光秀利三最期

2018年05月07日 18:52

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/06(日) 22:15:38.38 ID:aEBf9EVt
山崎の合戦の後、明智光秀の残党は正林寺城に籠もった。
羽柴秀吉や織田信孝などの兵は、ここに明智光秀がいると見て、柵を付けてこれを攻めた。

その時、城より蟹江才蔵が向かい出て伝えた
明智光秀はここには罷り在らず!我らの命を助けられるのであらば、城より一人ずつ出て
何者か確認されて良い!」

攻め手は答えた
「ならば斉藤内蔵助(利三)を生け捕り我らに出せば、汝らの一命は助けよう!」

すると城方は内蔵助を生け捕って攻め手へと引き渡した。
この時より蟹江才蔵は三七殿(信孝)に付くことになった。

ここでも明智を発見することが出来なかったため、近辺を残らず捜索したが、ついに見つからなかった。
翌日、村井清蔵と申すものが、大江という在所より、金柑(ハゲ頭)なる首一つを持って
代官所に現れた。この清蔵によると

「この者、昨夜大江に参り『我を坂本へ連れて行け、金銀は思うままに取らせん』と言いました。
しかし百姓共は、『どうせ盗人の謀りである、ただ打ち殺せ!』と、これを撲殺したのです。」

丹羽五郎左(長秀)がこれを見て、すぐに光秀の首と解った。彼はこの首に噛みつき、歯を
きしませて
「汝を生かして、なぶり殺しにしようと思っていたのに!」
そう叫んだ。

その後、光秀の死骸を取り寄せ、首を継いで車に載せ、洛中を曳き廻し三条河原にて
逆さ磔にかけた。
斉藤内蔵助も車に乗せて洛中を曳き廻し、三条河原に生きながら逆さ磔にして3日晒し、
その後火炙りにした。

(祖父物語)



西国の桶狭間、事の始まり

2018年05月06日 18:00

730 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/06(日) 13:42:31.42 ID:l9oNTbVm
西国の桶狭間、事の始まり

永正14年(1517年)10月、安芸の守護である武田元繁は安芸北部の山県の諸勢力を攻め、下した者らや元々の配下を糾合した後、有田の城をおよそ5千の兵で取り巻いて攻め立てた。
有田城主、小田信忠は老練の武将であり、城兵は300ばかりだったが敵の数に怯まず激しく防戦に当たった。
武田元繁はその勢いを持って有田を落とした後は近隣の毛利家や吉川家と言った自分に従わぬ大内傘下の者らを滅ぼそうと目論んでいた。
この城を武田元繁が真っ先に攻めるに至った理由は何からか?
それは永正元年(1504年)、石見の高橋久光が有田の城を攻め取った後、野田久之を城将として置き、これにより近郷一帯悉く高橋に従うこととなった。
ところが、元々この地の主であった吉川家家臣の森脇基方という者がこの城を奪い返そうと野田に取り入り、最初は警戒されたものの遂には家僕同然に振舞うほどとなり、表裏無く打ち解けるまでに至った。
そんなある年の8月15日、近隣の八幡神社の祭礼を見に野田の家来が皆出て行った時、森脇は好機到来と野田の宿舎を尋ねるとこう言った。

「野田殿、私も祭りを見に行きたいのですが、刀が見苦しいので遠慮しております。貴方の御太刀を貸して頂けませぬか?」
「良かろう、貸して進ぜよう」
野田から代々秘蔵の太刀を受け取った森脇は
「いやいや、これは見事な御太刀ですな、ベラベラベラベラ(以下略」
と、野田の太刀を弁舌巧みに褒めそやした。上機嫌になった野田は
「そうであろう。この太刀は見た目もさる事ながら斬れ味も優れ、ワシの先祖はこれで妖怪や大蛇を(以下略」
と、自慢気に刀の由来を語り上げた。野田の話がひと段落した時、森脇は
「では、その斬れ味を試させて頂きましょう!」
と一言、野田の頭を件の名刀で叩き斬った。
野田は「アッー!」と断末魔の声を上げて倒れ、森脇は彼の首を取ると傍輩や近郷の者らに告げ、5~60人の兵を集めると有田の城に立て篭もった。
その方を受け激怒した高橋久光は5000ほどの兵を集めて有田に攻め込み、森脇の主人である鬼吉川こと吉川経基も1000ばかりの兵を集めて有田城へ入城すると、双方の戦いは激しく数ヶ月に渡って決着は付かなかった。
この時、武田元繁の仲裁で両軍は和睦する事となったが、有田の城をどちらが取るかは双方譲らず一向に埒が開かなかった為、
武田元繁の鶴の一声で元々有田を本領とし、今は城を追われた小田氏を城主として有田の城を返させる事で何とか事は収まった。
その後も仔細有って武田と吉川は闘争に及んだが、この時小田は武田に恨みを含む所が有って吉川に与したので、元繁は小田を恩知らずと憎み有田の城を攻める事となった。
日が経つほど有田の小田方は苦境となり、小舅の熊谷元直を中に立て降伏を申し出たが、それすら許さぬ程に元繁は激怒しており、これを許さず有田の落城は目前に思われた。
有田城の落城は間近と見た為か、武田元繁は毛利幸松丸配下の元就が領する猿掛へ1000ばかりの兵を向かわせ、ここに西国の桶狭間こと有田中井手の戦いの戦端が開かれることとなるのである。
(陰徳太平記)


名も無き奉公人の話 ―鍬の槍―

2018年05月05日 18:01

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 12:11:15.02 ID:JYFcNoJe
名も無き奉公人の話で恐縮ですが、我が家に伝わる話を書かせて頂きます

我が祖先は三河の百姓でした
戦国時代にそこが敵から攻められたとき、殿様は負けてしまったようです
そして殿様は敵の大将に「私の命は差し上げるから百姓たちを殺したり略奪したりしないでくれ」と言って自害したそうです
敵の大将はおびえる百姓たちにその事を伝え、「お前たちは良い殿様を持った」と言って何もせずに去ってくれたそうです
殿様には息子がいて、逃れて父のあとを継ぎ家康に仕えたそうです

その後、その若殿が遠くの戦に行くと聞き、百姓の中の若者の一部が居ても立っていられずついていく事にしました
私の先祖もその中の一人でした
他の百姓はなんとか武具を調達してきましたが、我が先祖は貧しく武具など手に入らなかったので
鍬の先を研ぎ落して尖らせ、棒の先に結んで槍としたそうです

戦についていったものの所詮は経験の無い百姓の若者、功を立てるどころか仲間たちは次々に死に、我が先祖は生き残るのがやっとでした
不格好な槍もどきを持って何一つ役に立たなかった百姓ですから、ものすごく馬鹿にされて笑われたそうです
しかし若殿が「忠義は誰よりも優れている、その槍は天下の名槍にもひけをとらない」と褒めてくれ、家来にしてくれました
それだけでなく鍬の槍に立派な柄をつけてくれたそうです

その後も我が一族は殿の家に奉公し、武士の最下か奉公人の上くらいの立場で仕えていたそうです(一応江戸時代に苗字を使ってたので)
もちろん、鍬の槍は家宝として大切に伝えられてきましたが、残念なことに長崎で原爆に遭い失われてしまいました
実物を見たことのある曾祖母の話では「スコップみたいな形だった」そうです



870 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/05(土) 13:21:21.79 ID:pQyioftt
良い話だ、感動的だな
だが当時はまだ兵農分離が徹底した時期では無いし、三河は一向一揆も有った国だし百姓兵と言えど言うほど馬鹿にされる事も無かったのでは?

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 13:30:42.29 ID:dq7vQdLg
笑われたのは槍のほうだったんじゃないか

872 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/05(土) 13:48:19.53 ID:pQyioftt
>>871
>不格好な槍もどきを持って何一つ役に立たなかった百姓ですから、ものすごく馬鹿にされて笑われた

槍もだけど、何一つ役に立たなかった百姓だからとあるので両方だったのかなと

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 19:36:57.19 ID:o/J2l0tV
>>869
ちょっといい話45スレにおける勲功一番なり
その忠義の槍を写真で晒すことができれば永久欠番間違いなしじゃったのにのぉ

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 20:04:13.69 ID:e9VeKDIs
>>869
血が今に伝わっているのだからもっと誇り持って良いでしょう
そんな家臣を持てた殿様は本気で嬉しかったんだろうね

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 21:04:53.77 ID:TnR7p8TX
まあ平成の世まで家が続いただけでも超絶勝ち組だしな

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 22:04:54.62 ID:Nfno1L1z
長崎に居たって事は維新後に移住してるのね

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/06(日) 10:17:32.19 ID:tjyTIMjC
>>869
若殿もせっかくなら本物の槍を下賜してくれりゃ良かったのに
ピエロ扱いだったのかもw

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/06(日) 10:49:42.16 ID:RJCmnk9u
それ余計に恥をかかせることにならないか?

戸部の蛙

2018年05月05日 18:01

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 14:26:37.41 ID:f58LFITG
戸部新左衛門「なぜか人を斬りまくったとか、蛙だけは斬れなかったとか変な伝説が残ってしまった」
花房すけべえ「泳いでこないでいいです、ちゃんと米あげますから」


714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/04(金) 18:08:17.69 ID:SD8FkVKO
>>703
の戸部新左衛門と蛙の話
https://i.imgur.com/fPPL0Pq.jpg
fPPL0Pq.jpg

戸部の蛙
愛知県名古屋市産の土製手捻りの蛙。
二、三〇種あって二匹組み合わせ物や、蛙の相撲などが優れている。
その昔、市外に戸部城のあったころ、凶暴な城主(注:戸部新左衛門政直)がいて、
隣接の山崎から入ってくる旅人などが、その行列を横切ると差別なく切り捨てたので、
それを揶揄して「山崎越えたら飛べ飛べ(戸部)」と、この辺一帯に多く棲息していた蛙にかけて洒落たのが由来という。
斎藤良輔「日本人形玩具辞典」より
https://i.imgur.com/HozJxBh.jpg
HozJxBh.jpg

このくだらない駄洒落も元ネタがあったのだ



728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/05(土) 11:38:59.92 ID:JYFcNoJe
>>714
作者の友達が戸部新左衛門の子孫で祖先の話を聞いてキャラにしたとか
良い話なのか悪い話なのか・・・

息子が分別無く深入りしたのだ

2018年05月04日 14:26

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 22:44:30.19 ID:02WQirZy
織田信長が甲州に出陣するとして、安土を出立し美濃国呂久の渡において、信濃国伊奈郡
高遠の城主仁科五郎(盛信)の首が曲げ物に入れられ織田信忠より飛脚によって届けられた。
その首は大髻にて、年齢は20ばかりに見えた。

首が届けられると、信長の近習であった菅屋九右衛門(長頼)、野々村三十郎、福富平左衛門、
オロシ彦右衛門といった者達、馬より飛び降り

「御出陣したばかりで五郎の首が届けられたこと、大変めでたいことです。」

そう賀して申し上げると、忽ち信長の機嫌が変わった

「何を以てめでたいというのか!?若輩なる奴原が深入りして追い立てられたらどうなるか、
面目を保ったまま討ち死にできるのは滝川(一益)一人だけだ、他の者達は芭蕉の葉で
位牌を払うような有様に成るだろう。
先陣の者達が残らず討たれたとしても、後陣が遠方ではすぐに弔い合戦をすることも出来ない
ではないか!」

そう殊の外の御気色であり、息子が分別無く深入りしたのだと思っておられた。

(祖父物語)



711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 23:11:21.12 ID:vUy0oAOP
武田を心底恐れていた信長ならではの慎重論

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 23:20:37.16 ID:Z/z82csV
武田の東濃侵略の際、馬場の800の兵に恐れをなして1万の織田軍が撤退するぐらいだからなぁ。

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/04(金) 10:39:43.81 ID:FnXiDPmu
この時期の史料を読めば判るけど信長は武田を恐れてはいないね
武田にちょっとでも噛みつかれて「自分の評判が傷つく事」を恐れていた状態

異形な僧体の正体は

2018年05月03日 17:40

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 15:10:58.53 ID:TwZnZBzO
天文の乱とその後の燻りが集結し混沌としていた伊達家が落ち着きを取り戻した天文21年、伊達家当主伊達晴宗は、弟の亘理元宗に対し上洛を命じた。
将軍足利義輝への拝謁、晴宗の家督相続後の報告、愛宕詣などを終えた元宗は当時二十一歳の若者。
文武両道に優れ後世からは伊達家三代の重鎮と称された元宗だが、流石に大任を終えた達成感から人心地ついていた。

そんな元宗の下へ、急な来訪者が現れる。慌てて面会をしてみれば、相手は壮年の出家姿なれどもただならぬ威容の持ち主。
おまけに左右に屈強な供の者を従えており、元宗もこの訪問者をただならぬ人物と見抜いた。

「失礼ながら、どなたでありましょうか」

「こちらこそ急な面会御無礼いたす。某は先の甲斐守護、武田無人斎と申す」

なんと異形な僧体の正体は、約十年前に嫡男晴信によって甲斐を追放された武田信虎であった。
甲斐を去って西国に赴き、後に駿河に住まわっていた信虎であったが、その後も度々京や高野山、奈良の諸山を遊訪し、時には将軍家に対し奉公していたらしい。
驚く元宗に対して信虎は悠然と諸国の時勢を尋ね語らい、いつの間にやら二人はすっかり意気投合してしまった。
しかし元宗もいつまでも京に長居をするわけにもいかない。国へ戻らねばならぬ旨を信虎に伝えると、信虎は名残惜しそうな顔を若者に向けた。

「そなたの様な文武に通じた若者と会えることは人生の何よりの楽しみである。この度の語らいは実に愉快であった」

そう言って、自らの腰から佩刀を抜き元宗に手渡した。

「これは相州の業物、綱広の作である。是非受け取ってほしい」

元宗は感激し、恭しくその刀を拝領した。
そして信虎とその供の者達に丁重に礼を述べると、陸奥への帰路に立ったのであった。

信虎が甲斐を離れた際、嫡男晴信は二十歳であった。
もしかしたら信虎は才気煥発な若き武士に、かつての我が子の姿を重ねたのかも知れない。



845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 17:06:21.19 ID:m/bWX0G2
我が子の姿を重ねたらそんな接し方しないだろw

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 17:45:10.59 ID:C+6Oo2ju
>>845
確かにw
でも、早くこっちにおいでよって手紙書いてるし

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 19:22:44.85 ID:GiUzTZdE
「嫡男晴信は二十歳」
の後に
「、次男信繁は十六歳」
と加えれば何とか

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 20:40:37.87 ID:XqUwDBpF
>>844 これこそ良い話だ
>>845
信虎は今川領にいても晴信とやりとりしてたから憎しみだけではないのではないかな知らんけど

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 21:17:45.38 ID:RcMzVUiV
なんで信虎はいきなり訪問してきたんだろ
上洛する諸大名の関係者に会いまくってたのかな

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 21:56:54.58 ID:oCGv9hVP
>>844
これ出展は何でしょうか?
祖父物語?

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 22:36:26.38 ID:Mb6IjGto
なんで伊達と武田の話が祖父物語に出てくると思うのか

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 00:21:37.24 ID:obnNlYmh
伊達政宗の祖父の弟の話だから祖父物語とでも思ったんじゃね

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 08:16:44.09 ID:vUy0oAOP
伊達も親子で争って親を幽閉して子が継いだ
親近感を抱いたのは想像に難くない
従って晴宗の股肱元宗の中に兄思いの息子信繁の姿を見たのだろう

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 08:23:12.07 ID:pSLxbVzv
>>857
若武者の逞しさを羨ましく感じていたんじゃないかと思った
大河で追放後でも晴信を叱咤していたイメージが強いからかな

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 08:44:28.98 ID:vUy0oAOP
大河は創作、好き嫌いっていうより方向性の違いでしょ
前の支配者を貶めるのは誰もがやってる事
ウソを見抜けない人はネットでもバカを晒す

861 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/03(木) 08:49:18.10 ID:rklRNSKj
信虎さんて、甲斐を追放された後も

>相手は壮年の出家姿なれどもただならぬ威容の持ち主。

なんて書かれたり各地を転々として回ってたり、息子より長生きしたり…
乱破でもしてたんだろうか?老いてなお盛んだなぁ…

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 09:16:17.33 ID:mE2l5ksp
甲賀の六角残党と連携して義昭の挙兵に呼応した近江侵攻も目論んでたらしいし、成功してたら信虎・信玄による武田親子夢の信長挟み撃ちが見れたかも知れないあたりに面白さを感じる

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 10:39:41.61 ID:CB9h8h4v
武田信虎のwikiには在京中に南部信長と交流があったとされている
まとめにありましたが、どうやら南部但馬守信長が国元の七戸氏に送った手紙に信虎の名が
ただし年代が不明、南部信長は将軍足利義政に出仕して但馬守を拝任したらしい
南部但馬守でググると丹羽長秀の小説がw
言継卿記にも名前が出てくる、知行の件で相談したいんだとか
南部信長のwikiを見ると八戸信長と久慈治義のことを指すんだとか
久慈家は代々備前守と摂津守を名乗ってて一族に昆但馬高光という人がいたようだ
久慈治義は備前守、南部信長との関係は不明

何が言いたいのかというと南部但馬は在京中に子供を作って代々将軍に仕えさせてたんじゃないかってこと

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 11:48:31.64 ID:pSLxbVzv
>>863
一族が在京する家はそれなりにあるんじゃないの?
隣国だけど近江の六角なんかはそうだったよね
まあ伝承のなかの人物がいたりもするけど
あとは伊勢みたいに当主は在京して一族に領地を任せておくとか

武田の場合、信虎の前に敗走した信長が在京してたけど、若狭武田の伝手とかなんかな?

865 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/03(木) 12:03:40.36 ID:rklRNSKj
>>863
確かに足利義政に仕えた人物だと、とんでもないことになるしね…

我らも御爪の端

2018年05月02日 10:43

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 22:27:36.66 ID:mqhkJOQK
賤ヶ岳七本槍とは、加藤虎之助(後肥後守清正)、平野三十郎(後遠江守長泰)、脇坂甚内(後中務安治)、
加藤作内(後左馬助嘉明)、戸田三郎四郎(後民部勝隆)、福島市松(後左衛門大夫正則)、
糟屋内膳(武則)達であった。

彼らは賤ヶ岳七本槍と成るまで、領地を150石づつ与えられていた。
ただし糟屋内膳は元播州赤松家の家臣であり、赤松死去の後、良き才能を持った者として
500石にて抱えられていた(実際は別所長治家臣)。

賤ヶ岳の合戦の後、七本槍のうち6人には三千石に帷子35枚、黄金5枚づつが与えられた。
しかし福島市松には、五千石に帷子25枚、黄金5枚が与えられた。

彼らには羽柴家の筆頭家老である杉原伯耆がその朱印を渡したのだが、加藤虎之助が激昂し
声高に叫んだ

「市松も御一家なら我らも御爪の端であります!どうして二千石も劣るのでしょうか!?
今度の槍働き、私は市松に少しも劣っていない!これは伯耆様にお返しいたす!」

そういって加増の朱印を受け取ることを拒否した。

虎之助の言葉は声高であったため、秀吉の耳にも聞こえ、
「虎之助は惣じてうつけ者であるな。今回の加増の後に、市松と同等に取らせてやろう。」
そう仰せになった。

後に虎之助には播州姫路において加増が有り、所領は合計して五千石となった。

福島市松は秀吉の甥であり、加藤虎之助は従兄弟である。

(祖父物語)

何故か片桐且元がハブられ戸田勝隆が入っている賤ヶ岳七本槍



840 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/01(火) 23:42:19.05 ID:4jukLEbl
且もっちゃん…

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 06:35:00.00 ID:6zgg/rXt
片桐さんはどこにいってもいじられるそんな存在なのか。真田丸の片桐さん思い出した。

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 06:58:00.29 ID:BVgUNKb5
ホントは石河兵助と桜井佐吉も入るんだろ

週間ブログ拍手ランキング【04/26~5/2】

2018年05月02日 10:40

04/26~5/2のブログ拍手ランキングです!


少年のときは少年のように 16

藤吉郎は才覚者である 12

木下藤吉郎、堂洞城攻めの功 11
日本の歴史を大きく変えた偽メール事件 9
小堀の三ヶ条の要求 9

信長と云う者だ。 8
【ネタ】このスレの民は、そのニュースを聞いて、ほぼ全員 7
中村作り取りの事 6
大身の方に嫁がせて物入りになれば 6
羽柴秀吉と柴田勝家の戦いは 5


今週の1位はこちら!少年のときは少年のようにです!
滝川一益による井口又兵衛息への批評。少年の頃は少年なりの粗忽さが必要、という発想、逆に言えば「変に大人びた子供は
気持ち悪い」という事で、そういう考え方は現在でもありますね。「子供は子供らしく」という奴で。
まあ当の子供からしたらそういう評価は困ってしまうと思うのですがwこういう『大人が望む子供像』と、子供自身の自己認識の
間のズレみたいなものが、この時代にも既にあったんだな、という見方をするのも面白いかもしれません。
まあやってることは殺人で、しかも謀殺なんですけどねw一益が末恐ろしさ、不気味さを感じてもしょうがないかなとも思います。

2位はこちら!藤吉郎は才覚者であるです!
この時代の秀吉の、命ぜられたことを、与えられた条件の中で不必要な摩擦を起こさずスムーズに成し遂げる才覚、というものを
感じさせてくれる逸話ですね。これは確かに出頭する人だなと思わせます。
実際にも若い頃の秀吉の出頭というのは、こういった物事を成し遂げる才覚が非常に高く、またそれを信長に非常に評価されて
いたのでしょう。だからこそ、20代で既に尾張在地の奉行となっていますし、信長の上洛戦の頃には既に、一手の部隊を
任される、「重臣」の一人になっています。
そんな秀吉の「実務能力」を表す逸話だな、と感じました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!信長と云う者だ。です!
本文のレスにもありましたが、ここでは勝頼を批判していますが、実際には信玄に対しての批判なんでしょうね。
徳川の記録や逸話からも見えてくるところがありますが、信玄の釜炒り等の残忍な処刑方法は、当時の基準でも
非人道的である、と考えられていたフシがあります。
その上で、祖父物語成立の段階で、「武田家関連で印象の悪いことは勝頼のやったことにする」というような意識が
あったのだな、とも感じさせてくれますね。これは良い悪い、正しい正しくないではなく、武田家を滅亡させた勝頼という
存在に、世間一般がそういう印象を持っていた、という事を表しているとも思います。
この逸話の内容だけでなく、逸話の成立した当時のバックボーンを考えると、非常に様々に想像できる、そんな
逸話だなとも思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

日本の歴史を大きく変えた偽メール事件

2018年05月01日 21:09

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 00:20:36.62 ID:QiEhFTVJ
桶狭間の戦いの直前、三人の武将が無念の死を迎えた。
二人は鳴海城主山口教継と桜中村城主山口教吉の親子、一人は戸部城主戸部新左衛門である。
三人の城は織田と今川の勢力が衝突する最前線に位置しており、しかも一里以内に集中していた。
どちらがどちらを攻めるにも、ここを落とさねば話にならぬという要衝であった。

この三人、織田信秀の代までは織田家の忠勇なる武将であった。
ところが信長とかいう、うつけの若造に愛想をつかして今川方へ寝返ってしまったのである。
これが今川義元に尾張侵攻を決断させた一因とも言われている。

当時の信長の力量ではこの三人を倒すことは到底不可能。
そこで祐筆に猛練習を命じ、三人の筆跡を真似た偽の書状を作成する。
「信長くんへ、やっぱり義元を裏切って君んとこ戻るわ」
これを商人に変装させた森可成に持たせ、今川方へ持ち込ませた。
さても今川義元、この偽書状を信じ込み三人を呼び出した上まともに調べもせず処刑してしまった。

この事件が無ければ今川義元は悠々楽々と尾張を併呑した事であったろう。
信長は良くて臣従、悪ければ織田家ごと滅んでいただろう。
日本の歴史を大きく変えた偽メール事件である。

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 04:51:08.74 ID:QiEhFTVJ
さて、織田家を裏切った挙句に謀殺された山口教継・教吉親子ですが、家臣に成田弥六・助四郎という武将を抱えていました。
彼らもまた、大声出せば聞こえるほど御近所にある鳥栖城の城主でした。(この地域は徒歩一時間で六つの城を回りきれるくらいの城密集地帯でした)
成田氏は赤塚の合戦で山口氏に従って織田勢と戦ったのですが、その後は山口親子を裏切って織田方についています。

この結果、主家を裏切った山口氏の城と、主家を裏切った主家を更に裏切った成田氏の城の間が織田勢力と今川勢力の境界線となりました。
ちなみに山口氏の桜中村城と、成田氏の鳥栖城は200メートルほどしか離れていません。
尾張者のフレキシブルな生き方は、お隣の頑固な三河者と見事な対比をなしていますね。

されどこの成田氏、その後の行跡はあまり残っておりませんが敢えて挙げるならば、
子孫で尾張藩士だった成田甚右衛門がある日突然「平和が好き!戦は嫌い!」と刀を折って帰農したことくらいでしょうか。



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 20:54:47.50 ID:uxusBUfH
>>700
三河者=頑固も後から作られた物語でしかなくて、家康がガチっとまとめるまでは誰もが転身しまくりなんですけどね

【ネタ】このスレの民は、そのニュースを聞いて、ほぼ全員

2018年05月01日 21:09

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 08:02:07.25 ID:gjR9drO4
「海を泳いで渡った」愛媛・今治の脱走受刑者 逮捕の地点は島から西に70キロ

ttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180430-00000513-san-soci


某「泳いで参った」


ちょっと悪いどころじゃないですね、すいませんm(__)m


702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 11:23:42.98 ID:h+IK6oFg
>>701
このスレの民は、そのニュースを聞いて、ほぼ全員その言葉が浮かんだと思うよ w

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 14:26:37.41 ID:f58LFITG
戸部新左衛門「なぜか人を斬りまくったとか、蛙だけは斬れなかったとか変な伝説が残ってしまった」
花房すけべえ「泳いでこないでいいです、ちゃんと米あげますから」

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 17:47:12.27 ID:r3vDUENS
戦国立志伝では秀家復帰があったよね
大阪の陣にも参戦する仮想なかったっけか?

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 21:46:50.46 ID:GEYW4P21
山を越えてまいった佐々成政と海を泳いでまいってない宇喜多秀家
どこで差がついたか

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 07:53:12.40 ID:Rfh9zVr+
泳いだのは仙谷だろ

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 12:39:33.02 ID:kAASAv65
>>707
それは政治家だ

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 20:19:30.90 ID:RbxcQx5/
???「空を飛んで参りたかった」

羽柴秀吉と柴田勝家の戦いは

2018年04月30日 17:49

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/29(日) 22:05:21.88 ID:u2Lcbudr
羽柴秀吉と柴田勝家の戦いは、その権勢の争いともいい、また信長公の御妹であるお市御料人が
その言われであるとも申す。

彼女は淀殿の御母であり、近江国浅井(長政)の妻であり、浅井と死別し、その母と
一所におられたのだが、天下一の美人の聞こえ有り、秀吉は彼女へ御臨みをかけられたのだが、
柴田勝家が岐阜に参り、三七殿(織田信孝)と心を合わせ、お市御料人を迎え取り己の
妻とした。

秀吉はこのことを聞くと激怒し、柴田を越前には帰さないと近江国長浜へ出陣した。
しかしここに丹羽長秀、池田勝入が扱いに入り、柴田勝家はお市御料人を同道して
越前への道を通った。

翌年三月、柴田方より近江柳瀬に出陣した。秀吉は大阪より出て近江長浜に砦を築き、
互いに足軽の合戦をしていた。

ここで佐久間玄蕃(盛政)が「かように日を暮らしていては意味がありません。」と柴田に進言し、
賤ヶ岳の下の湖畔を通り高山右近の出城を攻め落とし、玄蕃が直にその城に籠もった。

柴田は玄蕃に「深入りである。早く引き取れ」と伝えたが、玄蕃は「弱きことを言われるものだ、
旗下にて出城の一つも二つも攻め落とすべきなのに、急いで引けとは何事か。」
と引かなかった。

この時の事について、後にこう言われた
『玄蕃は柴田の指図のように引いておけば良かったのである。そこから5日のうちに、
秀吉方に謀反人が出て、柴田方の利運に成るはずであったのに、玄蕃が要らざる強味を出して
しまった』と。

実は筒井順慶が柴田と心を合わせ、秀吉を裏切るよう定めていたのだ。
順慶は其の頃大和伊賀両国を領する大名であり、返す返すも残念なことであった。

(祖父物語)

祖父物語の時点でもう、お市に「天下一の美人の聞こえ」があったなんて書かれていたんですね。
あと賤ヶ岳の時筒井順慶が秀吉裏切ろうとしていた、なんて話は珍しい。



698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/29(日) 22:08:58.58 ID:dJFLIRdd
賤ヶ岳で洞ヶ峠を決め込んだのか

中村作り取りの事

2018年04月29日 12:40

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/28(土) 19:51:42.05 ID:av85IIge
豊臣秀吉による小田原征伐の時、小早川(隆景)といって筑紫の武士が在り、彼は大丈夫
であるとして、秀吉により清州城の留守を申し付けられた。

小早川は尾張中村まで秀吉のお供をしたが、そこで秀吉はこのように言った
「お主に言うのも恥ずかしいことだが、私はこの中村で生まれ、わやく(腕白・乱暴)な事もして
遠州へ落ち行き、松下石見に仕えた。考えてみれば武士ほど面白いものはないな。
ところで、この中村を百姓たちの作り取り(無税)にするというのはどうだろうか?」

小早川も
「かかる目出度き御代です。作り取りにさせるべきでしょう。」
そう申し上げた。しかし秀吉は

「ただ、かつての事、この村には二王というわっぱ(童)がいて、私より少し年長であったが、
ある時、この道筋で二王が刈り取った草を、私が少し取ったところ、この二王が
『遅く来て草を刈ってすらいないのに!』と、鎌の柄にて私を叩いた。
その遺恨、今も忘れない。

二王を呼び出し彼の首を斬って、その上で中村には作り取りを許可しよう。」

この二王はこの時もまだ生きていたのだが、中村の者達は彼はもう死んだのだと申し上げた。
そこで秀吉は「彼に子はないのか」と尋ねた。中村の者達「子も死んで、孫だけは居ります」
と答えた。これを聞くと

「孫ならば本人からも血縁が遠い。苦からず。」

そう言って中村一円の百姓に、作り取りの権利を与えた。

ところがその後、中村の田地一円は秀吉によって召し上げられた。
これは高麗陣の時、秀吉が

「中村の百姓が一人も見舞いに参らない!なんと憎き奴原か。見舞いに来たなら路銀も余るほど
与えたというのに。筑紫から大阪まで船で送ったであろうに!」

そう激怒し、その過怠により田地残らず召し上げたのである。

(祖父物語)



696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/29(日) 10:52:36.55 ID:/MEehMgy
まとめの3189だと市松が仁王が死んだ、と言ってることにしてるな
尾張中村の仁王と福島正則

戦国無双4では秀吉を美化してるせいで
仁王が死んでるのが嘘と気づいた秀吉が
「あのことは気にしてないぞ」と伝言して感動した仁王が野菜を献上するという、韓信の股くぐりの「仇を恩で返す」の類の
話に改変されてたのを思い出す

大身の方に嫁がせて物入りになれば

2018年04月28日 17:39

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/28(土) 00:23:20.19 ID:zEPPlm+W
大身の方に嫁がせて物入りになれば


明暦2年、土佐藩主・山内忠義は末娘の重姫を
豊後国森藩1万2500石の領主、久留島通清に嫁がせた。

忠義公が縁組を公にする前、備前の新太郎様(池田光政)がそれを聞き付けて*
「今度御息女を久留島信濃守(通清)に御縁組なされると聞いたのですが
 信濃守は小身者ですので不相応に存じます」
と仰せられたので、忠義公は
「仰せのごとく信濃守は小身者です。貴方様は御大身なので左様には
 思われないかもしれませんが、私は小身ですから大身の方に嫁がせて
 物入りになれば、たくさんの家来を養うことが出来なくなるでしょう。
 それが小身の信濃守に嫁がせる理由です」
とお答えになられたという。


――『南路志』

* 光政の姉妹は忠義の嫡男の正室で、山内家と池田家は姻戚関係にあった



821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/28(土) 11:25:17.99 ID:sp5yV1iF
>>819
久留島ってたぶん来島の事だろうなあ
大名として残ってたとは知らなんだ

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/28(土) 11:33:17.17 ID:RgCKd3Qt
>>821
元海賊だからと警戒させられて海のない陸にあげられたんじゃなかったかな

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/28(土) 12:44:37.19 ID:VZTsxhdo
大身同士の縁組みだと金かかって家が大変だから、それを思いやってといういい話ではないだろうか。

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/29(日) 01:57:36.82 ID:3ZBtswZj
>>819
久留島家って末裔が童話作家とかボーイスカウトに尽力してんのね
直系は18代当主が普通に活動してるし

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/30(月) 09:22:39.21 ID:kOb2HE+7
大名として残ったおかげでそういう活動できるのかも
能島や因島の村上氏は毛利の家臣に組み込まれて地味になってしまった

信長と云う者だ。

2018年04月27日 21:34

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/26(木) 22:26:16.06 ID:Yot5dwqf
豊臣秀吉の小田原征伐の頃、尾張清州城の城代は植原加賀守という人であった。
彼は元々甲州からの巡礼であったが、織田信長が鷹狩をしていた折、六角堂にて
この巡礼の姿を見て、尋ねた

「汝はどこから来た者だ?」
「甲州者です。」

すると信長は聞いた
武田勝頼はうつけ者であり、悪しき法度の運用をしているというが?」
巡礼は答えた
「その事であります。彼は人を釜で炒り殺し、臼にて突き殺すなどしています。」

信長は呆れた
「それは勝頼が食うつもりなのか?勝頼は小気なる故にそういう事をするのだ。天下の望みは
成らないであろう。汝は奉公をする気はないのか?」

「それよりも、あなたは一体何者なのですか?」

「信長と云う者だ。」

巡礼はひれ伏し「何であっても奉公仕りたく思います!」

そこで信長はこの巡礼を即座に召し抱えると、彼を召し連れ、程なく御手のかかった
女房を下され、清須の城代としたのである。

(祖父物語)



814 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/27(金) 02:26:57.60 ID:ORHXMRvf
嘘くさい

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/27(金) 07:46:22.58 ID:2ugiwSuW
>>814
永録10年11月の信長の朱印条によれば美濃で20貫の地行を貰ってるみたいだね
本当は勝頼じゃなくて信玄なんじゃないかな
埴原の出身である埴原谷てのが信濃(!)のどこにあるのか知らないけど、信濃では信玄の評判が良くない所もあったわけでしょう
又聞きの間に色々と入れ替わっていそうな気がする

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/27(金) 08:31:36.59 ID:z6z/Bm5p
>>815
信玄と言うか武田の評判って甲斐以外だと酷いもんだからなぁ
特に信濃と上野

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/27(金) 09:59:15.65 ID:+HCTm/8h
信濃は場所によるが

818 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/27(金) 18:11:01.95 ID:LH5poK+P
信濃は北が武田アンチで南が武田贔屓と聞いた

木下藤吉郎、堂洞城攻めの功

2018年04月26日 18:51

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 19:54:47.09 ID:isUtGnGf
織田信長が美濃国ドウノ洞(堂洞城か)に出陣する時、当時まだ乗馬を持っていなかった
木下藤吉郎に対し
「汝の一門の内にて馬を借りて乗ってくるように」
そう仰せになると、藤吉郎は「畏まり候」と、海東郡のオトノコウという場所に、彌助という
綱差しが居り、これは藤吉郎の姉婿であったのだが、彼の所持する栗毛の草役馬(農耕馬)を
借り受けた。

しかしこの馬には、鞍はあるが鐙がなく、しかしながら腐った金鐙が片方だけあり、
もう一方には細引きを付けて鐙の代わりとした、

そして馬は準備できても、藤吉郎には供に連れて行く者も居なかったのだが、この時
彌助は、これから合戦に行くことを知りながら「私が付いていこう」と、藤吉郎の供をした。

藤吉郎は堂洞にて坪内十郎右衛門という者を討ち取った、堂洞城の城主である坪内某は、
本丸に追い詰められると詫び言をして開城し、助命を受けた。そして信長に対し、岐阜に
退去する間の安全のため人質を乞うた。

信長はこの坪内への人質として、木下藤吉郎を遣わした。その出発前、信長は藤吉郎に言った
「道中にて坪内を、汝もろとも打ち殺す事もある。お前の命を私にくれ。」
これに藤吉郎は
「何れの道にても、御用にて命を召されること、いと易き御事であります。」
そうしっかりとお請けした。

信長は坪内を藤吉郎もろとも殺そうと思っていたのだが、藤吉郎が潔く命を差し出すことを
不憫に思い、そのまま指し行かせた。その後、藤吉郎が各務原より無事に帰国すると、
美濃国の織田領の内より七千石の知行が与えられた。

藤吉郎は俄大名と成ったが、これを切り盛りする人材が居ないことに困り、七郎左衛門といって
清須で連雀商人(行商人)をしている者があり、彼は藤吉郎の伯母婿であった。
藤吉郎が小竹といった幼少の頃は、この七郎左衛門を主人のように尊重していたのだが、
今や七千石の主となった藤吉郎は七郎左衛門を呼び寄せ、七百石を取らせ
「末々いかほどの大名に成ってもその十分の一を取らせる」と約束し、木下家中のおとな(家老)と
した。後の杉原伯耆守(家次)はこの七郎左衛門の事である。

馬を貸した姉婿の彌助には五百石を取らせた。後の三位法印(三好吉房:豊臣秀次実父)と申すのが
この彌助である。

(祖父物語)



807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 20:08:25.07 ID:h0+s79/n
>>806
秀吉が敵を討ち取った事があるんだね!
小男で非力なイメージだったから意外だった

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 21:00:27.02 ID:E63W07aK
>>806
>豊臣秀次実父
(´・_・`)

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/26(木) 18:08:20.54 ID:7yEMWFBt
杉原伯耆も秀吉が天下取った直後に発狂して亡くなるんだよなあ…

810 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/26(木) 18:33:18.40 ID:0K6Usc3/
約束反故にされたもんな

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/26(木) 19:53:27.83 ID:fAuyfDAC
秀吉がいなかったら埋もれていただろう秀長とか浅野長政なんてのがいると思うと
実際に埋もれてしまった人材ってのはたくさんいるんだろうな

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/26(木) 20:36:51.10 ID:KtbdE/GA
爆弾正だって弟が長慶の目に留まらなければ埋もれていた人材だし

藤吉郎は才覚者である

2018年04月25日 15:40

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/24(火) 19:50:39.26 ID:AYcHC9q1
織田信長が清須から小牧山へ本拠を移した時、信長は「清須に残るものは成敗する」と
宣言し、「小牧に引っ越さぬ者は家を焼け!」と、木下藤吉郎を奉行として遣わした。

この時藤吉郎は、駄賃馬(民間運搬業者の輸送馬)に乗って清須へ向かった。

すると清須の町人たちは「家を焼かれては悲しき」と皆藤吉郎に詫言し、すぐに
小牧へと引っ越しをした。

これに信長は「藤吉郎は才覚者である」と褒めたという。

(祖父物語)

これはつまり、輸送用の馬を使ってわざとゆっくり清須に向い、その間に
転居しないものは家を焼くという命令が出たことを知れ渡るようにした、という事
なのでしょうね。



797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/24(火) 20:29:12.02 ID:070XowX1
>>796
命令の範囲内で配慮する秀吉、それを咎めず褒める信長…イイハナシダナー(´;ω;`)

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/24(火) 22:03:01.32 ID:ZqzhFfys
>>796
安土への移住命令に従わないのが100人以上いなかったっけか
信長の再三の命令にもしたがず知人宅を転々としていた輩が岐阜で捕まって処刑されていた気がする

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/24(火) 22:33:44.31 ID:ADL7JM1P
当時の強制連行の歴史をまとめると面白そうだな

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/24(火) 22:55:15.25 ID:Qd+Euo80
文化の輸入も含めて面白そう

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 09:46:07.73 ID:QuxLrWiC
なんで処刑されるまで移住に抵抗したんだろう。
たしかに旅費や治安とか安土での生活が成り立つかどうかわからないとかあるけど。

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 11:57:51.54 ID:6CB1aaf0
>>802
以前、投稿された時には嫁さんが怖かったからって茶化されてたね
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/?cat=904

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 11:59:10.94 ID:E63W07aK
>>802
今でいうなら別の国に移住するようなもんだし、家や土地に対する執着もずっと強いだろうし。

少年のときは少年のように

2018年04月25日 15:39

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 00:02:36.86 ID:PxqwokfF
少年のときは少年のように


滝川一益の士に井口又兵衛という武功の者がいたが戦死してしまった。
その子供が十二、三歳になると、一益のお茶取りとして仕えるようになったが
十七、八ぐらいの小姓が無礼をして、井口が持っていたお茶をこぼさせた。

井口は相手に構わず懐紙でよく拭いてから下がったが
その後、次の間に件の小姓を呼び出して刀で突き刺した。
傍輩どもが騒いでこの事を一益に申すと、一益は涙を流し
「よくもまぁ父に似ない奴だ、何の役にも立たないだろうな」
と申されたので、近習の士どもが不審に思い
「井口の振る舞いは老士でも出来ない程のことです。
 どうしてそのようなことを仰せられるのですか」
と申すと、一益は
「だからこそだ。今年十二、十三で老士のような振る舞いをする者が
 年を取って何の役に立つだろうか。少年のときは少年のように
 後先考えず粗忽に働いてこそ、働きぶりがしっかりしているところと
 そうでないところが自然と分かってくるものなのだ。年の功を積んで
 不甲斐ない働きをしてきたことを悔やみ、よく働くようになる者もいれば
 粗忽で勢いだけの無分別な者が、老後に分別が出来るようになることもある。
 若いときと老いてから、そのときどきの拍子序破急があってこそなのだ。
 今から分別しすぎた振る舞いをする者は、年を取った後に隠居や法体
 世捨て人のような士になってしまうだろう。それは私の欲するところではない」
と言われたという。


――『筆のちり』


小堀の三ヶ条の要求

2018年04月25日 15:38

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 04:38:31.13 ID:SJVZjKl4
日本の茶道や生花に遠州流という一派を開いた小堀遠江守政一に関する逸話はずいぶんと人口に
膾炙しているが、とりわけその一生一代の傑作と称せられる京都の桂離宮の庭園および茶室は、

とにかく大いに見るべきものがある。これについて例の如くひとつの伝説が語り伝えられている。

桂離宮は豊臣秀吉が小堀政一に命じて考案実施させたものであるが、小堀はこの命を受けた時に
秀吉に3つの条件を出し、この条件が受け入れられるなら引き受けると申し出た。

1つには意匠と考案に関して絶対に他の口出しを許さないこと。2つには竣工期限や工費に制限
を設けないこと。3つには工事中は絶対に見に来ないことであった。

寛大な秀吉はよろこんで承諾し、小堀は丹精を込めて思う存分その技術を振ったので、あの様な
美しい庭園や茶室などが大成したのだという。

しかしこの伝説がまったく虚構であることは甚だ明白である。さて、小堀遠州なる者は天正7年
(1579)の生まれで、初めは秀吉に仕えていたが、のち徳川家康に仕えた。豊臣滅亡後の

元和9年(1624)に伏見奉行となり、在職25年間すこぶる治績を挙げた。茶道は千利休の
門人・古田重能(織部)に付いて学び、ついに一家を成した。彼はいわゆる芸能の人で、

茶道以外にすべての美術工芸に精通し、ことに絵画は狩野探幽と親交があったことから狩野流の
画を得意としたという。正保4年(1647)2月6日、69歳で死去した。

この年譜から算出すると秀吉の亡くなった慶長3年(1598)には、小堀はまだ20歳の若さ
である。また桂離宮は天正15~6年頃(1587~8)、小堀が9~10歳の頃に秀吉が

正親町天皇の皇子・陽光院の第六子・智仁親王を請うて猶子とし、八条宮と称してその別宅を
桂の里に造営したもので、今現存する旧御殿がすなわちこれである。新御殿の茶室や庭園は、

二代・智忠親王の時に徳川氏が小堀に命じて造らせたもので、寛永の初年に完成したというが、
これは真実であると認められる。すなわち元和の終わりか寛永の初めかに、伏見奉行であった

小堀が造ったので秀吉とは全然関係がない。もし小堀が3つの条件を出したとすれば、それは
二代将軍・秀忠か三代将軍・家光に対して試みたものでなければならない。

小堀の三ヶ条の要求なるものは、つまるところは芸術家の理想を事に託して仮作したのである。
これに類似の伝説は古今珍しくない。今日も富豪が趣味のために造営する邸宅庭園の類には、

工費と期限に制限を設けない例もあるが、意匠や考案を技師に任せて干渉しない例は殆ど無い。
ましてや工事中に絶対見に来ないという条件は到底成立しそうもない。官公の造営に至っては

一から十まで干渉ずくめであり、ことに会計法で縛られるから碌なものができようはずもない。
そう考えると桂離宮の庭園建築はあまりに巧みである。むしろ巧みにすぎる。

これが遠州の長所にして同時に短所である。

――『白木黒木』


週間ブログ拍手ランキング【4/19~/25】

2018年04月25日 15:32

4/19~/25のブログ拍手ランキングです!


信長公、木曾義昌を酷評 14

枉げて勝頼の下知を了承し 13

”信長”という字が欲しい 10
本能寺の変、当日のドキュメント 10
そして明智光秀は本能寺を取り巻き 10
異郷の地にて 10

御衣装も常に黒いものを 8
花を生けない風 7
池田輝政の立身について 7

この茶筅御曹司は 5
長門守は侍の冥利が尽きた人なので 5
【ネタ】大田原資清と大関高増の遊び場 4
島津家大永の内訌 2


今週の1位はこちら!信長公、木曾義昌を酷評です!
コメントなどでも指摘されていましたが、「うつけ」とか「礼儀知らず」「田舎者」とか、かつて信長が散々言われてきた言葉ですねw
その頃から時が経ち、信長も自覚の上では都会的な文化人となった、という事なのでしょう。
その上で実際の「田舎」の「礼儀知らず」を見てしまうと、自分の過去を見せられるようで、余計に冷淡に成ってしまう、
なんて想像が出来るかもしれません。
本当に最晩年の信長の、自己認識の一端を感じられるような逸話かな、なんて思いました。

2位はこちら!枉げて勝頼の下知を了承しです!
新府城退去の際の、勝頼と武田信豊との会話ですが、お互いに信頼しあっている空気を感じさせてくれます。
信豊も、武田滅亡における、勝頼に道を誤らせた近臣の一人として、評価の芳しくない人ですね。
武田滅亡という事実がある以上、その政権中枢にあった人物がマイナスの評価を受けるのは、仕方のないことかもしれません。
しかし当然ながら本人たちは滅びようと思ってやっていたわけではなく、必至に生き残ろうとあがいていたわけで、
その部分に思いを馳せるのも、また歴史を見る上で必要なことかもしれません。

今週管理人が気になったのはこちら!明智光秀大河が発表に成ったことも在ってか、光秀関連の逸話が
投稿されていました。

本能寺の変、当日のドキュメント
そして明智光秀は本能寺を取り巻き
この茶筅御曹司は

光秀大河の放送は再来年。先は長いですが、戦国史界隈が再び盛り上がる、よい大河になってほしいと思います。
個人的には三好長慶、足利義輝の時代をきっちり描いてくれると嬉しいな、なんて希望を今から持っています。
何はともあれ、楽しみにしたいですね~



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
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(/・ω・)/

花を生けない風

2018年04月24日 14:11

790 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/23(月) 17:27:26.18 ID:I4bMV9F0
小堀遠州が伏見にいた頃、黒田筑前守長政が国へ帰るというので茶会に招いたものの、
長政は途中で病気になり、大津で養生するというので招きを断った。

遠州は残念に思っていたが、幸いにも上林竹庵と京都の数寄者2人がやって来たので、
丁度催していた茶会に招くべく、「路次の方へ廻られよ」と言った。

3人は喜んで茶亭の方へ行ってみると夕立の後で涼しく、庭の若葉は露が滴るばかり
である。ところが床の間には花は生けてなく、床の壁にはさっと水を打った跡が

あるばかりであった。皆が不審に思っていると遠州がやって来て、「今日の夕立で
路次の木々が涼しそうに濡れているのを見た眼では、花は面白くあるまいと思い、

わざと生けなかったのだ」と答えたので、3人は等しく感じ入ったということである。
ところがこれを聞いた京都辺りの茶人は、雨が降りさえすればわざと床を濡らして、

花を生けない風を流行らせたので、伝え聞いた遠州は大いに笑ったという。この一事
をもってしても、いかに遠州が一代茶道の泰斗として天下に重んじられたか知れよう。

――『茶道の名人』