七郎兵衛の策略

2017年08月03日 18:22

堀秀政   
118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/03(木) 05:14:39.58 ID:UnR9P03U
賤ヶ岳の戦いの折、堀秀政の陣へは、佐久間玄蕃(盛政)の進出した中しきり方面、並びに賤ヶ岳方面より、
しきりに加勢助力の求めがあった。このため、秀政はすぐに兵を出そうとしたが、これを
堀七郎兵衛(利宗、あるいは道利)と云う者が抑えて申し上げた

「勝家の柳ヶ瀬の陣から玄蕃の陣に向けて、使いが切々と往来しているのを確認しました。これは、
玄蕃の行った中入から、早く引き取れと伝えているのだと考えます。
もし玄蕃が中入を引き取るとすれば、もと来た道を帰らず、中しきりを突き抜けて帰陣しようとするでしょう。
然らば我等はこれと一戦しなければならない場にあります。
また玄蕃が引き取らないのなら、勝家が必ず、本軍を中しきりに押し寄せて合戦を始めるでしょう。

この2つ以外の方針はありえません。ですのでここで我が兵を分散すること無く、その節を待たれるべきです。」

「しかし玄蕃が引かず、勝家も出てこなければどうするのか」

「その時は勝家の運がここに尽きた、という事です。」

そう言ったが、はたしてその通りとなった。

この堀七郎兵衛は、かつて明智光秀との山崎合戦の際、堀尾吉晴の軍が天王山に駆け上がり、秀政の軍も
その後に続こうとしたのを止め

「山上の味方は崩れるでしょう。然らば彼に続いては供崩れとなります。別の場所より登るべきです。」

秀政はこれを聞き入れ別の場所から登ったが、はたして先手の堀尾の軍は敗れた。しかし別場所より
上がってきた堀軍が横槍を入れる形となり、大利を得た。これも七郎兵衛の策略であった。

(士談)


督姫、駿府の家康へ会いに行ったときの行列で

2017年08月03日 18:19

督姫   
33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/03(木) 11:14:05.46 ID:o7Tvq0XV
督姫、駿府の家康へ会いに行ったときの行列で


兵庫県加古郡播磨町北本荘にある蓮華寺には
古い礼盤(本尊の前で導師が礼拝し誦経するための高座)がある。
ttps://www.town.harima.lg.jp/kyodoshiryokan/kanko/rekishi/bunkazai/images/2012122316226.jpg
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平成に入ってから内側に墨書で、宥恵というお坊さんが礼盤の寄進者等の名と共に
慶長14年に見た督姫の行列の様子を記していることが発見された。
ttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/67/5499bb5e4cefffcc252b301616d6ab0e.jpg
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内容を意訳すると
『御前様(督姫)は、かご五、六十、お付の女性は三百人を超え、家臣などを合わせると
 総勢五千人余りの大行列で駿府に向かっていた。お供の贅沢で派手な衣装を見た人は
 目を驚かすばかりで「前代未聞有るまじき」と国中に広まる有様だった』

督姫は実際に慶長14年には息子の忠継、忠雄、輝澄を連れて駿府に行き
(夫の輝政は恐らく篠山城の普請中)6才の輝澄に松平氏を授かっているが
仮に墨書が本当なら、民衆には余りに大げさな里帰りに見えたのかもしれない。


○ 重箱獅子舞(三郷町野井)

2017年08月02日 19:09

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/02(水) 01:15:04.30 ID:qWCCf7Sp
○ 重箱獅子舞(三郷町野井)

口碑によれば徳川家康が武田氏と戦い、利なくして逃れて野井に来た時、

たまたま村民らは村社武並の祭典に集い、神前で酒を酌み、興に乗じて
重箱を戴き袱紗を被り舞っていた。

家康は、「ちょうど良い」とその群れに入り、ついに敵の危難から救われた。
家康は天下統一の後、この武並社の祭礼を重んじ、

“重箱獅子の舞”を奨励した。毎年の例祭には岩村藩主に使臣を遣させて
獅子舞を臨検させ、野井祭の名が高かったという。

今なお、重箱獅子の舞を伝えている。

――『恵那郡史』



117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/02(水) 01:17:29.09 ID:DdYy0X2r
なんでもかんでも三方ヶ原のせいにすればいいと思うなよw

週間ブログ拍手ランキング【07/27~08/02】

2017年08月02日 19:08

07/27~08/02のブログ拍手ランキングです!


主人の馬を戦場で放つ時 17

人を見立てる時は 13

武士の作法 12
日本国に歌道が流行れば 11
近衛信尹、関ヶ原後の家康への歳賀で 11

妻子を引き取る 9
乍去十五年おそく候 6
右馬允の意見 7
・唯落の城の事 本名高城 4


今週の1位はこちら!主人の馬を戦場で放つ時です!
戦場では、大将が馬を乗り換えるのも作法がある、というお話ですが、成功例が黒田長政なのも面白いですねw
彼はわりと、突進して逃げ帰る、という逸話のある人で、それ故か、こういう場合の対処について、家臣も手慣れている、、
という印象を持ってしまいますw
それにしても戦場では、心理のありようで戦局が大きく変わるという事、これは実戦の中での経験則だったのでしょう。
故に作法として、上層部に何かあっても、その心理的影響を最小限にする工夫が出来ていったのでしょうね。
そういうことを考える上でも、興味深い内容だと思いました。

2位はこちら!人を見立てる時はです!
これは徳川家康の、人を推薦する場合、自分を基準にするなというお話。
確かに、その人を基準にして誰かを推薦されても、それはその人の劣化バージョンでしかないでしょうから、主君としても
今更感があるでしょう。またその人の取り巻きを推薦されても、それは主君ではなくその人の権力を広げる助けにしか
ならないでしょう。
その人が持っていない能力を持った人を推薦することこそ忠義、という事なのでしょうね。こういうお話は現代にも通用するな、
なんて思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!近衛信尹、関ヶ原後の家康への歳賀でです!
このお話、最近出た、黒田基樹先生の「羽柴家崩壊」にも出ていましたね(非常に良い本でした)。
家康父子の取次として池田輝政が出てきたことに、近衛信尹が不快に思った、という内容ですが、いろいろ解釈の仕方が
ありそうな内容です。近衛信尹の不快が、輝政を取次にさせている家康父子に対してなのか、それとも家康父子の取次を
勤めている輝政に対してなのかで、解釈もそれなりに変わってしまうと思うのです。
前者は徳川家康が「豊臣公儀」を有名無実化していることへの不快であるし、後者であれば、早速「新しい権力者」家康に対する
池田輝政のおもねりへの不快に成るでしょうし、もしくは近衛信尹自身が、輝政とその前から関係が悪く対面したくなかった、
なんてことも考えられるからです。
昨今は、いわゆる「徳川史観の見直し」的なブームから、前者的(つまり「豊臣体制」が未だ人々の中に強く残っていた)解釈が
多いように思いますが(「羽柴家崩壊」もそういう解釈でした)、個人的には昨今の「徳川史観の見直し」という流れは、豊臣政権、
あるいは織豊政権への前のめりな過大評価になっている気がしていて、「どうかなあ」と思うことがしばしばありますw
そんなことも考えさせてくれたお話でした。

今週も各逸話に、たくさんの拍手をいただきました。いつもありがとうございます。
又気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してみてください!
( ´ ▽ ` )ノ

・唯落の城の事 本名高城

2017年08月01日 16:36

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 06:43:13.50 ID:0Qt/DYkk
・唯落の城の事 本名高城

立縫の郷・動土村にあり。国府伯耆守親俊の居城である。

大永4年、尼子経久が出雲より伯耆に攻め入り、国中の
城々を攻め立てた時、

当城へは未だに手付かずであったのに、伯耆守は大いに
驚き恐れ、「ああ、敵の多勢が攻めて来る!」と思い、

小勢では籠城も叶わないとして、俄かに城を空け退散した
ということである。

敵が攻めてもいない以前に自ずから落城した故、郷民は
これを嘲って“唯落の城”と呼んだのであるが、

今に至ってもその称あり。本名は高城という。

――『伯耆民談記』



29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 07:13:23.41 ID:7R2uTJ20
そんな城いっぱいあんのに

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 08:31:02.73 ID:iziwR2LU
バカな百姓には戦略的撤退とか理解できんし

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 08:36:59.67 ID:LyWGmxu9
伯耆が放棄

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/01(火) 12:38:08.25 ID:FqwVfGb3
国府氏って小野流海老名氏なのかな?
伊勢にも国府氏がいるみたいだけど同族か?

妻子を引き取る

2017年07月31日 12:09

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/31(月) 08:23:38.85 ID:zeMg4GZe
穴山梅雪は駿河国江尻に、曽根内匠と共に番手にあり、徳川家康に対し内通を申し出ていたが、
梅雪の妻子は人質として甲府にあり、これを引き払うことは難しく、殊にその頃は武田勝頼も梅雪を疑い始めていた。

そこで梅雪は密かに、徳川家康に内通を打診して、『返り忠仕るべし』との書状を持つ使節が来たのを、たちまちに誅殺した。
そしてその書状、並びにその頸を勝頼に見せた。
勝頼はこの計略に謀れ、梅雪を疑う心を和らげた。これにより梅雪は、妻子を引き取ることが可能になったという。

(士談)



25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/31(月) 08:27:55.27 ID:kaq0+LQg
妻子のために家康の使者を殺しておきながら家康に降るのか
のちに梅雪だけ死ぬのも仕方ないな

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/31(月) 08:54:53.00 ID:RR+3UwN9
曽根内匠といえば信玄の両眼の1人だけど
こっちは内通してなかったんだろうか

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/31(月) 11:02:37.61 ID:9PztAVDP
>>26
義信派だったらしいし徳川に無抵抗で降りてるから内通あったっぽい

武士の作法

2017年07月30日 19:08

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/30(日) 16:42:29.39 ID:GEqodZar
武田信玄の時代、武田家の武士の常々の慣習として、、道において、一人は騎馬、もしくは足駄(雨天用の
高下駄)履いていて、もう一人が歩行で行き会う場合、その両人がたとえ仲が悪くても、歩行の者が
物陰に隠れるのが当然とされた。そして騎馬、もしくは足駄の者は遠くで地面に降りて時候の挨拶をする。

先に歩行の者が物陰に隠れたのは、馬から降ろないでおこうという思いやりであり、武士としての
礼儀である。このように人が礼をしたというのに、これに挨拶を返さないのは非義というものである。
また用心のためにも、騎馬のものは降り足駄を履いていれば脱ぐのは、良き武士の作法である。

しかし馬に乗ったまま通るのなら、降ろすことは無用である。それは相手が武士の作法を知らぬ女侍なのだ。
逆に徒歩の者が傲慢で「降りよ!」などと言い掛けて来るのなら、それは降りる必要はない。
降りるくらいなら相手を討ち果たすべきだ。

もし又、親兄弟の敵のある者が徒歩で通る時、狙われる人が騎馬で行き会った場合、
狙われている者は「御使に参る!御免候へ!」と、嘘を慇懃に言って乗り通れ。
こうすれば狙う人も討たないことが不覚にならず、騎馬のまま退けば追いつかれることもない。

(士談)



主人の馬を戦場で放つ時

2017年07月29日 16:43

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/29(土) 13:46:06.13 ID:YqOeGAFB
城井の一揆の時、黒田長政の馬が深田に入りこんだのを、三浦六之助が自分の馬を奉り長政を退かせ、
長政の馬の尾を切り鐙を外してから長政を追いかけたという。
馬を奉って主人を撤退させたのは、沈勇かつ忠義ある行いであり、ことにこの時の作法が
勝れた心得と言うべきである。

古来より、主人の馬を戦場で放つ時、主人が討ち死にしたのではないことを示すため、
尾を切り鐙を外すのが礼であったという。
国府台の合戦の時、里見義弘に安西伊予守が自分の馬を奉って、自身は歩行して供をした。
しかし義弘の馬は鞍鐙をつけたまま陣中を駆け回ったため、これを見た兵たち
「さては義弘討ち死にか」と思い、これによって敗勢となり随兵の過半が討ち死にを遂げたという。

物事の究理薄いと、思わぬ失があるものなのだ。

(士談)


日本国に歌道が流行れば

2017年07月28日 16:10

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/28(金) 00:45:57.36 ID:5+Yov4kP
日本国に歌道が流行れば


細川幽斎の弟子松永貞徳の『戴恩記』に出て来る幽斎の思い出話。

あるとき(幽斎が)丸(貞徳の自称)の数寄の程が
あはれであると仰せられた時だったか
「日本国に歌道が流行ればそこも人に知られるでしょうにね」
と仰せられたので、丸が気が済むまで
「丸はこれが流行らぬのは幸せだと存じています。もし流行れば
 大名高家の人が我先に(幽斎の)御意を得られるでしょう。
 そうなればいつわたくし如きの者が御前に出られるでしょうか」
と申すと、尤もですねとお褒めになられた。

またあるとき、(幽斎が)
「禅定殿下(九条稙通)から源氏物語を御相伝されていれば
 御身とは弟子兄弟になっていましたね」
と冗談を言われたので、丸が思い切り
「よき御兄弟を持たれることは、誠に御果報並々ならぬ事ですね!」
と申し上げれば、一層機嫌よく笑われていた。


乍去十五年おそく候

2017年07月28日 16:09

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/28(金) 03:42:04.31 ID:GkcDtqOG
大坂より御帰陣の時のこと、権現様(徳川家康)は、その日は三嶋に御一宿の
はずが、ただちに小田原へ御越しになられ、大久保五郎左衛門(康忠か)を

召し出されて今回の御軍功を御吹聴なされた。大久保は御答えして「殿はよき
御巡り合せでしたね。でも15年遅かったですね」と申し上げた。

(殿は能御仕合にて候。乍去十五年おそく候と申上候。)

権現様は御勝軍に御喜びのあまりに、「その方にも2万石を取らせようぞ!」と
仰せ遊ばされた。すると大久保は御答えして、「殿は唐までも欲しいのですね。
私は2万石でも嫌です、欲しくないです」と、達て辞退申し上げたという。

(大久保御請に。殿は唐迄もほしく候べし。私は弐万石もいやにて候とて。)

だが実は不足の心であったという。五郎右衛門は七郎右衛門の兄の子である。
また新八(康任か)の祖父である。

――『武功雑記』



21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/29(土) 03:35:02.37 ID:3N0XHs1a
>>19
権現様は後にこれを聞き、「不足なのはもちろん知っていた。だが大久保の者は面倒くさい故、
あえて取らせなかったのだ」と語った。

――『俺の想像』

近衛信尹、関ヶ原後の家康への歳賀で

2017年07月27日 10:45

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/27(木) 10:41:11.98 ID:BmOTs3V3
近衛信尹、関ヶ原後の家康への歳賀で


関ヶ原の戦いが終わり初めての慶長6年の歳賀は、家康の体調不良により
諸大名は1月15日、公家衆は29日に秀頼と家康にそれぞれ賀す形で行われた。

近衛信尹は自身の日記で、そのときの愚痴を書き留めている。

正月二十九日、(大坂城)西の丸の内府(家康)へ御礼、此時内府は病気で
中納言殿(秀忠)が名代をした。中納言殿へと父子への礼で太刀代二つだ。
(家康父子の)取次は池田三左衛門(輝政)一人だった。秀頼であるならば
三左衛門でもいいが、ここでは本多榊原大久保などであるべきではないのか。
――『三藐院記』

輝政は去る18日には秀頼の名代として朝廷に歳賀をしているが
前後から推測するにどうも信尹は、輝政は名目上は豊臣家臣なのに
まるで徳川家の直臣のようにして出てくるのは不適切だと思ったらしい。



20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/28(金) 06:43:40.19 ID:Io2U+32W
>>18
解釈は逆だと思うなぁ
近衛信尹は秀吉のせいでエライ目にあってばかりだし

人を見立てる時は

2017年07月27日 10:37

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/27(木) 00:26:25.47 ID:FnnnmptH
ある時、徳川家康公の上意にこのようなものがあった

「人を見立てる時、自分を基準にするべきではない。自分のかしましい心を曲尺と定めて
人を選ぶ時、自分より勝る人間を選んで薦めるだろうか?

また、その自分にまさる良き者は、自分に対して追従をすることはないだろう。
自分に付き従う輩にばかり、目をつけるのは不忠というものだ。」

(武野燭談.)


右馬允の意見

2017年07月26日 23:00

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/25(火) 23:39:11.79 ID:4l9ckoea
小田原征伐において山中城が陥落した時、こぼれ者共(牢人たちか)は多く松平周防守(康重)の手に
加わっており、彼らは頸百四、五十を得た。彼らはこれらの頸を道にかけて通ろうと思い、周防守はこれを
牧野右馬允(康成)に相談した。しかし牧野は

「はかばかしい頸を取ったわけでもない。雑人に頸をかけ置くなどというのは要らぬことだ。
結果的に見苦しくもなるだろう。ただ頸の数だけど書き付けて披露するのが良いだろう。」

周防守はこの意見に従った。

ところが、後で周防守の家来たちは
「右馬允にだしぬかれた!頸を一つづつ道にかけておけば、太閤秀吉が通った折、大いに御感にも
あっただろうし、諸軍勢の勇にもなっただろう。全く要らぬことを意見しおって!」
そう、牧野の意見を批判したという。

しかし牧野は彼らを偽ったわけではない。ただその時の状況の判断が薄かったので、
このような批判を受けたのであろう。

(士談)


週間ブログ拍手ランキング【07/20~/26】

2017年07月26日 22:58

07/20~/26のブログ拍手ランキングです!


蜂屋を加えておけば、 17

首の臍 14
児玉は何故語らなかったのか 14

前足か後ろ足か 9
基広謀反と広継夫妻の自殺 7
『天上天下唯我独尊』の旗 7

信玄は釈迦を超えることを決意しているが故に 6
石川五右衛門偽上使の伝説 5
丈巌岩(岐阜県鶴岡村田代) 2


今週の1位はこちら!蜂屋を加えておけば、です!
このお話の面白いのは、信長の人事を平然と拒絶する柴田・坂井と、それに対して粘り強く、しかも丁寧に説明してなんとか
同意を取り付ける信長という、創作物などからイメージされる信長とは全く違う姿が描かれていることですね。
個人的には、実際の信長はこうい細やかな気遣いをした人だったでしょうし、信長の配下は信長に必ずしも
従順ではなかった、と考えています。信長が柴田勝家に宛てた、有名な「決して私に足を向けるな」という書状も、
実際に家臣から足を向けられている、という意識がないと書かないことだと思うのですよ。
秀吉なんて信長の命令に逆らうことばかりしていますしね。手取川の前に勝手に撤退したり信長が絶対殺せって言ってる
宇喜多直家と勝手に同盟組んだり。
そのあたりを見ても、信長というのは必ずしも独裁的な人間ではなかった、と考えていいと思っています。
そういうことを考えさせてくれる逸話だなと思いました。

2位はこちら!首の臍です!
こちらの面白いのは、池田と佐々の武功の譲り合いが「美しすぎて」信長がイラつく、という所でしょうねw
わりと良い光景なのに、そういう事に偽善や白々しさを感じてしまうということでしょうか。こういう感性も面白いものです。
そしてこういう場での「道化役」というもののありがたさも感じる逸話ですね。
こんな、わりと険悪な空気の中、「その頸、きっと自然に落ちたんですよ!」なんて事を平然と言えるのは、確かに
只者ではありません。また信長の小姓たちも、この空気を完全に無視した発言に、笑ってしまったのでしょうし、
信長自身も、自分の作った空気を破ってもらって、ある意味救われたと言っていいでしょう。
眼前で繰り広げられてる光景自体は「美しい」ものであり、それを怒るのは、決して良いことではないわけですからね。
そういう意味でも、実はわりと深いことを語っている気のする逸話だなと感じました。

同票でもうひとつ!児玉は何故語らなかったのかです!
このお話からは「武士は相身互い」という言葉を感じさせますね。
現在でも、同じ場所で同じことを経験してすら、それについて語る内容がまるで違う、なんてこともよくある話です。
しかもこれは、世間で有名と成った一騎打ちについての当事者の言葉であり、それに相違が有れば、それについて
様々に言われるであろうこと、想像できますね。
ここで児玉さんは、現在はその武功と関係なく家中で相応の地位を保っており、それゆえにこの時の話をことさら
語ることで藪内匠に無駄に批判を受けるような立場に立たせる必要はない。という事なのでしょう。
武士の「やさしさ」とは、こういう意識なのかな。などと思ったりしました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
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( ´ ▽ ` )

丈巌岩(岐阜県鶴岡村田代)

2017年07月25日 21:19

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/25(火) 05:04:18.56 ID:k9GLkaDF
・丈巌岩(岐阜県鶴岡村田代)

元和元年大坂落城の時、城を逃れ出た浪士で、近江大吉寺で法師になり
丈巌院弟慶と称した者がいた。

この者は徳川方の捜査の厳しさに、ついには寺を逃れて鶴岡の地に至り、
家を構えて付近を開拓し、世を避けて隠れ住んだ。

ところが、またもや探知されて捕手の人数が押し寄せた。丈巌院は山上の
大岩に上り、釜を被って兜に擬し、太刀を打ち振るって法螺貝を

吹き鳴らした。その凄まじい勢いに恐れをなした捕手の者共は、ついには
引き返したのだという。この岩を名付けて“丈巌岩”というのである。

――『恵那郡史』


首の臍

2017年07月24日 18:06

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/24(月) 14:55:04.07 ID:0xK7yMrw

織田と美濃斎藤家との軽海合戦の折、斎藤龍興の老臣である稲葉又左衛門を、池田庄三郎(恒興)、
佐々内蔵助(成政)が同時に討ち果たした。
織田信長が実検あって首帳に記す時、佐々内蔵助は「これは相(同時)討ちではありません。池田の功名です。」
と主張し、池田は「佐々の功名です」と主張して互いに譲り合った。

この光景がなんとも美しすぎて(何とやらん美し過ぎて)、信長の機嫌はどんどん悪くなっていった。

この頃、信長の元で出頭した僧に、島蔵主という者があった。当時の尾張では、皆が金言のことを「蔵主」と
呼ぶほどの人物であった。
彼は信長の機嫌がどんどん悪化しているのを見ると進み出て申し上げた

「この首は池田が取ったものでも、佐々が取ったものでもありません。両人の申す所、実に尤もであると
存じます。」

信長は呆れ
「ならば、両人の内どちらかが取らずして、一体何者がこの首を取ったのだ?不審である!」

「何の事もありません。これは瓜のように、首の臍、自然と落ちたものなのでしょう。」

この返答に小姓たちが笑いだし、信長もつられて笑い、この場は平穏に済んだ。

(近古武事談)


前足か後ろ足か

2017年07月23日 15:30

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/23(日) 12:03:46.98 ID:1Pz0svPG
蒲生氏郷が、その頃の伯楽(馬を見分ける名人)である”こつひら”という者に尋ねた

「早い馬というのは、前足の地面を蹴る力の故に早いのだろうか、それとも後ろ足の捌きが良い故に
早いのだろうか?」

こちひらは申し上げた
「馬は、後ろ足の捌きが良い物が早いと存じます。」

これに氏郷
「私は幼若の頃より織田信長卿の傍に昵近して、目にも見、耳にも聞いたこと多い。
弓矢のことは、先を追い立てられた場合、二の手を以って持ち返すのは非常に難しく、
ただ先を第一とするのが肝要なのだと、信長卿は常に仰っていた。
ここを以って考えれば、前足のよく効いた馬の方が早いのではないかと、私は思ったのだ。」

こつひら、謹んで申し上げた
「私はいやしき業の者ですから、左様な高きわざの事は存じません。ですが、私は元西国の出身なのですが、
船の往来を見た時、前櫓よりは後ろのとも櫓に上手な水夫を立てて押したほうが、船は早くなります。
前櫓が良くても、とも櫓の押し手の能力が低いと、船は満足に動かないものなのだと見えました。
船も馬も、遅速のことわりは同一の物であると考え、ご返答したのです。」

(士談)



110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/23(日) 12:10:18.68 ID:UWC8+0GP
新庄「バッティングで大事なのは腕ですか?腰ですか?」

野村監督「どっちもや」

を思い出した

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/23(日) 12:27:22.34 ID:NJfbG9iN
こういうのを拗らせると、拍子を打った時に音が鳴るのは右手か?左手か?みたいな話になっていくんだな

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/23(日) 14:36:31.16 ID:5Vt6clig
マキバオーのマスタング走法

蜂屋を加えておけば、

2017年07月22日 18:50

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/22(土) 18:44:44.31 ID:q3SVQupX
織田信長の初めの頃、柴田勝家と坂井右近(政尚)の二人が軍奉行を担当し、織田家の弓矢のことは
全てこの二人が指引した。信長はここに「蜂屋兵庫頭(頼隆)をこの両人に加えるように」と命じた。
蜂屋は武功抜群の者であった。

ところが柴田と坂井は、信長に対し
「蜂屋を加えられるのであれば、我々は軍奉行の役儀を返上します。」と、強い拒絶を表明した。

信長はこれを聞いて、
「こういったことは両人も進んで同意すべきなのに、そうしないのは不審である」と、
再び使いを以て命じたが、両人は猶以て役儀の辞退に及んだ。

信長はやむを得ず、両人に対し何故蜂屋を加えるのかを、直に説明した。

「蜂屋については、お前たち両人と同じ武功の者であるとは考えていない。だが彼は
諸事口才のある者である。合戦の最中、戦場から両人のうち一人帰って報告を行わなければ
いけない事もあるだろう。またこちらから両人の一致した判断に疑問を持つこともある。
そういう時、蜂屋を加えておけば、私の元に使いとして送るときも、また判断について
問い合わせるのにも便利ではないか。」

柴田、坂井はこの理に納得し、反対を取り下げたという。

(士談)



108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/23(日) 02:08:28.81 ID:4+4ziU7k
始めの頃っちゃまだ尾張の頃かな?

基広謀反と広継夫妻の自殺

2017年07月21日 10:24

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/21(金) 05:51:12.75 ID:kjoRx6NM
蠣崎季広の時代、一族の基広は謀叛を企てて家督を奪おうとし、季広が
帰依する賢蔵坊という者を誘って季広を呪詛させたが効果が無かった。

天文17年3月、季広が上国に行くのを機会とした基広は、賢蔵坊に季広
を討たせようとするも、彼は心を翻してその企てを季広に告げた。

季広はすぐに長門藤六広益を遣わし、基広を誅殺させ、南条越中広継に
上国を守らせた。広継の妻は季広の長女であった。

彼女は婦女の身ゆえに家督を継げないことを憤り、ついには謀叛を図り、
父・季広の近臣を誘い、弟の舜広と元広に毒を与えた。このために二弟
は病んで毒害され、陰謀は発覚して広継夫妻は自殺した。

――『北海道史』


児玉は何故語らなかったのか

2017年07月21日 10:08

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/21(金) 10:03:56.50 ID:WpG9uMxK
天正13年、羽柴秀吉による四国征伐の折、伊予金子城の籠城戦において、長宗我部方の藪内匠と、
毛利家の士、児玉三郎左衛門との槍合わせは、世の人が大変に話題にした出来事であった。

後に、本多佐渡守正信が児玉を招いて、その時の働きの様子を詳しく尋ねた事があった。
しかし児玉は「前後の次第を忘却してしまいました。」と言って、終に語らなかった。

その後、ある人が児玉に、何故語らなかったのかを尋ねた。児玉は

「藪内匠は、今ではその名が世上に流布している有名人である。彼が話した内容のとおりに
私も語れば、相違なく然るべしであろうが、もし私の言う所と創意があれば、人から褒貶もあり
よろしからぬ。

私は現在、武功を主張せねばならないような立場で江戸に来たわけではない。忘却したと言っても
失うものはない。また内匠について悪しざまな評判が立つのも本意ではない。」

正信もこれを後で聞いて、その志を深く感じたという。

(士談)


106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/21(金) 13:34:57.53 ID:T5B68rgu
ヤブタクミ?