉った。台所(財政)の
賄いは平手中務が奉行したということである。吉法師殿は内外共に、ことのほか
困窮しておられた。

成長に従い天王坊という寺へ毎日登山して、手習いをなされたが、すでにその頃
から気性は異相にして世の常人とは違っていた。信秀は古渡の新城におられた。
台所賄は山田弥右衛門がこれを勤めた。

かくて天文15年に吉日良辰を選び、吉法師殿は四家老を召し連れ、古渡の城へ
参上なされて、その城内で元服なさった。御歳積もって、13歳ということである。

備後守殿は怡悦なさり、上下の身分とも御祝いの酒宴をなさった。すなわち御名を
織田三郎信長と付けなさる。

翌天文16年、信長公は武者初めとして三河へと御出陣となった。この時、信長公
は紅筋の頭巾と羽織、馬鎧の出で立ちだった。これは、平手中務が計らい申した
ということである。

さて三河へ至り、今川家から人数を籠め置いていた吉良大浜という場所で信長公
は民屋を焼き払い、その日は野陣を張って一宿され、翌日に名古野へ帰陣された。

これが信長公の陣初めである。

――『織田軍記(総見記)』



709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/09(木) 07:48:00.48 ID:577KVNZe
宿舎を焼いて寒空の下で泊まるなんてバカな奴だな

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/09(木) 08:12:59.84 ID:O8/yWz+H
家康「というわけで信長公にあやかるため、秀忠の傅役には青山と内藤をつける」

山口さんお疲れ様です。

2017年03月09日 20:37

711 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/09(木) 11:04:36.36 ID:f+pfhTIu
慶長十七年(1612年)八月、島津忠恒は駿府の大御所徳川家康の歓心を買おうとしたのか、
琉球の草花を献上した。献上された草花のリストは
・仏桑花(ハイビスカス)一本
・山丹花(三段花、イクソラ)四本
・千年草(ドラセナ、幸福の木)一もと
・アダンの木二本
・からすの花三もと
・しろゆり根三十
・よなふ木(ガジュマル?)一本
(『鹿児島県史料 旧記雑録後編四』九四三号)

初めて見る亜熱帯植物に、家康はとても喜んだようで、
側近の山口直友から忠恒に礼状が届いた。
(『鹿児島県史料 旧記雑録後編四』九六九号)
「先度お上せいただいた三丹花(山丹花)や仏桑花を(伏見から)駿府に送ったところ
(家康が)一段とご機嫌」だったとあった。
家康も大いに満足し、来春もさらに気に入った草花数種を送って欲しいと所望している。
面白いのは、続けて「お上せの間に(草花が)枯れかかったので、私の手もとに置いてよく育てました」
とあることです。
ハイビスカスや山丹花が一時枯れかかったのを、山口直友が懸命に手当てして回復させたらしい。
(その時の時期は初冬の頃)
山口さんお疲れ様です。

※山口さんがどんな手当てをしたかというと、部屋に置いたハイビスカスや山丹花の周りに火鉢を
いっぱい周りに囲んで暖めたそうです。
(参考 さつま人国誌、全国都市緑化かごしまフェア 花かごしま2011での展示史料より)


坂田五郎左衛門、穴沢左近と勝負之こと 付異聞

2017年03月09日 20:36

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/09(木) 03:40:45.70 ID:3YZkEmVw
坂田五郎左衛門、穴沢左近と勝負之こと〔『校合雑記』〕付異聞

 世に『校合雑記』と題す書がある。実録と見える。
その書には、大坂信貴野での上杉景勝の兵である坂田五郎左衛門と穴沢左近〔世にいう薙刀の名人である〕の勝負が書かれてある。

 穴沢は隠れもない薙刀の上手であった。
坂田と槍を合わせると互角であり、
穴沢が手元まで入って来ると坂田は槍を捨てて穴沢を押し付けて引き組んだ。
穴沢は大力であったので、手もなく小高い所に坂田を組み敷いた。
しかし坂田は老武者で武功があったので、騒がず九寸五分を抜いて、
【根付の所より繰(クリ)かへし】〔根付以下十字はまだその事が分からない。よって原本に従った〕穴沢の首を取った。

「総じて自分の器量より他人をみくびりおごっている者は仕損じがあるものだ。
穴沢は器量を自慢していたと見えて、長刀ゆえに自分が生き残ると思っていた。」

と坂田が話していたと、上杉衆の話を書き付けてある。
〔長刀ゆえの言葉は、穴沢が長刀の能を誇っていたからかえって坂田は勝つことが出来て生存し、今日に至るとの事であった。〕

 ある夜話のとき、剣の師がいつもの稽古の話として言い伝わっているものを話してくれた。
穴沢のこの最後のとき相手は素槍であった。
しかし槍を合わせると穴沢はすぐに入ってきたので、相手は槍を投げ刀で袈裟に斬った。穴沢はここで負けたという。
師曰く、

「このようなので、太刀槍薙刀、その勝負の場は剣刃上である。」
(剣刃上※剣の刃の上を歩くように、自由自在なこと。)

『雑記』の文と異なっている。しかし両者とも心得るべきことだ。

(甲子夜話三篇)