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週刊ブログ拍手ランキング【03/25~/31】

2021年03月31日 16:58

03/25~/31のブログ拍手ランキングです!


屍暴戦場唯是天 11

織田信雄の改易とその後の顛末について 10
中村新兵衛は近江国の人で 10

これより長政を恐れて 9
その趣きを、私は記すのである 9

涙を留めることが出来なかったのが、秀吉の双眼である 8
君臣共に悪逆を共有している 5



今週の1位はこちら!屍暴戦場唯是天です!
「刀根坂の戦い」といえば、信長率いる織田軍が朝倉に対し決定的なダメージを与え、その滅亡に至らしめた戦いです。
そこで、朝倉義景を逃すために戦った、山崎吉家、託美越前守のお話ですね。
実は託美越前守がどういう人物であったか、よく解りませんが、このような印象が後世に伝わっている事からも、
この戦いで奮迅した人物であると、強く印象されていたのでしょう。
その辞世の句も、武人らしい観念に溢れています。
越前朝倉氏は長く信長と対峙したこともあってか、現代では知名度的にはマイナーであるものの、家臣団に勇士、勇者と
伝えられる人物が多くあり、やはり強力な家であったのだと今に感じさせます。
またその末期には、一族、重臣が必ずしも主家に忠節が有ったとは言い難い中、このような強烈な忠節が描かれていることも、
朝倉家を見る目を新たにしてくれる気がします。
一つの物語としても美しい、そんな内容だとも思いました。

2位はこちら!織田信雄の改易とその後の顛末についてです!
こちらは織田信雄の改易について。
信雄は当時豊臣政権にあって、官位的には秀吉に次ぐ序列2位であり、また秀吉に臣従した家が基本的に豊臣姓、羽柴苗字を
名乗る中、平姓、織田苗字を維持し、正しく特別な諸侯でした。そんな彼の改易はやはり政権における大事件であり、
当時様々に取り沙汰されたようです。
基本的には、彼の改易は家康旧領への転封拒否が理由とされているのですが、こちらでは小田原役に戦功無く、また
敵との内通の噂があったため、としていますね。
『関八州古戦録』はその名の通り、関東の戦国史を描いた書物ですから、信雄の改易も、関東との関わりを強調した結果、
このような表現と成ったかと思われます。又実際、後世の意識として「転封拒否だけであんなに厳しい改易を受けるのは
考えにくい」というものがあったのかも知れません。
また織田信雄という人物についても考察したく成る、そんなお話だとも思いました。

今週は同票でもう一つ! 中村新兵衛は近江国の人でです!
中村新兵衛高次という人は、三好の勇者として、当時相当有名な人物だったようで、様々な逸話が残っています。
菊池寛が小説にした「鑓中村」のお話は有名ですね。
こちらは一騎打ちで六角方の勇者を討ち取った話ですが、同時に『一日に鑓を合わせること十七度、首四十一級』とあり、
これを見るだけでもちょっととんでもなく人離れした人物と感じてしまいますね。又同時に、当時の畿内の合戦における
三好の激しさというものも想像できそうです。
戦国期の勇者というものの凄まじさを感じさせる、そんな逸話だと感じました。




今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
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(/・ω・)/

君臣共に悪逆を共有している

2021年03月30日 18:09

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/30(火) 17:42:46.03 ID:N0+W4jyb
明智光秀は天正七年六月、修験者を遣わして丹波の守護、波多野右衛門太夫秀治の元に、光秀の母を
人質に出したため、秀治はその弟である遠江守秀尚と共に本目の城に来たのを、酒盛りをして饗し、
兵を伏せ置きて兄弟を始め従者十一人を生け捕りにして安土に遣わした。秀治は伏兵と散々に戦い、
この時傷を蒙り途中にて死した。信長は秀尚以下を安土にて磔とした。
丹波に残った者達は、明智の母を磔にした。
そして明智は終に赤井等を攻め従え、丹波を信長より賜った。

また信長、ある時酒宴して七盃入の盃を以て光秀にそれを呑むことを強いた。
光秀は「思いもよらず」と辞し申しと、信長は脇差を抜き
「この白刃を呑むべきか、酒を呑むべきか」
と怒ったため、光秀は酒を呑んだ。

その後、稲葉伊予守(良通)の家人を、明智が多くの禄を与えて呼び出したが、これに対し稲葉は
返還するように求めたが戻さず、信長からも「戻せ」と下知されたにもかかわらず従わなかった。
信長は怒り、明智の髪を掴んで引き伏せて責められた、この時光秀は
「国を賜り候へども、身の為に致すような事はせず、士を養うを第一としているのです。」
との内容を答えると、信長は怒りながらも追求を止めた。

東照宮(徳川家康)御上京の時、光秀に馳走の事を命ぜられた、種々饗礼を設けたが、信長が
鷹野の時、立ち寄って見て、肉の臭くなっていると草鞋にて踏み散らした。
光秀が又新たに用意している所に、備中に出陣せよと下知された。
これに光秀は忍びかねて、信長に叛いたのだという

であれば、信長の暴なること元より論を待たない。
光秀は土地を攻略するために老母を人質として殺すという不孝を、信長は賞した。
君臣共に悪逆を共有している。終わりを良くせざること、理である。

常山紀談



涙を留めることが出来なかったのが、秀吉の双眼である

2021年03月29日 18:02

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/29(月) 15:22:42.62 ID:i9JLaDLA
(秀吉の主催した織田信長の葬儀にて)、その時、秀吉、御次丸(羽柴秀勝)は相共に焼香し、
十月十五日巳の刻、(信長は)無常の煙となし奉った。誠にこれ、一生別離の悲しみである。
一体誰がこれを嘆かないでいられるだろうか。
葬儀の間、涙を留めることが出来なかったのが、秀吉の双眼である。

偏に将軍(信長)の威気は天下を覆い古今に独歩していた。上は上皇(天皇)を安んじ奉り、
下は下民を憐れんだ。そのため、忝なくも勅使を立てられ贈官を給わった。
総見院殿大相国一品泰巌大居士と号し奉るものである。

秀吉が備中表において武勇を専らとし、謀策をめぐらせ給わなければ、どうしてこのように速やかに、
惟任(光秀)を退治できただろうか。
今、本意を達し、この孝養を行うこと、秀吉一世の冥加、末代の龜鑑である。

すなわち藻虫斎(大村)由己が、記し置く所である。万歳珍重である。

天正十年十月二十五日 謹んで之を誌るす

惟任退治記

秀吉が大村由己に編纂させた惟任退治記の中で、おそらく一番伝えたかった部分



48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/29(月) 15:37:54.63 ID:h1DRfmDL
日付は重要やね

屍暴戦場唯是天

2021年03月28日 16:15

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/28(日) 13:37:51.94 ID:6RBK85DI
天正元年、織田信長との江北の戦に朝倉が敗れると(刀根坂の戦い)、信長の兵、撤退する朝倉軍を
追撃すること急であった。
朝倉の侍大将である山崎長門守(吉家)、託美越前守は柳ヶ瀬にて踏みとどまり支えると、
これに励まされて返し合わせて、討ち死する者も多かった。
山崎も大軍の中に駆け入って討たれた。

託美越前守はは矢立の硯を取り出し、師を一首書いて落ち行く者に頼んで、故郷に届けさせた。

 萬恨千悲有驀然、唯識今夜入黄泉、故園更莫灑愁涙、屍暴戦場唯是天
(萬恨千悲は急に起こるものだ、私はただ、今夜黄泉へ入ることを知っている、
 故郷の人々よ、嘆き涙を流さないでほしい、屍を戦場に曝すのも、ただこれは天の定めた運命だからである)

かくて散々に戦って討ち死にした。その間に朝倉義景は逃れ、越府(一乗谷)へ引き取った。

常山紀談



織田信雄の改易とその後の顛末について

2021年03月27日 18:00

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/27(土) 15:34:52.41 ID:YYglUKru
(小田原の陣の後)秀吉公は江戸表より岩築と押し通り、野州の地に打ち出て、宇都宮に暫く逗留された。
この時、北畠内大臣(織田)信雄は、この度の一挙にさしたる軍功もなく、韮山の一城さえ攻め落とすことが
出来ず、剰え小田原の城中と内通の仔細があるという話が、殿下(秀吉)の元にも聞こえ、これらによって
『武の器に堪えず、柔弱である。』と、尾張国及び北伊勢五郡の所領を除かれ、これを近江中納言秀次へ
賜り、信雄へは鳥山城へ押し籠め、剃髪するように命じられた。信雄は力及ばず、入道して徳源院常真と称した。
その後、羽州仙乏領秋田に遠流に処せられた。

翌年八月、秀吉公の子、棄君(豊臣鶴松)の誕生が有り、その大赦に遇って勢州朝熊山に来て寓居されて
いたのを、また豫州へと遷されたが、文禄元年、三韓征伐として殿下が肥前国名護屋に動座の時、付き従うよう
言われ、その砌に息男の宰相秀雄に、越前国において五万石を宛行われた。

関八州古戦録

織田信雄の改易とその後の顛末について



645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/28(日) 11:49:07.61 ID:cF/gG/Ss
鳥山城ではなく烏山城では

これより長政を恐れて

2021年03月26日 18:25

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/26(金) 16:59:53.91 ID:/LJeRXU6
浅井備前守長政が、玉淵川を限りとして、斎藤龍興(実際には義龍か)と合戦をした。
ある時、長政は五百ばかりの兵をよりすぐり、関ヶ原野上の宿に火をかけ、樽井の前にある小川に
柵を造り待ち構えた。

龍興勢一万ばかりがここに出ると、長政はこれを聞いて、百人ばかりを菩提の小道より敵の後ろに廻らせ、
自らは四百ばかりを以て敵の油断している所を夜討ちした。
そこに小道より迂回した兵も馳せ来て、思いもよらぬ所より鬨の声をあげると、龍興は内通の者が有ると
思い、慌てて岐阜へと引き返した。

その後、長政は大垣の周辺所々に火をかけさせると、龍興は「敵が勝ちに乗じて大垣を攻めるのだろう、
いざ助けよ!」と岐阜を出たが、長政は引き返す時に、足軽で物に慣れた者達三十人を樽井の土民の
家に隠した。

龍興勢が樽井に入ると、士卒も疲れていたために、兵糧を使って油断していた時、隠し置いた足軽共、
所々に火をかけて焼いた。そして長政勢は思いもよらぬ所へ押し寄せ、斎藤勢を散々に打ち破り、
やがて南宮山に上って敵を待った。

龍興は二度まで敗北し口惜しく思い、「四面を取り巻いて余さず討たん!」と押し寄せたが、
長政見て「敵は大軍なり、十死一生の戦とはこれなるべし。我が下知無き内は箭の一筋も
射るべからず。」と言って、敵が攻めかかってくるのを待って、山の上より一文字に
切って懸ると、龍興大いに敗軍して、これより長政を恐れて再び合戦すること無かった。

常山紀談



その趣きを、私は記すのである

2021年03月25日 17:58

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/25(木) 13:52:15.72 ID:aTzJ8sRQ
聞きしはむかし、伊勢新九郎氏茂という侍が遠国より来て、伊豆国を切り取ったという事が
言い伝わっているのであるが、多説あって何れが正しいのか知り難い。

新九郎は京都より駿河に下り、今川氏親を頼み、牢人分であったが、武略の侍と船にて渡海し、
伊豆国を切り取ったよしを、老人が物語した。しかしこの説は覚束ない。

どういう事かと言えば、例えば私が江戸に在って、近辺の町人の噂話などを今日聞き、あくる日に
その実否を問うと、虚言ばかり多い事がわかる。江戸中の事ですらそうなのである。その上年月を過ぎ、
境を隔てている事について、言いたいように語るのは、世の常の習いであり、しかしそれを聞く人は誠と思い、
筆にて記し置くために、後世の人はこれを治定としてしまう。
兎にも角にもそら事の多き世なのである。

だからといって、今更世の噂を云うわけではない。右の新九郎は、名を得た達人であり、古き文に
一言づつ、数多に書き残されているのを愚老が近年見つけ出し、その趣きを、私は記すのである。

北条五代記

北条五代記の冒頭部分



中村新兵衛は近江国の人で

2021年03月24日 18:20

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/24(水) 16:07:14.32 ID:0ytyTjY3
佐々木(六角)と三好が合戦をした折、佐々木は糺に陣し、三好は赤山に有った。
三好は使いを以て、

「我が方には中村新兵衛という剛の者がある。我と思わん人あらば出られよ。他人を加えず戦おう。」

そう言うと、佐々木はその家中にて江州に隠れなく、永原安芸守という者をすぐり出した。

二人は修学寺石地蔵の前にて出合い、永原は直鑓、中村は十文字の鑓にて散々に戦ったが、
中村は永原を終に突き伏せ首を取った、

中村新兵衛は近江国の人で、一日に鑓を合わせること十七度、首四十一級を得たことが有り、
世に「鑓中村」と称した。

永原を討ち取った時、室町将軍霊陽院殿義昭が、江州矢島にてこれを聞き召し、感状に朱塗りの物の具、
朱柄の鑓を添えて給わったという。
一説に、彼は摂州半分を領した松山新介(重治)の士であり、唐冠金纓の兜を着けていたという。

常山紀談

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9914.html
この槍中村の別の話ですね



週刊ブログ拍手ランキング【03/18~/24】

2021年03月24日 15:46

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「かかる手配りならば、必ず味方敗軍すべし。」 10

徳川秀忠の正妻・崇源院について 9

武蔵坊弁慶借状之事 8
島原の乱の始まり 8

百日参りの犬 7
上杉謙信の青竹 6
如意ヶ嶽城の怪異 6


今週の1位はこちら!「かかる手配りならば、必ず味方敗軍すべし。」です!
後に新発田の乱を起こす、新発田重家についてのお話ですね。
彼は北方の伊達、蘆名、あるいは織田勢力と結び、天正九年から同十五年まで、一事は優勢を保ちつつ六年の間
上杉景勝と戦い続けた人物です。仮に本能寺の変があと三ヶ月遅れていれば、越後上杉氏は滅亡し、越後北部の
大半は、新発田氏のものになっていたでしょう。
こちらはその新発田重家の少年期のお話ですが、そんな後年を思わせる、豪胆で有能な人物として描かれていますね。
上杉謙信の怒りに動じないというのは、逸話的にも、相当以上の表現だと思います。
新発田重家という人物に対する後世の評価がよく解る、そんなお話だと思いました。

2位はこちら!徳川秀忠の正妻・崇源院についてです!
崇源院、すなわちお江の方についてのお話ですが、やはりまず面白いのは、その母であるお市の方が、信長の
実妹かという殊に疑問を持たれているところですね。個人的には彼女に対する織田家の中での扱いを見ても、少なくとも
同母妹では無いだろうと考えているのですが、この手の疑念もわりと古くからあることが解ります。
それにしても、将軍正妻ではありますが、こうやって女性につてしっかりと記録が成されているのは江戸期ならでわですね。
中世では将軍や大名の妻女であっても、下手をすると名前すらわからない、という事がざらにあります。
そういった面もあり、戦国期は「家」の中での役割はともかく、社会的に女性が非常に軽視されていた時代であった、
とも言われます。そんな事もふと思い出したお話でした。

今週管理人が気になった逸話はこちら!武蔵坊弁慶借状之事です!
武蔵坊弁慶という人物、実は史料的には、頼朝と対立し逃亡した義経に従う郎党の一人、としてしか出てきません。
彼が勇猛怪力、かつ義経の忠臣たる荒法師として描かれたのは、室町初期に成立したとされる『義経記』以降とされ、
その描写を元に弁慶のエピソードが能の『安宅』に取り入れられるなどして、一般的にも人気キャラに成っていったと
考えられます。
ここに書かれている「弁慶の借り状」なるものが、はたして本物であったのか、今となっては何とも言えません。
おそらくは弁慶が有名になってから、弁慶の名を仮託して作成された、一種の偽文書であるとは思います。
しかしそういったものが作成され、将軍の元にまで収集されていたと考えると、当時の弁慶人気というものを
生き生きと想像させてくれますね。
また義政の収集した古文書の中に、弁慶が「美僧」であると書かれていたそうですが、それは一体どんな文書で、
弁慶の容姿をどのように描いていたのか、実に興味深いですね。
或いは偽文書であったとしても、そこに、人気キャラ、好きなキャラを美形にしたい、という心性がこの時代にも働いていた、
ともいえ、どちらにしても、この義政の収集文書が今に残っていないことが、実に残念至極ですw
歴史と文書についても様々に考えさせてくれる、そんな内容だと思いました。



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上杉謙信の青竹

2021年03月23日 18:50

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/23(火) 16:01:53.24 ID:Dtj72xDC
上杉謙信は、背丈はさほど高くなく、左の足に気腫があって、歩く時足を引くように見えたという。
物の具を着ることは少なく、黒き木綿の胴服を着て、鉄で作った小さな車笠をかぶり、采配を取ることも
少なく、青竹を三尺ばかりにして杖のごとく提げ持って、それにて士卒を下知した。
梁の韋叡の「竹如意(僧が読経や説法の際などに手に持つ、孫の手のような形をした道具)」の
遺風であるという。

(北魏の兵が鍾離城を攻めた時、梁は韋叡を以て後援させた。北魏の将である揚大眼は勇将で、
数万騎を率いて戦ったが、韋叡は素木にて造った輿に乗り、白角の如意を執って
軍兵を下知し、切り勝った事が史書に見える)

常山紀談



「かかる手配りならば、必ず味方敗軍すべし。」

2021年03月22日 17:08

2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/22(月) 13:05:37.09 ID:LAECT/y2
上杉謙信が小田原城の蓮池まで攻め入り、明日は鎌倉に赴くべしとして、軍評定を行った時、
新発田因幡守治長(新発田重家)、その時十五歳であったが、進み出て申した
「かかる手配りならば、必ず味方敗軍すべし。」

これを聞いた謙信は怒って「舌のやわらかなるままに物を言う!」と怒鳴ると、治長は居直り謹んで
「今日より君臣の義を絶えさせ給わるという事であれば、私は小田原に馳せ参り、北条家の先陣をして
君を追い打ち参らすべし。酒匂川のこなたにて容易く討ち取り奉らんものを」と申した。
謙信はその時色を和らげ、「天晴剛の者よ、神妙にも申したるかな。明日の殿をせよ。」
と命じた。
治長は「軍立てしかじかすべき」とて、やがて事無く小田原を引き取った。

治長は後に景勝の世に及んで二心ありければ、景勝これを討とうとしたが、新発田・五十野両城を
守って、三年を経て城が落ちると、治長は染月毛という馬に乗り、三尺五寸ある光重の刀を
抜き持って、大軍の中に駆け入り討ち死にした。

この馬は極めて色の白い尾であったので、茜の汁を刷毛にて染めると、年月を重ねた後、まるで真紅の糸を
乱し駆けるようであったとか。井筒女之介(尼子十勇士の一人)が、この馬を得て乗ったという。

常山紀談

新発田重家についての常山紀談の記事



如意ヶ嶽城の怪異

2021年03月21日 19:02

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/20(土) 21:19:51.03 ID:F/WYy8iT
洛東の高山を如意ヶ嶽という。ここには昔、如意輪堂があって美々しき盛りであったと云われる、
この山に瀧があり、急雨五月の頃、京よりこの山を望むと瀑布がありありと見えて、いみじき壮景であった。

昔、当寺繁盛の折から、この瀑布の傍らに楼門があった。これすなわち三井寺の境地にして、
西方の門であった。そのためこれを号して「楼門の瀧」と言った。
往古、三井寺に役する者は、この道を往還したと云い伝わる。京よりかの寺に行く時は外の街道より
険難であるのだが、非常に近道になるのでそうなったという。

この山に有った城郭は(足利義晴が築城した中尾城の事か)、去る頃公方がいみじく執し給ったのだが、
その後不吉の聞こえ有りと云って廃荒した。
また、このあたりに昔、平氏の世に、俊寛僧都、平判官康頼その他の人々が、後白河院にすすめ奉って
平氏を滅ぼすべしとの相談の有った山荘の跡地であるといって、その礎石がある。
総じてこの一山には古の様々な寺院山荘があって、軒を並べたいみじき場所では有るが、廃亡は
時の運命でも有るのでせんかたなし。

さて、去る頃、ここの城が盛んであった折から、不思議の化物があって、人を入り絶えさせたと云い伝う。
奥の矢倉の下に勤め守る侍共、雨天の物寂しい折から、碁、双六などを持ち出して遊び戯れている時、
明かり障子の破れた所より、面の広さ三尺(約九十センチ)ばかりにして、三目、両口の鬼形のもの、
内をきっと見入った。これに戯れていた人々は興を冷まし、身の毛も立てて恐怖した。
既に夜更けであったのに、虚空より、鏑矢、太刀の音など聞こえて、化生の者まなこに遮り、恐ろしい山であると
云々。

この事は、常徳院殿(足利義尚)御家来の某という者が、最近まで長命していて、修学院の傍に
牢浪として閑居していたのだが、彼が詳しく語られた。

塵塚物語



武蔵坊弁慶借状之事

2021年03月20日 17:54

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/20(土) 17:31:49.71 ID:F/WYy8iT
武蔵坊弁慶借状之事

昔慈照院殿(足利義政)が在世の頃、様々の道具、古き筆簡など、もろこし、わが朝の名人を尽くして
高覧あった。これによって将軍家に拝謁する人々は皆、珍しき筆跡を各々参らせられた。
或いは宸翰の類、その他掛け物など、あたかも山の如くに集まった。
その品々は、申すに違わず類なき見ものであったと言い伝えられている。

その中に、武蔵坊弁慶が手跡として、文が二十通ばかり、あなたこなたより集まった。
そこに書かれた言葉は、皆借用状であった。
或いは「痩せたる馬一疋御借し候へ」、或いは「砂金すこし預け給え」、或いは「絹一反、粮米一表
貸し給え」と、些細なものまで借りようとした文どもであった。
これは第一の見ものであるとして、上下喜悦して笑いあったという。

これに対して、将軍が仰せに成ったことには
「わずかに現代に残った文どもさえ、かくの如くの借用状である。弁慶が在世の頃には、一体どれほどの
ものを借りていたのだろうかと思うと、大変面白い。
そしてこの文を見れば、彼が無欲の者であったという事も明らかである。一日の蓄えが有っても、明日はまた
人の労志によって日を暮らしていたのだろう。このようであるのだから、定めてその借り物を返弁する事も
無かったのではないだろうか。

つまるところ、蓄財するつもりのない者という所が顕れていて、殊勝である。」
と、大樹(義政)も御感あったという。

現在の僧俗も弁慶のように振る舞うならば、人に疎まれることも無いだろう。
また、弁慶の姿が恐ろしく醜く絵に書かれるが、これは大いなる僻事と見えたり。
右の反故の中に、弁慶を「美僧なり」という事、数多その当時の僧共の文がある。
各別千万の事である。

塵塚物語

足利義政の収拾した文書の中に有ったという、弁慶の借用状について



島原の乱の始まり

2021年03月19日 18:09

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/19(金) 15:20:18.90 ID:561gD9iY
今度の島原での切支丹(一揆)が起こった次第について、杢右衛門、善右衛門、宗意、
源右衛門、山善右衛門と申す者達、二十六年以前より、天草の内、大矢野、千束島と申す所に
数年山居していた所に、(寛永)十二年丑の六月中の時分より、かの五人の者申し廻して、
天草の内、かうつら(上津羅ヵ)と申す所に住居した。

伴天連は二十六年以前に、御公儀の御拂によって異国へと遣わされたが、その時伴天連は書物を以て
申し遣わした。そこには

『当年より二十六年目に当たって、必ず善人が一人生まれ出るだろう。その子は幼い頃から、諸学を極め、
天に印を現すだろう。木に饅頭が成り、野山に白旗立ち、諸人の頭にくるすら立つだろう。
東西に雲の焼けが必ず有るだろう。諸人の住居、皆々焼け果てるだろう。野も山も焼け、生きていけなく
なるだろから、書き置く。』

と申してあった。

天草に在った大矢野四郎という者を、この書物と引き合わせて考えてみた所、かの書物の通り
違わないとの事で、「さてはこれが天使であろう。」と諸人に対し、先の五人の者達が触れ廻り、
尊ばせた。この四郎は、生年十六歳であった。

切支丹(一揆)が起こった時分は、丑の十月十五日頃、天地が動くほどの不思議なることが出来た。
その時、「皆々驚いてはいけない」と、あの五人の者共が申し聞かせた。その人々は、かの五人が申す如く、
丑の十月一五日の夜に入り、俄に切支丹に立ち返り、村々にて頭だつ者達と談合し、脇々の者共もすすめ、
人数を催促し、島原所々の代官、並びに他宗の出家、切支丹に成らぬ者共を残らず斬り、
在々所々に引き籠もった。

天草土賊城中話

島原の乱の始まりについて



百日参りの犬

2021年03月18日 18:16

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/18(木) 16:40:04.87 ID:kFiGMysd
いつ頃のことであったか。城州鞍馬において、毘沙門天百日の開帳があった。
然るに、鞍馬まで行程三里の所より、百日の間、日参する犬が有り、これを一日も怠ること無かった。

参詣の人もこれを見知り、途中にて哀れみ、弁当、飯、肴等を食わせたが、少しでも生臭い臭いが
あれば、それを食わなかった。
「さては精進をしているのか?」
と試してみると、案の如くであったため、精進物を与えた所、尾を振って食った。
これは嵯峨の在所の犬であった。百日にわたった事故に、あまねく人が見知っている。

渡辺幸庵対話



981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/18(木) 17:23:23.32 ID:dtAkzovh
お伊勢参りする犬を思い出した

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/18(木) 21:09:49.84 ID:gm6RxHuz
>>981
あれは周りの人間が代わる代わる伊勢まで連れていってやったんだろw

徳川秀忠の正妻・崇源院について

2021年03月17日 18:05

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/17(水) 16:48:19.52 ID:aThDU7wJ
御所(徳川秀忠)の御台所は贈中納言藤原の長政卿(浅井備前守殿の御事なり)の御娘にて、御諱は
達子と申す。御母は織田右府(信長)の御妹である。(諸書に記す所、みな妹としているが、渓心院という
女房の消息を見ると、信長のいとこであるとしている。もしくは、いとこであるのを妹として披露して
長政卿に嫁がせたのであろうか。)(筆者注:『渓心院文』の事か)

御兄右府のはからいにて長政卿に嫁ぎ、姫君三人をもうけ給う。長政卿越前の朝倉を助けて
織田殿に背かれたが、ついに近江国小谷の城にて滅び給う。正妻であった小谷の方(お市の方)は
織田殿の元に帰り給い、家人の柴田修理亮勝家に賜り、姫君たちを伴って越前国北ノ庄に移られた。

天正十一年の夏、勝家は羽柴筑前守秀吉のために、近江国賤ヶ岳で戦い負けて、北ノ庄に逃げ帰り、
腹切って失せた、この時、小谷の方は息女と共に落ちたまえと、勝家はひたすらに諌めたのであるが、
さらに聞き入れずして共に空しくなられた。
子供たちのことは、「筑前守の元に渡されるべし。織田殿の厚恩を受けた人であるのだから、まさか
悪しくはしないでしょう。」と、自ら文を書いて、姫君三人を輿一つに召させて、女房たちも残らず
添えて、城より出されると、敵の兵たちは中を開けて確認した上で通した。
秀吉は息女たちを迎え取ってよく労り、大切に養い育てた。

その後、時移り世改まって、姉君は豊臣太閤(秀吉)の思者となられた。淀殿と申されている人が
これである。
次女は京極宰相高次の室となり、後に常高院殿と申す。
御末は御台所にておはします。太閤は彼女を大切に養い育て、文禄四年の九月、御所にあわせ参らせた。
後に大御台所と申し奉る。大猷院御所(家光)をはじめ奉りて、若君姫君、あまたもうけさ給えり。

一説に、大御台所ははじめ、尾張国大野の城主・佐治与九郎一成に嫁いだが、一成太閤の心に
違うことが有ったため、室を奪い取り丹波の中納言(羽柴)秀勝に娶せ。姫君が一人産まれられた。
その後朝鮮の戦起こって、秀勝も大将を承って押し渡ったが、文禄二年に彼の国にて失せにければ、
内室やもめとなりし給いしを、台徳院御所に参らせたのだという。この時、(秀勝との間にもうけた)
姫君も御所の養女とされて、九条関白殿(幸家)の政所となられた。摂政殿(九条道房)の御母である。

また佐治一成が太閤の不興を得たのは、天正十二年、小牧山の戦いが終わり、東照宮(家康)が浜松に
帰られる時に、佐屋の渡りにおいて、一成己が船を以て渡らせ参らせた事によって所領を失ったのだという。
然れども、この年大御台所はわずかに十二歳にておはしませば、一成の妻と成ったというのは覚束ない。

以貴小伝

徳川秀忠の正妻・崇源院について。なにげにお市の方の信長の実妹否定論の根拠も入ってますね。



週刊ブログ拍手ランキング【03/11~/17】

2021年03月17日 18:01

03/11~/17のブログ拍手ランキングです!


八幡信仰の受容について沖縄の一例 10

芋川親正の事 9
於大の方について 9

八幡大菩薩に御祈念あるべき事 8
阿茶局は筋目定かならず 7
於万の方について 5
関ヶ原後の片桐兄弟と家康 4


今週の1位はこちら!八幡信仰の受容について沖縄の一例です!
沖縄での八幡信仰について、ですね。
八幡神は、北九州の豪族である、宇佐国造宇佐氏の氏神であったとされ、後に武神としての性格を強くしていきますが、
そもそもは西国、東シナ海の海洋神という認識も強かったのでしょう。
倭寇が当時の中国から、ダイレクトに『八幡(ばはん)』とも呼ばれていたことも思い起こされます。
そして倭寇も含めて、様々な海洋生活者によって、沖縄にもこの信仰が伝わったと見るべきなのでしょうね。
或いは、海洋神であり強力な武神でもある八幡神への信仰に大きな需要があるほど、当時の東シナ海にも、
秩序の安定しない自力救済世界が広がっていたとも言えそうです。
当時の海洋世界についても様々に考えることの出来るお話だおともいました。

2位はこちら!芋川親正の事です!
こちらは「上杉家家臣」芋川親正について、後世の扱いについての話ですね。
芋川親正の様々な勢力に所属したこと自体は、「まあ当時のあの辺りの国衆ならよくある話だよな。」と思う程度では
あるのですが、事実上、ほぼすべての武士が「譜代」化した江戸中期以降になると、そうも言っていられなくなるのでしょう。
特に芋川家は代々の上杉家重臣ですからね。「由緒」が色々な意味で重要だった時代、「歴史」の扱いも非常に
デリケートなものだったのでしょうね。
誰がこのように誘導したのか、そのような斟酌があったのか、当時の上杉家の「歴史認識」の一端を感じさせてくれる、
そんな内容だと思いました。

今週は同表でも言う一つ!於大の方についてです
こちらは徳川家康の母、於大の方についてです。
この方も様々に、波乱の人生を送った女性であり、その人生をなぞっただけでも、戦国期の悲哀というものの一端を
感じさせてくれます。その上で、三河の一国衆勢力であった安城(岡崎)松平氏へ嫁ぎ、その子である家康が天下を取るまで
を生きて間近で見続けていたわけですから、また稀有な人生を送った女性でもあったわけですね。
彼女が久松俊勝に再婚した後に生んだ子たちも、異父弟として兄・家康に良く仕え、特に松平定勝は、後に大老制度の
モデルとなるほど、家康、秀忠より信頼され、重く用いられていたと言われます。
こう言ったあたりから、彼女の有り様もほのかに垣間見られるかもしれません。
戦国期の武家の女性について、様々に感じさせてくれる、そんな内容だと感じました。



今週もたくさんの拍手を各逸話に頂きました。いつも本当にありがとうございます!
また気になった逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

茶阿局は筋目定かならず

2021年03月16日 18:51

茶阿局   
630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/16(火) 16:35:55.93 ID:hXgy7t7u
徳川家康の側室である)茶阿局は筋目定かならず。
ある説に、遠江国金谷村という所の、賤しき者の妻であったという(八と呼ばれていたという)

この所の代官某が、茶阿局が見目よき女性であったので心に懸けて、我が者にせんと思い、
彼女の夫に非法をかぶせて殺し、茶阿を奪い取ろうとした。

しかし茶阿はこれに従わず、三つになる娘を抱いて密かに逃れ出て、浜松の城に走り入り、
御前に参って訴え嘆くと、やがて代官が召され糾明され、罪科が行われた。
そして茶阿は身内に召し置かれ、使わせ給わったという、

彼女は(家康の)第六の御子辰千代殿、第七の御子松千代殿をお産みになった。しかし松千代殿は
夭折された(一説には双子であったという)。

辰千代殿は成長され、上総介忠輝卿と申された。四位の少将にて越後国高田を賜った(七十五万石、
或いは五十五万石という)。

これより先、花井庄九郎という者が介殿の御心にかない、出頭して後には御家老の数に入れられ、
受領して遠江守となった。彼は茶阿局の娘を娶され、権勢肩を並べる者も無かった。
その子である主水正義雄も近くで仕えた。しかし元和元年、介殿が罪を被られた時、主水も
誅せられた。
その子で左京亮義虎と言う者は、介殿の御娘と結婚し、配所までも従って仕えたという。

茶阿局は東照宮(徳川家康)が隠れ給いし後、朝覚院殿と云った。
元和七年六月十二日に亡くなられた。小石川吉永の宗慶寺に葬られた。また伝通院にも印が立てられた。

以貴小伝

茶阿局について

※本スレで訂正があったので直しました


631 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/03/16(火) 16:48:12.32 ID:QbGWLllc
茶阿なのか阿茶なのか

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/16(火) 17:06:30.67 ID:IaycZrii
隆慶一郎で知った

於万の方について

2021年03月15日 18:58

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/15(月) 14:43:03.76 ID:dvp4Eblt
徳川家康の側室である)小督局、名は於万の方。永見志摩守貞英の娘にて、第二の御子、結城(秀康)殿の
御母上である。

一説に、永見志摩守は三河国池鯉鮒の人であり、於万の方は、幼い頃より徳川殿の北の方・築山殿に
宮仕えされていたのだが、君の御愛くしみを受け身重くなり、これを築山殿が知られ、ある夜於万殿を
赤裸にして縄で縛め、浜松の城の木深き所に捨てられた。
その折、本多作左衛門重次が宿直をしており、女の泣く声を訝って捜した所、この有様を見て、急ぎ
縛めを解き、事の故を聞いて密かに自分の家に伴い帰って介抱し、その後、君にこれこれと申し上げると、
いかに宣われたのだろうか、重次はそのまま自宅で於万の方を保護し、天正二年の二月、浜松の城外、
富見村という所で御子を産まれた。これ即ち於義丸殿(秀康)にておわす。
このような事であったので、御対面も無く、重次がよろず育みまいらせた。

また一説には、於万の方は身が重くなったため、北の方に漏れ聞こえて憂き目を見ることを恐れ、
密かに忍び出て、本多豊後守(広孝)の家の重臣である本多半右衛門の家に走り入り、云々の事なりと
云うと、半右衛門は本多作左衛門に告げ、作左衛門は密かに君に申して、己が元に迎え取り、
介抱したという。何れがまことであろうか。

結城(秀康)殿が越前を賜られると、局も越前におわしけるが、慶長十二年の四月八日、結城殿は
先に逝かれまいらし、悲観に耐えずたちまちにして落飾された事も悲しいことである。
法号を長勝院殿という。
元和五年の十二月六日、福井にて亡くなられた。七十三歳であったという。敦賀の孝顕寺に葬られた。

彼女の実家である永見の家も越前家に仕え、忠直朝臣の時に家は亡んだ。
その後、忠直は豊後の配所にて産まれた子を永見と名乗らせ、その家を立てられた。
しかしこれも、光長朝臣(松平光長・秀康の孫)が(越後騒動により)流罪となった時に罪をかぶって
終に家は絶えた。

以貴小伝



芋川親正の事

2021年03月15日 18:56

625 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/03/15(月) 16:33:02.23 ID:LvWLthnf
芋川親正
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%8B%E5%B7%9D%E8%A6%AA%E6%AD%A3


芋川氏は北信の国人領主として武田信玄配下であり、武田滅亡後は例のあの人に散々な目にあわされてから
上杉家に再仕官し、同家では代々重臣として続きました。
江戸後期の名君、上杉鷹山の改革に重臣団が叛意を示した一大事件「七家騒動」にも、芋川氏は
その名があります。


山梨県立博物館で開催中の特別展「武田信玄の生涯」では、18世紀末くらいに上杉家米沢藩で描かれた
米沢本川中島合戦図屏風も出展されているそうですね。

そこでは上杉武田両軍の武将たちが名前入りで描かれています。

さて芋川さんは・・・上杉方にいるじゃありませんか。

まあ代々の重臣が敵方じゃ色々と都合ってものがありすまよね、という太平の世のお話なのでした。

なお上杉家としては、信玄七男の子孫の米沢武田家が準一門格の高家衆で続いているように、旧武田
ということで何か問題があったわけではありません。



米沢市上杉博物館特別展「戦う上杉氏」図録解説などより



626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/15(月) 17:05:26.98 ID:30ThNIma
イモ侍に相応しい列伝

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/15(月) 17:32:29.96 ID:MB/fOTRf
森長可やべー

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/15(月) 19:07:30.34 ID:j2UHIErE
そういえば前に東国太平記に載っている、松川の戦いの箇所を読んでたら
「芋川縫殿助」が「百川縫殿助」と書かれていたっけ

629 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/03/15(月) 19:37:45.07 ID:vfoaYdq4
五百川(いもかわ)と書かれることもあるからね